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「戦争責任者の問題」を読み返す


堀田善衞 乱世を生きる』(水溜真由美著)を読んで、伊丹万作の「戦争責任者の問題」を読み返したくなった(青空文庫でも読める)。

あまりに有名なので今さら引用するのも気が引けるほどであるが、しかし今現在だからこそまた目を通しておくべきところだ。


そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。  
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。  
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。  
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。



日本社会の現状を表しているかのような言葉であるが、これが発表されたのは一九四六(昭和二一)年のことであった。

堀田も伊丹も、あるいは丸山真男なども、自身の振る舞いを含めたうえで日本社会に蔓延る体制順応主義(つまりは「奴隷根性」)、そして「悪を憤る精神の欠如」、「道徳的無感覚」などを問題視したのであるが、多数の人物によってこれが指摘され続けながら、日本社会は結局は克服することができず、またもや既成事実に屈服し、「あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」という「悪の本体」が跋扈するようになってしまったかのようだ。

状況が一変したところで、おそらくは敗戦後と同様に、嘘を嘘と承知しながら散々迎合しておきながら、あくまで自分はだまされていた被害者なのだという逃げをうつことで、あるいはしかるべき立場にありながらも、あの時は仕方がなかったのだと、責任を取らないばかりか反省すらせず、その本質は何も変わらないままなのであろうという絶望感がつのってしまう。

日本社会の本質的な部分は一九三〇年代から四五年にかけてと何も変わっていないのではないかと嘆息してしまうのであるが、今から数十年後に、二〇一〇年代の日本社会はどう論じられることになるのであろうか。


『堀田善衞 乱世を生きる』

水溜真由美著 『堀田善衞 乱世を生きる』






「本書のねらいは、堀田善衞(一九一八-九八)の主要な著作をできるだけ網羅的に検討し、堀田を、乱世を生き、乱世を描き、乱世を思考した作家・思想家として再評価することにある」。

こうあるように、堀田の小説家デビューから晩年の作品まで扱われており、堀田に関心があるがまだその作品にはそれほど触れていないといった読者には入門編としてもいいだろう。


「ところで、戦後派の文学は、今日においては過去のものとみなされ、あまり読まれていない」とある。大岡昇平の『野火』のような「戦争文学の古典」となっている作品や、島尾敏雄や安倍公房といった「あまり戦後派らしくない」ものは読み継がれ、研究も盛んであるが、「個別の作家・作品の評価が戦後派全体の評価に結びつくことは稀と言ってよく、戦後派全体を再検討する試みもごくわずかである」。

戦後派の作家が読まれなくなったのにはいくつか理由があるだろうが、個人的にも、代表的ないくつかの作品や何かのきっかけで関心を持った作品を手に取ったことはあったが、「戦後派」としてくくられる作家の全体像というのを意識してこなかったし、その結果として目を通した作品の数も少なかった。

しかしここ数年、やはり戦後派の作家を読み継いでいかねばならないのではないかという気にさせられることが多く、その小説や関連本を少しづつではあるが手に取るようにしている。

確かに文学的な面に焦点を絞っても、あるいは時代や社会への認識においても、現在ではいささか古びていたり限界を感じる所が少なからずあるのは否めない。しかしまた同時に、作品の手法においてもテーマにおいてもはっとさせられるところも多く、戦後派を忘却すべきではないという思いにかられるというか、戦後派の忘却が今現在の日本社会の有様とつながっているのではないかという気にさえさせられてくる。


現在の日本社会との関連でいえば、『時間』における堀田の問題意識、及び本書における著者の読解は、今なおというより今になって、より一層アクチュアルなものになっているかのようだ。

『時間』は「南京事件の渦中にあった中国人知識人陳英諦の日記として書かれている」。辺見庸が『1★9★3★7』で取り上げ、また文庫化もされたのでこのタイミングて手にした人もいたことだろう(僕もこれをきっかけに『時間』を初めて読んだ)。

辺見は『時間』の解説にこう書いている。

「「人間の想像力の限界が試される事件」(イアン・ブルマ『戦争の記憶』ちくま学芸文庫)とまでいわれる大虐殺を、第三者でも加害側でもなく、もしも被害側の目でみたなら、どんな光景がたちあがるか。加害側のたちいふるまいは中国人の目にはどううつったのか――という、どこまでも黯然として重苦しいテーマを、加害国ニッポンの作家、堀田善衞がひきうけ、みずからが塑像した中国人・陳英諦に仮託するかたちで、惨劇を活写し、ひとはここまで獣性をあらわにできうるものか、ニッポンジンとはなにか、歴史とはなにか――を縦横に思索させたのである」。


これは辺見独特の解釈ではなく、一般的にも『時間』はこのように読まれているとしていいだろう。しかし著者はこう書いている。「『時間』に関する限り、日本の中国侵略や日本軍の残虐行為に対する批判は、少なくとも作品の主眼であるとは思われない」。

では堀田はいったい何を描こうとしたのだろうか。「同書において、堀田の関心は乱世的状況における中国人の身の処し方、中でも知識人であるところの陳英諦のそれに向けられている。英諦の日記の体裁をとる『時間』において、堀田は乱世を生きる知識人の内面に入り込み、一体化する」。

「単純化するならば、堀田は、日本軍の南京入城以後の乱世的状況を生きる中国人の処し方を、「役人」、「ニヒリスト」、「革命家」、「スパイ」に類型化して描いている」。

英諦とKは「国民政府のスパイとして人知れず孤独な抵抗を行う」。「「革命家」に該当する刃物屋は、政治的党派に属し、日本軍に抵抗するべく勇敢に行動する」。「役人」は英諦の兄、英昌だ。司法官であった英昌は日本軍が迫る南京を脱出するが、英諦には南京にとどまり家財を守るよう命じていた。こうして英諦は妊娠中の妻と子どもと共に南京にとどまることになった。「陳英昌は、官吏の立場を利用して乱世的状況を回避し我が身を守る」。英諦は「保守的で身勝手」な兄に批判的であるが、「その批判は、危機的状況において易々と人民を見捨てる支配者や国家体制に対する批判に重ねられている」。そして「ニヒリスト」は英諦の伯父である。

「伯父は、終始南京にとどまりながら巧みに身を処し、日本軍の南京入城から占領に至る混乱を乗り切る。伯父は虐殺事件の発生時、金陵大学におかれた国際安全地帯委員会に所属し身の安全を確保する(後に刃物屋の証言により、伯父は金陵大学から連行される英諦を黙殺していたことが明かされる)。日本軍の南京占領後は傀儡政府の衛生部に転じ、やがて桐野が関与する特務機関と通じて阿片の取引に手を染める」。

「英諦は、「奴隷的境遇」におかれた人々が宿命論に陥る傾向を持つことを繰り返し批判している」。南京陥落後、伯父は英諦にこう言う。「日本は強い、仕方ないことだが。現実的にならなきゃいかんよ。事実が問題なんだ、事実が」。

それに対し英諦は反発する。「平和主義者が敵国の戦力を頼りにする。事実を認めろ、と云う。私も事実を認めるにやぶさかではない。だが、わたしにとって事実を認めるとは、既成事実をより一層かためるために協力することではない。その事実を変えようとする意志することだ」。

「伯父はエゴイストの機会主義者であり、私利私欲のため日本軍による中国侵略を最大限に利用する。権力者に取り入ることが習い性となった伯父にとって、状況は自ら作り出すものではなく、所与のものであらねばならない」。

伯父は現実主義者を自認しているのだろう。生き延びるためにはこうするしかないのだ、と。しかし実際に彼がしたことはといえば、殺害されてもおかしくなかった甥を見捨てたうえに、己が肥え太るために虐殺者であり占領者である日本軍と手結び阿片の売買に手を染めることであった。

堀田には、堀田が自ら『時間』と「表裏一体」とする『夜の森』という作品もある(僕は未読)。『時間』の語り手は中国人知識人であるが、シベリア出兵を舞台にした『夜の森』の主人公巣山は「日本人の庶民」である。「筆者のみるところ、堀田はいずれの作品においても、日本の海外侵略を客観的に捉え直すこと以上に、主人公が日本軍の海外侵略をどのように認識し、どのような態度をとるのかという点に大きな関心を向けている」。

巣山はシベリア出兵に無批判なのではない。「巣山は、無学ながらも鋭い観察力・洞察力を持ち、日本の新聞報道やロシア革命に共鳴する花巻という通訳との交流により、次第に啓蒙されていく。巣山は、貧困家庭の出身である自身の境遇に照らし合わせながら、労働者や農民の反逆という点で米騒動とロシア革命が似た構造を持つことを認識し、下層階級が米騒動の鎮圧・弾圧に駆り出されていることを批判的に理解するようになる」。

「にもかかわらず、巣山は最終的には宿命論者になる」。巣山はこう書く。「しかし、腹を立てたとて何になろう。こうしておられぬ気がするとゆうたところで我は軍人、内地へ帰って除隊したところで、村へ戻れば地主小作、呉服屋へ戻れば主人朋輩、抜きも差しもならぬ。こんなことを考えるのも、軍隊という旅に出ておるような環境だけのことかもしれぬ」。

堀田が「他の著作においても繰り返し表明」している、「体制順応的な態度を日本人の特性である」ということを、米騒動とロシア革命を比較することで巣山は気づいている。しかし、「とにかく日本という国には、貧乏人や寒晒しの我々などが如何に怒ってみても、その怒った顔を、氷が解けるように、いつのまにか、なにかは知らんが解いてしまうような仕掛けが備わっておる。我々自身の方にも、何かしらん、ケロリとなるようなものが備わっているようである」と、宿命論へと流されていく。

「戦前から戦中、および戦中から戦後にかけての日本人知識人の転向の問題を扱った」『記念碑』とその続編の『奇妙な青春』においても「あらゆる対立を「中和」し、状況への追従を促す日本の思想風土が、登場人物によって批判的に考察される」ように、堀田はこの「体制順応的な態度」を「庶民」に、あるいは「知識人」に独特のものとしてではなく、「庶民」から「知識人」にいたるまで日本社会に遍くこびりついているものとして描いている。

丸山真男もまた日本社会の欠点として既成事実への屈服をあげていたが、英諦の伯父はまさにこの既成事実を「所与のもの」として無批判に受け入れ、「事実を変えようという意志」をまるで持たず、さらにはそれを利用さえして恥じないのである。この点で伯父は極めて日本人(あるいは日本社会)的な造形が与えられているとしていいだろう。


英諦は「一九二七年の反革命クーデターにより革命運動に挫折した経験を持ち、かつ中年に近い年齢に達し」、「もはや行動に純粋な情熱を傾ける若い世代には属していない」ように、英諦は「革命家」ではない。しかしまた、伯父のように「ニヒリスト」へと堕ちていったのでもない。

「英諦は乱世に対する向き合い方として、「何をなすか」ということよりも、「何者であるか」ということに重点をおいていた。他方で、英諦は宿命論を戒め、絶望的な状況のただ中で「希望する義務」を説いていた。つまり、英諦にとっての「あるべき自己」とは、状況を可変的なものとして捉え、未来に可能性を見出す態度とほぼ同義である」。

英諦はなんとか家に戻るが、そこはすでに日本軍に接収されていた。新たに家の主となった桐野中尉は英諦を「下僕兼門番兼料理人」として扱うが、英諦が知識人であることを知ると態度を一変させる。「Mr. Chen」と英語で呼びかけ、「召使の仕事をやめて三階の自室に戻るように懇願する」。英諦はこの申し出を拒否し、「主体的に奴隷の立場を選択する。その理由は、奴隷としての立場にとどまることこそが「奴隷から最も遠い精神」であると考えるためであろう」。

英諦はこう書く。「けれども中尉は、――皮肉なことに、ほかならぬこの中尉が、わたしの頭と思想と身体とを、奴僕の位置へはっきりと還してくれた。しかもそこへ還ることによって主権をも恢復してくれた」。

竹内好は「近代とは何か(日本と中国の場合)」で、「ドレイは、自分がドレイであるという意識を拒むものだ。かれは自分がドレイでないと思うときに真のドレイである」としているという。「他国の占領下にあるにもかかわらず、日本人将校の友人であるかの如く錯覚し、奴隷でないかのように振る舞うことこそ真に奴隷的なのである」。英諦は「奴僕」にとどまることによって、奴隷になるのを拒んだのであった。

英諦はかつてのような「革命家」には戻れない。しかし彼は伯父のように状況に迎合するのでもない。彼は「沈黙」を選ぶ。「桐野に対して沈黙を貫くことを決意する」のは、英諦にとって「雄弁な抵抗の意思表示である」。英諦はこう書いている。「しかし、沈黙とは、一つの言葉なのだ。何かをそれは意味する。黙ることは語ることだ。唖社は黙っているのではない」。

そして英諦はただ沈黙するだけではない。「スパイ」として、「地下室に無電機を持ち、国民政府と交信」を行うのである。

「未来に希望を持つことは、現状を拒否し、現状を変える可能性にコミットすることと同義である。しかし、絶望的な状況の下にある人間は、ペシミズムやニヒリズムに傾斜しがちであり、容易に希望を持ちえない」。

「英諦自身もニヒリズムから自由であるわけではない。とはいえ、英諦は、「希望の方は、希望する義務があると確信するから、だから漸くにして持ち得ているのである(略)希望は、ニヒリズムと同じほどに、担うに重い荷物なのだ。われわれは死ぬまでこの荷物を担ってゆく義務がある、そう思っているのだ」と、「自らに「希望する義務」を課す」。


東京大空襲後の1945年3月18日、堀田は「廃墟での奇怪な儀式」を目撃した。「小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た」。多数の人々が集まり、土下座をし、涙を流しながら「陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申訳ない次第でこざいます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていた」。

堀田は『方丈記私記』にこう書いた。
「私は本当におどろいてしまった。私はピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちらと眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろう、と考えていたのである。こいつらぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか、と考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こり得るのか!」

堀田は「日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったにしても(略)体制は維持されるであろう」と、絶望にかられた。

堀田がこの後に危険を冒して上海に向かうのはこの絶望からだともされる。堀田は上海に出た方がヨーロッパに脱出できる可能性があったからだとも語っていた。しかし堀田が上海に渡り何をしたのかといえば、武田泰淳らと共に日本の宣撫工作、つまりプロパガンダを担う仕事に就いたのであった。武田との対談『私はもう中国を語らない』を読めばわかるように、堀田は当時の状況を考えれば仕方がなかったのだとこのことに居直っているのではない。この事実を重く受け止め、さらに日本に協力させられた中国人は戦後に「漢奸」つぃて裁かれたが、この中国人たちを日本が見捨て日本社会が忘れ去ったことへの憤りを持ち続けた。

武田も堀田も当地で醜悪なプロパガンダを行ったのではないが、とはいえ形のうえではこの一端を担ってしまったのもまた事実である。つまりは、堀田自身も抵抗としての「沈黙」さえも貫くことができなかったのである。堀田は自らの振舞いを含めてこの事実を直視し、日本人の知識人がいったい何をし、何ができなかったのかを考え、『時間』において中国人知識人の陳英諦を描くことでこれと対比しようとしたのであろう。

「明らかに堀田は、巣山の宿命論への傾斜を日本人に支配的なメンタリティーとして位置づけている。そして、そのことを前提とするならば、スパイとなり抵抗を貫く陳英諦の姿勢に日本的なメンタリティーのアンチテーゼを認めることは困難ではなく、その点に、堀田が『時間』と『夜の森』を通じて考察しようとした「われわれにとって「革命」とは何であるか?」という問いに対する答えを見いだすことができよう」。


堀田にとって、体制順応、宿命論へと流れる、もっといえば長い物には巻かれよといったメンタリティーがあらゆる層にこびりついている日本社会を描き出し、そのうえでいかに「希望」を見出していくのかは小説家として生涯をかけたテーマの一つであったのだろう。

英諦は仲間であるはずのKが実は二重スパイなのではないかという疑念にとらわれるが、様々な思惑、陰謀が渦巻く上海滞在経験からくる「スパイ」という存在の不安定さというのも、とりわけ初期の作品によく見られたものであり(スパイであった経験を基にして小説を書いているジョン・ル・カレにおけるそれとも通じるところがなきにしもあらずであろう)、『時間』という作品は様々な点からも堀田の代表作とすべき作品である。

底が抜けてしまったかのような現在の日本社会であるが、体制順応的で、「状況を可変的なもの」だと思わないばかりか、進んで既成事実に屈服し、阿諛追従するだけでなく私欲と結びつけ、奴隷となりながらそれを意識さえしないというのは実は日本社会のその底流に一貫してあるもので、それが近年になってグロテスクに再び露出したにすぎないとすべきだろう。時代遅れになったかに思われた戦後派であるが、皮肉なことに、今またその問題意識が共有できるようになってしまったのである。


……と、まとめて終わってもいいのであるが、やはりこの『時間』という作品にはひっかかるところがあるし、ひっかかりを感じなければならないとも思う。

まず何よりも、南京大虐殺を背景にした物語を、日本人作家が日本語で、中国人の一人称で描くという手法の倫理的問題を放置してはならないであろう。原爆投下に関わりその後罪の意識に捉われたイーザリー(これも現在では慎重に扱わなくてはならない事例でもある)にインスピレーションを得て書かれた『審判』にしてもそうだが、あえて堀田の「蛮勇」を評価することもできるものの、そうであったとしてもこの点に無批判になってはならないだろう。

これとも関連するが、『時間』という作品は明らかに日本社会を意識して書かれたものであり、今読んでもあたかも現在の日本社会に向けて書かれたかものであるかのように感じられるのであるが、しかしそれは裏を返すと、南京大虐殺という固有性を奪うことにもつながりかねない。本書の分析のように登場人物たちを類型的に分類することができてしまうのは、普遍性へとつながるものであるが、具体的な惨劇を「抽象的、観念的」にしてしまう危険性もある。

「序論」で川村湊、富岡幸一郎、柘植光彦による2005年に行われた座談会「戦後派の再検討」が取り上げられており、ここで戦後派が読まれなくなった理由の一つに、「抽象的、観念的な戦後派の作風は、イデオロギーが崩壊した今日においてはリアリティを持たないうえ、エンターテイメント性も欠如しているため、特に女性読者には受けないと指摘されている」(三人とも男性の座談会でこの文脈で「女性読者」を持って来るのはいかがなものかと思うが)。

また「柘植は、戦争体験を持つ戦後派の作品は「被害者的な発想」が強く「加害者体験」があまり書かれていないと指摘している」。「多くの戦後派がアジアにまつわる体験を持ちながら、アジアの扱いが手薄であることが指摘される。他方で、武田泰淳、堀田善衞についてはアジアを描いていることは認めつつ、作品全体が抽象性、観念性に傾斜し、具体性が消去される傾向が指摘されている。たとえば富岡幸一郎は、堀田について、「中国を舞台にして、自分もそういう場所にいたんでしょうけども、作品そのものはある種の抽象性というか観念性というのが、とても色濃くあって、出来事そのものの記録というよりはある種の普遍性をとにかく勝ち取りたいというような傾向がある。(略)中国で、南京で何人殺されたかというようなそういう具体性がむしろ消されているようなこともある」と指摘しているという。

この座談会を読んでいないので富岡がどういう意図でこの発言をしたのかはわからないが、少なくともこの部分に関しては的を射たものであろう。

このように堀田をはじめとする戦後派には現在から見ると様々な限界があるのは確かだが、これは戦後派の仕事が無効になったのを意味しているのではない。戦後派の限界を見据えつつ、その問題意識をいかに批判的に継承していくのかがまた問われるべき時代が来てしまったのであり、その問題意識を回避してしまえば、日本社会は英諦の伯父のような人物が蔓延るばかりになってしまうであろう。



「一番病」と日本の官僚

鶴見俊輔の『埴谷雄高』に、2003年に行われた高橋源一郎との対談、「『死霊』の新しさ」が収録されている。ここから鶴見の発言を、長くなるが引用してみたい。



 一番という問題が、埴谷を論じるときに大変重要なんだ。
 というのは、私のおやじがずっと一番なんだ。一高英法科一番なんだよ。食卓でいつでもその話をする。ところが、私の息子が史学者で、ほかのことを調べていて官報をひっくり返していたら、偶然高文(高等文官試験)の成績が出ていた。私のおやじは二番なんだ。そのことは決して食卓で話題にしないんだ。気の小さい男だな。
 私は長く家を出ていたんだけど、おやじが倒れてからしばらく世話をしたことがあって、金庫をあけたら遺言が出てきた。それは昭和十一年の遺言で、二・二六だ。その遺言が最後だった。つまり、昭和十一年まではやる気があったんだよ。殺されてもやろうと。あそこで終わっちゃったんだ。それが彼の人生を非常によくあらわしている。結局、翼賛会で、東京を爆撃したアメリカ兵を死刑にしようとか、そういうところまでいっちゃうんだから、一番はあてにならない。
 なぜ一番はあてにならないかというと、明治五年にかかわるんだけれども、先生にただ一つの答えがあるという信仰を教えられたことなんだ。問題を先生が与えると、あおのただ一つの正しい答えは先生の心の中にある。そうすると、「はい、はい」と手を挙げる人間は、大体学者犬の集団になるんだよ。学者犬は、三百六十五たす三百七十三というとパッと当てる。それは調教師の顔を見ているから、答えがちゃんと書いてあって、それで当てる。似たようなことで、教師がそこにいると、正しい答えを念写する習慣なんだ。(笑)



一年のときから東大を出るまでずっと続くと、その間に教師がかわるから、転向また転向、無限の転向を繰り返す。転向が体の習慣になっちゃってるから、不思議と思わないんだよ。転向するのが本当の自分なんだから。
 官僚になって高文に行くでしょう。大正時代だったら、美濃部憲法で通るんだ。今度はナチスがヨーロッパに出てきたから、カール・シュミットの法学とか何かが入っちゃって、美濃部さんは国法に反すると裁くんだ。美濃部憲法で上がった人間が、美濃部さんを裁くんだ。美濃部達吉にとっては相当屈辱だよ。
 ところが、美濃部の自伝の中に出ているけれども、昔の先生だから、調べが終わったら鰻丼をとってくれた。つまり、先生がウナギを好きだということは知っているんだ。そのウナギを食べてほっとしたと美濃部さんは書いている。その気合だね。
 つまり、それが問題なんだ。ウナギは食べさせるだろう。しかし、美濃部憲法で通った人間がこれを裁くことが平気でできる、一種のサイボーグになっちゃっている。それが一九三〇年代でしょう。
 で、負ける。アメリカにぐっと変わる。それまでにずっと修練ができているから、平気なんだ。だから、日本の指導者の要請ということについては、何も変わっていない。マッカーサーの占領は、ひびをいれただけなんだ。




現在の日本社会を見ていると一九三〇年代から何も変わっていないのではないかという気になってしまうのであるが、これは官僚の生態という点でもそうなのかもしれない。

「美濃部憲法」を学び官僚になった連中が、天皇機関説事件が起こると何の抵抗もなくこれに迎合し、美濃部達吉の排撃まで行うようになる。かつての恩師にウナギをごちそうするように、芯までファナティシズムに染まったのではなかったのだろうが、これはこれでぞっとすることである。「一番」になるため、つまりは出世のためなら、どれほど愚かな主張であろうと積極的に協力するようになる。そしてアメリカが勝てば、なんの躊躇いもなくまたそちらに乗り換えるのであった。

「マッカーサーの占領は、ひびをいれただけ」とあるように、あれだけ破滅的な帰結を迎えたにも関わらず本質的な部分は生き延びており、その最も醜悪な部分が表に露出するようになってしまったのである。


『パノニカ  ジャズ男爵夫人の謎を追う』

ハナ・ロスチャイルド著 『パノニカ  ジャズ男爵夫人の謎を追う』






僕はジャズには疎いもののジャズ関連の本を読むのは割と好きなのだが、ジャズについての本を読んでいると、ビッグネームではないもののよく出くわす名前というのがあり、気になってはいるのだがよくわからない人物というのが幾人かいる。本書の主人公もその一人だ。

クリント・イーストウッド監督の『バード』に登場するパトロン女性といえば、「あぁ」と思う人も多いだろう(イーストウッドは映画を撮る際にパノニカに実際に会い取材している)。チャーリー・パーカーの最期を図らずも看取ることになりスキャンダルを巻き起こし(皮肉なことにというべきか、ニカはパーカーとはとくに親しいわけではなかった)、何よりもセロニアス・モンクのパトロンとして有名なのが、ニカことパノニカである。

著者はニカの兄の孫にあたる。身内の伝記を書くというのは有利な部分と不利な点とがある。なんといっても身内ゆえに得られる貴重な資料や当事者の証言というものがある一方で、とりわけ血縁者からよく思われていない人物の伝記を書こうとすれば、身内ゆえの障害に出くわすことにもなりかねない。とりわけあのロスチャイルド家のような秘密主義の家系の一員であればなおのことだろう。

ハナが11歳の時、祖父のヴィクターからブルース・コードを教わっていたがうまく弾くことができなかった。ヴィクターは「お前は私の妹みたいだね。ジャズが好きだけど、弾き方を覚える気がない」と言われる。この時初めてパノニカという名前を知るのであった。ヴィクターとニカの姉のミリアムに「ニカってどういう人なの?」と質問すると、「下品ね。妹は下品な人間よ」と言って、それ以上詳しいことを話そうとはしなかったが、電話番号は教えてくれた。1984年、22歳になったハナはニューヨークに渡りニカを訪ねた。「名門一族の期待(現実のものも、想像上のものもあったが)に応えられない落第生のようだった」と感じていたハナは、一族の鼻つまみ者になっていたニカに心惹かれるものがあった。

その後念願のBBCに職を得てドキュメンタリーの製作をするようになったハナは、88年に取材でニューヨークへ行くことになり、ニカと三晩一緒に過ごす約束をし、質問も準備していた。しかしニカは急逝し、インタビューは叶わなかった。ハナはその後『ジャズ男爵夫人(The Jazz Baroness)』というラジオ番組とドキュメンタリー映画を製作し、さらに本書を書くことになった。ハナはこの間何度も尋ねた。「ニカ、あなたは何者なの? ヒロイン、それともただの酔っ払い? 自由の闘士、それとも単なる道楽者? 反逆者、それとも犠牲者なの?」

本書の前半はロスチャイルド家の来歴にあてられているが、やはりニカという人物について考えるにはこの歴史に触れざるをえないのであろう。

イギリスのロスチャイルド家は20世紀に入ってガタがきていたことは誰の目にも明らかであった。ニカらの父チャールズは鬱を患い自ら命を絶った。ニカの姉リバティーも精神を病んだ。ミリアムはこれをロスチャイルド家が繰り返してきた近親婚の結果だと考えていたようだが、それ以外にも原因は考えられるだろう。ロスチャイルド家は時代の変化に対応できていなかった。財産と仕事は男子のみが相続することが許され、娘婿でさえ跡取りにはなれなかった。また結婚相手はユダヤ人しか認めなかった。このようなルールを維持する限り深刻な跡取り不足に直面するのは時間の問題であった。さらには男は仕事と莫大な富を相続するプレッシャーと罪悪感もつのることになり、女は旧弊な習慣によって圧迫されていく。

それでも時代の変化はロスチャイルド家にも訪れた。1920年代に大富豪の娘が働くということ自体がスキャンダルであったが、ミリアムは科学者となる。ミリアムの弟ヴィクターは大学時代に左傾化し、ガイ・バージェスやアンソニー・ブラントと友人になり「アポストルズ」に加わる。後にバージェスとブラントがソ連のスパイであったことが判明すると、ヴィクターも長年疑惑を向けられ続けた。ヴィクターは音楽好きであり、これは妹のニカに強い影響を与えた。第二次世界大戦中はMI5に加わり、ピアノで鍛えた手先で爆弾処理を行い勲章も授与された。「テディ・ウィルソンとアート・テイタムのコードをコピーしていた年月は、そうした手の込んだ仕事をするのに理想的な予習になったとヴィクターは公言していた」。

ヴィクターはまた科学の分野でも研鑚を積み、ミリアムと共に姉弟が二人そろって王立協会のフェローとなったのは史上初めてのことだった。ミリアムは、「ずっと私の方が弟より優秀な動物学者だった」にも関わらず弟に先を越されたのは、「女性に対する偏見が主な理由だったと思う」としている。社会主義者となったヴィクターは家長となると美術品などの多くを処分し、労働党の上院議員となり、これまでのロスチャイルド家のあり方と決別した。

ではニカはどのように育ったのだろうか。むろん物質的には何不自由なく成長した。しかし周囲をぐるりと乳母などに囲まれ一人になることはなく、現実的な生活能力の育成とは完全に無縁であった。幼い頃に直面した父の鬱と自殺はその人生観に影響を与えたことだろう。「ニカは若い頃から、自分自身が必要としていることや、持って生まれた生命力を抑圧すると、結果的に自滅という恐ろしい事態になることを理解していたのだ。やがて彼女が、不幸な生活に閉じ込められることを拒否した理由の一つがこのことだった」。

しかし研究に打ち込んだミリアムと違い、自分を解き放ってくれるものを見つけることはなかなかできなかった。社交界の花として、ヨーロッパ各地のパーティーに出る日が続いた。

「あるロスチャイルド家の親族がそこで開いた昼食会で、ニカは未来の夫と出会った。女性たちが取り仕切っていた家庭で育った父親のいない若い少女にとって、ジュール・ド・コーニグズウォーター男爵は素晴らしく頼りがいのある魅力的な男性に思えた」。

ユダヤ人のハンサムな男やもめのジュールはフランス銀行で鉱山技師として働いていた。コーニグズウォーター家は「国から国へと苦もなく移動していたコスモポリタン・グループの一員」で、オーストリアが出自であったがフランスで一世紀以上にわたって暮らしていた。「一族には多少の資産はあったが、ジュールは自分の分は働いて稼がねばならなかった」。

ニカはたちまち夢中になったが、後に「異常なまでに時間厳守にこだわり、権威主義者で、ほとんどユーモアを解さない男」と振り返っている。家族は二人の性格の違いを案じて慎重に振舞うことを求めたが、ニカにとってはここから連れ出してくれる男に思えたのかもしれない。そして第二次世界大戦が起こらなければ、結婚生活に不満を抱えたまま一生を終えたことになったのかもしれない。

ナチスが台頭したが、ヨーロッパのユダヤ人の多くが直ちにパニックに陥ったのではなかった。正常化バイアスとでもいうものに捉われ、危機を察知することができなかった。多角的に情報を得るのに長けているはずのロスチャイルド家でも、ヨーロッパを脱出した者もいたものの、特権階級であるがゆえにかえって危機感に欠けていた人が多く、ニカもその一人であった。1939年になってもなお、「富のカーテン」を降ろし、現実を直視しなかった。

城の男たちは次々と入隊していき、ついにジュールも、「海岸まで行く方法を説明した手書きの地図を妻に残して」入隊した。翌年6月にフランスがドイツに降伏するとジュールは任務を辞し、「士官、下士官、有志から成る百十名のグループをまとめ上げ、ポーランド船ソビエスキー号でかろうじてイギリスに渡り、自由フランス軍に志願した」。

しかしこの期に及んでなお、ニカは子どもたちとフランスに留まり続けた。城に残っていた男は太った料理長だけだった。城に難民を受け入れていたので、さすがに事態の深刻さをある程度はわかっていたのであろうが、ニカはそれでもここにとどまり続けた。おそらくは、「騒ぎ立てないようにと躾られ、無垢で、世間知らずで、昼食を入れた籠を抱えた〝あひるのジマイマ〟のように育っていたニカは、悪意ある古ギツネのようなナチがもたらしていた危険に気づかなかったのだ」。

ジュールから脱出するよう連絡が来てようやく城を離れることにしたが、脱出を拒んだ義母はその三日後に到着したドイツ軍に捉えられ、アウシュヴィッツでその生涯を終えることになった。

ニカは大量の難民にまじって苦難の末なんとかイギリスへ辿り着いた。チャールズはMI5で働き、ミリアムもアラン・チューリングの暗号解読チームに加わっていた。しかしニカはジュールに命じられアメリカへと渡った。「依然として夫の指示に縛られているように感じていた」。アメリカでで母親が心臓発作で亡くなったという知らせを受けたが、母の葬儀に参列することができなかった。そしてニカはイギリスへ戻ることを決意する。そればかりか、「戦いの前線で積極的な役割を果たそうと決心したニカは、夫と一緒に自分も戦うことができるはずだと信じ、自由フランス軍に入隊することにしたのである」。

ニカは夫のもとに送ってほしいと懇願したがにべもなく断られた。徴兵された女性はロンドンに留まることになっていた。しかし軍事訓練も受けておらず、「これまでの人生で予習してきたのは、ダンスのレッスンと狩猟での勇敢さだけ」、「過酷な状況で身を守る手段もなく、生き延びる方法も知らな」かったものの、ニカは独断で北アフリカへと渡った。

「ニカは医学上の注意事項をまったく無視した。アフリカについて数週間のうちに、マラリアに感染し、日射病になり、彼女ひとりが責任をおうべき車の事故であわや死にかけ、何週間も野戦病院に入院して治療を受けた。ところが、彼女はジュールをついに見つけたのだ。夫とその上官が、予想もしなかったニカの到来とその無謀さに仰天し、そのショックがおさまると、ニカに暗号解読と操縦士の仕事を与えた。噂によれば、彼女はアフリカでランカスター爆撃機を操縦したという」。

戦時中のニカの行動には不明な点が多い。42年には危険を冒して大西洋を渡りアメリカに行った。残してきた子どもたちに会うためだったようだが、奇しくも「デューク・エリントンのジャズ・シンフォニー『ブラック・ブラウン・アンド・ベーシュ』の初演とぴったり一致していた。ニカの話では、まるで神のお告げのように、この曲はその日限りの講演だったという」。ニカはまたも危険を顧みずにアフリカへと戻り、凄惨な戦いをくぐり抜ける。

一方夫のジュールは、「平時にはニカを心底いらつかせていた、まさにその人格上の特徴が、戦時中は尊敬すべき対象となったのだ。決断力があり、勇敢で、独裁的であることが、軍隊の指揮官として欠くべからざる資質だったからだ」。

戦後ジュールは二番目に高位にあたる解放勲章を授与され、ニカも「叙勲され中尉となった」。ジュールは外交官となり、ノルウェーなどに滞在した後、メキシコに移ることになった。戦後も三人の子をもうけたように、夫婦関係が破綻していたのではないだろう。しかしまた、「ますます辛く、絶望的になっていたニカは、逃げ出す道を探していた」。

「人生のあるときに、神のお告げを聞いたという話をした方がいいかしら?」、「聞こえたの。私には聞こえたのよ。そんなこと、あなたには想像できる?」 ニカは後にそう語った。

ニカは何かと理由をつけてはニューヨークに赴いていた。テディ・ウィルソンと別れの挨拶をしてメキシコへ戻ろうとしていた。するとウィルソンはセロニアス・モンクという若いアーティストのことを聞いたことがあるかとたずねてきた。ニカが聞いたことがないと言うと、ウィルソンはモンクのレコードを買ってきて彼女に聴かせた。「私は自分の耳を疑ったわ。そんな音楽は、これっぽっちも聞いたことがなかったからよ。そのまま続けて二十回も、そのレコードを聞かずにいられなかった。おかげで飛行機に乗り遅れたのよ。要するに、家には帰らなかったというわけ」。

モンクの「ラウンド・ミッドナイト」を聴き、ニカはメキシコには戻らずに、この男を見つけようと決心した。

当時モンクは苦境にあった。ヘロインで逮捕されキャバレーカードを失いほとんど仕事ができない状態であった。そのためニカは探し求めていたこの男となかなか出会うことができなかった。二人がようやく出会えたのは54年、パリでのことだった。これ以降はジャズの伝説、あるいはゴシップとしてよく知られたものとなっていく。

ニカは謎めいた、あるいはスキャンダラスでエキセントリックな男爵夫人として好奇の目にさらされながら、モンクをはじめとするジャズ・ミュージシャンのパトロンとして生きていくことになる。

高位の外交官の妻という地位ばかりか子どもたちとも別れ(その後も子どもたちとの関係はそう悪くなかったようである)、単身ニューヨークでホテル住まいを始めるという突飛な行動へとニカを突き動かしたのは一体何であったのだろうか。ジャズといえばある世代の人にとっては自由の象徴であろう。ニカが求めたのはまさにこの自由だったのだろう。もちろん、所詮は特権階級にのみ許された道楽に過ぎないと冷ややかに見ることもできる。ニカは一族の鼻つまみ者となり、当人としては金銭面に不安を抱えるようになる。しかしロスチャイルド家はニカを見捨てたのではなかったし、ニカも一族と縁を切ったのでもなかった。ロスチャイルド家もニカも、かつてのような豪勢な暮らしはできなくなったが、それは比較の問題で、とりわけ黒人のジャズ・ミュージシャンからしたら、彼女は考えられないほどの大金持ちであった。またモンクもそうであったが、ニカも公民権運動などへの関心を持っていなかった。アメリカの黒人による自由を求める闘いに加わったのではない。

だがまた、ニカは単に充たされない心を埋めるためだけに、金をひけらかして黒人ミュージシャンたちをはべらせていただけではないのは、デラウェア事件からわかる。

ニカはボルティモアでのギグのためにモンクを車で送ることになった。前立腺の不調を抱えていたモンクはデラウェア州に差し掛かるとトイレに行きたいと言い出した。差別が色濃く残るここで黒人が使えるトイレを見つけるのは容易ではないとはわかっていたが、モンクが言い張るので高速を降りて街で黒人が使えるトイレを探すことになった。白人女性が運転する高級車に黒人男性が乗っている、これだけで警察の注意を引くには十分であった。因縁をつけられモンクは暴行を受ける。ニカも警察署に連行され荷物を調べられた。そこにはマリファナがあり、ニカはモンクをかばうためにこれは自分のものだと主張した。その結果ニカは十年以下の懲役、高額の罰金、そして釈放後の国外追放という危機に直面した。

姉のミリアムはニカに会いにニューヨークまでやって来た。モンクとも会ったが、彼はミリアムとの面会に不安を感じすっかりハイになっていた。ミリアムは「いつも通り冷静」に、「気にしないで。私にはわかる。彼は天才よ」とだけ言った。このようにロスチャイルド家はニカに支援の手を差し伸べた。

ロスチャイルド家の依頼を受けた弁護士のおかげで判決は先延ばしになったが、ニカは不安を抱え続けることになった。ニカにとってジャズやモンクとの関わりがただ鬱屈した人生の気晴らしであれば、そのままイギリスに戻り、アメリカでの出来事をきれいさっぱり忘れることもできただろう。しかしニカはそれを拒否して、アメリカに残り裁判に挑んだ。ニカはこれが差別によるものだと考えており、それと戦う覚悟を決めたのであった。判決は弁護士の戦術も功を奏し、警察の手続きの不備によって無罪を勝ち取った。


モンクも亡くなり、ジャズをとりまく環境もすっかり変化したが、ニカの情熱が衰えることはなかった。80年代に入り、ハナがニューヨークに着いて大叔母に電話をかけると、「即座に最新ニュースを詳しく語り始めた。特定の人物の話や、暴露話のようなものではまったくなく、音楽の世界で今何が起きているのか、という自分の興奮を単に解放しているだけのものだった。つまり誰々が、どこそこのクラブに出演しているとかいう話である。「そこはすごく面白いのよ。じゃ、そこで会いましょう」。それから多くのロスチャイルド家の人間がそうするように、何の挨拶もしないで、いきなり電話を切るのだ」。

ニカが常人には理解し難いエキセントリックな人物であったことは間違いないし、平均的、あるいは正統的なジャズファンでもなかったのかもしれない。しかしこのエピソードからも彼女が心からジャズを愛したことは間違いないであろうし、それはジャズが彼女を自由にしてくれるものであったからなのだろう。



本書の原著刊行は2012年だが、2011年にはNica's dreamという別の伝記も刊行されている。またニカがプライベートで撮った写真とジャズ・ミュージシャンたちに行った三つの質問を没後にまとめられたものは『ジャズ・ミュージシャン3つの願い ニカ夫人の撮ったジャズ・ジャイアンツ』として邦訳も出ている。

ニカの生涯は前半生と後半生をそれぞれ映画化できそうどころか、その生涯は長尺の大河ドラマにでもしたくなるほどで、やはり関心を持つ人は少なくないのだろう。


ハナ・ロスチャイルドによるThe Jazz Baronessは某所に上がっているので関心のある方はそちらで。また『セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー』でもニカの映像が短いながらも確認できる。






『ただの文士  父、堀田善衛のこと』

堀田百合子著 『ただの文士  父、堀田善衛のこと』





サブタイトルにあるように、堀田善衛の娘による父の回想。武田泰淳が私小説風の作品にしたこともあって善衛と妻となるれいが出合い結婚するまでの複雑ないきさつ(三角関係ならぬ四角関係)というのは知られているが、本書ではそのあたりの生々しい話にはあえて触れず、父とのほのぼのとした日常を中心としたエッセイになっている。名前の由来についても語られているが、考えてみれば武田の結婚相手と同じ百合子と名付けたのもなかなかの話であるのだが、そのあたりも深められてはいない。そのあたりは食い足りないという人もいるかもしれないが、また本書の堀田善衛の姿も偽らざる素顔であったのだろう。


1971年、堀田は朝日新聞に『19階日本横丁』の連載を始める。初めての(そして最後の)新聞連載を前に、「週刊誌と同じだ。一週間分いっぺんに書く。毎週月曜日は締め切り日、火曜日に朝日のお使いさんに渡す」と「自信ありげ」に言ったが、「私も母も半信半疑、そんなにうまくいくわけないと思っていました」。

「なぜ月曜日が締め切りなのかといえば、月曜日はプロ野球の試合が休みなのです。/父は無類の野球好き、スポーツ観戦好き。毎日、プロ野球中継をテレビで観戦します。テレビの音は消して観ます。そしてラジオの野球中継を聴きます。テレビとラジオ、それぞれ別の試合です。要するに二つの試合を同時に観て、聴いているのです。忙しいのです。夕食のときは、母からテレビ観戦を禁じられていました。テレビが主、食事が従となるからです。父は仕方なく、ラジオを椅子の後ろにおき、野球中継を聴きます。/これが大音量、うるさいのです。おちおちご飯も食べていられません。/食後、父はスポーツニュースの梯子をします。これが終わらないと、書斎には行きません。月曜日、父は野球に後ろ髪をひかれることなく、書斎へ行くことができます。月曜日が締め切り日となったのは、そういう事情があったのです」。

結局この連載は「滞ることなく続いた」そうだ。本書でも詳述されるように堀田は晩年にいたるまで勉強勉強、ひたすら勉強という感じの人でもあっただけに、これほど野球に時間を割いていたとは驚きだが、逆にこういう時間でも作っておかないと新聞の連載などやってられないのかもしれない。

溺愛した愛犬のエピソードにしても、大岡昇平の『成城だより』を見てもそうなのだが、堀田を含めたいわゆる「戦後派」の作家というのは生真面目なところと「俗」な部分というか、可愛らしいというか、少年っぽさも持ち合わせていたのも特徴の一つであろう。

武田百合子の『富士日記』についても書いたが、このいつまでたっても少年っぽい雰囲気が残っているのは微笑ましくもあるのだが、また日常的な雑務を妻などに投げっぱなしという形を取ることもあり、堀田にしても例外ではない。1977年に堀田夫妻は船でスペインへと旅立った。船での別れの際にれいは留守中のことを細々と指示するなど、娘をなかなか離そうとしなかったが、善衛は「あとは頼むな」とだけ言って妻を連れて船の中に消えていった。「中途半端に母との会話を打ち切られた私は、船室の入口で唖然として、父の飄々たる後ろ姿を見送りました」。

善衛はもともと多弁ではなく、「少ない言葉の中に、言いたいことの多くを込め、その言葉の十ではなく十一わかれというふう」であったが、せいぜい一年程度だと思っていたこのスペイン滞在が十年続くことになろうとは思いもよらなかった。娘にかけた「あとは頼むな」には、「この一〇年にわたる留守宅の管理、犬の世話、その他事務もろもろ、多くのことを含んでいたのでした。言われたその瞬間にその言外の意をくみとれなかった私は、どうせ頼むならもう少し何とか言葉を尽くしてほしかったと、後々ほぞをかんだものでした」。

善衛は事務的な仕事もできるが同時に浮世離れしているようなところもあり、周りは振り回されるのであるが、それでもやはり憎めない人でもあるといった感じであろうか。


スペイン滞在中の両親を訪ねると母からたっぷり愚痴をきかされるが、その中にこんなものがある。「突然、日本人が二人訪ねてきたの。一体誰が住所を教えたのかしら。しかも、夜中まで飲みっぱなし、閉口したわよ。お父さんに言わせると、英文学者としては大変優秀な人らしいけど、ものすごい酔っぱらい。もう一人は闘牛を撮るカメラマン」。

これは永川玲二と佐伯泰英のことだろう。どちらも未読であるが、堀田の『オリーブの樹の蔭に』と佐伯の『惜櫟荘だより』にはこのあたりの交遊について書いてあるようだ。こちらに書いたように、丸谷才一が徴兵忌避者を描いた『笹まくら』は、永川の徴兵忌避からインスピレーションを得たとされているし、永川という人もまた面白い人であったようだ。妻としてはうんざりしたのかもしれないが、堀田と永川がどんな会話を繰り広げたのかは興味深くもあるのでこれらもそのうち読んでみたい。ほんとにただ酔っぱらっていただけかもしれないけれど……






「スペイン在住時、父の大切な相方は、母でも私でもありませんでした」。

その一が「IHI、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」であった。「引っ越しをすると、何よりも一番先に、パリのヘラルド・トリビューンに手紙を書き、住所変更をします。新聞は郵便で届きます。まとめて二、三日分来たり、空港や飛行機がストライキに入るとまったく来なくなります。そのたびに、IHIは何をしている、どうなっていると文句タラタラでした。/父のヨーロッパ諸々の情報のネタ元は、主にヘラルド・トリビューンでした。政治経済欄はもとより、株価、文化芸能、書評、広告、隅から隅まで読みます。日本でも、新聞は父の大事な相方でしたが、スペインにいても変わりないのです」。

「父の相方、その二。ラジオです。長波、中波、短波のすべてが入るラジオを、旅行にも持ち歩いていました。主にイギリスのBBC放送を聴いていましたが、ヴァチカン放送もお気に入りでした」。

「何か大きな事件が起こったとき、ヴァチカン放送の法王の見解は役に立つ」と言っていたそうだ。

ある日朝日の記者が訪ねてきたとき、定刻になると時計がピーピー鳴るので何かと尋ねると、BBCのニュースの時間をセットしてあったのだという。「ほう、そういう時計があるのか」と、「興味津々、かなり羨ましそうでしたが、さすがにタイマーの着いた時計を買うとは言いませんでした」。

堀田はスペインで『明月記』を読むというなんとも凄いことをしていたのであるが、堀田の代表作としていいであろう『方丈記私記』がそうであるように、現実に背を向けて古典に逃避するというのでは決してなかった。


「ジョン・レノンがニューヨークで殺されたとき、父はラジオから流れるビートルズの曲を一晩中聴いていました。/「悪い世の中だ。せっかく再出発をしたばかりなのに。ヨーコは無念であろう」/かつて父がジョン・ケージ氏と対談したとき、通訳はオノ・ヨーコさんだったそうです。「イエスタデイ」を聴きながら、ヨーコさんの話す日本語は素晴らしく美しかった、いい日本語だったと、話していました」。

「イエスタデイ」はポールの……というのはあるあるだが、オノ・ヨーコが通訳を務めたというのにはおやっと思った。こちらに書いたように、ドナルド・キーンは『自叙伝』で、ニューヨークで安倍公房と勅使河原宏と初めて会った際に通訳の女性も一緒にやって来て、日本語の会話ができないと思われているのかと憮然としたが、後にその女性がオノ・ヨーコであったことがわかったとしている。この件はもしかしたら「通訳」という名目で同席させて会話に加えようとしていたのかもしれないと書いたのだが、キーン激怒事件の真相はさておき、この頃オノ・ヨーコは通訳をよく務めていたのだろう。

堀田善衛は本書にもあるようにフランス語は読めるが会話のほうはさっぱりであったようだが、英語に関しては実家が廻船問屋だったこともあって幼少期からなじみ堪能であった。とはいえ専門的な会話をこなすにはまた別の能力を必要とするものであり、そのための通訳であったのだろう。堀田はフランス語や英語、さらに50歳を過ぎてから本格的に勉強し始めたというスペイン語で旺盛に読書をしており、昨今の日本にはびこる軽薄な英語ペラペラ幻想とは真逆にあった人でもあった。堀田は今の日本にはまずいないタイプの知識人であったが、その教養は生育環境によるものばかりでなく、70歳を過ぎてなお、モンテーニュについて書くためにラテン語を学び始めるというその姿勢によって形作られたものであったのだろう。


堀田百合子と鈴木敏夫の本書刊行記念の対談は前編はこちら、後編はこちらで聞ける。


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佐藤太郎(仮)

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