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ジョージ・タケイのグラフィック・ノヴェルが日本社会に問いかけるもの

ジョージ・タケイの新しいメモワール、They Called Us Enemyが刊行された。「ワシントン・ポスト」紙の書評はこちら。今回はグラフィック・ノヴェルという形式を取っているが、これはトランプ政権の誕生という事態を受けて、若い世代に自らの経験を伝えねばという使命感、そして危機感の表れでもあろう。









書評ではアート・スピーゲルマンの『マウス』やジョン・ルイスの『MARCH』とも比較されており、このどちらも邦訳が出ているので、タケイのこの本もぜひ日本でも出して欲しい。






They Called Us Enemyはタイトルからも想像がつくように、第二次世界大戦中の日系人の強制収容を扱ったものである。「今回は」と書いたが、タケイが95年に刊行した自叙伝は『星に向かって』というタイトルで邦訳が出ている。






近頃の日本では「ニッポンスゴイ!」「世界から愛される日本人!」といったテレビ番組が溢れかえっているが、その割にはタケイへの関心はかなり薄いように思える。というか、最近はほとんど見ていないのでわからないが、タケイが日本のテレビでまともに取りあげられたことはあるのだろうか。

タケイへの関心の低さは「血統」や「国籍」への日本社会の恣意的な扱いを示すものであるだけでなく、タケイの自叙伝を読むと、なるほどこれは「ニッポンスゴイ!」を連呼したがるテレビが取りあげたがらないはずだと思える。


ジョージの最初の記憶はアーカンソーへ向かう長い列車の旅だった。タケイ一家が収容所へと送られた旅であった。

一家の苦難は終戦によって終わったのではなかった。母はアメリカ生まれでアメリカ市民権を持っていたのだが、一家離散を避けるためにこれを放棄していた。そして戦後はこれが裏目に出てしまう。カリフォルニアでは排外主義を煽る政治家が影響力を持っていたのだった。

それでも、母のような存在を支援してくれた弁護士の活動などによって、「すべての民族の帰化と市民権獲得を可能にしよう」とする「移民・帰化法、一九五二号」が成立する。当時の大統領トルーマンは拒否権を使ったが、両院がこれを覆したのであった。


そしてタケイの父はこう言った。

「私の市民権を実現させるために、私にアメリカ市民権の選択をさせようとする人、あるいはアメリカの最高の理念を信ずる人による闘いがあった。アメリカは今までの人生の大半を過ごした所であり、私の子供たちはみなアメリカ人だ。私の未来はこの国にある。今が選択の時だ。私はアメリカ市民になるのだ」。

しかしタケイは父に納得がいかなかった。

「でもアメリカは父さんにとてもひどい扱いをしたよ……」、「この国に正義なんてないよ。それなのに、なぜこんな国の市民になろうとするの?」

「アメリカは奇妙な国だ」と父は語り始めた。

「にもかかわらず、理想に燃えた国だ。そう、ここでの正義は見通しのないことでもなければ、見込みのあることでもない。社会を反映しているだけなんだ。希望する人はその一員となることができる、開かれた社会だ」。

「このシステムは参加型民主主義と呼ばれる。そこで重要なのは参加することなんだ。私のような人たちが、もしこの機会を逃し参加することがなければ、アメリカはその理想主義から遠く離れたものになるだろう」。

「私の選択は、母さんを係争中に援助してくれた弁護士のウェイン・コリンズのような立派な人々とそこに参加し、アメリカが自ら掲げている理想の国になるよう手助けすることだ」。


時は流れ、日系人強制収容への謝罪と補償法案がもちあがると、口頭での謝罪には同意したものの、金銭的保証には後ろ向きで、法案への署名を渋っていたレーガンであったが、「もはやこれ以上アメリカ人としての良心に耐えられれなくなって、とうとう署名をした」。

滞在先のスコットランドでこのニュースを知ったタケイはこうコメントを出した。
「私たちの理想は“人民の政治”です。もちろん私たちが望むほど理想どおりにはいかないものです。しかし私たちは、完全なる理想の星を追い求めつづけています」。

「私は自分が、父さんが昔私に話してくれた言葉を無意識に繰り返していることに気がついた」。

アメリカ合衆国が数多くの負の歴史にまみれながらもそれでもなおアメリカでいられ続けるのはタケイの父やタケイのように「完全なる理想の星を追い求めつづけ」る人たちがいるからだ。そしてこのような人たちが、「参加型民主主義」を保つためのロールモデルとなっているのである。


近年の日本ではタケイの存在のみならず、レーガン政権による日系人強制収容への謝罪と補償もきちんと伝えられることはない。伝えたくない理由が日本のメディアにはあるのだろう。

レーガンが「アメリカ人としての良心」に従って決断したのは、政府としての公式の謝罪と公式の補償、そして教育を含む記憶の継承事業であった。日本政府は植民地支配や侵略戦争中における非人道的行為に対しこの全てを拒否し、カネだけはくれてやってもいいが公式謝罪はしない、記憶の継承どころかカネをくれてやる代わりにすべてをなかったことにしろと要求する有様だ。さらには日本のメディアは、そして日本社会の多くは、これを批判するどころか同調してしまっている。

トランプによる差別発言の数々、そしてトランプ政権による差別政策は日本でもそれなりに報じられているが、トランプに抗議の声をあげるタケイや、トランプ政権と対峙し人権擁護に取り組む日系人団体は日本では不可視化されてしまっている。日本のメディアの人権に対する関心の薄さに加え、日本政府と日本のメディアが日本社会に見せたくないものを見せないためであろう。

アメリカを代表する高名な書評家ミチコ・カクタニが『真実の終わり』(すいません、まだ読んでません)を書いたのも、こちらで触れたように、カクタニの母や作家となった叔母のヨシコ・ウチダなどその家族が収容所に送られたという理由があってのことだ。タケイやカクタニといった日系人がトランプ政権になぜ危機感をつのらせ、そして正面から対峙しているのかが日本社会には伝わらず、トランプの差別発言やトランプ政権の差別政策にまるで他人事であるかのようなのは、日本社会が自らの過去と向き合うのを拒否しているからなのであろう。

だからこそ、タケイの父の言葉をもう一度引こう。

「このシステムは参加型民主主義と呼ばれる。そこで重要なのは参加することなんだ。私のような人たちが、もしこの機会を逃し参加することがなければ、アメリカはその理想主義から遠く離れたものになるだろう」。


『鴎外の三男坊  森類の生涯』

山崎國紀著 『鴎外の三男坊  森類の生涯』






夏目漱石は子どもたちにどちらかといえば即物的な、当時としてはありふれた名前を付けたが、森鴎外はヨーロッパの人名の音に漢字をあてるということをしている。漱石は精神状態が悪化すると家族に暴力をふるったが、鴎外はこの点でも対照的に、子煩悩で優しい父であった。

鴎外の前妻との間に生まれた長男於菟と末っ子の類との年齢差は21もあった。それだけに鴎外にとって孫のような類はさぞ可愛く思えたことだろう。しかし、鴎外とその妻志けはこの類に頭を悩ませることになる。小学校三年生になったあたりから類はまったく勉強ができなくなったのである。それも、あの鴎外の子であるのにといったレベルではなかったようだ。

志けは学校に呼び出されると、担任からこう「宣告され愕然とした」。
「脳に病気のある子がいますが、これは仕方ありません。しかし、どこも悪くないのに類さんが一番勉強ができません」。

類は当時のことをこう振り返っている。
「母がひどく嘆いて、脳に病気があったらどんなに肩身が広いだろうと、病気がありますようにと念じながら医者に連れていった。二つの病院に行ったが医者は病気がないと言ったので、母が極度の失望から、「死なないかなあ、苦しまずに死なないかなあ。」と言った」。

あまりに成績の悪さに、病気であればまだ「肩身が広い」ので「病気がありますように」と念じ、そうでなかったので「苦しまずに死なないかなあ」とまで言うというのはなんとも凄まじいが、母親の違う長男の於菟が東大に行っているだけに、類は鴎外に似ずに志けに似たのだと思われるのだと考えると、母にかかるプレッシャーも相当なものであったのだろう。

1920年に鴎外は奈良に出張したが、この間約20日に渡って、ほぼ毎日類宛てに葉書を書いている。その内容は「勉強のことばかり」であった。ではびしびしと厳しく締め上げたのかといえば、そうではなかった。毎日のように娘の杏奴と類は「算術」と「書取」を送っている。そして鴎外も連日返信を出しているのである。公務で夜は疲れていると思われるのに驚くばかりだ。特に類の学業不振については当時鴎外と志けは相当頭を悩ませていたと思われるが、この鴎外の葉書を読む限り、類を叱咤するような素振りも見せていない。それどころか、「杏奴モ類モナカナカヨク出来ル」と差をつけず褒めに徹している。16日の葉書では「類ノサラツテモラウ先生」つまり「家庭教師」は「ドンナ人」と心配もしている」。

では鴎外は意外とのんきに構えていたのかといえばそうではなかった。1922年にはドイツ留学中の於菟にまで「類の学業への不安を訴える」手紙を出している。また「じっくり腰を据えて類の成績向上を図ろうとする鴎外に対し、恐らく志けは、感情的に苛立っていたことが察せられる」手紙もあるように、夫婦でもその対応をめぐては「チグハグ」なところもあったようだ。「死ぬ二カ月前の鴎外の心の中に、類の中学進学への心配が大きく拡がっていたことを考えると痛々しいばかりである」。

類は「父は子供を叱らなかった」と振り返っている。「「ポンチコ塀にいたづら書をしては困るなあ」とか「坊ちやん、一つでも余計字を覚えてくれ」とか頼むのが小言であつた。頼まれた事は大概聞いたが、勉強だけはすまいと思い乍ら、如何にしてもする気がしなかつた」。

この回想からもわかるように、類には障害があったのではなく、勉強をやる気がなかったのが成績不振の原因であったのだろう。類は落ち着かない生涯を送ることになる。画家を目指してフランス遊学までさせてもらうが、どうにも身が入らない。ならば文筆家業でと思うと、斎藤茂吉や佐藤春夫など鴎外とゆかりのあった人たちを頼ることを厭わなかった。

戦後は鴎外の息子が商売人になるとはと眉をしかめられながらも本屋を始めるなど、当人としては苦労をしているつもりであろうし、辛酸もなめたつもりであろうが、やはり「坊ちゃん」という印象は否めない。

後に岩波書店とひと悶着あった際、岩波の専務だった小林勇は「鴎外が偉いんで、君が偉いんじゃあない。いばるな」と怒鳴りつけたそうだが、全くの正論であるし、そう言いたくなった人は他にもいたことだろう。ちょうど夏目伸六の『父・夏目漱石』と同時期に『鴎外の子供たち』を出すと注目を浴び、評価もまずまずであったが、週刊誌には冷ややかな記事が載ったそうだ。


同時に、類はどこか憎めないところがある人物でもある。

類は母から土地を相続していたが、そこに住んでいなかったため前の持主がその一部を農地として使い続けていた。戦後の農地改革で、「所有者自身が耕していない農地は小作人に売り渡さなければならなくなった」。そのためこの土地について揉め、結局一部を前の持主に渡すことになる。類はこれに憤り、それは後に『柿・栗・筍』という小説の中に描かれることになる。「坊ちゃん」らしく、この時点では持てる者、保守の側であったとしていいだろう。

1965年に妻美穂が病気になり代々木病院で手術を受ける。主治医の中田正也という外科医から、「ある事件で裁判の被告として毎月一回ぐらいのペースで法廷に立っているので傍聴にこないか、と軽く誘われた」。

この事件とは、中田が参議院選挙の際に共産党の野坂参三への投票依頼で個別訪問をしたという容疑で逮捕されたものだった。「裁判傍聴は類にとって初めての体験であった。/傍聴した類は、この裁判に不公正と、民衆の一人としての危惧を感じ、以降熱心に通い始める」。そしてこの事件をモデルに『裁量権』という作品まで書くことになる。

類はこの作品にこう書く。「田中事件の場合は、被告、弁護側から公訴権の私物化を徹底的に追及され、窮地に落ちた検察官らを救おうとした裁判官が、異議の申立を捏造したのであるから、「不公正な裁判」は明らかである」。

こうあるように、共産党の弾圧を目的とした検察のでっち上げであることは明らかであったにも関わらず、裁判は検察のメンツを立てようとグダグダと引き延ばされたため、結局無罪判決が出るまで9年もの時を要したのであった。

「この裁判が、国家権力による「不公正」とみたからこそ類は関心をもったのである。類の社会正義に対する感受性は、相当に鋭敏であると言わねばなるまい」。

この十数年前は土地を奪われたことに不満たらたらであったのが、権力による不公正を見てとると共産党支持者のために立ち上がり、「中田先生を守る会」の会長まで務めるようになったのであった。

類は赤旗に文章を寄せ、そこで「「新しい思想を弾圧してはいけない。勉強しなければいけない」と父がしばしばさう言つていたと母から聞いてゐる」とし、鴎外の死の翌年の関東大震災後の大杉栄らの虐殺に触れ、この「恐ろしい事件は、十二歳の僕の頭に突差さつた。軍と警察を恐ろしく思ふ心は一生抜けないであろう」としている。

赤旗のコラムが指摘するように、鴎外も大逆事件後に「沈黙の塔」を書きこれに抗議の意志を明らかにしたのだが、一方で類は尊敬してやまない父が軍医とはいえ軍人であったことを忘れているのではないかという気もしなくもない。

「中田先生を守る会」は無罪判決後に裁判にかかった年数から「九年会」と名称を改め、類は引き続き会長にとどまった。そして「会長として日本共産党の衆議院候補を推す立場」となる。

「類はいつの間にか、日本共産党の応援団長になっていたのである。父鴎外が知ったら唖然とする出来事であったことだけは間違いない。/天皇の存在を否定する共産党を応援するわが息子類、天皇を信奉してやまなかった鴎外がもし、この世にいたならばこれは勘当ものである。/しかし類は頓着なかった。/類には政治色は、あまり関係ないのである。「中田事件」を一生懸命に応援している間に共産党の応援団長に祭り上げられていたのである。/ここ十数年、類の意識が家庭の外に向けられたとき、「中田事件」と、その延長線上にあった。虐げられし者への共感、その上に、幾ら小説を書いても一向浮上し得ない己の境遇からに苛ら立ち、幼少期からの抑圧された劣性意識、そうした種々の複合された意識が、この「中田事件」に結びついたとき、一つのエネルギーとなって社会に向かっていったのではなかったか」。

「類には政治色は、あまり関係ない」とあるように、かつては持てる者の側であったが左傾化したというよりも、素朴な正義感が裁判の支援となったのであろうし、共産党候補の応援も政治的に共鳴したというよりも仲間意識がそうさせたとすべきかもしれない。

経済的にも苦労したとはいっても何だかんだでアパート経営で食べていくことができて、子どもたちを大学に入れるくらいのお金は捻出できたのであって、一般的感覚でいえば類はやはり持てる者であり続けた。一方で、あの鴎外の息子である自分がなぜこのような生活を強いられるのかという不満もあったであろうし、それによって反動化してしまう可能性もあっただろうが、類はそうはならずに、権力の不公正には怒りを、そして「虐げられし者への共感」を抱き続けたのであった。

良くも悪くも「坊ちゃん」育ちのナイーヴさといえばそうかもしれないが、権力の不正を目の当たりにしてもそれに怒りを覚えないどころか、その腐敗した権力に積極的に迎合しようとする連中が大手をふるうようになってしまった今の日本社会にある者としては、類のこの素朴な正義感は貴重なものにさえ思えてしまう。


『海を渡る「慰安婦」問題  右派の「歴史戦」を問う』

山口智美 能川元一 テッサ・モーリス-スズキ 小山エミ著 『海を渡る「慰安婦」問題  右派の「歴史戦」を問う』






「慰安婦」問題が右派によっていかに認識され、語られてきたのかについての分析と、はたから見れば「歴史修正主義のメッセージを、海外に向けて発信する動き」である、右派が繰り広げている(と信じている)「歴史戦」の現状とが描かれている。

著者たちの多くがSNSなどでもこの問題に触れているため、すでに関心を持っているという人には目新しい情報はないかもしれない。しかし、現状ではこの問題がテレビでまともに取り上げられることは絶望的であり、新聞等でも一部が断片的に伝えられるのがせいぜいであるため、このように活字化され、岩波書店から刊行されたという意義は大きいだろう。


それにしても、読んでいると頭が痛くなり、そして憂鬱にさせられることになる。

本書に登場する右派論壇人はおなじみの面々である。「歴史戦」の特徴の一つとして在米日本人(日系人ではないことに注意)との連携があるのだが、海外に住むことによって国粋主義化するというのも昔からよく見られた現象である。確かにこれらの人々が行う醜悪な言動にもげんなりさせられるのであるが、何よりも暗くさせられるのが、とりわけ第二次安倍政権誕生以降、政府をあげて、外務官僚が積極的にこの動きを支援していることだ。

第二次安倍政権が安定した支持率を保ってきた要因はいくつかあるだろうが、おそらく最大の理由は、自民党が政権政党として揺るがぬ地位にあり、官僚と一体化して政権運営にあたるという55年体制へのノスタルジーであろう。安倍政権の掲げる重要政策への支持は、改憲問題に代表されるように必ずしも高いものではなく、また安倍普三個人への能力的、人格的評価も決して高くはない。それでも安倍政権が高い支持率を維持できていたのは、政策は官僚にまかせておけばいいし、(民主党と違って)自民党なら官僚とうまく付き合えるはずだという考えからだろう。

安倍政権を消極的に支持している人のかなりの部分が、安倍やその周辺の歴史観や国家観に賛同しているわけではなく、むしろこれを懸念している人も少なからずいるだろう。しかしこういった人々は、「安倍はアレだが(外務)官僚はしっかりしているはずだし、それゆえにさほど心配することはない」と思っているのかもしれない。しかし本書で明らかにされるように、その実態はといえば、外務官僚はエキセントリックとすら思えるような言動でアメリカをはじめ海外の研究者の顰蹙を買うばかりか、日系人団体にデマを吹き込み、日本企業からの寄付金の引き上げをちらつかせるなど恫喝的な手段まで講じている疑いが強いのである。これらの外務官僚の言動を見ると、「上」からの命令でしぶしぶと、やむを得ず行っているようには映らない。そもそも安倍のブレーンや側近には外務省出身者が多いように、もともとこの手の人物は外務省に少なからずおり、とりわけ第二次安倍政権誕生以降これらの勢力の発言力が増し、ブレーキが効かなくなっているのが現状なのではないか。

では外務官僚のこの状況が露見することによって日本社会が大きなショックを受けるかといえば、矛盾するようなことを書くが、そうはならないだろうということも予想できる。

右派といっても様々なグラデーションがあるが、能川が指摘するように、「国内では完勝」しているという 共通認識がある。地上波のテレビで公然と歴史修正主義者の主張が無批判に垂れ流される有様で、今や政治家や文化人、財界人などにとって極右化することはリスクですらなく、むしろ極右を批判することの方がリスクとなっているという惨状を見れば、「国内では完勝」というのは右派の強弁ではない。

外務官僚などが繰り広げている醜悪な実態が伝えられようとも、これに対抗する流れが生じるとは考えづらい。では沈黙している多くのメディアは政府与党、あるいは官僚の圧力に屈しているのかといえば、おそらくはそうではなく、この問題にほとんど関心を払っていないがゆえに官僚による記者レク等によって容易に誘導されているのであろう。そして自らが国家をあげての歴史修正主義に加担しているのかもしれないという疑念を持つことすらないのである。主要メディアのみならず日本社会の多くのこの関心の低さ(もちろんこれは知識の欠如となって表れる)こそが右派の「完勝」を生み出しているとすべきだろう。


モーリス-スズキは安倍による「七〇年談話」における、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という部分に、世論調査で「共感する」と答えた人が63パーセント、「共感しない」の3倍に及んでいることに触れている。日本社会に広がる歴史への無関心と歴史修正主義の横行はここから来るものだ。

「戦後生まれの人々にも、先行世代がおこなった戦争や不正義に対する責任や謝罪の義務は存在するのだろうか」。

これについてモーリス-スズキはこうしている。「一九八〇年代にイギリスからオーストラリアに移住したわたしは、オーストラリア先住民・アボリジニに対して過去に行われた収奪と虐殺などの悪行と、そういった悪行をおこなった国に出自をもち、かつオーストラリアに現住する自分との関係を考察して、わたしに「罪」はないかもしれないが「連累(implication)がある、と結論した」。

モーリス-スズキが自著である『批判的想像力のために』をふまえて書く以下の部分に大いに共感するので、長く引用したい。

 
 実際に手を下したことではないにせよ、過去の不正義を支えた「差別と排除の構造」が現在も生き残っているのであれば、わたしにはそれを是正する責任が確実にある。
 「連累」とは、次のような状態を意味する。
 わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。わたしはアボリジニの虐殺を直接おこなったわなかったかもしれないが、その虐殺の記憶を抹殺する、あるいは風化させるプロセスに関与する。わたしはアボリジニを具体的に迫害・差別しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害・差別によって成立した社会で生活し、受益している。 
 現在にいたるまで、アボリジニは差別や不平等に直面させられているのだが、それは基礎的な部分において、差別と排除の構造に基づいた過去の収奪や虐殺の歴史と無関係ではありえない。
 二〇世紀後半から二一世紀を生きるわたしたちは、過去の憎悪と暴力に直接関与していないかもしれない。しかし過去の憎悪と暴力は、現在わたしたちが生きるこの物質・精神世界を「つくり上げ(make)」てきた。そして、それらがもたらしたものを「解体(unmake)」するための積極的な行動をわたしたちがいまとらないかぎり、過去の憎悪と暴力は、なおこの物質・精神世界をつくり続けるだろう。
 「連累」とは、法律用語でいうところの「事後共犯(accessory after the fact)」的な関係性を示す。
 すなわち、「責任」はわたしたちがつくる(つくった)ものだが、「連累」はわたしたちをつくる(つくった)
 


「日本の若い世代は、先行世代がおこなってきた悪行の数々に直接的な「責任」は負わない。しかし、その悪行の数々を隠蔽し風化し書き換えるプロセスに関与する、あるいはそのプロセスを黙認するようであれば、そこに「責任」が生じる、とわたしは考える」。




『密告者』

フアン・ガブリエル・バスケス著 『密告者』





1991年4月7日、「俺」のもとに、父親からマンションに来ないかと電話があった。「俺」は「嫌な予感」がした。この日、コロンビアの首都ボゴタは災害まで引き起こした記録的な大雨にみまわれていた。母はとうの昔に亡くなっており、自宅に誰も呼ばないようになっていた父がこんな日にわざわざ誘うのも妙だが、理由はそれだけではなかった。父子は3年間口もきいていなかったのだ。原因は「俺」が3年前に出版した本だった。

この父子はガブリエル・サントーロという同じ名前を持っている。父はボゴタの名士だ。最高裁の雄弁術の教授として弁護士らに弁論術を教え、専門を活かして、式典などでの演説でも名をはせた。そんな父を息子は父を誇りにしていた。

3年前、息子は父子の共通の友人であるザラ・グーターマンについての著作を発表した。息子は父の感想を待ちわびたが手紙も電話もこない。それどころか、父が酷評しているらしいという噂が入ってきた。父の講義にもぐりこんでみるとまさにその通り、父は嫌みを言ってのけた。さらには新聞にこき下ろす書評まで出したのであった。

息子を呼び出した父は、検査の結果命にかかわる不調が見つかり緊急手術を受けなければならないことを告げた。70歳も近くなりすっかり弱っていた。息子とザラは父の身の回りの世話をするようになる。そして父子はまた親子の絆を取り戻していった。父は3年前の書評の件を詫びた。息子は、親子の逆転現象、親がもう保護者ではなく、子どもの保護を必要とするようになったことを悟った。とはいえ手術は成功し、父は健康を取り戻した。そしてリハビリをしてくれた理学療法士の女性との交際まで始めた。父は息子に車を借り、新しい恋人とクリスマス旅行に出かけた。そして一人で運転中に事故に合い死亡してしまう。

父は息子はの著書を酷評した理由をこう説明していた。「お前たちは、多くの者たちが記憶の底に封印しておきたいと願っている過去の出来事を暴き立てた。お前たちは、私を含む多くの者たちがせっかく長い時間かけて記憶の外に追いやってきた出来事を世間の人たちにまで思い出させてしまったんだ。今やブラックリストのことはみんなの格好の話題になっている。密告者の卑劣さについて、あるいは不当に告発された者たちが味わった苦しみについてふたたび、人々の口の端にのぼるようになってしまった……。おかげで、そうした過去を受け入れてきた者たち、祈ることで、あるいは自分の心を騙すことで過去とある程度折り合いをつけて生きてきた者たちはまた、出発点にまで引き戻されてしまった」。

軽い気持ちで口にした冗談一つで全てを失いかねない時代があった。父はそんな時代に、「不当に告発され」、辛酸をなめた一人なのであった、と息子は父の過去をめぐる発言から考えた。しかし父の死後に事実が暴露された。父は被害者ではなかった。それどころか、密告者であったことが明らかにされた。勲章を貰うほどの名士の過去の汚点に世の中は騒然となり、息子は父の過去と向き合わねばならなくなる……


この小説はガブリエル・サントーロによるノンフィクションという形になっている。父に呼び出された日から、思わぬ事実の判明、それを息子が父を、父の過去を受け容れるまでを描き、そして『密告者』刊行後のある出来事を描いた補遺が加えられる、という形になっている。

最後にある心境に達し書き出しを決めるところで本編は閉じられている。つまり冒頭から読者が読んでいたのはガブリエル・サントーロが書いた『密告者』であることが読者に明かされる。

最後に冒頭の書き出しを思いつく、あるいは結末で作家になってこのことを書き記そうと決意するといった類の小説は珍しくない。しかしこの『密告者』という小説は、そういったものとはやや趣を異にする。なにせ『密告者』の構成を決めた後、この出版後に起こる出来事を描いた補遺は、補遺というにはあまりに長いものになっている。本作は小説を書くことをめぐる小説という面もあるが、中心をなすのはそれではないだろう。

書き手が正体を伏せており、最後に意外な姿を現すといったものではない。「俺」という一人称が全面に出されており、その正体がガブリエルであることは初めから隠されておらず、読者は語り手が息子のガブリエルであることを疑わないし、それが裏切られることもない。つまり、書き手や語り手の存在を揺さぶるメタフィクションではないのだ。ではバスケスはなぜこのような形式を選んだのだろうか。

記憶は頼りないものであり、証言は心持たないものだ。人は意図的に嘘をつくこともあれば、嘘はついていないもののある事実を伏せることもある。また当初は嘘であったことを当人までもが事実であると信じ込んでしまう場合さえある。これが自らの恥部であれば、あるいは家族や親しい友人の、そして住んでいる国の暗部であれば、なおのことこういった現象は起こりやすいだろう。

『密告者』には複数の人物による長い証言が引用されている。ガブリエルが再構成したというよりは、語りをそのまま書き起こしたかのような。これが事実であることは保障されないし、何よりも書き手であるガブリエル自身が証言をそのまま再現したという保証さえない。では証言とは全く信用ならず、それは事実を何一つとして指し示すことのできないものなのであろうか。そうではないはずだ。それはそのまま事実ではなく、記憶や証言には襞がある。しかしその襞に分け入ることで事実を、朧気であったとしても、浮き上がらせていくこともできるのではないか。

バスケスがこの「小説」を登場人物の手による「ノンフィクション」であるという形をあえてとったのは、ポストモダン的遊戯性ではなく、「ノンフィクション」の危うさ(それは記憶や証言のそれとも重なるものである)を描きつつ(ガブリエルの到達感はたびたび脱臼させられる)、同時に記憶や証言が、その隠蔽や揺れまでをも含めて、朧な事実を炙り出していくことにもなるからだろう。もちろんそれがはっきりとした絵となることはなく、その朧な絵をどう解釈するかはまた読者に委ねられてもいる。


当たり前のことであるが、人は親を選べないし、生まれる国や社会を選ぶこともできない。親が偉いからといってその子どもが偉いわけではないし、その逆もまた真なりで、親がろくでもなかったからといってその子どもまでが非難されるいわれはない。では親と子はまるっきり無関係なのであろうか。親が積み上げてきたものは、肯定的なものであれ否定的なものであれ、「私」という存在の形成に全く無関係であるのだろうか。そうではない。親や社会から何一つとして影響を受けないことは有り得ない。そうして「私」という存在ができあがっていく以上、我々は望むと望まざるとに関わらず、何らかの形で親や社会が積み重ねてきた「遺産」と向き合わねばならない。

「俺が今書きたいと思っていること。それは、若き日に罪を犯した一人の男が、老境い入ってから自らの過ちを償おうとするに至ったその理由について。男の取ったその行動が本人自身にどういう結末をもたらし、周囲の者たちにどういう影響を与えることになっていたかについて。その中でもとりわけ大切なのは、というよりなによりも大切なのは、俺の身にどんな影響が及んだのかだろう。俺は、親父の実の息子だ。この世の中で俺こそが、親父の犯した過ちと、同時にその罪から解放されたいという親父の思いを引き継ぐ立場にいるたった一人の人間なのだ。おそらくは、俺がそれをなしていくなかで、すなわち親父の犯した過ちとその罪からの解放への思いについて本に書いていくなかで、親父は、親父自身が演じてきた偽りの姿の代わりに本物の姿を俺に見せてくれるようになるのだろう。また同時に、先に逝った近しい者たちが皆そうであるように親父も、俺に向かってその存在を主張するようになるに違いない。つまり親父は、自分の遺産として俺に、親父についての真実を追い求め、親父という人間を俺なりに解釈し、親父とは本当はどういう人間だったのかを調べるという仕事を残していったのだ」。

これはガブリエル父子に留まらず、「私」と社会や国との関係のメタファーでもある。この「遺産」と向き合うことは、ガブリエルに課せられた、そして我々一人一人に課せられた責務なのである。

であるが、小説はここで終わらない。ガブリエルは作中で幾度も傲慢さ視野狭窄を批判される。自分が求める「物語」へと吸い寄せられていき、当事者を、あるいはその関係者を怒らせ、苛立たせる。補遺の存在によってあえてきれいな物語に収斂していくのを脱臼させるのは、ガブリエルの作業に欠けてしまいがちなものを読者に提示しているかのようだ。

唯一の答えがそこにあるのではない。良かれと思ったことが他者を傷つけることもあれば、「正しさ」に酔ってきちんとした判断ができていないかもしれない。だからといってこの揺らぎから撤退してしまうことは、歴史や現実からの逃避になってしまう。ガブリエルのみならずこれは困難な作業であるが、しかしその困難さを言い訳にしてそこから逃れるべきではない。


この物語の背景をなすのが「ブラックリスト」だ。ガブリエルの最初の本の主人公ザラはナチの迫害を逃れてきたユダヤ人一家の娘であった。そしてザラの人生を辿ることはブラックリストの存在を浮かび上がらせることになる。

連合国の一員であったコロンビアは1944年に「時の大統領エドゥアルド・サントスにより法令第三十九号が発布され、枢軸国側への協力が疑われる者たちの収容が可能になった」(訳者あとがき)。アメリカ合衆国は1941年にブラックリストを作成しており、これに基づいてドイツ、イタリア、日本出身者、あるいはこれにルーツを持つ人たちの中で枢軸国側への協力が疑われた人が強制収容された。アメリカ合衆国では日本人移民、さらにはアメリカで生まれ育った日系人までもが強制収容される一方でドイツ系やイタリア系は難を逃れたが(もちろんこれはアジア人への差別ゆえである)、コロンビアでは日系人のみならずドイツ系やイタリア系でも収容所に入れられたのであった。

話がやっかいなのは、コロンビアで収容された人々の全員が無辜の被害者であったのではないことだ。さらにはコロンビア政府やコロンビア社会も必ずしも反ナチ・反ファシズムで一枚岩であったのでもない。あくまでアメリカ合衆国からの圧力を受けての政策であった。1930年代後半にはコロンビアの当時の外相が反ユダヤ主義を公言し、ドイツからのユダヤ系難民の流入を防ごうと画策していたのである。アイヒマンやメンゲレなど大物から小物まで多数のナチがアルゼンチンをはじめ南米各地に逃れたように、南米ではドイツ系にとどまらず少なからずナチが浸透していたし、コロンビアも例外ではなかった。


この手のリストが往々にしてそうであるように、このブラックリストもいい加減なものであった。ゴリゴリのナチのシンパがリストから漏れる一方で、スペイン大使館員に野菜を売っただけの日系人がフランコのシンパとしてリストに載せられたこともあった。そして有力政治家などにコネをもっていればリストからの除外も可能であり、その一方で様々な理由から密告も横行した。

僕は、もし自分が1930年代から45年までの日本やドイツで生きていたらいったい何をしたのだろうか、何をしなかったのだろうかと想像せずにはいられない。社会を覆い尽くした「熱狂」に加わらないまでも、ささやかな抵抗すら試みず、肩をすくめてやり過ごそうとしたのだろうか。卑劣なことだけはしなかったはずだと言いたいが、本当にあの時代にあの場所にいて、後に恥じ入るような行動を一切とらなかったはずだと言う自信はない。そしてこの問いはコロンビアでも同様なのだろう。あの時代にあの場所にいて、ある条件さえそろってしまえば、自分がとてつもなくおぞましいことをやらなかったと言い切れる人がどれだけいるだろうか。

しかしまた、後知恵によって当時の人を裁くべきではないというのも安易な発想だ。全員が恥ずべき行動をしたのではない。理性と倫理観を失わなかった人たちもいたのである。そして倫理観の麻痺した人物によって辛酸を舐めさせられた人が、現実に存在したのである。後世の人間が自分ならそんなことをやるはずはないと軽々しく言うべきではないが、だからといって、あの時はやむを得なかったとして罪の重さと向き合うのを避けるべきでもない。

1973年生まれのバスケスは、インタビューでこう述べているという。ブラックリストと収容所について、「その当時にそうしたことがあったとは、まったく知らなかった。だが、それを知らないことに関しては、コロンビアで私だけが特別というわけでもないことに気づいた。また、その知らなかったということが、この小説を私に書かせた最大の要因である」。

ガブリエル・サントーロ父子がコロンビアで起こった数々の暗殺の歴史に思いをはせるように、コロンビアという国家の歴史には第二次世界大戦の前も後も様々な、凄まじい暴力がつきまとう。それだけにブラックリストや収容所の存在が霞んでしまったということはあるだろう。しかし同時に、ブラックリストや収容所といった汚点は社会の多数派にとって正当化するのも断罪するのも居心地の悪いものであり、忘れ去りたいと望んだのだろう。そしてその望み通りに忘却が進んだのであった。

迂遠な手法を取っているように、バスケスはわかりやすくただ過去を裁こうとしているのではない。もちろん赦す権利などあるはずもない。惑い、答えに辿り着いたと思うと、またそれが揺さぶられる。しかし一つはっきりしているのは、忘却に加担すること、それは過去の暴力に加担することなのである。

歴史修正主義が社会に蔓延るようになってしまった日本の読者にとっても、この小説の問いかけるものは非常に重要なものである。


本作はバスケスの三作目の小説であるが、バスケスは前二作を習作と見なして本作を「最初の小説」と呼んでいるのだそうだ。確かにバスケスの作品の特徴である、コンラッドの強い影響を感じさせるナラティブの問題が前景化され、バラバラになった断片的な過去をジグソーパズルを組み立てるかのように再構築して一枚の絵に近づけながらも、絡まった糸を過度に解きほぐさずに多様な解釈の余地を残すといったあたりはこの作品にすでに見られる。個人的な好みでは、バスケスはラテンアメリカの若手作家(もう若手ではないかもしれないが)の中で一番ぴたっとくる作家であり、この作品もまたそれを実感させてくれるものであった。


「赤ずきん」と政治的アパシー

1994年に邦訳の出た『「赤ずきん」の秘密』(アラン・ダンダス編)の訳者解説で、池上嘉彦はウンベルト・エーコのOn Signsに収録されているStrategies of Lyingについて触れている。

「当時アメリカ合衆国大統領であったニクソンのテレビ演説を分析して、背後に「赤ずきん」の話の筋による受け取り方が想定されているという」。

「ウォーターゲート事件の発覚で、ニクソンは窮地に追い込まれつつあった。それを挽回すべく、釈明を試みた1973年4月30日のテレビ演説がテーマである。ニクソンが試みた釈明の論理は、自分はアメリカ合衆国大統領として腹心の者を十分に監督する立場にあった――それが中国、ベトナムなど他の問題に関心を奪われていたために果たせず、国民の信頼を失う結果となった――しかし、不届きな腹心の者たちを処分することによって、信頼と秩序を回復する、というもののようである。これは赤ずきんはよい子として親のいいつけを守る立場にあった――それが狼の言葉に乗せられて端に夢中になり、挙句の果ては食べられてしまうという結果になった――しかし、狩人が狼を殺し、赤ずきんは救われて親の言いつけを守るよい子になる、というのが平行するというのである」。

「すぐ気がつく通り、ニクソンが利用したとエーコが指摘しているような論理は、政治家の釈明としては珍しいものではない。わが国の政治風土に移されれば、これは「私の妻のやったことで、私は知りませんでした」という何度も聞かされたことのある論理となろう。こう論じることによって、自分の落度は、当然すべきであった妻に対する監督が不十分だったということだけで、自分はむしろ赤ずきんちゃんと同様「犠牲者」であり、従ってすくわれるに値するというわけである。創り上げられた「赤ずきん」の話は、その意味で、人間行動のプロトタイプの一つを実に見事に体現していると言えよう」。

「念のために――そのような周到な論理構成にも拘わらず、ニクソンのテレビ演説は完全な失敗に終わった。それは、自信と強気の発言とは裏腹に、テレビに映ったニクソンの表情が明らかに不安に満ちたものであったからである、とエーコは結んでいる」。


今これを読むと、何とも言えない気分になる。権力者が自らを「犠牲者」に仕立てて責任逃れを図るというのは時代や洋の東西を問わず共通であるが、現在の日本では権力者が「明らかに不安に満ちた」挙動で国会で醜態をいくら曝そうとも、「完全な失敗」に終わることなくのうのうと権力を維持できてしまうのである。これにはさしものエーコも頭を抱えてしまうかもしれない。

嘘に嘘を重ね腐敗しきっていることが誰の目にも明らかであり、権力者が己の権力を利用して不正行為を行ったというのは個別の政策の是非以前の問題であるはずが、これに嫌悪感すら抱かない人たちが社会の半数前後もいるというのは、曲りなりにもあったはずの日本の民主主義はすでに瀕死の状態にあるとしていいだろう。

これは一過性の現象ではなく、日本の保守・右派がせっせと育ててきた政治的アパシーが「花開いた」結果とすべきであろうし、それだけ根の深い問題であり、だからこそなおのこと、この政治的アパシーに屈してはならないのだと改めて肝に銘じたい。


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佐藤太郎(仮)

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