中沢新一という存在について
こないだ『オウム真理教の精神史』の感想を書いたと思ったらシノドスジャーナルに「オウム真理教とアカデミズム」という大田俊寛氏のインタビューが載っていた。おお、シンクロニシティ!と思ってしまったが、この話題でユングなんぞを持ち出すのもアレですが。
これを読んで、改めて自分の中での中沢新一氏への評価というのはどうなんだろうということを考えてしまった。
『オウム真理教の精神史』の感想の中で、「中沢新一というのはそれほど「危険」な人物なのだろうか」と書いた。これは中沢氏を擁護するというよりは、それほどの影響力ってほんとにあったのだろうか、というつもりだったのだけれど、この評価というのは僕が勝手にこの問題を過小評価しているだけなのだろうか。
僕が中沢新一氏の影響力を軽く見てしまっているとすると、その原因はいくつか思いあたるところもある。
地下鉄サリン事件が起きたのは1995年の3月なので、僕は16歳だったことになる。そのくらいの歳ですでに中沢氏の著作に馴染んでいた人もいるのだろうが、僕は当時は「中沢新一という名前は聞いたことがある」という程度だった。その後中沢氏は強い批判にさらされることになる。中沢氏のことをよく知らなかった僕も「これで中沢新一も終わりだな」みたいなことを思った記憶がある。つまり僕はその著作に触れる前に、すでに中沢氏が「終わっている」という認識を持ってしまっていた。もちろん「終わっている」から過去がチャラになると思ったわけではないが、そのせいで彼の存在というのを今でも低く見積もってしまっているのかもしれない。
考えてみれば大学を追われたわけでもなく、その後も旺盛に著作活動を続けているわけで、「全然終わってなんてなくて、逃げ切ったじゃないか」と言われれば確かにそうなのだろう。
大田氏は74年生まれで、僕よりやや年長とはいえ同世代といっていいのだが、オウム真理教と中沢新一氏との関わりを考えると、中沢氏の著作にいつ触れたのかということを含めてこの差は大きかったのかもしれない。ただ中沢新一氏をどう捉えるかということに関しては、必ずしも年齢のみによって差が生まれたのでもないかもしれない。
大田氏のインタビューに次のような箇所がある。
私が自分なりに物事を考えるようになったのは、高校時代に受験勉強に対して強い違和感を覚えたことがきっかけでした。
(中略)
そんな中、現代思想やポストモダニズムからも人並みに影響を受けましたが、中沢新一さんの著作にはとりわけ強く惹かれました。中沢さんの仕事を見ていて、「こういう仕方で学問をやってもいいのか」と思わされましたし、自分もチベット密教の修行をすれば、もしかすると今まで見えなかった世界が見えるようになるのかもしれない、新しい能力が獲得できるのかもしれない、と思い込んだところがあります。
大田氏の知的遍歴というものをまるで知らなかったのだが、こういう「実存的」(というかなんというか)煩悶から宗教学に興味を持ったというのは意外なような気もしてしまった。
僕は自分が相当な変人だというのは承知しているし、こういう自分が社会や世間というものと折り合いが悪くなるのは仕方がないと思っている。今までずっと、どこに居ようとも自分が場違いであるという思いを払拭できたことはないし、これからもそうだろうと思う。「こういう人間はもう死ぬしかない」というのは、今でも真剣に考慮すべき選択肢だと思っている(「死にたい死にたいとやたらと言う人間は死なない」という人がいるが、これはまぁ……確かにそうかなとも思うけど)。
この手の人間が大抵そうであるように、僕もやはり文学だの哲学だの思想だのというものに興味を持ってきた。ただ自分でも不思議といえば不思議なのだが、宗教的なものに惹かれるということはまるでなかった。本棚を見れば宗教関係の本はいくらかはあるのだが、これらは文化史や思想史的な興味から読んだものである。信仰というものは自分とは無縁だと思ってきたし、この点はまったく変わらない。
こんなブログを書いているくらいだから、「承認欲求」がまるでないと言えば嘘になるだろうが、世間から認められたいという願望はそれ程は強くないと思う。また常に自分が場違いなところにいるように思ってきたが、かといって「自分の居場所が欲しい」という強い思いもあまりない。どちらかといえば「もう諦めて一人で勝手にやってますのでそっと静かにほっといて下さい」という感じかもしれない。
承認欲求が強い人や自分を受け入れてくれる場を探し求めるような人というのが苦手で、そういった人への共感というものを覚えることもない。当人自身は承認され、居場所を見つけていても、こういった人に共振してしうような人もいるが、そういう人に対する共感というのもあまりない。
近年でいえば「秋葉原無差別殺傷事件」にいろいろな意味を見出そうとした人たちがいたが、そういったものにはまるで乗れなかった。
80年代といえば新興宗教や自己啓発セミナーの時代でもあるが、軽薄な世相に愛想をつかしといっても一気にそこまで飛んでしまう人というのは僕にとって遠い存在である。
オウム真理教の一連の事件が報道される中で、あれだけの高学歴の人がなぜこんな荒唐無稽なものにひっかかるのかというのは大きな関心を集めたが、「そういう人って学歴云々に関わらずいるもんでしょ」という以上には思えなかった。
でも、これって完全に俺様基準の話であって、「お前がどう他人を評価しようが、こういう問題は時に深刻な事態を引き起こすことがあるんだよ」と言われればその通りであるとは思う。
いつの間にか長々と「自分語り」を始めてしまったが、要は自分が中沢新一氏が提供したイメージに過度のシンパシーをを覚えることがないからといって、そういう人がいないということにはならないし、自分がそういう人から距離を置いてきたからといって、そういう人の数が無視していいほど少ないというわけではない。そういうことが、僕には実感として伴っていないことが、中沢氏の影響力を過少評価することにつながっているのかもしれない。
『オウム真理教の精神史』でも、オウムに似た発想や行動をとった宗教団体の例があげられていたが、オウムが存在せず中沢氏の著作がなかったとしても、似たような事件は起こったかもしれない。しかしだからといって中沢氏がオウムに対して与えた影響が免罪されるということではない。また中沢氏の影響力を過少評価することは、その不誠実な振るまいを大目に見てしまいがちなことにもつながっているのかもしれない。そういったことをもう少しふまえたうえで、中沢新一という人物について考えてみるべきなのかもしれない、なんてことを思いながら。
これを読んで、改めて自分の中での中沢新一氏への評価というのはどうなんだろうということを考えてしまった。
『オウム真理教の精神史』の感想の中で、「中沢新一というのはそれほど「危険」な人物なのだろうか」と書いた。これは中沢氏を擁護するというよりは、それほどの影響力ってほんとにあったのだろうか、というつもりだったのだけれど、この評価というのは僕が勝手にこの問題を過小評価しているだけなのだろうか。
僕が中沢新一氏の影響力を軽く見てしまっているとすると、その原因はいくつか思いあたるところもある。
地下鉄サリン事件が起きたのは1995年の3月なので、僕は16歳だったことになる。そのくらいの歳ですでに中沢氏の著作に馴染んでいた人もいるのだろうが、僕は当時は「中沢新一という名前は聞いたことがある」という程度だった。その後中沢氏は強い批判にさらされることになる。中沢氏のことをよく知らなかった僕も「これで中沢新一も終わりだな」みたいなことを思った記憶がある。つまり僕はその著作に触れる前に、すでに中沢氏が「終わっている」という認識を持ってしまっていた。もちろん「終わっている」から過去がチャラになると思ったわけではないが、そのせいで彼の存在というのを今でも低く見積もってしまっているのかもしれない。
考えてみれば大学を追われたわけでもなく、その後も旺盛に著作活動を続けているわけで、「全然終わってなんてなくて、逃げ切ったじゃないか」と言われれば確かにそうなのだろう。
大田氏は74年生まれで、僕よりやや年長とはいえ同世代といっていいのだが、オウム真理教と中沢新一氏との関わりを考えると、中沢氏の著作にいつ触れたのかということを含めてこの差は大きかったのかもしれない。ただ中沢新一氏をどう捉えるかということに関しては、必ずしも年齢のみによって差が生まれたのでもないかもしれない。
大田氏のインタビューに次のような箇所がある。
私が自分なりに物事を考えるようになったのは、高校時代に受験勉強に対して強い違和感を覚えたことがきっかけでした。
(中略)
そんな中、現代思想やポストモダニズムからも人並みに影響を受けましたが、中沢新一さんの著作にはとりわけ強く惹かれました。中沢さんの仕事を見ていて、「こういう仕方で学問をやってもいいのか」と思わされましたし、自分もチベット密教の修行をすれば、もしかすると今まで見えなかった世界が見えるようになるのかもしれない、新しい能力が獲得できるのかもしれない、と思い込んだところがあります。
大田氏の知的遍歴というものをまるで知らなかったのだが、こういう「実存的」(というかなんというか)煩悶から宗教学に興味を持ったというのは意外なような気もしてしまった。
僕は自分が相当な変人だというのは承知しているし、こういう自分が社会や世間というものと折り合いが悪くなるのは仕方がないと思っている。今までずっと、どこに居ようとも自分が場違いであるという思いを払拭できたことはないし、これからもそうだろうと思う。「こういう人間はもう死ぬしかない」というのは、今でも真剣に考慮すべき選択肢だと思っている(「死にたい死にたいとやたらと言う人間は死なない」という人がいるが、これはまぁ……確かにそうかなとも思うけど)。
この手の人間が大抵そうであるように、僕もやはり文学だの哲学だの思想だのというものに興味を持ってきた。ただ自分でも不思議といえば不思議なのだが、宗教的なものに惹かれるということはまるでなかった。本棚を見れば宗教関係の本はいくらかはあるのだが、これらは文化史や思想史的な興味から読んだものである。信仰というものは自分とは無縁だと思ってきたし、この点はまったく変わらない。
こんなブログを書いているくらいだから、「承認欲求」がまるでないと言えば嘘になるだろうが、世間から認められたいという願望はそれ程は強くないと思う。また常に自分が場違いなところにいるように思ってきたが、かといって「自分の居場所が欲しい」という強い思いもあまりない。どちらかといえば「もう諦めて一人で勝手にやってますのでそっと静かにほっといて下さい」という感じかもしれない。
承認欲求が強い人や自分を受け入れてくれる場を探し求めるような人というのが苦手で、そういった人への共感というものを覚えることもない。当人自身は承認され、居場所を見つけていても、こういった人に共振してしうような人もいるが、そういう人に対する共感というのもあまりない。
近年でいえば「秋葉原無差別殺傷事件」にいろいろな意味を見出そうとした人たちがいたが、そういったものにはまるで乗れなかった。
80年代といえば新興宗教や自己啓発セミナーの時代でもあるが、軽薄な世相に愛想をつかしといっても一気にそこまで飛んでしまう人というのは僕にとって遠い存在である。
オウム真理教の一連の事件が報道される中で、あれだけの高学歴の人がなぜこんな荒唐無稽なものにひっかかるのかというのは大きな関心を集めたが、「そういう人って学歴云々に関わらずいるもんでしょ」という以上には思えなかった。
でも、これって完全に俺様基準の話であって、「お前がどう他人を評価しようが、こういう問題は時に深刻な事態を引き起こすことがあるんだよ」と言われればその通りであるとは思う。
いつの間にか長々と「自分語り」を始めてしまったが、要は自分が中沢新一氏が提供したイメージに過度のシンパシーをを覚えることがないからといって、そういう人がいないということにはならないし、自分がそういう人から距離を置いてきたからといって、そういう人の数が無視していいほど少ないというわけではない。そういうことが、僕には実感として伴っていないことが、中沢氏の影響力を過少評価することにつながっているのかもしれない。
『オウム真理教の精神史』でも、オウムに似た発想や行動をとった宗教団体の例があげられていたが、オウムが存在せず中沢氏の著作がなかったとしても、似たような事件は起こったかもしれない。しかしだからといって中沢氏がオウムに対して与えた影響が免罪されるということではない。また中沢氏の影響力を過少評価することは、その不誠実な振るまいを大目に見てしまいがちなことにもつながっているのかもしれない。そういったことをもう少しふまえたうえで、中沢新一という人物について考えてみるべきなのかもしれない、なんてことを思いながら。
『オウム真理教の精神史』
大田俊寛著 『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』
大田はオウム真理教に関する著作を元信者によるもの、ジャーナリストによるもの、学問的なものとに大別し、学問的著作が「その役割に見合う水準のものがいまだに現れていない」(p.19)と評価する。
そのうえでキリスト教の異端であるグノーシス主義の研究者である著者が、「キリスト教思想史の知見を用いれば、意外にもオウム問題の全体像を、これまで以上にうまく捉えることができるかもしれない」(p.282)として挑んだ「異色」のオウム論である。
第1章から第4章までの章題をあげると、それぞれ「近代における「宗教」の位置」、「ロマン主義」、「全体主義」、「原理主義」となっている。
こう見ると非常に迂遠かつ抽象的な議論のように思われるかもしれないが、これがオウムをどう捉えるかという問題に、ピースがきちっとはまっていくような快感すら伴うように分析されていく。
ただ読んでいくうちに、やや違和感を覚える人もいるかもしれない。そのピースがあまりにピシっときれいにはまりすぎてはいないか、と。
その理由を勝手に忖度するなら、本書はタイトルの通りオウム真理教を論じたものであるが、同時にポストモダン批判という性格も持っているためなのかもしれない。
大田はオウム真理教が「近代の宗教」の一つであるということを「一見ししたところあまりにも自明の事実」(p.25)だとしている。
オウムとは「ロマン主義的で全体主義的で原理主義的なカルト」であり、「ロマン主義、全体主義、原理主義という思想潮流が発生し、社会に対して大きな影響力を振るうようになったのは、近代という時代の構造」だとする。「国家が此岸の世界における主権性を獲得し、宗教や信仰に関わる事柄が「個人の内面」という私的な領域に追いやられるという構造そのものに起因していると考えることができる」(p.276)。
「近代社会は根本的に、歪んだ「宗教」が数多く発生するような構造を備えている」(p.45)のであるならば、「反近代」であるポストモダンにこそそれを乗り越える答えがあるのではないか。そのような安易さこそ大田が批判しているものの本質なのかもしれない。
序章において中沢新一と宮台真司に対してとりわけ厳しく批判がなされている。中沢はともかく、宮台は『終わりなき日常を生きろ』でオウム的なるものを否定したのではなかったか。しかし大田は中沢も宮台もポストモダンからの影響という点では同工異曲だとしている。宮台がここで賞賛した「ブルセラ少女」をニーチェ的超人幻想だとし、「ニーチェ的な超人幻想は、決してそれによってオウムの世界観を克服できるようなものではなく、むしろオウムの思想史的源流の一つに位置づけられるもの」(p.16)なのだとする。宮台は「援交少女」が「メンヘル」化したのをうけて、「当時の判断の誤りを認めている」のだが、本書では触れられていないもののその後「援交から天皇へ」などということを言い出したことを考えると、はたして本当に「判断の誤りを認めた」のかは疑わしくも思える。
大田は何もポストモダンという概念を弄ばずとも、オウムやオウム的なものに対する分析は充分に可能であることを示そうとしたのかもしれない。とりわけ日本では戦中の「近代の超克」という記憶を抱えているわけで、安直な思考方法でオウム(的なるもの)に容易に感染してしまうポストモダン系への評価は厳しくならざるをえなかったのだろう。
ここで話を脱線。
前に島田裕巳の中沢新一批判本を読んだ時にも感じたのだが、ポストモダンを趣味的に摂取してきた僕のような人間からすると、中沢新一というのはそれほど「危険」な人物なのだろうかという疑問が湧く。
オウム事件の後、「諸君!」において(というのもすごいが)浅田彰と中沢新一との間で対談が行われた。浅田はここで、中沢が書いてきたものは「小説」であり、その「小説」を読んだ人間がおかしなことをしたからといって責任なんて取ってられるかという趣旨のことを言っていた。もちろん浅田は友人であった中沢を擁護するためにこのような発言をしているのだが、この発言に対しての中沢の心中は複雑なものだったのかもしれない。ただ僕としてはこの浅田の発言というのは「そうだよなあ」と思ってしまうところがある。
僕は中沢の本をいくつか読んでいて、結構楽しんでもいる。楽しんだとはいえ、「本気」にはしていない。読んだのはオウム事件の後だったのだが、たとえその前だったとしても、あれらを「本気」で受け止めることはなかっただろうと思う。
「スター・ウォーズ」を魅力的にしているのは「フォース」という設定だ。ルークがただの腕利きパイロットにして剣の達人というだけではあそこまで人々を引きつけることができたのただろうか。だからといってフォースは実際にあるのだ、などといって修行を始めるような人間がいたら、ジョージ・ルーカスが実際に何を考えていたかに関わらず、それはもうただのアホとしか言いようがないのではないか。
中沢が「研究者として規律違反に当たる」ことは批判されてしかるべきだと思うし、オウム事件以後の言動に誠実さが欠けていたことも否定できないと思う。ただいつの時代でもバカやアホというのはいるわけで、中沢が『虹の階梯』を書こうが書くまいがオウム、あるいはそれに類したものは出現していたことだろうし、その中で中沢が果たした役割というのはそれほど大きなものなのだろうかというのはずっと疑問に思っていたところなのである。
……のだが、原発事故以来中沢が「元気」になってしまって、「グリーンアクティブ」とやらを立ち上げて、てそれにベタに期待しちゃってる人なんかを見るとう〜むというところなのだが。さらにそこに宮台も参加するなんてのを目にした後で本書を読むとやはりいろいろと考えさせられる。
本書は2011年3月刊行なので、執筆は当然震災の前なのであるが、原発事故以降の中沢や宮台の言動を考えあわせたうえで序章を読むと、いっそう味わい深いかもしれない。
閑話休題。
本書はオウムについて考えるという点でもいろいろ得られるところは多いが、それ以上に使い道というのが広い。
近代とは何か。近代国家と宗教との関係。近代の落とし子としてのロマン主義。それがオカルトやニューエイジへどうつながっていったのか。ナチズムが生まれた背景と、なぜあそこまで支持を拡大できたのか。あるいは日本の原理主義の源流、そして神学に疎いはずの日本人がキリスト教的終末思想をいかに摂取していったのか、などなどがコンパクトにまとめられている。
こういう問題をさばく著者の手腕はなかなかのものだと思いました。
大田はオウム真理教に関する著作を元信者によるもの、ジャーナリストによるもの、学問的なものとに大別し、学問的著作が「その役割に見合う水準のものがいまだに現れていない」(p.19)と評価する。
そのうえでキリスト教の異端であるグノーシス主義の研究者である著者が、「キリスト教思想史の知見を用いれば、意外にもオウム問題の全体像を、これまで以上にうまく捉えることができるかもしれない」(p.282)として挑んだ「異色」のオウム論である。
第1章から第4章までの章題をあげると、それぞれ「近代における「宗教」の位置」、「ロマン主義」、「全体主義」、「原理主義」となっている。
こう見ると非常に迂遠かつ抽象的な議論のように思われるかもしれないが、これがオウムをどう捉えるかという問題に、ピースがきちっとはまっていくような快感すら伴うように分析されていく。
ただ読んでいくうちに、やや違和感を覚える人もいるかもしれない。そのピースがあまりにピシっときれいにはまりすぎてはいないか、と。
その理由を勝手に忖度するなら、本書はタイトルの通りオウム真理教を論じたものであるが、同時にポストモダン批判という性格も持っているためなのかもしれない。
大田はオウム真理教が「近代の宗教」の一つであるということを「一見ししたところあまりにも自明の事実」(p.25)だとしている。
オウムとは「ロマン主義的で全体主義的で原理主義的なカルト」であり、「ロマン主義、全体主義、原理主義という思想潮流が発生し、社会に対して大きな影響力を振るうようになったのは、近代という時代の構造」だとする。「国家が此岸の世界における主権性を獲得し、宗教や信仰に関わる事柄が「個人の内面」という私的な領域に追いやられるという構造そのものに起因していると考えることができる」(p.276)。
「近代社会は根本的に、歪んだ「宗教」が数多く発生するような構造を備えている」(p.45)のであるならば、「反近代」であるポストモダンにこそそれを乗り越える答えがあるのではないか。そのような安易さこそ大田が批判しているものの本質なのかもしれない。
序章において中沢新一と宮台真司に対してとりわけ厳しく批判がなされている。中沢はともかく、宮台は『終わりなき日常を生きろ』でオウム的なるものを否定したのではなかったか。しかし大田は中沢も宮台もポストモダンからの影響という点では同工異曲だとしている。宮台がここで賞賛した「ブルセラ少女」をニーチェ的超人幻想だとし、「ニーチェ的な超人幻想は、決してそれによってオウムの世界観を克服できるようなものではなく、むしろオウムの思想史的源流の一つに位置づけられるもの」(p.16)なのだとする。宮台は「援交少女」が「メンヘル」化したのをうけて、「当時の判断の誤りを認めている」のだが、本書では触れられていないもののその後「援交から天皇へ」などということを言い出したことを考えると、はたして本当に「判断の誤りを認めた」のかは疑わしくも思える。
大田は何もポストモダンという概念を弄ばずとも、オウムやオウム的なものに対する分析は充分に可能であることを示そうとしたのかもしれない。とりわけ日本では戦中の「近代の超克」という記憶を抱えているわけで、安直な思考方法でオウム(的なるもの)に容易に感染してしまうポストモダン系への評価は厳しくならざるをえなかったのだろう。
ここで話を脱線。
前に島田裕巳の中沢新一批判本を読んだ時にも感じたのだが、ポストモダンを趣味的に摂取してきた僕のような人間からすると、中沢新一というのはそれほど「危険」な人物なのだろうかという疑問が湧く。
オウム事件の後、「諸君!」において(というのもすごいが)浅田彰と中沢新一との間で対談が行われた。浅田はここで、中沢が書いてきたものは「小説」であり、その「小説」を読んだ人間がおかしなことをしたからといって責任なんて取ってられるかという趣旨のことを言っていた。もちろん浅田は友人であった中沢を擁護するためにこのような発言をしているのだが、この発言に対しての中沢の心中は複雑なものだったのかもしれない。ただ僕としてはこの浅田の発言というのは「そうだよなあ」と思ってしまうところがある。
僕は中沢の本をいくつか読んでいて、結構楽しんでもいる。楽しんだとはいえ、「本気」にはしていない。読んだのはオウム事件の後だったのだが、たとえその前だったとしても、あれらを「本気」で受け止めることはなかっただろうと思う。
「スター・ウォーズ」を魅力的にしているのは「フォース」という設定だ。ルークがただの腕利きパイロットにして剣の達人というだけではあそこまで人々を引きつけることができたのただろうか。だからといってフォースは実際にあるのだ、などといって修行を始めるような人間がいたら、ジョージ・ルーカスが実際に何を考えていたかに関わらず、それはもうただのアホとしか言いようがないのではないか。
中沢が「研究者として規律違反に当たる」ことは批判されてしかるべきだと思うし、オウム事件以後の言動に誠実さが欠けていたことも否定できないと思う。ただいつの時代でもバカやアホというのはいるわけで、中沢が『虹の階梯』を書こうが書くまいがオウム、あるいはそれに類したものは出現していたことだろうし、その中で中沢が果たした役割というのはそれほど大きなものなのだろうかというのはずっと疑問に思っていたところなのである。
……のだが、原発事故以来中沢が「元気」になってしまって、「グリーンアクティブ」とやらを立ち上げて、てそれにベタに期待しちゃってる人なんかを見るとう〜むというところなのだが。さらにそこに宮台も参加するなんてのを目にした後で本書を読むとやはりいろいろと考えさせられる。
本書は2011年3月刊行なので、執筆は当然震災の前なのであるが、原発事故以降の中沢や宮台の言動を考えあわせたうえで序章を読むと、いっそう味わい深いかもしれない。
閑話休題。
本書はオウムについて考えるという点でもいろいろ得られるところは多いが、それ以上に使い道というのが広い。
近代とは何か。近代国家と宗教との関係。近代の落とし子としてのロマン主義。それがオカルトやニューエイジへどうつながっていったのか。ナチズムが生まれた背景と、なぜあそこまで支持を拡大できたのか。あるいは日本の原理主義の源流、そして神学に疎いはずの日本人がキリスト教的終末思想をいかに摂取していったのか、などなどがコンパクトにまとめられている。
こういう問題をさばく著者の手腕はなかなかのものだと思いました。
『宗教とは何か』
テリー・イーグルトン著『宗教とは何か』
宗教は、言語に絶する悲惨を人事にもたらしてきた。今日の大部分は偏狭な信念や迷信や誇大妄想や抑圧的イデオロギーなどが織りなすおぞましい物語そのものだった。それゆえ合理主義とヒューマニズムに立脚する宗教批判者たちに、わたしは大いに共感をおぼえる。しかし、この本で議論するように、そうした批判者たちの宗教否定の議論は、あまりに安っぽいのもまた真実なのだ。(p.10)
2008年に行われた講演をまとめたもの(こちら)。イーグルトンの本は久しぶりに読んだのですがなかなか面白かったです。
イーグルトンといえばマルクス主義文学批評の大物であり、その彼が宗教を語る、しかも擁護するとは? とお思いの方もいるかもしれないが、自伝エッセイ『ゲートキーパー』をお読みの方ならご存知の通りイーグルトンの出発点はカトリックでもあるのですよね。そこらへんにも触れてあります。
イーグルトンが本書で試みるのは宗教の中のある種の部分を救い出すことであり、その目的は可能性を開くことにあるのではないだろうか。
先に引用した部分からわかるように、イーグルトンは宗教はとにかくすばらしいものなので尊重しなければならないといっているのではない。宗教を読み替えていくことによってその可能性を開こうとしているのである。
例えばこんな箇所はどうだろうか。
イエスは、おおかたの責任感あふれるアメリカ市民とちがい、なにも仕事をしていないように見えるし、大食漢の飲んだくれと非難されている。彼はホームレスの人間として提示されている。財産もなく独身で、逍遥派であり、社会的周辺においやられ、親類縁者からは鼻つまみ者とされ、定職につかず、浮浪者や非民たちの友であり、物質的所有を軽蔑し、自身の安全をかえりみず、純潔規定には無頓着で、伝統的権威には批判的で、体制側に突き刺さった茨の棘、金持ちや権力者に天誅をくだす者である。(pp.24−25)
このようなイエス観はキリスト教内部では多数派ではないかもしれない。
イーグルトンがここで行おうとしているのは、宗教にもこのように抵抗の足場となる役割を果たすことができるということの論証であろう。
左翼はしばし宗教には及び腰であるばかりでなく、むしろ排撃すらしてきた。このような姿勢は宗教を妄信するのと同じように愚かなのかもしれない。
マルクスといえば、どちらかといえば揶揄的なニュアンスでその思想とユダヤ・キリスト教的発想との類似が指摘されるが、イーグルトンはむしろこれを肯定的に捉える。
そもそも近代リベラリズムはキリスト教と矛盾するものではなく、むしろキリスト教によって準備された部分も多いのではないか。その伝統を知らずに「リベラル」を気取っている連中が宗教批判を繰り広げることの愚かしさよ、となるのである。
本書でイーグルトンがやり玉にあげるのはそのような「リベラルな教条主義者」である。
その象徴が「ディチキンス」だ。これは激しい宗教批判を繰り広げるリチャード・ドーキンスと先ごろ亡くなった(本書刊行時には存命)クリストファー・ヒッチンスをかけあわせたものである。
批判者が敵の姿に似てきてしまうというのはしばし見られる現象であるが、「ディチキンス」のように宗教の狂信性を批判する人間が狂気じみた発想をしてしまうようにもなりかねない。イーグルトンに言わせると、彼らはアメリカのテレビ伝道師にその思考法がなんと似ていることか。
またリベラリズムの隘路としてしばしあげられるのが、不寛容に対してどこまで寛容であるべきかということだ。
マーティン・エイミスらが表現の自由を擁護する観点からイスラム教を批判するが、では彼らは同じように西側自由主義、キリスト教、資本主義の災厄に批判の目を向けるのだろうか。イーグルトンは今日では人種差別を公に表明することは憚られているが、宗教批判として形を変えて表出しているのではないかと厳しく批判する。
現実政治においてイーグルトンの意見に耳を傾ける人は現在ではそう多くないであろうし、時代から取り残された哀れな人とすら写っているかもしれない。当人もそれをある程度自覚してもいることだろう。
イーグルトンの社会主義への忠誠はある意味では宗教的であるといっていいのかもしれない。ではそれは単なる逃避なのだろうか。
この世界――苦痛のうめきをあげてもがくのを、わたしたちが目の当たりにしているこの世界――が、物事のとりうる唯一の姿であるとはどうしてもおもえないからである。(中略)これが望みうる最高の状態だと考える、なんともけちな現実主義者に驚きの念を禁じえないからでもある。社会主義のヴィジョンを撤回することは、人間のもっとも貴重な能力と可能性とみなされるものを裏切ることになるからでもある。(p.158)
僕自身は信仰心というものをまるで持っていない。より正確にいうならば、それがどういったものなのか想像することすらできないのである。身近で宗教にはまってしまった人なども見たが、いったいどういう思考経路をたどればああいうものを信じられるようになるのかが、嫌味ではなく本当に不思議なのである。
そう考えると僕は「ディチキンス」の側に立つ方が自然なのかもしれない。しかし圧倒的にイーグルトンの側にシンパシーを憶えてしまう。それは「ディチキンス」が世界を狭めてしまう思考法を取るせいであろう。もちろんこれは偏狭な宗教的狂信にしても同じである。世界は狭いよりも広いほうがいいに決まっている。その可能性は大きく開かれているべきだし、宗教は必ずしも世界を狭める側ではないのである(もちろん往々にしてそっち側になってしまうということは重々にふまえなければならないが)。
いくら左がかってるとはいえ、僕としてはさすがに社会主義に「信仰心」を抱くことはできないし、様々な問題で必ずしもイーグルトンに同意できるのでもない。それでもやはり充分に読む価値のある人であると思わせてくれる一冊でありました。
人文学が何かと肩身の狭い世界となってしまったが、もし人文学に意義があるのだとすれば、それは世界を広げる可能性を示すことであると思うし、その点でいろいろとヒントを与えてくれる本ではないかと思う。もっともイーグルトンが示唆するように、人文学最後の砦が神学であるのだとすると、それはそれで寂しいものなのですが。
宗教は、言語に絶する悲惨を人事にもたらしてきた。今日の大部分は偏狭な信念や迷信や誇大妄想や抑圧的イデオロギーなどが織りなすおぞましい物語そのものだった。それゆえ合理主義とヒューマニズムに立脚する宗教批判者たちに、わたしは大いに共感をおぼえる。しかし、この本で議論するように、そうした批判者たちの宗教否定の議論は、あまりに安っぽいのもまた真実なのだ。(p.10)
2008年に行われた講演をまとめたもの(こちら)。イーグルトンの本は久しぶりに読んだのですがなかなか面白かったです。
イーグルトンといえばマルクス主義文学批評の大物であり、その彼が宗教を語る、しかも擁護するとは? とお思いの方もいるかもしれないが、自伝エッセイ『ゲートキーパー』をお読みの方ならご存知の通りイーグルトンの出発点はカトリックでもあるのですよね。そこらへんにも触れてあります。
イーグルトンが本書で試みるのは宗教の中のある種の部分を救い出すことであり、その目的は可能性を開くことにあるのではないだろうか。
先に引用した部分からわかるように、イーグルトンは宗教はとにかくすばらしいものなので尊重しなければならないといっているのではない。宗教を読み替えていくことによってその可能性を開こうとしているのである。
例えばこんな箇所はどうだろうか。
イエスは、おおかたの責任感あふれるアメリカ市民とちがい、なにも仕事をしていないように見えるし、大食漢の飲んだくれと非難されている。彼はホームレスの人間として提示されている。財産もなく独身で、逍遥派であり、社会的周辺においやられ、親類縁者からは鼻つまみ者とされ、定職につかず、浮浪者や非民たちの友であり、物質的所有を軽蔑し、自身の安全をかえりみず、純潔規定には無頓着で、伝統的権威には批判的で、体制側に突き刺さった茨の棘、金持ちや権力者に天誅をくだす者である。(pp.24−25)
このようなイエス観はキリスト教内部では多数派ではないかもしれない。
イーグルトンがここで行おうとしているのは、宗教にもこのように抵抗の足場となる役割を果たすことができるということの論証であろう。
左翼はしばし宗教には及び腰であるばかりでなく、むしろ排撃すらしてきた。このような姿勢は宗教を妄信するのと同じように愚かなのかもしれない。
マルクスといえば、どちらかといえば揶揄的なニュアンスでその思想とユダヤ・キリスト教的発想との類似が指摘されるが、イーグルトンはむしろこれを肯定的に捉える。
そもそも近代リベラリズムはキリスト教と矛盾するものではなく、むしろキリスト教によって準備された部分も多いのではないか。その伝統を知らずに「リベラル」を気取っている連中が宗教批判を繰り広げることの愚かしさよ、となるのである。
本書でイーグルトンがやり玉にあげるのはそのような「リベラルな教条主義者」である。
その象徴が「ディチキンス」だ。これは激しい宗教批判を繰り広げるリチャード・ドーキンスと先ごろ亡くなった(本書刊行時には存命)クリストファー・ヒッチンスをかけあわせたものである。
批判者が敵の姿に似てきてしまうというのはしばし見られる現象であるが、「ディチキンス」のように宗教の狂信性を批判する人間が狂気じみた発想をしてしまうようにもなりかねない。イーグルトンに言わせると、彼らはアメリカのテレビ伝道師にその思考法がなんと似ていることか。
またリベラリズムの隘路としてしばしあげられるのが、不寛容に対してどこまで寛容であるべきかということだ。
マーティン・エイミスらが表現の自由を擁護する観点からイスラム教を批判するが、では彼らは同じように西側自由主義、キリスト教、資本主義の災厄に批判の目を向けるのだろうか。イーグルトンは今日では人種差別を公に表明することは憚られているが、宗教批判として形を変えて表出しているのではないかと厳しく批判する。
現実政治においてイーグルトンの意見に耳を傾ける人は現在ではそう多くないであろうし、時代から取り残された哀れな人とすら写っているかもしれない。当人もそれをある程度自覚してもいることだろう。
イーグルトンの社会主義への忠誠はある意味では宗教的であるといっていいのかもしれない。ではそれは単なる逃避なのだろうか。
この世界――苦痛のうめきをあげてもがくのを、わたしたちが目の当たりにしているこの世界――が、物事のとりうる唯一の姿であるとはどうしてもおもえないからである。(中略)これが望みうる最高の状態だと考える、なんともけちな現実主義者に驚きの念を禁じえないからでもある。社会主義のヴィジョンを撤回することは、人間のもっとも貴重な能力と可能性とみなされるものを裏切ることになるからでもある。(p.158)
僕自身は信仰心というものをまるで持っていない。より正確にいうならば、それがどういったものなのか想像することすらできないのである。身近で宗教にはまってしまった人なども見たが、いったいどういう思考経路をたどればああいうものを信じられるようになるのかが、嫌味ではなく本当に不思議なのである。
そう考えると僕は「ディチキンス」の側に立つ方が自然なのかもしれない。しかし圧倒的にイーグルトンの側にシンパシーを憶えてしまう。それは「ディチキンス」が世界を狭めてしまう思考法を取るせいであろう。もちろんこれは偏狭な宗教的狂信にしても同じである。世界は狭いよりも広いほうがいいに決まっている。その可能性は大きく開かれているべきだし、宗教は必ずしも世界を狭める側ではないのである(もちろん往々にしてそっち側になってしまうということは重々にふまえなければならないが)。
いくら左がかってるとはいえ、僕としてはさすがに社会主義に「信仰心」を抱くことはできないし、様々な問題で必ずしもイーグルトンに同意できるのでもない。それでもやはり充分に読む価値のある人であると思わせてくれる一冊でありました。
人文学が何かと肩身の狭い世界となってしまったが、もし人文学に意義があるのだとすれば、それは世界を広げる可能性を示すことであると思うし、その点でいろいろとヒントを与えてくれる本ではないかと思う。もっともイーグルトンが示唆するように、人文学最後の砦が神学であるのだとすると、それはそれで寂しいものなのですが。
『LAヴァイス』
トマス・ピンチョン著 『LAヴァイス』
ピンチョン作品は大まかに二つの系譜に分けられるのかもしれない。『V.』や『重力の虹』のような「世界史」的なもの。そして『競売ナンバー49の叫び』や『ヴァインランド』のような「アメリカ史」的なものとに。もちろんこれは「あえて」そう言えばの話で、これらの作品を通過した後の『メイスン&ディクスン』や『逆光』に顕著なように、両者は溶け合っている。
それでもあえてこの二分類を使うと、『LAヴァイス』は「アメリカ史」の系譜に連なる作品である。
カリフォルニアが舞台であり謎の富豪が登場するとなれば『競売ナンバー49の叫び』を連想してしまうが、肌触りとして最も近いのは『ヴァインランド』である。ピンチョン自身もそのことを充分に意識しており、「ヴァインランド郡」への言及があるばかりか両作にまたがる登場人物もいる(ここらへんはピンチョンお得意のファンサービスでもある)。
そして『LAヴァイス』の「現在」は1970年前後。これは「現在」が1984年であり、60年代後半の出来事がカギを握る『ヴァインランド』の間に立つ形になる。
いつもラリっている私立探偵ドックのもとに、かつてのヒッピースタイル改め、「あんなふうには絶対ならない」はずだったお堅いファッションに身を包んだ元恋人シャスタが現れる。彼女はユダヤ人にしてナチに憧れているとも言われる建設業界の大物ウルフマンの愛人になっていた。シャスタはウルフマンの妻から夫を精神病院に入れてしまおうという誘いを受けていたのだった。
ヤクの副作用か失神癖のあるドックはある場所で意識を失う。そこで起こっていた殺人事件。ウルフマンは行方不明となりシャスタも姿を消す。
二人を追ううちに突き当たる、あまりにいわくありすぎる船、<黄金の牙>。絡み合う謎にいくつもの罠がドックを待ち受けている……
いかにもハードボイルドめいた始まりである。しかし「なんつっても私立探偵は消えゆく種族」(p.136)であるこの世界では、チャンドラー的であると同時にフィリップ・K・ディック風味でもある。同時にハードボイルドものの硬質な陰気さともディック的現実溶解感覚とも異なる、やはりピンチョン独特の世界が築かれている。
この作品全体を流れている「通奏低音」というものがあるなら、それはロサンジェルスのワッツ地区での「暴動」であり(「白人の復讐は続く、ってな。(中略)」/「復讐……って?」/「ワッツのだよ」/「暴動か」/「<反乱>って呼んでくれ。白人どもはここぞってタイミングを見計らっているんだ」p.32 ピンチョン唯一の「ルポ・エッセイ」は「反乱」から一年後のワッツを取材したものである。A Journey into the Mind of Watts)、そしてシャロン・テート殺害事件であろう(「チャーリー・マンソンとお仲間たちが何もかも台無しにしてくれた」p.59)。
この作品の中で、「警官」や人種差別主義者たちはワッツの再来やマンソン事件の再発を恐れている(「三人以上の市民が集まってる場合は潜在的なカルト集団と見なす」p.244という<カルトウォッチ>!)。そしてこの二つの出来事は、警官たちと対峙するヒッピーたちの側にも大きくのしかかる。白人による抑圧的支配に対し立ち上がったのは、世界を変えるための第一歩だったのかもしれない。一方で、ヒッピー・カルチャーとも深く関わりを持つマンソン事件は、まさに60年代の理想主義と楽観主義の終わりを告げるものであった。
『ヴァインランド』ではすでに敗退したかつてのヒッピーたちに「ファシスト」が牙をむく。その過程でプレイリーは過激派だった母親にまつわる60年代後半の出来事を知ることになる。
『LAヴァイス』では、ヒッピーたちはまさに今、後退戦を強いられ、出口もないままに散り散りになろうとしている。罠、裏切り、疑念。どこまでが陰謀で、どこからがパラノイア的妄想なのか。
『LAヴァイス』の原題は Inherent Vice。
「海上保険に関わっているソンチョの同僚は、よく「内在する欠陥(インヒアレント・ヴァイス)」という言葉を使う」。
「原罪みたいなものか?」とドックが聞いた。
「どうしても避けられないこと」ソンチョは応えた。「海上保険会社が契約でカバーしたがらないことね。ふつうは積荷が対象だけど――割れる卵とか――船自体が対象になることもある。船底から水を汲み出さなくちゃならないとしたら、その船には内在する欠陥がある」
「サンアンドレアス断層もか」ドックが思い当たったのは、カリフォルニアの地震源。「ヤシの木の上に住むネズミも同じだよな」
「そうだな」ソンチョは目を瞬く。「LAを、厳密な理由によって船に見立てて、その海上保険を書くとしたら、そういうことになる」
「おい、ノアの方舟はどうなんだ。あれも船舶だろ?」
「方舟保険?」
「ソルティレージュがいつも話してたろ。大昔の天変地異でレムリア大陸が太平洋に沈んだとき、ここまで難を逃れてきた人がいるわけだから、カルフォルニアも一種の方舟だとは言えないかい」
「ああ、避難場所としちゃ結構だよね。快適で安定した、頼りになる不動産だ」(pp.478−479)
ピンチョンはなぜカリフォルニアを描くのだろうか。
本作にはビーチ・ボーイズの「素敵じゃないか」が出てくる(僕が個人的に一番好きなビーチ・ボーイズの歌だったりする)。美しいポップ・ソングを作り出すブライアン・ウィルソンは、抑圧的な父親に悩まされ、バンドのメンバーとの軋轢が生じ、レコード会社からの理解が得られず、崩壊寸前の精神状態で『ペット・サウンズ』を作り上げる。現在ではロック・ポップス史に残る大傑作とされる『ペット・サウンズ』は、発売時には本国アメリカでは不当な扱いを受けた。あまりに美しい音楽の裏に、陰鬱な物語が潜んでいる。
カリフォルニア。輝く太陽、青い海、小麦色の肌をしたビキニの女の子。スチューデント・パワー揺籃の地にしてサマー・オブ・ラヴの中心地。そしてニクソンとレーガンを輩出する土地(作品の「現在」はニクソン政権下であり、カリフォルニア州知事はレーガンである。「あの知事は今、大変な勢いだな。将来のアメリカはあの人が天下を取ることになるんだろう」p.438 また赤狩りも本作の重要なモチーフになっている。ニクソンもレーガンも赤狩りで「活躍」をした)。フロンティア、ゴールド・ラッシュ。マニフェスト・デスティニーという言葉の元で何が行われたのか。メキシコから戦争で分捕った場所、カリフォルニア。
「ヘイ……でも、あんた、建国の父ならさ、もうビックリでしょ、黒人が武装蜂起なんて話」
「自由の樹は、ときおり愛国者と圧制者の血で洗われなければならない」ジェファーソンは言った。「それが天然の肥となる」(p.401)
独立宣言の起草者にして奴隷所有者のジェファーソン。
LAを一艘の船に例えられるのなら、カリフォルニアをアメリカに例えることもできる。
理想と希望に燃える若き国。奴隷制度によって発展し、人種差別を秩序維持に利用しようとする国。どちらが真実のアメリカなのか。両者は分かちがたく結びついている。「どうすれば踊りと踊り手を区別できようか?」(イェイツの「学童たちのあいだで」)。
イェイツをもじれば、網の目を構成する人間と網の目に捉われた人間を区別できようか。
60年代の理想主義は過去のものになっている。ヒッピーたちはカネをもらいスパイとなり、過激派にはスパイが溢れ内部対立を煽られる。カネをもらってスパイになることを嫌うドックであるが、「警察で働きたくない警官なわけ。本当は警察と同じことをしているのに、サーフィンだ、スモーキンだ、ファッキンだ、ってそれ以外のことがしたいみたいなフリをおしている」(p.427)という言葉に反論できるのだろうか。
「ARPAネットだ!」(p.79)。インターネットの起源とされるこのネットワークがスタートしたのは69年のこと。すでにこの時点で知る人ぞ知る存在になってたのだろうか。ドックは「ダッシュボード・コンピュータも実現するかもしれない」(p.502)という想像をめぐらす。このエピソードはちょっとした彩などではなく、作品のテーマにも関わっているのかもしれない。
スティーブ・ジョブズなどがカリフォルニアのヒッピー・カルチャーから大きく影響を受けたことはよく言われる。国や大企業がコンピューターを独占するのではなく、個人がコンピューターを持つことによって人々は解放されるのではないか。しかしインターネットは「政府の金」によってそのシステムが構築され、そして現在では、過去に例を見ないほど私企業が個人情報を蓄積し、公権力がそれを追跡可能な世界となっている。コンピューターの利便性を否定できる人はいないだろう。ではそれによって我々はより自由になれたのだろうか。
網の目に一度見入られると、もう出口はないのか。
『ヴァインランド』のエンディングはいくつかの解釈が可能だが、多くはそこに希望の芽を見出すことだろう。では『LAヴァイス』では?
霧が立ち込めた世界が、「ゆっくり失われていく」のを眺めることしかできないのだろうか。霧が晴れるのかどうかはわからない。それでも、走り続ける先に何が待っているのかはわからなくとも、アクセルを踏み込むことはできる。「ゴッド・オンリー・ノウズ」を口ずさみながら。
本書のエピグラフは「鋪道の敷石の下はビーチ!」という1968年5月のパリの落書きから。これは皮肉などではないのだろう。
どうしても『ヴァインランド』との読み比べをしてしまいたくなってしまうのですが、続編やスピンオフというわけではないので『ヴァインランド』を読んでいなくとも楽しめます。
それにこう書いているとなんだかすごく陰鬱な話のように思われてしまうかもしれないが、『ヴァインランド』同様愛すべき駄目人間たちの愉快な物語でもあるのです。
『ヴァインランド』といえば日本が主要舞台の一つにもなっているが、そのせいか『LAヴァイス』でも日本への目配せが用意されている。おいしいパンケーキを出す日本人シェフ、ヤクザの殺し屋イワオなどはピンチョンの創作人物だが、ノグチ検死官やゴジラ、ギドラも顔をのぞかせる。『三大怪獣地球最大の決戦』が『ローマの休日』のリメイク(p.383)だなんてほんまかいなと思ったのだが、「解説」によれば「ドックの目に狂いはなかった」とのこと。『ローマの休日』といえば脚本は赤狩りでハリウッドを追放されたダルトン・トランボ。そしてドックのヒーローはこちらも赤狩りでハリウッドを追放されたジョン・ガーフィールド。
と、こんな具合に『ヴァインランド』同様、主としてポップカルチャーからの引用やパロディやほのめかしにあふれているわけですが(「解説」で詳述されています)、そこらへんの知識がそれほどなくとも「フツーに読める」(「訳者あとがき」)作品になっています。チャンドラーやディックの名を出したが、「天然」である(作品内が結構滅茶苦茶なことが多い)この二人とは明らかに違うピンチョンは、もちろんこれらにそれなりの意味をこめていたのであろうから、そこに耽溺するのもまたよし。
帯には「2014年にP.T.アンダーソンがロバート・ダウニーJr.主演で映画化との噂」とあるが、これまでのピンチョン作品であれば映像化など想像もつかなかったことでありますが、『LAヴァイス』であれば確かに可能に思えてくる。これまでの作品からすると比較的「読みやすい」はずの『ヴァインランド』でも時間軸なんかはかなり複雑なものがありましたが、『LAヴァイス』では基本的には直線的で、この点で混乱させられるようなことはないでしょう。それほど「フツー」であるところは、コアなピンチョンファンにとってはやや好みが分かれるところかもしれませんが、これまでピンチョンに足がすくんでしまっていたような人にとっては、一風変わったハードボイルドタッチのミステリーとして、それほど肩に力を入れずとも楽しめるようになっている。
ピンチョンを読んだことがないという人にとっては一番とっつきやすくなっていると思うし、60年代あたりのカルチャーシーンに惹かれるところがある人ならとりわけ興味深く読めることでしょう。
ピンチョンの作品としては少々「薄味」かなという気もしないこともないけど、作品世界としては個人的にはかなり好きなものでありました。
それにしても映画化がこの通りに実現するなら、ロバート・ダウニーJrはまたジャンキー役をやることになるのか。もっともドックはヘロインには手を出さず、コカインのような高価なドラッグも敬遠し、ラヴでピースフルなマリファナ専門なのですが(ある意味では志の高いヒッピーなのです)。
「フツーに読め」て、映画化も可能とは書いたのですが、とはいえそこはやっぱりピンチョン。厖大な数の登場人物には例のごとく「これ、誰だっけ」ってなことにもなってしまうのもまた事実ではありました。「ピンチョン全小説」もついに『重力の虹』を残すのみ、ここいらで「ピンチョン作品人物事典、詳細年表付き」みたいなのが出てくれればうれしいのですが(やっぱりネットじゃなくて紙の本を手元に置きながら読みたい)。需要は間違いなくあるはず、とまで胸を張ってはいえないけれど、少なくともここに一人、確実に購入する人間はいますから。
この作品の音楽についてはinherent vice playlistにずらずらずらっと。
ピンチョン自ら!
ピンチョン作品は大まかに二つの系譜に分けられるのかもしれない。『V.』や『重力の虹』のような「世界史」的なもの。そして『競売ナンバー49の叫び』や『ヴァインランド』のような「アメリカ史」的なものとに。もちろんこれは「あえて」そう言えばの話で、これらの作品を通過した後の『メイスン&ディクスン』や『逆光』に顕著なように、両者は溶け合っている。
それでもあえてこの二分類を使うと、『LAヴァイス』は「アメリカ史」の系譜に連なる作品である。
カリフォルニアが舞台であり謎の富豪が登場するとなれば『競売ナンバー49の叫び』を連想してしまうが、肌触りとして最も近いのは『ヴァインランド』である。ピンチョン自身もそのことを充分に意識しており、「ヴァインランド郡」への言及があるばかりか両作にまたがる登場人物もいる(ここらへんはピンチョンお得意のファンサービスでもある)。
そして『LAヴァイス』の「現在」は1970年前後。これは「現在」が1984年であり、60年代後半の出来事がカギを握る『ヴァインランド』の間に立つ形になる。
いつもラリっている私立探偵ドックのもとに、かつてのヒッピースタイル改め、「あんなふうには絶対ならない」はずだったお堅いファッションに身を包んだ元恋人シャスタが現れる。彼女はユダヤ人にしてナチに憧れているとも言われる建設業界の大物ウルフマンの愛人になっていた。シャスタはウルフマンの妻から夫を精神病院に入れてしまおうという誘いを受けていたのだった。
ヤクの副作用か失神癖のあるドックはある場所で意識を失う。そこで起こっていた殺人事件。ウルフマンは行方不明となりシャスタも姿を消す。
二人を追ううちに突き当たる、あまりにいわくありすぎる船、<黄金の牙>。絡み合う謎にいくつもの罠がドックを待ち受けている……
いかにもハードボイルドめいた始まりである。しかし「なんつっても私立探偵は消えゆく種族」(p.136)であるこの世界では、チャンドラー的であると同時にフィリップ・K・ディック風味でもある。同時にハードボイルドものの硬質な陰気さともディック的現実溶解感覚とも異なる、やはりピンチョン独特の世界が築かれている。
この作品全体を流れている「通奏低音」というものがあるなら、それはロサンジェルスのワッツ地区での「暴動」であり(「白人の復讐は続く、ってな。(中略)」/「復讐……って?」/「ワッツのだよ」/「暴動か」/「<反乱>って呼んでくれ。白人どもはここぞってタイミングを見計らっているんだ」p.32 ピンチョン唯一の「ルポ・エッセイ」は「反乱」から一年後のワッツを取材したものである。A Journey into the Mind of Watts)、そしてシャロン・テート殺害事件であろう(「チャーリー・マンソンとお仲間たちが何もかも台無しにしてくれた」p.59)。
この作品の中で、「警官」や人種差別主義者たちはワッツの再来やマンソン事件の再発を恐れている(「三人以上の市民が集まってる場合は潜在的なカルト集団と見なす」p.244という<カルトウォッチ>!)。そしてこの二つの出来事は、警官たちと対峙するヒッピーたちの側にも大きくのしかかる。白人による抑圧的支配に対し立ち上がったのは、世界を変えるための第一歩だったのかもしれない。一方で、ヒッピー・カルチャーとも深く関わりを持つマンソン事件は、まさに60年代の理想主義と楽観主義の終わりを告げるものであった。
『ヴァインランド』ではすでに敗退したかつてのヒッピーたちに「ファシスト」が牙をむく。その過程でプレイリーは過激派だった母親にまつわる60年代後半の出来事を知ることになる。
『LAヴァイス』では、ヒッピーたちはまさに今、後退戦を強いられ、出口もないままに散り散りになろうとしている。罠、裏切り、疑念。どこまでが陰謀で、どこからがパラノイア的妄想なのか。
『LAヴァイス』の原題は Inherent Vice。
「海上保険に関わっているソンチョの同僚は、よく「内在する欠陥(インヒアレント・ヴァイス)」という言葉を使う」。
「原罪みたいなものか?」とドックが聞いた。
「どうしても避けられないこと」ソンチョは応えた。「海上保険会社が契約でカバーしたがらないことね。ふつうは積荷が対象だけど――割れる卵とか――船自体が対象になることもある。船底から水を汲み出さなくちゃならないとしたら、その船には内在する欠陥がある」
「サンアンドレアス断層もか」ドックが思い当たったのは、カリフォルニアの地震源。「ヤシの木の上に住むネズミも同じだよな」
「そうだな」ソンチョは目を瞬く。「LAを、厳密な理由によって船に見立てて、その海上保険を書くとしたら、そういうことになる」
「おい、ノアの方舟はどうなんだ。あれも船舶だろ?」
「方舟保険?」
「ソルティレージュがいつも話してたろ。大昔の天変地異でレムリア大陸が太平洋に沈んだとき、ここまで難を逃れてきた人がいるわけだから、カルフォルニアも一種の方舟だとは言えないかい」
「ああ、避難場所としちゃ結構だよね。快適で安定した、頼りになる不動産だ」(pp.478−479)
ピンチョンはなぜカリフォルニアを描くのだろうか。
本作にはビーチ・ボーイズの「素敵じゃないか」が出てくる(僕が個人的に一番好きなビーチ・ボーイズの歌だったりする)。美しいポップ・ソングを作り出すブライアン・ウィルソンは、抑圧的な父親に悩まされ、バンドのメンバーとの軋轢が生じ、レコード会社からの理解が得られず、崩壊寸前の精神状態で『ペット・サウンズ』を作り上げる。現在ではロック・ポップス史に残る大傑作とされる『ペット・サウンズ』は、発売時には本国アメリカでは不当な扱いを受けた。あまりに美しい音楽の裏に、陰鬱な物語が潜んでいる。
カリフォルニア。輝く太陽、青い海、小麦色の肌をしたビキニの女の子。スチューデント・パワー揺籃の地にしてサマー・オブ・ラヴの中心地。そしてニクソンとレーガンを輩出する土地(作品の「現在」はニクソン政権下であり、カリフォルニア州知事はレーガンである。「あの知事は今、大変な勢いだな。将来のアメリカはあの人が天下を取ることになるんだろう」p.438 また赤狩りも本作の重要なモチーフになっている。ニクソンもレーガンも赤狩りで「活躍」をした)。フロンティア、ゴールド・ラッシュ。マニフェスト・デスティニーという言葉の元で何が行われたのか。メキシコから戦争で分捕った場所、カリフォルニア。
「ヘイ……でも、あんた、建国の父ならさ、もうビックリでしょ、黒人が武装蜂起なんて話」
「自由の樹は、ときおり愛国者と圧制者の血で洗われなければならない」ジェファーソンは言った。「それが天然の肥となる」(p.401)
独立宣言の起草者にして奴隷所有者のジェファーソン。
LAを一艘の船に例えられるのなら、カリフォルニアをアメリカに例えることもできる。
理想と希望に燃える若き国。奴隷制度によって発展し、人種差別を秩序維持に利用しようとする国。どちらが真実のアメリカなのか。両者は分かちがたく結びついている。「どうすれば踊りと踊り手を区別できようか?」(イェイツの「学童たちのあいだで」)。
イェイツをもじれば、網の目を構成する人間と網の目に捉われた人間を区別できようか。
60年代の理想主義は過去のものになっている。ヒッピーたちはカネをもらいスパイとなり、過激派にはスパイが溢れ内部対立を煽られる。カネをもらってスパイになることを嫌うドックであるが、「警察で働きたくない警官なわけ。本当は警察と同じことをしているのに、サーフィンだ、スモーキンだ、ファッキンだ、ってそれ以外のことがしたいみたいなフリをおしている」(p.427)という言葉に反論できるのだろうか。
「ARPAネットだ!」(p.79)。インターネットの起源とされるこのネットワークがスタートしたのは69年のこと。すでにこの時点で知る人ぞ知る存在になってたのだろうか。ドックは「ダッシュボード・コンピュータも実現するかもしれない」(p.502)という想像をめぐらす。このエピソードはちょっとした彩などではなく、作品のテーマにも関わっているのかもしれない。
スティーブ・ジョブズなどがカリフォルニアのヒッピー・カルチャーから大きく影響を受けたことはよく言われる。国や大企業がコンピューターを独占するのではなく、個人がコンピューターを持つことによって人々は解放されるのではないか。しかしインターネットは「政府の金」によってそのシステムが構築され、そして現在では、過去に例を見ないほど私企業が個人情報を蓄積し、公権力がそれを追跡可能な世界となっている。コンピューターの利便性を否定できる人はいないだろう。ではそれによって我々はより自由になれたのだろうか。
網の目に一度見入られると、もう出口はないのか。
『ヴァインランド』のエンディングはいくつかの解釈が可能だが、多くはそこに希望の芽を見出すことだろう。では『LAヴァイス』では?
霧が立ち込めた世界が、「ゆっくり失われていく」のを眺めることしかできないのだろうか。霧が晴れるのかどうかはわからない。それでも、走り続ける先に何が待っているのかはわからなくとも、アクセルを踏み込むことはできる。「ゴッド・オンリー・ノウズ」を口ずさみながら。
本書のエピグラフは「鋪道の敷石の下はビーチ!」という1968年5月のパリの落書きから。これは皮肉などではないのだろう。
どうしても『ヴァインランド』との読み比べをしてしまいたくなってしまうのですが、続編やスピンオフというわけではないので『ヴァインランド』を読んでいなくとも楽しめます。
それにこう書いているとなんだかすごく陰鬱な話のように思われてしまうかもしれないが、『ヴァインランド』同様愛すべき駄目人間たちの愉快な物語でもあるのです。
『ヴァインランド』といえば日本が主要舞台の一つにもなっているが、そのせいか『LAヴァイス』でも日本への目配せが用意されている。おいしいパンケーキを出す日本人シェフ、ヤクザの殺し屋イワオなどはピンチョンの創作人物だが、ノグチ検死官やゴジラ、ギドラも顔をのぞかせる。『三大怪獣地球最大の決戦』が『ローマの休日』のリメイク(p.383)だなんてほんまかいなと思ったのだが、「解説」によれば「ドックの目に狂いはなかった」とのこと。『ローマの休日』といえば脚本は赤狩りでハリウッドを追放されたダルトン・トランボ。そしてドックのヒーローはこちらも赤狩りでハリウッドを追放されたジョン・ガーフィールド。
と、こんな具合に『ヴァインランド』同様、主としてポップカルチャーからの引用やパロディやほのめかしにあふれているわけですが(「解説」で詳述されています)、そこらへんの知識がそれほどなくとも「フツーに読める」(「訳者あとがき」)作品になっています。チャンドラーやディックの名を出したが、「天然」である(作品内が結構滅茶苦茶なことが多い)この二人とは明らかに違うピンチョンは、もちろんこれらにそれなりの意味をこめていたのであろうから、そこに耽溺するのもまたよし。
帯には「2014年にP.T.アンダーソンがロバート・ダウニーJr.主演で映画化との噂」とあるが、これまでのピンチョン作品であれば映像化など想像もつかなかったことでありますが、『LAヴァイス』であれば確かに可能に思えてくる。これまでの作品からすると比較的「読みやすい」はずの『ヴァインランド』でも時間軸なんかはかなり複雑なものがありましたが、『LAヴァイス』では基本的には直線的で、この点で混乱させられるようなことはないでしょう。それほど「フツー」であるところは、コアなピンチョンファンにとってはやや好みが分かれるところかもしれませんが、これまでピンチョンに足がすくんでしまっていたような人にとっては、一風変わったハードボイルドタッチのミステリーとして、それほど肩に力を入れずとも楽しめるようになっている。
ピンチョンを読んだことがないという人にとっては一番とっつきやすくなっていると思うし、60年代あたりのカルチャーシーンに惹かれるところがある人ならとりわけ興味深く読めることでしょう。
ピンチョンの作品としては少々「薄味」かなという気もしないこともないけど、作品世界としては個人的にはかなり好きなものでありました。
それにしても映画化がこの通りに実現するなら、ロバート・ダウニーJrはまたジャンキー役をやることになるのか。もっともドックはヘロインには手を出さず、コカインのような高価なドラッグも敬遠し、ラヴでピースフルなマリファナ専門なのですが(ある意味では志の高いヒッピーなのです)。
「フツーに読め」て、映画化も可能とは書いたのですが、とはいえそこはやっぱりピンチョン。厖大な数の登場人物には例のごとく「これ、誰だっけ」ってなことにもなってしまうのもまた事実ではありました。「ピンチョン全小説」もついに『重力の虹』を残すのみ、ここいらで「ピンチョン作品人物事典、詳細年表付き」みたいなのが出てくれればうれしいのですが(やっぱりネットじゃなくて紙の本を手元に置きながら読みたい)。需要は間違いなくあるはず、とまで胸を張ってはいえないけれど、少なくともここに一人、確実に購入する人間はいますから。
この作品の音楽についてはinherent vice playlistにずらずらずらっと。
ピンチョン自ら!
サリンジャーの結婚
Kenneth Slawenski 著 J.D. Salinger A Life
「サリンジャーの戦争」の続き。
続く6章もなかなか興味深い。
サリンジャーは退院後も帰国せずにドイツに残る。そればかりか、シルヴィアという女性と結婚したという手紙を送りつけて家族を仰天させる。
このシルヴィアという女性はかなり謎に包まれていたのだが、本書ではその「正体」についても調査がなされている。
昔に書かれたものでは、シルヴィアをフランス人だとするものもあればドイツ人だとするものもあり、混乱があった。
シルヴィアは1919年(サリンジャーと同年)生まれのドイツ人。45年当時、アメリカ兵はドイツ人と結婚することができなかったため、サリンジャーはシルヴィアのためにフランスのパスポートを手に入れ、偽の市民権も獲得している。
サリンジャーはふざけて彼女を「整骨医」などとしていたが、実際には四ヶ国語に堪能な眼科医であった(学位論文はフランクフルトの国立図書館で読めるそうだ)。
46年4月、サリンジャーはシルヴィアを連れてようやく帰国するが、この結婚生活は長く続かず、間もなく彼女はヨーロッパに戻る(ドイツで飼い始めた犬はそのまま残る)。サリンジャー家の人々にとって、彼女の存在はすぐに忘れ去られることになる。
シルヴィアのその後についても触れられている。シルヴィアは56年にアメリカへ再びやって来て、成功したエンジニアと結婚する。緑内障の研究を続け、88年に夫が死去すると、残りの人生をお年寄りのために捧げ、2007年に働いていた施設で亡くなる。彼女の遺品には「フランスのパスポート」があり、そこにはサリンジャーやジョイス・メイナードの記事のスクラップもあったのだという。
ここらへんの話というのはこの本で始めて知った。ここ数年はサリンジャーについて積極的に情報を漁るということはしてなかったのだが、ファンにとっては常識だったのだろうか。シルヴィアが2007年まで生きていた(それもアメリカで)というのは結構な衝撃だったのですが。
昔に書かれたものではシルヴィアは正体不明の謎の女とされていることが多く、サリンジャーが入院していた病院の精神科医かもしれないとしていたものもあったように記憶している。離婚後は「消息不明」扱いで、そのせいもあってどこか不気味な印象というのを与える存在だったのだが、こんな人生を送っていたとは。
で、この伝記を読み終えての感想。
アメリカのアマゾンでの本書へのレヴューを見ると、酷評したものがいくつか見られる。
その理由の一つが「知っていることばかりじゃん」というものだ。サリンジャーのような熱狂的ファンが多い人物の伝記を書くと、こういう反応があるのはやむをえないのでしょうね。著者からしたら「じゃあお前が書いてみろよ」というところかもしれませんが。
一方で、本書はかなり綿密な調査がなされているにも関わらず不自然に言及されていない出来事なんかもある。すぐに気がつくのが、隠遁後に一時生活を共にしたジョイス・メイナードについてである。彼女は回想録も書いており、これは一級の資料になるはずなのだが、ほぼ黙殺している。メイナードについてはなんと1ページに満たないほどの言及しかないのである。彼女が回想録執筆後にサリンジャーの手紙を競売に出したことを苦々しく書いているところに、伝記作家というよりもファンとしての複雑な思いというものが垣間見える。
熱心なファンかあすれば「知っていることばかり」なのかもしれないが、サリンジャー・マニアとまではいかない僕にはへぇっと思う情報がいくつもあった。最大のものはサリンジャーの最初の結婚相手のシルヴィアについてであることはすでに触れた。その他にいくつかざっと書いてみる。
55年にサリンジャーはクレアと二度目の結婚をするのだが、その結婚式にはクレアの前夫も出席していたのだとか。離婚後も子どもたちのこともあり、向かいの家(離婚時の財産分与で譲渡された)に住み続けていたが、80年代には心理学で博士号を取り、カルフォルニアへ渡って成功し、何冊か本も書いて教鞭も取っているのだとか。クレアはサリンジャーとの結婚生活について語ることはないそうだが、著者からするとこういうところをメイナードと比較してしまうのだろう。
サリンジャーもケネディの暗殺には衝撃を受けたようだ。サリンジャーはケネディのホワイトハウスから招待されていたもののこれを受けなかった。この時、間にはいって交渉していたのはあのゴードン・リッシュ。この数年後にリッシュはレイモンド・カーヴァーと深い関わりを始めるのだが、リッシュとカーヴァーとの間でサリンジャーについて会話が交わされたことはあったのだろうか。
またサリンジャーは息子のマシューを名門寄宿舎に入れることになるのだが、ここでケネディ・ジュニア(ジョン・ジョンのことだよね)とクラスメイトになったそうな。
同じ東洋神秘主義という趣味を持ちながらも、サリンジャーはビートニクに否定的だったが、ちょっとした偶然があればコロンビア大学でケルアック(1922年生まれ)と机を並べることになっていたかもしれなかった。確かに二人は同年代なんだな。
アマゾンでの不評の原因その二が、「いちいち小説の要約を入れるんじゃねーよ」というものである。
サリンジャーには単行本化していない短編が多くあるので、そういうものの内容を多く紹介するのはいいにしても、有名どころまでいちいちあらすじなどを書くのは確かにどうなのよ、という気がしなくもなかった。また伝記なんだからあんたの作品論は別にやってくれよ、というのもあるだろう。
ただご覧の通り、僕も一度書き始めるとダラダラと長くなってしまうたちなもので、アレも入れとかなきゃ、コレも入れとかなきゃ、という著者の心理というのはわかなくもないのでやや同情的。とはいえ、個人的には著者の作品読解には同意できないところもいくつかあった。
著者はサリンジャーの伝記的事実と作品とをわりと「素朴」に結び付けている部分が多いのだが、同時にやや恣意的に思えるところもある。
すでに書いたように、サリンジャーは戦争にまつわる「何か」を書くことができなかった、それがサリンジャーが書き続けることができなくなった原因なのではないか、というのが僕の個人的なサリンジャーの読み方である。これについて考えるには、グラース・サーガを取り上げるのが一番いいだろう。
「バナナフィッシュ」は当時のサリンジャーの精神状態が反映したものであることは間違いない。つまりスタート時から、シーモアはサリンジャーの分身である要素が濃いことは多くの人が同意することだろう。
また本書でも指摘されているように、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」で言及されるシーモアの軍歴がサリンジャーのそれと重なる部分も多い。ではシーモア=サリンジャーという単純な解釈でいいのだろうか。
鍵となるのがバディの存在ではないか。グラース・サーガは、グラース家の次兄であるバディが書き紡いでいるという設定でも読めるようにもなっている。サリンジャーはなぜバディという「語り手」を導入したのだろうか。
本書は軽く済まされているが、バディというキャラクターの造形は作品執筆時のサリンジャーと重なる部分が多い。つまり、単にシーモアの聖人伝を書くというハギオグラファーとして片付けることはできないのではないか。
『ナイン・ストーリーズ』収録の「テディ」は、サリンジャー「最後」の作品となった「ハプワース16、一九二四」でのシーモアを連想させるような超人的な子どもが主人公となっている。この時点で、作家サリンジャーは自身の内に潜む危うさというものを感じとっていたのかもしれない。グラース家の人物それぞれにサリンジャーは自己を投影しているが、なかでもシーモアは特別な存在である。しかしこのシーモアにのめりこむことの危うさを、「テディ」の執筆を通して感じたのではないだろうか。そこでバディというさらなるアルター・エゴを召還することによって、この危うさを乗り越えようとしたのかもしれない。バディが自殺したシーモアの生涯を追い、残されたグラース家の人々の姿を描くという形なら、サリンジャー/シーモアが体験した「何か」を書くことも可能になるのではないか。しかし結果は、バディはシーモアのハギオグラファーに堕してしまい、現実からすっかり遊離したような「ハプワース」はサリンジャーの「最後」の作品となってしまうのである。
本書には『フラニーとゾーイー』が単行本化された際の、ジョン・アップダイクによる「サリンジャーは、神が愛するよりもグラース家を愛してしまっている」(「大工よ」からのパロディ」という書評が引用されている。著者はアップダイクがいくつかの「誤読」をしているとして、この書評に不満のようだが、僕はアップダイクと同意見である。このような危うさを抱えているからこそ、バディという語り手を導入し、それを打破しようとしたにも関わらず、サリンジャーはグラース家を、もっといえばシーモアを愛し過ぎてしまい、作家として行き詰ったのではないだろうか。
前にも『ライ麦畑』の「語り手」の問題についてちらっと書いたが(ここ)、サリンジャー作品における語り手の役割をどう考えるかというのはかなり重要なのではないか。「主人公」とは別に語り手がいるという構造は、サリンジャーが尊敬していたフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を連想せずにはいられないし、ここらへんにもサリンジャー作品読解の手がかりの一つがあるように思える。著者はこれらをやや軽視しているむきがあるように感じてしまった。
……という感じに脱線して長くなってしまうので、やはり本書の評価をめぐっての著者への批判にはつい同情してしまうところもあるのです。
本書がサリンジャーの伝記として「決定版」とまでいえるのかはやや躊躇を覚えてしまうところもある。とはいえ、とりわけサリンジャーの戦争体験についての章は非常に鮮烈であるし、その他についても広範に調査がなされている。
若かりし日に『ライ麦畑』を読んで、『ナイン・ストーリーズ』や『フラニーとゾーイー』をパラパラやって、「若者の繊細な心情をリアルで活き活きとした筆致で描いた」程度の認識でわかったような気になっていた人には、とりあえず5章だけでもぜひ読んでもらいたい。
「サリンジャーの戦争」の続き。
続く6章もなかなか興味深い。
サリンジャーは退院後も帰国せずにドイツに残る。そればかりか、シルヴィアという女性と結婚したという手紙を送りつけて家族を仰天させる。
このシルヴィアという女性はかなり謎に包まれていたのだが、本書ではその「正体」についても調査がなされている。
昔に書かれたものでは、シルヴィアをフランス人だとするものもあればドイツ人だとするものもあり、混乱があった。
シルヴィアは1919年(サリンジャーと同年)生まれのドイツ人。45年当時、アメリカ兵はドイツ人と結婚することができなかったため、サリンジャーはシルヴィアのためにフランスのパスポートを手に入れ、偽の市民権も獲得している。
サリンジャーはふざけて彼女を「整骨医」などとしていたが、実際には四ヶ国語に堪能な眼科医であった(学位論文はフランクフルトの国立図書館で読めるそうだ)。
46年4月、サリンジャーはシルヴィアを連れてようやく帰国するが、この結婚生活は長く続かず、間もなく彼女はヨーロッパに戻る(ドイツで飼い始めた犬はそのまま残る)。サリンジャー家の人々にとって、彼女の存在はすぐに忘れ去られることになる。
シルヴィアのその後についても触れられている。シルヴィアは56年にアメリカへ再びやって来て、成功したエンジニアと結婚する。緑内障の研究を続け、88年に夫が死去すると、残りの人生をお年寄りのために捧げ、2007年に働いていた施設で亡くなる。彼女の遺品には「フランスのパスポート」があり、そこにはサリンジャーやジョイス・メイナードの記事のスクラップもあったのだという。
ここらへんの話というのはこの本で始めて知った。ここ数年はサリンジャーについて積極的に情報を漁るということはしてなかったのだが、ファンにとっては常識だったのだろうか。シルヴィアが2007年まで生きていた(それもアメリカで)というのは結構な衝撃だったのですが。
昔に書かれたものではシルヴィアは正体不明の謎の女とされていることが多く、サリンジャーが入院していた病院の精神科医かもしれないとしていたものもあったように記憶している。離婚後は「消息不明」扱いで、そのせいもあってどこか不気味な印象というのを与える存在だったのだが、こんな人生を送っていたとは。
で、この伝記を読み終えての感想。
アメリカのアマゾンでの本書へのレヴューを見ると、酷評したものがいくつか見られる。
その理由の一つが「知っていることばかりじゃん」というものだ。サリンジャーのような熱狂的ファンが多い人物の伝記を書くと、こういう反応があるのはやむをえないのでしょうね。著者からしたら「じゃあお前が書いてみろよ」というところかもしれませんが。
一方で、本書はかなり綿密な調査がなされているにも関わらず不自然に言及されていない出来事なんかもある。すぐに気がつくのが、隠遁後に一時生活を共にしたジョイス・メイナードについてである。彼女は回想録も書いており、これは一級の資料になるはずなのだが、ほぼ黙殺している。メイナードについてはなんと1ページに満たないほどの言及しかないのである。彼女が回想録執筆後にサリンジャーの手紙を競売に出したことを苦々しく書いているところに、伝記作家というよりもファンとしての複雑な思いというものが垣間見える。
熱心なファンかあすれば「知っていることばかり」なのかもしれないが、サリンジャー・マニアとまではいかない僕にはへぇっと思う情報がいくつもあった。最大のものはサリンジャーの最初の結婚相手のシルヴィアについてであることはすでに触れた。その他にいくつかざっと書いてみる。
55年にサリンジャーはクレアと二度目の結婚をするのだが、その結婚式にはクレアの前夫も出席していたのだとか。離婚後も子どもたちのこともあり、向かいの家(離婚時の財産分与で譲渡された)に住み続けていたが、80年代には心理学で博士号を取り、カルフォルニアへ渡って成功し、何冊か本も書いて教鞭も取っているのだとか。クレアはサリンジャーとの結婚生活について語ることはないそうだが、著者からするとこういうところをメイナードと比較してしまうのだろう。
サリンジャーもケネディの暗殺には衝撃を受けたようだ。サリンジャーはケネディのホワイトハウスから招待されていたもののこれを受けなかった。この時、間にはいって交渉していたのはあのゴードン・リッシュ。この数年後にリッシュはレイモンド・カーヴァーと深い関わりを始めるのだが、リッシュとカーヴァーとの間でサリンジャーについて会話が交わされたことはあったのだろうか。
またサリンジャーは息子のマシューを名門寄宿舎に入れることになるのだが、ここでケネディ・ジュニア(ジョン・ジョンのことだよね)とクラスメイトになったそうな。
同じ東洋神秘主義という趣味を持ちながらも、サリンジャーはビートニクに否定的だったが、ちょっとした偶然があればコロンビア大学でケルアック(1922年生まれ)と机を並べることになっていたかもしれなかった。確かに二人は同年代なんだな。
アマゾンでの不評の原因その二が、「いちいち小説の要約を入れるんじゃねーよ」というものである。
サリンジャーには単行本化していない短編が多くあるので、そういうものの内容を多く紹介するのはいいにしても、有名どころまでいちいちあらすじなどを書くのは確かにどうなのよ、という気がしなくもなかった。また伝記なんだからあんたの作品論は別にやってくれよ、というのもあるだろう。
ただご覧の通り、僕も一度書き始めるとダラダラと長くなってしまうたちなもので、アレも入れとかなきゃ、コレも入れとかなきゃ、という著者の心理というのはわかなくもないのでやや同情的。とはいえ、個人的には著者の作品読解には同意できないところもいくつかあった。
著者はサリンジャーの伝記的事実と作品とをわりと「素朴」に結び付けている部分が多いのだが、同時にやや恣意的に思えるところもある。
すでに書いたように、サリンジャーは戦争にまつわる「何か」を書くことができなかった、それがサリンジャーが書き続けることができなくなった原因なのではないか、というのが僕の個人的なサリンジャーの読み方である。これについて考えるには、グラース・サーガを取り上げるのが一番いいだろう。
「バナナフィッシュ」は当時のサリンジャーの精神状態が反映したものであることは間違いない。つまりスタート時から、シーモアはサリンジャーの分身である要素が濃いことは多くの人が同意することだろう。
また本書でも指摘されているように、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」で言及されるシーモアの軍歴がサリンジャーのそれと重なる部分も多い。ではシーモア=サリンジャーという単純な解釈でいいのだろうか。
鍵となるのがバディの存在ではないか。グラース・サーガは、グラース家の次兄であるバディが書き紡いでいるという設定でも読めるようにもなっている。サリンジャーはなぜバディという「語り手」を導入したのだろうか。
本書は軽く済まされているが、バディというキャラクターの造形は作品執筆時のサリンジャーと重なる部分が多い。つまり、単にシーモアの聖人伝を書くというハギオグラファーとして片付けることはできないのではないか。
『ナイン・ストーリーズ』収録の「テディ」は、サリンジャー「最後」の作品となった「ハプワース16、一九二四」でのシーモアを連想させるような超人的な子どもが主人公となっている。この時点で、作家サリンジャーは自身の内に潜む危うさというものを感じとっていたのかもしれない。グラース家の人物それぞれにサリンジャーは自己を投影しているが、なかでもシーモアは特別な存在である。しかしこのシーモアにのめりこむことの危うさを、「テディ」の執筆を通して感じたのではないだろうか。そこでバディというさらなるアルター・エゴを召還することによって、この危うさを乗り越えようとしたのかもしれない。バディが自殺したシーモアの生涯を追い、残されたグラース家の人々の姿を描くという形なら、サリンジャー/シーモアが体験した「何か」を書くことも可能になるのではないか。しかし結果は、バディはシーモアのハギオグラファーに堕してしまい、現実からすっかり遊離したような「ハプワース」はサリンジャーの「最後」の作品となってしまうのである。
本書には『フラニーとゾーイー』が単行本化された際の、ジョン・アップダイクによる「サリンジャーは、神が愛するよりもグラース家を愛してしまっている」(「大工よ」からのパロディ」という書評が引用されている。著者はアップダイクがいくつかの「誤読」をしているとして、この書評に不満のようだが、僕はアップダイクと同意見である。このような危うさを抱えているからこそ、バディという語り手を導入し、それを打破しようとしたにも関わらず、サリンジャーはグラース家を、もっといえばシーモアを愛し過ぎてしまい、作家として行き詰ったのではないだろうか。
前にも『ライ麦畑』の「語り手」の問題についてちらっと書いたが(ここ)、サリンジャー作品における語り手の役割をどう考えるかというのはかなり重要なのではないか。「主人公」とは別に語り手がいるという構造は、サリンジャーが尊敬していたフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を連想せずにはいられないし、ここらへんにもサリンジャー作品読解の手がかりの一つがあるように思える。著者はこれらをやや軽視しているむきがあるように感じてしまった。
……という感じに脱線して長くなってしまうので、やはり本書の評価をめぐっての著者への批判にはつい同情してしまうところもあるのです。
本書がサリンジャーの伝記として「決定版」とまでいえるのかはやや躊躇を覚えてしまうところもある。とはいえ、とりわけサリンジャーの戦争体験についての章は非常に鮮烈であるし、その他についても広範に調査がなされている。
若かりし日に『ライ麦畑』を読んで、『ナイン・ストーリーズ』や『フラニーとゾーイー』をパラパラやって、「若者の繊細な心情をリアルで活き活きとした筆致で描いた」程度の認識でわかったような気になっていた人には、とりあえず5章だけでもぜひ読んでもらいたい。



