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『花埋み』

渡辺淳一著 『花埋み』






「日本最初の女医」、荻野吟子を描いた評伝小説である。「余談だが」、と渡辺は司馬遼太郎ばりに注釈をはさみこんでおり、「巷間、女医第一号として楠本いね子をあげる人がいるが、これは間違いである」としている。シーボルトの娘でもある楠本は確かに医学を学び産科を開業したが、この頃は「まだ医術開業試験のなかった時代である。したがって医術の心得のある者なら誰でも医療にたずさわり、医師を名乗ることができた」のであった。吟子自身が受験さえ拒まれた時に「奈良時代の大宝律令の注釈書というべき」、『令義解』の記述から日本にも女性医師がいたのだと訴えたように、「奈良時代の「医疾令」以来女医の記載は決して少なくない、特に産婆から転じたと思われる産科医は多かった」そうだ。つまり荻野吟子は、より正確にいうと、西洋医学を学び、新しく整備された国家試験を突破して国家資格としての医師になった日本最初の女性ということになろう。


埼玉北部の俵瀬、のどかな光景が広がるこの村にある噂が流れるようになった。村の名主である荻野家の末娘ぎんは三年前に川上村の豪農稲村家の長男貫一郎に嫁いでいたが、「嫁ぎ先から戻ってきているというのである。それも軽い里帰りとか、お産のため、というのでもない。ただ一人で風呂敷包み一つ持って帰ってきたというのである」。

荻野家の人々が口をつぐんだのも当然かもしれない。ぎんは「膿淋」、「現在でいう淋疾」を夫から移されていた。抗生物質がなかった当時は「一生治りきれない業病であった」。ぎんは嫁いですぐに罹り、症状の悪化に耐えきれず実家に戻ってきていたのだった。この村には松本万年、荻江という父娘が村塾を開いており、漢方医の心得があった万年はぎんの治療にもあたっていた。万年は荻野家でも長男などに教えており、ぎんは自分も学びたいと申し出る。万年はでは娘の荻江をよこそうと言った。「十五歳にはすでに『論語』を読みつくしたという才女」であった荻江は未だに独身であった。夫の元には戻らないことを決意していたぎんは離縁となる。子どもが産めない身体であるというのが表向きの理由とされたが、ぎんは釈然としないものを感じた。そんな中、「嫁に行き、子を産むことだけが女子の勤めではありません。女子でも学問をし、それで身を立てて悪いわけはありません」と語る荻江から強い刺激を受ける。ぎんは荻江の来てくれる日を心待ちにし、大いに学んだ。しかし荻江がまた来るまでの十日間を、肩身の狭い実家で、暗い気持ちで沈み込むのであった。

ぎんは万年に、思い切って東京で治療を受けたいと言った。万年には心当たりがあった。こうしてぎんは、順天堂医院で治療を受けるため東京へ出る。しかし、男性医師に局部を見せなくてはならないというのはぎんにとって耐えがたいことであった。「男でなく女の医者がいれば……」。「女医者がいれば私と同じように羞恥で苦しんでいる多くの女性が救われるのではないか」、「わたしが女医になって、その人達を救ってやることはできないものか」と、「ぎんに一つの思いが浮かんだ」。

約一年間にわたる治療を終えてぎんは実家に帰った。当時の医療技術では完治はなく、あくまで症状が治まっただけであった。この間に父は亡くなり、母も老け込んだ。家督を継いだ長兄夫妻とは折り合いが悪かった。ぎんは荻江に医者になりたいと相談する。しかし女性が学問をしているというだけで色眼鏡で見られる時代であり、教育制度も大きく変わったものの女性が教育を受けることは制度的に整っておらず、ましてや女性が医師になるなど誰も考えてもいなかった。荻江は学問をしたいという口実で東京へ出て、まずは学問的研鑚を積んではどうかと提案する。

猛反対に合い、勘当にも近い状態でぎんは東京へ出て、万年から紹介された国学者の井上頼圀のもとで学ぶ。すでに荻江から多くの教えを受けていたぎんはたちまち頭角を現し一目置かれる存在となる。そのぎんのもとに、女性のための教育機関である内藤塾から教師にならないかという話が舞い込む。ぎんはあることもきっかけになってこの仕事を引き受けることにした。

内藤塾で教えていたぎんのもとに荻江が訪ねてきた。女子師範学校が設立されることになり、荻江はそこで教鞭をとることになっていた。荻江はぎんに、医師になるという目標のためにもまずは女子師範学校で学ばないかと誘いに来たのだった。

ぎんは東京女子師範入校と同時に吟子と名乗るようになる。吟子は25歳と年長であったが、厳しいカリキュラムで脱落者が多数出る中猛勉強を重ね卒業した。卒業式の日、教授から今後の志望を尋ねられると、吟子は「女医者になりたいのです」と言った。しかし依然として医学教育は女性に門戸を開いてはいなかった。困ったこの教授は「当時の医界の有力者、陸軍軍医監督、石黒忠悳」を紹介した。石黒はいくつかあたってみたもののいい返事はもらえなかったが、ただ一つ、「好寿院」から引き受けてもいいという話があった。ついに吟子は念願の医学を学び始めるのであるが、真の苦労はここからといってもいい。ただ一人の女子医学生となった吟子は男子学生から凄まじい嫌がらせの数々を受けるのであった。

それにも屈せず三年間の過程を終えたものの、今度は医術開業試験の問題があった。そもそもから女性の受験者を想定しておらず、試験を受けることさえ拒まれ続ける。密かに応援していた母の死など精神的困難を乗り越え、石黒ら理解者の支援も受けて、ようやく受験を許された。明治28年、34歳になっていた吟子はついに「日本最初の女医」となった。


吟子の人生はまだ続く。様々な偏見や妨害にさらされながらも「産科婦人科 荻野医院」を開き、女性たちの治療にあたった。しかし吟子は次第に無力さも感じるようになる。「要するに医療以上のもっと大きな問題、貧困とか社会制度とか、慣習とか、そういったことを取り除き改めることが先決ではないか、それらを改めないで医術だけ先走りしたところでどうなるわけでもない、そんな風に思えるのです」。

吟子は次第にキリスト教に惹かれていく。ある演説会では、「日本人の耶蘇教徒が縁談に立ち教義の説明とその偉大さを語るが、それは現在の日本の社会制度への痛烈な批判ともなっていた」。また「異人」を怖れていたが、青い眼をした人物が日本語で語るのに驚かされ、しかも「すべて人間は神の御子で男女、職業の貴賤にかかわらず皆平等だとする考えは吟子の心を大きく揺さぶった」。吟子は治療を続けながらも、関心は社会問題へと移っていった。矯風会には発足と同時に加わり、風俗部長となって廃娼運動に取り組んだ。

このままいけば、吟子は後進の育成にも熱心な社会運動に取り組んだ女性医師として、現在よりももっと大きな存在感を持っていたかもしれない。しかしある日、志方之善という同志社の学生を泊めてほしいと頼まれる。ここから吟子の運命は大きく変わることになる……


僕は不勉強ながらこの小説の存在自体を知らなかったのだが、『読書で離婚を考えた。』で紹介されていて手に取った。円城塔が書いている通り、この小説は明治初期における「想像を絶する」ような女性差別を描いたものであると同時に、現在読むと「その表現はどうか」というところも散見されるものでもあった。

現在では差別語とされているものが使われていることもあるが、単語レベルの問題ではなく、その発想からして性差別的である部分が多々ある。その代表的なのが、渡辺がやたらと吟子が「美人」であったことを強調することだ。誉め言葉としてのつもりだったのかもしれないが、ことさら容姿を持ち出すこと自体が問題であるし、さらには美人は得であるといったようなことが地の文にさらっとあったりするのには閉口させられる。

渡辺が元にした資料は目にしていないので、どこまでが資料に依拠したものでどこからが想像で埋めたものなのかが判然としないが(「評伝小説」の困った点である)、おそらくは渡辺がステレオタイプに囚われていたがゆえの描写なのではないかというところも多い。

吟子が頼圀の元を去ったのは、頼圀から求婚されたためであった。頼圀は彼女の容姿ばかりでなく知性や性格にも惚れ込み、一度断られても諦めることなく、同時にしつこくつきまとうこともなく、吟子の心が変わるのを待ち続けた。吟子はそんな頼圀に気まずさを覚えつつもつい甘えてしまうのだ……といったあたりもそうだが、ついに吟子との結婚を諦めた頼圀が別の女性と結婚すると、吟子は激しい嫉妬心を燃やすのであった。このあたりは資料的裏付けがもしないのだとしたらいかがなものかという感じだ。さらには、吟子は淋疾を移された貫一郎を嫌悪していたが、彼が陰から見守っていたという話を聞かされ続けると、ちょっとほだされてしまったようにさえなるのである。

現在の読者は、明治初期の女性差別を見せつけられると同時に、この作品が刊行された1970年後当時の女性差別も見ることになる。おそらくは、当時においては渡辺がとりたて性差別的であったというのではなく、このような発想自体が当然のものとして受け入れられていたのだろう。それどころか、渡辺が女性差別に憤って筆を執ったことを考えると、むしろまだマシな方であったのかもしれない。さらには、医学部による女性受験者への差別が明らかになった後におっさん向け(というかもうじいさん向けであるが)週刊誌が女性医師へのバッシングすら始めたように、言うまでもなく女性差別は現在においても過去のものではない。円城が書いていた通り、「昔はひどかったね、で終わらせず、今もひどいね」という意識を持つことが重要だ。


あえて渡辺を擁護するなら、吟子の後半生からこういったキャラクターにしたのだとすることもできるかもしれない。

結婚など二度としないと思っていた吟子だが、13歳年下の之善の登場によって心が揺れ始める。之善は同志社を中退し、吟子に求婚する。周囲は猛反対し、二人と信仰を同じくする人たちからも厳しい言葉をかけられるが、二人の結婚の決意は固かった。

之善は社会的地位の高い年上の妻と、学業を途中でやめた中途半端で何者でもない自分という引け目もあってのことか、北海道へ渡って「基督教徒の理想郷」を作る決意をする。吟子を東京に残し之善は厳しい開墾作業にあたりながら、彼女にこちらに来いとは要求しなかった。これは開拓がうまくいっていないせいでもあったのだが、吟子は罪悪感を覚えるようになる。東京に残る自分を「鼻もちならぬいやな女だ」とさえ感じ、之善に「来てほしいのですね」と尋ねると彼がかすかにうなずいたという夢を見て、北海道行を決意する。無論周囲はこれにも猛反対であったが、医院を処分して北海道へと向かう。

この開拓地は後の神丘となるのだが、困難が続く中で之善は理想を失っていったようで、山師的な行動に出てさらに追いつめられる。同じくこの地にやって来ていた之善の姉が亡くなると、二人はその娘を養子にとった。吟子は子どもが好きではなく消極的であったが、この養子のトミが後に大きな存在となる。之善は一度同志社に戻って牧師となり、吟子は北海道の瀬棚で再び医院を開いたが、その生活は厳しかった。それでも吟子は、ここでも婦人団体を作るなどまた社会活動にも取り組んだ。そして宣教師からここでくすぶっているより札幌に出てはどうかと勧められる。吟子は札幌へ行って英語を学びつつ開業するめどをつけようとするが、東京を離れてからの十年で医学は大きく変わっており、その変化から取り残されたという現実を突きつけられる。「もう私の出る時代は終わったのかもしれない」、そう呟いて、吟子は瀬棚に戻って医院を再開した。

頑健だった之善も無理がたたって肺炎になり、明治38年に息を引き取る。「志方の死後、ただでさえ口数の少ない吟子は一層寡黙となった。婦人会にもあまり顔を出さず診療が終わると、ほとんど家に籠って聖書と祈りの生活を送った」。養女と二人暮らしを見かねて姉は東京に戻ってこいと手紙を書いたが、吟子は「私が帰ったのでは志方が淋しがります」としてここに残った。

之善の死後のこと、風邪をひくと下腹部に鈍い痛みを覚えた。「風邪とともに下の病が出たのだった。四十年近い年月を経て、なおくすぶり続ける病気に吟子は改めてうすら寒い思いにとらわれた」。

11歳になっていたトミが「炊事から掃除まですべての仕事を受け持った。患者が来た時には吟子の指示に従って薬まで調合した。今となってはトミが唯一の頼りでもあった」。

前年に日露戦争が終わっていた。漁師町である瀬棚は鰊の不漁に苦しんでいた。「周囲の動きはあったが、吟子の生活は変わりがなかった。日曜日は教会に礼拝に行き、他の曜日は診療に明けくれる。余暇には婦人会に顔を出し、深夜遅くまで英語の勉強をする。宵っぱりの朝寝坊は相変わらずで夜は毎夜十二時近くまで起きていたが、就寝の前には必ず英語で日記を記した」。この年の12月初め、吟子は「町の若い女性に〝結婚について〟という題で講演」をした。顔色が悪く、応接室での茶の接待も断って帰路についた。雪の上で昏倒している吟子が発見されたのはこの30分後だった。「心臓発作であったが奇蹟的に命だけはとりとめた。だが恢復したあとも往診はできぬ体になっていた」。

これで吟子は東京に戻ることにした。この7年後の大正2年、吟子は「トミに一人看取られて死んだ。享年六十三歳であった」。

周囲の人からすればなぜ之善のような人物と一緒になってしまったんだという思いはぬぐえなかったであろうし、渡辺はそれを女だからとでも感じたのであろうか。


川西政明による解説によると、渡辺の祖父は熱心なクリスチャンで明治29年に東京から北海道に移住しているという。渡辺がまず関心を持ったのは、吟子の不遇ともいえる北海道に移住して以降の後半生であったのかもしれない。だが、またそれだけではなく、彼の中の社会正義への感覚、女性差別への憤りがこれを書かせたのであろうことも確かだろう。現在となっては限界が目立つものでもあるが、このあたりもふまえて批判的に読み継がれていくべき作品であろう。

自らがそうであった「花柳病」に苦しむ女性に対する同情がある一方で、吟子自身の中にも身体を売らなくてはならない状況に追い込まれた女性に対する無理解や蔑視もあったようで、渡辺はそのあたりも描いている。こういった点では吟子その人にも現在から見れば限界がある。渡辺の限界も含めて、それを切り捨てて終わりとするのではなく、現在から過去を批判的に検証することは今のこの社会を問い直すことにもなるし、そういった作業を積み重ねることで未来が開けてくる。吟子と之善の関係というのもまた現在の視点で捉え直すといろいろな光景が見えてきそうだ。


荻野吟子の生涯はドラマチックなだけに映像化したらどうなるのだろうかということをつい考えてしまう。これをできる体力があるのはNHKくらいのものだろうが、「朝ドラ」にするにはいろいろと難しいだろうなあ……なんて思ってふと検索してみたところ、こちらにあるように映画化の話があるという。予算的にはかなり厳しそうで、完成しても生涯全体を描くのは難しそうではある。




「納屋を焼く」、『バーニング』短縮版

イ・チャンドン監督の『バーニング』はNHKが出資していることもあって日本では劇場公開の前に短縮版がテレビ放送されるというイレギュラーな形になり、こちらを見たのでその感想を。


英語圏の新聞・雑誌等が挙げる2018年ベスト映画を見ると、上位に必ずといっていいほど『バーニング』が入っている(当然というべきか、バラク・オバマも2018年お気に入りの映画にこの作品を含めている)。

イ・チャンドンが村上春樹の「納屋を焼く」を映画化すると聞いて、楽しみな反面不安も少なからずあった。というのもご存知の通り、村上作品はデビュー作の『風の歌を聴け』にはじまりいくつか映像化されているが、その多くが残念ながら冴えないものとなっているからだ。

今回『バーニング』が成功を収めたのは、一つには長編ではなく短篇を原作としたことにあるだろう。村上作品の映画化でこれまで例外的に高い評価を得ていたのも短篇を原作にした市川準監督の『トニー滝谷』だった。ヒッチコックであったか、小説を映画化するのに長編では長過ぎで、短篇の方がうまくいくといった趣旨のことを言っていたが、一般論として長編小説を原作にした場合どうしてもストーリーを詰め込むことに追われてしまい、映像独自の表現を羽ばたかせるところまで行けずに失速してしまいがちだ。

さらに村上作品の場合、原作にそれなりに忠実にやるにしろ(例えば『ノルウェイの森』)、原作から大きく逸脱するにせよ(例えば『風の歌を聴け』)、結局は原作の磁場にからめとられてしまい、そこから逃れることができずにその結果原作ファンにも未読の人にも強い不満が残ることが多かった。

『バーニング』の場合、ある程度原作をなぞりながらも、「原作」というより「原案」とでもしたほうがいいのではないかというほど改変された設定もあり、原作の磁場から逃れられている。原作に忠実でなければ認めたくないという人にとっては違和感があったかもしれないが、「村上春樹原作」としてではなく、映画『バーニング』として独立した魅力を獲得することができた。「納屋を焼く」を未読で映画を観る前に読んでおくべきか迷っている人がいるかもしれないが、観客として原作に引きずられたくないのであらば、読まずにまず映画を見た方がいいかもしれない。


とはいえやはり比較してみたくもなるもので、以下「納屋を焼く」と『バーニング』短縮版のネタバレを一切気にしないので未読未見の方はご注意を。






まず「納屋を焼く」について。

作家である「僕」は三年前に彼女と知り合った。「僕」は当時三十一歳、彼女は二十歳であった。「僕」は既婚者であったが、月に一、二度彼女と付き合うようになる。彼女はパントマイムを学びながらモデルの仕事もしていたがあまり熱心ではなく、何人かいるボーイフレンドの「好意」によって生活をしているようだった。父親が死んで現金が入り(と少なくとも彼女はそう言った)、彼女は北アフリカに行きたいと言い出した。「僕」はたまたまアルジェリア大使館に勤めている女の子に知り合いがいたので紹介をした。彼女はボストン・バッグ一つをさげてチュニジアに旅立った。三か月後に彼女はアルジェで知り合った男を連れて帰ってきた。この男は二十代後半で、感じがよく、そして金持ちであるようだった。それから「僕」は何度かこの二人と顔を合わせることになった。

十月のこと、妻が出かけて「僕」が一人で家にいると、彼女から電話がありこれからそちらへ行ってもいいかという。二人は食べ物と酒を持って現れ、男は上物のマリファナがあるといって勧めてきた。女の子はビールとマリファナのせいで眠ってしまう。「僕」はマリファナを吸いながら子どもの頃の学芸会の芝居がふと記憶に甦ってきたが、その時男が「時々納屋を焼くんです」と言った。男は二か月に一度くらい納屋を焼いており、実は今日も下調べのために来たのだと言った。「とても良い納屋です。久しぶりに焼きがいのある納屋です」。この納屋は「僕」の家の「すぐ近く」にあるのだという。

次の日に「僕」は本屋で近所の地図を買い、三日かけて周辺をくまなく歩いて納屋を捜し、男が焼きそうな納屋をピックアップした。そこを毎日のジョギングコースにして観察し続けたが、納屋が焼かれることはなかった。

十二月半ばに、喫茶店に一人でいる男を偶然見つけた。「僕」は男に納屋はどうしたのだと訊ねると、男は焼いたと言う。そして男は、あれから彼女に会ったかと訊いてきた。「僕」はあれから彼女と会っておらず、連絡すら取れなくなっていた。

「僕」は彼女のアパートを訪ねるなど探してはみたが、彼女は見つからずにそのままあきらめた。これが「一年近く前の話だ」。「僕」は相変わらず納屋の前を走り続けているが、納屋が焼けたという話は聞かない。「夜の暗闇の中で、僕は時おり、焼け落ちていく納屋のことを考える」。


あらすじというにはちょっと長く書いてしまったが、これを読んだだけでも、少なからぬ人が男の言う納屋とは女の子のことで、行方知れずになった彼女はこの男に焼かれてしまったのだと考えるであろう。そしてそういう目で小説を読むと、あらゆる部分がそうとしか思えなくなる仕掛けが施されているようにさえ感じられる。

このギャツビー的な、感じは良いが得体の知れない金持ちの男は後に書かれる『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君を先取りするかのようなキャラクターで、その人当たりの良い外面の内側には底知れぬ不気味さを抱えているという風に読むことができる。さらにその「悪」を深化させていくと『ねじまき鳥クロニクル』の綿谷昇となっていく。

しかし、男が女の子を焼いたというのは揺るがしがたい確定的な事実なのであろうか。逆に疑問の目で改めて読むと、必ずしも決定的ではないこともわかる。例えば「僕」は近所で納屋を十六個見つけるが、「僕」はその全てではなく彼が焼きそうなのを五つ選んで観察していたということがわざわざ書かれている。男がいかにも焼きそうというのは「僕」が勝手にそう感じただけのことであって具体的な根拠のあるものではなく、見落としもあったかもしれない。男が「近すぎ」て見落としたのでしょうというのは、女の子のことを指すのではなく、文字通りの意味とすることもできるのである。

そもそも、この「納屋を焼く」という作品は村上のセルフパロディっぽいところもあることに注意が必要なのかもしれない。「僕」の年齢、職業、住居環境などは村上自身を連想させるが、これは意図的なものだろう(『回転木馬のデッド・ヒート 』収録作品をはじめこの頃の村上は実際に聞いた話という態の小説を好んだ)。「納屋を焼く」は『羊をめぐる冒険』発表後の作品であり、村上(作品)のイメージはその読者にとっては決定的なものになって以降の作品である。三十過ぎの男があっさりと不思議な雰囲気を纏った二十歳の女の子と付き合いだすなど、やれやれ、いかにも村上春樹的であるが、「納屋を焼く」で「やれやれ」と言うのは「僕」ではなく女の子である。

「僕」がこの女の子に惹かれるようになったのは、「蜜柑むき」を披露されたからだ。彼女はバーで話ながら、存在しない蜜柑を食べ続けるパントマイムを見せた。「僕」は「現実感が吸いとられていくような気」がして、「すごく変な気持ち」になる。君には才能があると褒めると彼女はこう言う。「あら、こんなの簡単よ。才能でもなんでもないのよ。要するにね、そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ」。

この小説を読み終えた読者は、後半の不気味な気配に捉われ、前半の軽さが薄れて、ここに不吉な暴力の臭いを嗅ぎ取る。しかし前半部分に登場するこの「蜜柑むき」を思い出すなら、読者は存在しない蜜柑を見せられていたのかもしれない。蜜柑がそこにあると思わせるのではなく、そこに蜜柑がないことを忘れさせることによって。

確かにぱっくりと深淵が口を開けているように思えてしまうのであるが、直接的には暴力は示されない。「僕」は一向に納屋が焼かれないのでいっそ自分で焼いてしまおうかという誘惑にもかられるが、これは暴力を、あるいはシリアスな重い物語を待望する読者の心理ともとれる。彼女は『ティファニーで朝食を』のホリーのごとく、アルジェリアに旅立った時と同じように、ボストン・バッグ一つ持ってふらりと旅に出ただけなのかもしれない。

もちろん唯一の正解があるのではなく、いくつもの読み方が可能な作品であり、短篇小説の特性を活かした余白を多くとったオープンエンディングとすべきだろう。


では映画『バーニング』はこれをいかにアダプテーションしたのであろうか。

すでに書いたように設定がいくつか、しかし大きく変えられており、その結果多くの人がイメージするであろう「村上春樹的世界」からはかなり離れたものとなっている。舞台は韓国に移され、トランプが就任して間もないというテレビのニュースからはっきりと2017年の出来事であると特定できる。「納屋を焼く」では語り手は三十を超えた作家であり、おそらくは金には困っていない。『バーニング』では作家志望の若者に変更されており、度外れの金持ちの男に対してはっきりと階級的怨嗟を抱いている。男をギャツビーに例えるのは原作にもあるが、「納屋を焼く」の「僕」は彼にいささか胡乱なものを感じてはいるがどちらかといえば揶揄的なものであり、強い敵意は直接には示されない。一方『バーニング』のジョンスは、現在の韓国に、一九二十年代のアメリカで後ろ暗い方法で巨万の富を築いたギャツビーのような人物が溢れかえっていることを唾棄している。またテレビのニュースでは若年層の失業率の高さの問題も伝えられていた。

「納屋を焼く」は八十年代前半の日本の、安定してはいるが気怠い雰囲気にも覆われているという、現在からすれば牧歌的とも呑気ともいえる状態が作品世界になっており、そこでは当然のように階級問題は言及されない。一方『バーニング』では階級的視点が意識的に前景化されている。

ジョンスは好きな作家としてフォークナーをあげており、これも原作で「僕」がフォークナーを読んでいることをふまえたものでもある。しかし原作がタイトルの元ネタへの目配せであるのに対し、『バーニング』では作品世界にフォークナーが浸食しようとしているかのようですらある。原作には登場しない父親や一家をとりまくコミュニティの問題も示唆され、一族や村の年代記的な展開も用意されていたのだろうか。このあたりは短縮版では深められることがなかったが、あるいはばっさりとカットされた部分で何か描かれているのかもしれない。父親との関係は八十年代の村上が意識的に避けていたテーマであった。

また「僕」の住まいは当時村上が住んでいた習志野のようにベッドタウン化しつつある郊外と思われるが、『バーニング』ではよりはっきりと農村になっており、しかも三十八度線に面していてしょっちゅう北朝鮮の宣伝放送が流れてきている。

ジョンスとヘミは幼馴染であったということになっているが、同時にヘミの記憶の疑わしさもはっきり示され、井戸が登場するのは明らかに他の村上作品への目配せでもあろう。また彼女のある行動は『ノルウェイの森』の直子を思わせるところもあり、彼女の精神面での不安定さも印象付けられる。「僕」と女の子の関係はあくまで気楽なもの(もちろんこれは男性にとって非常に都合のいいものでもある)であるが、ジョンスはヘミに強い執着を示すようになる。

原作同様『バーニング』も一応はオープンエンディングでありつつも、暴力の存在がはっきり示され、ベンがヘミを焼いたことがより強く示唆されている。前述の通り「納屋を焼く」もまた不気味な物語として読めるが、『バーニング』はより一層不穏さを強めている。

男性による女性への支配や消費という面がより強く打ち出され(村上作品における女性の表象にはフェミニストからの批判は多く、それへの意趣返しか『海辺のカフカ』にはフェミニストを戯画化して揶揄する悪名高い場面がある)、また怪しげな手段でベンが「持てる者」となったことも原作よりさらに強調されている。そのベンは「持たざる者」である女性たちを好き勝手に弄べる玩具のように所有し、飽きるとゴミのように焼き捨て続けているように思わせる。

ジョンスができることは、主を失い猫もいなくなって不自然に整頓された部屋で、ひたすら書き続けることだけだ。彼はいったいどんな物語を紡いでいるのだろうか。


このように村上作品へのオマージュらしきものを散りばめつつ、ステレオタイプ化された「村上春樹的世界」の磁場から逃れることによってその限界を乗り越え、アップデートしようとしたのがこの『バーニング』であるともできるだろう。

「村上春樹的世界」と括弧に括ったように、実際には村上に階級的視点が皆無だというのではない。デビュー作『風の歌を聴け』では、鼠は物質的には豊かな暮らしを享受しつつも、怪しげな方法で富を築いた父親を嫌悪し、「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」と呟く。これは戦後生まれの村上の世代の親の世代に対するアンビバレンスの表れであり、さらには手段を選ばずに金を稼ぐことに勤しむ資本家への嫌悪でもあろう。加藤典洋は村上の初期の短篇「貧乏な叔母さんの話」などにも階級的視点を読み込んでいる。一方で、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公である岡田亨は失業中であるが切迫感がないように、ある時期以降の村上から階級的視点が薄れたことも確かであろう。

しばしば言われるように、世界各地で経済がある一定以上の状態を迎えると村上作品が広く読まれるようになる。前近代社会が(疑似的なものであろうとも)近代へと移り変わろうとする中で、それを言祝ぎつつもそこには「喪失」も付随せざるをえず、その喪失感こそが村上作品が多くの人の心を捉えたという一応のまとめはできる。

しかし韓国が、そしてアメリカ合衆国や日本やその他の「先進国」がそうであるが、時計の針が一周したかのごとく、鼠の「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」という言葉が再びリアリティを持つようになったかのようだ。これは逆恨みによる怨嗟ではない。ギャツビーのような哀しみを湛えた金持ちではなく、「持たざる者」を、あるいは弱き者たちを、猫の足を潰すがごとく(猫に対する暴力は否定的表象として村上作品に頻出する)、快楽のために食い物にして恥じない金持ちや「強者」がはびこる世の中となってしまっているのである。『バーニング』はその時代に敏感に反応した作品であろう。付け加えると、村上は『風の歌を聴け』を習作と見なして長らく英訳を許可してこなかったが、二〇一五年にようやく新訳を広く流通させることを許した。まあこれは時代の変化とは関係ないのだろうけど。

ヘミの飼っている猫は『ティファニーで朝食を』の奔放に生きるホリーへの目配せともとれるが、何よりも一向に姿を現さず、それでいて痕跡はしっかりと残し、ふっと姿を消してしまう猫は様々な解釈ゲームを誘発するもので、こういったあたりも含めて、村上を否定的に乗り越えようとしたというよりも、やはりアップデートしたものであろう。一見するとローカライズされたようでグローバルな共感を呼んでいるように、極めて今日性が高く、かつ普遍性も獲得した作品であろう。もっとも短縮版の大幅なカットはかなり強引であったようで、結末さえも別物になっているという話もあるもので、劇場版を観てみないことにはきちんとした評価はできないのかもしれないけれど。


ちなみに僕は70年代後半生まれなもので当然ながら「納屋を焼く」はリアルタイムでは読んでいない。時系列順には「納屋を焼く」を読んだ後に聴いたと思うのだが、トーキング・ヘッズの「バーニング・ダウン・ザ・ハウス」を知って、納屋は英語でbarn、トーキング・ヘッズのヴォーカルはDavid Byrneということで、しばらくはこれが元ネタなのかと思っていた。しかし「納屋を焼く」の初出は雑誌「新潮」83年1月号で「バーニング・ダウン・ザ・ハウス」の発売は83年7月であることに気付いて、ダジャレ疑惑を抱いてごめんなさいということになった。タイトルの元ネタはフォークナーのBarn Burningで、英訳では「納屋を焼く」も同じくBarn Burningとされ、これは英語圏での村上の評価を決定づけたThe Elephant Vanishesに収録された。






ブレヒト120歳

年の瀬になるまで気がつかなかったが、2018年はブレヒト生誕120年にあたる(もっともブレヒトは2月生まれなのですでにさらに一年近くたってしまっているが……)。気がつかなかったことからもわかるように僕は演劇にはまるで疎く、現在演劇界でブレヒトの評価がどうなっているのかはよくわからないが、日本ではいくつか記念公演は行われたようだが、それほどの盛り上がりはなかったようだ(こっちが知らないだけで結構盛んであったということだったらごめんなさい)。

代表作は普通に文庫で入手可能であるので、ブレヒトが忘れ去られようとしているのではないのだろうが(むしろしっかりと読み継がれているとすべきか)、一方でかつてと比べるといささか影が薄くなってしまったかのようでもあるのは、政治的状況を含め社会情勢があまりに変化したということもあるが、また影響力が強すぎたあまりその影響がそうとは感じられなくなってしまったというところもあるのかもしれない。それこそ異化効果など、演劇のみならず文学や映像においても現在の観客にとってはあまりに当たり前になっているがゆえに、今ブレヒト劇を見てもその部分に関して衝撃を受けるということはないだろう。

ではブレヒトなど過去の遺物であってほこりをかぶらせておけばいいのかといえば、今見ればまた、アクチュアリティを感じさせてくれることになる芝居も多いのかもしれないと、岩淵達治の『ブレヒト』をぱらぱらやっていて思えてきた。






ヒトラー政権の誕生によってブレヒトは亡命生活に入る。1939年には『ガリレオの生涯』の初稿を脱稿した。「「第三帝国」の一場面「物理学者」のなかに、アインシュタインの学説を論破しようとするアリアン人物理学者が描かれているが、この場の専門知識のためにブレヒトは原子物理学者ニールス=ボーアの助手たちにアドヴァイスを求めたが、同時にガリレイ劇に必要な科学的知識をも得たようである。ブレヒトはルネサンスを、人間が中世の迷妄から目ざめ、既成の権威に疑いを抱き始める「理性」の時代と捉えた。来るべき新しい時代の到来へのみずみずしい希求はほとんど楽天的に見えるほどだが、これを書いたブレヒトは最も暗い見通しの時代に生きていたのである」。

「ガリレイといえばわれわれは、「それでも地球は動く」という名句とともに、科学の殉教者というイメージを持ち易いが、ブレヒトのガリレイは単純なヒーローではなく、肯定的面と否定的面を複雑にあわせてもっている。科学者としてのガリレイは、権威を疑うことから探求を始め、無知を少しずつ取り除きながら真理に近づこうとする謙虚な基本姿勢ももっている。学者とは自分の無知に不満で少しでも無知を除こうとする人間のことだ。最も重要なのは、ガリレイが疑問を解くことに楽しみをもつことであり、ブレヒトによれば知識欲とは食欲や性欲と同じ人間の楽しみのひとつなのだ。ブレヒト演劇は観客に思考を強いるが、観客に知ろうとする楽しみがあればそれは強制にはならない。人々が嫌悪を感じる教育とは詰めこみ教育のことであり、自発的に考えてみたくなれば教育は楽しみとなり娯楽と矛盾しない。ブレヒトは人間を本質的には理性をもつ存在と考え、知識欲認識欲を満たせば満足を覚える存在と信じていた。この考えによって彼はローマ時代にホラティウスの提示した教育か娯楽かという命題に解決を与えたのである」。

「だが権力者はつねに民衆を無知の状態にとどめておかねばならぬ。「由らしむべし知らしむべからず」が権力者の鉄則である。従ってガリレイ風の知ることのすすめが、民衆に及ぼす影響は危険である。ガリレイは天文学の分野で既成権威であるプトレマイオス体系を覆した。教会権力からみると、どんな権威でも覆されることは脅威であり、権力を守るためには地動説を撤回させる必要が出てくる。民衆が地動説を歓迎するのもある権威を覆したからであり、カーニヴァルの行列でさえ地動説が扱われることになった。民衆はそれを既成秩序の崩壊ととらえる。そのため教会はガリレイに地動説の撤回を命じ、彼は権力に屈従する。ブレヒトによればこの劇の主人公は民衆であり、「それでも地球は動く」という挿話も民衆が自らの希求を託した創作であり、ガリレイは民衆を裏切ることになるのだ。しかしそれだけではなかった。学説撤回は実は偽装であり、彼は教会の監視の目をくぐって余生を「新科学対話[ディスコルシ]」の完成に捧げる。/ガリレイの家政婦サルティの息子アンドレアは、少年時代からガリレイの教育を受け、長じて物理学者になったが、撤回を知ると師を変節漢と罵る。「英雄のいない国は不幸だ」と罵る彼に対してガリレイは、「ちがう、英雄を必要とする国が不幸なのだと答える。八年後イタリアより研究の自由な外国に新天地を求める前に、師に別れを告げにきたアンドレアは、師が密かに「新科学対話」を完成したのを知って自分の不明を恥じ、生きのびて研究を完成するための彼の策略を賛美する。生きのびる思想は実はブレヒトの亡命の支えであり、ブレヒトは迫害に対して敢然と戦いを挑み殉教することのみが大義だとは考えていなかった。だが、だからといって、ガリレイの権力への屈従が全面的に肯定される訳ではない。自分の屈従が先例となって、各地で科学への弾圧は激しくなった。ガリレイは自分を賛美するアンドレアに対して自己を批判してみせることも忘れない。最終場は明るい未来に開かれている。ガリレイが何度も国外に運び出させようとした「新科学」はアンドレアの手で無事国境を越える」。

ブレヒトは38年11月末から執筆を始めわずか三週間ほどで脱稿したが、「年内にドイツの物理学者ハーンとその協力者によるウラン核分裂成功のニュースをきいて多少書き改められたという。しかし原子物理学との関連は改稿ほど大きくはなかった」。

そして時は流れ、「原爆投下のニュースをきいたブレヒトは、この作品の大幅な改稿を行い、ガリレイの学説撤回の犯罪性を強調するようになる」。

「原爆の投下はブレヒトに「ガリレイ」劇を大幅に改稿させる契機を与えた。ガリレイが表面は権力(教会)に屈従しながら研究を継続完成させたことは抵抗運動として肯定的な面ももっていた。しかし科学が権力に奉仕した結果生まれた原爆の惨禍を前にしてみると、地動説撤回によって科学が権力に屈従するという先例を作り出した罪(近代科学の原罪)の方が大きいのである。改作で大きく変えられたのは、一四場のガリレイの自己断罪である」。

ガリレイは、彼の「抵抗の方法を新しいモラルだと考えて讃嘆する弟子アンドレアを前にして」、こう自己断罪を行う。

「かつて私は科学者として唯一無二の機会に恵まれた。私の時代に天文学は民衆の集まる市場にまで達したのだ。この特異な状況の下で、一人の男が節を屈することをしなかったら、全世界を震撼させることもできたはずだった。私が抵抗していたら、自然科学者は、医者達の間のヒポクラテスの誓いのようなものを行うことになったかもしれない。自分達の知識を人類の福祉のため以外には用いないというあの誓いだ。ところが現状で期待できるのはせいぜい、どんなことにも手を貸す発見の才のある小人の族輩にすぎない。それに私は一度だって本当の危険に曝されたことはなかったと思うよ。数年間私はお上と同じ力をもっていたのだ。だのに私は、自分の知識を権力者に引き渡して、彼らがそれを全く自分の都合で使ったり使わなかったり、悪用したりできるようにしてしまったのだ」。

「激しい断罪にも拘らず、主人公ガリレイの魅力が全くはぎとられたわけではなく、改作によってガリレイは魅力ある矛盾的形象になっている。ブレヒトはこの劇の主人公は民衆だというが、ガリレイの研究意欲が科学と人類の福祉のを拡大し権威に対する疑惑を植えつけるという方向と一致していた限りにおいては、もちろん肯定されるべきものであった。民衆のカーニヴァルの場面では、民衆にとって地動説は直ちに権威の崩壊と結びついており、ガリレイより社会的に前進した姿勢さえ示している。それに対して、ガリレイの研究は自己目的になってゆき、そういう民衆とは距離をとろうとさえする。権力に誤用されるのは、このように自己目的化してしまった科学なのである」。


初稿においてブレヒトはガリレオの「変節」を、その危険性を認めつつも、「迫害に対して敢然と戦いを挑み殉教することのみ」を「大義」とせず、「生きのびる」ことの重要性を込めたのは、当時の彼の置かれた状況を考えれば当然のことであったろう。しかし、科学が「人類の福祉のを拡大」を忘れ研究が「自己目的化」してしまえば、権力によって都合よく使われてしまうことになるという恐ろしさを、ブレヒトは原爆投下によって突き付けられた。

とりわけ日本は、731部隊に代表される戦時中の蛮行や、水俣病に代表される戦後の公害などによって、科学者と倫理、科学者と権力との関係が厳しく問われなければならない過去を持つ国であったはずが、弛緩してしまった結果が原発事故という形になってしまったとしていいであろう。問われているのは狭義の意味の科学者だけではない。あの惨事によって目ざめたのかといえば、日本社会の多数がむしろ権力への屈従を強め、既成権威に屈するようになってしまったかのようですらある。


また現在これを読むと、「人間を本質的には理性をもつ存在と考え」るブレヒトが「民衆」に寄せる信頼を素直に受け取ることも難しいかもしれない。

しかしブレヒトは、後の世界を予言するかのような言葉も残している。
「ブレヒトは、原爆を世界政府の管理に委ねるべきだといったアインシュタインを批判し、「この世界政府なるものは企業家やスタンダード-オイルの構想するものだ」と言っている」。

アインシュタインの理想に反して、「世界政府」ならぬグローバリゼーションが「企業家」やグローバル企業に簒奪される命運にあることをブレヒトはこの時点で見抜いていたかのようにも思えてくる。


岩淵が本書で繰り返すように、ブレヒトは物事を単純化するのではなく、彼の描いたガリレオがそうであったように、常にその二面性を視野に入れている。ただ根拠のないオプティミズムに酔うのでもなく、また現実に屈してペシミズムに沈み込むのでもなく、この二面性を直視したうえで道を拓かなければならない。むろん現在からすればブレヒト自身の行動を含め限界があるのは確かであろうが、また現在だからこそ彼の描いたものに取り組むべきであるのかもしれない。

ガリレオが表面上は権力に屈しながらも密かに続けた「抵抗運動」、そしてブレヒトが書き改めた、権力に屈したことへのガリレオの自己批判、これらはとりわけ現在の日本において再度アクチュアリティを持つようになったかのようだ。



『兄啄木に背きて 光子流転』その2

小坂井澄著 『兄啄木に背きて 光子流転』





その1の続き。


光子は伝道師として各地を転々としたが、これは異例のことであったようだ。牧師や信徒との折り合いが悪かったのではないかと疑う声もあったが、確かに光子は「固い感じ」、さらには「うるさい人」とすら見られることもあったという。当時を知る人は啄木の妹というプライドがあったのではと振り返ってもいるが、また光子が自ら「片意地なところが兄に似ている」としていたように、「人間の好き嫌いが激しい」、また気位が高くずけずけと口をきくといったあたりはもともとの性格でもあり、「要するに、個性の強い、妥協を知らぬ人」であったようだ。

女性伝道師は独身が決まりであったが、これは生涯独身を通すことを意味するのではない。牧師などと結婚する例は珍しくなく、光子も35歳のとき、7歳年下の牧師三浦清一と結婚することになる。しかし光子は結婚する前に妊娠していたようで、それもあって周囲の受け止め方は微妙であったようだ。

光子はいかにして清一と出会ったのであろうか。光子には中野基という心に決めた相手がいた。「中野が神学校を卒業し、伝道師に就任したうえで結婚する運びになっていた」ようだが、中野は結核に冒され亡くなってしまう。

光子が中野の早世を痛む文章を発表すると、これに感動した清一が積極的な交際を求めてきたようだ。二人の仲は急速に燃え上がり、光子が九州から東京に転任になったのは、福岡神学校に入学したばかりの清一を彼女から遠ざけようとしたということだったのかもしれない。清一の後輩は「二人を結びつけたのは、二人の情熱だよ」と振り返っているが、ここからも逆に周囲の受け止め方が想像できる。二人はそれでもめげずに結ばれた。

清一は自分の写真を「どうだ、ルターに似ているだろう」と自慢していたが、その顔立ちは「明らかに日本人離れしていた」。というのも、彼の父はアメリカ人であった。清一の母ツテはアメリカに移民として渡ったが、働いていたホテルの主人とできてしまい、それが男の妻に露見、男はほとぼりが冷めるまで一時帰国するようツテに告げた。帰国後にツテは妊娠していることがわかった。こうして生まれたのが清一であった。ツテが移民となったのは経済的に追いつめられてのことではなく、実家は裕福であった。そのため清一を育てるのに経済的な苦労はなかった。清一が2歳の時にツテは結婚するが、この夫は「善良な人だったらしい」。とはいえ、この時代に「混血児」である。清一は精神的な危機にみまわれ、一時はグレたこともあったようだし、父の国アメリカに行きたいと願ったこともあった。クリスチャンとなったのも、そうなればアメリカに行けるかもしれないという思いもあったようだ。そして清一は神学校への進学準備をしていた時に宗教的回心を体験し信仰を新たにすることになる。

「燃えるばかりの信仰の持主」であった清一は、「人に伝える熱烈さもまた並はずれていたようである」。また清一は、かねてより社会問題や労働問題にも関心を持っており、炭鉱労働者への伝道などを行うなかで社会主義的傾向を強め、加賀豊彦に心酔することになる。労働問題に目覚めた炭鉱労働者が逮捕され清一も当局からも目を付けられたが、「当時の三浦の社会主義思想なるものは穏健な、宗教的理想主義にとどま」るものであり、清一の身に危険が及ぶことはなかった。しかし時代は啄木が嫌悪した「強権」が猛威を振るう時を迎えようとしていた。

三浦夫妻の間に誕生した女の子は「天使のように可愛かった」と振り返る人もいるが、13歳にしてジフテリアで亡くなってしまう。光子の「悲嘆ぶりは、直視するのもはばかられるほどであったといわれる」。二人の救いになったのは娘の2歳年下の息子であった

清一は当時の男性のように妻のことを「オイ」などと呼ぶことはなく、「いつもやさしく〝あなた〟と言っていた」。光子も夫のことを「パパ」と呼び、「「何かというとパパがパパが」と口にするのがつねであった」。夫婦喧嘩はむしろ多い方で、先に口をつぐんで書斎に閉じこもってしまうのはいつも清一の方であった。夫の上着のボタンがとれているのに気づかずに注意されたこともあったように、光子はいわゆる良妻賢母タイプではなかったようだが、むしろ現代的な夫婦関係であったとすることもできるだろう。その性格から苦手意識を持たれることもあったが、また彼女の面倒見のよさを記憶している人も多い。独身時代よりは角がとれたとはいえ、時おり浴びせるきつい一言には、「やっぱり啄木の血だね」との囁きがあったという。

清一の母ツテは「粋な遊び人気質」で「潔癖な信仰者光子とは、好みから価値判断までまったく逆であったに違いない」。陽気であったツテだが寂しい晩年を送ることになり、「清一は嫁にだまされたのだ」とこぼしていた。清一は故郷の村にしばしば老母を訪ねたが、光子はツテの生前も没後もこの村を訪れることはなかった。清一の没後に農道を作るためツテの墓が移された際には、光子は作業にあたった三浦家の古くからの知り合いでもあった人夫に少額の謝礼を送ったのみで、「村の人たちは「世間のわからん人だ」と噂した」。


清一は武者小路実篤が宮崎県で始めた「新しき村」の動向に早くから関心を寄せ、阿蘇に「自給自足の信仰共同体とでもよぶべき「兄弟団」を創立」するのが「宿願」であった。昭和11年2月、ついに「阿蘇兄弟団」が発足する。といっても理想通りにいくはずはなく、清一としては「人里離れた山の中を望んでいたのだが、発足にあたっての経済的事情がそれを許さなかった」。また当初の熱心な同志たちの他には、後から加わる者もほとんどいなかったという。清一は当初熊本の教会の牧師も兼任しており、阿蘇専任となった後も家族とともに町の教会に住んだ。「このことが「兄弟団」の発展をはばんだ一つの原因であったに相違ない」。このような運動のほぼ全てがそうであるように、この「兄弟団」の試みも成功したとは言い難かったのだろうが、それでも光子は晩年になっても、「自分が住んだところでは阿蘇がいちばん好きだと述懐していたそうである」。苦さよりも、「純朴な村人との交流は、伝道師の妻となって以後の彼女の人間関係の中では、もっとも気のおけないものだったに違いない」という思いでの方が強かったのだろう。

昭和12年頃は、「三浦の牧師としての絶頂期であった」。日本聖公会組織成立50周年記念大会では2人の講演者の1人であり、3千人の参加者の前で熱弁をふるった。「こうして、名説教家三浦清一牧師の名は一九州地方部内にとどまらず、全国的なものとなった」。

また光子も、「熊本放送局から全国中継で「兄啄木を語る」という講演を行い、その原稿は『九州日日新聞』に掲載された」。清一と光子は、左傾化した啄木のイメージを積極的に使うことを厭わなかったようだ。この講演で光子は故郷渋民の思い出から語り始め、「ふるさとにおける啄木をロマンチストと呼ぶならば、北海道流浪時代の彼は「生活の疲労者」であった」とし、大逆事件以後に作られ「V NAROD!(人民の中へ)」が繰り返される「はてしなき議論の後」を紹介したうえで、「彼はたしかに新しい明日の社会に憧憬を有して居りました」とまとめた。

「それにしても、官製の国体思想が全国民に強制されつつあったこの時代、啄木のこの詩を持ち出すことじたい危険なことであった」。著者はこの時期の光子の発言は清一の考えが深く入っていたとしている。三浦は情熱的な演説で知られる一方用心深くもあり、「その危険とすれすれのところで、原稿は巧みに締めくくられている。これも三浦の知恵によるものであろうか」。しかしこの清一の慎重さは、弱さともなりかねない。「強権」が猛威を振るう中で、清一は揺れ始める。

清一には「キリスト教の牧師、社会主義思想の持主、そして、アメリカ人との混血と、いわゆる「敵性人物」の烙印を押される条件がそろいすぎていた」。また「キリスト教の中でも英米系である聖公会は、とくに警戒の対象となっていたようである。やがて「三浦牧師が狙われているらしい」と信者たちの間でささやき交わされるようになる」。

昭和13年には清一に1年間のイギリス留学の話が持ち上がり、清一はこれに乗り気であったが、光子は不安をおぼえ反対した。また信徒の間からも留学に「難色を示す声が高まった」。「出発を目前にひかえて、教会委員会の意見は、このさい自重すべきだという結論に傾いていたようである」。

教会委員会などは必ずしも清一の身の安全を気遣ってのことではなかった。ただでさえ目を付けられている聖公会にあって、清一の言動を迷惑だと感じる人も出てきていた。「大戦中、抵抗をつらぬいてきびしい弾圧にさらされた日本人クリスチャンは、たしかに存在した。しかし、大勢は早くもこのころから保身と国策順応をこととしていたのである」。ついには、「熊本の教会内に隠然たる力を持つある古い信者が、司法関係にたずさわる一信者を動かして、三浦を危険思想の持ち主として警察に密告するという挙に出た」。清一は数日間拘留され、「証拠不十分で釈放されたものの、旅券を没収され、結局、渡英は中止に追い込まれたのである」。

熊本の教会では清一の留学に備えて後任の牧師がすでに決まっていたため、清一はこの教会を離れなくてはならなくなる。「三浦を熊本から追放することが密告者たちの一つの目的であったのかもしれない」。この結果清一は阿蘇専任となるのだが、肝心の「兄弟団」は「そろそろ息切れを見せ始めていた」。

さらには、「警察のきびしい取り調べを体験したことは、三浦を微妙に変化させたようだ。説教その他で口にすることに、日本主義的な傾向があらわれ始めた。とうぜん、社会主義的な言辞は影をひそめる」。当時青年だったある信徒はこう振り返っている。「はっきり大東亜共栄圏思想を表明していた。二度と警察に尻尾をつかまれたくないという配慮が、われわれにもよくわかった」。

「配慮」という表現は微妙だ。清一は「二度と警察に尻尾をつかまれたくない」ため、上辺だけ日本主義で飾っていただけだったのだろうか。それとも日本主義に実際に染まっていったのであろうか。当人の主観としては、後退戦を戦っているのだというつもりであったのかもしれない。逮捕されるよりは、本音を隠してでもこうして活動を続けられるほうがマシではないか、と。しかしそれは、形の上では体制順応と区別をすることはできない。清一は昭和14年には台湾伝道を行うが、この時のパンフレットの表紙には桜の花がデザインされていたという。「明らかに国策に協力した植民地伝道だったのである」。

沖縄に開設された「国立ライ療養所「愛楽園」」へ伝道に訪れた際には特高刑事の訊問を受け、顔をまじまじと見つめられ「ほんとうに日本人か?」と問われたものの、「伝道を妨げられることはなかった」。これはつまり、清一の説教に危険性はないと判断されたということだ。「三浦の説教がどこでも聴衆を魅了することは変わらなかったが、その内容はしだいに国策的、愛国的なものになっていったようである」。

「やがて、牧師仲間から「愛国者」と呼ばれるまでにいったという。かつての意気軒昂なキリスト教社会主義者への皮肉がこめられていたことはいうまでもない」。

しかし清一が国策への協力に転じても、昭和15年春ごろには阿蘇宮地の教会は投石の被害を受けるようになった。熊本から来ていた青年がおびえると、清一は「すぐ止むよ。たいしたことのできる連中じゃない」と言い、光子はいつものことですから……」と「泰然としていたという」。「大日本青年党が、宮地の町でしきりに反英米宣伝を行っており、彼らあるいは彼らに扇動された者たちの仕業に違いなかった」。長年地元に溶け込んでいたイギリス人宣教師たちもスパイ扱いされるようになった。そしてついに同年8月に「阿蘇聖テモテ教会、フリースおよびギリガンの住居、そして「兄弟団」の建物に対する暴徒の襲撃事件が、起こるべくして起こった」。

清一とフリースとギリガンは軽井沢での伝道者協議会に行っており不在で、光子も信者宅に泊まりに行っており、「兄弟団」も無人であったため人的な被害は出なかった。警察は形ばかりの捜査をしただけで「犯罪として構成せざるもの」とした。この事件は外国人宣教師たちに衝撃を与え、フリースとギリガンは阿蘇に戻ることなく帰国した。

昭和15年4月には「国家神道を別格とするすべての宗教を国家統制下に置く「宗教団体法」が施行され」、「日本聖公会に対しては、日本基督教団への加入が勧告された」。聖公会内部はこれをめぐって激しい対立が起こっていた。清一が昭和15年、16年と台湾に伝道に行ったのは、「実はこの困難な状況からの逃避」でもあったようだ。

昭和16年12月8日、清一は台湾におり、「その日予定されていた伝道集会は現地の警察によって差し止められ、あわただしく帰国したが、宮地駅に降りたところを逮捕され、そのまま連行されたのである。治安維持法違反の容疑であったと思われる」。清一が釈放されたのは翌年6月のことであった。清一は「拘留中にどのような扱いを受けたかについては何も語っていない」が、同じように逮捕された他の牧師や信者の例を見ると、拷問を受けた可能性が高い。清一が何も語らなかった、語れなかったところに、その傷の深さが表れているようにも思える。

聖公会は「合同派」と「非合同派」とに分裂したが、「いずれにしても、教団としての組織は解体に追いやられた」。昭和18年に九州教区の解散式の後に清一が発表した詩には奇妙な高揚感があるが、「三浦は得体の知れぬ感動に自分を酔わせて、自分をごまかしていたのである」。

清一と光子は九州を離れ、やはり体制内に留まり国策への協力を行っていた加賀豊彦のもとに身を寄せる。「敗戦前年、三浦は賀川が行っていた社会事業の一つ、神戸の「愛隣館」の館長に就任する。同時に聖公会を離れて、日本基督教団に所属した」。これに対し光子は「日本基督教団への移籍だけは頑として拒んだ。夫の行動を妨げはしなかったが「私は聖公会員」と称してゆずらなかった」。光子としてはこれだけは譲れなかったのであろう。一方で、昭和20年8月15日を愛隣館の少女たちとともに迎えたが、後にこの日を振り返って「十幾人かの少女たちが一斉に大声をあげてわんわん泣いたその光景は、少女たちにも大和魂があったという喜びと同時に、自他ともに一体となってくずれおちる生の体験であったことをいまなお私は私なりに「人生の午前」(カロッサ)が過ぎ去ったという理念から抜けだすことのできなかった時代でした」としていることからも、国策への順応を徹底して拒絶していたわけではなかったのだろう。戦後も夫婦は別の教会に通うことになるが、このあたりは信仰の問題を含め極めて微妙な心理が交錯していたのだろう。

敗戦後、清一は原点に戻り、キリスト教社会主義者として社会党左派に加わる。昭和26年には兵庫県議に当選した。清一は「社会変革をめざす理想主義的ロマンチスト、かつみずからを詩人を任じていた人ではあるが、いちめんかなりの俗気の持ち主であったと思われる」。雄弁家でもあった清一は政治家向きの人間であったといえるだろう。政治家としてやっていくためには人付き合いは欠かせない。高血圧にも関わらず健康を意に介さぬかのように飲むような人間でないと政治家は務まらないのだろうが、これは彼の命を縮めることになる。

光子はどう見ても政治家の妻といったタイプではなく、「三浦の政治活動を、光子は快く思っていなかったよう」であり、「選挙運動に協力することは、まったくなかったらしい」。また清一は共産党とも協力関係を築いていったが、光子は共産党を嫌っており、党員から電話がかかってくると「共産党の方ですね」と、「声にも不快さをあらわにしたという」。清一は光子に「きみはきみの道、おれはおれの道」と言っていたそうだが、夫婦間にそれだけ溝ができていたということでもあろう。

清一はさらに参議院議員も目指したが、社会党右派が優勢な兵庫においてこれという組織を持っていなかったうえに、健康面の不安もあり出馬を断念する。この参議院選挙が終了した直後に倒れ、一度は回復したかに思えたが再び倒れ帰らぬ人となる。「ぼくはきみの一日あとに死にたい。そうすればきみを悲しませずにすむ」と言っていたが、昭和38年、年上の妻を遺して67歳の生涯を閉じた。

光子は社会党の県連葬にしたいという申し出を断り、棺を赤旗で覆いたいという希望も退けた。しかし葬儀の際には、清一を慕っていた若者たち大勢参列し、「大聖堂を囲んで赤旗が林立した」。

では夫と完全に心が離れていたのかといえばそうではなかったようだ。光子は清一の死後に彼の大きな写真を部屋に置き、「絶えず花を供えていた」。そして毎晩のように夫の夢を見て、ある神秘体験をして、これは「煉獄から天国へ昇ったというしるしなのね。煉獄の浄というのは、ほんとうにあるのね」とつぶやいた。「あの人(三浦)が天国へ行かないで、だれが行きますか」と言っていたそうだ。

光子は昭和43年10月に亡くなる。80歳であった。


後半は光子の伝記にしては清一の記述が多いが、これは清一に関する資料がたくさん残されているのに対し光子の方は限られていたという事情もあったのだろう。また、30年以上前に書かれた本なもので、やはり男性中心主義の弊害というのも少々感じるところはあった。また別の角度から光子の伝記が書かれることがあれば、ぜひ読んでみたい。


三浦清一についてはこういう本も出ており、光子についても多く紙数が割かれているようだ。未読であるが、機会があればこちらも。






『兄啄木に背きて 光子流転』その1

2018年は三浦光子の生誕130年、没後50年にあたる。といって、三浦光子といわれてもピンとこない人がほとんどだろうが、旧姓石川、あの石川啄木の妹の光子のことである。『兄啄木に背きて 光子流転』(小坂井澄著)はその光子の伝記であるが、光子の生涯を語るうえで啄木の存在を欠かすことはできず、兄妹の伝記としてもいいだろう。





啄木最後の日々は、病と貧困に加え家族の不和と、あまりに陰鬱なものであった。そして僧侶の娘でありながらクリスチャンとなった光子は、兄との気質の違いもあって敵役的な役回りを押しつけられることもある。存命中の関係者が口をつぐんでいたために謎とされていた、啄木の妻節子と啄木の友人にして一家の援助者であった宮崎郁雨との間の「不愉快な事件」の内実を公にしたのは光子であったが(金田一京助はこれに不快感を抱いたようだ)、光子の書いた『悲しき兄啄木』では、「こうした〝事実〟を公にするのは、だれを悪者にしたいためでもなく、啄木はじめ節子や郁雨までをも偶像化するために、自分や母が不当に悪役にされていることへの抗議であると主張している」という。

光子の生涯を語るうえで啄木の存在を欠かすことはできないが、これはまた、啄木の生涯を語るうえで光子の存在を欠かすことができないということでもある。仲の良いというよりは反目し合うことも少なからずあった二人であったが、これは兄と妹が真逆の部分を持つと同時に、似た所も多々あったからでもあろう。また、明治という時代の変遷をたどるうえで啄木という人物を参照すると様々なものが見えてくるが、啄木の没後に光子が辿った人生は、昭和前期という時代のある一面を表すものともなっている。


啄木こと石川一が生まれた翌年、父一禎はそれまでの常光寺から宝徳寺に移る。これは「栄典」であったが、亡くなった宝徳寺の前住職には跡取りがおり、一禎は師を頼って住職の座を奪いとるという形となった。これによって一部の檀家の不興を買い、後の追放劇へとつながっていくことになる。「むしろ世離れした書斎派肌の彼がおそらく生涯でただ一度、欲のとりことなり、それをむきだしにしたのは、ひとえにわが子への盲愛のゆえであったろう」。姉二人に続いてついに誕生した男の子が一であった。その二歳下の光子は子どもたちでただ一人、この宝徳寺で生まれた。

ようやく誕生した跡取り息子というだけでなく、神童と囁かれるほど頭脳明晰であった一を母カツは溺愛し、甘やかして育てた。啄木のあのエキセントリックともいえる性格は持って生まれたものもあろうが、幼少期の育ち方によってスポイルされた結果という面も少なからずあっただろう。

「栄典」を果たしたとはいえ決して豊かではなかった石川家であったが、周囲から援助を受けて一人息子を盛岡の高等小学校、中学校へとやる。当初こそ成績優秀であったが、次第に文学に耽溺するようになり成績は下降線をたどる。さらに校長排斥運動に加わり、ついにはカンニング事件を起こし卒業を目前にして留年が決まると、一は自ら学校を去り、東京へ向かう。あるいはこれは、もう一年学校に通うだけの金銭に不安があったということも影響していたのかもしれない。

この後石川家は坂道を転がり落ちるように転落していく。息子の借金を返済するために寺の栗の木を檀家に無断で売却したことなども不興を買い、ついに一禎は僧費滞納のため住職の座を追われることになる。一は東京でその才能の一端を見せたものの失意のうちに帰郷。かねてより交際していた節子と結婚し娘をもうけ、小学校の代用教員となるが、父の失踪という事件も起こる。一はまたもや校長排斥運動を起こすなどして教員を辞め、彼を歌人として評価する人々が待つ北海道へ妻子と別居して渡ることになる。石川家はまさに一家離散、これ以降流浪の日々となるのであるが、この北海道行きには光子も同行していた。一にもっとも人生を翻弄されたのは、節子とともに光子であったのかもしれない。

光子は盛岡のミッション・スクールに通っていた。僧侶の娘がミッション・スクールとは妙に思えるが、盛岡女学校は節子が通っていた学校であった。年の離れた実の姉たちよりも、光子は節子を姉のように感じていたようであるし、また節子のまとう都会的雰囲気への憧れもあったのだろう。厳しい経済状況であったがなんとか学費などを工面していたものの、ついに限界に達した。実はこのとき、学費を提供するから東京で勉強を続けないかという申し入れがあった。学校側としては、成績優秀で真面目な光子が将来修道女になり教師となってくれることを見越してのことだったのだろう。これに猛烈に反発したのが両親であった。「おまえは寺の子だ。それが耶蘇の世話になるとは何事か。どうしてもというなら、親子の縁を切る」とまで言われた。僧侶であり、しかも復職に向けてあれこれ動いていた時期なので父母の立場としては当然といえば当然であるが、こうして東京で勉強して教師になるという娘の可能性を奪うことになった。こういう事態を迎えたのも少なからず一の不品行が原因であったが、彼が責任を感じるはずもなかった。


この北海道行きによって、兄妹の差異と類似がよりくっきりしてくるかのようだ。
啄木が天才歌人であったことを疑う者はいない(彼が金を生み出せる天才小説家であれば、また違った人生になっていたかもしれないが)。また啄木は教師としても新聞記者としても、やる気がある時は極めて優秀であった。しかしこのやる気が長続きすることはなかった。行く先々で人間関係で揉め事を起こすのは俗物に我慢がならなかったという彼の潔癖性を表すものともいえるが、一家が困窮していながら平気で職を投げ出すのは、甘やかされて育ったこともあって世の中を舐めていたとすることもできる。さらには、借金を重ね、親や妻子が辛酸をなめている中金が手に入れば放蕩三昧、一人東京に出てくると「売春窟」に通い倒す始末であった。

しかし、啄木はまた浮世離れした破滅型の天才とは趣が異なるところもある。啄木は次第に社会主義に、そして無政府主義に接近していくが、多くの天才型芸術家が社会という視線を持てないのに対し、啄木は鋭敏な感覚を持っていた。自分の不品行を棚に上げて不平不満を社会にぶつけていただけではないことは、二十歳そこそこで小学校の代用教員を務めていた時に、生徒の欠席理由や弁当持参状態の調査を行っていたことからもわかる。「渋民の寒村で彼はおのれ一家の窮乏を体験しただけでなく、農村の疲弊をいやというほど見せつけられた」。

「はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢつと手を見る」

啄木の放蕩癖からこの歌を嘲笑的に受け取る人もいるが、著者はこの「ぢつと手を見る」、「啄木の表情には、あきらめではなく、怒りがこめられているのを感じる。啄木は生涯を通じて、いわゆる宗教的なあきらめに逃げたことはない」としている。

光子が北海道へ渡ったのは、小樽の姉夫婦の家事を手伝うという名目であった。しかし光子は脚気などの病気を理由にしばしば母や兄のいる函館に来ている。実際に光子は病気がちであったが、また姉夫婦と距離を置こうとしていたのにも理由があった。当時は二十歳前後ともなれば結婚適齢期であり、ましてや一家は経済的危機にある。鉄道会社に勤めそこそこ成功している義兄からすれば、当然この義妹を早く嫁に出したいし、また悪くない縁談を用意するだけのコネも持っていた。しかし光子はこのような押しつけられた縁談は断固拒否をした。光子は家族から冷ややかな視線を浴びながらも教会へ通い、小樽で洗礼を受け、伝道の道に入ることを決意する。そして、北海道での「生まれてはじめてのアイヌとの身近な接触は、差別され、しいたげられた人々、聖書のいう「小さい人々」に光子の目を開かせた」のかもしれない。

啄木はミッション・スクールに通うようになった妹に聖書を送るなど、聖書などへの関心はあったが、キリスト教信仰に惹かれることはなく、信仰を持った光子に侮蔑的な態度さえ取った。

放蕩三昧の兄と生真面目な妹は水と油のようであるが、一方で「国家の「強権」という「当然敵とすべき者への無気力な服従こそが時代を閉塞させているのだと主張」することになる兄と、「小さい人々」への共感を持つ妹とは、強度は異なれど似たメンタリティを持ってもいたともできるだろう。何よりも、こうと決めたら周囲から何と思われようが頑なに自分の意志を貫くという自我の強さは、兄妹が共有するものであった。


東京で啄木夫妻と母は結核に冒され、職を持たぬ父まで加わり、一家は病苦と貧困にあえぐことになる。このころ光子は伝道師となるべく学校に通っていた。夏休みなどに啄木一家を訪ねると、激しくやり合うこともあれば兄妹が再び心を通わせることもあった。

経済的困窮だけでなく肉体も病んだ一家の惨状をみかねた光子は、学校に戻ると舎監に相談し、その舎監は東京の「婦人伝道師」の「田部姉」と「英国婦人宣教師」のミス・サンダーに見舞いにいかせた。これは布教活動の一環でもあり、啄木は「おれはそんな奴に来られる事はいやだ」と光子に拒絶の手紙を送っている。サンダーは千葉県北条の結核療養所「養生院」での転地療法を勧めたが、これも啄木は拒否している。啄木の健康状態は悪化し、これ以降は日記も数行のメモばかりとなる。

母カツの危篤の報せが光子のもとに届いたが、学校は光子が見舞いに行くのを認めず、代わりに学校から見舞金が出たので光子はこれを送った。「金と光子の手紙が届いたのは、母が息を引き取る前の夜であった」。「死の床で、母は「みい、みい」と光子を呼んだそうである。すぐ上の一人息子にかまけて幼いころからあまり面倒を見てやれなかった末の娘を、カツはいつもこう呼んでいた」。

光子はまたも学校から許可がおりず、兄の死にも立ち会えなかった。啄木の死から一か月後、北条から分厚い手紙が届く。身重の節子は、光子のはからいで啄木が拒否した療養所に入っていた。節子は臨終の模様をこう伝えている。啄木は「死ぬ事はもうかくごして居ましても何とかして生きたいと云う念は充分ありました。いちごのヂヤムを食べましてね――、あまりあまいから田舎に住んで自分で作てもつとよくこしらえようね等と云ひますのでこういう事を云はれますとただただ私なきなき致しましたよ」。啄木27歳であった。

井上ひさしの『泣き虫なまいき石川啄木』は夫を亡くしたばかりの、療養生活を送る節子から始まる。節子も翌年に28歳で亡くなることがわかっているだけに、芝居の観客としては涙なくして見ることはできない(といっても僕は戯曲を読んだだけで芝居は見ていないのでありますが)。

啄木といえば、あとは残された二人の娘がやはり若くして亡くなったことなどにもよく触れられるが、その後光子がいかなる人生を送ったかについてはあまり顧みられることはないだろう。

裕福であった宮崎郁雨はかつて啄木に対して光子と結婚したいということを何度かもちかけたことがあったが啄木はこれを拒み、郁雨は最終的に節子の妹と結婚する。義理の兄弟となった啄木夫妻を経済的に支援したが、節子の写真を所望するという「不愉快な事件」を引き起こし、啄木は郁雨との関係を絶った。啄木は節子に自分の死後に「函館へ行くな」と言明していたが、幼い子ども二人を抱えた節子が頼れるのは郁雨だけであった。

節子が住んでいた家にはまだ荷物が残っており、節子は光子に「またすぐに帰ってくる」と伝えていた。実際にそのつもりであったのかもしれないが、もう身体はもたなかった。聖公会の伝道師となった光子は札幌に赴任することになる。光子は療養所にも節子が身を寄せた郁雨とも連絡を取る余裕がなく、札幌に向かったところで、療養所に「セツコキトク」の電報が届いていた。光子が札幌に着いたちょうどその頃、節子は函館で亡くなる。郁雨は金田一京助に宛てた手紙に、節子が最後に「みなさん、さようなら」とはっきり告げたとしている。

といったあたりで長くなったのでその2に続く。



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