『ストロベリー・デイズ  日系アメリカ人強制収容所の記憶』

デヴィッド・A・ナイワート著 『ストロベリー・デイズ  日系アメリカ人強制収容所の記憶』



著者はジャーナリストで、原著は90年代前半に新聞にルポルタージュとして発表されたものに加筆をし、2005年に刊行された。サブタイトルにもあるように、本書は日系アメリカ人の苦難の歴史を扱ったものである。著者はドイツ系であるが、幼少期にアイダホ州のミニドカ収容所の跡地に雉狩りに連れて行ってもらったことがあり、また日系人の友人もいたが、彼らの親が被った強制収容は当時アメリカの学校では教えておらず、このことを知って驚いたという経験も執筆の動機になっているようだ。


1849年、カリフォルニアでゴールドラッシュが起こる。中国人移民は貴重な労働力としてアメリカに迎えられた。しかしゴールドラッシュも終わり、鉄道の整備も進むと労働市場は飽和状態となり、中国人労働者は排斥運動の被害に合うことになる。当時、「アメリカ人のためのカリフォルニアを」というスローガンが叫ばれた。

「白人は優れており、人種隔離が必要だ」という主張が公然と行われ、集会では、「人々は「純粋な人種」や「西洋的社会」たるものを訴え、東洋人は劣った人種であるとして、性的な理由をほのめかしながら、もっとも恐ろしい脅威だと主張した」。

一時はカリフォルニアの人口の10パーセントが中国人となるほどだったが、中国人労働者たちは追い立てられ、その動きは近隣の準州だったワシントンやオレゴンにも広まっていく。一方でこれらの地域は以前として安価な労働力を必要としてもいた。そこで中国人に代わって日本人がやって来ることとなった。しかし日本人もまた、「ジャップを追い出せ」と厳しい迫害にさらされるのであった。

日本人、そして二世たちは苦難に耐え、定着していった。農家出身の移民が多く、アメリカで行われていたのとは違う農法によって貴重な作物を生み出した。タイトルにもあるようにイチゴもその一つで、当時のアメリカ西海岸で流通していたイチゴの多くが日系人の育てたものとなるほどだった。

しかし東洋人全般に対する蔑視と猜疑心は根強く、また日本の膨張主義によって日本人・日系人へのそれはさらに強まった。ついに真珠湾攻撃が起こり、日本生まれの一世はむろん、アメリカ生まれアメリカ育ちの二世も強制収容所に送られることになる。劣悪にして異様な環境の中、日系人たちの間にも意見の相違から緊張が走るようになるものの、志願兵による日系人部隊が結成される。ヨーロッパ戦線では危険な前線に投入され多くの死傷者を出すが、この働きによって日系人に注がれる視線に変化も生じるようになる。しかし第二次大戦終結後に、解放された日系人を待っていたのは右派勢力によるバッシングであった。それでも今回は、心ある人々が立ち上がることになる。

こういった歴史を、ワシントン州ベルビューを中心に、当事者である日系二世へのインタビューを重ねることで、丁寧に描いている。

本書のエピローグでは2001年の9・11が取り上げられている。強制収容所を経験した日系人たちには、またあの歴史が繰り返されるのではないかという不安が広がった。後半で描かれるのは、まさにアメリカという国家の様々な姿だろう。1988年にはレーガン政権によって強制収容された日系人への謝罪と補償がなされたが、これには与党共和党からの反発が根強かった(実行したのがルーズヴェルトであることを思えば皮肉にも思えるが)。その後も共和党からは謝罪や補償への懐疑の声がくすぶり続けたが、これに昂然と立ち向かったのが、アジア系としてアメリカ初の知事となった、ワシントン州知事ゲイリー・ロックだった。このように、汚点といえる歴史を数多く抱えながらもマイノリティーにルーツを持つ人々が政治的に重要なポジションを獲得していけるほど社会の変革が進むのもまたアメリカの姿だ。また中国系のゲイリー・ロックが日系人のために論陣を張り、9・11後に日系人がイスラム教徒に対しての迫害が始まるのではないかと案ずるのもアメリカの姿であろう。しかしまた、アメリカの右派は日系人の強制収容は正しかったのだと言うばかりでなく、当の日系人を保護するためであったのだという修正主義の主張を行うことになる。当然ながらそのような主張は全く実態にそぐわないのだが、歴史的な実証主義などどこ吹く風で、右派論壇内では受け容れられ、これによってイスラム教徒への差別的扱いをも正当化しようとするこのような姿も、アメリカの現実である。

原著刊行時にすでにドナルド・トランプは超のつく有名人であったが、この約十年後に彼がこれほど大きな政治的旋風を巻き起こすことになると想像していた人はまずいなかっただろう。本書を2016年に読んでいてまず感じたのが、19世紀半ばから20世紀前半にかけての差別主義者の口吻がトランプのそれとなんと似ているかということであった。

すでに引用したように、東洋人に対して「性的な理由をほのめか」す主張が行われていたが、トランプはメイキシコ人を「娼婦とポン引き」だと言い放った。また1900年に行われたワシントン州タコマ市では、労働組合が東洋人の排斥を議会に働きかけようとしたが、日本が報復措置に出る可能性があったために取りやめになった。それでも選挙の際には、投票所に向かう人々に「労働者同士よ、注意せよ! 日本人一五〇〇人がなぜタコマにいるかご存じか……ルイス・D・キャンベルがタコマ市長に選出されたあかつきには、日本人は製材所や工場でわれわれ白人の仕事を奪うのだ。キャンベルは雇用主を保護して、そのような暴挙に出る」と訴えた。
トランプはまさに、厳しい生活を強いられている白人労働者に向かって、メキシコ人やその他の移民が仕事を奪うのだと煽り立てている。「アメリカ人のためのカリフォルニアを」という当時のスローガンは、現在のトランプ支持者にとっては「白人のためのアメリカを」ということになるのだろう。

しかしタコマでの排外主義的な訴えは必ずしもうまくいかなかった。何よりも安価な労働力が求められていたからだ。現在のアメリカにあれほどの数のメキシコからのイリーガルな移民がいるのは、安価な労働力として求めている人たちがいるからでもある。一方で排外主義が高まりつつ、また外国人労働者を劣悪な労働環境で搾取するという点では、現在の日本も他人事ではない。移民を入れるのは嫌だが使い倒せる安価な労働力は欲しい、そういった浅ましい発想により「外国人実習生」なる制度が作られ、「合法的」奴隷ともいえる存在が日本にはいるのだが、多くの日本人は見てみぬふりをするという以前に、深刻な人権侵害が頻発している状況に関心すら持っていない。
また東洋人に浴びせられる蔑視や罵声は、現在の日本での在日コリアンなどに対するそれと酷似している。「国民国家」成立以降の差別主義者というのは、時代や地域を越えて同じような発想をするのだろう。

高木俊朗の『狂信』は、第二次大戦後のブラジルで、日本は戦争に勝ったのだと主張する「勝ち組」と日本は戦争に負けたのだという現実を受け入れた「負け組み」との血塗られた争いを扱ったものだが、ここで高木は「勝ち組」が単なる狂信者のみではなく、「利欲」にもまみれていたことを明らかにしている。実は日系人排斥も、単なる人種偏見のみによってもたらされたのではなかった。アメリカ当局の中には、沿岸部に住んでいた日系人を内陸部に強制的に移住させて、戦時で不足し始めていた農業労働力として使おうと考えていた勢力がいた。強制移住はうまくいかなかったが、強制収容者を利用しようと考えた。実際いくつかの家族が、農業労働に従事するために収容所から出されている(収容者からすれば、こんな所に閉じ込められるくらいなら見知らぬ土地であろうが厳しい労働が待っていようが、ここよりはマシに思えた)。

「ジャップを使うのか」と「愛国者」からの反発もあったが、生真面目な日系人労働者はコミュニティにも受け入れられていった。「愛国者」の農場主までもが、日系人に仕事を頼むほどになり、農繁期が終われば収容所に戻すつもりだった当局の意に反して、ある家族はオレゴンに定住することができた。

また第二次大戦後に収容所から解放された日系人がかつての住まいに帰ろうとすると、排外主義運動が起こった。しかし今回は立ち上がった抗議者から、声高に日系人排斥を叫んでいる勢力が、実は日系人がこのまま帰らなければ土地を占有できるなどの個人的利害が絡んでいるのだということが指摘された。日系人部隊の活躍などによって偏見が和らいだという面もあろうが、排外主義を煽る勢力の動機の一端が暴露されたことも、戦後に日系人排斥の声がそれほど高まらなかったことにもつながっているのかもしれない。

このように、アメリカ合衆国における日系人のみならず東洋人の苦難の歴史は、現在のアメリカ、そして日本を含む世界の多くの国の現状を考えるうえでも、広く知られ、考えられ続けられるべきことであろう。


DENSHO(伝承)というウェブサイトで、本書でも証言が使われている人を含む日系人のインタビューを見ることができる。

またジェイ・ルービンの小説『日々の光』も日系人強制収容を扱った小説であり、本書も合わせて読むとより一層理解が深まることだろう。


『明日へ』

『明日へ』




大型スーパーの朝礼の場面から始まる。5年間減点がなかった契約社員のソニが正社員になるための研修を行うと発表された。ソニは息子に正社員になって給料が上ったら携帯を買い換えてあげると約束する。しかし会社はソニを正社員にする気などなかった。人件費削減のために契約社員を解雇して仕事を派遣業者に委託することを決める。突然の通告にこれは違法解雇だと憤り、レジ打ちや清掃を担当していた女性たちは労組を結成する。経営陣は労組の存在自体を認めようとせず、交渉の席にすらつかない。組合員たちはストを決意し、店を占拠するに至るが、警察によって強制排除されてしまう。

パート職員に同情的ではあっても何もできなかった正社員のカンは、経営陣の狙いが契約社員の解雇のみにあるのではなく、正社員も契約社員化して人件費を下げることで会社を高く売ることにあったことを知り、正社員にも組合に加わるよう呼びかける。こうして契約社員たちと正社員の一部が共闘を始めるが、経営陣の強硬姿勢に変化はなく、次第に組合員たちは経済的にも精神的にも追い詰められていく……


韓国で実際に起こった事件を基にした作品であるが、現在多くの国で、そしてもちろん日本でも、まるで自分たちの社会を見ているような気分にさせられることだろう。

冒頭の朝礼の場面で契約社員と正社員とが同僚として並んでいるのではなく、はっきりと上下関係があるかのごとく、あるいは敵対しあうかのごとく向き合っているのは象徴的である。
減点方式で従業員を縛り、減点対象者には食事の時間も削って反省文を書かせるといったあたりは日本の「ブラック企業」を思わせる。また客の理不尽なクレームに対しては従業員を守るのではなく、むしろ屈辱的な仕打ちを労働者に強いるといったあたりもまたそうであろう。

労組の存在自体を認めず、「解雇は会社の権利」などという意見はまさに現在の多くの経営者の脳内を代弁したかのようであり、ついにストが起こりその存在を無視できなくなると、正社員化をエサにしたり、店の占拠に対して高額の損害賠償を請求するなど、あの手この手で分断工作や揺さぶりをかけてくるのも、また少なからず見られる光景である。
団交に応じないのは違法行為であるにも関わらず警察は強制排除を行い、テレビは「中立的」であるかのようでその実企業の言い分を垂れ流しているにすぎない。

課長のチョーは組合活動を始めたカンに対して、独り身は気楽だなと言い放ち、クビを切られなければそれでいいと言う。さらには「クビになる奴には原因がある 仕事ができないとか 会社の迷惑になるとか」と、自身も労働者でありながら、労働者を抑圧する経営者の目線を完全に内面化してしまっている。これは自分は契約社員のあの連中とは違うんだと言い聞かせ、経営者目線にならなければ精神の安寧が保てないせいだとすべきなのかもしれない。そして自分もおびやかされているからこそ、より弱い立場の人間を攻撃し、強い存在にこびへつらうことへとなっていく。

スト潰しのために新たにバイトを雇うのみならず、会社がならず者を雇って直接暴力をふるって組合を攻撃するようになるのは、最早企業の利益に叶うことですらなく、自らに歯向かう人間を叩き潰したいという欲求だけであるようかのようだ。

経営者は契約社員を解雇し派遣業者に業務を委託し、正社員を契約社員化することで人件費削減を図る。これによって財務が好転したと見せかけ株価を釣り上げ、ストックオプションでボロ儲けするというのがアメリカで巨額の富を手にするCEOの手口であり、この作品における経営陣もそれをなぞっている。そして映画では描かれないその後に待っているのは無茶な人切りの結果会社の運営に支障がでるという事態であろうが、巨万の富を得た経営陣にとっては知ったことではない。

そしてこのような見せかけの財務好転によってボロ儲けをする人間はネットワークを作り、社外取締役などの立場を通して自らの同類を企業のCEOなどに招き、その見返りとして自らもそのポストを用意され、濡れ手で粟のごとく富を蓄積させていく。このようなアメリカ発の現象は韓国をはじめ世界の多くに伝播していってしまっている。

そしてまた、就職に失敗して正社員になれず、派遣社員としてスーパーでレジ打ちをしていて、羽振りがよさそうな大学の同窓生と会ってしまいきまりが悪い思いをするというのも、多くの国でおなじみの光景であろう。


カード認証で給食費の納入を確認、管理するというシステムが韓国の学校において一般的であるのかはわからないが、ソニの息子は学校の食堂でこれにひっかかってしまい、逃げるように食堂を後にする。母が残業(もちろんとすべきか、サービス残業であろう)に追われていたため振込みを忘れただけなのだが、同級生の女の子から、金持ちの子は給食費が未払いでも平気で食べている、あなたはバレるのが怖いんでしょ、と見透かされてしまう。給食費の支援申請を出せば、とまで言うこの同級生は、今時この学校でガラケーを使っている子なんてほとんどいないわよ、言う。「あなたと私くらい」。

謎めいた勝気な美少女が完全に「ツンデレ」というやつで、さらには堂々と明るく過ごしているが実は家庭には暗い影が差しており……というのはこの手の女性像のテンプレという感じもしてもしまうが、このあたりも世界共通とすべきなのか。まあ確かに僕もこういうのには弱いのであるが。

そのあたりはともあれ、給食費の支払いにも困り、経済的事情により修学旅行への参加さえ躊躇われるという子どもの貧困とそれを生み出す構造というのもまた、多くの国に見られるものである。
二人はコンビニでバイトをするが、この店主が因縁をつけてバイト代をきちんと支払わないあげくに逆ギレすら起こすというのは、日本の「ブラックバイト」の問題を見ているようでもある。

店主は強く出れば母親も下手に出ると考えていたのだろうが、労組でもまれたソニは不払いを非難し、バイト代を支払わせることに成功する。
ソニはサービス残業も嫌がらずにこなすなど会社への忠誠心も篤く、当初は労組への参加にはためらいがちであったが、労働者が声をあげないことには、見せかけのものを除けば経営者決して労働者に温情などかけはしないということを、嫌というほど学ばさせられることになる。

労組結成を強く訴えたヘミは、かつては別の企業で正社員として働いていた。そこでは妊娠をするとどんなに優秀な社員であっても低評価となり、その低評価は会社が正社員を解雇する口実として使われる。これもまた日本でいう「マタハラ」そのものであり、こういった経験があったからこそヘミはここで労組結成を呼びかけたのだった。

このように、同じ労働者といってもさらに弱い立場に置かれがちな女性たちが率先して立ち上がり、戦う物語でもある。そしてまた、女性であるがゆえの困難というのも描かれる。シングルマザーと夫から働けと圧力をかけられる既婚女性とでは、苦境といってもその表れ方が異なることになる。そして経営者は(あるいは男社会はとしてもいいだろう)そこにつけ込んでさらなる分断を図る。


労働問題を扱った『パレードへようこそ』や『サンドラの週末』と同じように、希望を感じさせつつも、この物語がハッピーエンドで終わることは許されない。そしてそうであるからこそ、ソニのこの言葉はより重く響くことになる。

「数ヶ月前までは あのレジで 黙々と働いていました その私が こうして叫んでいます 大それたことは望んでいません 私たちを見てほしいだけです 私たちの話を聞いてほしいんです 透明人間扱いしないで 私たちを人として扱ってほしいんです 人として扱って欲しい それだけなんです」


なお舞台挨拶の様子を見ると、黄色い歓声が飛び交っている。ソニの息子役はアイドルグループEXOのD.O.が演じているので、そのファンが多く詰掛けていたのだろうか。僕は韓流アイドルには詳しくないものでEXOがどういった存在なのかよくわからないが、「労働者、とりわけ女性労働者を不当に扱う不正義がはびこっているこの社会の現実を直視せよ、労働者は声をあげよう、労働組合頑張れ、労働者よ団結せよ!」とでも要約できる作品に、日本なら大物アイドルが出演することがあるのだろうかとも考えてしまう。

正社員になるために面接を受けまくっては落ちまくり、当初は労組に冷ややかであったが最初に実力行使をほのめかす役の人はどこかで見たことあったなあと思ったら『サニー』のあの子だったのね。社会にセクシズムが溢れ返っているという点では日本もひどいものだけれど、韓国も女性差別は非常に根強いとされている。しかしこういうテーマにも関わらず(あるいはそうだからなのかもしれないが)この他にも有名な女優もたくさん出演しており、さらにはこのテーマを女性監督が撮るという企画にそれなりの予算が出て、きちんとヒットもするというのは、こちらは残念ながら日本の現状ではなかなか見られそうもない光景なのかもしれない。




ドラマ『ファーゴ』シーズン1

ドラマ『ファーゴ』シーズン1



ようやくシーズン1を。このドラマを見た人ならたいていは映画『ファーゴ』を見ていることと思うが、リメイクや直接の続編ではなく、設定等を引き継いでいる所もあるが、ごく一部を除けば基本的には映画が未見でも意味がわからないということはないだろう。

とはいうもののどうしても映画との比較をしてみたくなってしまう。ドラマの評価は高いし、決してつまらないとは思わないものの、個人的には圧倒的に映画の方に魅力を感じてしまう。

映画『ファーゴ』のゲア、あるいはその後継キャラクターとみえる『ノーカントリー』のシガーは、まさに「怪物」という存在である。一方ドラマ版『ファーゴ』のマルヴォは、意図的に「悪魔」として設定されている。ストレンジャーが共同体に入り込み、人々の心の弱さにつけ込んで悪の道へと引きずり込んでいくこととなる。

ゲアやシガーは人間でありながら常人の理解をまるで寄せ付けないようなところに恐ろしさがあるのだが、マルヴォの場合は最早「人間」ではないので、その点では恐ろしさが半減してしまっているし、「実話」という一応の設定からもズレが生じてしまってはいないだろうか。

無表情なゲアやシガーに対してマルヴォは表情豊かであり、それを生かして様々な風体で人に取り入り入り込むことになるし、これもまた「悪魔」であることの証左であるが、どこか滑稽さも漂わせるため、禍々しさが薄れてしまっている。

マルヴォ役のビリー・ボブ・ソーントンはピーター・ストーメアやハビエル・バルデムと比べると線が細く、それを生かしているといえばそうなのだが(ストーメアやバルデムではマルヴォ役は務まらないだろう)、それが魅力的かといえば、個人的にはそうは思えなかった。これこそまさに好みの問題といえばそうなのだが、どうにもここでのソーントンにカリスマ性というものが感じられなかったため、悪役としては物足りなさが残った。コーエン兄弟がドラマ版に実際にとの程度関わっているのかはわからないが、マルヴォの造型はあまりコーエン兄弟っぽくはなかったかなあと思えてしまった。


あと、マーティン・フリーマンは後半で白髪を染めるのだが、急に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の頃のイメージに戻ったように感じられてきて、やっぱり髪の色で人の印象というのは結構変わるのですよね(というか、印象を変えるために染めさせたので当たり前だといわれればそうだが)。最近白髪が増えてきたのだが、どうしたものか……

それから『ベター・コール・ソウル』(2015)を見た後にこちらを見たのだが、14年に作られたこちらろキャストが二人かぶっていた。まあ偶然なのだろうが、一人が別のドラマにも出ているだけなら別にどうとも思わないが、二人となるとなんか気になってしまったりもする。



『ベター・コール・ソウル』シーズン1

『ベター・コール・ソウル』シーズン1




ブレイキング・バッド』で途中登場ながらその強烈なキャラクターで重要人物となった弁護士ソウル・グッドマンを主人公にした、『ブレイキング・バッド』のスピン・オフ作品。

物語はソウルがウォルターたちと出会う前、冴えない弁護士ジェームズ・マッギルがいかにして「ソウル・グッドマン」となっていくのかが描かれる(と思うが、シーズン1ではまだソウルになってないが)。

『ブレイキング・バッド』は大傑作であると思うが、個人的な好みでは初期のウォルターとジェシーの凸凹コンビ感をもっと長く見ていたいようでもあった。『ベター・コール・ソウル』も基本的には『ブレイキング・バッド』のテイストを引き継いでおり、おなじみのブラック・ジョークも満載であるが、ソウルというキャラクターを考えると、あまり重いものを背負わせずに口八丁手八丁でこの世を渡り歩くような設定の方がよかったかなあという感じもしなくはなかった。

本作はまた同じく『ブレイキング・バッド』の重要登場人物であるマイクの前史ともなっている(過去の話なのに年とってしまっているように見えてしまうのは、まあ仕方がないか)。ソウルにしてもマイクにしても、『ブレイキング・バッド』ではおそらくはキャラが立ったことで当初の設定よりもインフレしていったのだろうが、ドラマを牽引していくということを考えると致し方ないのであろうが、スピンオフ作品では深遠な人間ドラマに仕立てるというよりも、スラップスティック色の強いコメディにしてもよかったのでは、とも思えた。

もっともこれはあくまで個人の好みで、やはり『ブレイキング・バッド』を作ったのは伊達ではなかったというのを見せ付けてくれるし、『ブレイキング・バッド』のファンなら見て損はない出来になっているだろう。

『海軍の日中戦争  アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』

笠原十九司著 『海軍の日中戦争  アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』




「パナイ号事件」を中心に「海軍善玉論」の実態を明らかにした『日中全面戦争と海軍』をさらに進め、1920年代から英米との戦争に突入するまでの海軍の「自滅のシナリオ」が扱われている。

「はじめに」で、「海軍反省会」と題された座談会から豊田隈雄の証言が引用されている。豊田は「陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた。敗戦の責任は五分五分である」と語っている。

「知能犯」の中には豊田自身も含まれるべきであろう。豊田は日独伊三国同盟が締結された直後に駐独日本大使館付武官補佐官として敗戦まで勤務し、「太平洋戦争中、ドイツに駐在して連合国との戦闘や作戦に参加していないことで戦犯として起訴される恐れがないことから、日本の敗戦直後に、海軍の極東軍事裁判(東京裁判)対策の中心となった」。

東京裁判において嶋田繁太郎の極刑を回避するために、口裏あわせや証拠隠滅を行い海軍上層部の責任が追求されないよう図り(「上を守って下を切った」とされるように、捕虜の殺害などを現場の独断であるかのように見せかけることで、「BC級戦犯裁判による海軍の将校・下士官の死刑者は二〇〇名であったのに対し、艦隊司令官以上の死刑はゼロであった」)、米内光政とマッカーサーとの「談合」により東条英機ら陸軍に全責任を負わせることに成功し、メディアなどを使って「海軍善玉論」を作り上げた。その中心的役割を果たした一人が豊田だった。


1920年代前半から海軍は国際協調を重視する勢力と、ワシントン会議において主力艦・空母の保有量の対米七割という主張が通らなかったことを恨み、巻き返しを図る勢力との二つの立場に割れていた。後者はワシントン会議で世論を味方に引き入れることがでいなかったという「教訓」から、ロンドン軍縮会議を控えて言論機関や実業界などへ働きかけを積極的に行い、「対米七割の維持は絶対に譲れない、という異常なまでの世論固め」を行った。

「海軍善玉論」において米内などと並んで英雄視されることが多い山本五十六はロンドン会議の次席随行員を務めていた。『両大戦下の日米関係』(麻田貞雄著)によると、山本は「条約派」と見なされてきたが、実態は若槻などの全権を「はげしく突き上げ」、「日本の主張が認められない場合は」、「不祥事を惹起する」と「不気味な警告」を発するなど、「下克上的な強硬発言」を行っていた。
このように海軍の「自滅」の先鞭をつけた一人が山本であった。また下野していた政友会は「統帥権干犯問題」を持ち出して浜口内閣を攻撃したが、これは政党政治にとっても「自滅」であった。こうして日本は自滅の坂を転がり落ちていく。

「満州事変」後に陸軍の予算が一気に増加したことから、海軍も機会を窺っていた。盧溝橋事件以降日中が全面戦争に突入していく状況は渡りに船だったどころか、全面戦争へと引きずり込んでいったのが他ならぬ海軍であった。その渦中に起こったのが「大山事件」である。著者は『日中全面戦争と海軍』において「あたかも和平工作を粉砕するための謀略であるかのように大山事件が発生した」としていたが、その後発掘された資料や証言から、本書においてこれを一歩進め、海軍による謀略であったと結論づけている。死亡した大山注意は「お国のために死んでくれ、家族のことは面倒見るから」と「密命」を受け、あえて丸腰で殺害されたのだとしている。この著者の主張の妥当性について評価する能力は僕にはないが、「トラウトマン工作」の打ち切りなど海軍が主導的な役割をはたして日中戦争を拡大させていったことは確かとすべきだろう。

予算獲得と並んで海軍のもう一つの目的が、来るべきアメリカとの戦争への備えであった。航空経力・兵員の拡充を図るとともに、重慶などへの執拗な空爆、あるいは「援蒋ルート」の遮断を名目とした鉄道などへの爆撃は、新しい戦争の形である航空戦への実戦訓練でもあった。

それにしても理解し難いのは、資源の大部分をアメリカからの輸入に頼りながらアメリカを第一の仮想敵国とし、実際にアメリカとの戦争に転がり込んでいったことである。やはり「海軍反省会」において高田利種は、「南部仏印進駐で、あんなにアメリカが怒るとは思っていなかった」としているが、この結果在米日本資産の凍結と対日石油全面禁止ということになる。極度の自己中心的考えがこびりつき、根拠のない楽観主義に支配されたことで、まともな情勢判断ができなくなっていたのは陸軍だけの話ではない。

盧溝橋事件後、石原莞爾は不拡大方針であったが、拡大を試みる勢力から石原が中心的役割を果たした「満州事変」を持ち出されて反論できなかったというのは、歴史の皮肉というよりも底なしの愚かさの表れとでもすべきだろうが、このような「下克上」は陸軍のみならず海軍も支配していた。
真珠湾攻撃で第一空艦隊の空中攻撃隊の総隊長を務めた淵田美津雄は戦後に、「二十六日に出発したときは、司令部の方では戦争がはじまるかどうかが、まだ分からない状態だったらしいが、われわれとしては百パーセント戦争だと思っておったね。あのとき戦争はやめだといって引き返したら、長官を海にでも放りこんでやろうかと……」と語っている。

「これまで、対米決戦にそなえて猛烈な訓練を重ねてきた海軍各部隊の将兵たちの戦意は非常な高まりを見せ、その勢いは、日米戦争反対者も少なくなかった海軍中央にはもはや制御不可能になっていた。もともと日米戦争には反対であった山本五十六連合艦隊司令長官もその勢いに乗る以外に術がなく、海軍の最高指揮官として「自滅のシナリオ」の道を突きすすんだのである」。
山本もこの好戦的空気を作り上げた張本人の一人であったことは既に述べた。


本書を読んでいて憂鬱にさせられたことの一つは当時の新聞報道である。大山事件発生直後の読売新聞1937年8月11日の夕刊には、「冷静な我陸戦隊」「支那自らが危局を招」(本書に載っている写真はここで切れているが、「招く」か)と見出しがつけられている。近年でも中国や韓国との摩擦や、あるいは捕鯨問題などでも、「冷静に対応する日本、それに対し……」という紋切り型は依然として右派系のみならず少なからぬメディアで用いられているが(おそらくは外務省がブリーフィングや記者レクでこういった方向へ誘導しているのだろう)、こういった過去と照らし合わせると、本質的な部分で日本という社会に本当に変化があったのだろうかという疑念を抱かざるをえない。

本書ではやはり海軍が中心となった海南島占領についても一章が割かれている。これについてフランス、アメリカが懸念を示すと、1939年2月に日本は軍事的野心はないと回答した。しかし同年3月には、フランス大使を外務省に呼ぶと、「三九年三月三〇日付けで南シナ海に浮かぶ約一〇〇の小さな珊瑚礁の島々からなる南沙群島(スプラリー諸島)が日本の領土であることを宣言し、台湾総督府の管轄に編入したことを通告した」。

このあたりの地域が領有権問題を抱えているというのは昔からのことであるのだが、とりわけ日本においては、日本のこういった歴史的経緯もふまえなければならないはずだが、主要メディアにおいてこういった視点が完全に抜け落ちているというのも、戦後の日本が依然として「大日本帝国」と地続きであることを表しているかのようでもある。



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Author:佐藤太郎(仮)
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