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『奥のほそ道』

リチャード・フラナガン著 『奥のほそ道』




献辞に「捕虜番号サンビャクサンジュウゴ(335)に捧ぐ」とある。訳者あとがきによると、「サンビャクサンジュウゴ」はリチャード・フラナガンが最初に憶えた日本語であったという。フラナガンの父アーサーは日本軍の捕虜となったオーストラリア兵で、強制労働に従事させられた。日本軍の蛮行の一つとして悪名高い泰緬鉄道建設作業によって、連合国の捕虜の死者は約1万3千人、うちオーストラリア人は約3千。タイ、ビルマ、マレー、インドネシアなど現地や近隣から徴用され死亡したのは数万人と推測されているが、未だに正確な数すら定かではない。

しかしこの小説はフラナガンの父の体験をそのまま描いたものではない。アーサーは戦争で過酷な体験をした人の多くがそうであるように、自らのことを断片的にしか語ってこなかったようだ。オーストラリア人捕虜たちの体験のいくつかは父が語ったものなのだろう。同時に、フラナガンの筆は父の経験を追体験することのみにとどまらない。複数のオーストラリア兵だけでなく、日本軍将校や、日本兵としてBC級戦犯で死刑判決を受ける朝鮮人などの心理にまで分け入る。もちろん、こういった手法には危うさもつきまとう。

フラナガンは想像のみに頼るのではなくかなりのリサーチをしており、「日本ではその収容所の監視員の任にあった人物とも面会している」そうだ。朝鮮人の日本軍兵士の妹が病院で働くと騙されて慰安婦にされたケースや九州大学で起こったアメリカ兵生体解剖事件も組み込まれ、戦後の日本社会の戦争に対する意識などもよく調べられている。

「日本兵」のチェ・サンミンは、上辺だけ日本人とされながら日本人からは激しい差別にあっていた。さらに戦争終結後に華族とつながりのあるなどする日本軍の高級将校が帰国できたのに対し自分は戦犯として裁かれようとすることに、「復讐を正義の儀式で飾り立てるオーストラリア人の偽善を軽蔑」する。

オーストラリア人であるフラナガンが小説にこういった視点を持ち込むことは彼の誠実さの表れとすることもできるが、しかし日本人、さらには幾重もの苦難に翻弄された朝鮮人の意識の中に分け入ることは本当にできるのだろうか、あるいは許されるのだろうか、という問いも生じることだろう。

では物語を紡ぐのに徹底的に禁欲的であらねばならないのだろうか。そうとは限らない、と僕は思う。その答えの一つが本作のような小説にあるのではないか。

この小説の原題はThe Narrow Road to The Deep North。「原書タイトルには、芭蕉の『おくのほそ道』の英訳として定着しているものがそのまま使われている」(訳者あとがき)。

本作の主人公といえるドリゴ・エヴァンスは軍医将校として捕虜となり、生き延びた。戦後にドキュメンタリーで取り上げられたことで有名となり、彼は広く英雄として見られている。しかし自分の方が過酷な体験をしたのだと、彼が英雄扱いされるのに不満を持つ元兵士がいることも承知しているし、何よりも、死んでいったたくさんの兵士たちのことを思うと居心地の悪さも感じている。

彼はまた政治的に保守的な人物でもある。あるジャーナリストから日本への原爆投下について質問されると(「一度ならともかく、二度ですよ。なぜ二度なんです?」)、「連中は怪物だったんだよ」と答える。このジャーナリストは「女も子どもも怪物だったわけですか? 胎児もですか?」と食い下がる。ドリゴは「放射能はその後の世代には影響しないよ」と放言するが、これは自分にとって信じたいことであって科学的事実はそうではないこともわかってはいるものの、それを認めたくはない。そして唐突に、「ところできみ、歌は歌う?」と言い出す。

「これからずっとあのジャーナリストは、戦争の英雄が実は主戦論者の核擁護の愚かな呆け老人で、話の終わりに歌は歌うかと訊いてきたという話をネタに儲けるのはまちがいないだろう」。同時に、「ドリゴは彼に不快感をおぼえたが、こちらの名声の威光に屈しまいとする点には関心した」。

そしてドリゴは、「日本の戦争犯罪を謝罪するためにやって来た日本人女性たちで構成される代表団から贈呈」された一冊の本に好奇心をそそられる。それは「日本の辞世の句を訳した本、日本の俳人が最期のときに句を詠む伝統の所産」であった。この本は彼にとってかけがえのないものとなる。「書物には自分を守ってくれる霊気があると、傍らにそれがなければ自分は死んでしまうと信じていた。女がそばにいなくても問題なく眠れた。本がそばになければ、決して眠れなかった」。

ドリゴはその中の一つの句が気になる。之水は「死の床で句を詠んでほしいと乞われ、筆をつかみ、句を描いて死んでいった。之水が紙に円を一つ描いたのを見て、門弟たちは驚いた」。

「之水の句は、ドリゴ・エヴァンスの潜在意識を流れていった。抱合された空白、果てしない謎、長さのない幅、巨大な車輪、永劫回帰。円――線と対照をなすもの」。

小説の冒頭近くに置かれたこのエピソードを見ると、日本軍の蛮行によって辛酸をなめたドリゴが老年を迎え、その日本の文化によって癒され、日本や自らの人生と和解していくものを想像してしまうかもしれない。しかし、後に明らかにされるように、残虐極まりないファナティックな日本の将校たちもまた俳句を愛でる人たちであり、彼らは芭蕉に、一茶に、蕪村に杯を捧げる。それは天皇への思慕と並び立つものであり、将校たちは天皇の名のもとに、現実離れした計画に固執し、最早捕虜を殺すことが目的としか思えない不合理な作業を強制する。そしてオーストラリア人に向かって、天皇のために死ねることを喜べと言い放つ。

日本軍将校にとって、俳句の偉大な伝統は日本民族の偉大さを示すものなのであった。二人の将校は「各々自分の好きな俳句をさらに吟じ、詩にというよりは詩に対する自分たちの感受性に、詩の偉大さにというよりは自分たちが詩を理解する見識の高さに、詩を知っていることというよりは、自分たち、そして日本人の精神の高尚な面を体現する詩を知っていることに深く心を動かされた。もうすぐ自分たちの鉄道で毎日ビルマまで走る日本人の精神、ビルマからインドへと向かうだろう日本人の精神、そこから世界を征服することになるだろう日本人の精神」。

この将校にとって俳句(の知識)は自らが優れた存在であることを証明してくれるものであり、さらにそれは自民族中心主義へ、そして誇大妄想的全能感へとつながっていくのである。


すでに書いたように、本作はフラナガンの父の体験をそのまま小説化したものではない。ドリゴの私生活は英雄の名にふさわしいものとは思えないものにされているように、不屈の精神を描いた英雄譚といった単純なものではない。ステレオタイプ化された癒しや和解の物語でもない。

詩の翻訳は可能か、ということがよく論じられる。日本人にとっては、俳句の外国語訳を目にしたときの隔靴搔痒たる落着かなさは、詩の翻訳不可能性の一つの証のようにも思えてしまう。俳句はただの短い詩ではない。わずかな語数で世界を、とりわけ自然を鮮やかに切り取るものであると同時に、五七五という音がもたらす独特のリズムもまた欠かせないものだ。むろんこれは印欧語における伝統的な詩の形式を完全に日本語化するのが困難であることとも比較できる。

ではだからといって、詩を訳すべきではないとしていいのだろうか。確かに異なる文化圏に属する言語に詩を移しかえることは、究極的には不可能であろう。しかしそれを試みることで見えてくるものもまたあるのではないか。

俳句の外国語訳などを目にすると、いやそうではないんだけどなあという思いにかられる。ではその違和感を言語化してみろといわれると、それにも頭を抱えてしまう。これは翻訳不可能性だけが理由なのではないのかもしれない。ほとんどの詩は多義性や曖昧性というものを有しており、俳句も例外ではない。違和感を言語化できないのは、俳句は日本人でなければわからない、日本語ができなければ真の意味は理解できないということではなく、俳句のもつ多義性や曖昧性を外国語訳という形で突き付けられたせいなのではないか。言語化できないものを感じていたのであるが、母語に守られることによってわかったつもりになっていただけであったのが、外国語訳を目にすると、その防御壁が壊され、多義性や曖昧性がつきつけられる。見方を変えれば、違和感が生じざるをえないから詩の翻訳は不可能なのではなく、違和感を生じさせることによって詩の可能性をさらに広げることができるのかもしれない。


戦争は人間の真の姿を炙り出すものだとされることがあるが、それはある意味では凡庸な結論に到達せざるをえないということでもある。人間とは様々なものである。そこに絶対的な本質があるのではなく、様々な環境や状況によって形成されていくのである。

「ドリゴ・エヴァンスは捕虜たちの人間性については理解している。彼らは嘘をつき、ごまかし、盗み、そして、嘘をつき、ごまかし、盗むことを楽しむ。最悪の連中は仮病をつかい、誇り高い連中は健康だとうそぶく」。

捕虜となったドリゴはある事情で手に入ったステーキの誘惑に屈しそうになるが、将校が特権として口にするのではなく、病人や弱っている者に優先的に食べさせる。彼の行動は高潔であるようだが、また将校としての威厳を保ちたいという保身や虚栄心からくるものでもあり、さらには絶望的な状況に置かれた中でそのような言動が無意味であることもわかっている。

「ドリゴ・エヴァンスは典型的なオーストラリア人ではなく、彼らも違う。広大な国の周辺、貧民街、影の国から来た志願者たち。家畜商人、罠猟師、港湾労働者、カンガルー狩猟者、事務員、ディンゴのわな猟師、羊毛刈り。銀行員、教師、店員、奥地の木こり、競馬のノミ屋、失業手当受給者、運だめしをする者、ならず者、チンピラ、やくざ者、犯罪者、まぬけ、ごろつき。彼らは、二十世紀中盤までふらふらと存続してきた十九世紀的な社会の軍人入植者、救貧院、スラム街、貧しい町の、電気も通っていないあばら屋、掘っ立て小屋で育ち、父親は第一次大戦で死んだか体が不自由になったか発狂したかのいずれかで、母親はアスピリンと希望でどうにか持ちこたえている、という抑圧された環境から吹き飛ばされてきた者たちだ」。

戦争という極限状態で、捕虜として強制労働に就かされるという絶望的な状況で、ある者は「最悪」となり、ある者は「誇り高」くなる。日本軍兵士といっても、オーストラリア軍兵士といっても、その姿が、その心理が一様であるはずもない。

この作品は視点人物が複数であるのみならず、物語はクロノロジカルではなく、戦前、戦中、戦後がパラレルに組み込まれる。これは人物像を少しずつ立体化していくことで読者を牽引するという手法でもあるが、また読者に過度の感情移入を避けさせるということでもあり、それはドリゴの人物造形にも表れている。

本作は戦争というものを、戦争がもたらす残虐性を、そしてそれを経た後の人間の姿を多面的に描き出すものであるが、もちろん手法を含め、そこには限界がある。詩が翻訳不可能であるように、戦争の全てを描き出すことはできない。すべてを描くことができない以上、禁欲的に、沈黙を守るべきなのであろうか。戦争を直接経験していない世代が戦争を描くことは可能なのか、そもそもそれが許されるのか。そのような倫理的問いを立てることは重要であるが、しかしそれによって沈黙してしまえば、記憶は薄れ、生々しい歴史は風化していくことにもなりかねない。

訳者あとがきによると、フラナガンは本書でオーストラリアの総理大臣賞を受賞すると、こうスピーチしたという。「読み書きができる、そのことが人生を変える力になる。読み書きができなかった私の祖父母と今夜ここに立っている私とのちがいは、教育によって読み書きの能力を得られたことにある」。そして「先住民の子どもたちに識字教育を行っている団体に、賞金四万豪ドルを寄付した」そうだ。オーストラリアの歴史を考えるとここに危うさを読み取ることもできるが、少なくとも、読み書きができることで「人生を変える力」、小説を生み出す力が生まれることは確かだ。ヨーロッパに受け継がれる口承文学の伝統、東洋の伝統的な芸術形式、タスマニアという「辺境」ともいえる地でフラナガン家の中にそれが流れ込み、この小説が生まれた。

完成まで実に12年を要したという。フラナガンは「書きはじめてみたものの、こうした父親の体験を題材にした作品を書きたいわけではない、なぜ書こうとしているのかもわからない、父親の存命中に書き終えなければ決して書き終わることはない、しかし今後書きつづけるためにはこの作品を書き上げねばならない、という錯誤した思いにとらわれ続けたと語っている」。父から聞き出したのは、「泥の感触、熱帯性潰瘍に蝕まれていく肉の腐臭、饐えた米のにおい、竹の帆布を結びつける細部の事柄だったという」(訳者あとがき)。

フラナガンが最終草稿を書き終えそれを出版社に送って病床の父を訪ねると、どんな具合だと訊かれた。書き終えたと伝えたその晩に、父は98年の生涯を閉じた。このプロセス自体を小説に組み込みたい誘惑にも駆られるが、またそれも一つの可能性であるものの、それによって失われるものも出てきかねない。何かを選べば何かが損なわれるかもしれないが、それでも書くことを諦めない者こそが小説家なのであろう。不可能性を前にひるむことなく「風車に突撃」することによって、優れた作品が産み落とされる。


なお泰緬鉄道といえば映画『戦場にかける橋』を思い浮かべる人も多いだろうが、『クワイ河収容所』の著者で自身が「泰緬鉄道の収容所から生還した元英国捕虜アーネスト・ゴードン」は、「その原作であるピエール・ブールの小説について」、「興味本位にした娯楽小説である」と一蹴している」そうだ(訳者あとがき)。安易な姿勢が安直な物語を生む危険性があることもまた忘れるべきではない。

重い歴史を扱うような作品をどう消化するかはまた受け手の問題でもあり、日本社会は今だからこそ、より『奥のほそ道』という作品に向き合わなければならないということでもある。

2015年に制作されたBBCのドキュメンタリーRichard Flanagan: Life After Deathは公式の配信は終わってしまっているが検索すると某所で見ることができる。『奥のほそ道』までのフラナガンのキャリアを振り返るもので、泰緬鉄道の現場や作中人物のモデルになった父の戦友の墓を訪ねるなどしている。フラナガンは「ビンタ」のことをそのまま「binta」と言っているように、頬を平手打ちするあの行為は肉体的のみならず精神的な虐待と受け取られ悪名高いのだが、そのことを未だに日本人の多くが認識していないどころか、日本社会は忘却への欲求に完全に屈しかけている。それだけに、このような作品は日本人にとっても貴重なものとなる。


『随想』

蓮實重彦著 『随想』





2009年から2010年にかけての「新潮」での連載をまとめたもの。今になって読んでいるように僕は蓮實のいい読者ではないが、改めてこんなことを言うのもなんだが、読めばやはりさすがと思わされることも多い。


「アメリカ合衆国と日本との距離は拡がるばかり、なのだろうか」は、2009年7月にマイケル・マン監督の『パブリック・エネミーズ』がアメリカで公開されたという話題から入っている。「とはいえ、まだ見てはいない『パブリック・エネミーズを口実として、必ずしも正当に評価されてはいない映画作家マイケル・マンの重要さを論じることがこの文章の目的ではない。ここでは、この期待作がいまだに日本で封切られずにいることがごく自然な事態として受けいれられている不自然な文化的――ことによったら政治的であるかもしれぬ――環境について語ってみたいのである」。

この作品は大ヒットが期待されるようなものではなく、またアカデミー賞などの賞レースに絡むようなものとも思われていない。とはいえ公開日にはニューヨーク・タイムズ紙に「「荘重にして美しい美術品」をめぐる長い批評」が掲載された。ネット上でこの批評を読むと、「印刷媒体としての新聞などに未来はないといった議論はさかんだし、世界的な「高級紙」と呼ばれるものの経営基盤もいたるところで弱体化しているとはいえ、封切り当日に掲載される批評が作品に輝きをそえる機能はなお失われていない」ということを実感させられるのであった。ところが、日本で実際にこの作品を見ることができるのは、蓮實がこの批評を読んでから5ヵ月も先の12月まで待たなくてはならない。

「外国映画の封切りが、製作された本国の公開時期と大きくずれていることなど当然だと思ったりしてはならない。『パブリック・エネミーズ』は世界の四十ヶ国ほどでこの夏休み中に、遅くとも八月中旬までには公開されており、ほとんど日本だけがその流れから取り残されているからである」。「香港、シンガポール、台湾、韓国といったアジアの近隣諸国でも、この連載が活字になる頃にはすでに公開済みなのである」。

ジョニー・デップ人気を当て込んでなのか、「年末番組」にしたのはイタリアと日本くらいのものなのである。「世界から遅れをとらぬために」マイケル・マンの新作を見ようと思えばアジアの近隣諸国の都市に足を伸ばさなければならず、「誰もがそんな不便を甘受せざるをえない日本とアメリカ合衆国との距離は、まぎれもなく物理的に遠くなっている」。さらに、「このアメリカ映画の日本公開をめぐるこの決定的な時差は、何もマイケル・マン監督の新作に限られているわけではない」。

クリント・イーストウッド監督の『チェンジリング』や『グラントリノ』も、デヴィッド・フィンチャー監督の『ベンジャミン・バトン』も、ダーレン・アロノフスキー監督の『レスラー』も、そしてアカデミー賞を受賞したダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』も、日本での「その公開は、トルコよりも、レバノンよりも、パキスタンよりも、エジプトよりも、中国よりも、フィリピンよりも遅く、相変わらず世界で四十何番目なのである。この、世界で四十番目か五十番目という凡庸な数字をごく自然に受けいれていることが不自然とすら思われなくなっている現状は、いささか危機的ではなかろうか」。

昔からこうだったのではない。97年公開の『タイタニック』のように、「東京国際映画祭のオープニングが世界プレミアでもあったという事態はごく自然に起こっていた」。それが2002年の東京国際映画祭のオープニング作品として『マイノリティ・リポート』が上映されたことが「世界から嘲笑され」るようにさえなってしまったのである。というのも、『マイノリティ・リポート』は世界各国で公開済みであり、「海外からの参加者の大半はすでに見ていたので、そのプレミア上映は、国際映画祭とは名ばかりの、もっぱら国内向けのものでしかなかったからだ」。

一方で、ジャン=リュック・ゴダールやアレクサンドル・ソクーロフなど、「アメリカ合衆国はいうにおよばず、ヨーロッパのほとんどの国でさえ、映画祭などの特殊なケースをのぞいて上映される機会の稀な作品が日本では一般公開されているのだから、アメリカ映画の公開が多少遅れたところでさしたる問題はないという視点も大いにあろうかと思う。確かに、現在の東京は、ニューヨーク以上に豊で多様な作品の見られる映画都市だといえるかも知れないからである」。

「にもかかわらず、マイケル・マンの新作が象徴しているアメリカ映画の日本公開の時差の不自然なまでの隔たりが、何やら危険な兆候に思えてならないのは、ときに国境を超えたり超えなかったりする個々のフランス映画、ロシア映画、ポルトガル映画といったものとアメリカ映画とは、その存在様態が決定的に異なるものだからである」。

「ヴェトナム戦争時代のゴダールがアメリカに惹きつけられる理由はなど何一つないはずである。にもかかわらず、アメリカ映画は彼の心を深く揺り動かさずにはおかぬ」のであった。ゴダールは「私はかつてアメリカ映画が好きだったし、われわれはヌーヴェル・ヴァーグの時代にアメリカ映画を、じつに多くのものに逆らいながら大いに擁護したものです」と述べている。蓮實は「多くのものに逆らいながら」という部分に注意を促している。「つまり、理性的に判断すればそれを好きになる理由などどこにもないはずなのに、あえてそれを擁護せざるをえない状況に知らぬ間に陥っている、というのがその一行の意味なのである」。

「ただ、ゴダールの誤りがあるとするならば、それは、その理不尽さを「ヌーヴェル・ヴァーグ」の時代の彼らが初めて体験したといいたげなところである」。

小津安二郎はすでに1930年代前半に撮った「犯罪映画によってアメリカ映画にオマージュを捧げていた」。そして1943年に「陸軍報道部映画班員としてシンガポールに赴いた小津が、対インド工作機関の協力でインド独立運動をめぐる映画の構想を持っていながら、戦況の悪化でそれが不可能と知ると、軍部に隠れて接収されていた敵国にほかならぬアメリカ映画の試写を楽しみながら日々を過ごしていたこともゴダールは知らない。こうして、未来の『東京物語』(53)の作者は、戦時中は日本で上映が禁じられていたエルンスト・ルビッチ、ジョン・フォード、ウィリアム・ワイラー、オーソン・ウェルズなどの作品の「神秘と魅力」に身を委ねることになるのだが、それこそアメリカ映画の理不尽な擁護にほかなるまい」。

「『パブリック・エネミーズ』の封切りの遅れがどこかしら不吉なのは、日本で見ることのできないアメリカ映画をアジアの近隣諸国の人々がすでに見ているという状況が、歴史的にいってまったく初めての事態ではないからだ。それは、第二次世界大戦中に推移していたことのあからさまな再現を思わせずにはいられない」。

蓮實は小林信彦の「敗戦によってアメリカ文化がどっと日本に入り、若者がアメリカニズムに染まった」というのは事実ではないという文章を引用し、これは当然のことで、「その「アメリカ的」なものの充満が途切れたのは、戦時下の三年数ヶ月というほんの短い――「小泉政権」より遥かに短い――期間でしかない」としている。

そして蓮實は「マイケル・マン監督の新作『パブリック・エネミーズ』の公開の異常な遅れと、誰もが真剣に向かいあわねばなるまい」とこの文章を締めくくっている。


蓮實はむろんわかりやすく「いいこと」を語るようなタイプではないし、例によって迂遠な調子であり、さらには連載の性格上あえて論壇時評的なものを挟み込んでいるための脱線めいた部分もあるが、これが書かれた約10年前よりも現在の方がより切実に感じられるというのは、やはりさすがである。

蓮實が触れている90年代後半まではハリウッド大作が日本でワールドプレミアを行うようなこともあったが、200年代前半にはこれはプレミアとは名ばかりの日本国内向けのイベントと化し、他の国の映画関係者からは失笑を買うようになっていたという現象は、まず第一に日本の経済的なプレゼンスの急速な低下を表すものであるが、それだけにとどまるものではないだろう。蓮實がやや危うい筆致で書いているように、日本より経済規模の遥かに劣る国と比べても、日本ではアメリカ映画の公開が大幅に遅れるのが常態化するようになった。

「ヴェトナム戦争時代」になってもゴダールがアメリカ映画を無視できなかったように、映画について考えるうえで、アメリカ映画は好むと好まざるとに関わらず常に対峙していかなくてはならないものである。

個人的に現在の日本社会は「精神的鎖国」状態に入ってしまったかのように感じられるのだが、これはアメリカ映画の受容の仕方という形ですでに2000年代前半には見られたものなのであろう。そしてこれは映画にとどまらず、海外のポップミュージックへの関心の著しい低下という形で音楽にも表れており、文学においても、翻訳文学の部数は単に出版不況云々では説明がつかないほどの落ち込みとなっている。

ヨーロッパでは劇場にかかりにくい作品まで東京では一般公開されるように、日本にもジャズやポップスなどで海外のファンが舌を巻くほどの深い知識を持つ人はたくさんいるし、海外ではこんな作品が商業出版として刊行されることはまずないだろうというようなものが翻訳出版されることもある。しかしこれは、あたかもシンガポールで小津がアメリカ映画を見まくったようなものなのかもしれない。戦前の日本は映画も、ジャズをはじめとする音楽もアメリカ文化の影響が強く、さらに小津のように模倣にとどまらずに換骨奪胎にまで成功していた。対英米開戦後はむろん日本国内に一切それらは入ってこず、ごく一部の特権的立場にありかつ運に恵まれた人しか触れることができなくなった。

日中戦争から数えれば長い戦争であるが、対英米戦開始から敗戦までは、あえて言うならわずか三年半という「ほんの短い」ものであった。「「戦後」という時間が否応なく引きずっている「戦前」との持続を改めて思考しないかぎり、現在に注ぐべき視線は歪曲するしかない」と蓮實はしている。

そしてこのような実態を離れた抽象化が進んでしまったからこそ、アメリカ映画の日本公開が世界的に見て著しく遅れるという現象に対する評価もできなくなったのかもしれない。もちろん200年代以降の日本が戦争状態にあるというのではない。問題は、「プレミア上映は、国際映画祭とは名ばかりの、もっぱら国内向けのものでしかな」くなり「世界から嘲笑」をあびるような状況にありながら、それに気づきすらせず、またそれに付随する状況を「ごく自然に受けいれていることが不自然とすら思われなくなっている」ことにある。そしてこれこそが「政治的」な現象にもつながったともいえるだろう。

なぜ気づくことができないのかといえば、メディアの役割もその要因の一つだろう。ニューヨーク・タイムズのような「高級紙」はかつての威信は低下したとはいえ、それでもその機能をなんとか保ってもいる。そもそも日本の新聞は、欧米の高級紙と比べ、とりわけ批評の機能が非常に弱い。書評欄の貧弱さは昔から言われていることだが、映画や演劇、音楽評はといえば比較の対象にさえならないほどだ。もちろん批評が強すぎることはそれはそれで問題で、かつてであればニューヨーク・タイムズの劇評で酷評されると実際にその芝居がどのような出来であろうとも失敗は決定的となったというような状況は、評論家の顔色ばかりを窺うような堕落を招くことになる。しかし日本ではそんな心配はまったくの杞憂であるほど批評の持つ力が弱く、それは長らく指摘されながら改善されるどころか、むしろ悪化さえしている。

欧米の高級紙の部数は日本の全国紙と比べると桁違いに少ないように、求められている役割が端から異なる。日本では高級紙の果たしている役割が空白であり、その結果防波堤となる存在すらなく、ひたすら弛緩していき、精神的鎖国に陥りながら、それを認識することすらできなくなっているのかもしれない。

蓮實は「この期待作がいまだに日本で封切られずにいることがごく自然な事態として受けいれられている」環境を「不自然な文化的」状況とするだけでなく、「ことによったら政治的であるかもしれぬ」としてしている。これを「日本で見ることのできないアメリカ映画をアジアの近隣諸国の人々がすでに見ているという状況が、歴史的にいってまったく初めての事態ではないからだ。それは、第二次世界大戦中に推移していたことのあからさまな再現を思わせずにはいられない」とまでするのは、10年前にはなんとも大袈裟な響きを持っていたのだろうが、今となってはむしろその慧眼ぶりがより光る表現となってしまったかのようだ。



『イメージの本』

ジャン=リュック・ゴダール監督 『イメージの本』





十分の一はおろか百分の一も理解できたのかは怪しく、見当違いもいいところかもしれないが、せっかく見たので。

自作を含む様々な映画からの引用は『映画史』に連なるものであり、ホロコースト、ヴェトナム、サラエヴォといったゴダールが関心を持ってきたテーマが反復される。何よりも、60年代後半から70年代半ばにかけてパレスチナ解放闘争にコミットしたゴダールにとって、近年のアラブ世界、そして西洋におけるその表象こそが本作の主要なテーマの一つだとしていいだろう。

イメージ、それでもなお』(ジョルジュ・ディディ=ユベルマン著)にあるように、ゴダールは「強制収容所が撮影されなかったとき」、「この時点で映画は完全に自らの責務を怠ったのだ」という言葉を残している。しかし実際には強制収容所はフィルムに収められており、ゴダール自身が『映画史』で引用しているように、それを知らないはずはない。

また同書にゴダールのこんな言葉も引用されている。「イメージは存在しません、諸々のイメージがあるだけです。そして諸々のイメージのある種の集合形態があります。ふたつあれば、ただちに三つ目がある。〔……〕これは映画の根本です」。

つまりゴダールがいう「映画は完全に自らの責務を怠った」とは、この「諸々のイメージ」として、つまり映画として強制収容所を捉えきることができなかったということなのだろう。

『ショアー』の監督であるクロード・ランズマンはナチスによる大量虐殺は表象不可能であり、そうである以上は限定的な「イメージ」はむしろ危険なものにさえなるとして、表象そのものを批判する。ゴダールが試みたのはまたこのランズマンへの反論でもあろう。

もちろんゴダールは無定見に表象を擁護するのではなく、『イメージの本』でも表象にともなう被写体への暴力性に言及があるように、必ずしもランズマンと正反対だというのではない。ランズマンは当然ながらスティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を猛烈に批判した。そしてゴダールは「スピルバーグ」という存在、名前を執拗に意識し続けている。ゴダールがスピルバーグを無視するのではなく強く意識しているのを隠すことなく表に出すのは、スピルバーグがアメリカ映画を象徴する存在でもあるからだろう。ゴダールはアメリカ映画から多くを受けとった。そしてその世界から遠く離れたのであるが、しかしアメリカ映画を忘れ去ったのではない。ただノスタルジーとして記憶にとどめているだけではなく、未だにアクチュアルなテーマであり続けている。


『イメージの本』の背景には「イスラム国」の存在が垣間見える。ISがネットで流すプロパガンダ映像が映画文法をふまえたものになっているという指摘は多い。そしてその荒唐無稽な主張にも関わらず、洗練された映像文化になじんでいるはずの北米西ヨーロッパの中にも、そのプロパガンダに影響されISに加わる者も現れた。

モンタージュをはじめとする映画文法は人工的なものであり、映画を見てこれが現実をそのまま映し出したものだと受けとられることはない。リュミエール兄弟の「ラ・シオタ駅への列車の到着」を初めて見た観客が列車が実際に突っ込んでくると思って逃げまわったとする有名なエピソードは虚構のものだとされている。ましてや現在の観客であればなおのことだ。

世界の有様はそのまま認識できるのだろうか。これはあり得ないことだ。それがドキュメンタリーであろうがニュースであろうが、必ず作為が入り込む。意図的なものであれ意図せざる結果であれ、受け手に与える印象はあるがままの現実をそのまま認識させるものとはならない。

そうである以上、禁欲的に、できる限り表象を慎むべきなのであろうか。やはりそこにも抗っていかねばならない。ランズマンの禁欲さは誠実さの表れのようであるが、しかしそれによってまた取りこぼされるものが出てくるのも避けられない。表象を慎むのもまた一つの表象にさえなる。様々な映画の断片をつなぎあわせるという、文脈を破壊しつつ新たな文脈を構築するという脱構築的手法にゴダールが至ったのは、これを突き詰めた結果なのかもしれない。

エドワード・サイードが『オリエンタリズム』などで指摘したように、西洋は、とりわけアラブ世界を、矮小化した単一的なイメージに還元する。そしてそれを逆手にとるかのようにISは、ハリウッドによって磨かれたイメージを駆使して、西洋文化にどっぷりつかって育ったはずの若者をリクルートするのに、いくらかは成功したのである。

『イメージの本』がISの「野蛮」さに対抗するイメージとしてアラブ世界の市井の人々や美しい風景といった「真の姿」を提示するといった単純なものではないことはいうまでもない。しかしだからといってそこに市井の人々や美しい風景が存在していないというのでもない。『映画史』においてゴダールはこうコメントする。「仮にジョージ・スティーブンスが、アウシュヴィッツとラーヴェンスブリュックで、最初の一六ミリ・カラーフィルムを用いることがなかったとしたら、エリザベス・テイラーの幸福はおそらく、陽のあたる場所を見出すことは決してなかっただろう」。

映画という快楽はまた映画という困難でもある。一つのものに還元されるという暴力から無縁でいられないが、それに徹底的に抗おうとすれば袋小路にはまりこんでしまうようであるが、本当に行きつく先はそこだけなのだろうか。ゴダールは映画に耽溺することはない。フィルムを特権化し、ハリウッド黄金時代やセルゲイ・エイゼンシュテインなどによって築かれた映画文法を金科玉条とし、ドラマを紡ぐことはもうない。しかしまた、ゴダールは、ビデオやデジタルをいち早く取り入れ、テレビに乗りだし、多くの観客には理解不能に近い作品を発表しつつ、やはり映画に留まり続ける。ゴダールは抗い続けるが、それは映画の解体を目指すのではなく、映画を問い続けることなのかもしれない。アウシュヴィッツを、ヴェトナムを、サラエヴォを、そしてパレスチナを問い続ける。それはISを、そしてISへの視線を問うものであり、アラブを、あるいはイスラムを単一化するのに抗い、またその抵抗のイメージを問う。それはやはり「映画史」の問題とならざるをえないのである。


Morning Editionの新テーマ

Morning Editionはアメリカの公共ラジオNPRを代表するニュース番組で、アメリカの映画やドラマを見ていると登場人物がこの番組を聞いている場面に出くわしたことが何度かある。意識していなくてもこのテーマ音楽をどこかで耳にしたことがある人は日本でも多いかもしれない。





1979年に放送が開始されたこの番組が、40年目にしてテーマ音楽をリニューアルした。当のMorning Editionはこちらで触れているが、ニューヨーク・タイムズもこの話題を記事にしている。正確にいうと新テーマではなくアレンジの変更であるが、これまでもアレンジを変えたことはあったものの微調整といったあたりにとどまるもので、今回のように一瞬別の曲かと思うほどの大幅なものは初めてのようだ。






SNSの反応を見てみたところ阿鼻叫喚の地獄絵図の様相を呈しており……というのは言い過ぎだが、「なぜ変えた」、「なじめない」という反応がかなり多く見られる。

所詮は慣れの問題で数か月、いや数週間もすれば違和感はなくなるのかもしれないが、長年に渡ってそれこそ慣れ親しんできた番組だけに抵抗感を抱く人も少なくないのだろう。大袈裟でなくこの番組を聴いて一日を始めるのが何十年もルーティンになっていた人も多いだけに、制作側からしたらいろいろと言い分はあるのだろうが、ここまでの変更は必要だったのだろうかという気もしなくはない。

この番組の初代ホストはBob Edwardsで、1979年から2004年まで、実に25年間務めた。ウィキペディアによると降板時にはいろいろとゴタゴタもあったようだ。25年務めたホストを変えたことがあるのだから40年でテーマ音楽のアレンジを大幅変更するくらいどうってことないのかもしれないが、これによって日常が奪われたかのような感覚になる人が出るのもわからなくはない。もっともこういう気持ちがわかるようになったのはそれだけ年を取ったからだと言われればその通りであろうが。







個人的にはBob Edwardsの後任のSteve Inskeepにすかり馴染んでいるのでやはり慣れの問題なのであろうが、十年以上に渡ってInskeepと担当してきたRenée Montagneは2016年に降板しているが、「あれ、今日はいないのかな」とふと思ってしまうことが今でもあるもので、Inskeepが降板したら、「あぁ、あの声が懐かしい!」となるのだろう。








今では当たり前のように聞いているが、ネットが普及する前まではアメリカのラジオはAFN(旧FEN)に頼るかカネを出して音声教材を買っていたわけで、初めてMorning Editionを聞いたのもAFNを通してだった。ネットで海外のラジオが普通に聞けるようになると外国語学習に革命が訪れた思ったのだが、僕の英語能力に革命はやって来ず、もちろんそれは怠惰のせいで、外国語学習に言い訳がきかなくなった時代が到来したとも言える。Morning Editionとほぼ同年齢の僕が、さらにもう40年時を重ねた際にはどんな世界になっているのかと思うと、楽しみよりも恐ろしさの方が先行するのも、それだけ年を取ったということなのだろう。


『怒りていう、逃亡には非ず ――日本赤軍コマンド泉水博の流転』

松下竜一著 『怒りていう、逃亡には非ず ――日本赤軍コマンド泉水博の流転』





あるきっかけで泉水博について書くことになった松下竜一は、裁判の傍聴を重ねていると、ウニタ書舗の遠藤忠夫と知り合い、「泉水に関する愉快なエピソード」を聞いた。パレスチナ・ゲリラから日本赤軍に、「北島三郎はパレスチナ解放の支持者なのかという問い合わせ」があったというのだ。

まったく結びつきようもないように思えるが、それはこのような事情による。シリアの日本大使館が主催した「日本デー」のゲストに招かれたのが北島だった。「ダマスカスからヨルダンに向かう砂漠の中の遺跡で北島三郎が歌うということがあった」。日本の商社の社員やその家族などがバスを連ねて行き、パレスチナの難民キャンプからもバスが出た。そして北島が泉水の歌を歌っていることにパレスチナ人は驚き、この問い合わせがあった。

「パレスチナ・ゲリラはなにかというと車座になって歌を歌うんだ。それも自作自演でね、即興の歌も多いんだ。おそらく泉水はそんなときに北島三郎の『与作』を歌ってたんだな。それをみんな泉水自作の革命と戦いの歌だと思いこんでしまったわけだ。だから北島三郎が来て泉水の闘いの歌を歌ったというんでワーッっと受けたんだな。北島三郎は泉水につながるパレスチナ解放闘争の支持者だとなってしまったんだね」。遠藤は「それほど泉水のあちらでの人気は高かったということになるね」としている。


泉水博は1988年6月にフィリピンで逮捕された。当時の報道ではこんなものがある。「軽率な行動で自らの墓穴を掘った泉水。ついに強盗殺人犯は、日本赤軍のコマンドになり切れなかった。日本の法律を〝超えて〟国外逃亡した男の、あわれな帰還」。これに代表されるように、公安情報に基づいて泉水を嘲笑的に扱うものが多かった。

88年といえば僕はまだ小学生であったが泉水逮捕のニュースは覚えている。その記憶はもっぱら頭髪移植の整形手術を受けていたといったゴシップめいたものが主であった。泉水逮捕の半年ほど前の同年1月に行われた松下竜一宅などへの一斉家宅捜査については全く記憶になかった。

87年12月に「日本赤軍ではリーダーである重信房子に次ぐ重要な位置」にいたとされる丸岡修が偽造パスポート使って日本に入国し逮捕されていた。これを受けて泉水らが指名手配され、松下らへのこの家宅捜査はその一環として行われた。令状を見せられた松下は「泉水博なんて、まったく知りませんよ私は」と言った。この言葉は嘘ではなかった。中津署の刑事と思われる男も「私も先生がそんな悪いことをしているとは思わないんですが、警視庁からの指令だものですから、捜索させてもらいます」と言った。

松下は「東アジア反日武装戦線」についての取材をし『狼煙を見よ』を刊行していた。警視庁は丸岡や泉水の名前を利用して、「東アジア反日武装戦線の獄中者を支援する市民運動や死刑廃止の市民運動(同時に、この両者は反天皇制でも共通している)の全容をXデーを目前にして把握しようとしたとみるべきであろう。反天皇制で括れる市民運動の人脈図を全国的に洗い出そうというのが真の意図であったと見て間違いない」。

「更に副次的な意図としては、あたかも私が日本赤軍と深い関係を持つかの如く印象づけることで、広範な市民運動(例えば主婦層の参加が多い反原発運動など)から分断孤立させようという狙いも重ねられている。/実際、世間に危険人物として印象づけるにはこれほど効果的な策謀はない。日本赤軍コマンドとの関係で松下竜一宅が家宅捜索されたという報道が流れるだけで、世間に対して確実に一定の印象を与えることになり、捜査の結果なんの関係も見出し得なかったとしても、警視庁は「これはあやまった捜査でした。松下氏は無関係でした」とは決して公式表明しないのだから、いったんかけられた容疑はいつまでたっても公然と晴らされる機会はないことになる」。

家宅捜索を受けた64人が国、東京都、令状を出した裁判官、警視庁を相手取って国家賠償請求の民事訴訟を起こした。「どのような根拠に基づいて強制捜索されたのか」を明らかにするにはこの方法しかなかった。当時はソウル五輪妨害に向けて日本赤軍が何か行動を起こすのではないかという情報がマスコミからしきりに流され、「日本赤軍にことよせればどんな違法捜査も許されかねないような危険な風潮をひしひしと私は感じていた」。「理不尽な家宅捜索に対する私達の国家賠償請求訴訟は、日本赤軍や丸岡修や泉水博の名がマスコミにしばしば登場する中での、覚悟を要する提訴なのであった」。

この結果は、松下ら一部とはいえ主張が認められた。日本の裁判所は基本的に行政べったりであり、ましてやそれが公安案件となればなおさらであるが、それでも賠償が認められたのは、これが全く根拠のない家宅捜査であったことを何よりも示しているだろう。

またメディアが警察からのリーク情報を無批判に垂れ流すことの危険性も強調ししておかなければならない。警察は違法捜査や強引な法解釈の正当化、世論誘導など様々な思惑を持って極めて怪しい(それどころか完全な虚偽を含む)情報を流すことがあるが、基本的に日本の主流メディアはこれを検証することはほぼない。メディアは警察からのリーク情報を失いたくないばかりに、あるいはそうですらなく心理的に警察と一体化して、これを無批判に広めることがほとんどだ。

僕自身は日本赤軍の主張や行動にシンパシーを覚えたことはないのであるが、それでも一定の関心を持っているのは、もし自分が日本赤軍のメンバーと同世代であったなら(それは僕の親の世代とほぼ重なる)いったい何をしていたのだろうかということを考えてしまうからである。泉水が逮捕された88年といえば、学生運動が最高潮に達してからわずか20年ほどである。80年代後半から見た70年前後への視線は、2019年に1990年代後半を振り返るのとでは、明らかに著しく温度差がある。まるで過去を切り捨てるがごとく、あまりに遠い、まったく別次元の出来事であるかのように当事者世代ですら感じるようになっていたというのはいったいどういうことなのか。

自分が武装蜂起をするなどというのは可能性として頭をよぎったことすらないからこそ、もし僕が30年ほど早く生まれていたらあの時何を考え、何を感じ、何をしたのかと、考えてしまうことがある。70年代以降警察はそのような想像力さえ奪おうとしてきたのであり(松下らへの家宅捜査もその一環とすべきだろう)、メディアの協力もあって、それに成功したのであった。


国賠訴訟の会見の後、松下は「マドンナ」から「お願いがあるんですけど」と声をかけられる。このマドンナと呼ばれている女性は、日本各地を飛び回る「ヌードダンサー」で、「いったい彼女の内なる何がそうさせているのかを確かめたことはないのだが、獄中者たちの支援にかかわり始めて十五年以上は経過しているらしい」。彼女にもいろいろと興味が湧くところである。

マドンナは松下に、泉水について書いてほしいと頼んできた。松下はこう返事をした。「だってねえ、泉水博なんてまったく知りませんよと、さんざん世間に向かって弁明したんだよ。その当人が彼のことを書いて発表してみなさいよ。それみたことか、やっぱり深い関係があったじゃないかと言われるのがオチだよ」。

さらには、前述の通り警察は警戒を強めメディアがキャンペーンを張る最中にこの取材を始めれば、またフレームアップの被害にだって合いかねない。周囲も反対したが、泉水の兄と会うなどして事情を知ると、取材をすることを決意した。


泉水の生まれた家は貧しかった。そればかりでなく、自分を「貰い子」だと思いこんでいたように、親子関係も恵まれたものではなかった。中学在学中から働き始め、夜間高校に進んだものの、辞書を買うために働いていた八百屋の金を使い込んでしまうなどして、学校も仕事も辞めることになる。以降仕事を転々として、キャバレーのボーイ長に落ち着いた。酔客とのトラブルから傷害で逮捕され、まずこれが前科となる。ボーイたちと旅行に行った際に、ボーイたちが面白半分に売店から土産物を持ってきたのをたしなめ、実行に加わらなかった泉水が一人で罪を引き受けたのが二犯目となる。

ある会社の重役が交通事故を起こした。被害者の兄の友人であった湯本という男は、自分が実兄だと騙って示談を成立させるが、湯本はその後もこの重役に恐喝などを行っていた。借金に苦しんでいた湯本はさらにこの一家を縛り上げて金を奪う計画を立てる。湯本は同じく借金に苦しんでいた知り合いの泉水を誘い、泉水もこの計画に乗る。ところが湯本は計画から逸脱し重役夫人を刺殺してしまう。この「重役夫人殺し」は当時も大きく報道されたという。

この事件の裁判は、泉水からすると納得のいくものではなかった。取り調べでは湯本の主張と大きく食い違っていたが、刑事は「公判廷で黒白明らかにすればいいじゃないか」と説得し、さらには「このまま否認を続ければ死刑になるぞと脅されて、泉水は刑事が言うままの供述調書に署名」していた。ところが湯本は一審開始前に自殺してしまう。裁判では、湯本がナイフを持っていくのに泉水が反対したなどその主張の少なからぬ部分を認定しながら、自分は見張り役だった、湯本が刺した時には別の部屋にいたといった核心部分の主張は認められなかった。さらには泉水が軽微なものとはいえ前科二犯であり、執行猶予中の事件であったことも影響したのであろう、泉水は無期懲役となる。

泉水は模範囚であり、仮釈放もそう遠くないと思われる状況になった。実際兄は泉水を迎え入れる準備もしていた。しかし泉水は「自らの意志で起こした確信的な事件」の中心となる。

千葉刑務所の同囚が吐血を繰り返すなど体調が悪化し、治療をしなければ命に関わる状態にあるのは明らかであった。泉水らはしきりに治療を求めたが刑務所側は四の五の言うばかりでこれを放置し続けた。業を煮やした泉水らはついに蜂起した。管理部長を人質にとり、泉水自らは灯油をかぶって看守がつかまえにきたら二人で焼身自殺をする構えを見せた。刑務所長宛てに要求書を書き、それは「一般的な待遇の改善、そしてとくに医療設備の改善を求め」たものであった。

刑務所にとっては大失態であり隠蔽しようとしたが、サンケイ新聞がこれをすっぱ抜いて、国会でも取り上げられた。当時同じ刑務所にいた野村秋介が出所後にこの出来事をサンケイに伝えたようだ。後に泉水は野村を「親しくしかも信頼の出来る、そして常に身近にあった」と兄に宛てた手紙に書いている。要求が受け入れられなかったら焼死する覚悟であることを野村に伝え、実行のための道具などを見てもらった。近く仮釈放になることがわかっていた野村に、もし失敗したら「その意を含めて行動のすべてを新聞社に投稿してもらうことを依頼」しており、野村はその約束を守ったのだろう。

後の裁判で、泉水は破れた「夢」としてあったものが、「的屋の世界にはいって、そこの親分であるおやじさんからの感化というか、それによって、いわゆる一般的に義理人情の世界というんですか、そういうものを教えられることによって、強くひかれたということが一番大きな原因だと思っています」としている。

ボーイたちの罪を被ったり、自らの仮釈放が近づきながら病に苦しむ同囚のために蜂起するなど、泉水は「義侠心」を持っており、これはロマンティサイズされた任侠の世界のそれに近いものであったのだろう。野村との関係を見れば、泉水は出所後は(新)右翼の世界にでも足を踏み入れていたのかもしれない。しかしこの事件で「政治犯」となった泉水の前に思わぬ出来事が起こる。

ダッカ事件で日本赤軍が釈放を要求したリストの中に、泉水ら刑事犯も含まれていた。対応に追われていた大臣らからは「泉水って何者だ」という声があがったように、予想もしない名前であった。泉水らは「思想的な来歴はなく、日本赤軍との接点もないが、獄中での管理体制に対して抵抗の行動を起こした点では共通していて、そのことがなんらかの形で中東の日本赤軍に伝わっていて、闘えるコマンドとしての評価を受けたのだと思われる」。

泉水の兄ももちろん泡を喰った。警察に事情を話すと、旭川刑務所に収監されていた弟は東京拘置所に移送されており、面会ができるという。博は「赤軍なんてものはどういうものか、全然おれにはわからんが、おれが行かねば百何十人の人質を釈放しないというんだから、行くことにしたよ」と言った。「赤軍に加わるつもりはない」とし、「どういうわけかおれを指名してくれたんだから、赤軍のリーダーもおれと話し合ってくれると思うよ。そのとき誠心誠意で話してみるよ」とした。兄はもう二度と弟に会えないだろうと思い、「この九月三十日をおまえの命日と思うことにするよ」と言った。

このように、泉水は意気揚々と出国したのではなく、人質を解放するよう日本赤軍を説得するために出国したのだと主張している。もし自分が出国を拒めば人質が殺されるかもしれない、それを黙って見て見ぬふりなどできなかったのだというのだ。これを胡散臭く思う人もいるだろうが、当時の状況を思えば必ずしも荒唐無稽な主張ではない。

旭川で突然、所長から「釈放を希望するか、それとも希望しないか、そのどちらかを答えてほしい」と訊かれた。「それはないよ」と泉水は思った。「所長からはなんの判断材料も与えられていないではないか」。赤軍は「要求がいれられなければ、乗客を殺すといってい」ると言われた。「もし、私が釈放を希望せずに行かなかったとしたら……本当に人質の人たちは殺されるでしょうか?」と泉水が訊くと、所長は「私にはわからないとしか答えられません」と言った。自分の答え如何によって人質の命に関わるというのなら即答はできないと泉水が言うと、「君のその気持ちはわかるのですが……なにしろ急を要することなので、少しでも早く判断して結論を出して欲しいんです」と言われた。

泉水は信頼していた管理部長に相談したいと言った。管理部長が泉水を手洗いに連れて行くという形式でそれは許された。管理部長は何も助言してあげることはできないが、要求を断ったからといってすぐに人質が殺されることにはならないと思うと言った。「はっきりしていることは、もし君が要求を承諾して向こうへ行く道をとったとしたら、君のこれからの人生はまったく別なものに変わるだろうということだ」。

「管理部長はとかく義侠に走り易い自分の性格をよく見抜いていて、暗に自身のことを大切に考えよと諭してくれておるのだと泉水は受け止めた」。しかし泉水は、赤軍が自分を名指しした以上自分との話し合いに応じてくれるはずだ、「その機会をとらえて誠心誠意リーダーと話し合っい人質の解放を頼んでみようと決意を固めたのだ。最悪の場合、自分も殺されるかもしれないが、あの千葉刑務所での事件のときに焼身自殺をするはずを生き延びてしまったのだから、これも潮時かもしれないと観念する気持ちが泉水にはある」。一人でも犠牲者が出たら後悔させられるのは自分だと伝え、応じることにした。

小菅の東京拘置所に移されると扱いは一転した。何者かわからない私服の職員が、入れ代わり立ち代わり泉水に拒否をするよう説得を始めた。これは法務省の役人であったのかもしれない。法務省はクアラルンプール事件に次いで二度も日本赤軍に屈服するのに強く反発しており、ましてや「刑事犯」までをも釈放することに抵抗していた。なんとしても泉水の決意を翻したかったのであるが、これによってかえって泉水の気持ちは固まったようである。

「君は英語が話せるのか。もっとも英語が話せても、その英語が通じないアラブの国なんだ。君はそんな所へ行って、どう生きていくつもりなんだ」。「君はそれほどまでして、娑婆に出たいのかね。もう、あと二、三年も頑張れば、仮釈放で堂々と社会に出られるじゃないか」。

私服の職員の説得の言葉は、泉水の主張を裏付けるものでもある。泉水は出国したとしても自由の身になれるわけではなく、おそらくは言葉もわからないアラブの国へ行くことになり、一生追われて過ごすことになる。そしてやはり模範囚であった泉水は「あと二、三年」もすれば仮釈放という見通しも立っていた。「仮釈放で堂々と社会に出られる」のをどぶに捨てての行動であったのだ。

むろん泉水の言葉も額面通りに受け取るべきではないが、人質解放のため日本赤軍を説得しようと出国に応じたというのを、馬鹿げた言い訳に過ぎないとしてだけで片づけるべきではないだろう。

しかし現場に着くと、泉水は何もできないままにアルジェリアまで来てしまう。これ以降の足取りについては明かしていない。泉水によると、日本赤軍は泉水に痔の手術を受けさせたという。これは千葉刑務所時代からの持病で、旭川刑務所で診察した医師が「どうしてここまで放っておいたのか」と驚くほど悪化しており、手術の日取りまで決められていたが、その直前になって理由も告げられないまま放置されていた。「泉水は、これは千葉刑務所での反乱事件の報復なのだと受けとめた」。非合法である日本赤軍が泉水に病院で手術を受けさせることには危険がともなう。どの国で手術を受けたのかを泉水は明かしていないが、日本赤軍はこの危険を冒してまで泉水を治療させた。「とんだ厄介者を背負い込んだわけだ」と泉水は自嘲したが、日本赤軍は、泉水が同調するつもりはないとする態度を取り続けても気にはしていないようだった。「日本赤軍に加われとも勧められなかったし、彼を強盗殺人犯として違った扱いをすることもなかった」。

痔疾という長年の苦痛からようやく解放された泉水は、「こりゃ、俺の負けだえ」と「脱帽」した。そしてパレスチナ人や、世界各国の革命組織の人達と出会い、「学び、教えられ、経験を通して、私個人の復讐などといった事が、如何にちっぽけで愚にもつかないものであることを認識させられた」。そして泉水は「日本赤軍の同士達と共に生くべく決意した」のであった。

泉水の主張するこのような経緯もまた額面通りに受け取るべきではない。ただ、おそらく日本赤軍が泉水の「義侠心」に訴えるかのような態度を取ったのは事実であったのではないだろうかという気はする。貧困の中に育ち、家族関係にも恵まれず、社会の外れ者として人生を送っていた泉水に手を差し伸べるというのは、それこそ(虚構化された)任侠の世界に見られるものでもある。泉水がついに居場所を見つけられたと感じたとしても不思議ではないし、それは政治的信念に基づくものというより、任侠の世界への憧れがついに実現したと思えたのかもしれない。

死へのイデオロギー』(パトリシア・スタインホフ著)にある岡本公三へのインタビューは、泉水の変化を考えるうえで参考になる。日本赤軍が「リッダ闘争」と呼ぶテルアビブ空港襲撃事件の裁判で、岡本は「仲間の死と犠牲者の死とを結びつけるロマンティックな」証言をしたという。そして岡本はインタビューにおいて「空港襲撃は、三島[由紀夫]と同様なシンボリックな死を意図したものではない」としつつも、「三島は反革命だったけれど、そのドラマティックな死は評価する」としている。そして「北一輝や西郷隆盛をぼくは非常に敬愛している」ともしている。

極左から極右へ転じる例は少なくないが、岡本もまた図らずも極右への親近感を表明している。これは死へのロマンティサイズという点で結びつくのである。西郷隆盛は月照と共に入水自殺を試みたが彼一人が蘇生した。死に損ねた西郷は常に死に場所を求めており、それが彼の「胆力」という形で表れたと、西郷に肯定的かつ右翼的な価値観を持つ者はしばしば言う。これは死に損ねた泉水が、人質解放のために命を賭すること、あるいは一宿一飯の恩義を受けたことによって自らの命をも投げ打つ闘争に加わるといった筋書きとも重なって見える。

『狼煙を見よ』を読んでも思ったが、死を、そして暴力をロマンティサイズしてそこに酔うことは危険なことである。ここで描かれた大道寺将司の問題意識にある程度は共感を抱くだけに、彼がその罠にはまっていったかのようであることは残念に思える。また日本赤軍の少なからぬメンバーは、その陥穽に捉われたというよりも、それこそがそもそもの行動の理由であったのではないかとさえ感じられてしまう。岡本がそうであり、また泉水もそうであったのではないか。

日本赤軍に加わった泉水は、パレスチナなどでの活動を経て、フィリピンへ渡りフロント企業を作った。羽振りがよさそうに見え、また実際に接待等でかなりの金を使っていたようである。彼からすればこれは情報収集や偽造パスポートの入手など様々な活動に必要なことであったというのだろうが、逮捕時に週刊誌のみならず一般紙にまで揶揄されたように、それは「コマンド」というよりもすっかり堕落したものに映っていた。もちろんこれは公安当局がそのように誘導しての報道であり、「やめたい」とこぼしていた、「酒や歌におぼれていた」といった報道はデマであると日本赤軍側はしている。しかし、怪しげな富裕層と接待ゴルフに興じる自らの姿に、泉水自身は疑問を抱くことはなかったのかとも思ってしまう。

僕はまた任侠の世界にもロマンを感じることはない。彼らなりには言い分はあるのだろうが、結局はカネのためなら暴力を含め手段を選ばないというのに過ぎないと思えてしまうからだ。それを糊塗するためにも、ロマンティックな神話を作りあげる必要がある。もし泉水が(新)右翼かヤクザになっていたら、彼はそこにうまく適応したのかもしれない。日本赤軍に加わった後の謎の多い泉水の姿を想像すると、そう思えてしまう。

60年代後半の高倉健などの任侠映画の熱狂的な支持層の中には学生運動に加わっていた若者もいた。橋本治が任侠映画のポスターを模してかの有名な「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを生み出したのは68年のことである。

創られた「日本の心」神話』(輪島裕介著)にあるように、演歌が現在イメージされる演歌になったのは1960年代以降のことであり、さらにはそれは新左翼的なメンタリティによって創りあげられた部分もあったのである。輪島は78年に発表された「与作」について、「家父長的な男性中心主義」という批判が寄せられたとし、「もちろんジャンル形成時から「演歌/艶歌/怨歌」は強固な男性中心主義傾向を有しており、そのこと自体は批判されうるものであると思いますが、その男性中心主義は家父長的なそれというよりも「家」を放逐されたアウトローのそれ」なのだとしている。泉水が「与作」を好んだというのは偶然ではないとすべきだろう。

北島がパレスチナ解放の支持者であるという思わず笑ってしまうような誤解は、泉水が北島的世界に近かったことから生まれたと考えると、妙にしっくりいくものであるような気もしてくる。



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