『分解する』

リディア・デイヴィス著 『分解する』




原著は1986年に刊行された、デイヴィスの「実質的」なデビュー作である。いかにも短編小説といった形にまとめた作品もあれば、ほんの数行の、作品の構想メモではないかと思いたくようになるほどのそっけないもの、あるいは散文詩に近づいているような作品まで、多種多彩な短編集となっている。

その中で、本書収録の作品の多くが不安というものをモチーフにしている。「セラピー」や「情緒不安定の五つの兆候」といったタイトルにあるように、精神医学的な意味での不安もあれば、この世界や日常にぱっくり口を開けている、形容のできない不安に侵食されていくかのような作品もある。

この「不安」のヒントになっているのが、夫であったポール・オースターとの離婚をめぐる経過を描いたかのような作品であろう。気まずさや苛立ちと共に、過去のほのぼのとしたかのような回想風のものまであり、元夫の立場から書いたオースターの『孤独の発明』と読み比べてみるのもいいだろう。表題作の「分解する」は、女性と別れた男が彼女との過去を金銭的に計算して清算しようとして、かえって混乱していくことになるが、ここにデイヴィスの心理をつい見たくなってしまう。

とはいえ、もちろんデイヴィスは凡百の私小説作家などではない。「フランス語講座 その1 Le Meurtre」はフランス語の授業の模様を再録しているかのようで、血生臭い香りが漂ってくることとなる。「バイオリンのスズキ・メソードの創始者、鈴木鎮一の自伝をコラージュ」した「ある人生(抄)」や「W・H・オーデン、知人宅で一夜を過ごす」は伝記から適当に抜書きしたようでいて、並みの人間にはできない独特の雰囲気を醸しだすことに成功しており、デイヴィスの面目躍如といった作品になっている。デビュー作には全てがあるなんてことが言われるが、デイヴィスはやはりデイヴィスであり、その世界を堪能できる。


なお「訳者あとがき」で岸本佐知子は、「フランス文学のすぐれた翻訳家」としても知られていたデイヴィスが「フランス語の翻訳はひと区切り」として、「近ごろではさまざまな言語に関心の対象を広げている」ことに触れている。「ドイツ語、スペイン語はすでに習得し、現在はノルウェー語、オランダ語を独学中で、スペイン語で『トム・ソーヤー』を読んだり、オランダ作家A・L・スネイデルスやノルウェー作家ダーグ・ソールスターの小説を翻訳するなど、さまざまな試みに取り組んでいる」。

こちらにあるように、デイヴィスはノルウェー語を辞書を使わずに独習するという、なんとも凄まじいことをしているのであるが、これはフランス語をはじめとしてヨーロッパの複数の言語に通じているからこそできることで、良い子は真似をしないように!(というかできないが)。


またオースターは『内面からの報告書』で、かつてより直接的にデイヴィスとの過去について触れている。


『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』

『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』





村上は「これまでやってきた翻訳の仕事について、なんらかの形で本としてまとめておきたい、一冊一冊について少しばかり語っておきたい」というのがしばらく前から頭にあったそうだ。しかしどのタイミングで「区切り」をつければいいのだろうと思っていたのだが、最初の翻訳書の刊行からおよそ35年を経たということで「思い切ってこのような本を編むことになった」。

単行本としての翻訳第一作のフィッツジェラルドの『マイ・ロスト・シティ』から最新のジョン・ニコルズの『卵を産めない郭公』までほぼ網羅的にコメントをつけている「翻訳作品クロニクル」と、「翻訳の師匠役」である柴田元幸との対談「翻訳について語るときに僕たちの語ること」がメインコンテンツで、村上の初めて活字になった翻訳である「サヴォイでストンプ」も再録されている。


「翻訳作品クロニクル」は訳すきっかけや裏話などが満載で、まさに僕がそうなのだが、村上の訳書を数多く手にしている読者は楽しめるだろう。おなじみの話もありつつも初めて知った話も結構あった。

作家にまつわる面白い話としてはこんなものがある。
ポール・セローと個人的に交友するようになって知ったのは、『ワールズ・エンド』の「緑したたる島」はセローの実体験を基にしており、恋人を妊娠させて駆け落ちしたというのは本当にあったことなのだそうだ。結局子どもは養子に出し、女性とも別れてしまったのだが、セローが最近ケープゴットで知り合った男と話していると、なんと彼がその息子であったことがわかったという。株か何かで大儲けして40歳手前で引退して悠々自適の生活を送ってるそうで、生物学上の父親としてはほっと一安心したことだろう。セローは何らかの形でこれを書きそうな気がするが、まさに「事実は小説より奇なり」、小説の続編として書いたらいくらなんでも……と思われそうだが、実話だったら仕方がない。




ル・グウィンの『空飛び猫』シリーズはある読者から「こんな面白い絵本があるけれど、村上さんが訳したらいかがですか?」と本が送られてきて、これが面白いので訳すことになったのだが、「その読者というのは実はポスドク時代の福岡伸一さんだった」。このエピソードどこかで読んだ気がするのだが、どこでだったか。




村上が訳している作家の中で僕が個人的に最も思い入れがあるのは誰かときかれたら、それはティム・オブライエンかもしれない。個々の作品の質がどうこうではなく、オブライエンは僕にとって大切な、特別な作家であり続けている。村上がオブライエンに同志的感情を持っていると繰り返し書いていることはうれしいのだが、最後に訳した『世界のすべての七月』でのコメントが「オブライエンの新作に期待がかかるのだが」で締めくくられているのが哀しい。頑張って書いておくれよ、ティム。





『卵を産めない郭公』は60年代半ばのアメリカの大学を描いたものだが、学生たちのスラングにわからないものが多かったことから村上と同年齢であるテッド・グーセンに訊いてみると、「ひとつ前の世代の言葉だからわからない。この人たちは酒ばかり飲んでいるけど、僕らのころはみんなマリファナをやっていたからことばもちょっとちがう」とのことだったそうだ。

翻訳アンソロジーとして編んだ『バースデイ・ストーリーズ』に村上が書いた「バースデイ・ガール」は教科書に使われることが多く、高校生だった姪から「おじさんが書いた小説、学校で読まされたよ」と言われたそうだが、この姪っ子の世代からしたら60年代半ばも後半も同じようにしか見えないだろうが、「ひとつ前の世代」といっても実際にはほんの数年のこととはいえ、しかしこの世代はほんの数年で文化も言葉もがらっと変わっているもので、当時を知る人間だからこそかえって別世代に思えてしまうのかもしれない。






今回改めてまとめてみて、「そのあまりの数の多さに自分でもいささかたじろいでしまった」そうだが、村上春樹が翻訳を出すと聞いても日本では驚く人はいないが、これは世界的に見ても稀有とまでは言い過ぎかもしれないが、かなり珍しい例だろう。このあたりについては「翻訳について語るときに僕たちの語ること」でたっぷり触れられている。

村上春樹と同世代、あるいは同時期のデビューでいうと、村上龍、高橋源一郎、田中康夫といったあたりは(どこまで本人がやったかはともかく)若いころに訳書を出しているが、ほんのわずかでそれっきりとなっている。池澤夏樹はもともと翻訳もやっていた人というのもあるのだろうし、アンゲロプロスの字幕を含めその数は比較的多いが、それでも春樹と比べることはできない。古井由吉をはじめ外国文学の研究者から作家になった人はたくさんいるが、こちらも研究者時代に訳書を出していても、作家としての地位を確立した後はやめてしまうか、数がぐっと減る人がほとんどだ。対談でも触れられているように、ポール・オースターも若いころはかなり翻訳をやったが、こちらも作家として成功するとやらなくなった。オースターの元妻のリディア・デイヴィスは現在進行形で翻訳を行っているが、作家が継続的に翻訳を行い続けるといった例はやはり少数派のようだ。

村上はなぜこれほど翻訳を数多く行うのだろうか。それは当人も語っているように、村上には文学上の「師」と呼べるような存在や文学的同志というのがいなかったが、翻訳という作業を通して先人から学び、同世代の精神的仲間を発見できたというのが大きかったのであろう。それよりも何よりも、繰り返し書いているように、やはり翻訳を行うということ自体が好きだというのが最大の理由なのだろう。村上といえばマラソン好きであるが、こうしてコツコツと、毎日一歩一歩を重ねていくという作業が性に合うのだろう。翻訳をやめてしまう作家たちは、「自分で書けるんだからそんなことに時間と労力を取られたくない」ということなのかもしれないし、このあたりは小説家としての方法論がどうというよりは、まさに好みの問題とすべきなのかもしれない。

明治といえば翻訳の時代でもあったが、夏目漱石は若い頃にちょろっとやっただけであとは行っていない。晩年(といっても40代後半だが)になってもかなり貪欲に英語、ドイツ語で洋書を読み漁っていたので、外国文学に関心を失ったのではなく、翻訳することに気が向かなかったということなのだろう。

これと対照的なのが森鴎外で、「手に入ったものはなんでも、どんどん訳しているという感じ」で、翻訳ジャンキーとすらいっていいような存在であった。
村上は「それはもうキャラクターですかね。使命感というよりは」と言っている。啓蒙という意図もなかったわけではないだろうが、それでは説明のつかないようなことまで鴎外は行っている。

柴田はこれに関連してこれを受けてこう言っている。「キャラクターですね。翻訳もそうだし、岩波文庫で出ている『椋鳥通信』、あれはようするにシベリア鉄道経由でドイツから新聞を取り寄せて、こんな記事があった、あんな記事があったというのを、ただただツイッターみたいに書いている。それも匿名でやっていて、当時の「スバル」に載っていたけど、人気もそんなになかったらしいんですよね。だれも喜ばない。だけどやっている。そういう取り込んでは出す、というのを、ちょっと異様なくらいにできる人だったんですね」。

太宰治にツイッターなんぞをやらせたらヤバ過ぎるというのはよく言われるが、鴎外もツイッター的なツールを手にしていたら、匿名のサブアカで鬼のようにひたすらつぶやきまくる「ツイ廃人」にでもなっていたのかもしれない。匿名での連載が人気もないし「だれも喜ばない。だけどやっている」というのには思わず笑ってしまう。

これと一緒にしていいのかはわからないが、村上も80年代にはアメリカの雑誌を読んで面白そうな記事をピックアップするという連載をしていて、『THE SCRAP 懐かしの一九八〇年代』という本になっている。この本は今パラパラ見ても(今見てます)引っ越しの途中の古新聞のようについ読みふけってしまうのだが、こういった感じのちょっと肩の力を抜いて海外の最新文化やらゴシップやらを独自の角度と関心で紹介するコラムってすっかりなくなってしまったような気がする。それこそSNSで探せばそういうことをしている人は今でもたくさんいるのだろうけど。





ポーの『モルグ街の殺人』を『病院横町の殺人犯』として訳しているが、名訳とされるアンデルセンを含め鴎外の翻訳はすべてドイツ語からで、時代のせいもあったのだろうが、重訳はいっさい気にしなかった。

村上は訳す側であるとともに訳される側でもあり、重訳の問題についても意識せざるをえないので、そのあたりにも触れられている。訳される側の立場についても語られていて、ジェイ・ルービンの本にもあるように、村上は翻訳者に気遣いをするタイプの作家である。一方で口うるさいといえばサリンジャーのそれは有名で、ここでもいろいろなエピソードがある。村上は『キャッチャー』を訳したときにダメ元でサリンジャーにインタビューを申し込んだが、もちろん断られたそうだ。初めて知ったのがフィリップ・ロスについてで、ロスは「訳者あとがき」を英訳して送ってくれだとか、日英両方できる人間に訳をチェックさせてリポートを書けといった要求をしてきたのだそうだ。別に悪意があってやっているのではなく、「自分の作品がどう訳されるかをすごくきちんと考える人」であるが故の(行き過ぎた?)熱心さによるものとすべきなのだろうが、ロスは重要さの割に未邦訳の作品が多い作家であるが、もしかしてこういうことも影響してたりして。





サリンジャーといえば、やっぱり野崎孝訳一択という人は今でもかなりいそうだが、村上は『キャッチャー』を訳した時に野崎訳を読み返してみたら「すごく正確」であったとしている。柴田もこれに同意して、「インターネットのない時代に、どうやってここまで調べたんだろうってくらいに」としている。

ご存じの通り、庄司薫の『赤ずきんちゃん気をつけて』はサリンジャーその人というよりも野崎訳サリンジャーの強い影響下にある。野崎孝の仕事とその影響というのはきちんと論じられ、もっと顕彰されるべきだというのが僕の昔からの勝手な持論なのだが、誰かやってくれないだろうか。





やってほしいものといえば、こんなやりとりがある。
「柴田さんは前に、高校生向けの英文和訳の本を出したいって言ってましたよね」。
「ええ、高校生にも「読める易しさの、読んで面白い小説やエッセイが並んでいて、詳しい注釈があって文法的なこともひとおり学べて……という画期的な本を作って未来の村上春樹に読んでもらいた(笑)」。

いや、「(笑)」ではなくてこれすぐにでも実現してほしいと思っている人は多いはずですよ、柴田先生! と声を大にして言いたい。高校生に限らず、もう一度英語をやり直して原書にチャレンジしたいという需要もそれなりにあるだろうし。昔は『トリストラム・シャンディ』の訳者としても有名な英文学者の朱牟田夏雄が英文読解の本を出していたり、こういうのは結構あったのだが、近年は英文学者による英語教育というのに否定的な風潮が広まったせいか、絶滅したわけではないがあまりみかけなくなってしまった。






柴田はある時期に英文解釈の問題集を訳すのが楽しくてしょうがないといった感じになったとして、こう続けている。「高校二年か三年かなあ。翻訳に開眼したのはそのときですね。日比谷高校で、生徒のほうはともかく、いい先生がまだいっぱいいた時代でしたから、英語の授業はよかったですよ」。
日比谷高校といえば昔の一中であるが、このあたりは旧制中学・高校の残り香があったのだろう。

村上はこれを受けてこう言っている。「僕は神戸の公立高校だったけど、灘高の生徒と同じバスに乗り合わせたりすると、難しそうな原書を抱えていたりして、「ふん、なまいきなやつらだな」よく思いました。僕らは普通の公立高校だからぜんぜんそういう雰囲気はなくて、英語で本を読んでいる生徒なんて誰もいなかったです」。
村上も相当な進学校である神戸高校出身なので「普通の公立高校」としていいのかとは思うが(村上の自分は勉強できなかった話は割り引いて聞く必要がある)、こちらには旧制中・高校的エートスは残っていなかったということなのかもしれない。

もちろんごく一部であろうが、当時「難しそうな原書」を抱えた高校生がいたということは朱牟田のような学者の手掛けた英文解釈本に需要があったはずである。灘高校といえば、灘で高橋源一郎と、東大で内田樹と友人で、その早熟な知性が鮮烈な印象を与えたという竹信悦夫がいるが、『ワンコイン悦楽堂』での高橋と内田の回想を読むと、昔はすごい人がいたものだと思ってしまう。浅田彰は高校生の時に蓮見重彦に誤訳を指摘する手紙を送っていたなんて有名な逸話もあるが、浅田あたりの世代が最後で、今ではこういったタイプの驚異的な秀才は……というか、今の高校生については何も知らないので、実際には今でもどっこいやはりそういう高校生はしっかりといて、竹信と同じように表に出ていないだけかもしれない。





日本では旧制高校に代表される教養主義というのが(かつての実態はともかく)すったりすたれてしまい、それを危惧してアメリカの名門大学のリベラル・アーツ教育を見習えなんて声も近年はよく聞こえる。しかし、英語圏において翻訳者の地位が低いというのはよく聞く話であるが、とりわけアメリカの大学では翻訳を積極的にやっていると、「アカデミックな世界ではあいつら翻訳ばかりやって」と見られてしまい、「若手は翻訳をやらない方がいいとアドバイスされたり、ペンネームで訳したりする。テニュア(終身在職権)を取るまでは、翻訳ばっかりやってるやつというふうには見られないほうがいいと考えられているみたいです」なんてのを読むと、アメリカの大学もそれはそれで何やっとんじゃいというところでもある。日本でも昔はミステリーなどエンタメ系の小説をペンネームで訳していた研究者はいたが、アメリカでは研究者による翻訳は純文学系でも若手は後ろ指さされるのを覚悟するか、裏稼業のようにこそこそやらなくてはならないのか。


村上春樹と柴田元幸の出会いのきっかけは、村上がアーヴィングの『熊を放つ』を訳すときに、これまでやっていない長編の翻訳だから自信がなく、「ちゃんと英語のできる人に洗ってもらいたい」と担当編集者だった安原顕に相談したところ、安原が5人のチームを集めて、その中に柴田も含まれていたのだった。
村上は「不思議なのは、英語がそんなにできない人も入っていたことですよね」としているが、国文学が専門の武藤康史は「日本語の達人」として声がかかり、「この日本語、合ってる?」とお伺いをたてられていたのだそうだ。こんなことをしてれば当然経費はすさまじく嵩むわけで、今ではとてもできないと振り返っている。バブルの直前の時代で、とりわけ雑誌は高騰する広告料で相当に儲かっており、出版社にうなるほどカネがあったからできたことであったし、そんな時代でなければ二人は出会わなかったのかもしれない(なんて書き方をするとまるで夫婦にでもなったかのようだが)。

村上と安原の間にはその後あれこれ起こるわけだが、この対談を読むとわかるが、デビュー間もない作家にやりたいことをじゃんじゃんやらせてくれて支援も惜しまなかった安原のような編集者なくしては、村上がこれほど翻訳にのめり込むことはなかったかもしれない。あの一件の後では村上は安原の名前など目にするのも嫌だとタブー化してもおかしくないのだろうが、ここでも積極的に名前をあげているように、そうはしないのは村上なりに感謝の念を捧げているということなのだろう。没後に表沙汰にしたことには批判もあったが、村上なりのフェアな態度を貫いているともできる。





このようにいろいろと時の流れというのも感じさせる本でもあり、カバーに使われている本棚の写真に、外国文学にまじってフジモトマサルの本があるのも、早世したフジモトへのオマージュとしてだろう。




それにしてもこの本棚、基本的にはテーマ別、作家別に分類しているのであるが、カーヴァーのコーナーにバーセルミの原書が一冊まじりつつ、ちょっと離れた、見切れる寸前の左っ側には『死父』の訳書がある。スペースの関係で収まりがいいから分離されているのかもしれないが(ぴったり収まっている)、なまじそれなりに整理分類されているだけに、こういうのを見せられるとどうも落ち着かない。写っているのは全体のごく一部で、家の本棚全てを見せろとはいわないが、せめてこの一面だけでも全体を確認させて欲しい……



『若い詩人の肖像』

伊藤整著 『若い詩人の肖像』





1956年に刊行された、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)入学から東京商科大学本科(現・一橋大学)時代までを扱った伊藤整の自伝小説。

伊藤は小樽商高卒業後に、新設された市立小樽中学校の英語教師となった。ここに小坂英次郎という中年の教師が赴任してきた。小坂は苦労人だけあって肝が据わっているようで、たくわえている髭について教頭がはやしていないのだから剃るようにという圧力もどこ吹く風で、「わしの髭は、苦学して納豆を売って歩いた時代にも剃らなかったのだから、たまたまこの学校の教頭に髭がないからと言って剃るわけには行かん」と、「彼は真剣な顔で言った」。

小学校の校長を務めたこともあり、こういったときの小坂の表情は威厳のあるもので、「うかつにからかうことのできないような風格があった」。
しかし小坂は「にやっと顔を崩」すと、こう言うのだった。
「うちの教頭はどうも朝鮮の系統じゃないかな? 古来裏日本は大陸方面との交通が頻繁であったというのは、歴史の証明するところなんだから」。

こういうのを読むと、気に入らない人間を「在日認定」するというのは日本の「伝統」を引き継いでいるのだなあと嘆息してしまう。
それにしてもぞっとするのは、小坂はこの二重の差別を冗談として口にし、教員たち「皆を笑わせ」るのに成功していることだ。伊藤も(少なくともこの作品の中では)小坂の発言に不快感を持ったという描写はなく、むしろこの時点では大胆不敵な小坂に好感すら抱いている。さらに暗澹たる気分にさせるのは、これが関東大震災からわずか数年後であるということだ。

商高在学中に関東大震災の一報を目にすると、伊藤は「いつか自分がそこへ行く予定になっていた幻のような大都市が、美と悪徳と誇りを持ったまま、バビロンのほろびた時のように、人間の予見できない大きい力に打ちのめされて滅びたのだ、と思った。私は、その幻のような都会を見ないうちに、それが滅びたことを残念に思った。そしてその時にはじめて、私は、自分が東京へ行くことを長い間夢想していたことに気がついた」。

しばらくすると、「内地の郷里に帰っていた同級生のうち、関東地方出身者の語る体験談、震災のときに流布された朝鮮人襲撃騒ぎの噂の恐怖などが、しばらく話題になった。殺された社会主義者大杉栄のことや、無実の理由で斬られた朝鮮人や、池の中で焼かれた吉原の娼妓の話などが珍しがられなくなった頃、この町にまた秋がやって来た」。

この書き方から、伊藤が数多くの朝鮮人がデマを基に虐殺されたのを認識していたこと、そしてその事実にそう強い衝撃を受けなかったことが推察できるし、これは伊藤のみではなかったのだろう。だからこのわずか数年後に小坂はあのような軽口を叩き、同僚の教師たちも諫めるどころか一緒になって笑うことになる。

この作品の影の主役ともいえる存在が小林多喜二である。伊藤は中学時代にすでに、小林の存在を認識していた。伊藤は商高に進むと某教授を攻撃する学校新聞を目にし、軍事教練反対運動を思い出した。「自分もまたその騒ぎの中に引き込まれるのではないかという、怖れとも期待とも分からない胸騒ぎ」を感じた。そして学校で小林とすれ違ったとき、「あの新聞で教師攻撃をしているのは小林の仲間にちがいない、と直感的に悟った」。小林のほうは伊藤の表情を見て、「見知らぬ他人に自分を覚えられている人間のする、あの「オレは小林だが、オレは君を知らないよ」という表情」を浮かべた。

その後小林も伊藤を認識するようになり、互いに一目置いていたようではあるが、文字通りにしょっちゅうすれ違っていた二人であったが、結局交わることはなかった。関東大震災後の憲兵による大杉や伊藤野枝らの殺害は、後の特高による小林の殺害を予告するものでもあるが、伊藤はここでそれへの目くばせを行っていない。アナーキストである大杉を「社会主義者」と書いていることからもわかるように、同年代、同郷である小林の辿った道は伊藤のそれとは大きく離れたものとなっていく。小坂による差別発言とそれへの抵抗のなさをあえて記したのは、この後に生じることになる隔たりを象徴しようとしたものかもしれない、とまでするのはさすがにうがちすぎか。


小林をめぐってはこんなエピソードもある。商高の図書館は館長をしていたある教師の影響からか、文学書が多かった。伊藤は図書館に通い詰めるが、「すると私は、それ等の本のどれもが、私が借りる前に、あの顔の蒼白い小林多喜二に読まれていることを、自然に意識した」。

伊藤は「外の教師や生徒たち」ならばいくら読まれていようが気にならなかったが、これが小林では、「あいつが読んだ後では、私は自分の読んでいる本の中身がもう抜き去られているような気がした」のだった。小林の関心は主に小説にあり、彼が小説を書いていることを知っていた。小説よりも詩に関心を持っていた伊藤は、「詩ならともかく、小説を読んでいる時は、私には分からないカンジンの所を、小林の方が分かっていて、それをみんな吸収してしまっているに違い」ないと感じたが、「私が小説を嫌ったのも、この気持ちのせいであったのかもしれない」。

高校、大学などに進んで図書館の本を漁るようになると、常にある人物が先回りするようにすでにその本を読んでいることを発見し焦燥感にかられるというのは、ある時期までの小説や回想によく出てくるエピソードである。

『耳をすませば』のようなことを妄想してしまうのは、あまり図書館通いをしない人なのかもしれない。個人的には自分が借りた本の履歴を他人が把握していると想像すると、ありえない話であるが、たとえ相手がどんぴしゃの好みの女性でありその結果として自分に好意を寄せてくれるようになるのだとしても、勘弁してほしいと思ってしまう。今ではほとんどの図書館で手書きカードで貸出を管理することはなくなったのでこういったことは起こりえなくなった。何かとアナログにノスタルジーを抱きがちな傾向にあるのだが、こればかりはデジタル化されてほんとによかったと思う。もっとも、近年のツタヤ図書館など見ていると、そのうちに「あなたの貸し出し履歴からおすすめ本です」なんて広告メールが送られてくるようにもなりかねないという危機感も大袈裟なものではないし、改めてパブリックなものの重要性について考えてしまう。


パブリックといえば、こんなエピソードにも注目できる。
新設の市立小樽中学はしばらく校長不在であったが、熊本県立第一高等女学校の校長だった吉田惟孝が転任してきた。吉田は外遊経験があり、複数の著作も刊行している、「中等学校長としては古手の著名な人物」であった。吉田は五十代半ばほどで、「ダルトン・プランの理論家」であった。

伊藤は「生まれてからこれまで遭った人間のうちで、この男が一番偉いかもしれないという、妙なことを考えた。学問とか地位とかいうものと別な、人間としての確かさとか、人間を見定める力の確かさとか言うべきものが、彼のその大工の棟梁じみた風貌に漂っていた」。

21歳だった伊藤は、近代イギリス詩や世紀末フランス詩、それらに影響をうけた日本の近代詩を読みふけっていたことから「古風な道徳意識に対する信頼を失っていた」。しかし吉田には「何か物を言い出す度に道徳主義の仮面をかぶるという古い教育家のようなところがなく、また教育を技術や事務として片づける技術家の性格も見えなかった」。

英語の専門家でもあった吉田は「一年生には簡単な英会話を繰り返して教えるのがよいと私たちに言い、英会話のレコードを売っている所をさがして蓄音機とレコードを註文」させた。
「ハロルド・パーマアという発音学の専門家がイギリスから招かれて、全国の英語教育の指導をしている時であったから、レコードはパーマアの吹き込んだもの」だった。

今でこそ外国語の音声教材など無尽蔵といっていいほど山のように簡単に手に入るが、1920年代はこれが手一杯だったことだろうし、苦労がしのばれる。こうして伊藤ら中学の英語教師は会話の練習を半ば強要されることになる。

吉田の指導方針はオーラル・メソッド、あるいはダイレクト・メソッド的発想であろうが、1クラス50人であったことを考えるとこのやり方はあまり現実的でないように思えてしまうが、吉田が机上の空論に固執する教育家であったのかといえば、むしろ逆であったようだ。

吉田は生徒の家庭訪問を行うが、イギリスで買った古ぼけた帽子と、「ゴムがすっかり伸びてみっともなくなった靴」といういで立ちだった。この靴は簡単に脱げ容易に履けるので「日本の生活に適しているというのが彼の意見であった」。
「彼は日本の知識人のように、洋服の型に合わせた身のこなしをする、という気配が全く無く、ハッピ型、股引型に洋服を無造作に身につけている、という風で、便利だから着ているという気持ちがはっきりしていた」。
背広を固く着込んでいた伊藤は、吉田を軽蔑したいと思ったが、逆に「どうしても彼を尊敬しないでいるわけにはいかなかった」。

家庭訪問など小学校の教師のすることで、ましてや中学の校長がするなどという話は聞いたことがなかったが、吉田はこれを熱心に続け、それでいて「私たち教師に訓戒じみたことは言わなかった」。吉田は毎日教員室の隅の応接用テーブルで教師たちと一緒に弁当を食べ、一軒一軒の家庭訪問の様子や「この土地の人々の気風や特色」について語り、「それだけで私たちは、完全にこの校長に支配されてしまったことを感じた」。

熱心にして実務型、やり手の校長であった吉田は、さらなる授業の「改革」に乗り出す。それまで50人ずつ2クラスであった2年生を、30人ずつ3クラスに再編し、A組に「最も出来る子」、B組に「普通の子」、C組に「出来の悪い子」と振り分けるというのだ。「C組には教科書を普通より緩慢に、繰り返し教え」、B組は「普通の速度で教え」、A組は「その他に課外の授業をして、出来るだけその学力を高めてゆく、というやり方であった」。

吉田は「現在のやり方は、公平でなく、秀才と出来ない子と両方にとって不幸」であり、こうすることで「どの子にも納得の行く、無駄のない教育をすることになる」と言った。しかし伊藤は「冷酷なことをするものだ」と思い、吉田の奉じる「ダルトン・プランなるものが一種の秀才教育であることを、私は理解した」。

教頭は父兄から苦情が出るのではないかと懸念したが、吉田は「よく話せば分かることじゃ」と言い、父兄会では「秀才教育だという感じを与えないように、鈍才に重きを置く方法だという印象を与えるように説明した」。吉田は「黙り込んだ父親や母親の前で、ゆっくりとした口調で、念を入れるように説明した」。

「出来る子の父母は、上の学校に入るのに自分の子が有利になることをすぐさま理解し、出来ない子の父母は、悲しみをもって諦めた」。
まだ若く経験も浅い伊藤ですらこれが「冷酷」な「秀才教育」であると感じたのだから、父母たちもすぐにそれを悟ったのであろう。

伊藤はこれによって「以前のようにどこに分からない子がおり、どこかに退屈している子がいるという、いやな気持から抜け出すことができた」としている。「出来るクラスの二年生に馬鹿にされないように、英語の作文や英会話を準備した。また出来ないクラスに出た時は、その子供たちを哀れに思う気持ちが自然に湧くので、その感情に従って、念を押し、繰り返し、ほんの少しの事を生徒が覚えると、本当にうれしいと思うようになり、結局熱心な教師として働いた」。

伊藤は英語教師として吉田の改革に適応したのであるが、はたしてこれを美談としていいものであろうか。
ふと思ったのが、いわゆる「ゆとり教育」についてだ。寺脇研など一部の文部官僚は「善意」でこれを推進したのかもしれないが、三浦朱門が自らゲロっているように、教育行政に影響力を持っていた右派文化人にとってはこれは一部のエリートとそれ以外とを峻別する手段に外ならず、教育に資本を割ける層と日々の生活で手一杯の層との、階層の固定化を狙ったものであった。

とりわけ外国語学習は、「合理的」に割り切れば習熟度別クラス編成の方が「効率的」で、学力は向上しやすいであろう。しかし公立学校がこのような教育でいいのだろうか、学力の向上さえ図れれば、何かを犠牲にしてもいいのだろうか、という問いを置き去りにしてはならないだろう。

吉田がいかに綺麗ごとを並べようとも、「出来ない子」の親は正しくもその狙いを見抜いたのであるが、「悲しみをもって諦め」るより他なかった。親ですらこうなのだから、当事者である子どもたちにとっては重いスティグマであり、屈辱感もあっただろう。たまたま伊藤のような熱心な教師にあたればいいが、「出来の悪い子」になど何を教えても無駄だとぞんざいな授業をする教師も出てくるだろうし、学習のモチベーションをあえてそぐような挙にまで及びかねない危険性もある。「出来の悪い子」にとっては「運」によって左右される要素がさらに高まってしまう。

小規模の新設校であったことから吉田はここを自分の教育の理想に近づける場だと思っていたのかもしれない。
「若し日本の中等教育が公立や官立の形をとらず、私立寄宿学校の形式で行われ、その資金を手に入れることが出来れば、吉田惟孝は私立学校を経営したに違いなかった。五十歳を幾つか過ぎた彼は、この学校を、そのダルトン・プランの系統の理想教育を実現し得る場所として選んだのであった」、と、吉田の赴任後間もなくに伊藤は考えた。

ここにあるように、吉田が理想としたのはおそらくは寄宿舎制度によるイギリスのパブリック・スクール的なものであろう。「パブリック・スクール」は「パブリック」という言葉とは裏腹に公立学校ではない。吉田のようなやり方は一部の特権階級が通う私立学校においては「効果的」であるのかもしれないが、公立学校にふさわしい形式であるかといえば、疑問を抱かざるをえない。

ある意味で面白いのは、明治大好きであるはずの右派文化人や自民党文教族のほとんどが、パブリック・スクールからの影響も受けた旧制高校制度へのノスタルジーを一切持っていないことだ。彼らにとっての「エリート教育」とは一部の特権階級が享受するものであるか、特権階級へ奉仕する人間を育てる場にすぎないのだろう。右派財界人の代表格であるJR東海葛西の肝いりで作られた某学校が、旧制高校とは似ても似つかないものになっているのは象徴的だ。教養主義の色彩が強い旧制高校など、むしろ目障りな存在となるのだろう。「近代」的システムの認識という点でも現在の右派界隈というのは明治時代の制度設計者以下であり、これは教育以外の面でも顕わとなっている。

個人的には「秀才教育」(つまりエリート教育)を全否定しようとまでは思わないが、それが貧しかったり、「出来の悪い子」を犠牲にする形でしか実現し得ないのであれば、絶対に反対である。パブリックなものにはパブリックな役割があるし、それは損得や効率だけで測れるものではない。

明治政府とは疑似王政復古と疑似近代化とのキメラであり、その結果としてあのファナティシズムが生まれることになった。パブリックなものを担う市民を育てるのではなく、権威・権力への服従という形でしかコントロールしようとしなかったことがあの破局へとつながっていった。日本人のパブリックなものに対する感覚の弱さは戦後も克服できなかったどころか、近年むしろ悪化しているかのようの思えてしまう。これは日本に限ったことではなく、パブリックなものを攻撃し、それをプライヴェタイズ(民営化/私営化=私物化)していくというのは「新自由主義」の一つの特色であり、世界各国で起こっている現象でもある。右派と机上の空論を弄ぶ経済学者とによって押し進められる「バウチャー制度」をはじめ、教育もその標的とされる。民営化されたインフラ企業であるJR各社の経営陣が右翼の巣窟となっており、「エリート校」を目指すという旗印で創設された学校があのようになってしまうというのは偶然ではないとすべきだろう。


と、『若い詩人の肖像』からは脱線してしまったが、本筋とは必ずしも言えない部分にも、現在読むとかえって注目できる点が多い作品なのかもしれない。


 『アレグザンダー・ハミルトン伝  アメリカを近代国家につくり上げた天才政治家』

ロン・チャーナウ著  『アレグザンダー・ハミルトン伝  アメリカを近代国家につくり上げた天才政治家』


ミュージカル『ハミルトン』にインスピレーションを与えたこの伝記の邦訳が早く出て欲しいと前に書いたのだが、ごめんなさい、とっくの昔、原著刊行直後の2005年に出ておりました。邦訳が出た頃は僕もハミルトンにそれほど関心を持っていたわけではなかったもので見逃していて、その後もエアポケットに入ったように気がつかなかった。ミュージカル『ハミルトン』がこれだけ大ヒットして日本でもそれなりに注目を集めているのだから、日経BP社ももうちょっと宣伝すればいいのに(と他人のせいにしてしまったりして)。


この伝記を読むと、ハミルトンの生涯を物語化したくなるというのはよくわかる。フィクションとして書けば「やり過ぎ!」と言われかねないほど、まさに波乱万丈のものだ。

ミュージカル『ハミルトン』は「マイノリティー」としてのハミルトンに焦点をあてたものとなっているようだ(僕はもちろんまだ未見であるのだが)。しかし、「証拠がないにもかかわらず、今でもカリブ海やアフリカ系アメリカ人社会では、ハミルトンは西インド諸島出身の孤児というからには、黒人の血が混じっていたにちがいない、と広く信じられている」ものの、 著者はこれについては否定的である。ハミルトン存命中からこの話は「孤児」であるという出自とともに中傷として出回っていたのだが、これをむしろ読み換える形でハミルトンに黒人の血が流れていると積極的に主張されるようになったのだろう。そしておそらくミュージカル『ハミルトン』もその系譜であるように、本書はあくまでインスピレーションを与えたものであって、「原作」とはいささか異なるのだろう。

チャーナウはモルガン家やジョン・D・ロックフェラーなど経済系の伝記を書いてきた人であり、邦訳が日経BP社から出ているところからも想像できるように、ハミルトンをアメリカという国家の基礎を構想し実現した人物であるとともに、アメリカ型資本主義の守護者としての姿も描いている。

「政治と経済両分野の革命で活躍した建国の父はほかにいない。唯一フランクリンが後一歩まで迫っただけだ。ハミルトンの斬新さと偉大さはまさにここにあった。彼はアメリカ経済の未来を鋭く予見した。そのビジョンは、一部の動揺を招きつつ多くの人を魅了し、最終的にスタンダードとなった。歴史に境界線を引くとすれば、ハミルトンが立っていたのは明らかに現代の側だった」。

そして歴史家のゴードン・ウッドのこんな言葉を引用している。
「一九世紀末、ハミルトンはアメリカ資本主義の創始者にたたえられたが、この栄誉も、二〇世紀になるとたいていの場合マイナスに受け取られるようになった」。

この評価をプラスに変えたい、これがチャーナウの狙いであっただろう。


社会状況が違うので当たり前だが、ハミルトンを現代の政治地図にあてはめようとするとなかなか難しい。それでもあえてするなら、中道左派という意味ではなく、自由主義者という意味での「リベラル」といったあたりになるかもしれない。ハミルトンはその生い立ちもあって「建国の父」たちの中でいち早く奴隷解放を主張した。アメリカ独立戦争ではワシントンの副官を務めたが、また独立後は復讐的な政策については弁護士として反対した。彼は公正な法の支配を強く打ち出したし、それは資本主義の発展にも寄与するものであった。財務大臣として近代的なシステムの創設に力を尽くしたが、現代から見れば彼の政策は「供給側(サプライサイド)重視の経済学」を先取りしたものでもあった。ハミルトンは民衆に幻想を抱かず、理想主義者というよりは現実主義者であり、それだけに権力を全面的に信用せず、強力な三権分立のアメリカの政治システムを作ることになる。

ミュージカルの影響もあって、この伝記に中道左派的な意味でのリベラルなハミルトン像を期待するとやや肩透かしをくらうかもしれない。
とはいえ、もちろんその凄まじい生涯はこの伝記でも十分に堪能できる。


「アレグザンダー・ハミルトンは、英領西インド諸島のネーヴィス島生まれと自称していたが、これを裏付ける記録は残っていない」。

ハミルトンの生い立ちには謎が多いが、不幸なものであったことには間違いなく、当人もあまり思い出したくもないものであったようだ。
「私生児」であったハミルトンは十代前半で「孤児」となるが(この経緯だけでディケンズめいた一冊の小説にできそうである)、商社で働きだしたことで彼は実地に経済を学ぶことになる。また砂糖プランテーションで行われる過酷な奴隷労働、あるいは身の回りの世話をしてくれた黒人女性の奴隷の優しさにも触れ、このことは後の彼の資本主義観と奴隷問題に強い影響を与え続けたことは間違いない。この当時の西インド諸島は辺境の地というよりも資本主義と収奪の場であり、その両方が先鋭化して表れた場所であった。

天才的な頭脳を持ち野心を抱いているハミルトンがこの島で一生を終えるはずはなかった。その才覚は注目を集め、彼の教育のために基金が作られ、アメリカへと渡る。
しかし正規の教育を受けていなかったため、まずは大学進学のための準備としてラテン語、ギリシャ語、高等数学を学ばねばならなかったのだが、これをわずかな期間ででマスターするというところも、まさに天才というより他ない彼の資質を示すものである。なおハミルトンはこの頃染み付いた、暗記をするためにぶつぶつつぶやきながら歩く癖が終生変わらぬものとなり、そのせいで「霊感を授かったか気がふれたかのように見えることがあった」そうだ。

ハミルトンは自分の生年を1757年としているが、チャーナウは55年としている。ハミルトンは自分の天才っぷりをアピールするためにも、年少で大学に入学したということにしたいためにサバを読んだようだ。彼は超然として浮世離れした天才ではなかったし、権力欲というのも人一倍強かった。しかし彼の批判者が中傷したように金銭に汚かったのではなく、彼なりの倫理観は強く持ってもいた。このあたりの複雑な人格はその不幸な生い立ちのせいもあるだろうし、十代後半の頃にはすでに形成されていたのだろう。

大学在学中に独立運動に加わり、ワシントンの副官となり、軍人としても有能ぶりを示す。彼は前線に出て軍功をあげたかったのだが、ワシントンは有能なハミルトンをなかなか手放さず、これに苛立つことともなる。このあたりもハミルトンらしい。

ハミルトンは味方も多いが敵も多いというタイプの人間だった。溢れ出る才覚は年上の人もたちまち魅了することになる。同時に彼はワシントンのように鷹揚に人に接することができず、やり過ぎてしまう傾向もあり、それが強い反発も招く。前述の通り清廉潔白な私生活というわけではなかったものの彼なりの倫理観は持ち続けていたのであるが、政敵に付け入る隙も与えていた。

著者は宿敵にしてハミルトンの命を奪うことになるアーロン・バーをハミルトンと光と影のような存在として描くのであるが、バー以外にも彼を恨み続けた人は少なくないし、それは少なからずハミルトン自身が招いたという面もあるだろう。


ハミルトンは西インド諸島からアメリカへとやって来て、文字通りの八面六臂の活躍を繰り広げ、後に振り返ればおそるべき先見の明をもってアメリカ合衆国のシステムを構想し、実際に作り上げていった。

一方でアメリカ史上初のセックススキャンダルの当事者となり、不当なものとはいえ金銭スキャンダルを突かれ続けた。ハミルトンに対して王制支持者、貴族主義者、あるいは巨大官僚機構を作り上げて独裁化するのではないかという懸念を持つ人は少なくなかった。ハミルトンはむしろアメリカでは保守にあたる、権力を疑い小さな政府を志向していたとしていいのだろうが、このような疑念を招いたのは彼の権力欲に依るところもあるだろう。

前述したように、ハミルトンは西インド諸島出身の「孤児」という生い立ちもあり、黒人の血が流れている、あるいはワシントンの私生児であるという噂を立てられた。彼もまた政敵に対しては手段を選ばないところもあり、ジェファーソンをはじめライバルたちの私生活を含めた部分を攻撃することを厭わなかった。このあたりはラッパー同士による「ビーフ」を連想させなくもないし、ミュージカル『ハミルトン』をラップにしたというのは作者は慧眼であろう。

そんなハミルトンも、権力の座から離れるとその生活は満たされないものとなっていき、息子が決闘で亡くなるのを眼の前で見せられる。そして自らも、ハミルトンの鏡のようにこれまた満たされない状態に追いこまれていた副大統領バーとの決闘によって、命を落とすのであった。


この伝記の冒頭では、副大統領アーロン・バーとの決闘により1804年に49歳で死亡した夫より半世紀長生きした妻のエリザベス・スカイラー・ハミルトンの姿が描かれる。90歳を越えてなお凜としている彼女は中傷によって傷つけられた夫の再評価を願い、たくさんの人を雇って資料を丹念に収集、精査したが、伝記作家は次々と変わり、結局四男がこれを引き受け7巻本の大部の伝記となるものの、この完成を見ることなく97歳で亡くなった。これまた大部となったこの伝記を書くにあたり、チャーナウは彼女にこの伝記を読ませるつもりで書いたのかもしれない。




『ある夢想者の肖像』

スティーヴン・ミルハウザー著 『ある夢想者の肖像』




思春期を扱った小説というと、どういったものを思い浮かべるだろうか。幼い頃の、イノセンスな完璧な世界が現実に侵食され脅かされていき、その経験を通じて主人公が成長していくという教養小説であろうか。また自らの肉体もこの世界も瑞々しく、そのはちきれんばかりの喜びが溢れ出る青春小説だろうか。あるいは自らが苦境にあり、この世界も災厄に満ちたものとしか思えず、鬱屈した思いを抱え続けるといった物語だろうか。

『ある夢想者の肖像』は、主人公が自らの幼少期から思春期の経験までを語るという形式になっているが、そのようなカテゴリーにはなかなかあてはめることが難しいものかもしれない。

語り手のアーサーは、幼少期にはまるで大人の分析力を持って生まれてきたかのような、子どもらしからぬ意識を持っているかのようだ。しかしそのいささか大仰な言葉使いの端々から、子どもっぽい舌っ足らずな姿も垣間見えるようでもある。

「扇風機事件」について、このように語り始める。

扇風機は小型でスタンドが付いていて金網の丸いケージに覆われているタイプで、暑い夏の日に母さんはよくそれを自分に向けて回していた。金網の中に指を入れないようにと僕は警告されていたし、あれでもし、なぜどこを見ても扇風機が目に入るなんてことがなければ何の誘惑も生じなかっただろう。羽根の作るぼやけを、流しの横の緑のカウンターの上、ぴかぴか光る白いレンジの上、ダイニングルームの食器棚の上、今の窓の下のガラステーブルの上で目にしているうちに僕は、もし何か不測の偶然が生じて指が突然一本ケージに入り込んだらどうなるか思案せずにいられなかった。青っぽい灰色のぼやけは僕の好奇心をそそった。大きな平らなライマメのような形をした固形の羽根四枚の堅固な明瞭さに比べて、それはきわめて柔かい、実体に乏しいものに見えた。ほとんど靄のよう、ティーポットから出る湯気のようで、あそこに指を入れたところで、冬に出来る白い息の雲に指を入れるのと同じくらい無害ではないなだなんて信じがたかった。

と、ミルハウザーの面目躍如といった精密な描写と執拗な自己分析とが始まるのであるが、要は扇風機を見ていたら指を入れてみたくなったという、子どものころに誰もが経験したであろうあの気持ちを、この調子で延々と3ページに渡って語るのである。それでいてこれが何か重大な事件を引き起こすのかといえばそうではない。この語り口こそがある種のパロディのようで、プルースト的というよりは、『トリストラム・シャンディ』的なもののような、滑稽な響きをまとっている。

冒頭でアーサーはこんな記憶に触れている。洗濯物を干している母親から、「洗濯バサミを渡すことを許されていた」(この表現自体があまりに大仰なものである)。洗濯バサミは二種類あった。「片方にはバネがついていて開けたり閉めたりできるけれど、もう一方は硬くて人間みたいな頭が付いていた」。母親はどちらでもいいと繰り返し言うのだが、アーサーはなかなか渡さない。そして母親が洗濯物をロープに止めているすきに、スカートの裾にバネの付いた方の洗濯バサミをいくつもくっつける。すると母親は「かわいそぉぉぉぉなあたし。自分のことマーサ・グラムだと思ってたけど、実はただの、木からぶら下がった物干しロープだったのね」と言って、「ぐすっと鼻をすすり、額を皺だらけにして僕を見て、涙を拭い去るふりをした」。

なんとも微笑ましい、イノセンスな記憶であるし、幼少期は「夢想家」のアーサーのちょっぴり変わった幸福な日々が綴られているようにも読める。しかしそこには不気味な影も差している。アーサーは「退屈」を感じる。これからずっと、彼はこの「退屈」から逃れることができない。そしてアーサーは「禁じられたものに惹かれ」るのである。それは扇風機に指を突っこむことであり、また死ぬことを禁じられたので、自殺も試みることともなる。しかし幼少期には、これらはむしろ滑稽な出来事であるかのようだ。

しかし思春期に入ると、作品の雰囲気も変わり始める。
タイトルの「夢想家」とはdreamerではなくromanticである。アーサーは常に退屈を感じている。彼にとって世界は気だるく憂鬱で暗いものだ。これは裏を返せば、自分は特別な人間であるという根拠のない思い込みによるものでもあろう。偉大なる自分にこの環境はまるでふさわしくない、自分にはここではないどこかに、もっとふさわしい場所があるはずだ。そしてこのような思いにかられる思春期の少年/少女がそうであるように、アーサーもエキセントリックなものへの憧憬を強めていく。

アーサーが知的に秀でていることは、幼少期にはそのギャップから微笑ましく思えるのだが、思春期になるとそのギャップが埋まり、歯車が負の方向に噛み合ってしまったかのようだ。早すぎる「老成」を迎えてしまった天才少年や、特別な存在になりたい、エキセントリックになりたいという願望からとんちんかんな方向に行ってしまうような、そういった愉快な青春の失敗の一コマとしてではなく、救いようもない閉塞した世界に自閉する形を取っていく。

「僕自身の母、僕自身を歌う」というこの作品の書き出しはもちろんホイットマンをふまえている。そしてこの作品を支配するのは、なんといってもポーである。アーサーの「親友」の名前は、ある作品を想起させる。ホイットマンの明るさと、ポーのゴシック調とが溶け合い、なんとも不思議なテイストの作品へと生成していくのである。


長編小説としての完成度が高いかといえば、少々留保をつけざるを得ないかもしれない。この作品は1977年に発表された、ミルハウザーのデビュー二作目である。本作は連作短編のような形をとったふがしっくりいったかもしれない。あるいはもっと刈り込んで、とりわけ後半は中編あたりにとどめておいた方が効果的だったようにも思える。そういった点ではミルハウザーにとっては過渡期的な作品なのかもしれない。

しかしこの、ねじれて分裂しているような展開や、繰り返しの多い饒舌にして細部への執着心というのは、まさにアーサーという人物の思春期を表すことになっている。僕も、もちろんアーサーとイコールではないが、こういった「退屈」や「倦怠」のようなものに捉われていたことがあった。すでに書いたように、これは「自分は特別な人間なのではないか、いや、そうであるはずだ」という思いと表裏一体のものだったのだろう。アーサーは秀才ではあったのだろうが、「天才」といえるほどだったのかというと疑わしいようにも思える。また彼は誰もが注目せざるをえないような強烈な個性を持つ人間であるのかといえば、これも疑問だ。クラスで1,2番目に頭がいいことはいいが、その程度といえばその程度で、全体としては地味でとりたててこれという印象もない人物であるのかもしれない。そうであるからこそ、本当の自分を理解できない、しようとしない世界への恨みをつのらせ、道を外れることへと惹かれていくのであるが、果たしてアーサーのような人物にそのようなことができるのだろうか。そのような人物は、「夢」の中へと逃げ込んでいくことしかできないのかもしれない、と自分のことを考えてもそう思えてきてしまう。

アメリカ文学の伝統のパロディであり、また文学的仕掛けにも満ちた作品でもあるのだが、アーサーのような思いに捉われたことのある経験を持つ人間にとっては、傷ましくも迫真性を持った青春小説として、心に響くことになる。
プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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