『人生の段階』

ジュリアン・バーンズ著 『人生の段階』




2008年、バーンズは30年間連れ添った妻に先立たれた。脳腫瘍の診断からわずか37日だった。その妻の死から5年後に刊行されたのが本書である。3部構成となっており、「高さの罪」では19世紀の熱気球と写真の歴史が述べられ、「地表で」では実在の人物である、共に気球に乗った経験を持つフランス人の女優ベルナールとイギリスの軍人バーナビーとの架空の恋がフィクションとして描かれ、「深さの喪失」で妻を失ったバーンズ自身の心理が綴られる。


「組み合わせたことのないものを二つ、組み合わせてみる。それで世界は変わる。誰もそのとき気づいていなくてもかまわない。世界は確実に変わっている」。

「これまで組み合わせたことのないものを、二つ、組み合わせてみる。うまくいくこともあれば、そうでないこともある」。

「これまで一緒だったことのない者が、二人、一緒になる。結果はときに大失敗となる。たとえば水素気球と熱気球を初めてつなぎ合わせたときのように、墜落して炎上したり、炎上して墜落したり。だが、ときに成功して、そこから新しい何かが生まれ、世界を変えることもある。ただ、その場合もいずれは――遅かれ早かれ――あれやこれやの理由で一人が連れ去られる。そのとき失われるものは、それまであった二人の合計より大きい。そんなことは数学的にはありえないかもしれないが、感情的にはありうる」。

これはそれぞれのパートの冒頭部分からの引用であるが、一見すると愛する者の死とは無関係に思える熱気球の歴史が語られるのはなぜなのかは、ここからわかるだろう。

気球は人間の認識をも変えた。鳥以外の存在が、空から地表を眺めることができるようになった。しかしこれはある認識の死をももたらしたのかもしれない。人間を見下ろすという神の特権は消えた。かつて人間は、失われた人に会いにいくために、地下へと、冥府を下った。しかし今や、地下とは文字通りの地下でしかなくなってしまった。

妻を失い、その喪失感の中でバーンズはいくつかの発見をする。かつてはまったく興味を引かれなかったオペラに魅了されるようになった。嘘っぽい、ご都合主義のように思えたオペラの筋書きだが、「登場人物の一人一人をできるだけ早く適切な場面に連れていき、そこでそれぞれのもっとも深い感情を歌わせる」ものであったと感じるようになった。「オペラは、他のどれよりもあからさまに、見る者の心を砕こうとする芸術形式だ。私の新しい社会リアリズムがそこにあった」。
冥府下りを描いたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』を「見くびって」いたが、「悲しみにうちひしがれている人をピンポイントで狙い撃つ」作品だと思えた。

現代風にアレンジされた『オルフェオ』を見たが、オペラの魔力は健在でも、「昔ながらのメタファーは失われ、新しいメタファーが必要となる。私たちはオルフェオが下ったようには下れない。別の方法で下り、別の方法で連れ戻さねばならない。私たちにできるのは夢で下ること、そして記憶の中で下ることだ」。

バーンズは夢で妻と会う。とはいっても現実と夢を混同することはない。夢で妻と出会いたくて、その願い通りに夢の中に妻が現れるのはバーンズの内部に由来することで、「それ以外の何かであるなどとは一瞬も思ったことがない」。それでもバーンズは妻の夢を見続ける。より直接的に、記憶を掘り進み、下りもする。しかし、記憶はある一定のポイント以上を遡ることがどうしてもできない。現実の後悔や自責のために、「自己満足のための夢」を見るのだろうし、「記憶をたどろうとして挫折するのも、同じ理由からだと思う」。

「グリーフ・ワークとは、喪の作業、癒しの作業のことだ。明確に定まった概念のように聞こえるが、実際は液体のようにとらえどころがなく、変化しやすい。時間が経過し痛みが消えるのを待つという受け身の作業だったり、死と損失と愛する人に意識を集中するという能動的な作業だったり、つまらないサッカーの試合を見たりオペラに圧倒されたりという必然的な気散じの作業だったりする。ほとんどの人には初めての作業だ。ボランティア作業ではないが無報酬で、監督者がいないのに厳しさが要求され、修行の機会などないのに技がいる。それに、進歩しているのかどうかがわからず、進歩するために何が必要か教えてくれる人もいない」。


テクノロジーによって神は死に、冥府下りの道は閉ざされたかのようであるが、バーンズがそうであったように、人間にはやはり神話や物語を必要とする。人間が持つ神話や物語には共通の鋳型があるかのように、全く異なる地域のそれでもいくつかの「型」に分類が可能だ。

バーンズがここで行っている「喪の作業」は独創性に溢れたものではない。
「一方が死んだあとの最初の一年間は、二人が慣れ親しんできた一年一年の陰画のようになる。カレンダー上に行事がちりばめられてられていても、その日に何かが行われることはない(……)恐怖に見舞われた日、初めて妻が倒れた日、入院した日、退院した日、死んだ日、埋葬した日……」。

ジョーン・ディディオンの『悲しみにある者』は、夫を突然失ってからの一年間の思索の記録であるが、同じような心理になったことが書かれている。

「死はありふれていながら、一つ一つが唯一無二だ」として、E・M・フォースターの言葉が引用されている。「一つの死はそれ自身を説明できても、別の死の理解には役立たない」。バーンズのある知人は、夫が癌で長い闘病を繰り広げ、避け難い死が迫っていたことから、これに「十分準備しておける」と願い、「死別をあつかっている古典的な著作を集めた」が、その時がくると、「リストは何の役にも立たなかった」。

これはその著作が見当はずれのものであったからではないだろう。むしろその悲しみとそこからの回復への試みをありありと描いたものであったはずだ。しかしどれだけ迫真のものであろうが、それは「準備」にはならない。死者にとってその死は初めてなら、送る者にとってもその死は初めてのことであり、その唯一無二の出来事がいかなるものかは、実際にそれが訪れるまでわからない。

バーンズは自ら命を絶とうかとも考えた。しかしある瞬間が訪れ、「私が自殺に走る可能性は低くなった」。
こう自問自答した。「いま妻が生きているとすれば、どこにいるか」。それは「私の記憶の中だ」。そして「主たる記憶者は私」であり、「もし私が自殺すれば、それは妻をも殺すことになる。だから自殺はできない」。そして「私は、妻が私に臨んだはずの生き方をしなければならない」と思う。

溢れんばかりの知性を誇る技巧的作家が至った境地にしては凡庸なものに思えるかもしれないが、むしろそれゆえに切実なものと映る。しかしまた、毎日とめどなく流れていた涙がやんで、集中力が戻り、ロビー恐怖症が消え、所有物の処分ができるようになっても、「背後には多くの失敗とぶり返しが隠れている」。

「悲しみ・苦しみ・悼みにおける「成功」とは、達成なのか新しい所与なのか。なぜというに、ここには自由意志という観念の入り込む余地がないからだ。目的と成果を持ち出すのは、グリーフ・ワークが報いられるものという前提に立っていて、場違いな感じがする」。これを行えば悲しみを軽減できるといった方法論や、これを超えれば悲しみは乗り越えられたという瞬間などはない。行きつ戻りつし、人によっては闇の中を延々と彷徨うことになるのかもしれない。その時に何が起こるのかは、それが訪れてみないとわからない。


「もともと雲を呼び起こしたのは人間ではない。それを吹き散らす力も人間にはない。どこかから――あるいは無から――思いがけず風が湧き起こり、気がつけば、私たちはまた動いている」。



40年後の『反=日本語論』

久しぶりに蓮実重彦の『反=日本語論』を引っ張り出してみた。

「あとがき」にあるように、本書はいくつかの雑誌に掲載された文章を集めたもので、「一冊の著作にまとめようよする気持ちはなかった」という。しかし雑多な寄せ集めというよりは、まとまったものという印象が強いものとなっている。というのも、本書を貫くのはタイトルからもわかるように「言語」をめぐって書かれたもので統一されているからだ。

「ちくま学芸文庫版あとがき」にはさらに、「わたくしの書いたものとしてはごく稀なことだが、『反=日本語論』は著者自身の予想を遥かに超えて、多くの方々に読んでいただくことができた書物である」としてある。

文学、哲学、言語学といったジャンルを例のあの文体で論じているものだけに、内容的には必ずしもとっつきやすいものではないかもしれない。しかし、にもかかわらず本書が広く読まれたのは、蓮実がとっかかりとして身近なところから話題を集めてきており、そういった身辺雑記的な部分が寄与するところ大であろう。日本語がそれほど得意ではないフラン人の妻と、日仏のバイリンガルとして育ちつつある息子との生活をユーモラスに綴ったものとしても楽しむことができる。


妻は、「夫のまわりに群がっている仲間や友人の名前など、とても一どきにはおぼえられない。そこで、その多くがフランス文学の教師である彼らが研究したり翻訳している作家の名前でまず記憶する。だからわれわれの家庭での対話は、きわめてスケールが大きいのだ。今日はビュトールに逢ったとか、サルトルと打ち合わせがあるとか、ル・クレジオの妹さんがたずねてくるとか、スタンダールに電話しなければならないといったありさまなのである」。

息子は「二歳のはじめの六カ月と、四歳から五歳にかけての一年間をフランスで過ごしたほかは、ほぼ二年に一度のわりで繰り返される夏休みのヨーロッパ滞在をのぞいて、日本の首府に定住している。家庭では、原則としてフランス語のみを使用する。それは、たまたま日本人の父親の話すフランス語がフランス人の母親の話す日本語より流暢であったからという理由によるものだ」という環境で育つ。

息子はフランスで「シノワ(中国人)」と呼ばれたことへの「国粋的な反撃」として母親を「ガイジーン!」と指さし、父親にはフランス語で悪態をつくようになる。

息子は怒られると、母親がフランス語で口にする「母親に向かって、その口のきき方はなんですか」を「そっくり頂戴して」、フランス語で「自分の子どもに向かって、そんな口のきき方がありますか?」と言い返す。母は「苦笑しながら、つい追及の姿勢を崩して」しまい、「そして父親は、かたわらで笑いをこらえるのに懸命になって」しまう。

父親に「あなた」と呼びかけ、母を迎えにいくというのをフランス語を直訳して「ママをさがしに行こう」とせきたて、日本語の「この前さあ」というのを今度はフランス語に直訳してしまうこの息子は、日本に暮らしながらフランス語ができてしまう己の運命を呪うかのようなことを口にしつつ、久しぶりにテレビのニュースを見るのを許されると(蓮実家では普段はわずかな番組を除いて基本的にテレビは見ない)、器用にフランス語に訳してみせて、母親を感動させたりする。


『反=日本語論』が最初に刊行されたのは1977年なので、2017年でちょうど40年ということになる。久しぶりに読み返してみたのは、9歳の少年として登場していた、音楽家となったこの息子、蓮実重臣が、今年49歳で亡くなったからだ。

息子のエピソードも満載なこの原稿を本にまとめるとき、蓮実はこの40年後に息子を看取ることになるとは想像もしなかったことだろうし、息子の方も、親に看取られることになるとは思わなかったことだろう。

蓮実重臣は僕とはほぼ10歳違いであり、30代の終わりに、あと10年後に死ぬのがわかったら、いったい何をするのだろうかなんてことを読み返しながらつい考えてしまう。それよりも、『反=日本語論』刊行時の蓮実の年に近づいてきているせいか、僕には子どもはいないものの、子どもを見送らねばならなかった親の辛さ(それはおそらくは僕の想像を遥かに超える悲しみなのだろうが)というのに思いがいってしまう。

ああ、この子はもういないのだなと、40年前に書かれた本を読みながらいろいろな感情が湧いてきてしまった。


『普通の人びと  ホロコーストと第101警察予備大隊』

クリストファー・ブラウニング著 『普通の人びと  ホロコーストと第101警察予備大隊』




「一九四二年七月一三日の夜明け前、ポーランドのビウゴライの町で、第一〇一警察予備大隊の隊員たちは、兵舎として使われていた大きな煉瓦造りの校舎のなかで眠りから覚まされた。彼らは、中年の所帯持ちで、ハンブルク市の労働者階級ないし下層中産階級出身であった。軍務につくには年をとりすぎていたので、代わりに通常警察に召集されたのである」。

「各々の隊員には通常装備を超える弾薬が与えられ、さらに追加の弾薬箱もトラックに積み込まれた。彼らはこれから何が起こるか知らされていなかったけれど、実は最初の重要な戦闘に向かっていたのである」。

隊を率いるのは「トラップ親父」と親しまれていた、五三歳になる職業警官のトラップ少佐だった。ユゼフスの村に着くと、トラップの顔は「青ざめ、落ち着きを失」い、「息苦しそうな声で目に涙を浮かべて話はじめた」。トラップはドイツでは女性や子供たちの頭上に爆弾が降りそそいでいることを思いださせようとした。そしてユダヤ人がドイツを苦しめたアメリカによる不買運動を扇動してきたのであり、ユセフの村にはユダヤ人のパルチザンが住んでいると説明した。

大隊はこの村のユダヤ人を駆り集める命令を受けていた。働くことができるユダヤ人男性は強制労働の収容所に送ることになっている。そして残りの女性、子供、老人は、「この場所で本隊によって射殺されねばならないのである」。
トラップはこの任務を説明すると、一五〇〇人のユダヤ人の射殺を命ずる前に「通常では考えられない提案をした。すなわち、隊員のうち年配の者で、与えられた任務に耐えられそうにないものは、任務からはずれてもよい」というのだった。この提案を受けて、「切迫した大量虐殺への関与を免除」してもらったのは、「約五〇〇人の隊員のうち僅か一ダースほど」にすぎなかった。つまり隊の圧倒的多数が、逃れられる機会がありながらその機会を使わずに、凄惨な殺戮に手を染めたのであった。


タイトルにあるように、第一〇一警察予備大隊の隊員たちは「普通の人びと」であった。すでに中年を迎えていた彼らはナチス時代以前に教育を受けていた。ハンブルクは比較的ナチが弱く、また彼らの社会階層を考えると社会民主党や共産党を支持していた者も少なからず含まれていたはずだった。「普通」の暮らしを送っていた人びとが虐殺を実行し、戦後はまた「普通」の暮らしへと帰っていたのである。

第一〇一警察予備大隊の血塗られた活動を追いながら、なぜ「普通の人びと」がこれほどの残虐行為を実行に移せたのかを探っていくのが本書である。


トラップは第一次世界大戦では勲章をもらっている軍人出身で、三二年にナチスに加わった比較的古参の党員であった。しかし親衛隊には迎え入れられなかったように、ナチスにおいてはエリートでないばかりか、むしろ落ちこぼれ的な立場にいた。隊には約三割強のナチ党員がおり、その中にはサディスティックな狂信者も含まれてはいたが、すべてがそうであったのではない。もちろんナチに入党するぐらいであるからある程度の反ユダヤ主義を内面化していたことは間違いないし、これは入党しなかったドイツ人の中にも少なからず共有されていたことだろう。同時に、かねてよりユダヤ人の絶滅までをも考えていたのかといえば、そうではなかったはずだ。ナチス指導層も、もともとはドイツやドイツ支配地域からの追放を意図していたが、これが「最終的解決」、つまりユダヤ人を絶滅することへと変質していったのであった。

トラップが「おお、神よ、なぜ私にこうした命令が下されたのでしょうか」と苦悩しているのが目撃されており、彼が涙を流していたという証言もある。しかしまた、彼はこの命令を拒否することはなかった。そして多くの隊員も、この命令を拒むことはなかった。

ブラウニングはミルグラム実験をはじめとする、戦後に行われた様々な実験や調査の検討を重ね、いったいなにがそうさせたのかを探る。むろん一つの理論に回収されるものではなく、複雑な要因が絡み合った複合的な積み重ねが虐殺を実行させたとすべきだろうが、「決定的な要因」として挙げているのが「集団への順応」である。

「大隊はユダヤ人を殺害するように命令を受けた。しかし個々人はそうではなかった。しかし八〇パーセントから九〇パーセントの隊員が、ほとんどは――少なくとも最初は――自分たちのしていることに恐怖を感じ、嫌悪感を催したが、にもかかわらず殺戮を遂行したのであった。列を離れ、一歩前に出ること、はっきりと非順応の行動を取ることは、多くの隊員の理解をまったく超えていたのであった。彼らにとっては、射殺するほうが容易であったのである」。

命令を拒否することは「汚れ仕事」を戦友に委ねることであり、「射殺を拒絶することは、組織として為さねばならない不快な義務の持ち分を拒絶すること」であり、「それは結果的に、仲間に対して自己中心的な行動をとることを意味した」。

「撃たなかった者たちは、孤立、拒絶、追放の危険を冒すことになった。――非順応者は、堅固に組織された部隊のなかで、きわめて不快な生活を送る覚悟をしなければならなかったのである。しかも部隊は敵意に満ちた住民に取り囲まれた外国に駐留しているのだから、個々人は、支持や社会的関係を求めて帰るところはなかったのであった」。

さらには、「列を離れることは、戦友に対する道徳的非難だと見られかねなかった」。撃たないという選択を行う者は、「自分が「あまりに善良」だからそうしたことはできない、と暗に示唆していることになりかねなかったのだ」。そこで撃たないという選択をした者は、「そのことによって生じかねない戦友への批判を和らげようとした。彼らは、自分たちが「あまりに善良」だからではなく、「弱すぎて」殺せないのだと主張したのである」。
こうすれば戦友を道徳的に批判することなく、むしろ「それは「頑強さ」を優等な素質として正当化し、是認することになった」。

このあたりの心理はそのまま学校などにおける「いじめ」のメカニズムとしても通用するように思える。だからこそ、他人事や遠い過去の終わった出来事としてではなく、「普通」の人びとが虐殺に加わったことの重みは、現在でも受け止めなければならない。


もちろんこれだけに帰することもできない。
日本軍は大量虐殺や残虐行為を各地で繰り返したが、本書でジョン・ダワーの『容赦なき戦争』が取り上げられているように、アメリカ軍にも残虐行為が見られた。米軍においてこのような行為は推奨されないまでも、ほとんどが多めに見られた。
「「我々」と「彼ら」、戦友と敵という二分法は、もちろん、戦争の基準であ」り、そしてここから「敵」を非人間化するようになる。「彼ら」はただの敵であり、人間ではないのだから、残虐行為を躊躇する必要はないのだという発想へとつながる。ある特定の民族が先天的に残虐性を有しているなどということはあろうはずもなく、状況によって人間というものはそのような心理に容易になり得る存在なのである。

では残虐行為に手を染める人間は平然とそれを行うのかといえば、必ずしもそうとはいえない。
ガス室での大量虐殺という異様な殺害方法が実行に移されたのは、銃殺などの手段による兵士への心理的影響への配慮という面があったことが知られている。つまり親衛隊員などであっても、目の前のいる人間を自らの手で大量に殺すという行為には抵抗感があった。第一〇一警察予備大隊のような「普通の人びと」であればなおさらだろう。ある隊員は「もう一度これをやらなければならないとしたら、私は気が狂ってしまうだろう」と上官に訴えていた。

ヒムラーは「この種の人間的弱さを寛容に見ることを認めていた」。「一九四三年一〇月四日のポーゼンでの悪名高き演説」で、「服従をすべての親衛隊員の鍵となる美徳の一つとして賛美する一方で、ヒムラーは明らかに一つの例外に言及した。すなわち、「神経がズタズタになった者、心弱き者、彼らに対してこう言うことができる。もうよい、行って君の年金を受け取るのだ」。
ここから二つのことが読み取れる。第一〇一警察予備大隊の隊員がそうであったように、彼らには選択肢が与えられていた。それを拒否することは不可能ではなかったが、多くがそこに残ることを選んだ。そして、それでも精神を病む「心弱き者」もまた存在していたということだ。

そこで第一〇一警察予備大隊には二つの方策がとられることになった。一つは「以後のほとんどの作戦は、ゲットーの浄化と強制移送に向けられ、その場でのあからさまな虐殺はなくなった」。そしてもう一つが「汚れ仕事」を「親衛隊に訓練されたソビエト領土内の外人部隊」である「トラヴニキ」に外注したのである。この「二重の分担」により、「殺戮作業の大部分は絶滅収容所に移され、現場での「汚れ仕事」の最も厭な部分はトラヴニキたちに割り当てられたのである」。

絶滅収容所の看守にはウクライナ人が多く、また映画『サウルの息子』で描かれていたように、収容所では最も酸鼻を極める仕事はユダヤ人の「ゾンダーコマンド」にさせていた。このようにしてドイツ人は守られていたのであった。

しかし、殺戮の数が減らされたとはいえ皆無になったのではなかった。それでも第一〇一警察予備大隊に発狂者が続出することがなかったのはなぜか。それは「他の多くのことと同様、殺人も人が慣れることのできるものなのであった」。
これこそが人間の最も恐るべき性質かもしれない。


では逆に、少数ながら存在していた虐殺を拒んだのはどういった人だったのだろうか。
こういった人は自分が「弱虫」と侮辱され、「男らしくない」と見なされることを恐れなかった。彼らに共通していたのが、出世への関心の欠如である。共産党員や社民党員であったという政治的背景や反ユダヤ主義への嫌悪もあったが、はなから出世が望めないし望まないということにもつながった。そして彼らは孤立をしてもなお命令を拒むという選択を行うことができた。

見方を変えれば、自分の出世に、その後の地位に響くという判断から意に沿わない命令に多くが従ったということでもある。すでに書いたように、隊長であるトラップは明らかに虐殺に嫌悪感を抱いており、凄惨な現場から逃げ出すかのようなことすらしている。それでも彼は命令を拒まなかった。

「ホフマン大尉の奇妙な健康状態」という章がある。第一〇一警察予備大隊第三中隊を率いていたホフマンは、残虐行為が起こりそうになると決まって体調を崩した。「ホフマンは「いわゆる」腹痛の発作を起こすとベッドで安静にしていなければならなかったが、それは何時も決まって、中隊が不快な、あるいは危険な行動に参加するかもしれない時、起こるのであった。隊員たちは晩に翌日の行動を聞くと、中隊長はきっと朝までにはベッドから起きられない状態になるだろうと予測したが、それはいつものことだった」。

ホフマンは部下からまったく慕われないタイプの人間だった。「典型的な「利己的将校」」で、部下には服従を要求した。「彼の表情に浮かぶ紛れもない小心さは、今や偽善の極みと映り、部下は彼をナチ少年団員といって嘲笑った」。

ホフマンのような者ですら虐殺に心理的抵抗を覚え、それへの拒否感が奇妙な「腹痛」という形で表れた。そしてここまで抵抗感を抱きながら、彼はこの任務に固執したのであった。
ホフマンはその地位に恋々とし、トラップによって解任されるとこれに強く抗議した。ホフマンは隊を離れたが、この抗議の甲斐あってか、「汚名を雪ぐ機会が与えられて然るべき」とされ他の警察大隊に転任した。そして彼は、ソ連との闘いで前線に出て二等鉄十字勲章を得て、さらに出世を重ねて終戦時は「ポズナニの警察長官の主席参謀将校」にまでなっている。このような人物ですら虐殺に心理的抵抗を抱き、かつ出世欲から任務に固執し続けたのであった。


ブラウニングはプリーモ・レーヴィの『溺れるものと救われるもの』の「グレイ・ゾーン」という章に触れている。レーヴィは「物事をはっきりと二分して理解したいというわれわれの自然な欲求にもかかわらず、収容所の歴史は、「犠牲者と犯行者という二つのブロックに還元されるものではなかった」」とする。

「大隊には、グレイ・ゾーンの「極限」に近かった隊員がいたことは確かであった。グナーデ少尉は、最初は殺戮に巻き込まれないように、部下を連れて慌ててミンスクから戻ってきたのであったが、後には、殺戮を楽しむことを学んだのであった。同様に、ユゼフ郊外の森の中で震えあがった警察予備隊員の多くは、その後、数多くの銃殺部隊や「ユダヤ人狩り」に無頓着に志願するようになったのである。彼らは、ムースフェルトと同様、一瞬の「本能的哀れみ」を感じたようだが、そのことによって免罪されるものではない。最も目立った、誰はばかることなく大隊の血なまぐさい行動を批判していたブッフマン少尉でさえ、少なくとも一度は、グレイ・ゾーンの境界で決心が揺らいだことがあった。保護者であったトラップ少佐が不在であった時、ウークフの地方保安警察からの命令に直面して、彼もまた隊員を処刑場に連れて行ったのであった。ブッフマンがハンブルクへ転任になる直前のことである。そして、こうした犯行者のグレイ・ゾーンのまさしく中心に、トラップ自身の哀れな姿がある。彼は「子供のように泣きながら」、部下をユダヤ人殺害に送り出したのであった。さらにそこには、意に反して、恐ろしい行動に体が拒絶反応し、ベッドから動けなくなったホフマン大尉がいた」(p.268)。

ある隊員は「私は努力し、子供たちだけは撃てるようになったのです」と語った。母親はすでに別の隊員に撃たれて死んでいる、「母親がいなければ結局その子供も生きてはゆけない」、そう自分を納得させた。「いうならば、母親なしに生きてゆけない子供たちを苦しみから解放(release)することは、私の良心に適うことだと思われたのです」。

ここでreleaseと英語に訳されているドイツ語erlösenは「宗教的意味に用いられると、「救済する(redeem)」あるいは「救い出す(save)」ことを意味する」。つまり、「「苦しみから解放する」者は救済者(Erlöser)――救世主(the savior)ないし救い主(Redeemer)、なのである!」
なんとも倒錯的な自己正当化であるが、そうとでも思わないことにはやっていけなかったとも考えられるし、あるいはこのような無茶苦茶な発想に頼ってまでも、虐殺を実行しようとしたとすることもできる。

こういった発想は、こういった行為は、自分とは絶対に無縁だと言い切れるだろうか。もしあの時あの状況に身を置くことになったなら、自分はいったい何を考え、行うことになったのだろうか。

そして日本人として押さえておかなければならないのが、ブラウニングが本書を執筆するにあたって依拠した史料の一つが、「疑いなく連邦共和国内で、ナチ犯罪に対する最も勤勉で権限を与えられた訴追機関の一つ」であるハンブルク連邦検察庁に指揮された、一九六二年から一〇年に及ぶ長い訴訟の法廷記録であることだ。
もちろんすべてではないとはいえ、西ドイツでは外国で行われた約二十年前の蛮行が裁かれたのであるが、日本ではそれに類する公的な動きは一切ないまま現在に至っている。

「説明は弁明でないし、理解は許しではない」とブラウニングは書いている。説明も理解も拒み、ひたすら忘却の欲求に身をゆだねる欲求にかられているかのようにすら映ってしまう日本の「普通の人びと」もまた、本書の重みと向き合わなければならない。


MONKEY vol.12

MONKEY vol.12





特集は「翻訳は嫌い?」。
柴田元幸による「日本翻訳史 明治篇」に加え、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』刊行記念イベントでの村上・柴田による「翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう」、そして「(ひとまずの)総括」としての村上・柴田対談「翻訳の不思議」と、『翻訳(ほとんど)全仕事』の補遺的なものともなっている。

「翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう」ではチャンドラー、フィッツジェラルド、カポーティの訳し比べがなされており、村上・柴田それぞれの翻訳家としての個性がうかがえる。文字通り一目瞭然なのは、村上の訳文の方が分量が多くなっていることだ。柴田は自らの訳が「僕は割と単語レベルで考えている」のに対し、村上訳は「どこがこの単語に対応するというのではなく、フレーズ全体の本質を大づかみに捉えて訳されている気がします」と分析している。もちろんこれは村上が「英語はフィーリング」とばかりにいい加減なことをやっているという意味ではなく、「ある段階で英語を隠して、日本語を自分の文章だと思って直していくんです。固い言葉があると少しずつ開いていく。だからどうしても柴田さんの訳より、僕のほうが長くなっちゃう」結果である。もちろんこういう作業はどの翻訳家もやっているが、村上の場合一歩踏み込む要素が強いのだろう。


訳し比べでは、チャンドラーの『プレイバック』から清水俊二訳であまりに有名な「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」のあの箇所がとりあげられている。

これについて柴田は原文の「hardは「無情」「非常」という完全に否定的な意味ですが、日本語の「タフ」はそうではない。だから、もしhardを「タフ」と訳すと、彼女の最初の問が成り立たなくなる。Hardな人間がgentle(優しい)という逆説に彼女は驚いているわけだから。タフ=強い人間が優しくなるというのは全然逆説ではない」としている。

原文ではチャンドラー独特の比喩に連なる逆説表現であったのだが、清水訳ではこのニュアンスは消えてしまっている。ここを二人がどう訳したのかは各自確かめてもらいたいが、村上は「でも、僕の訳も柴田さんの訳も口には出しにくいですね。有名なタフでなければ……」のほうが覚えやすい」としている。

清水がこのあたりをどう意識して訳したのかはわからないが、「肝」ともいえるこのセリフを、清水は「肝」にふさわしい印象的なフレーズに仕上げたとすることもできる。この大胆さは清水が字幕翻訳家でもあるということも関係しているのかもしれない。清水訳を誤訳とまでしていいかは意見が分かれるだろうし、また「正確」さをどう捉えるかについては、字幕翻訳家のほうがより大胆さを持てることだろう。とりわけ文芸翻訳というのは唯一無二の正解はないだけに、清水訳の圧倒的インパクトを前にこれをどう評価すべきかは難しいところでもある。






「翻訳の不思議」では、『翻訳(ほとんど)全仕事』に続いて、翻訳をほとんど行わなかった夏目漱石とやりまくった森鴎外との対比にまた触れられている。

村上はこれについてこう言っている。「文体に対する提案といえば漱石が浮かびますが、漱石は漢文の知識と英文の知識、江戸時代の語りみたいな話芸を頭の中で一緒にして、観念的なハイブリッドがなされていたと思うんです。だから漱石は翻訳をする必要がなかった。鴎外は、僕はあまり読んでいないからわからないんですけど。(……)[鴎外は]文体に対する提案はないですよね。漱石にはそれがあった」。

これを受けて柴田はこう続けている。「鴎外と漱石の違いで面白いなと思うのは、鴎外は翻訳をしまくったわけですけど、漱石はほとんどやっていない。自分の作品が英訳されるという話にもすごく懐疑的だったみたいです。それは文体の意識が強いということと根はひとつのような気がします。文体は意味とは別で、翻訳できるものは意味だから」。

漱石研究において、翻訳をほとんどしなかった漱石という部分がどう論じられているのかはわからないが、単に気分の問題だったで済ませるべきではないテーマなのかもしれない。一方鴎外の異様なまでの翻訳癖は、これはこれでまた論じられるべきことかもしれないが、こっちはそれこそ気分の問題とした方がいいような気もしなくもない。


少々脱線。奇書扱いされることもある漱石の東大での講義録である『文学論』とその続編の『文学評論』であるが、両者ともに英語文献からの膨大な引用がなされている。亀井俊介が指摘しているように、『文学論』は講義においても次第に変化していったし、本にまとめる過程でさらに変化していった。そして『文学評論』は『文学論』の反省を活かした、比較的とっつきやすいものになっているが、こちらでは漱石は気合を入れたものというより暫定的なものではあるが、引用にところどころ訳もつけている。このあたりもきちんと分析するといろいろ見えてくるものもあるのだろう。

ちなみに今パラパラ見返しているのだが、とりわけ『文学評論』はイギリス文化史にもきちんと目配りしたもので、大衆文化やメディア環境への言及も多く、「文化史家」夏目金之助という側面も見えてくるし、何よりこういう部分が楽しい本であったりもする。こういった経験は小説家としての創作にもつながっているのであろうが(漱石は新聞小説を連載するにあたって最新の風俗などを積極的に取り入れている)、この方面での著述も続けていてくれたらなあとも思ってしまう。鴎外の『椋鳥通信』の漱石版があればかなり興味深いものになっただろうが、そこをやらないのもまた漱石といえばそうかもしれないが。






閑話休題。
村上は好きな訳として村上博基による、ジョン・ル・カレの『スクールボーイ閣下』をあげている。「ジョン・ル・カレはぐしゃぐしゃとした変な文章を書く人なんですが、そのぐしゃぐしゃ性を突き抜けると、すごく感じるものがある。そのぐしゃぐしゃ性を村上さんはすごく理解していて、ジョン・ル・カレに対する愛情が満ちている。だから好きなんです」。

「妙に読み易くなっているとかではなく?」と訊かれると、「むしろ読みにくいんです。何言っているかわからないんですけど、それを掻き分けていくと、ああそうか、と」している。原文と比べてみても忠実で、村上博基訳は「端折ってないですね。作ってもないです。英語でよんでもぐしゃぐしゃしているし」。

実は、ル・カレの小説はいくつか読んでいるもののどれも今一つ頭に入ってこず、ひょっとして訳に問題が……という疑念が頭を過ったこともあったのだけれど、原文からしてそうなのかとちょっと安心したというかなんというか。僕がル・カレを読むにあたって「突き抜け」ていないということであるが、読み続けていればそのうちに突き抜けるものなのか、はたまた相性が悪くてどうにもならないものなのか(ル・カレに限らず、名作とされているものであろうとも、苦手なものは苦手である)。そのうちにル・カレの自伝は読んでみるつもりだが、こちらはどうなのだろう。





「翻訳というテーマに通じるところ大」ということで、小沢健二の「日本語と英語のあいだで」も収録されている。

日本人の父とイギリス人の母を持つ小沢の息子は独特の言語感覚を身に着けているようだ。さらに似たような環境にある息子の友だちのある少女は、「牛乳、あるない」といった言い方をする。「これはおそらく、英語の「BE動詞を否定する」というパターンから来ている」。

「ない」というのは存在が「ない」ということなのか、ないという状態が「ある」ということなのか、これは考えようによっては哲学的な問いともなるが、「この「あるない」のエピソードに最も強く反応してくださったのはタモリさんでした」とのことである。

「子どもを見ていると、言葉というのは第一に、音、と痛感する」。
子どもは「音で似顔絵を描く」。例えば、子どもがWaterの似顔絵を描くと、「それは「ウォーター」には、絶対にならない。ショックなことに、その似顔絵は、/「ワドォ」/日本語で書くと、ワ、ド、そして小さいォ。ワドォ」になる。
「子どもの世界では、空中に浮かんだ音が、そのまま見える」。

ではこのような童心をこそ重視すべきなのだろうか。別の企画で本号にはピーター・バラカンも文章を寄せているが、バラカンは『猿はマンキお金はマニ 日本人のための英語発音ルール』という英語の発音についての本も書いているが、僕は未読であるが、これは「似顔絵」をそのまま受け取るべきというものなのだろう。では小沢はこれについてどう考えているのだろうか。

かつて日本では会議室という意味で「コンファレンス・ルーム」と言っていたが、これが「カンファレンス」になり、さらには「カンファランス」へと移り変わってきている例もあるようだ。
「音の似顔絵は似てきているような気はする」。「でも、それ、どこまで続けるんだろう、と思う」。

「ボディー」を「バディー」にするように、「母音のオをアに変えると、アメリカっぽくなる」とされる。ではこれの法則を「ホット」にあてはめると、「ホットな話題」は「ハットな話題」になるし、さらに押し進めると「ハッな話題」になる。「アイポッド」は「アイパッド」になり、そのしわ寄せで「アイパッド」は「アイペー」になるのだろうか。
「「母音のオをアに変えて、それっぽくする」というパンドラの箱を開けたら、過剰反応が始まって、日本語全体が崩壊するだろう」。「その崩壊は、ホットをハットに直した日に、始まると思う」。


bluesは「ブルーズ」であって「ブルース」ではないとネイティブの人が気持ち悪く感じるのは、英語に入り込んだ日本語が奇妙なアクセントで発音される居心地の悪さを思い浮かべればわからなくはない。しかしkimonoと着物がイコールではないように(どう見たって浴衣だよ! というものや、欧米人からはなんとなくアジアっぽく映っているのであろう謎の柄のガウンもまたkimonoなのである)、「ブルース」はbluesそのものを指すではなく、カタカナ表記された時点で日本語化されたものと考えたほうがいいだろう(淡谷のり子の「ブルース」はやはりbluesではないだろう)。

そもそもが英語と日本語では母音の種類も異なるので、カタカナによる正確な再現は不可能であるし、原理主義的な人でもどこかで妥協しなくてはならないことは認めざるをえないだろう。

ではレディオヘッドはラジオヘッドでいいじゃないかといわれると「むむむ」となってしまうし、一方で「固いこと言うなよ」ですべて済ませてしまうのは一歩間違うと「日本流」がなんでも正しいという自文化中心主義にも結びつきかねない。英語を聞いていて理解できず、確認してみたら実は簡単な単語であったという経験をしたことのある人は多いだろう。カタカナ化された日本語によるなんちゃって英語風味が染みついてしまったがゆえにかえって英語の理解が困難になってしまうという例もある(バラカンが危惧しているのはまさにこれだろう)。とはいえどこまで原音の再現を目指すべきか、「日本語」として定着したものを改めるべきか否かといえば、まあ月並みな結論になるが、なんでも杓子定規に一律に答えを出せばいいというものではないといったあたりに落ち着くことになろうか。

最後は「苦労は同じ」というキャプションで、「自然と新鮮な 食材で作られて 健康的な選択」という看板があるsushi店の写真で締めくくられている。






本号で最も楽しみにしていて、期待にたがわぬ面白さであったのがリディア・デイヴィスの「ノルウェー語を学ぶ」だ。村上春樹が英語からの重訳でノルウェーを代表する作家であるダーグ・ソールスターの『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』を出しているが、デイヴィスはそのソールスターの作品を、ノルウェー語がほとんどできないにも関わらず辞書を使わずに原語で読むということを試み、その体験を綴ったものである。

翻訳家でもあるデイヴィスは、「外国に行けば当地の言語に好奇心をかき立てられる」。ノルウェーの文芸フェスティバルに招かれると、運営者にノルウェー語のレッスンを所望した。紹介されたのは当然のことながら、デイヴィス作品の訳者のヨハンネだった。彼女は絵本を使ってレッスンを始め、デイヴィスは漫画を読むなどしてノルウェー語を学んだ。といってもこれは二週間程度、ちょっとした体験で終わるはずだった。

アメリカに戻るとノルウェー語のレッスンは続けなかったのだが、思わぬ形でこれを再開することになる。ヨハンネがアメリカに訪ねてくると、デイヴィスは「自分の祖先数世代を扱った作品の執筆が難航していることを彼女に打ちあけた」。するとヨハンネはソールスターのある作品を勧めた。まさにこの作品は、ソールスターの祖先を扱ったものであった。デイヴィスはソールスターの作品をすでに英訳でいくつか読んでいたが、この作品は英訳されることはないだろうと思った。というのも、ノルウェーでも賛否両論に分かれ、否定派からは「退屈」「読めない」と言われ、「電話帳」と揶揄されるような、長大にして独特の手法を取ったものであったからだ。

こうしてデイヴィスはソールスターの「テレマルク小説」(正確なタイトルは「おそろしく長い」のでノルウェーでもこの通称で呼ばれているのだという)を読み始める。しかしそこはデイヴィス、いくつか縛りをかけ(といっても緩いもので破りもするのだが)、その縛りの一つが辞書を使わないということなのであった。

デイヴィスは辞書を使わない理由として、始終辞書を手にするのがわずらわしいこと、「言葉の意味を解明しようと努めるのは、刺激的な、心底夢中になれる作業」であること、「自分で割り出した意味の方がずっとよく覚えていられる」ことを挙げている。

また、「ほぼゼロから、ほとんど誰の助けも借りず、対象に没入することを主たる方法」として言語を学ぶという、「乳児期から幼年期にかけて、自分の言語である習得した過程」や、幼少期に一年間オーストリアに滞在しドイツ語を身に付けたのを追体験したいということでもあった。

つまり、日本の読者は、デイヴィスは英語が母語で、幼少期にドイツ語を身に付け、フランス語からの優れた翻訳家であり、さらに過去にスペイン語で『トム・ソーヤーの冒険』を、オランダ語でミステリー小説を辞書を使わずに読んだという経験を持っていたということに注意を払わなくてはいけない。ノルウェー語はゲルマン語系であるので、ドイツ語、オランダ語からの類推が大いに役に立つし、またヨーロッパの言葉であるから当然ラテン語経由の単語も多く、フランス語、スペイン語の知識も活かせる。つまり英語を母語とする人が日本語や中国語などの印欧語以外の言語を学ぶというのとは意味合いが異なるのである。デイヴィスが辞書を引かずにノルウェー語を学ぶのを例に、日本語を母語とする人が英語を学ぶのに辞書は必要ないだとか、「赤ちゃんが言葉を学ぶようにひたすら聞き流せばいい」といった某英語教材のような学習方法が「正しい」と考えるのはやめた方がいいだろう。

ではこのエッセイは外国語学習に何の役にも立たないのかといえば、そうではないところもある。「私の単語の意味解明法」として、「語根、接頭辞、接尾辞」といったように「語を構成要素に分解する」ことをあげている。例えばuvhegoghetはu-av-heng-hetに分解できる。そしてここから「ぶら下がっていない状態」、つまり「独立」であると導き出すことができる。「考えてみれば、英語の〝independence〝もほぼ同じように分割できる」。
また語源の知識も非常に役に立つことになるし、複数の欧語を身に着けているデイヴィスにとってこれはお手の物の作業である。

英語学習本のコーナーに行けば語源等で語彙力強化を謳う本が山のようにあるが、まさにこうして語源、語根、接頭辞、接尾辞などを手掛かりに類推を働かせながら単語力を増やしていくことをデイヴィスは行っている。もっとも、日本語にしてもそうだが、語源というのはしばしば怪しいものも入り込むもので、デイヴィスも語源をとり違えたり、あるいは分割の仕方を間違えたりして誤った推測をしてしまったこともあったことを書いているように、参考書選びには慎重さも必要であろうが。

もちろん、このエッセイの最大の魅力は外国語習得のハウツー的部分にあるのではない。私的な事情から学習が滞ったり、方針を微妙に修正したりしながら、行きつ戻りつしつつ読み進む過程、それ自体が面白くもある。さらに言葉を探りながら、類推を働かせでいく過程は知的にスリリングでもある。美しい装丁の本に惚れ惚れとして、これに書き込みをするのを躊躇しつつ、それを振り払うが、しかしまた罪悪感も甦ってもくるというのは、本好きなら経験した人も多いだろう。

何よりも、ソールスターのこの作品がはたして小説と呼ぶべきものなのかと議論を呼んだことをふまえると、このデイヴィスのエッセイは、むしろ小説と呼ぶべきものなのではないかとすら思えてくる。ジャンル分けにこだわらなくとも、これを読むことで得られる喜びは小説を読む体験に近い。小説を書く過程を小説にするというのは、とりわけポストモダン以降よくみられるものだが、小説を読む過程や外国語を学ぶ過程もまた小説に、それも面白い小説になり得るのである。

「この本を読んで、なにがしかのノルウェー語を学ぶことによって、私の使う英語の単語はより奇妙に、かつ豊かになった」。
「自分の母語であっても、全然知らないし永久に出遭わないかもしれない言葉、意味、ニュアンスはたくさんある」。デイヴィスはアメリカの小説を読んでいて、最近見つけたが意味を調べていない未知の英単語としてtemulentとsuccedaeumをあげているが、これはそれぞれ「酩酊した」と「代用物の」を意味している。デイヴィスにとって本当にこの単語が未知のもので、意味を調べていないのかは疑わしくもあるし、こういった点もやはりデイヴィスらしいとも思えてくる。


蛇足ながら付け加えるとデイヴィスの元夫はポール・オースターである。今号にはオースターのインタビューも収録されており、『内面からの報告書』執筆過程にふれたところでデイヴィスの名前も登場し、図らずも(?)元夫婦共演となっている。そういえば、オースターの現在の妻はシリ・ハストヴェットはノルウェー系であり、こちらに書いたようにオースターはクッツェーとの往復書簡集でノルウェー語についてもちょっと触れていたりもするのだが、これを元夫婦が互いに意識していたということはあるのだろうか。






またオースターがらみではこんなものもある。「ニューヨークで見つけた本」として、柴田先生はフェリックス・ハー(Felix Harr)の詩集All-Star Breakを紹介している。この「フェリックス・ハーは謎の人で、僕は2015年にこの人のイベントを見にブルックリンの小さな書店に行ったことがあるが、なぜか本人は現れず代わりにポール・オースターが登場した」とのことであるが、これってひょっとして……? と思ってしまった。

この詩集は「テニスマッチシリーズ」の第3弾で、Frank Church vs. Shirley Temple(教会対寺院)やEric Idle vs. Steve Jobs(失業対仕事)のように、「ひたすら名前を愉快に組みあわせただけのケッタイなシリーズ」なのだそうで、下らないといえばそうだが、これだけでつい笑ってしまうし、モンティ・パイソン的である。最新作は「メジャーリーガーの名前限定」だそうだが、オースターは野球好きだよね……ということで検索してみたら、ハーは実在しているようでした。オースターに詩を送ってフックアップしてもらったようで、趣味が重なるのは当然か。

それにしてもPhil Roof vs. Mike Leake (屋根対雨漏り)などは、しょうもない親父ギャグといえばそうだが、やはり下らなくて笑えてしまう。

ハーの詩集はこちらのサイトから購入できる。

『世界と僕のあいだに』

タナハシ・コーツ著 『世界と僕のあいだに』





タナハシ・コーツは詩人でブロガーでジャーナリスト、本書のタイトルもリチャード・ライトの詩から取られている。本書は高い評価を受けベストセラーともなり、全米図書賞を受賞。その他にも全米批評家賞、ピューリッツァー賞のような大きな賞で最終リストにも残った。さらにコーツには、5年間で50万ドルという巨額さと、トマス・ピンチョン、スーザン・ソンタグ、リディア・デイヴィス、ジュノ・ディアスなど過去に錚々たる面々が受けていることから「天才助成金」という異名を取るマッカーサー賞が与えられている。
トニ・モリソンが「ジェームズ・ボールドウィンの再来」と激賞したことからも、いかに高い評価を受け、また今後が期待される作家であるかがわかるだろう(都甲幸治の解説と池田年穂の訳者あとがきから)。


「僕は一五歳になろうとするお前にこの手紙を書いている。なぜかと言えば、今年エリック・ガーナーがタバコを売ったために窒息死させられたのをお前が見たからだ」。

このように、本書は40歳になろうとしているコーツが15歳になるのを目前にした息子に手紙を通して語りかけるという形になっている。ご存知の通り、近年のアメリカ合衆国では、コーツがここでいくつもの例をあげているように、黒人が警官に殺害されるという事件が頻発し、Black lives matterというムーヴメントが起こることになる。本書はその真っただ中で執筆、発表されたものだ。

ブラック・パンサーの支部長にしてコーツにとって「メッカ」であったハワード大学の学術司書でもあった父親、必死で働き向学心に燃えていた母親、暴力とドラッグに溢れた街で育つこと、妻との出会い、そして自身が父親になったことなどを息子に語りかけていく。

こう聞くと、多くの人が本書が「希望」を伝えるものだと期待することだろう。アメリカには確かに差別や暴力や不公正がある、でもこの国は確実に前進しているし、諦めてはならないといったような希望に満ちた、明るい、楽観的なメッセージを。本書の冒頭はまさにそのような「希望」に応えようとするものではないというエピソードから始められる。

あるテレビのニュース番組で、コーツは彼が書いた「僕の肉体を失う」とは何を意味しているのかと質問された。このキャスターが訊きたかったのは「なぜ白人のアメリカ――厳密には自分は白人だと信じているアメリカ――の進歩が略奪と暴力の上に成り立っていると僕が感じるのか」であった。

「この質問を聞きながら、昔からの言うに言われぬ悲しみが自分のなかにこみあげてくるのがわかった。この質問に対する答えは、自分は白人だと信じている者たちの来し方にある。答えは、アメリカの歴史なんだ」。

コーツはそれを文書にしたため回答とした。しかしそのコーナーの最後に映されたのは、黒人少年が泣きながら白人警官を抱きしめている有名な写真だった。そしてキャスターは「僕に「希望」について尋ねた。そのとき、僕は自分が失敗したことを悟った。そして、自分は失敗することを予期していたんだ、と思い出した。それから僕はもう一度、自分の中にこみ上げる、言うに言われぬ悲しみについて考えた」。

コーツがここで息子に語りかけるのは安易な「希望」ではない。そのような「希望」こそが、この状況を継続させている要因の一つなのだ。コーツはむしろ現実を直視することを望む。

「こうした惨状を認めることは、ずっとそうだと自身が言い張ってきたアメリカの晴れがましい姿から目を背け、うさんくさく、得体の知れない何ものかと向き合うことだ。ほとんどのアメリカ人にとって、そうすることはいまでもすごく難しいことなんだよ。だけど、それをやるのがお前の仕事だ。自分の魂の尊厳を守りたいからというだけでも、やらなきゃならないお前の仕事なんだよ」(p.115)。

コーツが本書で闘わなければならない相手としているのが「ドリーム」だ。「僕はお前を自分だけの夢に閉じこもらせはしない。僕はお前を、この恐ろしくも美しい世界で、目覚めた市民にしてみせるよ」(p.125)。

「ドリーム」とは現実を糊塗し、虐げられ続けた人々を飼い馴らす手段である。「ドリーム」といえば、まず「アメリカン・ドリーム」という概念が浮かぶだろう。その生まれに関わらず、才覚と努力によって成功への道は誰にでも開けている、それがアメリカン・ドリームだ。しかしほんとうにそうなのだろうか。むしろこれは、現状を肯定し、支配と被支配関係を固定化しようというイデオロギーともなっているのではないか。誰でも成功できるのであれば、金持ちはその機会を逃さなかっただけであり、貧乏人はそれを逃しただけだ。金持ちを恨むのではなく、己の怠惰さを呪え、といったように。

コーツは触れていないが、それを最もよく表しているのがスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』であろう。この作品はまさにこのアメリカン・ドリームの欺瞞をあぶりだしている。貧しい生まれのジェイムズ・ギャッツは上流階級の金持ちの娘に恋をした。彼は怪しげな方法で財を築き、ジェイ・ギャッツビーとなって彼女のもとに再び現れる。しかしこの身の程知らずの越境者は特権階級による罰を受けることになる。特権階級は犯罪行為をしても罪に問われることすらない。越境者はあまりにみじめで哀れな寂しい葬式に送られるだけだ。ギャッツ/ギャツビーのような「白人」ですらこうなのであるから、「黒人」がどのような状況に置かれ続けているかは言うまでもない。

さらには、「ドリーム」という響きからは、当然キング牧師の「I have a dream」が残響する。コーツが若い頃に夢中になったのはキングではなくマルコムXだった。「僕がマルコムを愛したのは、学校やその上っ面だけの道徳とも、ストリートやその空威張りとも、「ドリーマー」の世界とも違っていて、マルコムが絶対に嘘をつかなかったためだ」。

念のために付け加えておけば、暗殺の直前にキングはマルコムに、マルコムはキングにそれぞれ近づいている。もし二人が暗殺されなければと思わずにはいられない。


「ドリーム」は人を微睡ます。現実から目を背け、夢へと逃避させる役割を果たしている。コーツがあの番組で「悲しみ」を感じたのは、「僕ら黒人は「ドリーム」を持てないんだとわかったから」だった。だから彼は「キャスターのために悲しみ、あのすべての家族連れのために悲しみ、自分の国のために悲しんだが、何よりもあの瞬間、僕はお前のために悲しんだのだった」。

「人種は人種主義の子どもであって、その父親ではないんだ」とコーツは語りかける。
かつては「カトリック、コルシカ人、ウェールズ人、メノー派、ユダヤ人」だった人々が、「異なるいくつもの種族を洗って白くする」ことによって「白人」となった。それは「お前や僕の「自分たちの肉体を守り支配する権利」を否定しようとして行われた。「生命・自由・労働・土地の略奪、背中をむち打つこと、手足を鎖でつなぐこと、反逆者の絞首、家族の解体、母親たちの凌辱、子どもたちの売却」といった様々な手段によって。

かつてヴァージニアには「血の一滴」ルールがあった。黒人の血が一滴でも流れていればその人は「黒人」となる。つまり白人奴隷主が黒人奴隷の女性をレイプして産ませた子どもは「黒人」であり、その子孫もまた「黒人」であるということになる。「白人」と「黒人」の線引きがいかに恣意的であるかを表すとともに、奴隷という「資産」を「守る」ため、拡大するためというグロテスクな事実を忘れてはならない。アメリカにおいては「白人」が作られ、「黒人」が作られた。そして黒人は「肉体を失う」という状態に落とし込まれた。なのに、「ドリーム」は「黒人」に、自分たちも「白人」になれるのだという微睡を与えようとするのである。


アメリカにおいて、黒人が親になることは喜びであるとともに呪いでもある。自分の子どもが、いつ何時、理不尽にも命を奪われるのかわからないという不安に苛まれ続け、恐怖から逃れることができない。

ニューヨークに越してきたコーツはこんな体験をした。まだ幼かった息子とアッパーウェストサイドに『ハウルの動く城』を見に行った帰りだった。息子はまだエスカレーターにうまく乗れなかった。イラついた白人女性が「ほら急いで!」と息子を押した。コーツは「まず、見知らぬ人間が自分の息子の肉体に手を置いたときにどんな親でも示す反応をとった。それから、お前の黒い肉体を守る自分の力への不安がよぎった。それだけじゃなく、女が場所を考えて強気に出ているのも感じられた。だとえば、ここがフラットブッシュの僕の家の近所なら、女は黒人の子どもを押しやったりはしないはずだとわかっていた」。

コーツが「目の前の事態と自分のこれまでの人生とで頭が沸騰し、口調が熱く」なったまま白人女性に言葉をかけると、彼女はたじろいだ。すると近くにいた「白人の男が女を擁護して大声を出した」。そして周囲の白人たちもその男に加勢を始めた。コーツは男を突き飛ばした。するとその男は「お前を逮捕させてもいいんだぞ!」と言った。コーツがなんとか怒りを抑えたのは、すぐ近くで息子がこの光景を見ていたからだ。

コーツの行動は過剰反応のように思われるかもしれない。しかし、アメリカでは黒人たちは暴力にさらされ続けており、その不安と恐怖とがこうさせたとすべきだろう。「お前を逮捕させてもいいんだぞ!」という言葉は、「俺はお前の肉体を奪えるんだぞ!」という意味だと、コーツは考えた。

コーツは暴力的な人間ではない。このようなことが起こると、「粗野なコミュニケーション手段をとるところまで自分を貶めてしまったなあと、必ず気分が悪くなった」。「正当防衛や正当な暴力に伴うとされる誇りを感じたこともない」。

「マルコムが僕にとって意義があったのは、暴力を愛する気持ちからじゃなかったんだよ。「黒人歴史月間」に取り上げられる公民権運動の殉教者たちほど、僕に、催涙ガスを浴びるのが解放につながるんだと認識するようにさせてくれたものはこれまでなかったからだったんだよ」。
「僕が実際に手を出したことについて何よりも恥ずかしいと感じたのは、いちばん悔いが残ったのは……お前をなんとか守ろうとしながら、その実、お前を危険に晒してしまったことだったんだ」。


コーツは、あるいは黒人たちは、被害妄想からこのような過剰防衛的心理に陥っているのだろうか。そうではない。現実に、黒人たちは日々恐怖にさらされ、そればかりか、実際に命を奪われることすらある。

二十代半ばだったコーツは、車を運転していて警官に止められた。白人であれば、面倒くさい思いをさせられたり時間を取られることにうんざりするだけかもしれない。しかし黒人にとっては、ここで命が奪われるかもしれないという、とてつもない恐怖にさらされることになる。そして黒人が正当な理由もなく殺されようとも、警察は適当な理由をでっちあげて、殺人者である警官はそのまま逃げおおせるのである。

コーツの大学の同窓生だったプリンス・ジョーンズもこうして殺された。さらに「吐き気をもよおさせ」たのは、ジョーンズを殺した警官は証拠の捏造を行って処分を受けたことのあるような札付きの人物でありながら、当然とすべきか、ジョーンズ殺しの責任を問われることなく復職したことだ。そして、この警官は黒人だったのである。「この警官に人殺しの権限を与えた政治家どもも黒人だった」。彼らは「ドリーム」を見ていたのだろう。自分たちも「白人」になれるのだという。

この件を取材し、そして心に残り続けていたコーツはその後、ジョーンズの母親と会う。母親はゲーテッドコミュニティに住むほど成功した医者だった。彼女は4歳のとき、バスでのある出来事ではっきりわかった。ルイジアナ郊外出身で、「先祖はその地域で奴隷だったわ、奴隷だった結果として自分の世代までずーっと恐怖が谺してるのよ」ということが。

それでも、彼女は「アクセルを思いっきり踏」み続けた。全額給付金付き奨学生としてルイジアナ州立大学で学び、海軍に勤務し、放射線医となった。「当時ほかに黒人の放射線医を彼女は知らなかった」。

「僕はそれを辛かっただろうと推測したが、彼女はそれを侮辱ととった。彼女は何にせよ黒人ゆえに不快なことがあったとは認めなかったし、また自分を図抜けた人間として語ることもしなかった。なぜかっていうと、そうすることはたいへんな譲歩になってしまうからだよ。意味を持つ唯一の期待はメイブル・ジョーンズ個人への評価に根ざしていなければならないというのに、黒人という種族への期待が尊重されるべきものになってしまうからね」。

「彼女の人生に対する気構えは、エリートのアスリートのものだった。彼らは、対戦相手は汚く、レフェリーは賄賂をもらっているとわかっているが、同時にあと一勝で優勝に手が届くのもわかっているんだ」。

息子のプリンスは「パーティで会えば愉快になれ、友だちに「あいつはいいブラザーだよ」と言える類の男」に育った。

成績優秀だった彼に、母はハーヴァードなどのアイヴィーリーグの大学に進むことを望んだ。彼は数学に秀でており、成績優秀者が集まり大学の単位の取得が可能な高校に通ったプリンスには十分に可能だったはずだ。しかし彼はアイヴィーリーグの大学に願書すら出さなかった。高校では、プリンスはただ一人の黒人だった。彼は「黒人の代表を務めなきゃならないのに飽き飽きしていた」。そこでハワード大学を選ぶ。コーツが「メッカ」と呼ぶハワード大学は「ジム・クロウ法の時代に黒人の才能をほぼ独占していた」名門大学だった。ここには三分の一ほどの「ジャッキー・ロビンソン型のエリートの子弟」が通っていた。「彼らの両親は、ゲットーを抜け出したりシェアクロッパーの境遇を抜け出したりして郊外族になったものの、そこでもしょせん自分の身に押された烙印は消えないし、逃げ場もないと知ってしまったんだ。実際に成功を収めた人も多かったけど、そうであってさえ、選別され、見本とされ、多様性の例として美化されたんだ」。
プリンス・ジョーンズは「当たり前の存在になりたくてハワード大学に入った」のだろう。「そこで、「黒人の当たり前」がどれほど幅広いかを知ることになったんだよ」。

別の個所で、コーツは息子にこう語りかけている。「お前は他の黒人の肉体が起こす最悪の行動にも責任をもたされるはめになる。どういうわけか、そんなことさえ、いつでもお前のせいにされるからだ」。
黒人が暴力をふるえば、それは個人のものとは見なされずに黒人全体に跳ね返るようになっている。そして黒人が成功すれば、それは「見本とされ、多様性の例として美化され」、黒人の代表という重荷を背負わされる。自分が自分であるという、「当たり前の存在」になることすら難しいのである。

「ジョーンズ医師は助けを求めて国にすがることもできなかった。プリンスの件では、国は最善というやつを尽くした――彼女の息子のことを忘れたのさ。忘れるのはこの国の習慣で、「ドリーム」のもうひとつの必須の要素なんだ。連中は、奴隷制の中で自分たちを富ませた窃盗の規模をもう忘れている。一世紀にわたって黒人から投票権を盗ませていた彼らの恐怖をもう忘れている。郊外を作らせた分離主義の政策をもう忘れている。連中はもう忘れている。覚えていたら、麗しの「ドリーム」から転げ落ち、僕ら黒人と一緒に世界の底辺で生きなきゃならなくなるだろうからね。僕には確信があるよ。「ドリーマー」――少なくとも今日の「ドリーマー」――は、自由に生きるよりも白人として生きることを望んでいるんだ、とね。「ドリーム」の中でなら、連中はバック・ロジャースやアラルゴン二世、スカイウォーカー一族でいられる。連中の目を覚まさせることは、連中の帝国が人間の築いたものであり、人間の築いたいかなる帝国の例に洩れず肉体の破壊の上に建っているのを暴露することになる。そうなったら、連中の高貴さを汚すものとなるし、連中のことを、脆く、過ちを免れられぬ、破壊しやすい連中にしてしまうことになるんだよ」(p.163)。

ジョーンズ医師は、ソロモン・ノーサップの『12イヤーズ・ア・スレーブ』(映画『それでも夜は明ける』の原作)の話をした。
「彼には資産があった。家族があった。人間らしく生きていた。でも人種主義的行為が一回あっただけで、ノーサップは奴隷に戻された。私の場合も同じよ。長年かけてキャリアを築き、資産を手に入れ、責任ある地位に就いた。そこに、人種主義的行為が一回あった。その一回でじゅうぶんだったわけね」。

「「ドリーマー」の連中を夢から覚まさせたい」、「運動は昔も今も、こんな希望を持ちだがるんだろうね」。でもそこにあるのは、「彼らの白人でなくちゃならない、白人らしく話さなきゃならない、自分たちを白人だと考えなきゃならない」ということだったのかもしれない。

黒人の親はよく子どもを「二倍行儀よくしなさい」としつけた。
「要するに「半分で満足しなさい」と言って聞かせるのを、僕は何度も耳にしてきた。その言い回しは、まるでそれが言葉にされない品性や知られざる勇気を証しているとでも言うように、うわべは宗教的な気高さをもって口にされるんだよ。実際にはその言い回しが証しているのは、僕らの頭に突きつけられる銃口や、ポケットに突っ込まれる手だってのにね。こうやって、僕らはやさしさを失っていく。こうやって、連中は僕らの微笑む権利をかすめ取る」(p.106)。

もちろんコーツは、自分が「ドリーム」と無縁だと言っているのではない。例えば大学時代、コーツが使っていた男性同性愛者を表す言葉は「ファゴット」(男性同性愛者への蔑称)だけだった。「僕は黒人で、今まで略奪されてきたし、自分の肉体を失ってきた。だけど、おそらく僕にも、略奪する能力が備わっていて、もしかしたらほかの人間の肉体を奪うことでコミュニティ内における自分自身の立場を確認するかもしれない」。
「白人である」という「ドリーム」を見ている人間がいるように、「男らしさ」という「ドリーム」を見ていた自分がいた。「僕たちは憎まれている異分子を名指しし、それによって仲間のあいだで承認を得」ていた。


コーツは息子にニヒリズムを教え、憎悪を煽り暴力を賛美し自暴自棄になれと言っているのでは、もちろんない。そうならないように、今この時代にあって、なお蔓延る暴力を目の前にした息子に語りかけている。

「だけどお前は、そうした希望と、「ドリーマー」の連中が意識に目覚めるというわずかな可能性にすがって人生を送ることはできない。僕らの瞬間はあまりにも短い。僕らの肉体はどこまでもかけがえがない。そしてお前は今ここにいるし、お前は生きなきゃならない――しかも世界には、ほかの誰かの国だけじゃなくお前自身の故国にも生き甲斐がいっぱいあるんだよ。僕を「メッカ」に導き、プリンス・ジョーンズをたぐり寄せた「ダークエナジー」の温もり、僕らのこの特別な世界の温もりは、いかに短く破壊されやすいものであっても、素晴らしいものなんだよ」(p.167)。


コーツは大学を中退すると、「地元のオルタナティブ系新聞で音楽評や記事やエッセイを書く」ことからキャリアを始めた。75年生まれのコーツにとって最もリアルな音楽はヒップホップだろう。Black lives matterもケンドリック・ラマーをはじめとするラッパーたちが大きな役割を担った。本書には「ドリーム」をはじめとする概念について抽象的すぎるという批判もあったようだが、言葉を変えれば詩的に綴られたということもできるだろうし、それはラッパーのリリック的な魅力を持っているということでもある。アメリカ社会の現状はもちろん、ヒップホップに関心がある人にとっても必読の一冊だろう。

なお邦訳は註を付けない方針がとられているのだが、確かに固有名詞の知識がなくとも文脈から何を言わんとしているのかはわかるようになっているものの、文化史的な側面を持つ本でもあるだけに、個人的にはしっかり註を付けてほしかったかな、とも思う。


上の引用にも『バック・ロジャース』(1930年代後半にドラマ化され70年代後半にリメイクされたスペースオペラ)やアルゴラン二世(『指輪物語』の登場人物)、そしてこれは説明不要であろうスカイウォーカー一族への言及があった。もちろん黒人の子どもたちもこういった物語に夢中になったと同時に、これらが「ドリーム」を植え付ける役割をも果たしたとすることもできるだろう。コーツが向かう先はこちらでもある。本書刊行後にマーヴェルコミックのリブートされた、その名も『ブラック・パンサー』のライターを務め、この作品は2016年で最も売れたコミックとなった。




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