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『芹沢光治良戦中戦後日記』

『芹沢光治良戦中戦後日記』






作家であれ政治家であれ学者であれ、その伝記を書くうえで第一級の資料となるのが日記である。公認、あるいはそれに近い立場で伝記を書く人は日記の閲覧を許されるという特権を享受できることが多い。当人や遺族が蔵書や原稿、書簡などと共に日記を大学等に寄贈することもある。日記は広く公開されることもあれば制限付きのこともある。また日記の存在が知られていながら遺族の意向によって一切の閲覧が禁じられてしまうという事例も少なからずある。

他人事としては、亡くなってすぐに公開せよとは言わないが、日記をつけていた人物と同世代の人がほぼ物故するほど時が経てば公共性を鑑みても公開すべきだと思うのだが、いざ当事者となればそう簡単に割り切れるものでもないのだろう。

『芹沢光治良戦中戦後日記』はタイトルの通り芹沢光治良の1941年から47年までの日記が収録されている。芹沢は詳細な日誌を付けていたようだがこの多くは空襲で焼失してしまったものの、それでも疎開先に持ち出していたノートがいくつか残った。


1941年12月26日にはこんな記述がある。

「子供四人もあって、なお、この妻[金江]と結婚すべきではなかったと思うのは悲しいことだ。香港夜七時降参」。

42年5月11日にはこうある。

「家庭内のことにとらわれてはいけない。彼女には彼女の行き方があり、私と結婚したので不幸になったと思っているのであり、あわれと思うべし。何ももとめてはいけない、もとめるから不平が出るのだ」。

こういった記述は孫の世代でも心穏やかに読むことはできないだろうし、こういった赤裸々な心情吐露を公開するのは躊躇われると考える遺族がいるのも無理はないとも感じてしまう。

幸いにも芹沢の場合はこのように日記は広く公開された。日記には、いつの日か人目に触れるのを意識して書かれたものと完全に私的なものとして書かれたものと二種類ある。芹沢の場合は小説のネタを意識していたところもあったのかもしれないが基本的には後者であったのだろう。それだけにここに書かれているのは本音とすべきであろうし、それによって興味深いものになっている


42年4月27日は、親しくしていた安田晃の戦死の報を受けこう書いている。

「戦争に参加することのみが、愛国的だと考えられている。個性をなくすことが、国家を強くすることだと考えている。真理とか学問とかが忘れられた悲しい時代である」。

同年5月3日にはこうある。

「新聞はもう国民の声を伝えずに、政府の声のみ伝える。/新聞は対外宣伝機関に化した。政府の御用をつとめることに汲々としている。新聞も統合や用紙のことで政府におどかされているのであろうが、もう新聞の使命は終わった。今度の選挙の結果についての論説や報道は新聞人はどんな心でしているのであろうか」。


こういったところを引用すると、この日記にも登場する清沢洌の『暗黒日記』のように、暗い時代を生きた知識人が時流に流されずに冷徹な目で社会を記録したものと思われるかもしれない。確かに芹沢はファナティカルな日本主義に陥った様子はない。一方で強い反戦の意識がないどころか、日本の勝利を願う「普通の日本人」といった趣なのである。

『評伝芹沢光治良』(勝呂奏著)によると芹沢は家庭環境に恵まれず苦学してのことだったが、学歴としては一高から東大経済学部に進んだ。農商務省の官僚となり、フランスに留学するがここで結核を得て、この体験を小説として書き作家となる。貧しい生立ちであったとはいえ経歴的にはエリートコースを歩んだがゆえなのか、にもかかわらずとすべきかはともかく、フランス語にも通じている芹沢がこの状況にあって「普通の日本人」とでもすべき反応に陥ったというのは、今日でも深く考えてみるべき事例であろう。


1943年7月1日にはこうある。

「時計のとまるほどの地震あり。(二時五分前)この地震がもう少し大きかったら。大東亜戦争も負けになるところだった。市電は停りたる由。但し地震についての発表はなし。神様、日本をお守りください」。

すでに書いたように芹沢はこの日記がそのまま人目に晒されるのを意識していたのではないだろう。それだけにここも本音であったと解釈すべきだろう。

同年7月7日には「支那の変から六周年だ。日本もよく頑張り続けている」と、中国への侵略に批判的な視線は感じられない。


10月31日にはこうある。

「昨日発表された日華同盟のことで、新聞は全面をうずめている。ロシアドイツ戦線の模様も、ニューギニア戦線も皆目分からない。日華同盟は新聞の奉ずるように景気のよいものではなく、日本の一歩退歩ととれなくもない。支那事変のために戦死した人々の英霊は安んじられるものであろうか」。


そして11月5日にはこうある。

「大東亜会議のあることが発表になった。支那事変以来さまざまな苦労をへたが、ここまでたどりついたという感慨である。ここへ来て、勝ちぬかったらと、それを思う。ただ、今日三時に発表されたブーゲンビル島沖海鮮は、大東亜会議にためにあげた花火のようで目出度し。しかし米国の戦意の旺盛なことも反面分かって、悲しい」。


戦争への疑念にはまったくかられておらず、それどころか「ここまでたどりついた」以上は戦争に勝たねばならぬと決意を新たにしているかのようだ。


芹沢はファナティカルな日本主義に陥ったわけではないものの、戦争を無条件で支持し日本の勝利を願うという点で「普通の日本人」であるかのようだとしたが、このかつてエリートコースを歩んだ知識人は「普通の日本人」より遅れを取りさえしたのかもしれない。


1944年11月29日にはこんな記述がある。

「今日も心配なり、七時まで空襲なし、飯田橋に行く。総ての人が防空服装である。飯田橋の駅で電車を待っていると五十がらみの紳士、鉄かぶとを肩にして話かく。「今日もありませんでしたね。空襲を待つようになっては敗戦ですよ。これもサイパンを取られた東條の奴のおかげですよ。あいつは東京に今でもいるそうですが、よく切腹しないでいられますよね」と。私は答えることを知らず。そばの四十ばかりの女が「そうです、サイパンを取られたのは東条さんのせいです。東条さんは自分一人で戦争しているつもりで油断したんですよ。東京が空襲されたら日本は負けですよ」と」。


この時点ですでに「普通の日本人」の中には「空襲を待つようになっては敗戦ですよ」という意識が生じていた。反戦はおろか厭戦気分とも異なるものであるが、東條英機をはじめ指導層への不満も増大していたのが伺える。清沢も『暗黒日記』において庶民がかなり正確に戦局情報をつかんでいたことを記していたが、芹沢はむしろどうもそのあたりを掴み損ねていたようにも映る。「政府の御用をつとめることに汲々としている(……)新聞の使命は終わった」とした芹沢がプロパガンダの全てを真に受けていたのではないだろうが、日本の勝利を願うだけでなく疑わないその心理が目を曇らせたのかもしれない。

芹沢は対英米戦開始後もゴルフに行っているし、またレオ・シロタなど経済的に行き詰まりつつある日本に残った外国人からピアノを買うべきか否かに頭を悩ませるなど、当人としては苦労しているつもりであろうが、社会階層が上昇しその世界にすっかりなじんでいるようであり、それゆえかえって戦局の悪化に反応できなかったのかもしれない。


芹沢一家は1945年4月に軽井沢に疎開する。慣れない農作業などに苦労するのであるが、ここでの記述もなかなか興味深い。


1945年5月12日~16日にはこんなところがある。

「小諸在の岩崎さんという若い百姓が自転車で寄った。長女が林檎を買い出しに行く家である。何か食糧をわけてもらえるかも知れないと思うからか、歓待した。その若い農夫が突然言った」。

「東京では昔の左翼はどうなっていますか。私共も新築地の人々を招いて芝居を見たり、徳永直から話を聞いたりしましたが、今こそあの人々が話していたような時代にきりかえられる時になりましたが」

「私は答えに窮した。というよりも、この農村にはこんな風な空気がかおっていることに驚いた。そう言えば、和夫君の学生のなかには、僕達は戦争に勝っても負けても同じ百姓になるのだからと言っている者があったとか。岩崎さんがそう言った時の表情は、思想運動が東京に起きているのを待望しているようであった」。

「「それどころではない、日本は勝か負けるかの瀬戸際で一億一心それに夢中になっている時だから」と私が答えるのに、冷たい微笑をうかべて、「地下にそんな運動はありませんかね」と、私に失望しているらしかった。この人からもう野菜の融通をしてもらってはいけないと、後で家人に語ったが」。


小諸在住の若い百姓が、東京の左翼運動はどうなっているのかと訊ね、芹沢はこれに「それどころではない、日本は勝か負けるかの瀬戸際で一億一心それに夢中になっている時だから」と冷淡に応じ、食糧難に苦しんでいるのに「この人からもう野菜の融通をしてもらってはいけない」と家族に命じたのである。

もちろんこの「岩崎さん」は平均的な人ではないのだろうが、農家の中にも左翼へ期待をかける人がおり、これに都会の知識人が慄いている


6月19日にはこうある。

「小山大人の話ではこの沓掛でも思想が悪化しているから、K大人が自動車で来たというようなことを言ってはいけないとの話だ。二三日前修練道場の主にお会いしたところ、青年がこの戦の後には面白い時代になると言っていたそうだが、その面白い時代というのが、共産主義のことであると。日本がロシアの仲介でこの戦局を切りひらいて行くのは、結局日本もソビエトの一連邦であり、すでに経済的にも社会的にもソビエトになっているという。我何をか言わんや。嘗て転向した人々は再転向する日があろうか。ばかばかし」。


芹沢は近衛文麿と同世代であるが、立場が立場なら、「近衛上奏文」のようなものを書いていたのかもしれない。皮肉なことにというか、ソ連の仲介に望みをかけたのは他ならぬ近衛文麿であったが、近衛といえば5月23日にこんなところがある。


「近衛公が来るから今日は浴場は休みだという。近衛公の来ることを星野では光栄に思っているらしいが、実は星野が近衛公の妾宅になっているのだ。新橋に出ていた女で色めがねをかけているとか。水道の出なかったことも、女の用心棒が公の留守中所在なくしていることなども私の耳にはいった。そう言えば銃数日前に帽子を目深にかぶった公が夕方家の前を観月台の方へ行った。気の毒なことに電柱のように背が高いから帽子で顔をかくしても公だということはよく分かった。しかし、星野が公のおしのびを宣伝するように、浴場に客を入れないことは、公のためにおしむよりも、民心を刺激する点でよくない。青年は特攻隊で生命をかけている時、戦争の責任者たる公が女をここにかこって、密会するとは、と、家の青年も憤慨している。入浴できずに夕方家へ帰る佐久木工の学童は「近衛さんがなんだい。おかしいやい」といやしく笑い合ったとか。早熟な田舎の学童は事実を知っているのだ。日本をここに導いた責任者が口では特攻精神など立派に説えながら、如何に生活上ぐうたらか、近衛公の場合はその一例を拙く示したのにすぎない。目と鼻の先の軽井沢には別荘があって、ここに女をかこっておかなければならないとは愚かな者だ。軽井沢の藤屋が女の定宿だったとか。不幸にして星野は温泉場であり周囲に別荘があるので、目が多かった。藤屋が定宿の頃には、女が変ったこともあったとか。戦争の不幸に人みな歯をくいしばっている時、国家を代表するような人物の私生活は、人々の目を惹くものだ。こうした人物には私生活がなくなっている筈だ。何となれば民は総て私生活をなくしているのだから」。


近衛が軽井沢に「女をかこって」おり、戦局が悪化しているこの状況でなお特権を行使して会いに来たのを批判しているのであるが、「日本をここに導いた責任者が口では特攻精神など立派に説えながら、如何に生活上ぐうたらか」とあるように、特攻を批判するのではなく指導層の堕落を嘆いているというところに、当時の芹沢の限界が見える。


6月5日にはこうある。

「国民学校が真面目に勉強しない。そら遠足、そら歩行会、そら勤奉と勉強時間がないのに、今日は又運動会だという。而も本校の方では明日から十九日まで、学園の方は十日から九日間、田植休みだという。こんなに不勉強でよいものか、戦争だからと、何事もおこたってしまったら、「小国民」が支那の子供よりひどくなってしまうだろう」

勉強そっちのけで遠足やら運動会やらにあけくれ、さらに農作業に子供が狩り出されているのを憂いているのであるが、中国人への蔑視がさらりと現れるのは、やはり「普通の日本人」という感じがしてしまう。


8月15日には、「晴れて穏やかな無風の日なり。されど悲し、十二時の陛下お自らの詔書をラジオを通じて国民にのたまう。広間で聴く。一同泣けり。力なし」とある。少なからぬ知識人がこの日解放の気分に包まれたのだが、日本の敗戦を芹沢は「悲し」んだのであった。

8月18日にはこうある。

「東久邇宮殿下の内閣成る。近衛公が国務大臣として参加したのは意外である。大東亜戦争の責任者として切腹すべきであるのに。重慶を相手にせずと近衛声明を発表したが彼がどんな顔で蔣[介石]と会うつもりか。彼の如き男は結局国民の感情は分からない」。


国の舵取りを誤った近衛がのうのうと復帰したのを批判しているのであるが、一方で自分がこの戦争をどうとらえてきたかについての反省的な視線はあまり感じられない。


「大工来たる。負けても四五年たったら必ず戦争してみせる。武器はなくてもくんれんはするんだと頑張っていた。皇后様の警備に兵隊があたらなくなったので警防団が代わるために仕事ができないとも言っていた」。


先の「岩崎さん」も例外的なら、この大工も平均的な反応ではないのだろうが、またこういった人が少なからずいたのも事実なのだろう。


言うまでもなく、芹沢をあげつらうのを目的としてこんなことを書いたのではなく、芹沢ほどの知識人でもこのようにしか反応できなかったというのを苦い教訓として噛みしめ続けなければならないためである。このような日記はそのための貴重な資料であり、こういった日記が広く公開される意義は大きいのだということが実感できる。



高見順 『敗戦日記』

高見順著  『敗戦日記』





昭和20年1月1日から同年12月31日までの一年間の高見順の日記。まず目につくのが文庫で約450ページというその厚さである。しかもこれでも抜粋。この年は特に多かったようだが、この一年に限らず、高見は膨大な量の日記を日々つけていた。

「「あとがき」のあとがき」で妻の高見秋子は「ひまさえあれば机の前に坐りこんで、ノートにちくちく書きこんでいる高見のうしろ姿を思い出します。/せっせと日記を書いている時の姿です」として、中村真一郎の「作家の日記――高見順日記の面白さ」からこんな引用をしている。

「高見さんの場合も、執拗に日記をつけつづけた根本衝動は、やはり「書き魔」とでも名づけるより仕方のないデモンを、精神のなかに生まれつき棲まわせていて、そのデモンがたえず頭を擡げてきた、ということなのだろう」。

解説で木村信一は、高見が陸軍報道班としてビルマに行った際のこんなエピソードに触れている。「かつて、「徴用」でビルマ戦に従軍し、危ない目にもあったがラングーン(現在のヤンゴン)の「戡定」がなり、生活に落ち着きを取り戻した頃、同じ「徴用」の仲間たちは無聊に苦しみ、句会やテニス、麻雀などにうつつを抜かしていた。高見はそれらに加わらず、ひたすらとり憑かれたように日記を書いていたことがあった。そのことについて高見は、「ひとたびつけはじめると、義務感もまたそこに生じて毎日きまって、いやでも書く」(「日記」 一九四二年十月五日)と述べている」。


ビルマといえば6月12日にこんなところがある。

倉島竹二郎がやって来て、「彼の話では、オン・サン少将がビルマで一番先に裏切りをやったという。あのオン・サンが?――ビルマにいた時分私たちの一番信じていた人である。バー・モーよりも信じていた。が、私の胸には、怒りはなかった。――日本人が結局駄目なのだ。そういう想いに落ち込んで行った。オン・サンに裏切られた私たちの悲しみより、日本を裏切らねばならなかったオン・サンの悲しみの方がずっと深く強いことだったろう。そう思われた」。

この「オン・サン」とはアウンサンスーチーの父、アウンサンのことである。

ここは当時の高見をよく表すところだろう。「日本人が結局駄目なのだ」としているように、日本のやることなすこと全てを無批判に肯定しているのではないが、同時に日本による侵略への批判的視点は薄い。

高見は血筋としては永井荷風の縁者にあたるが、有力者の婚外子で母子でみじめな暮らしを強いられたという生立ち、そして東京帝大卒の「左翼くずれ」であるなど、平均的日本人像などではない。しかしこの日記を読むと、高見の反応や生活というのは「平均」などではないが、「普通」のものだったのではないかとさえしたくなるところがある。

清沢洌は愚行の記録を残すのだという明確な意識のもと『暗黒日記』を残した。反帝国主義、反軍部、反戦の強い信念を抱き続けた人々は日本にも確かに存在していたが、数のうえではごく少数であったとすべきだろう。また神がかり的日本主義に陥った人々もいたが、これも圧倒的多数派であったのかといえばそうではないだろう。高見は軍上層部や政治家などに不満と不信を抱き、権力に阿諛追従する新聞を批判しているが、同時に粛々と銃後の生活を送り、戦争協力への拒否感がないどころか日本の勝利を願い続けている。





敗戦後の8月16日にこう記している。「私は日本の敗北を願ったものではない。日本の敗北を喜ぶものではない。日本に、なんといっても勝って欲しかった。そのために私なりに微力はつくした。いま私の胸は痛恨でいっぱいだ。日本及び日本人への愛情でいっぱいだ」。

とりわけ知識層においては敗戦を解放だと胸をなでおろした人たちもいたが、高見はそうではなかった。そして多くの日本人が高見と似たような反応であったのだろう。

この日記は高見が鎌倉の「文士」たちと始めた貸本屋の「鎌倉文庫」についてをはじめ、鎌倉に住む小林秀雄や川端康成らとの交友、そして足しげく東京に出ては文学報国会の会合などに参加するなど戦争末期の「文士」の日常がわかるものであるが、それだけでなく、あえてこの表現を用いると「普通の日本人」があの一年をどう過ごしていたのかの記録としても読むことができる。


2月13日にはこうある。高見は国際通りのある店に入った。そこで客は「昆布茶を飲みながら、あられ(唐もろこしの実を煎ってふくらませたもの、はじける時にパーンと大きな音がするので「バクダン」ともいう)をボソボソ食っている」。

ちょっと調べてみたところポップコーンは昭和初期にはすでにそれなりに広まっていたようだが、高見が日記に註釈めいたものをわざわざ書いているところを見ると誰でも知っているというほどではなかったのかもしれない。

この頃の街の雰囲気がどのようなものだったかというと、「なんとなく街を眺めていた」ところ、「筋向いの店屋に「獣米を屠殺せよ」と書いた札が貼ってある。「獣米」に「ケダモノアメリカ」とルビが振ってある。セルロイドの湯桶を持った女が小走りに私の前を行く。反対の方から顔を赤く上気させた家族がやってくる。風呂屋が近くにあるのだ。風呂屋を目指してあわただしい空気が流れていた」。

「鬼畜米英」のスローガンが踊る一方で粛々と日常の光景が続いていた。


4月9日には在郷軍人会から動員がかかり、「円覚寺の竹やぶへ入って、竹を切ることを命じられる。ただし私は、かんなを持って行くのを忘れたので、他の人たちがせっせと竹を倒すのをぼんやり見てなくてはならずバツが悪かった」。

「「一本は実戦用で、一本は練習用の竹槍です」と班長がいった。「実戦用はさきを尖らせて、油を塗って置いて貰います。これは家に用意しておいて、いざという時以外は濫りに持ち出さぬよう。練習用はさきを尖らさず、そのままにして使う。危険ですからさきを尖らせません」」。

同日にはまたこうある。「三木清が検挙されたという。はじめて聞く話だ。疎開先から何かの用事で東京へ来た時、ちょうど当局の手がのびて拉致されたというが、疎開ということから察するに別に何かやっていたとも思われぬ。過去の思想傾向、友人関係などから罪を問われたのである」。


4月18日には「沖縄に、戦果が続々と挙がっている。/空母等廿二艦船を撃沈破」とある。5月16日には「沖縄が危なくなった。沖縄は大丈夫だろうと思っていたのだが」とあることからも、4月中旬の段階では沖縄戦が日本優位に進んでいると本気で信じていたのだろう。

では正しい情報が全く得られなかったのかといえば必ずしもそうではなかった。ジュネーブ電などでヨーロッパ戦線の情報はかなり正確に伝えられていたし、そこから太平洋戦線についても推測は可能であり、実際にそれなりに情報を掴んではいるのだが、願望が先行してしまってか情勢判断が正しくできなくなっていたというところもあったのだろう。

同じく5月16日にこうある。「ラングーンが、これで(註=朝日の戦局解説記事)見ると、落ちている。すでに新聞に出ていたのかもしれないが、気がつかなかった。新聞は毎日かなりていねいに見ているのだが、出ていたにしても、見落とすような小さな扱いだったのだろう」。

「大本営発表」が翻っていたのであるが、同時に新聞を「ていねいに見て」いればかなりの情報は得られた。しかし「新聞は毎日かなりていねに見て」いたはずの高見も、願望のせいではないのかもしれないが、見落としも多かったのだろう。

5月9日には「ドイツ遂に無条件降伏」とある。「次から次へと事件がおこるので、神経がもう麻痺している。鈍くなっている。そういうところもあるだろう。自分の家が危ういときに、向こうの河岸の火事にかまっていられない。そういうところもあるだろう。それに――私はどうも、ヒットラーが好きになれなかった。英米の謀略宣伝にかかているのかもしれないと充分に反省するのだが、ナチというのが神経的に嫌いだ。これは、私だけではないようだ。大方そんな感情のようだ。ドイツが遂に倒れたと聞いても、同情と傷心をそう感じないのは、そんなせいもあるようだ。しかし、ドイツの国民はかわいそうだ」。

『文学部をめぐる病い』(高田里惠子著)にあるように、日本がナチス・ドイツとの関係を深めるとドイツ文学者をはじめナチスを礼賛する人が続出した。一方で「大方そんな感情のようだ」とあるように、高見と同様に「ナチというのが神経的に嫌いだ」という知識層も多くいた。ただしここで注意すべきは、これは必ずしも思想的にナチスに反発したというよりそのポピュリズムなどに嫌悪感を持ったというだけのことが多く、この手の人は大日本帝国とナチス・ドイツの類似と差異に対する批判的検討を行うことがない傾向がまま見受けられ、また戦後においては、日本のやったことはナチスとは違うので同列に扱うなといった日本の免罪論を繰り広げる人も多かった。






7月18日に「この頃はもう朝から晩まで警報が鳴りつづけている」とあるように、戦局が絶望的であるのは取り繕いようもなかった。そのせいか新聞の投書欄に大きな変化があったようだ。

7月22日にこんな投書が引用されている。

「報道陣や指導者にお願ひがある。「神機来る」「待望の決戦」「鉄壁の要塞」「敵の補給線」等々、何たる我田引水の言であらう。かかる負惜しみは止めてもらひたい。もうこんな表現は見るのも聞くのも嫌だ。俺達はどんな最悪の場合でも動ぜぬ決意をもつて日々やつてゐる。も早俺達を安心させるやうな(その実反対の効果を生む)言葉は止めてくれ。/敵に押されて来たら素直にそれをそれとして表現してもらひたい。その方が日本国民をどんなに奮起さすかわからない。狭い日本のことだ。老若男女多少の差はあつても皆なとことんまでぶつかる覚悟だから、見えすいた歯の浮くやうないひ方はやめた方がいい。ある駅頭のビラに「神風を起こせ」とあつたが、神風は人間が起こすものだらうか。神機神風の文字の乱用戒むべきだ。俺達はもつと慎み深い日本人の筈である」。

またこんな投書もあった。

「日本が勝つために我々は永い間困苦に耐へてきた。これから先もどこまでも耐へて行く決意をきめてゐる。それにつけても情けないのは日本の政治家が日本人らしくないことだ。食糧事情において兵器事情において誰一人として出来なかつたことの責任に日本人らしく腹を切つた政治家がゐないではないか。「私はかく思ふ」「切望する」「考慮してゐる」等々、後難除けの言葉はきまつてゐる。我々は最後まで戦ふ。政治家も日本人らしく闘つてくれ」。


2021年にここを読むと、「後難除けの言葉」の決まり文句ばかり述べたて責任を取ることのない政治家は「日本人らしくない」どころか、「これぞ日本人」という感じがしてしまうのであるが、状況ここにいたっても「我々は最後まで戦ふ」というのは本音なのか、それともこう煙幕をはることで不満を表そうとしたものなのか、どちらであったのだろう。

この投書の後高見はこう続ける。

「今まではかかる輿論の公開を許されなかった。許され方が遅かったと思う。いつか民衆の取締に当たっている者が防諜に関して「三猿主義」を取れと民衆に説いているのを新聞紙上で読んで、驚き且つ憤慨した。見ざる聞かざる言わざるがよろしいという。無関心たれと言うのだ。そうして一方で民衆に忠誠心を要求する。民衆に無関心を要求し一方で協力せよと言っても無理である」。


「民衆に無関心を要求し一方で協力せよと言っても無理である」とは現在の日本にそのまま当てはまるかのようである。戦時下の日記などを読むと、あの頃はとんでもない時代であったというより、日本の変らぬ姿を見せられているという気分にさせられることが多い。この日には「ヴァレリー逝去の記事あり」とあるが、特に感想は記していない。占領下のフランスで精神的支柱となったポール・ヴァレリーについて当時の高見はどう思っていたのだろうか。

またこの日は「四十二、三」歳の「中野重治の応召を聞」き、「どきッとした」ともある。当時高見は38歳であったが、同世代どころか年上さえ兵に取られるようになっていた。


8月2日には「ヒロポンのんで徹夜」とある。「一日の大本営発表が新聞に載っているが、発表の最初に「戦備は着々強化せられあり」とある。それについて毎日が「軍に毅然・大方針あり」と提灯記事を書いている。昨日は読売が同種の記事を掲げていたが。――ところが、毎日は提灯記事の隣に社説を掲げている。「民意を伸張せしめよ」「知る者は騒がぬ」ひかえ目ながらここで注文を出している。国民はもはや、提灯記事、気休めは読まぬのである」。

8月10日に鎌倉文庫の店に行くと久米正雄の妻と川端康成の妻がいて「戦争はもうおしまい」と言った。「表を閉じて計算していたところへ、中年の客が入って来て、今日、御前会議があって、休戦の申入れをすることに決定したそうだと、そう言ったというのだ。明日発表があると、ひどく確信的な語調で言ったとか」。

この人物が何者かも、単に噂話を耳にしただけなのか、特権的地位にあり実際に何か情報を掴んでいたのかもわからないが、こういった話は少なからず囁かれていたのだろう。久米の妻は「休戦、ふーん、戦争はおしまいですか」とし、川端の妻も「おしまいですね」とあっさりしたものだった。「あんなに戦争の終結を望んでいたのに、いざとなると、なんだかポカンとした気持ちだった」。

日本の勝利を願い信じていたはずの高見が「あんなに戦争の終結を望んでいた」としているのは、この時点ですでに敗戦を避け難いものと覚悟して無意識のうちに心理的軌道修正を始めていたのかもしれない。

小島政二郎の家にこれを伝えにいくと、「たった今、ラジオで阿南陸軍大臣が徹底的に戦うのだといっていたぜ」と教えられる。

高見は電車で家に帰った。すでに原爆は投下され、ソ連も参戦していた。これらは新聞でも報じられ、皆が知っていたはずである。しかし「車中でも歩廊でも、人々はみな平静である。真に平静なのか。それとも、どうともなれといった自棄なのか。戦争の成行について多少とも絶望的なのは確かだ。ソ連の参戦について誰ひとり話をしている者はない。昂奮している者はない。慨嘆している者はない。憤激している者はない。/だが、人に聞かれる心配のない家のなかでは、大いに話し合っているのだろう。私たちが第一そうだ。外では話をしない。下手なことをうっかり喋って検挙されたりしたら大変だ。その顧慮から黙っている。全く恐怖政治だ。/黙っている人々は無関心からもあるだろうが、外ではうっかりしたことを言えないというので黙っているのもあるわけだ。そして、みんな黙っているところからすると、誰でもひとたび口を開けば、つまり検挙される恐れのあることを喋るということになる。そういう沈黙だとすると、これでは戦いに勝てない。こういう状態に人々を追いやったのは誰か」。


現在の日本がこうなってしまったのは、「恐怖政治」を敷くまでもなく、検挙される恐れがなくとも、「下手なことをうっかり喋」ると、政治になんて関心を持っているおかしな人だと白い目で見られることで沈黙に追いやられた結果であろう。高見は「これでは戦いに勝てない」としているが、「みんな黙って」しまえば、「恐怖政治」なくともまともな社会さえ維持できなくなるのである。


10月5日に、高見は『ライフ』誌のムッソリーニが処刑されつるされた写真を見る。「私はムッソリーニに同情を持っている者ではない。イタリー・パルチザンのムッソリーニへの憤激にむしろ共鳴を感ずる」としつつ、「しかしこの残虐は――」としてこう続ける。

「日本国民の東条首相への憤激は、イタリー国民のムッソリーニへのそれに決して劣るものではないと思われる。しかし日本国民は東条首相を私邸からひきずり出してこうした私刑を加えようとはしない。/日本人はある点、去勢されているのだ。恐怖政治ですっかり子羊の如くおとなしい。怒りを言葉や行動に積極的に現し得ない、無気力、無力の人間にさせられているところもあるのだ。東条首相を逆さにつるさないからといって、日本人はイタリー人のような残虐を好まない穏和な民とすることはできない。/日本人だって残虐だ。だって、というより日本人こそといった方が正しいくらい、支那の戦線で日本の兵隊は残虐行為をほしいままにした。/権力を持つと日本人は残虐になるのだ。権力を持たせられないと、子羊の如く従順、卑屈。ああなんという卑怯さだ」。


「権力を持つと日本人は残虐になるのだ。権力を持たせられないと、子羊の如く従順、卑屈。ああなんという卑怯さだ」というこの言葉も、現在の日本人にそのままあてはめたくなるほどで、高見の慧眼が光ものである。敗戦によってその批評眼は鋭さを取り戻しつつあったのだろう。


11月11日、高見は「伊東君」と銀座に行き、「松坂屋の横の地下室」の「特殊慰安施設協会のキャバレー」を見に行こうとする。高見が「のぞいて見たいが、入れないんでね」と言うと、伊東君は「地下二階までは行けるんですよ」とした。

「地下二階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に下に降りて行くと、三階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼紙があった。「支那人と犬、入るべからず」という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真中で、日本人入るべからずの貼紙を見ねばならなくなった。しかし占領下の日本であってみれば、致し方ないことである。ただ、この禁礼が日本人の手によって出されたものであるということ、日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは、特記に値する。さらにその企画経営者が終戦前は「尊王攘夷」を唱えていた右翼結社であるということも特記に値する」。

「日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地に行くと「慰安所」の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた」。

「戦争は終わった。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐兵御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている」。


高見は「酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地に行くと「慰安所」の女になれと脅迫」したとしている。むろん仮に「淫売婦」であったとしても許されるものではないが、実際にはそうでなかった女性すら「ほとんどだまして連れ出した」のであった。高見は「徴用」され報道班としてビルマ、そして中国で軍と行動を共にした経験を持つだけに噂を含め日本軍の内情にある程度は通じていたのであろうし、水木しげるが『総員玉砕せよ!』や『カランコロン漂泊記 ゲゲゲの先生大いに語る』などで記したように、兵士や軍属においては「慰安婦」とされた人たちがいかにしてこのような目にあったのかなどは広く知られていたのだろう。






「「尊王攘夷」を唱えていた右翼結社」が「日本人入るべからずのキャバレー」を作り「「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐兵御用の淫売婦にしたて」た。高見はこの醜悪な姿を見ることで戦時下において直視を避けようとしていた日本社会に潜む「残虐」と向き合うようになった。しかしこのような戦争の記憶が日本社会から薄れると右翼政治家は今度は「「愛国」の名の下に」公然と歴史の改竄に手を染めるようになった。

「権力を持たせられないと、子羊の如く従順、卑屈」な日本人は、「恐怖政治」が訪れる前に率先して沈黙を選び、厚顔無恥で腐敗した右翼政治家が一番得をするという社会を築いてしまった。

高見自身が「普通の日本人」かはともかく、この日記は「普通の日本人」の姿を様々に垣間見せてくれるものであり、そして戦後の日本社会は戦中と断絶してあるのではなくその延長にあるのだということを、改めて痛感させられるのであった。


ジョン・ロールズ生誕100年

ジョン・ロールズは1921年生まれなので今年は生誕100年にあたる(また2002年に死去しているので来年は没後20年でもある)。ロールズの『正義論』は現在でも政治哲学の最重要本の一つであるだけに手軽に手に取れる新書の入門書あたりが出て欲しいのだが、企画はあるのだろうか。





これを講談社学術文庫に入れてくれるのでもいいのだけど(というか「現代思想の冒険者たち」全部入れちゃってほしい)。






ということでというのではないが、数年前に購入したまま本棚の肥しになっていたThomas PoggeのJohn Rawls  His life and theory of justiceを手にしてみた。この本は「ロールズの理論が非専門家にも理解される一助になれば」としてあるように、ロールズ小伝と『正義論』及びその後の議論についての入門書であり、平易でわかりやすいものであった……としたいところだが、僕の英語力を差し引いても必ずしもそうとは言い切れないかもしれない。






ロールズの『正義論』は、アメリカのリベラル派、アイザイア・バーリンがいうところの積極的自由論者の直感的信奉に哲学的基盤を与えようとしたものだと僕は理解している。しかしそれだけに、「無知のベール」をはじめその要約はわかりやすいのだが、いざ原典にあたるとこれがかなりの難物で、政治理論、哲学の素養のない僕のような読者にはなぜそこに執拗にこだわるのかがうまくつかめなかったりする。本書の理論編もまたそのような傾向があるが、粗雑かつ安易なものに陥らないようにするとこうなるのもやむをえないのかもしれない。

こんな感じでどこまで読めたのかはおぼつかなかったのだが、教え子である著者がロールズへのインタビューもふまえてのロールズ小伝は、ロールズがなぜ「正義」を扱うようになったのかがよくわかるものとなっている。むろんそれを意識してコンパクトにまとめたのでよりその性格が濃くなったのだろうが、ロールズ自身の体験なくしては『正義論』は生まれなかったとしてもいいだろう。


ロールズの祖父は結核に冒され、それが息子(ロールズの父)にもうつってしまった。父のウィリアム・リーは成人してからも健康問題に悩まされることになる。一家の暮らしは経済的にも厳しく、ウィリアム・リーは学校を辞め、14歳で働き始めなければならなかった。ウィリアム・リーは法律事務所の「使い走り」となるが、この仕事はあいている時間に法律の本を読むことができるものだった。こうしてウィリアム・リーは学校に通うことなく弁護士となり成功を収め、ボルチモア・ロースクールで教鞭を取ったり、ボルチモア法律協会の会長を務めるほどになる。

ウィリアム・リーと妻のアンナは共に政治への関心が深く、アンナは女性参政権運動家でもあった。ウィリアム・リーはウッドロー・ウィルソンの熱心な支持者となり、またメリーランド州知事アルバート・リッチーのブレーン的存在でもあった。ウィリアム・リーはリッチーから上院議員選への出馬や控訴裁判所判事職をもちかけられたが健康上の理由で辞退した。ローズヴェルト政権のニューディール政策の支持者でもあったが、ローズヴェルトが保守的な最高裁に厭気がさして最高裁判事の増員を目指すと支持をやめた。といっても反動化したのではなく、第二次世界大戦が始まると「アメリカ・ファースト」を唱えて中立を訴える勢力が出現したが(フィリップ・ロスが小説『プロット・アゲンスト・アメリカ』で描いたように、その少なからぬ人の実態は親ナチ、あるいはそこまでいかなくともナチスを容認していた)、ロールズ家の人々とその知己には「アメリカ・ファースト」に染まる人はいなかったという。

幼少期のロールズにとって最大の衝撃は弟二人を病気で亡くしたことだった。当時のボルチモアは黒人の人口が多く約四割にも及んでいたが、学校をはじめ白人とは生活空間が切り離されており、その多くが劣悪な環境に置かれていた。ロールズが黒人の友人を家に連れてくるのを母はいい顔をしなかったようだ。裕福な一家は海辺のコテージを購入し夏をここで過ごすようになり、ロールズはセイリングを趣味とするようになるが、またここで貧しい白人の存在を知り、とりわけ教育の機会が著しく不平等であるという現実を知った。

ロールズは1939年にプリンストン大学に入学する。当時のプリンストンは親が学費を払うことができれば希望者はほぼ全員入学できたようだ。一方で、奨学金制度は未整備でスポーツ選手などごく限られた人しか利用できなかった。つまりはほぼ金持ち家庭の子どもしか入ることができなかった。脱線すると、ロールズより15歳年長のスコット・フィッツジェラルドは「名家」の出身でありながら経済的には零落している状態でプリンストンに入っただけに、金持ちへの屈折した感情はここでさらに募ったのだろう。

ロールズは数学が得意であり、また芸術にも関心があったが、結局哲学を学び始める。戦争が迫っていることは誰の目にも明らかであったが、ロールズはROTC(予備役将校訓練課程)には登録しなかった。後のエピソードからもわかるように、軍、あるいは軍隊という組織に対して思うところがあったのだろう。

43年に徴兵されると太平洋戦線に送られ、戦争終結後は占領下軍の一員として日本に滞在し、原爆投下直後の広島も目にした。日本では侮辱行為を行った兵士の処罰を求められたのにそれを拒否したとして兵卒に降格させられたということもあった。軍務についてロールズは、大した戦闘には参加していない、平凡なものだったとしていたが、実際には何度も命の危機があった。それを勝ち誇るようなことを言わなかったのも、戦争、軍隊に対する姿勢の表れであろう。

ロールズは一時は神学を学ぶことも考えていたほどだったが、この戦争によって聖公会の信仰を放棄することになる。ロールズはこれについて自ら書き残しており、三つの大きな体験が彼を変えたとしている。

一つ目がレイテ島での体験だった。ルター派の従軍牧師が、神は我々を銃弾から守り、日本兵に標準を合わせてくれていると言ったところ、「どうしてだかわからないがとても腹が立った、とにかくそうだったのだ」。

二つ目の体験がルソン島での出来事だった。ある軍曹がやって来て、輸血のために血を提供する兵と斥候にあたる兵が必要だが志願者はいないかという。ロールズと親友のディーコンはこれに志願し、血液型が適合する方が病院へ、しない方が斥候に行こうと決めた。適合したのはロールズで病院に向かい、偵察任務に出たディーコンは日本軍に攻撃され死亡した。ロールズと「素晴らしい奴だった」ディーコンの生死を分けたのは、血液型という、自分で選択したわけではないものによる全くの偶然であった。

三つ目がホロコーストを知ったからであった。ヒトラーからユダヤ人を守らなかった神に対して、どう祈ればいいというのだろうか。

ロールズは除隊後に大学に戻ると哲学の勉強を再開し、48年にはマーガレット出会い結婚する。マーガレットは親から息子の教育を優先させるので学費は出せないと言われ、学業を断念する危機を迎えたが奨学金を得て続けることができた。ロールズ夫妻は息子にも娘にも均等に教育の機会を与えようと決め、それを実行することになる。芸術と歴史(どちらもロールズが関心を持っていたものであった)を学んだマーガレットは夫の仕事の協力者となったが、時代がもう少し後であれば自身も研究者となっていたのかもしれない。


ロールズの人生は恵まれたものだったとしていいだろう。彼は裕福な家に生まれた白人男性で、様々な特権を享受しながら育った。またロールズの前半生は、自分がいかに恵まれた存在であるのかを彼に教え込むものであったかのようだ。

父は貧しく病身で教育も満足に受けられなかったが、独学で身を立て成功を収めた。弟たちでなく自分が病に倒れていてもおかしくはなかった。近所にいた黒人や、夏に出会った貧しい白人と違い、成功した親の援助によって高い教育を受けた。兵士として生き残ったのも偶然であった。

人の一生は偶然に左右される。性別、肌の色、そして親の収入と社会的地位、これらは自分で選ぶことのできないものだ。ほとんどの人が自分で選ぶことのできない属性や環境によって一生があらかじめ決められてしまう、そのような社会はまともなものなのだろうか。

父のウィリアム・リーがたゆまぬ努力によって成功を収めたのは誰も疑わないだろう。一方で、経済的苦境や病といった困難に見舞われた彼だが、また独学によって弁護士になったように、持って生まれた頭の良さがあったのも事実だ。ウィリアム・リーと同じだけ努力をしたからといって誰もが優れた弁護士になれるわけではない。そもそも環境や心身の状態によって「努力」することさえできない人もたくさんいる。この現実を前にして、公正な社会とはいかにあるべきか、この問いが『正義論』へと発展していったのだろう。

『正義論』発表後もロールズは自説に修正を加えていった。これは必ずしも広く歓迎されたわけではなく、それどころかむしろ、『正義論』を高く評価した人の中には普遍的リベラリズムからの後退であるといった厳しい評価もあった。こうした修正もまた、良かれ悪しかれロールズが現実から遊離した象牙の塔に籠った哲学者ではなく、現実の体験から哲学的理論を紡いだことによるものであったからなのかもしれない。


冴えない中年男

ハードディスクの整理をしていたら数年前に地上波でやった『アメリカン・ビューティー』があって、久しぶりに見てしまった。世の中には別に嫌いではないのだが見返そうという強い意欲を喚起しない映画というのがあるが、僕にとっては『アメリカン・ビューティー』はまさにそうで、見るのはもしかしたら公開時以来かもしれない。

今となってはどうしてもケビン・スペイシーか……となるのだが、さらには、作品冒頭でスペイシー演じるレスターが自分を42歳だとしているのにうぎゃ~となってしまった。







昔見た時は親世代より子ども世代に年齢が近く、この冴えない中年男は遠い存在のように感じられたのだが、公開から二十数年を経て自分がまさにその年齢に達しているではないか。一方で、絵に描いたような冴えない中年男とかつては映ったのだが、今となっては野原ひろし並みに結構いい暮らしではないかという気がしなくもなかった。

1999年当時、このレスターの姿は1960年前後生まれの男性にとってあたかも自分であるかのように思えたのか、それともいくらなんでも42歳にしては老けすぎじゃないかと感じられたのか、どちらだったのだろう。


アメリカに限らず世界的に、人類は精神面のみならず外見も若く(あるいは幼く)なっていっているかのようだ。その印象を与える理由としてはまずなんといってもファッションの変化がある。僕が子どもの頃の中年男性の休日の服装といえば「おっさんの服」としか言いようのないものがほとんどであった。ファスト・ファッションの隆盛によってとりわけ変化したのがファッションに関心のない人の服装であろう。かつてのおっさん服など、買おうと思っても今やどこにも売っていない。また卵が先か鶏が先か、この間に服装の規範が変化したことで、かえって服装が変化しなくなったという面もあるだろう。

ちょっと前に自転車をこいでいたら、工事現場の交通誘導のおじさんから、「ぼく~、ちょっと待ってね」と言われてしまった。マスク姿でジーパンにパーカーだったもので、遠目には中学生か高校生あたりに見えたのだろう。僕はかつてファッションに関心のない中高生であり、今でもファッションに関心のない中高生のような格好をしてしまっているのは、こだわりではなく惰性の産物である。

ただ人類が得た(?)若さの理由が服装による印象の変化だけなのかといえば、そうとは思えない。『マッドメン』は1960年代の広告業界を描いたドラマであるが、シーズン1開始時に主演のジョン・ハムは36歳であった。ドンは「渋みのある中年男」といった雰囲気だが、現在この年齢であの雰囲気を出せる俳優はそうはいないだろう。ロジャー役のジョン・スラッテリーが実年齢以上に老けて見えるのは白髪のせいもあるが。本邦でいえば『あぶない刑事』開始時の舘ひろしと柴田恭兵も三十代半ばであった。







小生意気な若造として登場したピート役のヴィンセント・カーシーザーはファイナル・シーズンあたりで開始時のハムの年齢となる。薄毛化の演出(実際に禿げたのではなく剃っていた)がなされるのだが、それゆえにかえって童顔にありがちな「とっちゃん坊や」感が強まるばかりで、三十代後半でドンのような役はとても演じられそうにない。そして現在ではむしろカーシーザー的な顔立ちの方が増えているのではないだろうか。






Mickeyという歌をどこかで耳にしたことがある人は多いだろう。これ自体がカバーなのであるが、日本ではさらに別のカバーでまた有名になった。








トニー・バジルは1943年生まれ、つまりMickeyが発売された1982年は39歳であった。YouTubeのコメント欄にもこの年齢であの動きができるとは、とあるがトレーニングをしっかり積めば40歳前後であれは不可能というほどではないかもしれない。むしろ驚異的なのは、70歳を越えたバジルのこの動きである。





もちろん日頃の鍛錬のたまものなのであろうが、九十歳を越えて矍鑠としている人がそうであるように、ここまでくると遺伝子レベルの問題という気もする。

バジルはダンサーで振付師、映画でも60年代からかつやくしており……





マーゴット・ロビーやレオナルド・ディカプリオのイカしたダンスでおなじみの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の振り付けもしている。













ファンの人は怒るかもしれないが、「とっちゃん坊や」感といえばやはりディカプリオであろう。明らかに当人もそれにコンプレックスを持っており、なんとかここから脱却しようと苦心の作品チョイスをしてきたが(そのくせ恋人には若さを求めるのだが)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』はそこを逆手にとってというか、積極的に引き受けたものだろう。

もしディカプリオが三十代半ばでドンのような役が回ってきたら、力みかえって眉間のしわがますます深くなりつつも空回りしてしまったことだろうが、四十代後半に突入した今、もしレスターのような冴えない中年男の役がオファーされたらどのような演技を見せるのだろうか。1930年生まれのクリント・イーストウッドが監督した『J・エドガー』の晩年のフーバーは特殊メイクをしたディカプリオという印象だったのは否めない。カメレオン俳優とは逆に、どうあってもディカプリオはディカプリオにしか見えないというのはスターの証であるが。







クエンティン・タランティーノは1963年生まれなので60歳の足音が近づいているというのも信じ難く思えてしまうのだが、新境地を開く気になったのか、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を初めて小説化した。タランティーノのファン、そして『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が好きな人でも、多くがこの作品におけるブルース・リーの扱いにはもやもやしたであろうが、小説版ではどうなっているのだろうか。





1940年生まれのブルース・リーはもし存命なら今年で81歳、バジルとそれほど年齢が変わらないのか……



東大教授「アラビアのロレンス」

岩波新書から刊行された中野好夫の『アラビアのロレンス』は1940年に刊行された初版と63年の改定版はほぼ別物といってもいいほどで、これについては田隅恒生がこちらで詳しく論じている。ここでも触れられている『英文学夜ばなし』にはロレンス及びこの本について面白い記述がある。







中野は東大で教鞭を取っていたエドマンド・ブランデンからロレンスについて聞かされた。

「ロレンスもブランデン氏も、戦場こそちがえ、第一次大戦ではいずれも戦争体験者であり(年齢ではロレンスの方が十歳近く年長)、戦後両者ともに文筆人になってからは、多少直接の接触もあったらしく、現在書簡集には数通の往復書簡が収められている。だが、おそらくもっとも深く両者を結びつけたものは、これも当時戦後詩人として著名であり、またロレンスの生存中、ほとんど唯一の評伝といっていい「ロレンスとアラブ人」を書いたロバート・グレイヴズの存在であったと考えられる。グレイヴズはブランデン氏とも親友だったので、そんなことが、特にロレンスの関心を深くしていたものにちがいない。具体的にどんな話を聞いたかは、完全にもう忘れてしまった。だが、戦後の華やかなロレンスの名声と、それを虚名としてひたすら隠れんぼする奇矯な彼の行動とが、おりからイギリスの朝野を湧きたたせていた時期であり、とにかくわたしはにも妙にロレンスの名が忘れられないものになったのは、はっきりいまでも憶えている」。

こうしてロレンス関係の資料を集め始めたものの、当時は『知恵の七柱』は「百五十部足らずの限定予約本が、稀覯本中の稀覯本として、きわめて一部の人たちだけに珍重されているにすぎ」ず、「徒に名前を聞くだけで、入手の可能性などとうていなかった」。『知恵の七柱』は一九三五(昭和十)年のロレンスの死によってようやく手に入ることになる(このあたりの『知恵の七柱』成立・刊行事情については『完全版・知恵の七柱』に詳しくある)。






「ちょうど日支事変が進行中のことだが、一時日本でも妙に回教徒への関心が高まった一時期がある」。岩波書店の吉野源三郎がロレンスについての新書の企画を立て、「老政治評論家の某氏」が執筆者に決まった。「ところが、某氏も特にロレンス文献は所蔵していないというので、かねてわたしのロレンス蒐集を承知していた吉野氏が見られ、なんとかそれらの文献を利用させてもらえないかだろうかとの話であった。もともとロレンス伝など書くつもりもなにもなかったから、お安いご用だと承諾した。ところが、吉野さん、わたしの所蔵本を見ると、これならいっそあなたの方で書いてもらったらと、話が急に逆転し、結局思わぬ本を書くことになったのである。因縁というのは、つくづくわからぬものだと、いつもよく思い出す」。

とはいえなかなか仕事に取りかかれなかったが、次第に様々な資料が手に入るようになり、「とりわけ踏切り台になったのは、昭和十三年にはじめてデイヴィド・ガーネット編の「書簡集」が出たことである。すぐと読んで、これならまずなんとかいけると思った。結局昭和十五年九月初版となった所以である」。

「戦前版への思い出はやはり深い。戦後になり、戦後またドッっと出た文献や、戦中入手できなかったものなどを、改めて手に入れてみると、その後ずいぶん新しい事実の発掘や、評価の異説も続出しており、結局は新刊同様の増訂を加えねばならなかったほど、やむなきとはいえ、不完全な戦前版であったが、とにかくなにか熱にでも浮かされたような情熱をこめて書き切ったように思う。自分なりに一種の爽快感をおぼえたのを記憶する。近ごろ五、六十代の人に会うと、ときおりその人たちも学生時代に小著を読んで下さって、非常に感銘を受けたなどという話をいただくと、自惚れと瘡気とだけはわたしも致し方ないもので、やはり人並みにうれしくなることがある」。


数日後に死を迎えることになる四十七歳のロレンスはこんな書簡を残している。

「いま何をしているかって? ぼくにもわからない。朝が来て、日がのぼって、やがて夜になって、ぼくも眠るのだが、何をしたか、何をしているのか、何をするつもりなのか、ぼく自身にもわからないのだ。そうだ、こんな気持ちが君にわかるだろうか――君は一枚の木の葉だよ。やがて秋が来て木から落ちる、そのときの気持ちをほんとうに考えてみたことがあるかね? つまり、それなんだ、いまのぼくの気持ちは。」

中野はこれについてこう書いている。「いうなれば冬枯の蕭条さにも似ている。彼自身がつくり上げた名声という復讐の鬼のために、ほとんど生死のギリギリにまで追いつめられている彼の姿だったのだ」。

ロレンスという人物の、とりわけその後半生の複雑さを端的に表したかのような手紙であるし、単なる英雄譚とはならないこのような矛盾に満ちた人間像がまた関心を引き立てるのであろう。

一方で「日支事変が進行中のことだが、一時日本でも妙に回教徒への関心が高まった」というのは、「当時は、大きなイスラーム人口を抱える中国と先の見えない戦争をしていた、そしてのどから手の出るほど欲しい石油を産出するオランダ領東インド(インドネシア)を見据えていたわが国にとって、「回教徒」はようやく重大案件になってきたころだ」と田隅が指摘している。大川周明が重用されたのもこれと関連しており、ロレンス自身が剣呑なところがある人物であるように、(戦前の)日本におけるロレンスへの関心もまた剣呑な部分を含むものでもあったとすべきだろう。


さらに中野はこんなエピソードを続けている。

「一九二四年というから、日本では大正十三年、関東大震災の翌年だが、その一月十三日という日付で、シドニー・コカレルなる人物に宛てたロレンスの短信がある。その一節に、「東京大学教授の件ですが……多分わたしにはだめでしょう。もう二度とわたしは、ちゃんとした人間にはもどれますまい。それに、わたしという人間は、ちゃんとした仕事には向きませんし、自分でやりもしないことを説教する気にもなれません。職業としての文学は、わたしの任ではありません」とあるのである」。

「説明するまでもなく、東大英文科教師への斡旋に対する断り状だが、それには十分根拠がある。大正十四年一月というこの時期(わたし自身一年生であった)は、前任教師であった詩人ロバート・ニコルズが契約期限完了で帰国することがすでに決まっており、当然その後任を探していた。そして実際に来任したのが、前述もしたエドマンド・ブランデンさんだったからである。ブランデン氏の来日は、当時在英留学中だった斎藤勇先生の懇請によって実現したものであることは、これもわかっている。そこで、わたしはかつて斎藤先生に、直接このロレンス書簡について伺ってみたことがある。ところがその答えは、先生にとってもまったく初耳だとのことであった。さりとてまさかロレンスが嘘でこんな手紙を書いたとも思えぬ」。

「そこで、まず問題は宛名人のシドニー・コカレルなる人物だが、これは一種雑学のディレタントで、多少は知名でもあり、交友関係も実に広かったらしい。このとき斎藤先生とも話し合ったわけだが、思うに、後任探しのことが、斎藤先生とは別の筋からもまた勧められていたのではあるまいか(これはわたしだけの推測だが、前任者ニコルズからの筋だったのではないかという気がする)。それが直接か間接か、上記コカレルの耳に入り、おりからもっとも暗澹とした心境にいたロレンスのことが念頭に浮かぶとともに、むしろ遠い日本ででも、うるさい世間の騒ぎを避けさせたらといったような好意から、あるいはこの内意打診になったのではないかとも推察できるのだ」。

「結果は、上記書簡でもわかるように簡単にご破算になった。だが、それで思うのだが、もしこのときロレンスの東京大学来任が実現でもしていたとすれば、どういうことになったか。わたしの場合は、まさにこの二年間、直接彼の教えを受けることになっていたはずである。よかったか、悪かったか、そこまではわからぬが、十数年も後になって知った、まことに奇妙な因縁に驚いた次第であった」。


東大への招聘がどれほど現実味のあるものだったのかはわからないが、中野ならずとも、ロレンスが日本にやって来ていたらどのような授業を行い、どのような日本体験記を書いたのだろうかというのはあれこれ想像を逞しくしてしまいたくなる。

それにしても、三十代半ばで「もう二度とわたしは、ちゃんとした人間にはもどれますまい」と書かざるを得なかったというのは痛ましい。これはイギリスによるアラブへの裏切りとそれに自分が加担したことへの贖罪意識もあるが、それだけでなくロレンス自身が性格的に導き寄せたものでもあろう。

かつてはその死について謀殺説などもあったが、やはり一種の自殺であったと考えるべきなのであろう。一方で無名性を求めつつ、他方でそれがスキャンダルとなるのをわかったうえで改名までして軍への再入隊を試み続けるというのは矛盾しているが、死に場所を求めてのことであったのだろう。同時にそれはまた、人知れず消え去るのを願ったのではなく、劇的な、あるいは謎めいた死によって自らを神秘化したいという欲望も見え隠れする。

ちなみにロレンス違いでD・H・ロレンスの書簡集は邦訳があるが、T・E・ロレンスの書簡集は邦訳はない。日本語で読みたいという人はそれなりにいると思うのだが、どうだろう。







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