MONKET vol.10

MONKET vol.10




特集は「映画を夢見て」。

ポール・オースターの回想的エッセイReport from The Interiorからの「映画に打たれて」では映画『縮みゆく人間』が取り上げられており、この映画を見たオースター少年は哲学的ともいえるある感慨に達する。




カズオ・イシグロは若き日に二本のドラマの脚本を書いており、そのうちの一本「ザ・グルメ」が訳されている。イシグロらしい作品というよりは名前を出されないとそうとは気付かないような内容であるが、それでいてところどころにイシグロらしさやその原型というのも見え隠れするようでもある。イシグロはこの脚本を書いた後に出る『日の名残り』(ちなみに脚本を書いたもう一本のドラマ、「アーサー・J・メイソンの横顔」の設定は『日の名残り』を連想させる老執事が登場するものだそうだ)以降は、紛れもないイシグロ印の作品でありつつもその設定は自在な冒険を繰り広げているように、こうした物語作家としての間口の広さもイシグロの魅力だろう。

また西川美和による、「翻訳家のS氏」から依頼を受けたという設定の映画監督による映画監督を素材にした短篇とインタビューも収録されている。


特集で最も楽しいのは、ショーン・ハーターによる「別宇宙映画ポスター」だ。スティーヴ・エリクソンが編集長を務めていた文芸誌Black Clock第15号に掲載された映画のフェイクポスター集であるが、小ネタ満載で、「クソコラ」レベルの、でも思わず笑ってしまう(「エルヴィス対クトゥルフ」、「用心棒ゴジラ」、黒澤明監督、御船敏郎主演の『2001年宇宙の旅』は東宝製作!)ものからすぐにでも映画館に駆け込みたくなるようなものまで多士済々である。オーソン・ウェルズ監督の『闇の奥」(実際にウェルズはこれを作りたかったのだが断念している)なんて何としても見たいし、『カサブランカ』では主演がレーガンに入れ替わっていることで不気味な雰囲気を醸しだしている。テレンス・スタンプ主演の「007」も見てみたい。ジェーン・フォンダ主演の「スター・ウォーズ」シリーズ、『レディ・ヴェーダー』もなかなかのものだが、なんといっても一番はマリリン・モンローとジョン・ウェイン主演の『キル・ビル』。モンローの写真は数多くあれど、なぜにこの格好と表情で日本刀を持っているのかと、興味津々になってしまう。

こういうのって技術的には難しくないだけにセンスがストレートに出るもので、これだけ楽しませてくれたハーターの作品をもっと見たかったのだが、2013年に40歳で死去している。残念。

『須賀敦子の方へ』

松山巌著 『須賀敦子の方へ』




晩年の須賀敦子とも交遊があり、『須賀敦子全集』の編集委員も務めた著者が、幼少期からフランス留学に旅立つ頃までを須賀のゆかりの場所、人々を訪ねながら描いていく。

須賀が一般的にその名を知られるようになったのは『ミラノ 霧の風景』を61歳の時に刊行してからだった。これはもともとオリベッティ社の広報誌、「SPAZIO」に連載されていたものだった。著者は須賀が「ほんとうに信頼できる友人なの」と語っていた「SPAZIO」編集長鈴木敏恵に会う。「びんさんこと鈴木敏恵さんには、なん度か話を伺っているが、はじめて会ったときから、須賀ではなくともびんさんと呼びかけたくなる雰囲気を感じた。銀髪ながら男の子のような短い髪そのままに、さっぱりした気さくな人柄だとすぐにわかったからだ」。

須賀より一つ年下の鈴木は敗戦時に高等女学生だったが、自活の途を探るため文化学院で事務員をしながら同院で学び、卒業後もそのまま働くと文化学院の教師でエッセイや新聞の人生相談などで知られていた戸川エマの秘書になる。鈴木は多忙の合間を縫ってコピーライター教室に通い、成績もよかったことから広告代理店に就職する。「一九六〇年代初頭のはずだから、鈴木さんはいわばコピーライターの草分けである。その際、銀座にあった会社に和服を来て通ったとも語ったから私は驚いた。私が中学高校の頃で、もはや和服で企業に通う女性はいなかったと思うし、似合っていただろうが度胸があると思ったからだ。鈴木さんは、若かったのよ、と一言いって笑った」。

「そしてコピーライターの仕事が認められ、日本オリベッティ社の広報部に引き抜かれ、「SPAZIO」誌の創刊に携わる。創刊は七〇年だから、その直前といえば、須賀とペッピーノが、ヨーロッパを席巻し、コルシア書店を巻き込んだ学生運動のなかで、書店をなんとか維持しようと苦労していた時期だ」。

「編集長といっても、彼女一人だけで企画から原稿取りまでする。鈴木さんが、結局さ、だから年二回しか出せないね、といってまた笑ったから呆れた。「SPAZIO」誌はいわゆる企業広報誌ではない。宣伝臭は見せず、イタリアを中心にした世界の文化と芸術を伝える雑誌として、洗練したレイアウトから選ばれた寄稿者たちまで、その質は高く評価されてきた。ほぼ正方形の雑誌デザインはいまも新しい。おそらく彼女はすべて自分でやらなければ気がすまず、創刊から四十年、社会が変わり、オリベッティ社自体が変貌しても、粘り強く雑誌の高い質は保つようがんばり続けてきた。須賀が信頼するはずの気丈さと熱意が彼女には身についている」。

マッドメン』は60年代アメリカの広告業界を描いたドラマであるが、男尊女卑が当然の当時の社会において苦労を重ねる女性の姿も描かれている。日本版『マッドメン』なんて作られたら、和服姿で颯爽と現れる新人コピーライターが登場することになるのだろうか。

事業を営む裕福な家庭に生まれながらその生活が戦争で破壊され、戦後学業を再開しても、周囲からは明るく朗らかに映りながらも悩み多く、さらに父が愛人と出奔するなどの事件が巻き起こるなど苦労しながら自分の進むべき道を模索していった須賀の前半生は「朝ドラ」的なところもあるが、「びんさん」こと鈴木敏恵の人生というのもなかなかのもので、二人合わせて映像化なんてしてもいいのかもしれない。

映像化希望といえばなんといっても須賀とも親しかったナタリア・ギンズブルクの自伝的小説『ある家族の会話』であるが、須賀がまずこの作品を訳したのも「SPAZIO」においてであった。イタリアのブルジョワのユダヤ系一家がファシズムによって翻弄されていく姿を描いた『ある家族の会話』であるが、この作品で印象深く登場するのがアドリアーノ・オリベッティである。アドリアーノはオリベッティ社の御曹司にして反ファシズム運動にも加わり、独特の経営姿勢でオリベッティ社を成長させていくことになる。イタリアで裕福な家庭に生まれ左翼でありつつ実業家としても優れているといえばこちらに書いたようにフェルトリネッリがいるが、さすがにオリベッティは過激派として自らが仕掛けた爆弾で爆死するようなことにはならなかったが、それだけにイタリアでは広く尊敬を集める存在であったようだ。フェルトリネッリの伝記も邦訳されたのだから、アドリアーノ・オリベッティの伝記もいいのがあれば訳されてほしい。


それから本書で知ったことにはこんな話もある。須賀は「イタリア語の文章で最も素晴らしいのはダンテだけれど、現代作家ではカルヴィーノだと語」っていたそうだ。さらには「じつは彼の『木のぼり男爵』を訳したことがあるの、と話したので驚いた」。

須賀はフランス留学に立つ前、カトリック左派の団体であるカトリック学生連盟に加わっていた頃に有吉佐和子と知り合っていた。ローマオリンピックが開かれた1960年に、取材に来た有吉と取材団の通訳を務めた須賀は再会する。有吉が「ガス、ガス」と昔の綽名で呼んだので、事情を知らない人はびっくりしたようだ。有吉は「ガス、あなたほどの人がなにをやっているのよ」と、カルヴィーノの『不在の騎士』の翻訳を薦めた。須賀はより受け入れられやすいであろう『木のぼり男爵』の翻訳を行い出版を目指したようだが、これは実現しなかった。

須賀敦子訳でカルヴィーノの『木のぼり男爵』、『まっぷたつの子爵』、『不在の騎士』の三部作が訳されていたらぜひ読みたかったので、これは残念。「訳したことがある」と語った『木のぼり男爵』の原稿はどうなったのだろうか。

有吉が「ガス、あなたほどの人がなにをやっているのよ」と言ったように、彼女の才能を知る人からすれば当時の須賀はいろいろと歯がゆかったのだろう。それだけにまた、60年代には本書でも触れられているように夫ペッピーノとともに日本文学をイタリア語に訳し、日本の出版業界でもそれなりに知られた存在であったはずなのだから、夫の死後に日本に帰国した後も60歳を過ぎるまでほぼ無名であったというのは、なんとも信じがたいことのようにも思えてくる。人生というのはほんの少しのきっかけでいかようにも転がりうるものなのであろう。



『ハクソー・リッジ』のあの人?

『良心的兵役拒否の思想』(阿部知二著)の初版は1969年に出たもので、僕が手にしたのは74年発行の第6刷りであるが、そこにこんなところがあった。

斎藤勇は「日本キリスト教会の先覚者植村正久の弟子であり、信濃町教会の長老」でもあった。その斎藤から阿部は、「大正末年か昭和初年かのころの東大の英文教室」で、はじめてある言葉を聞いた。

「斎藤勇先生が、なにかの講義のときに、君たちは「コンチ」ということばを知っていますか、というように前置きして語られた。それはconscientious objectorを略したもので、conchyと書く。――私は、それによって、はじめて良心的参戦拒否、または兵役拒否という言葉を知らされたのであった。いや斎藤先生は、さらに語をつづけて、その内容についても説明された。それは宗教上の良心にもとづく反戦の行為である。ただしそれは、例えば「クエーカー」のような、絶対に人を殺さぬということを良心にもとづく信条として保持している宗派に属するものにおいて認められるものである。彼らがそのことを申し出るならば厳重な審査を受け、それに通過した場合には病院で傷病兵の看護をすること、あるいは土木工事、鉱石採掘等に従事することを命じられる。それをも間接的に戦争に協力することだとして拒絶するならば、獄に監禁されることになる。これが、第一次世界大戦中に、英、米で実施された法であった」。

「このことを聞いた私は、そののち長く記憶にとどめてきたのではあったが、その間、その認識を深めるべく勉強することもなく、うかうかと歳月をおくり、そのうちに日本は軍事国家となり、太平洋戦争に突入していった。私は良心にもとづく抵抗をすることもなく、多少の逃避的態度をとるのみで、その戦争のあいだをすごしたことを恥じなければならない」。

戦後、関西で疎開生活を送っていた阿部はあるアメリカ兵と知り合い、「この問題は思いがけない姿を見せてくれたのであった」。
大学生であったこのアメリカ兵は、南方戦線を経て日本に来ていた。「あるとき彼は、半ばひとりごとのように、自分はじつは良心的参戦拒否をなしうる宗派に属しているのだが、自分のような未熟者に、この戦争を拒否するだけの思想的根拠と信念とが存在しているかどうかと、あれこれ考えているうちにずるずるにそのまま兵隊になってやてきたのだ、というようにいった」。

さらに阿部はこう続ける。
「彼のことばを聞く前だったか後だったか、とにかくそのころに、アメリカの週刊誌で一人の良心的兵役拒否者についての話を読んだが、私の記憶に大きなあやまりがなければ、ほぼ次のようなことであった。沖縄へアメリカ軍の一部隊が「敵前上陸」をしようとしたが、あまりにも日本軍の抵抗が強烈だったので、いったん岸に取りついたものの、また海上に引きあげなければならなかった。ところが、ふと見ると、断崖の上でしきりに腕をふっているものがいた。撤収におくれた兵がいたことを知って、ふたたび強行して岸へのぼってみると、それは良心的拒否による看護兵であって、彼は部隊が引いたあともふみとどまって傷兵たちを守っていたのであった。彼はその勇敢な行為によって、勲章をさずけられることになった」。


阿部は記憶に頼って書いているので固有名詞が登場しないが、これはおそらくメル・ギブソンによって『ハクソー・リッジ』として映画化されたデズモンド・ドスのことではないだろうか。それにしても、メル・ギブソンのような人によって映画化がなされたというのを知ったとしたら、阿部のような人はかなり複雑な気分になったかもしれない。メルギブはといえば、斎藤勇にその後起こるある事件を知ったら、自分の生い立ちを含めて興味を掻きたてられるかもしれないが、彼によって映画化でもされたら相当に陰惨なものになりそうである。





『兵隊になった沢村栄治  ――戦時下職業野球連盟の擬装工作』その2

山際康之著 『兵隊になった沢村栄治  ――戦時下職業野球連盟の擬装工作』





その1の続き。

サブタイトルに「 戦時下職業野球連盟の擬装工作」とあるように、本書は沢村栄治のみを扱ったものではなく、職業野球連盟がいかに戦争と向き合ったのかが描かれている。そしてその姿に「抵抗」を見出すかどうかは、人によって分かれるだろう。

昭和十六年、突如陸軍から呼び出しを受けると、「最後まで戦う姿勢をみせるべきだとして、引き分けの禁止やX勝ちでも九回の裏まで試合をするようにと強いた」。

「むちゃな要求に職業野球が潰されるのではと危機感をつのらせた鈴木龍二、赤嶺昌志らの野球連盟の理事たちは、ふと頭をめぐらせた。検閲の対象となったのであれば、軍は我々を潰そうとしているのではなく、むしろ国民に軍の意向を宣伝する媒体として利用しようとしているのではないか。だとすればここは、軍に協力姿勢を見せながら、こちらが利用することが得策である。こうして理事たちによる擬装工作が開始された」。

つまり、軍、とりわけ陸軍報道部に先回りして取り入ることでお目こぼしを願おうとしたのであった。
昭和十五年に日本相撲協会が満洲での準本場所開催を決めると、野球界もこの流れに乗り遅れまいと満洲行きを決めたように、お先棒担ぎの争いをしていたとされても否定はできないだろう。

鈴木と赤嶺の出会いの場面へと時間を戻そう。
職業野球発足時、関係者は当然野球経験者が中心だった。そんな中、「野球のヤの字も知らない」記者出身の鈴木が大東京軍に加わったのは、「記者時代に培った政治家、官僚、軍人などの人脈の広さを見込まれた」ためで、結果としてはこれが功を奏する形となった。

しかしこういう人物が現場に口を出すとロクなことにならないことも想像に難くない。大東京軍は慶応出身の永井武雄を監督に迎えたが、すぐに結果が出なかった。アマチュアの東京瓦斯と試合をすることになり、鈴木はしつこく永井に大丈夫かとたずねた。永井も苛立ち、「いかにも野球を知らないくせにといった口調で怒鳴り返した」。その試合はといえば、大東京軍がミスを連発しての逆転負け。この後売り言葉に買い言葉で、まだ公式戦すら始まっていなかったが、永井は「クビ第一号」となる。鈴木は新球場の建設には手腕を発揮したが、「永井という大切な野球人を失ったことにはまだ気が付いていなかった」。

また大東京軍はアメリカのジミー・ボンナという黒人投手と契約した。ところがこのボンナは、一か月たっての成績は〇勝一敗、防御率九.九〇と散々なものだった。鈴木はまたもかんしゃくを起こしてクビを宣告した。観客の小学生から「ボンナちゃん、ボンナちゃん」と声援が出るほど人気があり、しかも打者としては打率四割五分八厘を記録していた。打者として起用していれば人気と実力を兼ね備えた選手となっていたかもそれないが、鈴木にはそれが見えなかった。
なおこのボンナの帰国後の足取りは不明のようで、検索してみたが没年もわからない。1912年生まれということで存命中の可能性はないこともないが、厳しいか。

しかし鈴木のような人物だからこそ、赤嶺を見出したのかもしれない。職業野球発足間もなくの理事会、名古屋と大東京の親会社である新愛知新聞と国民新聞が同じ経営母体であることから、「名古屋と大東京はまさに兄弟である」とし、「八百長の恐れがある」と言い出した人物がいた。金鯱軍の理事の代理で来ていた赤嶺昌志だった。鈴木は激怒したが、赤嶺は一歩も引かなかった。他の理事たちにとっては暗黙の了解事項で、これ以上議論は進まなかったが、理事会は後味が悪いまま終わった。

その後名古屋軍は監督の離脱など混乱状態に陥る。しかし新愛知新聞の主幹の田中斉は、新聞経営に手いっぱいで野球に回すカネはなかった。田中は記者時代から鈴木の上司であり、鈴木は田中に頭が上らなかった。こうして鈴木は名古屋軍再建という無茶な仕事を背負わされることになったが、まずは資金作りよりも人を集めることを考えた。そこで思いついたのがあの赤嶺であった。赤嶺は金鯱軍や名古屋新聞の正式の社員というわけではなく、すでに球団から離れていた。鈴木はああいう人材は敵に回すよりも味方に引き入れた方が得策だと考えた。鈴木は名古屋軍の状態を包み隠さず話、立て直すのは君しかいないと説得した。断られるかと不安であったが、赤嶺は田中と同じ明治大学出身だったこともあってこれを快諾。こうして二人の共闘関係が始まるのであった。

二人の出会いや性格、関係というのは、この後を暗示しているように思えなくもない。


日米間の緊張が高まり始めると、日本にやって来ていた日系人選手たちは厳しい選択を迫られた。
サム高橋は「二世は徴兵猶予できることを知り、父親に手続きを依頼したのだが、「ベースボールで遊んでいるのに何を言うか」として、はねつけられ」、昭和十三年に日本語もろくにわからないまま入営したが、高橋は「日本精神の何んであるかを体得することが出来」、「麦飯の味も馴れたし、これからは真の日本人として更正」していくと決心したという。
テッド亀田は昭和十五年には二十四勝をあげ、奪三振一位にも輝いたが、翌年六月には弟を含む四名と共にハワイへ帰った。濃人渉は日米二重国籍を持っていたが、日本育ちであったことから日本国籍を選び、従軍して負傷したが、選手としての復活に成功した。阪神の投手若林忠志と捕手の田中義雄も日本に残ることを決めたが、田中は「二世は一ばん苦しい立場」としている。

三国同盟が結ばれアメリカとの緊張がますます高まると、ついに「日本語化」を求める声があがり始める。プレー・ボールを「仕合始め」、タイムを「停止」、ゲーム・セットを「仕合終わり」とすることなどはすぐに実行に移された。そして新しい規約で「日本人以外の選手の採用は、東亜民族を除き不可」となったことから、苦し紛れにスタルヒンを「須田博」に改名させた。名前にはいくつか候補があり、廣瀬武雄の名前にあやかって「廣」とする案もあったが、「藤原釜足のように国民的尊厳を軽視しているとして禁止されてはたまらない」と、「博」になった。

英語の球団名も日本語化されたが、元々日本語であった名古屋軍には変えるものがなかった。そこで赤嶺はなんとユニフォームの「名」の文字を鉤十字風のデザインにしたのであった。
またライオンがスポンサーについていたライオン軍も問題となった。契約期間が残っているうちは待ってもらうことになったが、胸から「LION」の文字が消え、無地のユニフォームを着なければならないという「みじめな姿」となった。そして当のライオン歯磨きがそのまま販売され続けていたにも関わらず、朝日軍と改名した。

試合前に手榴弾投げが余興として行われるようになり、「英米撃滅」と書かれた標識に向かって選手たちは手榴弾を投げた。なおアメリカでも眼鏡姿の日本兵の戯画に向かってボールを投げる余興が行われていた。ジョー・ディマジオの入隊などアメリカの野球の動きも傍受していた軍は、これを意識してかルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石の藁人形を的に選手に遠投競争をさせてはどうかという提案を行っている。これには「子供だまし」「選手が肩をこわすだけ」と反発する意見が強かったが、その代りとして行われたのが選手が参加する銃剣術鍛錬だった。巨人の主将を務めていた沢村は先頭に立ってこれに取り組み、軍はご満悦で藁人形のことは忘れた。

「日本化」を求める声はますます高まっていき、ついに軍はストライク、ボールなどの用語も日本語をとするよう求めてきた。「強制するわけではない」、「変えることを期待する」だけだと言うものの、実質的には強制だった。ここで反発する声を押し切ったのは赤嶺だった。赤嶺はまたユニフォームを国防色のカーキ色とし、軍帽をかぶるようにも主張した。そして各地の工場を訪ねての慰問試合も行われるようになった。

昭和十四、五年には巨人はフィリピン遠征を行い、「比島ベーブ」と言われたアチラノ・リベラを入団させているが、この時は「日本に最も近い星条旗下に乗り込んで日比間の融和に貢献」しようとするものだった。戦線が南方に拡大していた昭和十八年にも職業野球の選手を派遣して地元チームと試合を行うという案が持ち上がったが、危険極まりないこの案は軍にコネを持つ鈴木龍二がなんとか回避した。


本書を読んでいて最も奇妙な印象を与えるのが赤嶺昌志だろう。彼は鉤十字風のロゴ入りユニフォームや軍帽をかぶることなどを進めた。表面上国策に迎合しているだけというよりも、ファナティカルな右翼のようにすら見える。しかし彼はまた、選手たちの徴兵回避のために様々な策を練ってもいた。

日中戦争が始まると、選手から「球団は何の手も打ってくれなかった」という恨み節が漏れた。そこで赤嶺は、「日大のボス」と呼ばれていた人物と渡りをつけ、選手たちを徴兵猶予のため大学へと送り始めたのだった。私立大学は「徴兵猶予の恩典在り」「徴兵猶予の特典」といった広告で学生集めをしていたこともあったが、さすがに日中戦争以降は表立った広告は控えられていた。それでも、「急増する徴兵猶予者は私立大学の経営を安定させるための大きな要素となっていた」。
これに各球団もならい、川上哲治は巨人に入団すると「大学に籍を置いて、兵役を延期しなければならない」と言われたという。こうして様々な大学に選手が籍を置くようになった。

野口二郎はできるだけ大学へ行くようにし、法政大学の夜間部で中等学校教員の資格を取っている(教員は大学卒業後も兵役が免除された)。日大に籍を置いていた石丸藤吉は弟の進一を名古屋軍に入団させる際に、「必ず夜学に通うこと」を条件にさせた。藤吉は進一がサボろうとすると尻を叩き、週に三日は出席させていた。一方で教練さえ受ければ籍は維持できるとされたことから、ほとんど授業に出ない選手も多数おり、川上もその一人だった。

さすがにこうまで目立つことをされては軍の監視を招く。南海にいた川崎徳次は二年次の学費を納めに行くと出席日数不足のためとして除籍を言い渡されると、すぐに「徴兵検査の通知が来て、待ち構えていたように甲種合格となった」。

柔軟な動きで「蛸」というニックネームを持つ中河美芳は、その一塁手の守備を見ようと客が来るほどだった。中河は関西大学を中退して職業野球に入ったが再び日大に入学したことから目をつけられ、下宿先に突然憲兵が押し入り本棚を調べられたこともあった。精神的に追い詰められた中河は「憲兵の目が……」とうなだれ、とうとう兵役を志願する。

川崎はビルマ方面に派遣され、マンダレーの戦地にいた。呼び出しがあったので誰かと思うと、巨人の吉原正喜だった。川崎と吉原は昭和十六年十二月八日に偶然会って酔いつぶれるまで飲んだことがあった。朝目を覚ますとラジオで真珠湾攻撃を知り、「こりゃあ、野球どころじゃのうなったバイ」となった。

川崎より一年早く入隊していた吉原は軍曹の分隊長になっていた。吉原はあんころ餅と小遣いの十円を渡すと、「明日また来るわい」と言った。翌日もやはりアメや餅を手にいっぱいにして、「かわいい弟に渡すかのような笑顔」を見せた。そればかりか、痔に苦しんでいた川崎のために薬まで持ってきてくれた。吉原は「明日もまた来る」と言ったが、川崎が彼を見たのはこれが最後になった。

沢村栄治とバッテリーを組んでいた内堀保ははビルマと中国の国境近くの騰越で「英軍の動きを探る任務に就いていた」。そこに豚をかついで来た兵隊が現れ、「内堀さんじゃないですか」と声をかけてきた。吉原だった。二人は入れ替わりに巨人の捕手を務め、ともに沢村の球を受けていた。吉原が「今夜はここで野営です」と言うと、内堀は「それなら、オレのテントに泊まれ」と誘った。吉原が缶詰を持ってくると、内堀も隠していた酒を開けた。朝まで語らい、「それじゃ、元気でな」、「内堀さんもお元気で」と言葉をかけ合って別れた。作戦のことは話さなかったが、「内堀は吉原がインパールに向かうのだろうと感じ取った」。


戦局は悪化の一途をたどり、ついに大学生の兵役免除が停止されることになった。昭和十八年十月に神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会には、石丸進一の姿もあった。
そこで鈴木龍二と赤嶺が考え出したのが、「選手たちを産業戦士として徴用工に仕立てることだった。軍の工場で平日は働き、休日に職業野球をするのである。軍の懐なら召集も免れるかもしれない」。鈴木は報国会を結成し、大政翼賛会に協力を求めた。さらに工場で働く選手たちを読売の記事にして軍のご機嫌をとった。沢村が工場で働いていたのもこのせいであった。

新愛知新聞と名古屋新聞とが合併し中部日本新聞社となると、赤嶺は親会社を頼ることはできなくなった。赤嶺は後楽園球場のそばにあった、「鉄砲や大砲の薬莢などを作っていた理研工業」に選手を引き取ってもらうことを決めたが、親会社は球団の権利が奪われると、いいがかりとも思える理屈で難色を示した。ここで喧嘩別れしては球団が解散して選手が路頭に迷うと、赤嶺は借用書を提出して選手の籍を理研工業に移した。中部新聞はほとんど球団を投げ出すような形になっていながら、このように権利を振りかざした。赤嶺は「せめてもの抵抗として、球団の名称を産業軍と改めた」。


東京大空襲から程なくして、理研工業にいた赤嶺の前にひょっこり石丸進一が姿を現した。海軍少尉となっていた石丸は休暇をもらい、東京まで出て、焼け跡となった街を二時間かけて歩いてやって来ると、「新しいボールを下さい。死ぬ前に思う存分ピッチングをして死にたいんです」と言った。赤嶺が渡せたのは粗末なボールだったが、石丸は嬉しそうにした。

石丸は特攻機に乗り込む前に、赤嶺からもらったボールで、「一球ずつ、感触をたしかめるようにキャッチボールをした」。石丸が出撃して三時間後、隊長機から「敵艦見ユ」という無電が入った。「それを最後に連絡は途絶えた」。終戦の約三ヶ月前のことだった。


戦後、赤嶺は選手たちの復員を待ち、選手たちは彼のもとに集まってきた。「しかし、「中日」と名前を変えた球団は、再開したリーグ戦での成績不振を理由に赤嶺を解任したのだった」。
選手たちは赤嶺と行動を共にすることにした。「赤嶺と選手たちは、チームを渡り歩き、セントラル・リーグ初の覇者となった松竹の優勝などを請け負った。組織に頼ることなく自らの思想を基にした独自の行動は、「赤嶺旋風」と呼ばれた」。

鈴木龍二は敗戦の年に日本野球連盟を立ち上げ会長となり、二リーグ分裂後はセリーグの会長を務め、野球殿堂入りした。鈴木は戦没した選手のために鎮魂の碑を建てたが、「碑に刻まれている名は判明している限りである。戦死した職業野球の選手のなかにはいまだ不明者が多い」。


鈴木や赤嶺が時局に迎合したところがあったことは否めないだろう。一方で彼らがいなければ、職業野球はもっと早くに休止に追い込まれ、また命を失った選手たちもさらに増えていたかもしれない。鈴木や赤嶺に批判されてしかるべき言動があったことは確かだろうが、少なくとも彼らなりの「抵抗」を試みたといえなくもない。軍や当局に協力することでお目こぼしを図るということでは『シンドラーのリスト』のシンドラーも思い浮かぶが、こういった人物をどう評価すべきかは難しいところである。


なお石丸を描いたノンフィクションとそれを原作に映画化もされているが、僕はどちらも未読未見なもので内容はわからない。





『兵隊になった沢村栄治  ――戦時下職業野球連盟の擬装工作』その1

山際康之著 『兵隊になった沢村栄治  ――戦時下職業野球連盟の擬装工作』





「巨人軍、タイガースなど七球団が加盟した日本職業野球連盟は、昭和一一年二月に旗揚げした。それは、まさに若手将校による二・二六事件の二〇日ほど前のことであった。この事件を起点に日本は軍国主義の道をひた走ることになるが、その後の職業野球の運命を暗示しているように見えた」。

「はじめに」にこうあるように、「職業野球」の誕生から昭和十九年の「休止」までの歴史は、戦争を抜きに語ることはできない。


昭和九年に行われた日米野球では、両チームの力の差は歴然としていた。そんな中、当時十七歳の沢村栄治が、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁する全米チーム相手に圧巻のピッチングを見せた。沢村のピッチング以外にも注目を集めたものがあった。日米野球を主宰した読売新聞の発行部数は大きく伸び、七十万部を越え東京市では朝日や東京日日新聞を抜いて一位となった。名古屋での興行権を譲り受けた新愛知新聞や、甲子園球場を持ちやはり興行権を得た阪神電鉄なども、その集客力を目の当たりにしていた。こうして職業野球は、順風満帆とは程遠い見切り発車的なものとなったが、なんとかスタートにこぎつけた。


昭和十二年七月十八日、防御率〇.八一、二十四勝という成績で最高殊勲選手に選ばれ表彰された沢村栄治の表情にはどこか影があるように見えた。数日後に徴兵検査が待っていたのだった。すでに中国と交戦中であり、合格はそのまま戦場行きと考えられ、死を覚悟しなければならなかった。この日行われたは「国防費献納東西対抗職業野球戦」だった。「連盟の理事、審判、そして選手全員が左腕に日の丸をつけ、「所沢航空隊の○○さん」といった普段では聞かれない場内アナウンスが流れ、異様な雰囲気を漂わせていた」。チケットは売り切れ、朝の9時には入場お断りの貼り紙が出された。日頃資金繰りに苦労していた理事たちは、試合後に集まった献金の多さを見て驚くことになる。この一ヵ月後の八月に、発足時から名古屋軍に所属していた後藤正が、職業野球選手として初めて戦死することになる。

沢村の徴兵検査はもちろん甲種合格であった。これが心理的に影響したのか、秋季リーグ戦では「沢村は人が変わったように不振であった」。「死の恐怖に怯えながら必死に投法の修正を行っ」ていた沢村について、ある選手はこの頃から「えらい足をあげて投げるピッチングを始めた」ことに気付いた。
秋季リーグ戦終了後、同じく入営の決まった捕手の内堀保と、もう会えないだろうと覚悟しつつも、「もう一度バッテリーを組もう」と約束して別れた。

日本軍といえば古参兵による新兵いじめの伝統で悪名高い。営門で記者に囲まれて入営してきた沢村などその格好のえじきとなってもおかしくなかっただろう。救いは「野球を通して上下関係のある集団組織での行動に慣れていたこと」だったのかもしれない。沢村は「初年兵の時は辛かったものの、「二年兵になってからは軍隊生活が楽しい」と思うようになり、「今の自分の生活こそ、私にとっては一番華々しい、そして一番印象深いもの」」であり、「出征してから野球のことはまるで忘れてしまった」とまでしている。もちろん戦時下の回想でありどこまで本音であったのかはわからないが、沢村は軍隊に順応しようとしたし、「そうした順応こそ、若者たちの意識を根本から破壊し、兵士に作り替えてしまうことを意味していた」。

軍にとっても知名度の高い沢村は利用価値の高い存在だった。沢村の手榴弾投げの様子は新聞が派手に書きたててくれる。職業野球の選手は手本として狩り出された。ウォーミングアップなしで投げれば肩を痛めることは当然だが、上官の命令には反射的に従うようになっている。「上官の命令を何もためらわず行動できるようになったのは、もはや兵士になった証拠である」。

そして中国に送られた「沢村が目にした戦場の光景は壮絶なものだった」。親しい戦友三人が戦死した。「戦わなければ、自らの命がなくなる」。戦闘が始まるとまず沢村のところに手榴弾が運ばれ、「敵前三〇メートルくらいのところまで行ってヂャンヂャン投げ」た。そして「白兵戦になって四十人ばかりみんなで突殺した」、「軽機の射手になって思う存分射ちまくって痛快」だったと振り返ることになる。あのはみかみ屋の青年の面影はもうそこにはないようだが、「その晩は夢見てヘンな気持ちだった」としているように、そうでも思わないことには正気が保てなかったとすべきなのかもしれない。沢村は「漢口攻略の大別山中での戦闘で、左の手のひらを撃たれた」。「投手としての右腕でなかったのが救いであるが、もはや沢村にとっては、野球のことよりむしろ生きていることの方が喜びであった」。

入営の日に除隊後は職業野球に復帰するのかと新聞記者に訊かれると「もちろんです」と答えた沢村であったが、「野球も家のことも、なにもすっかり忘れて兵隊になりきっていた」。それでも、除隊後は「とりあえず、上京して巨人軍に顔を出すことにした」。

復帰したはいいが、二年間のブランクは大きかった。無安打無得点を達成したこともあったが、全盛期には程遠く、かつての姿を知るスタンドからは「そのザマは何だ!」という野次まで浴びるようにまでなってしまう。

沢村の戦争はこれで終わったのではない。昭和十六年、ヨーロッパ戦線は拡大し、日本はアメリカとの緊張を高めていた。東条内閣が成立した十月、「多摩川の河川敷で練習をしていた際に、兵士たちを乗せた軍の列車がそばを通ったが、彼はそれを見て、「こんどは俺の番だ!」と呟いた。まさしく本当にそうなってしまったのだった」。

「わしゃ、運が強いから敵のタマには当たらん」、そう新婚五ヶ月の妻に言い残し、沢村はフィリピンへと送られた。

「ミンダナオ島に上陸すると、現地にいた日本人小学生に持っていた菓子をすべて差し出すなど心やさしく接した。しかし、戦火が激しくなるとそうした心の余裕はなくなり、目も血走っていく」。
マニラではホテルの厨房で日本人が惨殺されるのを目撃し、日本人女性への強姦が多発していると知ると、「再び鬼と化した」。「犯人を見つけるやいなや、「金網を丸めた棒切れで叩きのめした」」と、後に後輩の青田昇に語った。

再び生還したが、野球選手としての輝きは完全に失われていた。巨人軍の主将となったが、投手としてはまったく振るわず、代打として起用されても結果は残せなかった。彼の名が告げられると、「沢村か、駄目だァ」という声がスタンドから聞こえた。

昭和十八年七月六日の阪神戦、沢村は三週間ぶりにマウンドに立った。一回二死から四連続四球で失点すると、ニ、三回も四球を連発して五失点で降板した。かつての面影はなく、「力強く投げおろした投法は横手投げになり、足もあげなくなっていた。ほとんど腕だけで投げており、制球も定まらない」。
この日を終えて沢村の成績は0勝三敗、防御率一〇.六四。これが沢村最後の登板だった。

同年十月二十四日の阪神戦、二対二で迎えた延長十回表一死一、二塁で沢村は代打で起用された。初球を打つと打球は力なく上り、サードファールフライでアウト。これが職業野球での沢村最後のプレーであり、「三塁圏外区域の無為」で、「引ケ」と宣告された。

秋季リーグ戦が終了すると、沢村は妻の実家が所有していた大阪の自宅に戻り、「日本野球連盟関西勤労報国隊」の一員として関西の選手たちと川西航空機で働き始める。よく対戦した影浦将や坪内道典も一緒で、休憩時間に煙草を吸いながら話をするのが息抜きだった。しかしある日、坪内がまだ兵役に就いていないことを知ると表情を一変させた。沢村は「坪さんが兵隊に征かんうち、オレ絶対に行かへんで」と言った。「二度も召集されている自分に対して、いまだに兵隊に行っていない者がいることが信じられなかったのだ」。

坪内は徴兵検査の直前の試合で鎖骨を骨折し、そのせいか「甲種合格ではなく第二乙種合格となり、兵役せずに補充兵扱いとなった。それ以来、不思議なことに召集されることがなかった。休憩が終わると、三人はいつものように笑顔で職場に戻っていった」。
ここで沢村が坪内を愛国心が欠けていると吊るし上げるのではなく、「坪さんが兵隊に征かんうち、オレ絶対に行かへんで」と憤るところに、彼の本音があったのかもしれない。

昭和十九年になると球団は次々と解散していき、また選手も離れていった。巨人軍は他球団に在籍した選手は採らない方針であったが背に腹はかえられず、解散した球団の選手を採用することにした。「こうした動きにひとり取り残されたのが関西にいた沢村である」。

昭和十九年二月に、沢村は信頼していた鈴木惣太郎のもとに興奮した面持ちで表れると、「巨人軍から、なんの通知もないさかい出てきたのや」「ほしたら、もうきみはいらんというのや」とまくしたてた。そして産業軍と阪急からさそいがあるとまで言った。阪急の監督を務めていたのは、かつて巨人の監督を務めたこともあり沢村も慕っていた三宅大輔だった。鈴木は「巨人軍の沢村で終わるべきだ」と説得したが、沢村は巨人の仕打ちが許せない、他球団で見返したいと言い張ったものの、落ち着きを取り戻したが、その様子にはまだ迷いがあるようだった。沢村は関西に戻ると、再び工場で働き始めた。

職業野球は昭和十九年の総当たり戦の開催になんとかこぎつけたが、どの球団の名簿にも沢村の名はなかった。後楽園球場の二階席は高射砲を構え、さらには兵隊が外野のフェンス沿いに野菜畑をつくりはじめていた。球場の職員が芋やきゅうりなどのささやかな菜園をつくっていたが、それを見逃さなかった兵隊がグラウンド内にまで広げたのだった。外野に飛んだ打球が野菜畑にまぎれ込んで三塁打になってしまうという、「笑えない珍事」も起こった。

入場券の印刷もままならず、春季は「日の丸を赤色にあしらった二色の絵柄」であったが、夏季は「黒一色の文字だけ」となった。
産業軍監督の三宅は、「そんな粗末な券を持ってひっそり観戦していた沢村」の姿を見つけた。「なにをしている」と声をかけると、「毎日、工場で働いています。機械がゴウゴウと鳴り、真赤にもえた鉄が頭の上をとおり、野球よりよっぽど面白いですよ」と沢村は答えた。「危ないじゃないか」と三宅が言うと、沢村は「黙って下を向いた」。

西鉄から巨人に来ていた近藤貞雄と柴田崎雄が、野球を見に来ていた合宿所の娘と一緒に帰宅しようとすると、「いまどき、女づれとはなんだ」と憲兵から顔がはれるほど殴られた。「須田博」と改名させられていたスタルヒンが突然姿を消した。日本国籍を持っていなことからスパイ容疑がかけられ、以前「水道橋から後楽園球場へ向かう途中にかかる橋で、「船を見たら銃殺するゾ」と脅されたことがあった」。スタルヒンはそれ以来、「橋を渡る際には、眼をつむるようにしていた」が、監視の目はますます厳しくなり、ついに「外国人の強制疎開先に指定されていた軽井沢」に送られたのだった。

もう限界であった。最後の大会として「日本野球総進軍優勝野球大会」が開催され、 どの球団も九人集めることすらままならない中、それでも九日間で三万人以上の入場者があった。昭和十九年十一月、職業野球は休止を宣言した。

南海沿線の自宅近くの南海の車輌工場で働いていた沢村は、昼休みになると南海の選手と一緒に練習をしていた。工場を訪れた鈴木はこの沢村の姿が目に焼きついて離れず、後年「沢村は巨人軍で終始したということになっているけれも、一度南海にいった」、「最後に応召にいく前に南海へいった」、「巨人軍だけの沢村じゃない」と語ることになる。

昭和十九年十月、沢村に三度目の召集がかかった。沢村は「おい、行ってくるわ」と笑顔で家を出た。
「車で連隊の営門前まで行くと、沢村は、同行してくれた父に、これまで誰にも言うことのなかった巨人軍からの解雇の話をした。悔しさと悲しさから涙が止まらない。帰ったらもう一度野球がしたい。そうした願いを受け止めた父は沢村の後ろ姿を見送った」。

沢村を乗せた輸送船は屋久島の西約一五〇キロのところでアメリカ軍の潜水艦に発見され、魚雷攻撃を受け沈没、生存者はいなかった。


というところで長くなったのでその2に続く。
プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
12 | 2017/01 | 02
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR