『東京のハーケンクロイツ  東アジアに生きたドイツ人の軌跡』

中村綾乃著 『東京のハーケンクロイツ  東アジアに生きたドイツ人の軌跡』






ドイツ国外に住むドイツ人社会とナチスとの関係を東アジアを中心にたどっている本書の内容は、サブタイトルである「東アジアに生きたドイツ人の軌跡」の方がよく表しているだろう。


第一次世界大戦により日本の捕虜となった中国にいたドイツ人捕虜の中にはマイスターの資格を持つ職人も含まれていた。後に原爆ドームとなる物産陳列館ではドイツ人捕虜による作品物産展示即売会が開かれ、カール・ユーハイムによるバウムクーヘンはドイツ菓子ブームを巻き起こしたという。捕虜の中には釈放後に中国から家族を呼び寄せそのまま日本に移住した者もいた。マイスターの資格を持つ熟練職人は、ドイツパンやソーセージの知識をかわれ日本の食品業者に雇いいれられたり、またユーハイムのように自らドイツ菓子などの販売や喫茶店経営に乗り出す者もいた。

それまで日本に滞在していたドイツ人といえば外交官の他には商人や貿易商が中心であったが、この頃からそこに職人や手工業者なども加わるようになった。商人たちが愛用していた横浜や神戸の社交クラブは排他的であり、手工業者などは会員資格が得られなかった。そしてこのように排除された人々がまず、「職業、身分格差の撤廃」を掲げるナチズムに引き寄せられていくこととなる。

ナチズムの一つの側面であるエスタブリッシュメントへの挑戦を考えれば、このように差別的に扱われた人々が吸い寄せられていくというのは一つの典型であったのかもしれない。ヒトラー政権誕生以前に日本在住のドイツ人でナチ党に入党していたのは徒弟や事務員、主婦など「ドイツ人クラブの会員資格を有していなかった者が多」かったという。

政権獲得後のナチスはエスタブリッシュメント層の取り込みもはかることになり、このような姿勢は保身や出世欲にかられたエスタブッリシュメントにとっても利害が一致するものでもあった。


外国に住むというのは現在であっても特殊な体験であるといえるだろうが、当時であればさらにその傾向は強かっただろう。「本国並み」でありたいという意識と同時に日常的に外国人と接触するなどの体験から独自の意識も芽生えることにもなる。 類型化がより強化される面と、例外的事象が起こる面とがあるだろう。

東アジアではヒトラーが政権を獲得する前にナチ党へ入党していたのは職人層などが多く、政権獲得後は商社員などが流れ込んだ。外交官の入党が増えるのは1937年前後からとなる。
ナチ党の京浜支部は大使館への影響力を強め、日本のドイツ人社会にも「異端審問」のように介入を始める。「シュルツ夫人」は手紙でこのことへの不快感を表しており、彼女はナチ党に対しては極めて否定的であるのだが、同時に彼女の中には同時にヒトラーへの思慕の情というものも存在していたのである。

シュルツ夫人はそれまで「ドイツ人」として扱われていたユダヤ人が国籍を剥奪され、またドイツ人社会から疎まれ蔑まれることにも憤りを抱いている(彼女自身もともとはアメリカ人であったようだ)。このようにユダヤ人差別は東アジアのドイツ人社会においても横行していたのだが、またシュルツ夫人のような、現在から見ると奇妙な立場は外国住まいゆえという面もあるのかもしれない。


本書は東アジアでのドイツ人学校の動向にも注目しているが、教育というのはまさにそのような環境を反映した姿をとることになる。
外国にある学校であるがゆえにより「ドイツ人らしさ」を求める傾向があったものの、一方で「多文化・混合的」な環境でもあった。「ドイツ人」以外の生徒をどれだけ受け入れるのかというのは母語能力という観点からも問題となるのであるが、一定数のドイツ人以外も受け入れていた。ここまでは驚くにはあたらないだろうが、なんと第二次大戦勃発後もイギリス人生徒も引き続き在校し続けていたという。
もちろんナチスは教育現場に浸透しきっていたのだが、意図せざるものも含めて一種の「抵抗」が行われていたとすることもできるかもしれない。しかしまた、ユダヤ人の在校は無論認められなかったことを思えば、それを過大評価してはならないだろう。


戦後GHQは「好ましいドイツ人」と「好ましからぬドイツ人」とを分けるための調査を行ったが、シュルツ夫人の例に見られるように「ナチズムに懐疑的な者がヒトラーを信奉するなど、同一人物のなかにも親ナチ的と反ナチ的な要素が共存していたことがうかがえ」、明確な線引きなどできるはずもなかった。

「ヒトラー直々の信頼を得て」上海のドイツ総領事館に就任したクリーベルは、「筋金入りの党員」でありながら反ユダヤ主義を公然と批判したという。ナチスの勢力拡大に寄与したのは反ユダヤ主義よりも反共・反ソ感情であったという指摘は多いが、クリーベルの言動を見てもナチスを一枚岩として考えることはできない。同時に、また彼がヒトラーから信任を得ていたように、こういった事例も過度に評価すべきではないだろう。

外国という環境が類型化を強化すると同時に例外的事象も引き起こすこともあるのだろうと書いたが、社会に常に孕まれる、論理的には整合性のつかないような二面性がより極端に出るということでもあろう。まあそれは外国居住者に限らないのではないかといえば、そうかもしれないが。


本書のタイトルを見て反射的に手塚治虫の『アドルフに告ぐ』を思い出してしまったのだが、「あとがき」でもちらっと言及されていた。
読んだには随分昔のことで、子ども(というほどは小さくはなかったが)にとってはどちらかというと特高警察のほうがトラウマ体験であったのだけれど、久しぶりに読み返してみようかな(念のために付け加えておくと、『アドルフに告ぐ』はあくまでフィクションであって、この作品でキーとなるヒトラーにユダヤ人の血が流れていたという噂はカーショーのヒトラーの伝記でも完全に否定されております)。


『ゴールドフィンチ』

ドナ・タート著 『ゴールドフィンチ』





アムステルダムで、テオは数年ぶりに母の夢を見た。「一週間あまりもホテルにこもりっぱなしで、電話をかけるのも外出するのも恐れていた。ごくささいな音にさえ心が激しく乱された」。毎朝勤務につく従業員が増える前に、最悪の体調の身体を引きずってカオスと化した部屋を出て、人影まばらなロビーにおりて新聞をとった。かろうじて読みとれるオランダの地元紙には「未解決事件」、「犯人は不明」、「前科のあるアメリカ人」といった見出しが踊っていた。その「最悪にして最後の夜」、母の夢を見たのだった。「母が生きていたら、事態はもっと良くなっていたはず」だった。

あの日、テオは停学処分を受けていた。タバコが原因か、それともまさかあのことがばれたのか。テオと母は学校に呼び出されていた。会議が始まるのは11時半だったため母は午前休を取らねばならず、せっかくだからと朝食や買い物のために早く家を出たが、タクシーの荒っぽい運転に気持ち悪くなってしまい途中で降りた。歩きながら、母はここを見ると18歳でバスでニューヨークにやって来た頃を思い出すと言った。カンザスの田舎出身の母は、ニューヨークでモデルの仕事をして学費を稼ぎ、ニューヨーク大学で美術史を専攻し修士課程を終えた。父と出会わなければ博士課程に進んでいただろう。俳優をしていたこともある父との間にテオが生まれたが、アルコールの問題を抱えていた父は出奔し、ぞんざいな手紙一枚寄越したきりだった。母は広告会社に勤めていたが、経済的にはぎりぎりの状態になっていた。

横殴りの雨になり、『肖像画と静物画――黄金時代の北方の名画』と題された展覧会が行われている美術館に入ることにした。母が一番好きなのは、フェルメールの師ともされるレンブラント工房のカレル・ファブリティウスの『ゴールドフィンチ』だった。ファブリティウスは32歳で火薬工場の爆発で命を落とし、その絵もほとんどが失われており、これはわずかに現存する貴重なものだった。テオは気もそぞろなまま、同じく絵を見ている老人と少女に気を取られていた。急ぎ足で一回りしたが、母はもう一度レンブラントの『解剖学講義』を見返したいと言う。テオは一緒に戻らずにミュージアムショップで待つことにした。そして爆発が起こる。テオは瀕死の老人が倒れているのを見つける。老人は意識が混濁しており、『ゴールドフィンチ』を持っていくよう言うと、はめていた指輪をテオに手渡し、「ホバート&ブラックウェル」の緑色のベルを鳴らせと指示するのだった……


「訳者あとがき」で引用されている書評でスティーヴン・キングもミチコ・カクタニもディケンズに言及しているが、これは偶然ではなくタートの意図を汲んでのことだ。作中にもディケンズとその作品が登場する。「孤児」同然となる主人公、薄幸な少女、底抜けなほど善良な人物に、根はいいもののその環境から危うい道に足を踏み入れようとしている人物、禍々しい人物、幸福そのもののような家庭に差している影に、謎めいた家系。こういった要素はどれもディケンズ的であるが、何よりもタートが目指したのは、ディケンズ的なページをめくる手が止まらなくなるほどの面白さであろう。ポール・オースターは物語における偶然を擁護したが、『ゴールドフィンチ』も偶然が物語りを転がす部分が多く、もちろんこれもディケンズ的世界を意識してのことだろう。

もう一人重要な作家が、「白痴」という章があるようにドストエフスキーだ。『白痴』への言及もあるが、『罪と罰』や『賭博者』も陰に陽にストーリーに絡んでいる。

またテオはその家庭環境もあってなかなかの映画好きでもあるが、おそらく本作の肌触りに一番近いのは、(その長さも含めて)スコセッシの作品かもしれない。成り上がり、ドラッグ、疑心、暴力、破滅へ転がっていくといったあたりは非常にスコセッシ的だ。

ということで面白さ間違いなしという感じで、実際に面白かったのであるが、とはいえやはり長すぎるかなというところもなきにしもあらずでもあった。邦訳は四分冊で合計千二百ページ(!)に迫ろうかというほどで、ジョン・アーヴィングが典型だがこういったディケンズ的世界の再構成を試みる作品はその長さも魅力の一つなのであるが、もう少々刈り込んでもという気もした。この長さの主たる要素は語り手テオの饒舌さにあり、必ずしもプロットに直接絡むものだけではなく薀蓄的要素も多々あり、削ることも可能であったことを思えばこれもまた意図してのものであろうが。


映画化という話もあるようだが、忠実にやろうとすればこれだけの長さの小説を一本の映画にまとめるのは至難の業であろう。でもスコセッシならば……とつい想像してしまうが、仮にそんなことになれば『グッドフェローズ』的作品になるのかもしれない。

ということで検索してみたら、『ブルックリン』の監督ジョン・クローリーで映画化が進んでるみたい。忠実な再現は分量的にまず不可能なので、どこを残してどこを削るのだろうか。


それからタートの『シークレットヒストリー』は『黙約』と改題されて復刊された。こちらにはタートを高く評価する村上春樹が文章を寄せている。


『サブミッション』

エイミー・ウォルドマン著 『サブミッション』





会議は紛糾していた。投票をしても規定数まで達せず、また話し合い。そして投票を繰り返していた。グラウンド・ゼロに建てるモニュメントは一般公募され、二作品まで絞られている。彫刻家のアリアナが「虚空」案を押すのに対し、遺族代表として選考委員になっているクレアは「庭園」案を主張し、両者譲らなかった。それでも、なんとか「庭園」案にまとまる。公平のため候補作の作者は完全に匿名とされていた。「庭園」案の作者の名前がわかると、委員会のメンバーは凍り付いた。モハマド・カーン。典型的なイスラム教徒の名前だった。表に出る前に差し替えようとする動きに敢然と立ちはだかったのがクレアであったが……


クレアが十代半ばの時、父は借金を残して亡くなった。彼女はこれに発奮して勉強に身を入れ、アイヴィーリーグの大学に進み弁護士となる。クレアは富裕な名門一族出身のキャルと出会う。彼は元芸術家志望で、その道を諦めた後も芸術品蒐集に余念がなかった。キャルはかつてクラブの人種差別に抗議してそこを退会したり、慈善団体に多額の寄付を行うなど、リベラルな政治観の持主でもあった。しかしクレアが妊娠すると、キャルは彼女が専業主婦となることを強く望む。クレアは弁護士としてのキャリアを諦め、自分が家庭に縛りつけられることにフラストレーションを抱えていた。そんな時に9・11が起こり、キャルを失う。

モハマドはアメリカ生まれのアメリカ育ち。インドからの移民である両親は名前の通りイスラム教徒であるが、彼は世俗的に育ち、酒も飲めば豚肉も口にしていた。名門大学を卒業し優秀な建築家となるが、9・11の直後、名前のみを理由に空港で執拗な嫌がらせを受けるなどして、次第に心境に変化が生じてくる。

ショーンは道を踏み誤り、家族からも疎んじられていた。消防士であった兄が9・11で死亡すると、その遺族会の活動を通じてクレアと知り合い、彼女に強引にキスをするなど思いを寄せていた。モハメドの名を知ると、反イスラム団体と手を組んで「庭園」反対運動にのめり込んでいく。

ポールは成功した元銀行家。リベラル寄りではあるが、ゲイである息子の生き方にとまどいを感じるなど、社会の移り変わりにはなじめないところもあった。名誉職のつもりで選考委員長を引き受けたがこの騒動に直面し、穏便に事をすませようとしてかえって火に油を注いでしまう。

ポールを選考委員長に指名したのは、かねてより彼の支援を受けていたニューヨーク州知事のジェラルディンだった。彼女は民主党員でありながら平気で右に飛ぶこともできる政治家だ。ピンチとなりそうなこの事態を受け、むしろこれを奇貨として女性初の大統領にのし上がるのに利用しようと考える。

アリッサは野心的なジャーナリストであるが、自分がニューヨーク・タイムズのような一流紙の記者になれるようなタイプではないこともわかっている。「庭園」案の情報を掴むと、当事者たちの感情を踏みにじるような取材を行い、煽情的な記事を書き立て、この騒動を拡大させていく。

アスマの夫はバングラデシュで大学を卒業していたが、そこではまともな職は見つからず、二人でアメリカに来ていた。夫は清掃の仕事に就いていたが、9・11によって死亡する。ここでアスマはジレンマにかられる。二人は不法移民だった。犠牲者として名乗り出れば強制送還されるかもしれない。アメリカで生まれた子どもはアメリカ国籍を得ていたが、自分は送還されれば二度とアメリカには行けないかもしれない。結局約百万ドルの補償金を受け取ることができたが、アスマはこの金のことが知られれば様々なトラブルに巻き込まれるかもしれないと考え、じっと身を潜めてアメリカで引き続き生きていくことにする。しかしモハマドへの仕打ちを見て、憤りをつのらせていく。


このように主要登場人物を見ていくと、少々ステレオタイプ的な印象を受けてしまうだろう。クレアに代表されるように、この小説に登場するリベラルは富裕層(それもかなり度外れの)のみである。一方ショーンのように、保守派はブルーカラーの非インテリで、階級的にはロウワーミドルかそれより下の存在として登場する。

リベラル派はクレアの矛盾を含めた揺れ動く感情を汲み取ることができず、「正しさ」にのみ捉われ彼女を追い詰めていく。このあたりは保守派による戯画化されたリベラル像であろう。ショーンが手を組む反イスラム団代の中年女性は、イスラム教徒を挑発するためにシースルーのブルカの下にビキニを来た写真をブログにアップするなど、承認欲求を肥大化させた下品な人物で、しかも大義を名目にして集めた支援金を子どもの学費などに流用しようとする。このあたりはリベラルがイメージするところの戯画化された保守の姿であろう。モハマドはイスラムの権利擁護団体に支援を求めるが、自分が利用されているだけなのではないかと、距離を感じるばかりである。

リベラルも保守もイスラムの権利擁護団体も、机上の空論や組織の主張ばかりを優先させ、個人はそれに振り回されていくばかりであるというのは、政治に忌避感を抱く人が「活動家」に抱く不信感であろう。

特定の政治的立場に立たずに全方位的に各陣営の欠点を炙り出しているといえばそうとも取れるが、個人的にはその分ステレオタイプ化が少々強くなりすぎたのではないかと感じられてしまい、文学的奥行きが狭まってしまっているように思えてしまった。

一方で、ステレオタイプ的キャラクター設定を恐れなかった結果として、アメリカの「今」の空気というのがよりダイレクトに伝わってくることにもなっている。互いに全く言葉が通じなくなってしまったリベラルと保守の政治的対立、それをより悪化させるメディアなど、現代アメリカ社会について考えるうえで示唆してくれるものは多いだろう。

また、クレアが注目を浴びるきっかけとなったのが、記者から「あなた方の特権意識にうんざりしている人たち、あなた方のことを貪欲だと思っている人たちがいます」と問われたのに毅然と反論したことだったように、同情が過ぎ去るとバッシングが被害者やその遺族に向けられるというのは日本でよく見られるケースであるが、アメリカでも、そしてその他多くの社会で観られる現象なのだろう。このように、もし似たような事態が日本で発生したらといったことを頭に置きながらも読める。


作中でも言及されているように、この作品にはモチーフになった出来事がある。マヤ・リンは中国系アメリカ人の建築家で、イェール大学在学中にベトナム戦争戦没者慰霊碑のコンテストに応募し、最優秀賞に選ばれた(この経歴の多くがモハマドと重なっている)。保守派はこれに猛反発したという歴史があった。

このようにウォルドマンは過去の出来事からインスピレーションを得てアメリカの今を描き出そうとしたのだが、さらにこの小説を執筆中に現実がフィクションを模倣するかのような出来事が起こる。

「ワールドトレードセンターの跡地にモスクが建てられる」。そんな噂をかつて日本でも聞いたことのある人はいるだろう。これは「実際には二ブロック離れたところにイスラム教徒のコミュニティセンターを作るという案であり、運動施設やレストランなどと共に「祈りの場」が置かれるだけ」なのであったが、反イスラム団体などが大騒ぎを始める(訳者あとがきから)。

もちろん法的には何の問題もなく、正規の手続きを経ての計画であったが、リベラル派の中には日和る者が出てくる。権利としては確かに問題ない、しかし反対派の感情に配慮してはどうかというのだ。この小説内にもまさにこういった反応を示すリベラルが登場する。

保守派はしばしば、リベラル派を人の感情を置き去りにして自分たちの「正しさ」にばかり固執すると批判する。逆にいえば、現代の保守はアメリカに限らず、感情を動員することで勢力拡大を図っているとすることができる。移民問題に典型的なように、それがたとえ「正しく」なかろうとも(経済的な「実利」のみに基づいても移民排斥は不合理なものである)、そう感じてしまう人間の感情を尊重すべしというのだが、それに従えば、動員される感情によってもたらさられる暴力や迫害は不可視化されることになる。
感情は強い。そしてマジョリティに感情的に訴えがなされ、世論の流れが大きく傾くと、政治家、そして大手メディアはこのような圧力に弱い。

ウォルドマンはニューデリー支局での勤務経験もあるジャーナリストで、9・11発生当時はニューヨーク・タイムズの記者としてニューヨークで取材にあたっている。周知のとおりニューヨーク・タイムズは9・11以降、アフガン侵攻、イラク戦争へと向かっていくブッシュ政権に掉さし、戦争の旗振り役を務めることになる。多数派が「正しさ」を置き去りにして感情によって動員されたとき、政治家やメディアはいかに踏ん張ることができるのか、これもアメリカだけの問題ではない。

クレアは当初、モハマドのバックグラウンドを理由にした質問がなされること自体が差別であるとして、彼にこの手の質問を行うこと自体を拒否する。モハマドもまた、問いかけを隠れ蓑にした差別に毅然とした態度を貫く。しかしクレアはバッシングにさらされ孤立感を深める中で、モハマドの頑なにも見える態度に擦り切れていく。テロを非難すると、過激主義を認めないと、なぜその一言がいえないのか。「庭園」案はコーランの「楽園」を密輸しようとしたものだという批判になぜ反論しないのか。もちろん、キリスト教の狂信者が信仰の名のもとに凶悪行為を行ったからといって、アメリカでキリスト教徒がいちいちそれについて態度表明を迫られることはない。イスラム教徒にだけ沈黙は支持も同然だと、いちいち態度表明を強いるのは明らかに差別である。そうはわかっているが、「感情」に「配慮」を見せてもいいのではないか、クレアはそう感じ始めてしまう。彼の頑なな態度によって「味方」であるはずの人たちまでもが攻撃にさらされ、苦しんでいるではないか。なぜほんの少しの妥協を拒むのか。
こういったクレアの揺れや、彼女を追い詰めていく社会の反応も、アメリカだけに限られた現象ではないだろう。

同時に、クレアがこれだけ苦しむのも、あるいはモハマドへの支援が広がるのも、アメリカにおいて「正しさ」を守らねばならないという人々が一定の強さを持っているからとすることもできる。もしこれが日本ならば、感情の奔流にクレアもモハマドも瞬く間に一掃されてしまい、苦悩や葛藤が表に出ることすらなく葬り去られてしまうだろう。


本作にはもう一つ、モチーフとなっている作品がある。訳者あとがきでも指摘されており、作中にもこれまた言及があるトム・ウルフの『虚栄のかがり火』である。確かに作品の構造として類似点が多い。本作はもちろん作品の性格上、単純なハッピーエンドにはなりえない。ある謎が解明されるものの、きれいに大団円を迎えるのではない。しかし『虚栄のかがり火』がカオスへと向かっていくのと比べれば、いくらかのポジティブな救いは感じさせる。作者のスタンスの違いもあるのだろうが、またこの茨が敷き詰められたかのような現実世界では、容易に解決策を見出すことはできないものの、それでもいくらかの希望を信じないことには、この世界を保つことができない時代になってしまったということの表れのようにも感じられた。カオスを弄ぶことは、もう許されない時代になってしまったのだという。



『綻びゆくアメリカ  歴史の転換点に生きる人々の物語』

ジョージ・パッカー著 『綻びゆくアメリカ  歴史の転換点に生きる人々の物語』





何かがおかしい、こんなはずではなかった、いったいいつからこうなってしまったのか、そう感じているアメリカ人は政治的左右を問わず数多くいることだろう。本書は1978年から2012年まで、様々なポートレートを通してアメリカの「歴史の転換点」を描いている。

もちろん78年に決定的なことが起こったというのではない。アメリカに限らずどの国、社会でも影の部分はある。とりわけ第二次世界大戦以降の数十年、アメリカ合衆国は自由と豊かさを享受していたかのようだが、一皮めくれば人種差別をはじめとする不公正がはびこり、また「赤狩り」をはじめパラノイア的被害妄想も社会を確実に蝕んでいた。70年代後半以降というのは、世界が根本からひっくり返ったというよりは、ヴェトナム戦争、ウォーターゲート事件などを経て、覆いが剥がれて影の部分がむき出しになったのだしたほうがいいかもしれない。そしてその状況を前に、人々は惑い、変化し、もがき続ける。


トランプ大統領の誕生という事態を受けて「予言の書」として再び注目を浴びることになった本がいくつかあるが、原著が2013年に刊行された本書もその一つである。

ディーン・プライスは80年代前半に「レーガンは聴衆の心をつかみ、アメリカはふたたび偉大な国になるという希望を与えた」と考え、政治家になりたいという憧れを抱いた。

共和党内においても傍流だったニュート・ギングリッチは、80年代に入ると政敵を口汚く罵ることで注目を浴びるようになる。ちょうどケーブルテレビが議会中継を始めた頃だった。「ギングリッチは何をすべきか即座に察知した」。彼は共和党候補者を募るとビデオやカセットで演説を叩きこんだ。「ギングリッチの語彙は、文脈に合っていようがいまいが、さらには意味を成していようがいまいが、つなぎあわせるだけで説得力を持った」。

「汚職まみれのリベラル派のボスたちは、アメリカの破壊をもくろみ、彼らの病的で哀れな皮肉と、奇怪きわまりない過激な停滞を強要するために、われわれを騙し、嘘をつき、搾取をする」。
トランプの言葉といってもそのまま通じそうだが、彼が政治に乗り出す以前にすでに「この時代の政治家はだれもがニュート・ギングリッチのような話し方になっていった」のである。

ギングリッチたちは「有権者が地元の政党や国家機関にもはやさしたるつながりを感じていないことも見抜いていた。彼らはテレビによって政治を判断しており、政策の説明や合理的な議論によって心を動かされることはなかった。彼らの心に訴えるのはシンボルや感情だ」。

「八〇年代の終わりには、ギングリッチはワシントンの政治と共和党を根本から変貌させつつあった。ひょっとするとレーガン以上に――あるいは、ほかのどんな政治家よりも。そして、歴史は本格的に動き始めた」。

かつては多くの家庭で、家族そろってウォルター・クロンカイトがキャスターを務めるCBSのニュース番組を見ていた。87年に「公共放送事業者による誠実かつ公正な報道を促進」するために制定されていた「公平原則」が廃止されると、ラッシュ・リンボーのトーク・レディオが全国放送化される道が開けた。保守的な人は、80年代後半以降リンボーやグレン・ベックなどのトーク・レディオやFOXニュースなどの煽情的右派メディアに耽溺するようになる。

保守的ではあったが政治に積極的にかかわってこなかったカレン・ジャローシュも、やはりFOXにどっぷりつかっていた。彼女はサラ・ペイリンを崇め、オバマ政権によって「普通の人」が割を食う世の中になると思い込み、ティーパーティー運動にのめりこむ。カレンはこれが「草の根」であることを強調し、「私たちはだれからも資金援助を受けていません」としていたのだが、結局彼女がコーク兄弟が資金を提供する団体で働き始めるように、『ダーク・マネー』で描かれた通り右翼の大富豪たちから多額の資金が流れ込んでいた。

傍からみればどう考えても富裕層、大企業優遇政策を進める共和党の政治の方が「普通の人」が割を食うことになるとしか思えないのだが、そのような理屈は彼女のような人には一切通じない。もはや共通言語を失ってしまっているのである。

右翼放送局と並んでエスタブリッシュメント・メディアへの不振を煽ったのがネットの登場であるが、本書には「ブライトバートニュース」の創設者、アンドリュー・ブライトバートの短い生涯も素描されている(スティーブ・バノンはさすがに本書には登場していない)。

なお、ここであたかもフーコーがフランクフルト学派であるかのように描かれているが、これはブライトバートがそう思ったのか著者の誤認なのかが微妙な書き方になっている(本書は幾分辛辣になるところもあるが、基本的には各章ごとに描かれる人物の視点に寄せて書かれている)。彼がはまった「倫理的相対主義」もフランクフルト学派の批判理論というよりも、それこそフーコーがそこに位置づけられるポストモダン、フランス現代思想への批判として語られるものであるが、このあたりを混同しているのはブライトバートの知的限界を示すものか、あるいは著者を含むアメリカのインテリが肯定するにしても批判するにしてもフランス現代思想にしっかり向き合うことなく摘み食いしたにすぎなかったことを表しているのかはともかく、ある意味では興味深い記述ではある。


閑話休題。
本書は最後には希望を感じさせなくもない締めくくられ方をしているのだが、現実ははるかにグロテスクなものとなってしまう。前にも書いたが、トランプの登場によって何かが変わったのではない。トランプ大統領誕生以後に本書を読むと、トランプという存在は結果であって原因ではないのだということがよくわかる。

本書は立場も置かれた環境も違う様々な人々の歩みがコンパクトにまとめられている。ギングリッチやエリザベス・ウォーレンといった右から左までの政治家。オプラ・ウィンフリーやジェイ・Zといった芸能人。ウォルマート創業者のサム・ウォルトンのような実業家。そして困難な生活を強いられる労働者。さらに「ラスト・ベルト」が形成される過程や、オキュパイ運動下のウォール街、新興住宅地として注目を浴びながら開発に行き詰まり、不動産バブルの崩壊でさらなる苦境に立たされるなかティーパーティ揺籃の地になったフロリダ州タンパなどの土地が、肖像として描き出される。

本書の中で特別な位置を占めるのが、「起業家」のディーン・プライス、「政界インサイダー」のジェフ・コノートン、「コミュニティ・オーガナイザー」のタミー・トーマス、「ベンチャーキャピタリスト」のピーター・ティールの四人である。彼らは時代ごとに繰り返し登場し、詳細にその歩みが辿られる。

「綻びゆくアメリカ」を端的に表すのが、ウォールマートがもたらしたものだ。
「いつのまにか、アメリカ自体がウォルマートのようになっていたのだ。すべてが安くなっていた。物価が下がり、賃金も下がった。労働組合に守られた工場の仕事は減り、店で接客するパートタイムの仕事が増加した。ミスター・サムが商機を見いだした小さな町は貧しくなり、そのために消費者はますます「毎日が低価格」に依存するようになり、あらゆる買い物をウォルマートですませ、場合によっては、そこで働くしかなくなった」。

こんな状況に、彼らはどう向き合ったのだろうか。

プライスは保守的な環境に育ち、保守的な政治観を持ち起業家としての野心を抱くようになる。しかし曲折の末小規模のガソリンスタンド、コンビニチェーンを始めたことで、自らの価値観が揺らぎ始める。地元民がいくら金を使おうとも、結局は州外の大企業に吸い取られていくだけではないか。コミュニティの中で経済がまわっていくようにできなければ、搾取され、衰退していくだけだ。世の中がこのように移り変わっていくのを主導してきたのは他ならぬ共和党ではないか。彼はついにオバマに投票する。環境問題は深刻だが、ノースカロライナ州では「地球温暖化」などの語彙は禁忌に等しい。呆けたようにFOXニュースを見続ける母親とは政治の話はもうできない。この地域では右派がすべてを牛耳っているかのようだ。厳しい状況の中、彼はバイオ燃料の起業に執念を燃やす。

コノートンもやはり保守的な環境の中で育つが、大学時代にジョー・バイデンと出会ったことで人生が変わり始める。これはバイデンとの愛憎半ばする関係の始まりでもあった。証券会社勤務を経て、大統領選挙に名乗りを上げたバイデンのもとにかつての約束通り馳せ参じるが、バイデンはみじめな撤退を強いられる。しかしそれで幻滅することなくバイデンのもとにとどまり、ロースクールに通って弁護士となり、クリントン政権時にはホワイトハウスのスタッフにも加わる。もっと金を稼ぐことは可能だった。それでも、彼は政治の仕事にやりがいと生き甲斐を見出していた。しかしそのコノートンも、共和党のロビイストと組んで、民主、共和、どちらの政党にも対応できるロビイング企業を作り、ボロ儲けをするようになる。ところが、リーマンショックによってその富を一気に失う。コノートンは一度離れたワシントンに戻り、ウォール街に支配された政界との対決を開始する。

トーマスの親戚には高校を卒業した者はいなかった。彼女も15歳で妊娠する。アメリカの黒人の貧困の連鎖を絵に描いたような状態に陥りかけるが、彼女は高校をドロップアウトせずに卒業する。工場に務めるが、オハイオ州は錆始めていた。時代の変化に対応できなかったばかりでなく、その裏には大企業による目先の利益追求や組合の締め出しという汚いやり口もあり、労働者は防戦一方であった。それでもトーマスは、働きながら勉学を続け大学に進み、子どもを育て、そして地域のリーダーを育てながら環境改善に取り組むコミュニティ・オーガナイザーにリクルートされる。地味でタフな仕事であるが、彼女はこれまで自分が付き合ったこともなかったタイプの人との交流も始まるなど、やりがいを見出す。そして多忙を極める中、大統領に名乗りを上げた黒い肌を持つ人物がかつてコミュニティ・オーガナイザーであったことを知る。

ティールは幼少期からずば抜けた知的能力を示していた。チェスを好みスポーツを嫌う彼がはまったのは、『スター・ウォーズ』などのSF、『指輪物語』などのファンタジーであった。宗教的にも政治的にも保守的な両親のもとで育ったティールはリバタリアンとなっていく。スタンフォード大学に進むと、多文化主義などへの攻撃で名をはせるようになり、保守系団体から援助も受けていた。90年代だというのに、エイズと同性愛とを結びつけるようなことをしていたが、実は彼自身がゲイであり、自分のセクシャリティをひた隠しにしていたのであった。
自分の頭脳をどう活かせばいいのか、いくらか道に迷った後、勃興をはじめていたシリコンバレーのITブームの波に乗る。ペイパルの創業者の一人となり、初期フェイスブックの重要な出資者となり(自分がちらりと登場する映画『ソーシャルネットワーク』を見ての反応も描かれている)、莫大な富を築く。経営者から投資家となり、保守・右派団体に資金を提供するようになり、IT業界の楽観的世界観にはシニカルで、独特の方針で奨学金を設けるなど人材育成に乗り出す。

2012年までを扱った本書では描かれないが、ご存知の通りティールは16年にはトランプ支持を表明し、そればかりか積極的にコミットを続ける。もし彼が本当にリバタリアンであれば、プライベートな領域や私企業への恣意的な介入を公然と行うトランプを支持できるはずはないが、そんなことなど気にしないのは、ティールをはじめとするリバタリアンなるものが所詮はリベラル嫌い、「良識」への逆張りに過ぎないことをこれ以上なく雄弁に物語っているかのようだ。


著者がこの四人の歩みを詳細に辿った理由はもうおわかりだろう。生まれも育ちもまるで違うが、いずれも「アメリカ的」な生立ちであり、またアメリカ的変転を遂げていった。

「アメリカが綻びはじめたのがいつなのか、それはだれにもわからない」。そして、「あるときアメリカは、かつてと同じであるはずのこの国は、引き返すことのできない歴史の転換点を超え、姿を変えた」。こう書き出される本書を読むと、アメリカはアメリカであることをやめてしまったというよりも、どう評価するにせよ、やはりアメリカはアメリカであり続けるのだと感じられる。



日本社会はカズオ・イシグロの世界に向き合えるか

前にこちらに村上春樹よりもカズオ・イシグロの方がノーベル文学賞を取る可能性は高いというようなことを書いていた。これは別に村上よりイシグロの方が優れているというのではなく(言うまでもなく作家に優劣をつける必要はないし、ノーベル文学賞はそれを計るものでもない)、ノーベル文学賞がポストモダン作家を嫌っていることは明らかなので、世界的にはポストモダン作家に括られる村上が取る可能性は皆無とまでは言わないが、かなり低いというだけのことだ。なおイシグロがノーベル文学賞を取ったら「日本人」に含めるのだろうかという嫌味も書いたが、日本のメディアは案の定の有様のようで……。

僕はイシグロ作品を愛読してきたが、ノーベル文学賞はこれで2年連続英語圏から、しかもボブ・ディランもイシグロも世界的に知名度は抜群で、ついでにカネにも困っていないわけで、このニュースを聞いた瞬間はさすがにどうなのよと思ったが、冷静に考えるとこれは政治的な熟慮もあってのことなのかもしれない。「ブリグジット」に象徴されるようにイギリスでは排外主義が急速に高まっているし、アメリカもご存じの通りの惨状を呈している。移民英語作家であるイシグロの受賞は、この状況へのメッセージも込みのものだろう。
そしてこの状況が問われているのは、日本も同様である。

イシグロは作品ごとに設定を大胆に変えるが、多くの作品に共通するテーマが「記憶」と「語り」である。

最も典型的な例が、一躍世界にその名を轟かせた『日の名残り』だ。時代の変化に直面した老執事が過去を振り返りつつ将来を模索するというのが表面上のストーリーであるが、この老執事はまた「信頼できない語り手」でもある。彼が長年仕え、思慕する貴族は親ナチで、その屋敷はファシストのたまり場となっていた。当然ながら冷ややかな目が注がれることになるが、老執事はこの醜悪な現実と正面から向き合うことができず、もごもごと口ごもりながら弁解を重ねていく。

アーサー王伝説を題材に取った『忘れられた巨人』もまた同様である。謎の霧により人々は記憶を失っていっている。次第に、どうやらこの世界には血塗られた過去があり、それを忘却することでなんとか上辺の調和がもたらされていたというのが明らかとなっていく。

「過去のことは水に流して前を向いていこう」というのは一見するとポジティブなメッセージだ。しかし被害者からすればこれは、「お前が余計なことをすれば危ういバランスの上に築かれていた調和が崩れ去ることになる」という恫喝になる。忘却に頼った見せかけの「和解」は抑圧という機能を持つのである。さらには、責任を負うべき張本人が「過去は水に流すべきだ」などと被害者に迫れば、それはグロテスクな暴力に外ならない。

過去の忘却の欲求に完全に屈っしつつある日本社会は、イシグロ作品のこうした面をいかに受け止めるのだろうか。

イシグロと村上春樹は友人であり、互いの作品を愛読していることを公言している。村上もまた、デビュー作の『風の歌を聴け』から最新作の『騎士団長殺し』まで、戦争、それもアメリカとのではなく中国との戦争にこだわりを持ち続けている。『羊をめぐる冒険』や『ねじまき鳥クロニクル』に明らかなように、戦前、戦中、戦後を断絶したものとして捉えるのではなく、連続したものだという意識が極めて強く、近年は作品外でもより直接に忘却の欲求を批判している。ノーベル文学賞で毎年バカ騒ぎを繰り広げる日本のメディアは、村上のこういった面を完全にオミットしている。

温又柔は台湾に生まれ、親の仕事の都合で日本に越してここで育ち、日本語で創作を行うようになった。イシグロと共通する環境であるが、温の「ことば」や「母語」への問いを宮本輝は「他人事」とのたまった。この発言は文学否定宣言といってもいいほどのひどいものであり、日本のメディアはこうした視座も加えてイシグロのノーベル文学賞受賞を論じるべきであるが、それはとても望めそうにない。

ポストモダン嫌いであるはずのノーベル文学賞が村上に与えられる日がくるとすれば、それは排外主義に抗するメッセージが隠喩としてうかがえるイシグロのケースと同様、日本の社会状況へのメッセージが込められるということになるのかもしれない。


『日の名残り』や『私を離さないで』は映画化されているし、それぞれ映画としていい作品だとは思うが(後者は日本でもドラマ化されているが未見)、イシグロのナラティブの構造というのはなかなか映像化しづらいもので、映画だけで「わかった気分」になるのはもったいない。映画を見ていて原作を未読な人はぜひとも読んでほしい。

またイシグロには無関係の作品であるが、映画『手紙は憶えている』は結構イシグロ的構造の作品かもしれない。強制収容所の生き残りである認知症を患っている老人が、妻の死を受けて、老人ホームで知り合った友人の助けを借りて元ナチスに復讐を挑むが……(ネタバレをしたら魅力は半減してしまうのでこれ以上は書けない)。

こういったミステリータッチの方が、「信頼できない語り手」を映像化しやすいのかもしれない。そういえばイシグロの読書体験の原点はシャーロック・ホームズにあるようだ。もっとも、上海を舞台に「探偵」を主人公にした『わたしたちが孤児だったころ』のように、イシグロは一筋縄でいくミステリーを書く人ではないけれど。


それから、よく言われるように、イシグロ作品はセンテンス単位で見ると読み易い英文になっており、イシグロ自身翻訳されることを意識してこの文体をているとしている。それだけにその無味乾燥にも映りかねない文体に拒否感を示す玄人筋もいるが、英語の勉強をしたい読者にとってはうってつけの教材でもある。何か英語の本に挑戦したいと思っている英語学習者は、これを機にイシグロの原著に挑んでみてはいかが。

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佐藤太郎(仮)

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