『シュピルマンの時計』

クリストファー・W・A・スピルマン著 『シュピルマンの時計』



ロマン・ポランスキー監督『戦場のピアニスト』はナチス支配下のポーランドで奇跡的に生き残ることに成功したユダヤ系ポーランド人ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの実際の体験を基にした作品であるが、第二次大戦後に生まれたこのシュピルマンの長男は曲折のすえ「日本近代史、とくに日本のナショナリズムやアジア主義」を専門とする研究者となった。本書はそのスピルマンによる『戦場のピアニスト』のその後の物語であり、また自身の半生を描いたものである。

まず「スピルマン」という名前の表記だが、これは著者が日本にやって来た時に日本人が「Szpilman」の「Sz」をうまく発音できないことに気がついたため、「スピルマン」という表記にしたそうだ。また「ポランスキー」や「カミンスキー」といった名前はポーランドではロシア人のようにのばさずに「ポランスキ」「カミンスキ」となるとしている。「ワレサ」は「ヴァレンザ」であるそうだが、「なぜか日本ではかけ離れた書き方が定着してしまった」。

言葉の問題でいうと、ポランスキーは英語で撮られたこの作品の中で、ドイツ語での会話をあえてドイツ語のままにしている。ホーゼンフェルト大尉がシュピルマンを発見し、ピアノを弾かせる場面であるが、ここではホーゼンフェルトがユダヤ人相手に敬語で話しかけていることを描くことで彼がいかなる人物であるかを簡潔に表しているとしており、日本語字幕ではこのニュアンスが消えてしまっていることを残念がっている。このあたりは字幕にしろ吹き替えにしろ、映像作品の場合注釈をつけられないのでなかなか難しいところであろうが。

本書でもホーゼンフェルトはナチではなく徴集された国防軍の将校であり、身の危険をかえりみずにユダヤ人たちを救ったエピソードが取り上げられており、また映画の原作となったシュピルマンの『戦場のピアニスト』にはホーゼンフェルトの日記の抜粋が収録されている(もっとも「国防軍神話」には注意せねばならない)。ホーゼンフェルトは戦後ソ連の収容所に入れられたまま、精神を病んでそこで亡くなることになる。


著者は日本にやって来た時には父がこれほど有名になるとは思わなかったそうだが、シュピルマンも1964年にワルシャワ五重奏団の一員として来日している。この時に電化製品等のおみやげを持ち帰ったが、なかでも一家の目を引いたのが五円玉だったそうだ。ポーランドには穴の開いた硬貨がなかったため、「ずいぶん長いこと、一家の話題にのぼっていた」とのことである。

このようにシュピルマンは戦後もピアニスト、作曲家として活躍し続けたが、その過酷な体験からくるであろう後遺症も本書では描かれている。

著者の父と母が出会ったのは1948年のことだった。医学生だった18歳の母は温泉地を訪れたが、そこで彼女に視線を送る男に気づいた。一年後に母はその父らとともに同じ場所を再訪すると、あの男がまたいた。その男の友人はなんと母の父の友人であり、「この人は私の友人で、有名なピアニストのシュピルマンさんです」と紹介された。シュピルマンといえばピアニスト、作曲家としても有名であり、その体験を記した『ある都市の死』でも知られていた。

この『ある都市の死』が約50年後にドイツ語や英語に訳され、ポランスキーは英訳を読んで映画化を決めたそうだ。といってもポランスキーがここで初めてこの話を知ったのではないだろう。シュピルマンはアンジェイ・ワイダらポーランドを代表する監督たちと付き合いがあり、ポランスキーともすでに60年代に面識があったという。

また『ある都市の死』については、邦訳においても発表後すぐに当局の禁忌にふれ発禁にされたとなっているが、これは事実誤認だとしてある。すぐに品切れになったことは確かだが、それは紙不足のうえに当時の政権がプロパガンダ的な出版物を優先したために増刷できなかったというのが真相なのだそうだ。ホーゼンフェルトが救いの手を差し伸べる部分はドイツ人ではまずいということでオーストリア人に変更させられたが、それ以外は特に問題とはならなかった。

その証拠に、実は48年にすでに一度ポーランドで映画化されているのである。脚本は『灰とダイヤモンド』の作者のアンジェイフスキと、後にノーベル文学賞を受賞することになる詩人のミウォシュに決まったが、共産党が検閲の際に設定の大きな変更を求めてきたために二人は手を引いてしまったそうだ。共産党はピアニストは中産階級的だ、何もせずに生き残っただけじゃないか、などとケチをつけ、主人公を普通の労働者にしよう、主人公は一人ではなく複数にしよう、ポーランド独立運動のために頑張っていることにしよう、ポーランドを解放してくれたソ連将校と一緒に歩かせよう、などと注文をつけてきたという。このあたりが本が発禁にされたという誤解を生んだのかもしれない。

この映画は著者が十代半ばのときに『ワルシャワのロビンソン』というタイトルで放送されたが、「あの映画はあんたのお父さんのことだよ」と言われても何がなんだかわからなかったほどだった。ピアノが登場するのは一箇所だけ、ピアノが隠れた場所にあり、主人公が瓦礫の中で鍵盤をうっかり踏んでしまったというところだけなのだという。


父と母の出会いに戻ると、二人は20歳もの年齢の違いをものともせずたちまち恋に落ちる。父はユダヤ系であるが無信仰であり、母の一家はカトリックであったために母方からは不安の声もあったが、二人はそのまま結婚する。在学中に著者を妊娠、周囲からは退学を勧める声もあったが、母は卒業し医師となる。社会主義国家でピアニストの父と医者である母となると、男女平等の考えに基づいて家事などもきちんと分担していたと思われるかもしれないが、シュピルマンは実際的な能力を一切欠いており、すべて母まかせであった。

強制収容所から帰還した人は、自身の体験について口をつぐむ人も少なくない。シュピルマンは強制収容所送りを逃れたものの、家族は皆そこで殺された。彼が自分の著書の再刊に消極的であったのも、強制収容所から帰還した人々と似たような心理からなのかもしれない。

著者は子どものころ、父がこのような体験をしたことを全く知らなかった。シュピルマンは息子に何も語らなかったのだった。父には親戚縁者が誰もいなかったが、当時のポーランドにおいてはそう珍しいものではなかった。著者が11歳のとき、本棚から父の著作を見つけて読み、こんな体験をしていたのかと衝撃を受けるのだった。

シュピルマンは冗談好きで、暗い影のようなものを普段は見せることはなかったようだが、時おり過酷な体験の後遺症が顔を出すこともあった。著者が幼いころ海に行くと、父は海の怖さを植え付けるようなことを言った。後に気づくのだが、父はもう二度と家族を失いたくないと、事故に合うことを恐れたのだった。著者は転んで大怪我をしたことがあった。唇は裂け、歯が折れていた。血まみれで家に帰ると、シュピルマンはなんと息子を激しく殴り始めたのだった。これもまた、息子の姿に動揺し、こんな思いをさせてくれるなということだったのだろう。

シュピルマンは休みのときでも家でピアノの練習を欠かさなかったが、仕事に没頭することで過去の体験を振り払おうとしていたのかもしれない。演奏を引退した後は一気に酒量が増えることになる。晩年は息子に電話をすると、「こんなに生き続けていることに何の意味がある。私は家族と一緒に、あの時に死ぬべきだったんだ」といったことを言うようになってしまう。


とはいえこれは後の話で、著者は著名なピアニスト・作曲家の父と医師である母を持ち、比較的裕福で幸福な少年時代を送ることになる。両親はともに共産党に入ることはなく、著者も社会主義体制に早くから疑問をおぼえる。
もっともポーランドは他のソ連の衛星国と比べると自由であり、とりわけスターリンの死後は一般市民は政権批判なども平気で行っていたそうだ。そしてこの自由のおかげで、著者はポーランドを離れることができた。

著者は学校での勉強にはまるで身が入らず、大学進学は絶望的な成績であるばかりか、高校の卒業すら危ぶまれる状況となってしまう。というのも、高校には「ロシアばあさん」がいたのである。このロシア語教師は気に入らない学生を片っ端から落としては別の学校のロシア語教師に紹介し、また自身が放課後にやっている個人塾にその見返りとして学生を斡旋してもらうという裏の商売をしていた。著者はこの「ロシアばあさん」に目をつけられてしまう。ウクライナ生まれでロシア語のできる祖母は心配して、ロシア語の勉強をかねて著者を保養地であるソチへの旅行に送り出してくれた。

映画には出てこないが、シュピルマンの原作の『戦場のピアニスト』には逃亡生活を送りながら英語の勉強もしていたことが書かれているが、息子もまたBBCなどを聞いて英語の勉強をしていた。そしてこの旅行で、やはり旅行に来ていたイギリス人夫妻に英語で話しかけ友だちとなり、イギリスに来るように言われるのだった。

当時の社会主義国としては珍しく、ポーランドは自国民が国外へ出るのに寛容であった。ポーランド人の中には数年間西側で肉体労働などをして、帰国してその稼ぎで家を建てる者もいたという。ポーランド政府としては、ポーランド人は西側へ出ても戻ってくると考えていたようだ。従って著者もパスポート自体は容易に手にできた。ただし観光という名目で取ったもので、有効期限は二週間とされていたが、戻るつもりはなかった。

イギリスでは当初父の知り合いの家に転がり込んだが迷惑顔をされ、旅行先で知り合ったあの夫妻の家に向かうと歓迎された。このイギリス人夫妻はかなり裕福で、家に置いてくれたうえにリーズ大学への進学も勧めてくれた。

著者は割りとあっさり書いているものでこのあたりの事情はよくわからないのだが、イギリスにおいてビザを持っていない外国人の長期滞在や大学入学というのは当時はこうも簡単に認められていたのだろうか。それとも東側から来たからということだったのか、あるいはイギリスでも演奏活動を行うなど著名な音楽家の息子だったおかげなのだろうか。いずれにせよ、EU離脱決定後のイギリスには排外主義が高まり、その余波は留学生にも及んでいるとされており、ましてやもっとも標的とされているのがポーランド人であることを思うと、現在ではとても考えられないことだろう。

ともあれ著者はリーズ大学でロシア語と哲学を学ぶことになるが、ここでも勉強にはあまり身が入らなかった。しかし著者は大学時代に柔道と出会い、日本語も学びはじめる。大学卒業後ロンドン市役所で働き始めるが(これも考えてみればすごいのだが、当時はよくあったことなのだろうか)、日本への思いがふくらみ、ついに日本へ行くことになる。イギリスの柔道クラブで知り合った日本人の故郷愛媛県の川之江で英語教師となる。前任者は小豆島から通ってきていた、映画『大いなる幻影』でドイツ将校役を務めた映画監督のエリック・フォン・シュトロハイムの同名の孫であったそうだ。

しかし著者は系統だった勉強の必要性を感じてロンドン大学日本語学科に入りなおし、日本に戻ると今度はインドネシア難民の救援ボランティアを始め、さらにバンコク滞在中にアメリカの大学院を受験しこれに合格してエール大学大学院東アジア研究学科で学ぶことになる。ここで日本人の女性と出会い、結婚して日本の大学でも教鞭を取るようになるのであった。

と、父親の生涯もすさまじいものであるが、息子の人生もかなりのものである。


『1974年のサマークリスマス  林美雄とパックインミュージックの時代』

柳澤健著 『1974年のサマークリスマス  林美雄とパックインミュージックの時代』





1974年8月いっぱいをもって、熱狂的な支持を受けていた林美雄の「パックインミュージック」の終了が告知された。林は自身の誕生日である8月25日に「サマークリスマス」と銘打ってイベントを行うことにする。当初代々木公園で行われる予定であったが、荒天のため急遽TBS内のスタジオを押さえた。約400人によってむせかえるようで、マイクもない劣悪な環境の中、荒井(松任谷)由美や石川セリらが歌を披露し、参加者はゲームに興じるなど高揚感と多幸感溢れるイベントとなった。番組終了に納得のいかなかったファンは「パック 林美雄をやめさせるな! 聴取者連合」(もちろんベ平連のもじりである)を結成し、イベント参加者などにも署名をつのり、これをTBSに渡すことになった。「パ聴連」のメンバーもこれで終了が覆るとは思ってはいなかったが、何かせずにはいられなかった。しかしTBS編成部と面会すると、林について局内での意外な評価を知らされるのであった。


本書は林美雄の評伝であると共に、「パックインミュージック」をはじめとする文化表象から70年代前後という時代を描いたものとなっている。
1960年代について書かれた本は多い。80年代について語られた本も同じように量産されている。それと比べると、70年代というのはどうも影が薄い。二つのあまりに強烈な時代に挟まれて、肩身の狭い思いをしているかのようだ。時代というのはもちろん10年ごとに都合よく切り分けられるものではない。10年間には様々な変転やグラデーションがあるのは当然のことだ。60年安保と70年安保を一緒くたにしたり、80年代をまるごとバブルとして扱ってしまう粗雑なものも見受けられるが、これらを反証するのはたやすい。しかし70年代となると、同時代を生きた人にとってすら、何か薄ぼんやりとした靄がかかっているようにも思えてきてしまう。

1943年生まれの林は僕にとってはまさに親の世代であるし、74年には生まれてもいなかった。2002年に林が58歳で亡くなったときも、個人的には強い印象は受けなかった。その名前は知ってはいたし、まだ若いのにとは思ったものの、(そこそこの)有名人が亡くなったという以上のものではなかった。しかしその後林の「伝説」を見聞きするようにもなり、いったい林の「パック」は当時のリスナーにとってどのようなものだったのだろうか、そして早すぎた晩年をどのような心境で送っていたのだろうかといったことにも関心が出てきた。本書はあの時代を生きた人にとってはもちろん、あの時代がいかなるものであったのかについて関心を抱いている人、そしてなんといってもラジオが好きにとっても興味深く読めるだろう。


1945年前後に生まれた人というのは、貧しい日本と豊かな日本を同時に体験するという稀有な経験を持っているとしてもいいのかもしれない。小学校低学年の頃から、林はラジオの野球中継に夢中になった。そして6年生のとき、ラジオ東京の「少年アナウンサー」に選ばれ、実況するという経験をした。林はこのとき将来アナウンサーになるという決意をする。ニューヨーク・ヤンキースが来日した際には少年野球チームの一員として指導を受ける姿が雑誌の表紙に起用されているように、目立つ少年だったのだろう。高校三年時にはNHK全国高校放送コンテストのアナウンス部門で優勝するなどその夢に向けて順風満帆に歩んでいたのかといえば、そうはいかない事情があった。父は様々な商売に手を出したが商才がなく(値切られると原価割れをしてまで売ったりしたこともあった)、家計が苦しかった林家では、息子を大学に入れるなど考えられなかった。そこで林は一度三菱地所に就職し(このときのストレスから両切りピースを吸うようになり、生涯ピースを吸い続けることになる)、退社して得た失業保険などを使って早稲田の法学部二部に入ってアナウンサーを目指すことにした。

幼少期からラジオは身近なものであり、アナウンサーを目指すという浮ついたともいえる夢を抱くことができたが、おいそれと大学進学できるような環境ではなかった。しかしまた、学費が安かったこともあってアルバイトをしながら大学の夜間部などに通ってキャリアアップを目指すことも可能な時代でもあった。

林の夢は叶い、TBSに入社が決まる。同期のアナウンサーには久米宏らがいた。久米は大学時代は演劇をやっていたもののアナウンサー用の練習をしていなかったことから、林ら早くからアナウンサーを目指していた同期の技量に引け目を感じたという。当時すでに大学の放送研究会などはアナウンサーの虎の穴となっており、キー局に採用されるのは超難関となっていた。しかしまた、この年TBSは難関をくぐり抜けた以外に、別ルートからのアナウンサーの採用も行っている。こうして採用された中には流暢な英語を操り長髪など独特の風貌で知られる宮内鎮雄もいた。宮内はもともとディレクター志望であったが、それに落ちた後に別にアナウンサーも取るから試験を受けてみないかと誘われたそうである。TBSの人事部としては、学生時代からアナウンサーを目指しているような放送研究会出身者以外の多様な人材を取っておきたいということだったらしい(久米の採用もそうだったのだろう)。

今のアナウンサーを見ると、アナウンサーになるということが唯一にして最終的なゴールになっており、社会問題はおろか音楽、映画、演劇、文学といった文化的なことは無論のこと、果てはテレビやラジオについてすらまともな関心を抱いていないといった雰囲気の人がほとんどであるように思えてしまう。このような状況になることを恐れて宮内のような個性的な人材も採用したのであろうし、この点当時の方が今よりはるかに健全だったのかもしれない。もっとも別枠での採用には、本試験の厳しさにさらされて同志的感情が芽生えていた側からは強い反発を招いたようだ。


1957年には早くもテレビが広告収入でラジオを抜き去り、ニッポン放送や文化放送といったラジオ専門局は危機感を強めていた。大宅壮一が「一億総白痴化」とテレビの低レベルな番組を批判したのもこの年だった。一方で半ばやけくそ気味に始められた深夜放送が人気を博すようにもなり、新たな収入源も発掘できた。ラテ兼営局のTBSにはこの危機感が薄く、他のラジオ局が深夜放送のスターを生み出していたのに対し、旧態依然たる番組作りから抜け出せていなかった。

そしてまた、この頃はTBSの社員が抱いていた幻想が剥ぎ取られていく時代でもあった。TBSは「民放の雄」と呼ばれたが、それはドラマや娯楽番組で高い視聴率を誇るばかりでなく、政府・自民党、財界と深く結びつき、反共プロパガンダの一翼を担うことを期待され創設された日本テレビと違い、自分たちは権力と対峙するのだという自負を抱いていたことからもきている。ラジオ東京(TBS)の初代社長足立正は、「最大の放送局よりも最良の放送局を目指す」と訓示を与え、社員たちもこの気概を持った。

しかし67年には、田英夫が北ベトナムで取材を行ったことが自民党から集中砲火を浴びる。さらに68年には、成田空港建設反対運動を取材していたTBSのクルーが、集会に向かっていた農家の女性たちが乗った車が故障したので一緒に乗せて言ってほしいという依頼に応じ、そこに全学連の活動家も同乗しプラカードも持ち込まれたことからまたも攻撃対象とされる。自民党はプラカードは板を外せばゲバ棒になる、報道機関がゲバ棒の運搬に協力するとはなんたることかと騒ぎ立てた。もちろんゲバ棒云々というのは難癖にすぎず、目的が恫喝にあることは明らかだが、「プラカードを取材車に積み込ませたTBS取材スタッフの軽率を責めることはあっても、自民党の横暴に非を鳴らすメディアは少なかった」。「郵政省電波監理局が調査という名目でTBSに警告を発し」、取材していた「成田24時」は放送中止に追い込まれる。TBS側もこれに完全に腰砕けになり、関係者に「過酷とも言える大量処分が行われた」。田もこの流れで降板に追い込まれるのであった。

本書では触れられていないが、「西山事件」でも他のメディアは権力の側につき後ろから弾を撃つことになるように、日本の主要メディアのこういった体質は現在まで変わることがない。本来ならば権力が恣意的に電波メディアに介入できる余地を与える放送法などを問わねばならないはずが、こうした議論自体がメディア自身によって不可視化されてしまっているままである。

こういった流れに忸怩たる思いを抱いていたTBS社員も多かった。若手アナウンサーたちはトークや選曲で個性を発揮できる「朝のひととき」という番組で研鑽を積んでおり、桝井論平は宮内ら後輩アナウンサーから刺激も受けていた。そしてついにTBSラジオでも深夜帯の編成が見直され、この戦線に割ってはいることになった。69年5月、桝井は土曜深夜の「パック」第二部に起用され、翌年には第一部に昇格した。桝井は他局の深夜放送に不満を持っていた。「ニッポン放送と文化放送は『何でもしゃべろう』と言いつつも微妙にコントロールされている。身の回りの小さなことや下ネタなどのお笑いに走り、日本が抱えている問題と正面から取り組むことを避けている。僕はそう感じていた」。

桝井は社会問題を積極的に取り上げ、機動隊からの攻撃を避けられる取材章をあえて巻かずにデンスケ(録音機材)を担いで反対闘争の中に身を置くなどした。その頃桝井は永六輔から呼ばれ、「君には長く続けてもらいたいけど、こんなことをしていては長くできない。もっと自分を大事にするように」、「深夜番組は常識でも非常識でもなく、半常識の世界だ」と言われた。「半常識」を超えた桝井の行動はすでに受け入れられなくなっており、永の危惧通り桝井は降板させられることになる。

林は桝井の放送を聴いて衝撃を受けた。久米も「僕たち同期はみんな論平さんを支持していた」と振り返っている。同時に「大砲を持っている会社(TBS)に小刀持って立ち向かってもしょうがない、というのが僕の考え方でもあったんですよ。いずれ戦わざるを得ない時が来るだろう。でも、俺たちが戦うのはまだ早い。玉砕するのは間違っている。日本のシステムと戦うのは、もう少し先にしよう」と思ったともしている。そして「論平さんの戦いを受け継ごうという思いは、『ザ・ベストテン』や『ニュースステーション』を始めたあとも、僕の中にはずっとありました」と語っている。

現在これを読むと、久米のこの発言にはかなり複雑な思いにならざるを得ない。久米としては正面から「玉砕」するのではなく、まずは「軽やか」に生き延びねばならないということなのだろう。しかし『ニュースステーション』に顕著なように、久米の主観とは裏腹にむしろこれはフジテレビ的「軽チャー」路線と軌を一にしたものになってしまうことになる。そしてアナウンサーを含めテレビなどメディア業界で働く人間の多くから反権力意識が完全に消え、むしろ権力との一体化に凝り固まった今では、「軽やかさ」は単なる「軽薄」さに堕し、権力のお先棒担ぎ争いをしているかのようになってしまうのだが、こういった流れは70年代にすでにその萌芽があったとすることもできる。


入社以来ストレスからか体調不良に悩まされていた久米はようやく回復し、「パック」の金曜二部に起用される。第一部は絶大な人気を誇った野沢那智と白石冬美による「ナチチャコパック」であり、二部も引き続き多くの人に聞かれているはずだ。「胃腸が治ればこっちのもんだ」と意気込んだ久米はここ数年の鬱憤をはらすかのように、「ダムが決壊したみたいに、躁状態かける三乗でしゃべったから、聴いてる人たちは『こいつ頭がおかしいんじゃないか?』と思ったでしょうね」と振り返る。ところが番組開始わずか4週目にして、健康診断の結果肺に影が見つかった。結核だった。治療には早寝早起きが求められ、深夜の生放送などできるはずもなく降板。こうして久米の同期の林にお鉢が回ってきた。

これによって林が一躍人気パーソナリティーになったのかといえばそうではなかった。林は子ども時代からアナウンサーを目指し技術を磨いていたが、この時代にはこれが完全に裏目に出てしまっていた。林の「NHK的」な、安定してはいるが個性のないアナウンス技術は当時の深夜放送向きではなかった。確かに当時の音源を聞くと、30歳そこそこにも関わらず、そのまま「ラジオ深夜便」にもっていっても通用しそうな声質と話し方である。その「美声」はかえってコンプレックスになったようで、「パック」を聞いていた、ニッポン放送のアナウンサーになる上柳昌彦は林が「自分の声をつぶしたい」と言ったことを覚えている。缶ピースを吸い続けるのも、しゃべり手にはよくないことだがハスキーな声にしたいからなのだと語ったのだという。林には久米のような天才的な瞬発力はなかった。英語が堪能な宮内には洋楽、洋画の知識では叶わない。後輩の小島一慶のようなハイテンションさもない。何も売りになるものがなかったのであった。

匿名で登場する、林と短い結婚生活を送ることになるMという女性が林を変えることになる。彼女に導かれて林は数多くの映画を見るようになり、中でも当時ほとんど見向きもされなかった邦画にも魅力的な作品があることを発見していく。エポックとなったのは藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』を紹介したことだった。これ以降林は「NHKアナウンサー的な話し方について悩むのをやめた」と久米は言っている。林は長時間にわたって映画論をぶつのではない。ただ自分の好きな映画を、これだけ自分の心を打つ映画が日本にもあるのだということを、紹介し続けた。

客がほんの数人しか入らなかったような名画座が突如として満席になった。林の「パック」のリスナーがつめかけるようになったのだった。オールナイトには行きづらいという女性の声をうけて上映会も行われるようになる。こうして林の存在は映画ファンのみならず、映画業界にも知られるようになる。大森一樹によると、番組がネットされていなかった関西にまで林の噂は伝わってきたという。林が取り上げるのはほとんどが邦画であり、音楽も荒井由美をいち早く発見したように、新しい感性を持ったミュージシャンや映画音楽などで、「四畳半フォーク」や歌謡曲以外の邦楽が中心だった。このような情報を与えてくれるパーソナリティは他にはいなかった。

またTBSに勤めていたこともプラスに働いたのだろう。先輩アナウンサーの平山允は、『ぴあ』を作ったのはTBSでアルバイトをしていた若者だったとしている。TBS内の映画好きを集めて、「秘密結社TBSシネクラブ」が結成されていた。社長は平山、専務が林、常務が宮内だったそうだ。「秘密結社」といってももちろんおどろおどろしいものではなく、上映スケジュールなどの映画情報をまとめた「結社ノート」を作るなどしていただけだが、これを見たアルバイトが商売になると『ぴあ』が創刊されたのだとしている。

そして林は映画や音楽の情報を提供するだけではなかった。小田実をゲストに呼び、ベ平連のデモの告知をしてもらうと、自分も行く、みんなもこないかと呼びかけた。目印となる『あっ!』という旗を掲げておくから、そこに集まろうというのだ。アナウンサーがデモへの参加を呼びかけて大丈夫なのかと思ったリスナーもいたそうだが、当日は気がつかないにしてもそのうちに社内にこの話が伝わるのは避けられないだろうが、問題にされなかったということはこのあたりはまだ許容されていたのだろう。他にも『市民の暦』を読み続けるなど、あくまで本を紹介しているだけだと予防線を張りつつ、社会運動についての情報も発信していた。桝井が挫折したことを林なりに引き継いだのであった。

多くの人が口をそろえるように、林はノンポリであったのだろう。特定の党派を支持したこともないようだ。ある人は林の反権力を「思想」ではなく「気分」だったとしている。70年代前半は、まだこのような「気分」が残っていたが、同時にまた消え去ろうとしていた時期でもあった。だから林は、若者をデモに誘うことでなんとかこの「気分」に触れさせたかったのだろう。

林は「“菊”にはやはり反対ですね」と天皇制への疑問を呈したことがあった。「ボク自身、人間を差別したことがないとはいわない。/人に差別されたこともあるし、差別したこともある。しかし、それをおこなうことを恐れている。/恐れているからこそ、ボクは差別というものの根本である“菊”に反対してゆきたいのである」。これは76年の『嗚呼! ミドリぶた下落合本舗』からで、さすがに放送に乗せたものではないが、しかし当時は民放のアナウンサーがこうしてひそやかに天皇制に反対することはまだ可能であった。

後に第一部に復活した林の「パック」の名物コーナー、ニュースのパロディである「苦労多かるローカルニュース」にはデビュー間もないタモリが出演して「同時通訳」を行い、四ヶ国語マージャンなどとともに得意ネタである昭和天皇の物真似も披露したことがあった。
これも本書では触れられていないが、タモリのこのネタはその後右翼が騒ぎ立ててある事件にまで発展し完全にタブーとなる。おそらく今メディアで働いている若い人のほとんどが、「菊のタブーなんて全然感じない」と言うだろうが、それはタブーが存在しなくなったのではなく、タブーを完全に内面化した結果、最早タブーをタブーとすら感じなくなっているだけにすぎない。現在では民放のアナウンサーが、プライベートな場においてでさえ「菊には反対」などと言おうものなら大騒動となるのは必至だろう。

90年代のタモリは『笑っていいとも!』の衰えもあって「つまらない芸人」の代表格にように扱われがちであったが、ここ数年で評価は完全に逆転したかのようだ。これは「芸人タモリ」の再評価が行われたというよりも、天皇ネタや「名古屋オリンピック」をコケにしまくるような毒気がタモリから完全に消えたために、「安心」して消費できるようになったという面が強いのではないだろうか。

後述するように、こういった流れが変わり始めるのは70年代後半のことなのであるが、現在から少々皮肉な目で見れば、「気分」を「思想」につなげて広げていくことをしなかった、あるいはできなかったことに、久米や林のようなノンポリ心情左翼の限界が表れているとすることもできるだろう。


数は多くないものの熱狂的なファンを獲得していた林の「パック」だが、終了することになる。「パック」の第二部にスポンサーはついていなかった。だからこそ数字も気にせずに自由にできたのだが、局はこの時間もスポンサーに売れることに気がついた。長距離トラックやタクシーの運転手向けの番組に模様替えすることになる。当然内容は大きくかわり、女性パーソナリティが歌謡曲をかけるという構成になる。ここに林の出番はなかった。

「パ聴連」は面会した編成部員から林の評価が極めて低いことを知らされ驚かされる。それでも彼らの林の「パック」への思いが切れることはなかった。林も75年に1月に、菅原文太、渡哲也らの豪華な面々が出演、その噂を映画界に轟かせていた長谷川和彦演出という「歌う銀幕スター夢の狂宴」の開催に奔走することになる。企画を立てて電通などの大手広告代理店に丸投げしていれば楽であったろうが、林たち「六人の侍」は自分たちの手で実現することにこだわり、テレビ・ラジオ放映もなし、スポンサーもなしという無謀とも思える試みだった。案の定数々のトラブルに見舞われたが、なんとかイベントを成功させることができた。これに貢献したのが、「パ聴連」のメンバーだった。映画ファンへの感謝イベントであり、また「パック」のファンへ捧げるものでもあったのだろう。

深夜ラジオを聴いているくらいだから、その多くが内気で人見知りであったのだろうが、映画をはじめとする共通の趣味が彼らを結びつけ続けた。「パ聴連」にはその名前の由来からしてベ平連に共感を寄せるような政治志向の強い人もいたが、そういった人は次第に離れていった。ついには共同で荻窪のアパートの一室を借りるようになり、そこに行けば誰かしら語り合える仲間がいた。いつしかアパートは「荻窪大学」と呼ばれるようになっていった。

このような擬似共同体がいつまでも続くことはないのは想像に難くないだろう。ユーミンのファンクラブが結成されることになり、沼辺信一ら「荻大」のメンバーが中心的に運営を担うようになったが、沼辺らは「リュージュの伝言」以降のユーミンに幻滅していく。林が見つけて紹介してくれた、最初の二枚のアルバムにあったようなあの繊細な歌詞は消えてしまい、ポップで売れ線の曲ばかりになってしまったではないか。もちろんユーミンの側からすれば、これで食べていく以上売れなくてはならないということになる。チケットがまったく売れなかったコンサートが林の呼びかけによって満席になるということもあったが、そんなことにいつまでも頼っていられないのは明らかだ。そしてこのような葛藤は、林との間にも生じることになる。

75年6月、林の「パック」の復活した。今度は時間が繰り上がって午前一時から三時までの第一部だ。二部時代の林の「パック」は数字が良かったわけではなくマイナーな人気であったが、ユーミンが注目を浴びるようになったこともあって、その目利きぶりへの期待もあっての起用だった。しかしかつてのリスナーからの反応は微妙なものだった。二部時代は数字など気にしなくてもよかったから、本当に自分が好きなものだけを紹介できた。しかし一部には中高生のリスナーも多いことから、にっかつロマンポルノを紹介することはもうできなかった。また売れるか売れないかではなく自分が本当にいいと思えたものだけを紹介するというスタイルだったのが、売れそうなものをいち早く紹介することが求められるようになった。「苦労多かるローカルニュース」も、苦情や誤解を避けるためにこれがフィクションであることを過剰なまでに強調するようになり興ざめさせられ、ネタコーナーも陳腐化していった。

林としては、この番組の本丸は二時台のゲストコーナーにあったのだろう。一時台のネタコーナーを聴いて笑っていたリスナーの中から、何人かが二時台も引き続き聴いてくれて、さらにその中の少しにでも、響くものを届けたかったのだろう。ゲストはノーギャラだったが、林の「パック」に出演するのはステータスとなっており、豪華な面々が出演した(ユーミンと石川セリが出演していると、井上陽水と吉田拓郎がふらっと現れるということもあったが、どうやらこれは陽水が石川に惚れていて会うための口実だったようだ)。映画や音楽関係者だけでなく、伊丹十三や五木寛之など作家や文化人も出演していた。しかしかつてのファンには林が無理をしているようにも感じられたし、番組の質を含め生じた距離を埋めることはできなかった。

マイナーであった頃のファンがメジャーになると離れていくというのはよくあることだが、林の場合それ以外の事情もあった。
「荻大」のメンバーは自主映画を作ることになったが、結果としてこれはメンバー間の距離も広げることになってしまった。林もこれに協力するなどまだ良好な関係を保っていたが、林が常連投稿者であった女性と関係を持ったことが発覚し、完全に壊れることになる。林を基点に集まっているのだから、彼は特別な存在である。それを利用するなど、これほどの裏切りはなかった。林との過去を忌まわしいとすら感じ、もうきっぱり忘れようと思った人もいた。

ちなみに林の女性関係はかなり混乱したものでもあった。映画などで大きな影響を与えてくれたMとの最初の結婚生活は半年で終わるが(籍は入れていなかった)、喧嘩別れしたのではなく、友だちとしてはいいが生活をともにする相手ではないということをお互いに確認したのだった。しかし二人はその後も同居を続ける。

林は出身高校の放送部の指導にあたることになるが、この時に文子と出会う(蛇足ながら付け加えると、本書に収録されている結婚写真を見ると、文子は相当な美人である)。付き合い始めたのは卒業後で肉体関係はまだなかったとはいえ、今なら問題になってもおかしくなかっただろう。高校の放送部員にとってキー局のアナウンサーは神のごとく映っただろうが、こういう立場を私的な関係に結びつけてしまうことに林は抑制心をもたなかったようだ。

文子はついにMの存在を知り、まだ林が同居を続けていた彼女に会いたいと言う。そしてしばらくの同居を許す条件として、林の実家に行ってきちんと話を通してほしいと求め、三人(!)で林の実家に行くのであった。

Mは映画の趣味で林に影響を与えただけでなく、番組中で読まれた無数の「ミドリぶたの詩」の作者でもあり、「苦労多かるニュース」の架空CMも手がけていた。愛川欽也と林の「パック」の双方で流された「風でセーター編みました」は愛川作曲、林作詞となっているが、これは彼女が名前を出すことを好まなかったためで実際はMが作詞をしていた。

林の実家で出されたたい焼きの「尻尾」の部分をMが残したのを見て、「夫」の実家でこんなことができるとは、「ああ、この人にはかなわない」と 文子は思った。Mの方は、林を一途に愛し堅実な生活を営める文子を見て、「林さんが素敵なパートナーに出会えて本当によかった」と感じた。もちろん文子の父親としてはこんな男を信用するはずもなく猛反対、二人は半ば駆け落ちのような形で結婚生活をスタートさせる。林は文子と結婚後もMと定期的に会い続け、それは公然たるものであった。

8歳年の離れた二人は兄妹のようでもあったが、林が文子に映画などについて「先生と生徒」のように教える一方、彼はレタスとキャベツの違いも分からず、金はあればあるだけ使ってしまうためにカード類を持たせられなかったように、林の生活能力はゼロに近く、家事などは完全に文子に依存することになるものの、また女性関係はその後もかなり奔放だったようだ(こういう感じの人ってモテるのですよね……)。


「パック」が復活し、林は「サブカルチャーの水先案内人」と見なされ業界内で存在感を高めていくが、かつてのリスナーの心は離れていった。そればかりでなく、新しい世代とのギャップにも直面することになる。78年に『さらば宇宙戦艦ヤマト』が公開されると、林とおすぎは数回にわたってこれを論じることになる。「君は愛する人のために死ねるか」というキャッチコピーもあり、特攻を賛美しているともとれるその内容に、二人とも基本的には「若者の右傾化を憂う」といった態度であったが、おすぎの発言は「若いリスナーから大反発を受けた」。

「ヤマトは人類愛の物語であり、愛する人を守るために戦わなくてはならないこともある。これ以上、ヤマトファンの心を傷つけないでほしい」といったリスナーからのハガキを林は紹介しながらおすぎと二時間フルにこの作品について語るつもりだったが、その空気に耐えかねておすぎは途中でスタジオを飛び出す。「当時の私は、林美雄がリスナーに媚びたと受け取ったと思う」とおすぎは振り返っている。ピーコは林と交遊を持ち続けたが、おすぎはこれ以降次第に疎遠になったまま林の死を迎え、「苦い思い出」と語っている。

とまどったのは林も同じだったろう。林は「七五年か七六年にヤマトがあったら、取り上げなかったかもしれない。でも、今の世の中の動きを考えると、ヤマトについて整理してみた方がいいのかな、と思いました。/警鐘というと生意気だし、おせっかいかもしれない。中途半端な部分はありますけど、やってみたくなった、ということ」と放送で語っている。

「思想」ではなく「気分」の問題とはいえ、林は常に反権力意識を持ち、心情左翼であり、また若いリスナーもそれを分かちあってくれるはずだという思いもあっただろう。しかし、林はデモへの参加を呼びかけたが、裏を返せば呼びかけねばならない状況だったともいえる。70年代前半には映画など文化に強く関心を持つ若者の間にすら政治性を忌避する心情は広がっており、「パ聴連」の名はベ平連のもじりであったにも関わらず、積極的に選別したのでないにしても、「荻大」は政治に関心がある人を受け付けなかった。70年代後半になると、ファナティシズムを擁護するかのような作品に批判的感性が働かないばかりか、積極的にそれに耽溺する層までもが増えていったのであった。

林は「音楽に戻ろう」とも考えていたが、かつてはすべて自分で行っていた選曲をディレクターにまかせるようにもなっていった。そして80年9月に、林は自らの意思で「パック」を降板した。


林はアナウンサー兼編成部プロデューサーとして、スタッフの立場でTBSの深夜放送の建て直しに挑んだが、隆盛を極めたニッポン放送の「オールナイトニッポン」に惨敗することになる。「オールナイト」の圧倒的強さの象徴が「ビートたけしのオールナイトニッポン」だろう。たけしが実はTBSのオーディションも受けており、TBSが「危なすぎて無理」と起用しなかったのは両局のその後十数年を予告するかのようでもある(なおニッポン放送は90年代半ばには迷走が始まり番組の質も急速に落ち込み、それと入れ替わるように今度はTBSラジオが圧倒的強さを発揮するようになる)。

また本書の流れでいえば、若者の嗜好の変化もここによく表れているだろう。林の「パック」も聞いていた水道橋博士は、たけしの「オールナイト」に心酔するようになる。「すべてをメッタ斬りにした」、「面白いか面白くないかが基準であり、タブーかタブーでないかが基準ではなかった」、「ブス、カッペ、ハゲ、ホモ、昨日笑っていたリスナーが、今日は自分が笑い者にされるかもしれない、そんな踏み絵をものともせず、イニシエーションを逆快楽と感じながら、ボクを含む、世の童貞少年たいは夢中になって聴いていた」と書いている。

たけしがコケにしまくった「 ブス、カッペ、ハゲ、ホモ」は権力の側なのだろうか。むしろ「強者」から虐げられる側だろう。たけしがその「毒舌」にも関わらず大衆的人気を博すことができたのは、彼の「毒舌」が権力やマジョリティを不安に陥れるものではなかったというのもその理由の一つだろう。70年代に絶大な人気を誇った「ナチチャコパック」で読まれた投稿は、笑えるような軽いものもあったが、差別問題をはじめとするシリアスな内容も多かったという。70年代にはこういった深夜番組が孤独な心を癒してくれたのであるが、「引きこもり」であった水道橋博士がたけしの「オールナイト」に心酔したように、80年代に入ると身近にいる叩きやすい弱者を踏みつけることで溜飲を下げるという方向に向かって行くし、それを受けて登場した松本人志は、いじめはいじめられるほうが悪い、いじってもらえるだけありがたく思え、といったあたりにまでなってしまうことになる。

僕は世代的にたけしの「オールナイト」はリアルタイムでは聞いていないが、もちろんテレビでは見ていたし、これを楽しんでいた。昔のダウンタウンがよくやっていたのが、売り出し中の女性タレントを「あいつ実はブッサイクやんけ」と、一応名前を消すもののはっきりとそれを推測できるようにして嘲笑することだった。僕自身を含めて、当時ダウンタウンを支持した若者の多くは、そこに「業界」のルールに対する反逆を見出した。しかし今になって思えば、松本は業界のルールに反旗を翻していたのではなく、それどころか業界によって守られていたからこそあのような言動ができたということだったのだろう。たけしがバイク事故から復帰すると、松本はエッセイでたけしはつまらないとし、共演者が笑えない「ギャグ」にお追従笑いをすることを批判したが、これができたのは松本が吉本興業という大手事務所に所属し、さらにその中でも有力者からの庇護を受けていたからだろう。仮に弱小事務所の若手芸人がこんなことを書こうものならたちまちテレビから姿を消したはずだ。取巻きのようなイエスマンを周囲にはべらせる、映画を撮って文化人面をする、したり顔でニュースにコメントする、こういったかつて松本が批判していたものに自分がなっていくのだが(文壇政治を批判していた若手作家がそのうちに文壇の大物としてふんぞりかえるように、これは松本に限らずよくあるパターンである)、かつて松本はたけしを揶揄することができたが、今では松本を揶揄することは業界的にタブー中のタブーといってもいいほどだ。

良識的なマジョリティが「はしたない」と思う、マイノリティを嘲笑するような言動をあえてすることを「毒舌」ともてはやすのは、立川談志を見ればわかるように昔からあることだろう。このような「毒舌」に触れても、マジョリティは眉をしかめることはあっても傷つくことはないだけに許容される。それでも談志は少なくとも落語界内部においては摩擦と衝突を引き起こしたし、たけしも若手時代は大きな後ろ盾を得てテレビに進出したのでもなければ、巨大事務所に守られていたのでもない。80年代以降の電波メディアは、徐々にこうした内輪のコンフリクトを生じさせることすら許さず、とりわけ「お笑い」とされる人びとは、業界のルールを遵守し、ひたすら「上」の顔色を窺うばかりとなっていったかのようでもある。

60年代後半、TBSの若手社員たちのナイーブとも思える希望は打ち壊された。それでも70年代はまだ、ラジオを通して彼らなりに「反権力」(これは必ずしも政治的な意味に限らない)を追求する可能性は残されているように思われていたことだろう。林の「パック」、とりわけ第一部に復帰した後は、これが儚い夢であり、失われていくことが決定づけられていたことを見せつけられた過程であったようにも感じられる。


ではこういう時代の変化に林美雄が完全に居場所を失ったのかといえばそうではなかった。80年代は番組プロデューサーとしてよりも音楽イベントの企画などで存在感を発揮した。しかしこれは彼の居場所が電波の中にはもうないとはいわないまでも、数少なくなっていったことの表れでもあろう。90年代以降もアナウンサーとして堅実な仕事を果たしていったが、かつての彼の姿を知る人からすれば寂しいものがあったかもしれない。

林は「離婚」後もMに対して経済的援助を続け、自立できるよう仕事を紹介するなどサポートもした。家事などでは文子に依存しきりであったが、また同時に「俺や子供を生きがいにしないでほしい」と、外に働きに出ることを勧めた。子供が学校にあがると地域や学校とも関わりを深め、三男が小学一年生で不登校になったときには半年間登校につきそって息子を支えるとともに、集団登校や朝の自習などの管理教育に疑問を持ち「保護者と教職員の会」の初代会長にもなっている。プロデューサーとしては野田秀樹など若手の演劇人にも仕事を回し、有望株が食べていけるよう気を配った。林は自分が時代と相容れなくなったことを受け入れつつ、徐々に適応し、そこでやれることをやろうろしていったようにも思える。

安定したナレーション技術は一目置かれており、信頼もされていたが、一方でアナウンサーとしては奇妙とも思える頑固さを発揮することもあり仕事の幅を縮めたこともあった。「ダントツ林の午後はどーんとマインド!」というおよそ彼らしくないとも思えるタイトルのつけられた昼ワイドを担当した時には、いったいどんな心境だったのだろうかとつい考えてしまう。

98年にガンが発見され手術を受け、2001年に再発、翌年肝不全で死去、58歳だった。
「本人はよくわかっていて、死ぬに時あり、五十歳を過ぎたらおまけの人生と達観していました。だからといって病から逃げるのではなく、いいと言われることはすべてやったつもりです」と文子は語っている。

ついついラジオの命運と重ねてしまうが、本書を読んであらためて思うのは、ネットが行き渡った今だからこそ、むしろ林のような存在は貴重であり、林の「パック」のような番組が電波に乗ることが重要だということだ。これはラジオ好きのただのノスタルジーかもしれないが、やはり生き残ってくれねば困るメディアであるし、またその気概を持ってもほしいとも、改めて思う。

なお「あとがき」によれば、文子も2015年1月に60代前半という若さで死去している。2013年に放送された『林美雄 空白の3分16秒』では元気にインタビューを受けていたのに……




MONKEY vol.11

MONKEY vol.11



特集は「ともだちがいない!」。

チャールズ・ブコウスキーの短篇と詩が収録されているが、「ブコウスキーの作品は案外スラングが少ない。なぜか。スラングは仲間内の通り言葉である。ブコウスキーには仲間、友だちがいない。ゆえに彼の(自伝的)作品にはスラングが少ない――この思考の連鎖から特集「ともだちがいない!」が生まれ」た。

柴田元幸さんはブコウスキーをビート・ジェネレーションの一部のように扱われることに違和感があったそうだが、それは「ブコウスキーはともだち0、ビートはともだちたくさん集団、という違いが大きいと思うから」で、確かにブコウスキーをどこかに括るというのは似合わないかもしれない。





柴田さんは未だにスマホはおろか携帯すら持っておらず、「携帯なしでどうやって生きられるのか?」と訊かれることがあるそうだ。これに「ともだちがいないから、必要ないんだよ」と冗談半分に答えていたが、「考えてみるとあんまり冗談じゃないかもしれない」としている。

これに反論させていただくと、むしろ携帯を持たないという選択ができるのは、社会的地位と本当のともだちがいてこそなのではないかとも思える。携帯が広く普及し始めたときは僕も「あんなもの金をもらったって一生持つものか」と考えていたのだが、まさに「携帯なしでどうやって生きられるのか?」状態に追い込まれた結果しぶしぶながら所有するに至った。ではもし携帯がなかったらどうなっていたかというと、それこそ「ともだちが(文字通りに一人も)いない!」ということになっていたのは確実である。スマホや携帯を持たないというのは、今となってはむしろ贅沢な選択なのだろう。

閑話休題。

「考えてみれば、アメリカ文学のヒーローたちって、あんまりともだちがいない」。
「エイハブ船長はともだち1(完全にあっちの世界に行ってしまった子供ピップ」
「ジェイ・ギャツビー ともだち1(語り手のニック・キャラウェイ)」
「ホールデン・コールフィールド ともだち0(死者、きょうだいを除けば)」

僕がなぜアメリカ文学は好きなのかがわかってしまった(笑)。そういえば作中人物ならぬ作家自身でも、ナサニエル・ホーソーンは一時完全に引きこもり状態だったことがあったし、サリンジャーも(実際はそれなりに人付き合いはあったのだが)隠遁生活を送ることになるし、やっぱりこういう作家に興味を持ってしまう。



そういえばホーソーンの伝記が出ましたね。




「猿からの質問」は、「あの時は危なかったなあ」。
なんといってもスチュアート・ダイベックの、ヘミングウェイ風でもあるサメに襲われかけた「クロール・キー」が出色である。証拠写真(?)もあるので実話なのだろう。このアンケートで「絶対この人に訊こう」と思ったのがダイベックだそうだが、その確信通りに三つもアイデアを寄せてくれた。「クロール・キー」以外の二つもすごい面白そうでぜひとも読みたいし、ダイベックはこの手の話だけでも一冊書けそう。





村上春樹の「アンデルセン文学賞のこと」と、「どれほど高い壁を築いて侵入者を防ごうとしても、どれほど厳しく異分子を社会から排斥しようとしても、そのような行為は結果的に我々自身を損ない、傷つけるだけのことです」という言葉が大きく報道されたアンデルセン文学賞の受賞スピーチ「影の持つ意味」の全文と英訳も、アンデルセンの「影」とともに収録されている。

受賞の条件の一つがスピーチでアンデルセンの業績に触れることで、ここで取り上げられたアンデルセンの「影」はデンマーク語の翻訳者が「この話はきっと村上さんの気に入ると思う」と勧めてくれたものだそうだ。この短篇「「影」も収録されているが、影と切り離され、影に支配されていってしまうこの寓話は「気に入る」どころかそのまま村上作品のようでもある。

「影」はアンデルセンとしてはかなり特殊な作品であるようだが、恥ずかしながらアンデルセンはまともに読んだことがなかったもので、これを機にいくつか読んでみようかな。


出ない邦訳、出る邦訳

ジョニー・マーの自伝が翻訳刊行決定」なる記事のタイトルを見て「モリッシーの方が先でしょうに!」と思ったら、「モリッシーの自伝が翻訳を許されていない現在」なんて箇所が。

不勉強にも気がつかなかったが、こちらにあるように2014年の時点でモリッシーは自伝が翻訳されるのを拒否しているというというのは出ていたのですね。理由はよくわからんが翻訳の質を懸念しているのでは……という推測がなされているが、その結果英語がよくできない人が英語で読まされることによって生まれる弊害もかなり大きいと思うのだけれど。

まあ確かに音楽のバイオ本って質が低い邦訳が他ジャンルに比べて多い印象もあるが、日本のそんな事情をモリッシーが承知しているとも思えないし(もちろん日本語訳だけが拒否されているのではない)、翻訳者の選定など契約によって防ごうと思えば防ぐこともできるだろうし、この推測は真に受けることはできないのだが、まあこれもモリッシーらしいとすべきなのか。

モリッシーの自伝は買ってはいるのだけど、そのうち邦訳が出るだろうからそちらを待とうとほっぽらかしていたのだが、ブレイディみかこさんの本に合わせて頑張って読みますかね……



『橋川文三  日本浪曼派の精神』

宮嶋繁明著 『橋川文三  日本浪曼派の精神』





加藤周一の『『羊の歌』余聞』には、宋左近が召集令状を受け、その歓送会で白井健三郎と橋川文三が一触即発の言い争いをしたエピソードに触れられている。当時日本浪曼派に浸かっていた橋川らが「きみ、それでも日本人か」と言い出し、これに対し白井は「いや、まず人間だよ」と答えたという。

この有名なエピソードは当事者たちを含めて多くの証言があるが、その内容は様々である。真相はどこにあったのだろうか。
本書では橋川の生い立ちから大学専任講師になる60年代前半までが扱われている。著者の宮嶋繁明は学生時代から橋川に師事しており、橋川に好意的な視点から描かれているのでその点は少々注意を必要とするだろうが、橋川の前半生を丹念に追った労作になっている。

橋川は保田与重郎の影響もあり、「戦争と死を自明としてうけいれ、それ以外の現実を想像することはない人間だった」と振り返ることになる。祝詞を唱えるような日本主義的右翼ではなく、「私たちは死なねばならぬ!」という日本浪曼派的美意識を内面化していたのであった。

皮肉なことに、戦争で死ぬことを求めていた橋川は徴兵検査で結核が判明し徴兵免除となるのであった。橋川はこの後に自殺未遂を起こしたという証言もあり、このあたりの屈折も白井との口論につながっているのだろう。

橋川によると、白井が「結局ナチスと同じじゃないか」と言い出し、橋川はユダヤ人迫害を持ち出して「ナチスは否定すべきだ、ナチスと日本は違うと主張した」という。まずは「感情の論理みたいなもの」があり、「日本ロマン派なんてのに惹かれたのもそういうことなんで『まず日本人であれ』って主張を、何かスローガンにしていたのじゃなく、いまの言葉でいえば、そういう『実存』様式を前提としない議論はウソだという考えなんで、もちろん理論的な信念というようなものじゃない」としている。「『要するに死んでみせますよ』という少年期の心理的亢進だったんだな」と振り返っている。


橋川は戦後編集者時代に丸山真男と知り合い師事することになるのだが、東大在学時には丸山の授業は受けていなかったそうだ。これは勘違いをしている人が多いというが、まさに僕もそうだった。いったいどういう心理で戦時中に丸山と付き合っていたのやら、と疑問だったのだが、本書でそういうことだったのかというのがようやくわかった。

なお橋川は敗戦間際に、故郷の広島食料事務所で働いていたが、東京の農林省から採用試験のために呼び戻され、原爆投下の二日前に広島を離れている。この呼び出しがなければ橋川は被曝していたことだろう。そしてこの時「丸山二等兵」も広島におり、被曝することになる。あるいは二人をより一層結び付けたのは、この経験だったのかもしれない。

その「師」である丸山は、白井らとの悶着の際に橋川が、「天皇の悪口をいうと、胸ぐらつかんでね、貴様何とか、といったという……」としているのだが、もちろん丸山はこの場にいなかったので伝聞情報なのだろう。著者は橋川は天皇崇拝はしていなかったとし、橋川の「私たちのまわりの少年ロマン派の仲間たちは、『天皇』に文字通りイロニカルな、適度に不逞な嘲弄感をいだいていた」という証言を引いている。

また一部に橋川が日本刀を持ち出したとされることもあるがそんなことはなく、「そんな非国民、たたっきってやる」と言ったという証言から勘違いが生まれたのだろうとしている。しかしそのような発言があったことは確かなようだ。

著者は戦後橋川と親しくなる吉本隆明の、加藤周一らにたいする批判を取り上げている。吉本は加藤らが戦争を嫌い、ファシズム的な運動に加わらなかったのは確かだが、しかし戦後にいうように当時から戦争反対を公言していたわけではなかったではないかとなじっている。グループ内で内緒話としてしたことはあったかもしれないが、「リベラルな人たちが表立って戦争に反対したことはない。だから彼らまで含めて、純粋さがなかった」と批判する。一方で吉本らは「僕らは自分の命と引き換えにして、こうだ、と追い詰めた。追い詰めた結果はどうであれ、それなりの青年としての純粋さはあった」と語る。では吉本は戦中非転向を貫いた共産党員を「純粋」だと評価したのかといえばそうではなく、吉本のことがあまり好きではない僕から見れば、吉本のこの手の発言はまったく支離滅裂に映り、他人の批判をして自己肯定をしたいだけのように思えてしまうのだが。著者はこの吉本の心理は当時の橋川に近かったのかもしれないと推測している。

当時の橋川からすれば、「自分の方は「たたききられる」のも覚悟の上で、自分の命を引き換えにすることも辞さない覚悟で主張していた」が、白井らは「仲間うちの送別会という私的な場所であったからこそできた発言で、自らの全存在を賭けて、戦争反対と公言したわけではない」と映ったのかもしれない。

では白井らは、何もせずに過ごしていたのだろうか。本書でも触れられているように、彼らなりの抵抗をしていた。白井は「徴兵忌避を目的に食事制限などにより肉体を衰弱させて、徴兵検査では通常は徴兵免除となる第三乙だった」。それでも戦争末期に赤紙がくるが、「入営後も食事を取らずに眠らずにいると、顔面蒼白、血沈が速くなり、軍医はついに帰郷を命じるに至った」(白井 『知と権力』)。

宋もまた絶食をし、丙種となったが、こちらも戦争末期に赤紙が来る。精神病だと主張するが却下され、上官を刺して狂人を装うかと考えていたが、軍医少佐に呼ばれ、「大学では何を勉強している?」ときかれ、「西洋哲学であります」と答えると、しばらくして「即日帰郷を命じる。その病気では軍隊はつとまらん」ということになったという(宋 『縄文発進』)。

また橋川より4歳年少のいいだももは、「この農村にめんめんと伝わる『醤油のみ』の秘伝は、ぼくも召集令状が来て入隊しなければならなくなった時には活学・活用させていただき、首尾よく『即日帰郷』ということにあいなりました!」と振り返っている(『サヨナラだけが人生か。』)。

著者が書くように、「白井、宋、いいだらのこうした兵役に対する姿勢は、積極的な徴兵忌避」であった。著者は当時の橋川や吉本の方を必ずしも肯定的に評価しているのではなく、橋川より2,3歳上の白井、宋らと、橋川より年少のいいだらとを比較し、橋川や吉本の世代がわずか数歳の差も大きいほど、特殊なメンタリティを持ったのかを論じている。とはいえ橋川は戦後に白川らとの口論について、「我が方に利ありとも思えない」という、誤りを認めたとはいえ消極的なものに留まったことにも触れている。橋川はその後『日本浪曼派批判序説』で自身を含めて過去との対決を行うことになるが、しかし橋川、あるいはその周辺にいささか危ういものを感じさせなくもないことを、本書のこの事件への記述は図らずも明らかにしてしまっているようでもあった。


橋川は戦後に共産党に入党することになる。宋は橋川から「きみも活動せよ」と言われたが、言を左右していると、「もうすぐ革命が成功する。そしたら、デス・バイ・ハンギングだ、お前なんか」と言われたと振り返っている。では熱烈な共産主義者になった結果なのかといえば少々疑わしく、丸山は橋川から、このとき左翼的な出版社に勤めていたため「どうもパルタイにはいらないと編集の上で具合が悪いんです」と言われたとしている。丸山は「具合が悪いなんていうことで入党するもんじゃないって、ぼくは叱ったのを覚えています」としているが、結局橋川は入党し、そしてしばらくした後に党を離れる。「だから後年、橋川君はぼくに笑いながら、『どうも変なもので、なんとなく入党し、なんとなく脱党したという感じです』なんて話したことがあります」と、丸山は言っている。

松本健一はこのようなエピソードに触れ、「かれはつねに状況との関わりかたが、受身なのである」と論じているという。
「受身」というよりも「おっちょこちょい」とでも言った方がいいのかもしれない。橋川は必ずしも政治的な人間ではないのだろう。むしろ現実政治になど向いていないタイプだ。それでも周囲の雰囲気を受けて、過剰反応してしまったということなのかもしれない。著者自身を含め、橋川と仕事をした多くの人が、橋川が「優しい人」であったとしている。また宋は敗戦間際に自分の歓送会であんなことを引き起こされたうえに、戦後には今度は逆の立場からお前なんか絞首刑だと言われたにも関わらず、「戦中も戦後も、しかし、橋川が憎めなかった」としている。橋川がいかに「いい人」であったかが窺えるのであるが、そのような「優しい人」がおっちょこちょいな政治的思い込みによってとんでもないことを言い始めるということでは、ちょっとぞっとするようでもある。


本書で最も印象深いのは、橋川の極貧エピソードかもしれない。
橋川家はもともとは父の才覚もあり裕福であったが、橋川が旧制高校一年の時に父がガンで死去してしまう。しかしすぐに追い詰められたわけではなく、当時は家庭教師などのバイトで学費や寮費を捻出しなければならない一高生もいたが、橋川がこのような生活を強いられるほど経済的に逼迫したわけではなかったようだ。というのも父は残された家族のために、資産を現金化して残しておいてくれていたのであった。しかしこれが裏目に出ることになる。間もなくやって来るインフレによって、またたくまに目減りし始めるのであった。

橋川は現在とは比べ物にならないほど超のつくエリート高校であった一高生の中でも一目置かれるほど勉学に秀で、文学的才能にも恵まれていると目されていた。周囲は当然東大文学部に進学するものと思っていたが、橋川は法学部に進む。これは就職を考えてのことだった。当然官僚コースを歩むはずであり、当人もそう考えていたのだろうが、敗戦間際に学徒勤労令により貴族院などで働かされたことで考えを変える。橋川は靴もなく、中学時代の地下足袋を実家から送ってもらうほどだったが、当時の小磯首相は「ぴかぴかに輝く長靴」をはいていた。貴族院で「戦局の苛烈さが、この世界にほとんど影響を与えていないらしい」ことを見せつけられ、「私たちとは別の人びとが、何かべつの考え方でこの戦争を指導しているらしいということも感じないではいられなかった」。さらに「日本軍=皇軍を義軍」だと考えて橋川は、「暴行・掠奪はおろか、虐殺・強姦まで行う」という噂話を同じ大学生から聞かされて衝撃を受ける。当時の橋川は「同じ年齢の学生仲間でも、いくらかロマンティクで、幼稚だった」。議会の低調さとこの噂話によって、「この戦争の疑わしさ」をようやく認識するようになった。さらには官僚が物資に恵まれた贅沢な生活を送っていることも目の当たりにし、このような「腐敗・堕落を知った橋川は、そうした官吏の側に身を置くことに、疑問を感じ始めていた」。

敗戦直後の橋川の行動は謎が多いが、茫然自失状態となったのか働くこともできなかったようだ。橋川の東京のアパートには数人が転がり込み、金も食料もないことから「ネコのすき焼き」や「犬鍋」を食い、本のカバーや机の脚を燃料として燃やさねばならなかった。当時は一部の特権階級を除けば東京のほとんどがこうした状態だったのだろうが、中でも「橋川の貧乏は最低だった」と友人は振り返っている。大学卒業から五ヵ月後にようやく小さな出版社の仕事にありつく。こうしてしばらくの間いくつかの小出版社を渡り歩いて糊口をしのぎ、編集者として丸山と親しくなり、「丸山シューレ」の一員となる。

橋川にとってさらなる負担は、弟が重度の結核に冒されていたことだった。不幸は重なるもので、母も40代の若さで死去し、橋川は妹たちを東京に呼び寄せ、四畳半一間のアパートで兄妹の三人での生活を試みるが、すぐに限界に達する。橋川自身が、徴兵検査のときにひっかかった結核のシェーブ(病巣の拡大・転移)に襲われたのだった。

丸山が結核で入院して片肺を摘出することになった。橋川は見舞いに行ったが、丸山から橋川も受診するように言われる。すると医者からなぜこんな状態になるまでほっといたのかと言われるほどの状態で、即入院が決まる。橋川は肋骨を六本も切除する大手術を受け、4年に渡る療養生活が始まる。かねてから丸山らは橋川の窮状をみかねて翻訳の仕事などを回すなどしていたが、入院中も弟の治療費のためにも翻訳の仕事を病床で続けた。病状が深刻だった弟は痛みを緩和するたえにモルヒネを投与されたが、モルヒネ中毒となってしまっていた。橋川は弟のために、なんとか高価なモルヒネ代をひねりだす。故郷に帰っていた妹の事情で一度広島に戻り、弟を見舞うが、帰京の二ヵ月後についに弟は亡くなる。この知らせを受け橋川は「帰るべきだが、迷う、金もなく、体にも自信がない」という有様だった。「翌日空しく金策に歩いた」ところを追いかけるように、「カヘルニハオヨバヌバンジスンダ」という電報が届いた。

これ以降も橋川の極貧生活は続き、生活保護を受けていたが、これが打ち切られて退院を余儀なくされた。橋川は英語と、高校・大学で学んだドイツ語の他に、フランス語とロシア語を独学し、翻訳の仕事でわずかながらの収入を得ていた。このあたりはさらっと書いてあって事情がよくわからないのだが、収入といってもごくわずかであり、こんな状態で生活保護が打ち切られてしまったのはひどい話である。さらには質の方は定かでないとはいえ、貧困にあえぎ肉体的にも悲惨な状況でありながら独習したフランス語とロシア語で翻訳をこなすというのもすさまじい。

なんとか健康を回復した橋川は再び編集者となり、次第に書き手としてもジャーナリズムから注目を浴びるようになり、そして明治大学の講師に就任する。「丸山シューレ」の一員であった明大教授の藤原弘達が招聘したもので、丸山も形式的なものではなく「大論文」となる推薦状を書いた。さらにこの4年後に専任講師に就任してようやく橋川の経済状態は安定する。

これについても少々不思議な話がある。橋川は当初は教授ではなく「教授会員でない専任講師」(現在でいうと非常勤講師のようなもの)を希望したが、その理由は「本業である文筆活動を続けたいから」というものだった。4年後に「ご自身の心境の変化」があったとして、ようやく専任講師となり「正規のステップ」をふむこととなった。大学教授になっても文筆に割く時間もあるということは編集者としてわかっていたはずなのになぜこんな希望を出したのかは理解に苦しむのだが、どうやら橋川は給与を含めた待遇の差をわかっていなかったようなのだ。著者は「後になってその実情を知るにおよんで、あまりの格差に「ちょっとおかしいぞ」と思ったことがあると、本人が語るのを聞いた覚えがある」としている。

金に不自由したことのない人ならともかく、極貧生活を数年に渡って繰り広げた後であるにもかかわらずこのあたりをきちんと確認しないというのは、橋川という人はやはり相当のおっちょこちょいなのだろう。また丸山らはあげたつもりで橋川に資金援助を行っていたのだろうが、経済状態が上向くと橋川は律儀にこの「借金」を返済したのであった。このあたりも橋川の性格というものがよく表れている。本書には丸山らしくないとも思える珍エピソードもあるが、それだけ丸山は橋川に気を許していたのだろうし、この二人は思想的つながりというよりも性格的なつながりの方が強かったのかもしれない。


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