ソラリスの羊

沼野充義によるスタニスワフ・レムの『ソラリス』新訳を……といっても十年以上前に出ていて、文庫化もされているが単行本の方をようやく。






飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』はロシア語訳からの重訳であるが、この新訳はポーランド語原典からの翻訳であり、またいくつかあった脱落箇所なども訳されている。そのあたりについて読み比べはしていないし(どこかににあるはずなのだが見つからなかったもので)、飯田訳を読んだのも二十年くらい前のことで完全な印象論であるが、飯田訳がピンとこなかった人は沼野訳で読み直してみるといいかもしれない(その逆というのもあるのかもしれないが)。

ちなみに僕は(そして少なからぬ人もそうかもしれないが)まずタルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』を観て、それからレムの原作を読むという順番だった。映画化の際にレムとタルコフスキーが解釈をめぐって喧嘩分かれしたというのは有名なエピソードで、訳者解説でもそのあたりについても触れられている。またソダーバーグ監督の『ソラリス』についても、レムが未見の状態で話を聞いて否定的な評価をした文章も収録されている(文庫版は未確認)。

沼野は解説で、レムとタルコフスキーが「鋭く食違った」のがソラリスの「他者性」の理解であったとしている。「タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』は大筋でレムの原作を使いながらも、その理念においてほとんど正反対を向いていた」とし、両者の結末を比較している。「タルコフスキーが最後に結局、異質な他者との対峙を止めて、限りなく懐かしいものに回帰しようとした」のに対し、レムの原作は「異質な他者に対する違和感を保持しながら、それでも他者と向き合おうとしているのである」。

レムにとって一貫して大きなテーマがファーストコンタクトの問題であることはよく指摘される。まさにソラリスの海との出会いは、想像を絶するコンタクトが生じたときに起こる問題であろう。一方タルコフスキーはそのものずばりの『ノスタルジア』というタイトルの作品を撮っているように、「母なる大地ロシア」との結びつきに根差した、土着的ともいえる感覚を常に抱いていた。そのタルコフスキーは結局ソ連では映画を撮ることができず、あれほどロシア的なものと結びついていながら、映画を撮るために事実上の亡命生活に入り、そうして撮られるのが『ノスタルジア』である。こう考えると両者はまさに対極にあるようだが、久しぶりに再読してみるとまた違った感覚もあった。

タルコフスキーにとって、不可能なものを希求するというのもまたそのフィルモグラフィーを貫くテーマであっただろう。『ストーカー』はまさに直接的にそのテーマであるし、その他の作品においてもモチーフとなっている。不可能なものを希求することはある面では宗教的ともいえる崇高さを帯びるが、また別の角度から見れば狂人といってもいい存在となる(『ノスタルジ』もこの両方の存在を揺れ動く存在が登場する)。愚かな振る舞いによって愛する人を自殺へと追い込んだケルヴィンの前に死んだはずのハリーが現れ、彼女はあの彼女ではないということをわかりつつも惹かれていってしまうという『ソラリス』もまたそうだとすることもできる(これを思いっきり通俗化するとソダーバーグの『ソラリス』となってしまう)。

タルコフスキーが『ソラリス』、『ストーカー』とSF作品を撮ることになったのは別に彼の関心がそこにあったからではなく、当時のソ連で映画を撮るためのやむを得ない方法であったともされる。ちょうどイランをはじめとするイスラム圏で子どもをめぐる優れた作品が多く生み出されたように。
ではタルコフスキーにとってSF的設定は刺身のつま程度の意味しかなかったのかといえば、当人がどう思っていたのかはともかく、結果としてはそうではなかったのではないか。レムにおけるファーストコンタクトとタルコフスキーにおける不可能なものを希求するという関心事項は必ずしも「対極」にあるのではないとすることもできるのかもしれない。レムの場合はそれが「外」へと向かって開けていくのに対し、タルコフスキーはそれが「内」へと篭っていくことになる。もちろんタルコフスキーの立場は、ドストエフスキーがそうであったように、ロシア的なものへの憧憬と称揚という方向へとも向かいかねない危ういところでもあろうが。


……なんてことを考えながら読んでいて、昔は気がつかなかったが、ある場面でおやっと思った。

惑星ソラリスを観測する宇宙ステーションへとやって来たケルヴィンは異様な状態に迎えられる。ステーションに滞在していたスナウトは正気を失って錯乱しているようですらあり、友人だったギバリャンはケルヴィンの到着の直前に自殺をし、彼に謎めいたメッセージを残していた。そしてケルヴィンの前に、自殺したはずのハリーが現れる……というのが『ソラリス』のあらすじであるが、終盤にこんな箇所がある。


「ハリー!」と私は呼ぼうとしたが、そのとき、足音が聞こえた。誰かが近づいてくる。大きくて、重々しい、まるで……
「ギバリャン?」私は穏やかに言った。
「そう、私だ。電気はつけないで」
「でも……」
「必要ない。そのほうがわれわれのどちらにとっても、都合がいい」
「でも、もう生きてはいないんでしょう?」
「そんなことは、なんでもないさ。声で私だということがわかるだろう?」
「ええ。どうしてあんなことをしたんです?」
「そうするしかなかったんだ。きみは来るのが四日ほど遅かったな。もっと早く来てくれれば、あんなことは必要なかったかもしれない。でも、いまさら自分を責めてもしかたないさ。そんなに辛くもないし」
 (pp.219-220)


村上春樹の『羊をめぐる冒険』の終盤からいくつか引用してみよう(なお以下『羊』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の重要な部分に触れているので、未読でネタバレが嫌な人はお気をつけを)。


時計が九時を打った。九つめの鐘がゆっくりと暗闇の中に吸いこまれてしまうと、沈黙がその間隙にもぐりこんだ。
「話していいかな?」と鼠が言った。
「いいとも」と僕は言った。



鼠は闇の中、「僕」にビールを渡す。

「目が見えないとビールじゃないみたいだな」と僕が言った。
「悪いとは思うけれど、暗くないとまずいんだ」



「僕」と鼠は闇の中で話を始め、ついに核心部分へと近づいていく。

「できれば君の方から質問してくれないか? 君にももうだいたいのところはわかっているんだろう?」
僕は黙って肯いた。「質問の順序がばらばらになるけどかまわないか?」
「かまわないよ」
「君はもう死んでるんだろう?」
鼠が答えるまでにおそろしいほど長い時間がかかった。ほんの何秒であったのかもしれないが、それは僕にとっておそろしく長い沈黙だった。口の中がからからに乾いた。
「そうだよ」と鼠は静かに言った。「俺は死んだよ」



どうです、ちょっと『ソラリス』に似ていなくはないですか。
鼠は「僕」の来る一週間前に首を吊っていた。

「もし……」
「よせよ」と鼠が僕の言葉を遮った。「もうもしはないんだよ。君にもそれはわかっているはずだ。そうだろ?」
僕は首を振った。僕にはわからないのだ。
「もし君が一週間早くここに来ていたとしても、やはり俺は死んでいたよ。そりゃ、もっと明るくて暖かいところで会えたかもしれない。でも、同じさ。俺が死ななくちゃならなかったことに変わりはないんだ。もっとつらくなっただけさ。それにそういうつらさには俺はきっと耐えられないよ」



ギバリャンはケルヴィンがもう少し早く到着していたら自殺は避けられたかもしれないとしているのに対し、鼠は自分の死を避けられないことだったとしているが、あえて反転させたようにも見えてくる。


「羊は君に何を求めたんだ?」
「全てだよ。何から何まで全てさ。俺の体、俺の記憶、俺の弱さ、俺の矛盾……羊はそういうものが大好きなんだ。奴は触手をいっぱいもっていてね、俺の耳の穴や鼻の穴にそれを突っこんでストローで吸うみたいにしぼりあげるんだ。そういうのって考えるだけでぞっとするだろう?」


このあたりもソラリスが、記憶の奥底の、人にとって一番大切でありまた触れられたくないものを明るみに出すことも連想させる。ソラリスの「意思」は不明であるのに対し「羊」には明確な目的があり、それがギバリャンと鼠の反転となっているとすることもできるのかもしれない。


飯田訳『ソラリス』が最初に出たのは60年代のことで、当時の村上は翻訳小説を大量に読み漁っていた。文庫化されたのは70年代後半、村上が作家としてデビューする前のことだ。
僕の知る限りでは村上がレムについて言及していることはないと思うが、村上の読書傾向を考えると読んでいないとするほうが不自然であるようにも思えてくる。一方タルコフスキーに関しては、昔の何かのエッセイで(失念)、あまり面白くないし興味を引かれないというようなことを書いていたような記憶がある。これはレムへのリスペクトからということなのか、あるいは「影響の不安」がこう語らせた……のかどうかは知らないが、この箇所の類似性について指摘しているのはあまり見たことがないような気がするのでちょっと書いてみた(「そんなのすでにたくさんあるよ!」 ということだったらごめんなさい)。


タルコフスキーについて不可能なものを希求するということを書いたが、『羊』はむしろ不可能性をめぐる諦念とアイロニーについての物語でもある。

前にこちらに書いたように、村上のデビュー作『風の歌を聴け』は、なぜか当時も今も無視されがちであるが、戦後生まれ世代による親の世代の戦争というものに対して、その被害者性と加害者性をめぐって、とりわけ中国というファクターを通じての微妙にして複雑な心理が描かれてもいた。そして『羊』は紛れもなく、大日本帝国の野心と戦後日本を問い直すという問題意識のもとで書かれている。

北海道は沖縄と並ぶ植民地であったすることもできると同時に、漱石夏目金之助の徴兵を回避するために夏目家が一時的にこの末息子の戸籍を北海道に移したように、大日本帝国の一種のアジールとしての存在でもあった。しかしもちろん、アイヌの人々にとっては紛れもない帝国による収奪の場であった。日本での居場所を失った人が「大陸浪人」として中国に活路を見出そうとしたが、その多くが侵略の先駆けや先兵と化していくことになり、漱石の作品にも大陸浪人的人物は影を投げかけている。羊が北海道に導入されたのは大陸の寒冷地進出にあたっての防寒具のためという軍事的な理由もあり、それが徹底的に管理されたものであったというのは『羊をめぐる冒険』において詳述される。そして羊男の正体は徴兵忌避のアイヌの青年である可能性が高い。戦後になぜか戦犯として裁かれることなく野に放たれ、中国における「児玉機関」でたんまりと儲けた金で政財界、メディアにも強い影響力を及ぼした児玉誉士夫が羊憑きの先生のモデルであることは周知の通りだ。

しかし『羊』において、「僕」は、あるいは村上は大日本帝国の「影」と正面から対決はしない。より正確にいうと、そうすることはもうできないのだという諦念に支配されている。ささやかな抵抗は試みるが、それはあくまで局地戦であり、大局に何ら影響を及ぼさないことは嫌というほどわかっている。「革命」の理想がついえた80年代に、不可能と思われていることを希求する蛮勇はもうふるえない。「僕」にできることといえば、センチメンタルなノスタルジーにかられて、懐かしき故郷の光景が破壊され様変わりしていることにめそめそと涙を流し、「僕」と鼠の代父である中国人のジェイに汚れた金を渡して、これで借金を返して僕らを共同経営者にしてくれと言うことだけである。

この結果辿り付くのが次作の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の結末だと考えることもできる。ここで「僕」は「影」とともに脱出せずに、「街」に残るという選択をすることになる。一角獣の頭骨を「街」の図書館で解放するのは、物語を紡ぐことのメタファーであることは明らかだ。「僕」が自らの「影」と離れ「街」に残るのは、現実社会を直接に変革することを目指すのではなく、自分のやるべきこと、できることとはあくまで物語を紡ぐ小説家として生きていくことなのだという宣言ともとれる。『ノルウェイの森』では主人公ワタナベは「革命」に背を向け、パーソナルな世界に引き篭もるかのようでもあるが、村上は『ねじまき鳥クロニクル』において再びアジアへの侵略と地続きの戦後へと向きあうことになる。

先頃アンデルセン文学賞を受賞した村上は、「自らの影、受け入れなければ 村上春樹さん、デンマークで語る」にあるように「影」から逃げずに、「自分自身の一部として受け入れなければいけない」と語っている。ここで村上のいう「影」とは、個人、社会、国家に必ず付随する、頬かむりをして目を背けることが許されない負の部分といった意味合いであり(例えば大日本帝国の「影」もそうだ)、一方「世界の終わり」における「影」はalter egoであって邪悪な存在ではなく、むしろそれは「ハードボイルド・ワンダーランド」の「やみくろ」などが担っているので、文脈的には異なるものとすべきだろう。しかしかつては「影」とともに行動するという結末を拒んだ(これは「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」が自らの意思によらないある運命に対し、悪あがきもせずに粛々と受け入れるということでもある)村上が、「影」を受け入れなければならないとしているのは興味深い変化とすることもできる。

一般的には村上は政治や時事問題を口にすることは避けていたというイメージが強いだろうが、こちらに書いたように、五木寛之との対談にあるように村上は80年代前半は自らの政治信条等をかなり率直に語っていた。村上が口をつぐむようになったのは『世界の終わりと』が書かれた80年代半ば以降のことである。これは一つには作家としての存在感が大きくなったことで慎重になったということもあるだろうが、また「革命」への諦念に包まれていた村上は、政治や社会システムの変革を目指すのではなく、物語を紡ぐという、自分のやるべきことに傾注すべきだとも考えたのだろう。

当人も書いているように、90年代以降の村上は自身の作品が世界的に読まれるようになったことから「日本人作家」としての責任意識も芽生え、とりわけ日本のアジアへの侵略、加害責任については海外メディアとのインタビューでは積極的に発言するようになっていった。公の場に出ることを好まず、政治的に「利用」されることへの警戒心が強かったはずの村上があえてそのような言動を厭わなくなってきているというのは、村上自身の変化もさることながら、世界全体がそんな悠長なことをいっていられなくなってしまったということでもあるのだろうが。

タルコフスキーにおける不可能なものの希求はもちろん政治的なものではなく、むしろ積極的に非政治的なものであり、それは結果的に政治的なものともなる。村上における不可能なものの希求への諦念は政治への諦念ともなり、現状追認の微温的保守主義者と見なされがちであった。90年代半ば以降の村上の言動の変化にも関わらず、とりわけ『1Q84』のBook3は「現代社会の闇に挑む」といった凡庸な期待を積極的に裏切ることを狙って書かれたかのようでもあった。『1Q84』は明らかに『ねじまき鳥クロニクル』の「語り直し」を意図して書かれたものだが、Book3では『ノルウェイの森』を反転させたかのような構造が侵入してきているし、その点ではむしろ後退したという評価もできるだろう。

村上の作品がその言動の変化を反映させることになるのか、あるいはそれを脱臼させていこうとするのか、とりあえずは間もなく発表される新作長編を待ちたい。


『ザ・ピープル  イギリス労働者階級の盛衰』

セリーナ・トッド著 『ザ・ピープル  イギリス労働者階級の盛衰』




歴史は勝者によって書かれるという言葉があるが、こう言い換えてもいいだろう。歴史は支配層によって書かれる。エドワード朝についてこう回想する声がある。「すべての人が自分の地位をわきまえ、相応の満足を覚えていた「黄金に輝く午後の長く続いた園遊会」」であったのだと。しかしこれはあくまで「豊かな人たち」の声だ。

本書は、自らも労働者階級出身である著者による1910年から2015年までのイギリス労働者階級の歴史である。労働者たちの声について、「政治家や貴族の回想はよろこんで使う歴史家たち」は「ノスタルジア」だと一蹴しがちだ。また「体面のよさを求めてがんばるか、革命を求めて奮闘するという「伝統的」な労働者階級の典型的な物語」に回収しないために様々な声を集め、「幕間」として1961年にサッカーくじで過去最高の金額を当て、「使って使って使いまくる」と宣言し、その言葉通りに数年で金を使い果たし破産したヴィヴ・ニコルソンの人生も描く。

「不平等は害をおよぼす、間違ったものであると主張するために労働者階級の人びとを革命の英雄扱いしたり、助けになる隣人に仕立て上げたりする必要はない」。権威づけられた記録の中にも、左翼が広める労働者階級神話のなかにも、「労働者階級の人びとの歴史を見つけだすことはできなかった」。
「わたしが描く人びとは、自分たちのことを代弁してくれる他者を必要とした、なすすべのない貧困の犠牲者ではない。ヴィヴのように、人びとは自分の精神と言葉をもっていた」。

本書は20世紀から21世紀にかけてのイギリスの歴史であるとともに、現在のイギリス社会について考えるうえでも示唆してくれるものが多い。


1923年にヴァージニア・ウルフは、1910年の12月あたりで「人間の性質が変わった」と書いている。1910年を分岐点だと考えたのはウルフだけではない。この年の1月には、福祉の拡充を約束した「人民予算」が貴族院に否決されたのをひっくり返そうと自由党のロイド・ジョージが選挙に挑み、議席を減らしながらも政権に帰ってきた。労働党は大きく議席を伸ばし、貴族の政治的力は大きく後退した。5月にはエドワード7世が死去。女性参政権を求める激しいデモが各地で繰り広げられ、内務大臣チャーチルは炭鉱労働者のストを押さえ込もうと武装した軍隊を送り込む命令を出した。議会では貴族の権限をめぐる議論が行き詰まり、12月にはまた選挙が行われ、貴族院が法案を否決する権限を廃止しアイルランド自治を実行に移すことを約束した自由党が政権を維持し、労働党はさらに議席を増やした。イギリスが繁栄したのは貴族が強力で労働者階級に選挙権が与えられていなかったからだとする保守派にとっては嘆かわしい事態であったが、「雇用主との交渉と投票箱の両方を通じて福祉、労働、賃金に関する発言権をもっともつべきである」と考える労働者たちにとっては一歩前進だった。

ウルフは「社会の変化のバロメーターとして召使いたちを見た」。1910年の時点で、そして1923年の時点でも依然として、「イギリスで働く人びとのなかで、召使いがもっとも大きな割合を占めるグループ」であり、「召使いと雇用主との関係はイギリス社会を映す鏡であると多くの人に見なされていた」。
それまで労働組合で活動してきたのは主に「友情と連帯の絆」を形成しやすい熟練労働者たちであったが、1910年までには非熟練労働者たちも声をあげられるようになってきていた。

自由党は労働運動を弾圧する一方で、福祉の拡充も目指した。それは「金持ちと貧しい人びととのあいだの溝を埋めようとしたものではなかった」。「労働運動の力を殺ぐための万能薬」として考えられたのであった。
この発想はプロイセンにおけるビスマルクそのものだが、労働者階級や貧困についての支配層の考え方も世界的に共通したものだろう。1904年に民生委員になったある女性は、労働党の代表を除くすべての民生委員が「給付金や救援物資をもらっている人びとを慈善にたかって遊び暮らす、感謝することもできない間抜けどもだと見なしている」のに気付き嫌悪感を抱いた。貧困問題は極めて深刻な水準でありながら、それを示す調査結果が出されようとも、政府や貴族、富裕層は常にこれを軽視し、対策を怠ることになる。国民保険をめぐっては、保守派の「タイムズ」紙に「主人と召使いとのあいだの思いやりあふれるつながりを弱めてしま」い、「仮病に特典が……与えられることになるだろう」という投書が掲載された。

それでも時代の変化を押しとどめることはできない。召使いも労働者であるという意識が広がり、「人生が自分にどれほどわずかなものしかもたらしてくれないかということに不満と憤りを覚える非熟練労働者と熟練労働者、メイドと炭鉱者をつなぐ共有されたアイデンティティがあらわれてきた」。それは「現代版労働者階級が誕生してきたしるし」であった。

なお、まさにこの時代を扱った貴族とその屋敷で働く召使いたちを描いた『ダウントン・アビー』にもちらっと言及があるが、このドラマが好きな人はぜひともこの第1章だけでも読んでほしい。


第一次大戦後、失業問題は深刻化していった。戦時中に女性たちは工場などで働くようになり、帰還兵には十分な数の仕事が用意されていなかった。政府の失業対策は「仕事の創出ではなく女性たちを家事奉公に送りこむこと」だった。右派の新聞はこれをもちろん支持し、「タイムズ」紙は社説で「怠惰な生活が公共の支出でまかなわれることがあってはならない」とし、ある貴族は女性が「失業手当の濫用」をしていると嘆いて見せた。

労働組合はこの苦境に先鋭化していき、1926年についに大規模なゼネストが起こることになる。ここで注目されるのが、労働党が日和った態度を取ったことである。このゼネストは「マンチェスター・ガーディアン」紙からも批判されるなど、「リベラルで左寄り」の人にとってはあまりに過激、あるいは非理性的なものだと感じられ、また組合指導部も必ずしも乗り気ではなかった。労働党は炭鉱労働者をはじめとする労働者階級に忠実であるよりも、中間層からの支持の離反をおそれた。このような労働者と組合指導部、労働者階級と労働党との微妙な関係というのは、その後も繰り返されることになる。

失業の時代に、福祉に頼らねば生活できない人が多数いたが、「政府の方針は失業者に罰を与えるかのごときものだった」。とりわけ失業者を苦しめたのが、尊厳を傷つけ、家族や近隣住民とのつながりを破壊する収入調査だった。権力や特権を持つ人は、貧困の原因は怠惰であるとの偏見を持ち続け、貧しい人が貧困状態にあるのは自らに責任があるのだとした。むろんこれはイギリス独特の現象などではなく、こちらに書いたようにマルコムXは幼少期に母親がミーンズテストで屈辱的な扱いを受けたことを記憶しており、また日本でも、そして世界の多くの場所でも、現在でもまだこのようなことが行われ続けている(というよりも、一度改善された状況が近年になったまたひどくなってきている)。

1931年には失業者は「失業保険によって麻痺させられて」いて、仕事を探さずに怠惰な生活を送っているという投書が「タイムズ」紙に掲載されている。また「ビジネスマンや教師、郊外の主婦が読者層」である「スコッツマン」紙には、「公共の財源から援助を受けるくらいならみずから命を絶つほうが好ましいとするスコットランド人の独立心の強かりし時代」を懐かしむ投書が載った。失業者が失業手当てで安楽な生活を送っていることを嘆く声が新聞の投書欄には溢れたが、もちろん実際には失業手当で快適な生活を送ることなど不可能で、失業者は常に困窮状態に陥りかねない状態にあった。屈辱的で懲罰的な収入調査やこのような偏見は失業者をむしろ追い詰めていくだけであるのだが、失業者や貧困者に対するこういった攻撃は現在にいたるまで繰り返し行われていくことになる。
それでも、暗い時代が続くことで、1930年代後半には中流階級の間にもこれまでのような失業者は生まれつき無気力で無責任なのだという考えに変化が生じるようになっていった。

1930年代はまたファシズムの時代であった。イギリスではオズワルド・モズリーが英国ファシスト連合を結成する。モズリーの主催する暴力的集会は保守派の「タイムズ」紙などの保守派からも強く批判されるほどだった。モズリーは移民こそが失業の原因だと、人種差別と排外主義を煽ろうとした。こういう主張になびいてしまう人もいたが、概して「労働者階級のファシズムへの支持は弱かった」。一つにはイギリスの失業率は深刻だったとはいえ、ドイツやイタリアほど高くはなかったことがある。また失業手当を受け取っている人の多くがファシストが引き入れようとした若い世代ではなく、組合員であり、イギリスの組合運動が強力で自律的であったことも防波堤になったようだ。

貧しい人たちの多くが日々の生活を送るのに手一杯であった。また貧困や失業の問題と人種や宗教の問題が絡み合うと緊張が高まることになるが、それでも、移民がイギリス国民になるにはイギリス生まれの身元保証人が必要とされるのだが、コミュニティが機能していたことから職場の同僚や近所の人が進んで支援を申し出た。

ファシズム活動に熱心に加わった者の多くは、むしろ「豊かな社会階層の出身だった」。
「モズリーは「商取引……新聞……映画〔そして〕ロンドンのシティ」を牛耳る「巨大な利権」を声高に批判していたが、貴族や産業資本家、工場経営者たちからの支援を受け入れていた」。サフォークでは富裕な農家が支援に回り、1931年までデイリー・ミラー紙を所有していたロザミア卿は、1934年にデイリー・ミラーの三分の二ページに渡って「黒シャツ隊に支援の手を」という自分の書いた記事を掲載させた。ここでロザミアは反ファシズム勢力を「パニックを煽る連中」と非難している。

排外主義を煽り、「巨大な利権」を批判しつつ、実はその利権を享受する側から支援を受けていたモズリーの姿はトランプをはじめとする近年の各地の右翼政治家と重なるところが多い。強力な労働組合の存在とコミュニティのつながりによって労働者階級がこの誘惑を断ち切ったという点は、現在への教訓になるだろうが、逆にいえば、「伝統」を声高に唱える右翼政権がしばしばコミュニティを破壊する政策を進め、何よりも労組の弱体化を図るというのは、右翼側がこれをよく理解しているということでもあろう。

ファシズムに浮かれる貴族の姿は、執事の視点でこの時代を描いたカズオ・イシグロの『日の名残り』でも扱われており、この小説/映画のファンも本書、とりわけ第4章を読むとさらに背景等がよくわかるだろう。


1930年代とは何百万もの人にとって「失業を意味し、失業は困窮と屈辱を意味した」。政府は失業者が国家に頼らないよう職探しのインセンティブを高める政策に主眼を置いたが、これは失業の根本原因に取り組むものではなく、失業者の困窮を防ぐものでもない、「部分的には中流階級の納税者を懐柔しようとするもの」にすぎなかった。懲罰的な福祉制度は失業者を減らすことにはならず、過酷な収入調査はいたずらに失業者の屈辱感を増すだけだった。この「飢餓の三〇年代」の忌まわしい記憶が、1945年の選挙で「福祉国家と完全雇用に尽力する労働党を選ばせることになる」。


もちろんこの労働党の勝利によって一気に福祉国家が形成されたのではない。うまくいかない政策もあれば、有権者の揺り戻しもあった。1951年の保守党の勝利の最大の要因は住宅問題にあったとされ、住宅問題は以降もイギリスにとって重要な問題であり続けている。政府が宣伝するほど生活が豊かになったのではなかった。それでも、福祉国家は前に進み続けた。

一般的には労働者階級は人種差別的であるというイメージを持つ人が多いだろう。しかし著者は差別意識を煽ろうとしたのはとりわけ保守党の政治家や地域の政治家であったとしている。1950年代には異人種間カップルにたいする敵意が高まり、また住宅不足や失業とからめこれを煽る政治家もいた。1958年には興味深い調査がなされている。ブリストルのある地区では、「黒人住民の近くに住む白人住民のほうが移民に対する敵意を感じない傾向にあ」った。イラン系の女性は、移民があまり住んでいない街の中心部では自分が浮いているような気がして、見知らぬ男の子たちから「ニガー・ニガー」と声をかけられたこともあった。生まれ育った公営団地に戻ると、自分がまわりの人を知っていて、まわりの人が自分のことを知っているから安心できたという。もちろんこれも一様であるわけでないが、偏見や差別がどのように生じるかについての一例を示したものだろうし、先頃のイギリスのEU離脱問題でも、移民が少ない地域の方がむしろ移民への排斥感情が高まっている傾向が窺えた。

また教育面でも労働者階級にとってその環境は変わり始めたが、これも一足飛びに改善されたのではなかった。選抜試験によって労働者階級にもグラマースクールに通う機会が開けたが、その試験は中流階級にとって優位なようにできていた(IQテストにも客観的な知力など測れないという批判があるように、試験による選抜だからといってそれで公平だというのではない)。

たとえ合格しても、労働者階級地区の小学校出身者は成績に関わらず人気の低いグラマースクールの底辺にいると気付かされた。グラマースクールは学費以外にも文房具、修学旅行、制服、スポーツ用品などで金を徴収したが、それは労働者階級には手が出ないほど高級なもので、労働者階級の子どもたちはみじめな思いをさせられた。また多くのグラマースクールは生徒達に近所のスポーツ・クラブなどに加わらないようにせよと言った。これによって、グラマースクールに通う労働者階級の生徒たちは親や近所の友人たちなどから心理的、物理的な距離をとらされることになった。「社会的な分断を克服するどころか、人生での成功に「値する」のはごく少数の者たちだけだとほのめかすことで選抜制の学校はそうした分断を悪化させた」のである。

こうしてグラマースクールに通うことになった「多くの生徒たちは、最終的には反逆した」。
生徒の知的好奇心を引き出してくれたり大学進学を進めてくれる教師もいたが、あくまで少数派で、労働者階級の生徒達は大学に入るには不適切な試験を受けさせられたり、奨学金制度などの説明をされなかったりした。この背景には労働者階級の生徒は勉学に向いていないという決め付けもあった。

しかし50年代後半には労働者階級をとりまく状況にも変化が生じ始めた。労働者階級であることが「流行」となり、恥ずかしく思うのではなく、それを誇示するようにさえなった。ポール・マッカートニーは医者の娘のジェイン・アッシャーと交際するようになったが、当時の新聞には彼女の「階級なんてもはや問題にならないわ」というコメントがある。64年にはビートルズのマネージャーでもあるブライアン・エプスタインは新たに契約したシーラ・ブラックについて、「シーラはリヴァプールのもっとも荒れた危険な地区の出身で、目の覚めるような燃え立つ自然の生命力に満ちあふれている」と語った。


60年代は失業率も低く、各種の改革も進んだ。70年には1930年以来初めて労働者階級出身の大学生の割合と数が増加した。しかしこのような時期は長くは続かなかった。70年代半ばにはオイルショックなどもあり経済に陰りが生じ、労組などは達成感だけでなく敗北感も味わうようになっていった。74年には賃金抑制政策に反対するストが行われ、保守党のヒース政権はエネルギー不足の緊急事態として週三日労働を実施し、これを受け入れた労働者は失業手当の対象者となった。この結果かえって費用がかさんむことになったが、ヒースがもっと早く炭鉱労働者と折り合いをつけていればこれより安くすんだはずだった。ヒースは政治的意図からこの争議を全国的ものへとしようとしていたのだった。炭鉱労働者たちが仕事に復帰する気配を見せない中、ヒースは「誰がイギリスを統治するのか?」というスローガンで選挙に打って出たが、勝利を収めたのは労働党であった。

この時の労働党の公約は「一緒に働こう」というもので、「完全雇用、住宅、教育、社会保障手当て」を通じて「経済的平等」と「社会的平等」を達成するというものだった。しかしウィルソン政権はこの公約を達成できず、労働党はIMFの支援受け入れを決め、「福祉と完全雇用は経済危機においては不要とされるべき贅沢であるということが示されることになった」。

「労働党がIMFと合意したことは、公共支出が現在の危機を招いたのだとする福祉国家に批判的な右派陣営に攻撃材料を提供した」。労働党と保守党は「労働者階級の危険な団結を非難することで手をとりあった」。ウィルソンとその後継のキャラハンの顧問だったバーナード・ドナヒューは、「サッチャリズムとして知られる特定の自由市場政治は、労働党政権と、なかんずくIMFによって「原始的な形で」始められた」と語る。
こうして「他の選択肢はありません」と主張したサッチャーが政権に就くことになる。

サッチャー政権は雇用を増やす政策を一切とらず、失業率は10パーセントを越えるようになった。とりわけこれが直撃したのは黒人コミュニティであり、警察は高圧的な弾圧を強めた。仕事のない黒人は昼間から街をぶらつくしかなく、それによってさらに警察から攻撃を受けた。暴動が起こったが、これには白人の若者も加わった。50年代後半に起こった「人種暴動」ではなく、黒人も白人も仕事とお金がないことの不満を吐き出すためにこうするより他なかった。「暴動を起こすことが彼らに行使できる唯一の集団的な力であった」。

労働組合員の数は急激に減少し、そして労働者階級の内部では分断が進んだ。サッチャー政権は失業の増大で支持率が下落傾向にあったが、83年の選挙ではチャールズとダイアナの結婚やフォークランド紛争で吹き上がったナショナリズムを煽ることによって圧勝を収める。サッチャーは労働組合の無力化政策をさらに押し進めた。84年には20の炭鉱が閉鎖される予定であることが発表された。2万人が失業することになるが、退職年金の増加や解雇のための支払い、失業手当などを考えると炭鉱労働者の雇用を継続したほうが安く済んだはずだが、サッチャーはこれを断行した。サッチャーの目的は実利的なものではなく、炭鉱労組を潰すことだった。炭鉱労働者はストに入り、これには驚くほどの支持が集まることになる(映画『パレードにようこそ』はロンドンのゲイたちが炭鉱労働者たちの支援に立ち上がる物語である)。サッチャーは動揺しているかに見えたが、「政府は警察を動員する能力があることを示し、新聞は権力側の戦いを支持し、労働党からはほとんど、あるいはまったく反対がなされなかった」。

失業率は高止まりしたが、保守党は福祉の削減を進めた。社会保障の削減によって「給付金文化」に陥るのを防止できると主張し、政府は公共支出をするのではなくボランティアに人びとを助けるよう呼びかけた。労働党はといえば、「一方には豊かな労働者がいて、他方には役立たずの失業者がいるという階級についての保守党の説明を甘んじて受け入れてきた」と労働党左派のトニー・ベンは苦々しく振り返っている。

労働者階級で保守党を支持していたのはどういった人びとなのだろうか。保守党の人気が高かったバジルトンという町について調査すると、一貫して人気があった唯一の保守党の政策が持ち家政策で、福祉削減にはあまり興味を示していなかった。失業率の高さには腹を立てていたが、調査をした研究者は「彼らには代わりの道が見つからない。……彼らの利害を代表してくれる政党がないのだ」と語っている。

サッチャリズムに対する労働党の弱腰な態度は「自由市場以外に代わりの道は存在しないという首相の主張を強化するだけだった」。保守党は「労働党がイギリスを破綻させる」と言い立て、「人びとにインセンティブを与えなければならない」と民営化を正当化した。サッチャーは87年には「社会などというのはありません」と言い放ち、「福祉の手当を増額したり労働組合により大きな力を与えたりすれば有権者が手にしているわずかばかりの安定性を奪い去ってしまうだけではないか」との恐怖をかきたてた。しかしそのサッチャーも人頭税をめぐってつまづき、退陣に追い込まれる。

とはいえ、これで政策の流れが変わったわけではなかった。後任の首相のメージャーは93年に失業率が10パーセントを越えると、「手当てをめぐる不正と闘うために「手当てホットライン」を開設した」。もっとも、内務省の計算によれば手当ての不正請求は社会保障予算の0.8パーセント未満にすぎなかった。

ついに政権交代が起こり、ブレアが首相に就任する。教育や医療などへの公共サービスへの投資は増えた。一方で、ブレア率いるニュー・レイバーは「貧しい人びとと「仕事がない人びと」の態度と行動を変えることによって貧困は減らせるし、社会的な不平等は改善されうる」とした。「取り組まなければならないのは雇用主の行動ではなく、教育や動機の欠如」ということになる。

「アンダークラス」への対応は社会的分断を深めることになる。「政府は反社会的行動禁止令を実施し、外出禁止令を出したり、問題を起こしがちな人物が特定の地区に立ち入るのを禁止したりすることにより、困窮した地域で問題行動をとる者たちを罰した」。不良たちに安全を脅かされ、政治家と警察から忘れ去られていた労働者階級の住民には歓迎する人もいたが、一方で「権力の座にある人たちを見つけるより簡単なわけですから、みんなあの若い人たちに文句を言ってますよ」という声があるように、本来取り組むべきことから目をそらせるための政策でもあった。

「反社会的行動禁止令によって社会的な分断は強化された。無責任なアンダークラスとそのまわりに住む勤勉な人びととのあいだの分断ではなく、豊かなエリートと仕事や財産や権力のない人びととのあいだの分断である」。
「労働者階級のコミュニティは社会的な「包摂」を進めるよう促されるのに対して、金銭的な面での包摂は優先事項ではなかったのだ」。


2011年に行われた調査では、労働者階級の年配者の間に「自分たちの子供たちや孫たちは、結婚をして子供をもてるほどの余裕が手にできないのではないか」との不安が広がっていることが明らかとなった。

「トニー・ブレアは新たな雇用構造を公共部門に採り入れ、仕事の柔軟性を強調しつつ、成果に応じた給与の支払いを導入した。ブレアは「成功する公共サービスとはフレキシブルなな雇用と労働の実践」であり、これには「フレキシブルな給与制度」と出来高に応じた給与といった「インセンティブ」が含まれると主張した。終身雇用と固定給と昇進構造は生産性の邪魔をする「制約的な実践」なのであった」。

同じく2011年の調査によると、働く成人ひとりにつき約4.5日の労働日が病気のために失われているが、「もっとも上位を占める原因がストレス、抑鬱、あるいは不安であった」。鬱病のような精神の不調を抱え、病気の状態で職場に来る人の数が急増したことを雇用主の側も報告している。とりわけ2008年に始まった景気後退期以降は、病気によって仕事を失うことを恐れ、心身に不調を抱えても仕事を休むことができない人が増えている。

一見豊かさを享受できるようになったかのようなブレア政権時代のイギリスであるが、労働者たちは絶え間ない不安に苛まれるようになった。そしてこの不安を利用し、さらなる分断が図られていく。2010年には保守党の財務大臣ジョージ・オズボーンが「給付金に頼って人生を寝て暮らす」ような「義務怠慢な人」や「責任回避者」を批判した。翌年には「デイヴィッド・キャメロンは、「努力なしでも与えられる報酬、罰の与えられない犯罪、責任をともなわない権利」の結果もたらされる犯罪と十代の妊娠と失業に特徴づけられた「壊れたイギリス」を立てなおすと約束した」。メディアもこれを無批判に拡散した。高級紙とタブロイド紙において「金をせびる人(スクラウンジャー)」という語が使われたのは2007年には46回だったのが、2010年には219回、2011年には240回に増えていく。1975年生まれの著者が同級生と再会すると、そのほとんどが、「「給付金を受け取るに値しない人たちも存在する」と信じていた」。
2011年の調査では労働者階級は「怠惰」「強欲」「薬物中毒」といったイメージと結び付けられ、中流階級は「勤勉」、「努力」をして「才能」をもちあわせているというイメージと結び付けられていた。

詐欺的に要求されているのは福祉予算の1パーセントに満たず、2010年から13年までのあいだに手当ての削減で影響を受けた人の60パーセント以上が働いている人びとだったが、労働者階級の間にも実態に基づかない印象が広がっている。元バスの運転手だった男性は福祉手当で生活いている人を「金をせびる人」と呼び、自分が生活が苦しく酒もタバコもやめなければならなくなったのに「金をせびる人」が酒やタバコをやっているのに腹が立つとしている。「しかし「福祉に頼って」いる人たちに向けられる怒りは、しばしば人びとの自分たち自身が置かれた状況への失望によって喚起されるものなのである」。

政治家たちは人種を、そして移民を分断に利用する。安価な労働力として移民を利用しながら、失業の原因を移民のせいにする。80年代を通して保守党に投票していたデボラという女性は、労働党支持者である父親と「黒人」に対する嫌悪を共有していたが、彼女の住む「小さな町では黒人をひとりも知っていなかったし、見たことさえなかった」。デボラは悪いことだとは思っていても、黒人が近所に引っ越してきたら出て行くと語る。「わたしたちは黒人と一緒に育ったことなんてないし、彼らがどんな生活をするか知らないから」。

「しかし、そうした態度は不可避だったわけでもなければ普遍的だったわけでもない。デボラの町よりも移民の数が多い地域に住む年配の白人労働者階級の人びとの多くは、イギリスが人種的、民族的にますます多様になっていくことがよい方向に向かう変化になりうると思っていた」。ところが「白人の労働者階級の人びとが不平等について語ることを許容された唯一の枠組みが人種と移民になってきた」。「雇用主や政治家から仕事や住宅の数には限りがあるのだと言われると、人びとは移民労働者に与えられる機会と比べて自分の子供や孫たちに与えられる機会のことが心配になる」。

「どの主要な政党も経済的な格差に終止符を打つとは言わず、すべての政党が移民を制限する必要があると述べる国において、人種は白人の労働者階級の人びとが自分たちの産み出す商品とサービスに対して権利を主張することができる唯一の方法になってしまっているのだ」。

支配層による福祉への攻撃という点では20世紀初頭に戻ってしまったかのようであり、その策動によって労働者階級内に広まる分断は状況がさらに悪いものであるようにも思えてくるが、著者は最終章において、ウィルキンソン、ピケットの『平等社会』やオーウェン・ジョーンズの『労働者階級の不良たち(チャヴス)』がベストセラーとなり、またイギリス人の60パーセントを越える人が自らを労働者階級であると思っていることなどに希望を見出そうとしているような締めくくりをしている。しかしその後に書かれた「後記 わたしたちの現状 2011-2015」ではやはり暗くならざるをえない。

『平等社会』を熱心に読んだと語るキャメロンだが、「政府は政権発足以降十八歳の三分の一しか高等教育の恩恵にあずかれていないという事実にもかかわらず、大学が授業料を三倍にするのを認めた。福祉の給付金を減らし、給付金の申請をむずかしくした。何千人もの人びとを公営住宅から立ち退かせ、所得税ではなく消費にかかる付加価値税を増税することで、もっとも稼ぎの低い人びとが不当に厳しい生活を強いられる状況をつくりだした」。

職があってもこれを失うのではないかという不安に苛まれ、厳しい労働条件で長時間働こうとも生活は苦しい。労働者階級が団結することを何よりもおそれるエリート層は、なんとか職がある人と、失業者・福祉手当受給者・移民との間に分断が起きるよう誘導し、メディアもそれに加担する。こうして労働者階級をめぐる状況は悪化の一途をたどっているように思えてきてしまう。

ただ絶望するしかないのだろうか。それこそがエリート層の望みだろう。著者はこの言葉で本書を締めくくる。
「人びとはたいていの場合、成功の望みなどほとんどない状態で何かを変えることに着手したが、変化のペースは人びとに勇気を与えるくらい急速であることも多かった。一九三三年の暗黒の日々に、十二年後にはイギリスが完全雇用と福祉国家へと邁進しているなどとは誰も予想できなかったことだろう。また、一九四五年の総選挙で票を投じた人びとは、自分の子供たちが一九六〇年代と一九七〇年代の抗議活動を通じて黒人、女性、住宅を貸借している人びと、ふつうの労働者の権利の拡大を大幅に推し進めることに貢献しようとは予見できなかったのではないだろうか。もし過去が何かしらわたしたちに教えてくれることがあるとすれば、それは次のことである。もしよりよい未来を望むのならば、私達はそれをみずからの手でつくることができるということであり、つくりだすべきだということである」。


『ビル・クリントン  停滞するアメリカをいかにして建て直したか』

西川賢著 『ビル・クリントン  停滞するアメリカをいかにして建て直したか』





完全に中立公正、客観的な伝記などというものはあり得ない。ましてや同時代の政治家の評伝であれば、なおさらのことだろう。本書はサブタイトルからも窺えるように、リベラルに傾き民心を失った民主党を中道化することで党を、そしてアメリカ合衆国をも立て直した大統領としてビル・クリントンを高く評価する立場で書かれている。もちろんこの評価は民主党リベラル派からすれば大いに異論があることだろう。

クリントン政権/民主党が94年の中間選挙で大敗し右傾化した後に、クリントンは「いまやニュー・デモクラットからニュー・リパブリカンになったのだ」という声が「冗談」として紹介されているが、これはリベラル派からすれば冗談などではなく、クリントン政権の本質を表す言葉と受け止めたことだろう。

ビル・クリントンは96年の再選を目指し、一度は袂を分かったディック・モリスを呼び戻した。ネガティブ・キャンペーンを得意とするモリスは、よくいえば選挙のプロであるが、悪く言えば政治信念もへったくれもなく、選挙の勝ち負けにしか興味しかない人物である。私的なアドバイザーであるだけにも関わらずホワイトハウスを我が物顔で闊歩するモリスには、クリントンの側近の多くも不快感を持ち、ある人物は「ヒトラーとマザー・テレサに同じ日に助言できる男」、「政治的損得勘定でしかものを見ない男。善悪の区別はなく、国益にもっともよいことは何かという視点もない」と評したという。

このモリスが考案したのが、「三角測量」という戦術だった。モリスはクリントンが民主党からの支持を得ようと過度に左傾化し、「ニュー・デモクラット」としての中道的な政治的立場を失ったと考えた。「三角測量とは2大政党の従来の見解を両辺に置き、その中間に大統領の主張を置くという戦略である」。要は民主党リベラル派を切り捨ててでも、共和党の主張を選択的に先んじて取り入れることで機先を制し中道、さらには右の票も取り込もうとする戦術である。

議会共和党が主導した「個人責任・就労機会均等法」は社会保障の受給を大幅に、厳しく制限するもので、クリントン政権内部でも反対が強く、拒否権を行使すべきだという意見もあったが、クリントンはこれを押し切って法案に署名する。これに抗議して保健福祉次官補など数名が辞任することになる。

確かにこれはアメリカに広がっていた社会保障制度への不信感に応えるものとして、選挙に勝つという面ではプラスになったかもしれない。しかし選挙に勝ちさえすればそれでいいのかと、リベラル派は不信感をつのらせることになる。「大きな政府の時代が終わった」と「高らかに謳いあげる」クリンントン政権は、自己責任を強調して貧しい人や失業者を切り捨てる共和党と変わりがないのだとリベラル派には思えただろうし、これは後にヒラリー・クリントンの大統領選挙にも影を落とすことになる。

著者はクリントン政権以降の民主党についてこう評価する。
「民主党左派はニュー・デモクラットの中道路線を嫌い、財政均衡、福祉改革、厳格な犯罪対策、北米自由貿易協定、世界貿易期間の設立協定などクリントン政権の成果を「悪しき妥協の産物。共和党の猿真似」であると否定した。/民主党左派はニュー・デモクラットのことを「民主党に巣食う共和党員ども」と呼び、党の主導権を握った。/2000年の大統領選挙でビルの後継者だったゴアはブッシュに惜敗。2008年の民主党予備選挙でヒラリーも民主党左派の候補であるバラク・オバマに敗れてしまう」。

さらには「オバマ政権は、中道路線を歩んだクリントン政権とニュー・デモクラットに対する「民主党左派の反動」という顔を持つ」とまで書くのだが、この見方はかなり独特で、一般的にはオバマ政権の政策はむしろクリントン政権を引き継いだ中道路線という評価ではないだろうか。まるで民主党が左翼に乗っ取られたかのような口ぶりであるが、オバマ政権が「 民主党左派の反動」によって生み出されたと見えるならば、それはあまりに右寄りの視線であろう。

どちらかといえば、民主党の中道化を狙ったクリントンやゴアらの「ニュー・デモクラット」よりも民主党リベラル派にシンパシーを持つ僕のような人間からすると、このようなリベラル派を切って捨てる民主党中道派の態度にこそ問題を感じてしまう。
このあたりは2016年の民主党予備選挙でも大いに議論されたことであり、執筆、刊行は本選の前であるとはいえ 、大統領選挙の結果を受けて本書を読むと、いろいろと考えさせられることになる。


1992年の民主党予備選挙で、カリフォルニア州知事だったジェリー・ブラウンは、「「アメリカを取り戻せ」をスローガンに掲げて腐敗したワシントン政治からの脱却を訴え、議員の任期制限や選挙資金改革を公約に掲げ、100ドル以上の選挙献金を受け取らないと公言するなど、注目を浴びていた。/ブラウンの外交政策は「零細な農民、ビジネスマン、アメリカの一般家庭が財政赤字から解放されるそのときまで、1セントたりとも対外援助に支出すべきではない」といった極端なものであり、カナダ、メキシコとの北米自由協定(NAFTA)締結にも反対していた」。

ブラウンの主張である「腐敗したワシントン政治からの脱却」や保護主義は2016年におけるバーニー・サンダースを彷彿とさせるものがあるし、対外援助に対して敵愾心を表し、アメリカ国民を最優先に考えるべきだとしていることや「アメリカを取り戻せ」というスローガンはドナルド・トランプをも想起させる(ブラウンのスローガンは「take back America from the confederacy of corruption, careerism, and campaign consulting in Washington」というものだった)。

また92年の大統領選で旋風を巻き起こした、経済に強いというイメージが売りである実業家のロス・ペローもNAFTAに反対の論陣を張っていた。政治経験のない、ワシントンのインサイダーではないビジネスマンであることを強調し、保護主義を唱え、政策に一貫性が欠けその場の思い付きのような言動を繰り返すことでは、ペローとトランプの間にも共通点は多い。
このように、トランプはここ数十年のアメリカのポピュリズムの流れをふまえてあのような主張をしていたことは間違いない。

クリントンに代表されるニュー・デモクラットは、民主党が「人種マイノリティ、同性愛。フェミニズムの活動家の党」「増税容認の党」「犯罪に甘い党」「福祉受給者や貧困者の党」といった「レッテル」から逃れなければならないとし、「従来までのリベラル一辺倒の主張を繰り返し、労組や人種団体・フェミニズム団体、環境保護団体・消費者保護の団体などの中核的支持基盤に訴えかけるだけでの路線だけでは、選挙に勝てない時代が来てしまった」と考えた。
クリントンは「忘れられた中間層」の代表であることを強く押し出し、「60年代以降、民主党に背を向けていった有権者層を取り戻すこと」を狙いとした。

トランプ支持者というとすぐに白人ブルーカラー層を思い浮かべる人も多いかもしれないが、実際にはミドルクラス以上の収入がある白人中高年層もかなりがトランプに流れた。あるいはヒラリーは、選挙戦術だけを考えたなら、ビルと同じように中間層に狙いを絞った方が票を固めやすかったのかもしれない。

しかし、ブラウンもサンダースも民主党予備選で敗れ、ペローも「旋風」止まりであったにもかかわらず、トランプはといえば共和党予備選ばかりか大統領本選でも勝ち抜いた。これをブルーカラー層の不満を吸収したことやミドルクラスが「実利」でトランプを選んだとするだけでは、分析は不十分だろう。

民主党左派はワシントンのエリートが政治を仕切ることを批判し、経済政策では保護主義を訴えることである程度の成功を収めることはできたが、勝つことはできなかった。ブラウンやサンダースやペローになくトランプにあったものは何か。いったい何がトランプを勝たせたのかは、「 ヒトラーとマザー・テレサに同じ日に助言できる男 」であるモリスがクリントン側近に復帰し、政策にも口を出すようになり右傾化した後のクリントン政権の動きから見えてくる。

96年4月に「反テロ及び死刑厳格化法」が制定され、「これによりクリントンは「犯罪者に厳しい」「安全保障に力を入れている」というイメージを強めた」。

「96年9月、「不法移民改革および移民責任法」の成立により、移民法が大きく改正された。これによって出入国管理が厳格化され、不法移民の国外追放の簡素化のほか、不法移民の行政サービスの受給禁止、移民の家族呼び寄せに対する制限などが設けられた。/さらに、クリントン政権は不法移民と知りつつ雇用した企業を罰する法案の制定を議会に要求したが、これは否決に終わった。なおこの時期、メキシコ国境に警備隊を増員し、国境フェンスも増設している。/同じ9月には「結婚防衛法」が成立した。この法は夫婦としての一組の男女間の合法的結びつきのみを結婚とみなし、これに当てはまらないカップルに連邦法上、夫婦に与えられるべき権利を認められないという規定が定められていた。/93年にハワイ州で同性カップルの結婚を認めようとする動きがあり、それに続こうとする州も出はじめていたが、結婚防衛法はそうした動きを封じるものである」。

「クリントンは福祉改革、テロ対策、不法移民対策、同姓婚への反対、規制緩和・自由競争の促進といった領域では三角測量の戦略に従って、「保守的」な立法を成立させていった」。
こうしてクリントンは再選に成功するのである。

「犯罪者に厳しい」というタフでマッチョなイメージを作り出し、同姓婚を阻止しようと法改正を行うといったことは共和党のイメージ及び政策を取り入れたものであり、さらには「不法移民の国外追放の簡素化」や「メキシコ国境に警備隊を増員し、国境フェンスも増設している」というのは、トランプのやろうとしていることと見紛うほどである。
トランプが共和党予備選を勝ち抜いたときに、「トランプは差別主義者であるにも関わらず勝ったのではなく、差別主義者であるからこそ勝てたのだ」といったような意見を目にしたが、アメリカで選挙に勝つにはこれが最も「効果的」な姿勢であるという状況は20年前にはすでに生じていたのであったと考えることもできる(実はオバマ政権にしても、このような政策を部分的にとっている)。

トランプはそれを「法の厳格な適用」といったオブラートに包んだ表現を使わずに、直接的に、臆面も無く、差別まで含めて言い放った。選挙結果を見るとトランプは必ずしも強い支持を集めたわけではないが、それでもヒラリーが広く支持を集めるのに失敗したということは、こういった言説に対抗しようとするアメリカ社会の強い意志が失われていたということを表している。

本書でも触れられているように、クリントンは幼少期の体験もあって黒人とも緊張せずにリラックスして、親しく付き合うことができた。恵まれない家庭環境に育ったこともふまえて、トニ・モリソンがクリントンを「アメリカ史上初の黒人大統領」と呼んだことは有名である。そのクリントンですら、アメリカに蔓延るメキシコ人への差別感情を政治的に利用したのだとされても仕方ないであろう(と、そこまでの表現がきつすぎるにしても、白人を中心として広く行き渡った差別感情と正面から戦わなかったし、仮にそうしようとしても、モリスのような男は選挙に不利に働くと徹底して反対したことだろう)。

なんといっても注目すべきは、上下両院を共和党が支配していたにも関わらず、「クリントン政権は不法移民と知りつつ雇用した企業を罰する法案の制定を議会に要求したが、これは否決に終わった」ことである。つまり、「実利」的にみれば、共和党支持者ですら企業が不法移民を雇用するのを禁じられると困ると考えていたということになる。メキシコ人がアメリカの白人の職を奪っているのではなく、白人がやりたがらないようなきつい仕事を低賃金で担ってくれるメキシコ人なくしては、アメリカは最早経済的にも社会的にも回らなくなるほど依存を深めている。このあたりは、「外国人実習生」という名の事実上の労働者(ただし移民と違って数年で追い出す)を劣悪な環境下で酷使しておきながら、実習生がその人権無視の境遇に耐えられずに逃げ出すと、「治安への脅威になる」などと煽り立てる日本の右派とやり口は同じである。

クリントンの名誉のために言うと、中絶をめぐっては共和党の求めに対し拒否権を行使しているし、環境問題でも「リベラルな成果を達成している」。とはいえ、「かくして、巧みに「保守とリベラルの中間」に絶妙な軌道修正を果たしたクリントン」とまで称賛することにはためらいを覚えざるを得ない。著者は「クリントンの評価はいまなお上昇傾向にあり、その名はもはや民主党支持者に安心と安定を与える「優良ブランド」になった感さえある」として、「ヒラリー・クリントンが「もう1人のクリントン」として早くから注目されてきたのも、こうした背景によるところが大きい」と書くのであるが、「クリントン・ブランド」は予備選でも本選でもヒラリーに対してむしろ逆風として働くことになる。

少なくともヒラリーは差別発言を行わないし、差別煽動的政策を掲げてもいなかった。トランプは個別的な政策の是非以前の問題として、山のような差別発言を繰り返す時点で論外としなくてはならないはずだった。民主主義社会の責任ある一員であれば、トランプ大統領の誕生だけはなんとしても阻止するという強い意志と行動が求められたが、学歴や収入に関わらず、とりわけ白人中高年層の少なからぬ部分がそのような価値観を最早持ってはいないのだということが、2016年の大統領選挙によって露になってしまった(もちろんこれはアメリカの白人中高年層だけの問題ではなく、トランプやその周辺の深刻な言動をも「おもしろいネタ」として扱う日本を含む各国のメディアも同罪である)。そしてその兆候は、ビル・クリントン政権の時にすでに表れていたとすることもできるだろう。


あと政策とは関係はないが、こんなエピソードもある。93年の予算案を通すのにクリントン政権は苦しむ。共和党が全員反対に加え民主党からも造反者が出てしまう。上院は50票対50票となり、上院議長である副大統領ゴアの1票でかろうじて通るという有様だった。下院は218票対216票で可決されたが、これは最後まで態度を決めかねていたマージョリー・マーゴリーズ=メズビンスキーが賛成に回ったおかげであった。「最後の1票」を投じたせいかはともかく、マーゴリーズ=メズビンスキーは翌年の中間選挙で落選してしまうことになる。時は流れ2010年には、このマーゴリーズ=メズビンスキーの息子のマーク・メビンスキーがクリントンの娘のチェルシーと結婚することになるのである。だからなんだといえばそうであり、別に政略結婚だというわけではないが、「ワシントンのインサイダー」のネットワークを見せ付けられているように思われてもしまいかねない。


すでに書いたように、クリントン政権への評価という点では僕は著者とはかなり意見が異なるのであるが、現在のアメリカ社会・政治を考えるうえでクリントン政権を功罪両面から様々な角度で検証することは不可欠であろうし、そのための貴重な情報を与えてくれる一冊となっている。


チャップリン演説再び

Soldiers! don’t give yourselves to brutes - men who despise you - enslave you - who regiment your lives - tell you what to do - what to think and what to feel!

兵士たちよ! 獣どもに身を委ねてはいけない。奴らはあなたを見下し、奴隷にし、生き方まで統制して、こうしろ、こう考えろ、こう感じろとまで命令するんだ!


ご存知チャップリンの『独裁者』のあの有名な演説より。




今これを聞くと、兵士たちへの呼びかけをアメリカ市民に、あるいは日本を含む多くの国の市民に置き換えてもそのまま通じるように思えてきてしまう。

「理性の基準に従わない世界の様々な動向を、主体的な努力によって制御することができる」と信じた啓蒙が、「過酷な現実が延々と広がる一様性」しか認めず、「勇気をかなぐり捨て、あらゆる積極性をはなから欺瞞と決めつけ、ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さ」となり、理想に対して侮蔑や嘲笑を浴びせかけるようになるまでに変質していく過程を描いたスローターダイクの『シニカル理性批判』を読んでふと思い出したのが、この演説だった。

『シニカル理性批判』の感想の中で、日本におけるシニシズムの一つの表れとして啓蒙を「口うるさい学級委員長」といった程度のものへと矮小化しようとする「80年代的感性」をあげたが、それは僕自身がまさにこの中で育ってきたからでもある。日本の「80年代感性」においては、チャップリンのこの演説に素直に感じ入ってしまうことほど恥ずかしいものはないだろう(「チャップリンなんてあんなものお涙頂戴じゃないか」となる)。

芸能人になんて説教されたくない、ましてやそれが「正しい」ものであればあるほどムカつく、という感性は、いつの時代にもどの地域にもあることだろう。『チャップリンとヒトラー』(大野裕之著)によると、公開当初はアメリカでも批評家筋にはこの最後の演説は圧倒的に不評であったようだ(これには内容そのものさることながら、あえて映画文法を逸脱させたその手法への冷ややかな視線も含まれているだろう)。

チャップリンのこの演説は啓蒙的というよりも、素朴なヒューマニズムに根差したものだとした方がいいだろう。それだけ率直にして切実な訴えであると受け止められると共に、その分だけ「恥ずかしい」ものと感じる人も出て来ることになる。

啓蒙によって懐疑精神を得た人間は、世界を変えていこうという理想をも懐疑するようになり、「人間的な文化が生んだ様々な理想に言及するにしても、嘲笑か無効宣告という形でないかぎり、もはや耐えら」れず、「過酷な現実」の前に「ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さ」によって身を守ろうとする誘惑にかられ続けることになる。

スローターダイクが書くように、これは近年になって突如生じたものではなく、長い年月に渡って繰り返されてきたことだ。しかしだからこそまた、チャップリンの素朴なヒューマニズムに基づくメッセージもまた普遍性を持つことともなる。


Then - in the name of democracy - let us use that power - let us all unite. Let us fight for a new world - a decent world that will give men a chance to work - that will give youth a future and old age a security. By the promise of these things, brutes have risen to power. But they lie! They do not fulfil that promise. They never will!

さあ、民主主義の名の下に、この力を使おう。みんな団結するんだ。新しい世界のために戦おう。人びとに働く機会を与えてくれる、若者には未来を、老人には安心を与えてくれるまともな世界のために。こういうことを約束して、獣どもも権力を持った。でも奴らは嘘つきだ!こんな約束など守ってくれはしない。奴らは決してやりはしない!


シニシズムにとり憑かれた人びとやそれに煽動される人びとに、啓蒙やヒューマニズムによって対抗できるのかは、近年の世界各地の動きを見ると心許ないというのが正直なところでもある。しかしチャップリンの演説が教えてくれるのは、働く機会が与えられ、若者が未来を夢見ることができ、老人が安心して暮らしていける社会こそが昔から多くの人が望んでいるものだということだ(貧困家庭出身のチャップリンは何よりもこのことを強く感じていたことだろう)。

アメリカでは1930年代にF・D・ルーズヴェルト政権によりニューディール政策が始まり、イギリスでは45年に労働党が保守党を破り福祉国家へと一気に舵を切った。アメリカでもイギリスでも共和党/保守党への政権交代はあったが、ニューディール体制、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家は維持されていった。最大の理由は有権者がそれを望んだということだが、もう一つ重要なファクターは、共産主義の拡大を防ぐことであった。完全雇用と分厚い社会保障は、国民世論の左傾化への防波堤としても機能した。

多くの人が「革命」に希望を託すことができなくなると、右派は安心して福祉国家を破壊し、完全雇用と分厚い社会保障を葬り去ることに一切のためらいをもたなくなった。それがサッチャー/レーガン以降の英米であり、多くの国がそれに追従した。こうして破壊されたのは、左傾化への防波堤ではなく右傾化への防波堤であった。不安と猜疑心に支配された「過酷な現実」である世界は、歯止めなく右へ右へと落ちていくし、これこそが右派の狙いであった。

ここで行われるようになったことを右翼的グローバリゼーションとでも呼んでもいいのかもしれない。サッチャーやレーガンがまず血道をあげて取り組んだのが労働組合の弱体化であり、社会保障の削減だった。失業者や貧困者が社会保障を受け取ろうにも、19世紀に逆戻りしたかのような過酷なミーンズテストによって尊厳が傷つけられ、スティグマ性は高められた。失業しているということは、貧しいということは、同情ではなく再び蔑視の対象とされるようになってしまった。失業への恐怖心は高められ、仕事を失いたくなければ低賃金、劣悪な労働環境、不安定雇用を受け入れるよう迫られる。頼れる組合はもうなく、それどころか組合は雇用の敵だという考えすら植えつけられる。国境を越えて労働者を入れ、国境の外に仕事を出して企業は利益を出すが、経営者や富裕層は税金を払うことすら拒み、自らの手にその利益を抱え込むだけで、とりわけブルーカラーの労働者たちは国の指数でどれだけ景気が良くなろうともその恩恵をまるで感じることができない。政治家や経営者たちは矛先がこちらに向かわないように、「移民が仕事を奪った、外国人によって社会保障が食い荒らされている」という世論を作り出す。移民やアウトソーシングのおかげで自分たちは利益をあげ、労働者を締め上げて、労働者や貧しい人びとを反目させ合い、連帯を阻み、孤立化させ、わかりやすい「敵」をでっちあげることで政治的に吸い上げていく。サッチャーやレーガンをはじめとするいわゆる「ネオリベ」の政治家が総じてナショナリズムを煽りたて差別的政策を取るのは偶然ではない。

またこういった政治家は往々にして国家への奉仕を求め、「伝統的価値観」を擁護し、個人主義の「行き過ぎ」を批判するのであるが、実際にやっていることはといえば、中産階級以上の階層に「もうこれ以上社会保障を手厚くすることはできない、そんなことをしようとすれば税金が上って馬鹿を見るのはあなたたちだ、失業や貧困に陥るのは自己責任による自業自得であり、外国からあなたがたの税金にたかりに来る連中になぜカネを与えなければならないのか」と、失業者や貧困者、移民、さらには難民までをも蔑むよう誘導し、保身を第一に政治行動を取るよう促す。


右傾化への防波堤が何であるかは言うまでもない。とはいえ、確かにニューディール体制やイギリス型福祉国家を現代にそのまま蘇らせることは困難だろう。しばしばし指摘されるように、福祉国家は政治的には国境が閉じられていることが前提となっていることが多く、北欧諸国が高福祉を実現できたのもその影響が大であろう。北欧諸国も右派によって移民を制限するか福祉国家を放棄するかという選択が持ち出されるだろうし、すでにその兆候は表れてきている。

偏見に凝り固まり、差別に煽動されてしまう人の多くが被害者意識を抱いていることだろう。確かに慣れ親しんできたつもりの社会が大きな変化を迎えると、不安にかられるのは当然のことだ。しかしだからといって、不公正な社会を改善するためには啓蒙の理想に基づく社会を築く夢を放棄し、社会的不公正よりも経済的不公正に集中的に取り組むべきだという「戦略」をとることは極めて危うい。アメリカの「白人ブルーカラー層の声も聞け」という主張そのものは正しい。そして被害者意識によって差別や偏見を正当化する人びと(もちろん白人ブルーカラー層のすべてがそうだというのではないし、ミドルクラス以上の階層にもこういう人は大勢いる)にどう声を届けるかというのは左派にとって重要な課題であるが、しかしその答えは差別や偏見に目をつむれということではないはずだ。そこを転倒させて、「あれかこれか(社会的不公正と経済的不公正のどちらに優先的に取り組むか)」という「戦略」を取ることは、一見すると「現実的」なようで右派の罠に落ちているにすぎない。

「decent world 」を築くのだという意志と勇気を失い、強欲と憎しみと不寛容に屈しては、世界は「獣ども」の手にむざむざと落ちていくだけとなってしまう。


Dictators free themselves but they enslave the people! Now let us fight to fulfil that promise! Let us fight to free the world - to do away with national barriers - to do away with greed, with hate and intolerance. Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men’s happiness. Soldiers! in the name of democracy, let us all unite!

独裁者どもは自分たちは好き放題やり、大衆を奴隷にする! さあ、まともな世界を築くのだという約束を実現するために戦おう! 世界を解放するために戦うんだ。国を遮る障壁を取り払おう、強欲と憎しみと不寛容を払いのけよう。科学と進歩が全ての人間を幸せにする理性ある世界のために戦おう。兵士たちよ! 民主主義の名の下に、皆で団結しよう!


青臭い? 気恥ずかしい? まあね。でもそう言われ嘲笑われることを恐れるあまり「賢しら」になることこそが「獣ども」の望みであるのだから、むしろ今こそ堂々とヒューマニズムと啓蒙の旗を掲げ、カントが希望を抱いていた「みずみずしい性質の勇気」を再び持たなければならないのだと、久しぶりにこのチャップリンの演説を見て、自分自身にそう言い聞かせている。


『シニカル理性批判』

ペーター・スローターダイク著 『シニカル理性批判』



「あえて賢くあれ(sapere aude!)、汝自身の悟性を用いる勇気を持て、これがすなわち啓蒙の標語である」。

イマヌエル・カントは『啓蒙とは何か』で、「まだ自信に溢れていた近代の主観的理性論のスローガンをこう定式化した。「いまだ」理性の基準に従わない世界の様々な動向を、主体的な努力によって制御することができるとする、懐疑的楽天論と自負とがそこにあった。カントが参集を呼びかけた「自ら知ることができる」が、「現状」に絶望した近代が知らない、みずみずしい性質の勇気によって支えられている」。


では現状に絶望した、「みずみずしい性質の勇気」を失った人々はどうなるのだろうか。

「かつて見た世界の破局や今また忍び寄る破局を考えれば、歴史に鬱屈した今日の生活感には、もはや、こんなものをまともに信じることはできまい。この生活感、「自身の悟性を用いる」気など毛頭ないような顔をしていることもしばしばだ。理性の勇気もあらかたに失ってしまったゆえに、啓蒙の遺産を受け継いだ跡取りたちは、今日、神経質で疑い深く、幻想などけっして抱かず、全面的なシニシズムに至る道を歩んでいる。人間的な文化が生んだ様々な理想に言及するにしても、嘲笑か無効宣告という形でないかぎり、もはや耐えられないかに見える。啓蒙された虚偽意識としてのシニシズムは、勇気をかなぐり捨て、あらゆる積極性をはなから欺瞞と決めつけ、ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さになった。最後に笑う者は、胸膜震盪に襲われたかのように笑う。シニカルな意識は、あらゆる時代の「悪しき経験」をすべて足し算し、あとはただ見晴るかすかぎり過酷な現実が延々と広がる一様性だけしか認めない。近代のシニカルな意識とは、あらゆる「不道徳な知見の蛇の道」(カント『永遠平和のために』)が絡み合い縺れあう糸玉である。新手のシニカルな態度において、辛苦の世界史的な学習過程が完了する」。


日本では犬儒派と訳されるギリシャにおけるキニシズムがシニシズムへと変化する過程で何が起きたのだろうか。そしてニーチェに代表される哲学においてシニシズムがどう扱われていたのか。「ワイマール症状」とは右にも左にもシニシズムが浸透しきったものであり、まさにこのシニシズムこそがナチを生み出し育てていったものとなる。

スローターダイクのいう啓蒙を打ち壊すのも他ならぬ啓蒙であるとはどういうことだろうか。高田珠樹は「訳者あとがき」でこう書いている。「カントは『啓蒙とは何か』の中で、啓蒙を、人間が「自分自身のせいである未成熟状態」から脱却することであると説いた」。しかし、世の中には本音と建前というものがあることを学んだ、世の裏を知り、世慣れした「大人」はこのような主張をどう思うだろうか。

「個人は人類の一員として、目先の利益や自分の所属する組織や集団に縛られることなく、人類の普遍的な理念に従うべきだ、などといったたぐいの話は、大概のところ、単に世間知らずの人間が説く題目にすぎない。現実の中で生きてゆく、生き残るには、そのような題目に付き合っているわけにもいかないのだ。世の中には別の理論や仕組みが働いており、若いうちなら青臭い議論のひとつも愛嬌だが、いい年をして、二十歳前後の若造みたいなことを言っているわけにもゆかない、というのが本音だろう」。

「啓蒙の理想が単なる建前にしか感じられず、それが本気で説かれることに対して苛立ちを覚える。しかし、考えてみれば、この苛立ちもまた啓蒙の所産である。啓蒙が、無知と素朴という「蒙を啓く」ものである以上、啓蒙に対する素朴な信頼も、啓蒙自身によって打ち砕かれるのだ。近代の啓蒙主義の理念が、社会におけるあらゆる権威と強制が所詮、人間の作為によるものであることを暴露し、人間の意志にまさる基準など存在しないと断定したとき、価値や権威の絶対性を嘲る相対主義やシニシズムはすでに用意されていたといえよう。啓蒙自身に対する懐疑もまた啓蒙の必然的帰結なのである」(「訳者あとがき」)。


原著の刊行は1983年。古代ギリシャに始まりワイマール共和国に蔓延したシニシズムがナチズムを生み育てるまでを論じた本書は、左翼退潮の時代であった当時の状況を反映したものだろう。ワイマール時代は「理念が反故にされ、善意が有効性を持ちえない時代」であった。「リベラル派にさえ見られたナポレオン待望論や、社会民主党の政治化たちをも蝕む短絡的な現実論、あるいは「小売商人」たちに巣食う戦略的発想、人体を一種の義肢の集積と見なし、広大な宇宙の中では個人の苦しみなど無に等しいと考える人間観。こういった様々な精神的兆候が、翻ってみれば、すべて最終的にヒットラーの政権獲得に道を開き、ファシズムと戦争を準備するものであった」。

「西ドイツでも七〇年代に入って左翼運動が、自閉的となり、内部崩壊の過程を辿っていった。啓蒙的言説は、社会に対してストレートなメッセージを発することができず、次第に自嘲的、自虐的となってゆく。かつてワイマール時代のインテリたちのシニカルな言説が結果としてナチズムを許容し準備したのと同じように、ここにも新たなファシズムの生育する地盤が用意されているのではないか。こういったいささか悲観的な展望と危機感とが原著執筆の動機となっている」。

1996年に書かれた「訳者あとがき」の中で、高田は原著刊行から10年以上がたって、本書についてどう評価しているのだろうか。まずファシズムへの危機については「ワイマール時代とはかなり異なった経緯を辿ったと言うべきだろう」と、スローターダイクの悲観的な「時代診断や予告」が「さいわい、これまでのところ確証されなかったわけである」としている。一方で「われわれは今なお、このシニシズムの明けきらぬ薄明かりの中を生きているのだ」ともしている。

「本書で、ディオゲネス流の「素朴で健全」な批判と揶揄に、社会変革の希望が託されるのには、違和感や抵抗感を覚えられる方も多いのではないかと思う。世の「不健全」な心情の分析に発揮される著者の腕前に比べて、その主張はどこか凡庸で時代遅れにさえ映る。しかし、考えてみれば、何か積極的な希望を語ろうとして、凡庸でないことなどということは土台ありえない。むしろ、彼の語りにまず凡庸さを感じてしまうところに、われわれの悲観的なシニシズムの根深さが現れていると言えよう」。


訳書刊行からさらに20年が立った今、スローターダイクの分析、及び危機感は、むしろ切実さを持って感じられるようになったとすべきかもしれない。

スローターダイクが本書で描く、啓蒙の跡取りであるがゆえに啓蒙に侮蔑の念を抱き、啓蒙の理想を嘲笑うのは、まさに日本の「ネトウヨ」、あるいはアメリカの「alt-right」に代表される、世界各地に見られる近年台頭した新たな右翼とほぼそのまま重なるかのようだ。

「人間的な文化が生んだ様々な理想に言及するにしても、嘲笑か無効宣告という形でないかぎり、もはや耐えられないかに見える。啓蒙された虚偽意識としてのシニシズムは、勇気をかなぐり捨て、あらゆる積極性をはなから欺瞞と決めつけ、ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さになった」というのは、まさに今日の新しい右翼の姿の一部であろう。

「理想」を語る者は単に過酷な「現実」を知らない(あるいはそこから目をそむけている)愚か者で嘲笑の対象であり、自分たちは賢くもこの「現実」を認識し、それに適応しているのだということになる。もちろんこれは実際には、現実を変えるという「勇気」を持つことができず、「ひたすら無事に生きる」ことを願い権力や既成事実に追従することを正当化する言い訳にすぎないのであるが、啓蒙を説く「エリート」を馬鹿にすることによって得られる満足感も加味されるだけに(こういった人々ははたから見れば「強いものに弱い」だけなのであるが、当人の意識としては反権威主義だと思い込んでいる、あるいはそう思い込もうとしているというのもよく見られる)、一度この誘惑に屈すると逃れられなくなるのだろう。

むろんこれはインターネットが生み出したものではない。スローターダイクの危機感が70年代から80年代前半の社会状況から生じたものであるように、現在日本に蔓延するシニシズムの多くがすでに80年代には見られたものだ。現在のSNSでも、あえて差別語を使って顰蹙を買うことを積極的に望み、それに抗議する人を嘲笑することであたかも自分が優位に立っているかのような態度を取る人がいるが、このような人を見ると「80年代的だなあ」と思えてしまう。日本の「80年代的」感性とは、啓蒙を「口うるさい学級委員長」といったようなものに矮小化しようとしたものだとしてもいいだろう。啓蒙によって得たものによって啓蒙を矮小化し、啓蒙を無効化しようとする。もちろんこういったものは80年代前後の日本に初めて生じたものではなく、啓蒙の落とし子として啓蒙とともに常に併走してきたものであり、さらにはシニシズムの誕生にまで遡ることができる。


現在世界各地で起こっていることを考えるうえでも、本書は今だからこそ広く読まれるべき重要な一冊であるのだが、正直にいうとあまり頭に入ってこなかった。といってもこれは訳者のせいではないだろう。高田は「訳者あとがき」でこう書いている。初めて手にした時、「読みはじめると、理論的な記述や論証と違い、エッセイ風の曖昧な文体や、時にとどまるところを知らない饒舌の閉口させられ、キニシズムとシニシズムとの関係についての基本的なテーゼなどは一応理解することはできたものの、冗談とも本気ともつかない著者の文章のそれぞれが最終的に何を志向しているのかしばしば見当が付かず、当惑させられたことが記憶に残っている」。

僕はドイツ語をまるで読めないので確かめようがないが、ドイツ語ができる人にとっても頭に入りづらい文体なのではないだろうか。また文体のみならず、その長さのせいもあるだろう。

ソクラテスやプラトンの時代に、「富や名声に頓着せず、薄汚れた姿でアテネの町を徘徊」するディオゲネスは「世間の権威や当時の風習を嘲り諷刺」した。スローターダイクはその「権威に対して噛み付く」姿に「啓蒙が備える否定と抵抗の精神の原型を見て取る」。「ところがローマ時代のルキアノスとなると、同じく世間を嘲り嘲笑すると言っても、その矛先は、むしろ権力に対してではなく、権威や権力を昔と同じ論調で批判し続けるかつての仲間たち、キュニコスに向けられる。権威に対抗するとは言いながら、そのもったいぶった口調は何だ。批判精神と称しながら、素朴でおめでたい。おまえたちこそ時代から何も学ばず、自分の在り様すら理解していないのだ……」と、このあたりは現在のある種の人々のメンタリティを的確に言い表しているかのような注目すべきところである。遠慮会釈なく大胆不敵、挑発的に権力に噛み付いていたキニシズムがシニシズムへと変質すると、権力への懐疑ではなく権力に噛み付く存在への懐疑へと変化し、権力へ噛み付く存在に対して噛み付くようになったのであった。それにしても、「訳者あとがき」では簡潔にまとめられているこの主張にスローターダイクはいったい何ページ費やしているのか……。

もちろんこの「饒舌」っぷりがたまらないという人もいるのだろうが、多くの人にとっては本文を読み通すのは結構骨が折れることになるかもしれない。そういう人はとりあえず「訳者あとがき」だけでも目を通してほしいし、どこかの誰かが本書の内容を手際よくまとめたうえで原著刊行後の社会状況などをふまえて論じたものを出してほしい。「凡庸」と嘲笑われようとも、啓蒙の旗を高く掲げることが求められている時代になってしまっているのだから。


プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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