『排除と抵抗の郊外  フランス集住地域の形成と変容』

森千香子著 『排除と抵抗の郊外  フランス<移民>集住地域の形成と変容』





「日本人は本当のアメリカを知らない」といった物言いがなされることがある。日本に限らず多くの地域の人々が、「アメリカ合衆国」と聞けばニューヨークに代表される東海岸、ロサンゼルスやサンフランシスコに代表される西海岸、あるいはハワイなどのことがまず思い浮かぶであろうし、これらがいずれも先の大統領選挙でヒラリー・クリントンが大勝した(つまりトランプが惨敗した)場所であることを考えると、これはあながち大げさではないのかもしれない。

ではフランスについてはどうだろうか。まず思い浮かぶの「おしゃれ」なパリの中心街であろうし、あるいは陽光降り注ぐ南仏の農村の光景が広がるという人もいるだろう。それだけであれば、「本当のフランスを知らない」ということになるのかもしれない。

サブタイトルからもわかるように本書はフランスの郊外の形成とその変化を扱ったものであり、とりわけ近年のフランス社会・政治を考えるうえで様々な示唆を与えてくれるものになっている。

フランスにおける「郊外」は、多くの国とはいささか異なるものかもしれない。アメリカ合衆国では白人を中心とする中産階級が郊外へと引っ越すことによって、都市の中心部が「ゲットー」化する、あるいはゲットー化した中心部を嫌って中産階級が郊外へと引っ越すという現象が起こった。日本でも郊外といえば中産階級のベッドタウンというイメージが強いであろう(近年の少子高齢化や都市回帰による人口流出などを考えると、これは最早古いイメージなのかもしれないが)。しかしフランスではパリ中心部は富裕層のものであり、郊外は移民とその二世三世、あるいは貧しい人々(もちろんこの両者は重なってもいる)が住む荒廃した地域となりがちである。

乱暴に単純化すると、フランスにおける郊外は二つの性格を持って開発された。一つは都市機能にとって必要不可欠なものでありながら、裕福な人々が目にいれたくない施設などを移す場所としてであり、もう一つが劣悪な住宅環境を改善するために集合住宅が林立する場所としてである。

当初は電気、ガス、水道、さらにシャワーまで完備された最新式の団地は中産階級にとっても憧れの住まいであった。これは日本における団地も同様であろう。しかし次第に設備は老朽化し、金銭的に余裕のある人は団地から移るようになっていく。こうして貧しい人々が取り残される、あるいは集まることになっていき、これによって中産階級の流出が加速していく。

状況をさらに悪化させたのが、フランスの場当たり的な移民政策だ。当初はヨーロッパからの移民が中心であったが、ヨーロッパ各国も経済成長し安価な労働力の確保が難しくなると、北アフリカやサブサハラから多くの移民を受け入れるようになった。しかしこういった人々は安価な労働力として消費されるばかりで、言語習得をはじめとする各種の支援がおろそかにされるばかりか、「フランス人」から隔離するかのような扱いまでされていた。失業が深刻化するようになると、まず切り捨てられたのが誰なのかは言うまでもないだろう。

失業と貧困にあえぐ郊外に住む移民とその子孫たちは社会保障受給者が多いことから、移民が福祉を食い散らかすと攻撃対象にされる。一方で移民とその子孫たちは、都合のいい時だけ散々利用しておきながらのこの扱いに憤りを深めていく。この負の感情の連鎖は深まるばかりになっている。

かつて郊外は政治的には左翼が強かった。その郊外での近年の極右の伸長について、左翼支持であった労働者階級者が郊外の荒廃などをうけて極右に転じたという分析がなされることが多い。しかしある研究者は、最も多い政治傾向は極右ではなく「棄権」だとする。これは移民二世三世も同じで、彼らは左翼を含め政治全般に失望しきっている。さらには、左翼の政治家ばかりか反差別団体などの社会運動に対しても不信感をつのらせているケースも多いようだ。

2002年の大統領選挙でのルペンの決選投票進出や、極右同然の移民攻撃を繰り広げるサルコジの登場などを受けて、やはり投票という形での政治参加なくしてはこの流れを変えることはできないという問題意識も生まれつつあるようだが、その前途は多難なようにも映る。


郊外を論じるうえで文化現象を参照するというのは多く見られる手法であるが、本書でもラップが扱われている。すべてを剥ぎ取られたかのような生活を強いられている人々がラップに可能性を見出すというのも、アメリカをはじめ多くの地域に見られる現象である。またラップの攻撃性が問題視され、当局から弾圧されるというのもよく見られるものであるが、フランスの場合これが訴追にまで発展することが珍しくないようだ。2015年に発生したテロ事件の後、SNSへの書き込みまでがテロを賛美していると捜査対象にされたことは日本でも報じられ、フランスではそんなことになっているのかと驚いた人も多かったかもしれないが、実はラッパーがそのリリックによって訴追されるというのはすでに90年代から起こっていたことであり、その延長線上にあった出来事でもあった。


フランスでは、共和国の理念を受け入れればフランス人であるという建前があるため、人種に言及することはタブーとして受け取られている。しかし人種への言及をタブー視した結果、「出自」といったような差別的言説がまかり通るといった倒錯したことも起きているようである。

極右やその支持者は「フランス的価値観に同化する気のない移民は出ていけ」と言うのであるが、世俗主義をはじめとするフランス的価値観の中で生きる移民二世三世のほうが、かえってコミュニティとの紐帯が断ち切られ孤立化しやすく、こういった人々こそが過激派に勧誘されやすいという構造は、フランスの抱える矛盾と欺瞞を端的に表すものだろう。


本書を読んでいて思い出した映画が二つある。
『パリ20区、僕たちのクラス』は、タイトルを見ると金八先生的な作品を思い浮かべてしまうしそういう要素もあるものの、実際には教師と学生、保護者の間で最早コミュニケーションすら成立しづらくなっているという徒労感に覆われるものとなっている。

『ディーパンの闘い』はフランス郊外を舞台に21世紀版『タクシードライバー』とでもいったような趣になっているが、本書と直接的に結びつく作品でもある。荒れ果てた団地。職もなく昼間からたむろするしかない若者たちはラップを大音量で聞いている。難民や移民の苦難とともに、ドラッグの売買で成り上がるか、そのおこぼれにあずかるかしか道がないかのようなフランス郊外の絶望的な現実があぶりだされている。

このように近年のフランス文化について考えるうえでも「郊外」は重要であるし、そしてもちろん、現在のフランス政治について考えるうえでも、「郊外」というファクターは欠かすことができないものであろう。


『コロンバイン  銃乱射事件の真実』

デイヴ・カリン著 『コロンバイン  銃乱射事件の真実』




「コロンバイン高校の事件についてわたしたちは、次のように記憶している。はみだし者でゴス趣味のあるトレンチコート・マフィアの二人組が、ある日突然、学校を襲って、ジョックにたいする積年の恨みを晴らしたと。けれどもそのほとんどが事実と異なっていた。ゴスでもはみだし者でもなければ、ある日突然起きたわけでもなく、ターゲットも、積年の恨みもなく、トレンチコート・マフィアでもなかった。そういった要素はコロンバイン高校に確かに存在し、通説がまかりとおる原因となったが、実際は犯人とはなんの関係もなかった」。

原著はコロンバイン高校銃乱射事件のあった1999年の10年後に刊行されている。著者は犯人二人の生い立ちから犯行にいたる経緯を詳細に追うとともに、事件を防ぐことのできなかった警察の対応や、杜撰な報道で「通説」を流布させることになったメディア、そして被害者や遺族のその後を丹念に描いている。

引用にあるように、いじめられ、家庭にも学校にも居場所がなかった少年が怒りを暴発させたのがこの銃撃事件の真相であると思っている人がいるなら、それは誤った図式である。これらはゲームや映画や音楽の影響といったものを含め、分かりやすい物語に還元しやすいために安易に信じられることになったのだろう。本書を読めば犯人二人の心理がそう単純なものでないことはわかる。僕自身もこれまで少なからずこの「通説」を信じていたが、本書を読んで事件に対する印象はかなり変化した。しかしまた、根本から認識を改めたのかといえば、必ずしもそうではない。本書を読んでもやはり、いわば「ありふれた思春期の物語」に終わっていたかもしれないはずのものが、あのような惨劇に陥っていったことへの衝撃というのが減ずることはない。


エリック・ハリスは身長175センチほど。彼はミリタリー風に短く刈り込んだ髪を整髪料をたっぷり使って逆立てるなど、ファッションには気を使っていた。タバコやマリファナを吸い、酒を飲み、愛車に乗ってドイツのハードコアなインダストリアル・ロックをかけながら、ロケット花火を飛ばしたり遠くワイオミング州までネタを仕入れにいってもいた。同時に宿題はきちんとやり、成績もAがいくつも並んでいた。彼にはちょっとした魅力があり、女の子に声をかければ、それはうまくいった。アルバイト先のピザ屋の店長はエリックのことをかっていた。彼はふざけていいときとまじめになるべきときの区別がつき、店が込み合っても冷静沈着に客をさばいた。しかし最終学年のプロムを前にして、どういうわけかなかなか相手を見つけることができなかった。

ディラン・クレボルドは、エリックと較べるとクールでなかったし、そのことを当人も自覚していた。成績はエリックよりも優秀だが、内気で女の子と話すのは苦手で、身長は190センチもあるが、猫背になっていた。ディランは感情を抑えられないところがあり、下級生のロッカーにいたずらをしたとして呼び出されたときも、いつも冷静沈着なエリックならうまくとりつくろったのだろうが、彼は取り乱して激高してしまった。しかしプロムを前にして、ディランは相手の女の子を見つけることができた。

このプロムの2日後、エリックとディランは凶行に及ぶ。といってもプロムが引き金になったのではない。とりわけエリックは、1年以上前から計画練り続けていた。二人が仕掛けた爆弾が計画通り爆発していたなら、死者は数千人単位になっていたかもしれない。二人が行おうとしていたのは、銃乱射ではなく大量殺人だった。


アメリカではコロンバイン高校事件の前から、学校での銃乱射事件がいくつか起こっていた。しかし二人の動機や、やろうとしたことは、明らかにこれらとは異なるものだ。二人のキャラクターも、類似の事件の犯人とはいささか違った印象を与える。しかしこの二人が、多くの人にとって出会ったこともない特異な人物であったのかといえば、そうではないようにも思える。

エリックの父は軍人で、家庭では厳しく育てられた。後にエリックはヒトラーを礼賛し、社会ダーウィニズムの信奉者となるが(犯行時には「NATURAL SELECTION(自然淘汰)」とプリントされたTシャツを着ていた。ちなみにディランは「WRATH(憤怒、復讐、天罰)」というTシャツだった)、幼少期にはむしろマイノリティーの友人が多かった。子どもの頃は内気さで記憶されていたが、これを脱した後は、自己顕示欲は強く、授業中によく手をあげ、常に正解を答えた。

ディランの両親はともに学歴が高く、一家の収入も良かった。頭がよく、1年早く学校に通いはじめ、高い潜在能力を持つ子どもの才能を伸ばすためのプログラムに参加したほどだった。頭脳明晰で身長も高かったが、他の子とのこの1年の年の差が影響したのか、ひどく内気だった。母親は清潔好きだったが、ディランは泥んこになって遊ぶのが好きだった。子どもの頃から一度火がつくと手がつけられないようなところもあった。

二人がいつ出会ったのか、正確にはわからない。しかし野球をはじめとするスポーツ観戦や、ゲーム、パソコンなど共通の関心のおかげで親友となる。二人とも理数系の能力が高く、新しいガジェットなどに目がなかった。といっても二人きりの世界に閉じこもっていったのではなく、むしろ友人の数は多いほうだった。


エリックは文学作品を読み漁り、ディランも文章を書く才能に恵まれていた(ゲームや映画や音楽の悪影響が云々される一方で、「本を読みすぎたせいだ」という批判がなかったことにも注目すべきかもしれない)。

エリックがたどりついた結論は凡庸なものだろう。バカは殺しても構わない、自分以外はすべてバカな奴らだ、従って奴らに死を与えるのは当然のことだ、といった程度のものだ。薄っぺらなニーチェ理解から、禁断のナチズムに惹かれ、自分より劣った者を徹底的に見下して暴力的妄想を抱くというのは、自意識過剰な知的な少年にとって、そう珍しいものではないだろう。

ディランは創作の課題に暴力的な作品を提出して教師をぎょっとさせたこともあったが、当初はむしろその刃を自分に向けていた。内気な自分を責め、女の子とまともに話すこともできないことを嘆き、女の子たちに恨みをつのらせつつも、厭世観と自殺願望とを日記に綴り続けた。こちらも思春期の少年にとってそう珍しいものではない。

著者はエリックがサイコパスであった可能性を強く示唆しているが、十代の頃を思い起こせば、自分の周囲にエリックやディランのような少年が一人や二人はいたという人が多いのではないだろうか。では二人をあそこまで至らせてしまったものは何なのか、それはこの二人が出会ったことだったのかもしれない。エリックにとってディランは自分のエゴを肯定してくれる存在であり、ディランにとってエリックは自分ができないようなことを大胆に実行してくれる存在だった。事件後ディランの母は、息子はエリックに洗脳されたのだと考えたこともあったが、そのような面がないとはいえないが、どちらかといえば相互依存的関係にあったとしたほうがいいだろう。

エリックは妄想を次第に現実化していこうとし、ディランもそれに感化されて他者への敵意へと向かっていった。二人の存在が互いのブレーキを壊し、一度動き始めた歯車を自分たちで止めることはできなくなっていったかのようだ。


ではこの凶行を止めようがなかったのかといえば、そうではなかった。むしろ止める機会は幾度もあった。二人の行いはいたずらで済まされるものではなくなっていき(いじめに関していえば、二人は下級生などに対してはむしろ加害者の側だった)、ついには警察沙汰にまでなり、二人は矯正プログラムを受けてさえいる。またエリックがパイプ爆弾を作ろうとしていると警察に通報されたこともあった。エリックの危険なウェッブサイトも警察は把握していたが、家宅捜査できるだけの証言を得ていたものの、うやむやのままに終わってしまう(そして警察は後にこの事を隠蔽しようとする)。エリックの父親もパイプ爆弾を発見したが、手を打つことはなかった(エリックの両親は事件後沈黙を守り続けているために、家庭環境などがいかなるものであったのかは不明な点も多い)。クレイボルト家は経済的にも精神的にも恵まれた家庭であったが、それだけに息子を信じる気持ちが強く、逸脱行為を直視することができなかった。

一つ間違えば、死者の数はゼロが一つ多いどころではない、とてつもない惨事になっていた可能性もあった。一方で、少し違っていれば事前に計画は露見し、思春期の少年にありがちな妄想を暴走させた未遂事件として、大人たちに冷や汗をかかせただけで終わっていたかもしれない。それだけに、いったいなぜあの事件が現実に起きてしまったのかということが、重くのしかかり続ける。


本書は事件に至る経緯のみならず、その前後、とりわけ事件後にも多く紙数が割かれている。
コロラドは「福音派のバチカン」と呼ばれることもある土地で、「サタン」の存在は説教によく登場していた。信仰心に篤い福音派がいかなる反応を示したのかはなんともアメリカ的光景であるが、サイエントロジー等の新興宗教団体が信者獲得のために乗り込んでくるというのは、どこにでも起こりうることでもあろう。

マリリン・マンソンが槍玉にあげられツアーは中止に追い込まれるが、全米ライフル協会の集会は強行された。遺族の一人が抗議に赴くと、少年が比較的容易に銃を入手できたために起こった事件であるにも関わらず、銃規制賛成派に踊らされているだけだと逆に批判を浴びせかけられるといった一幕も、またなんともアメリカ的である。

事件直後には犯人像について様々な噂が広まった。コロンバイン高校にはゴスもトレンチコート・マフィアもいたが、二人はそうではなかった。しかしメディアはこの噂を報じ、あたかもゴスの影響で事件が起こったかのように受け取られた。マリリン・マンソンはそのとばっちりを受けたのであるが、『ボウリング・フォー・コロンバイン』でのインタビューで、犯人たちと話す機会があったらなんと言ったかという質問に、「なにも言わない」、「彼らのしたいことを聞く。誰もしなかったことだ」と答えたのはさすがである。一方でエリックが一時心酔していたバンド、KMFDはファンに対して「国中の人と同じく、コロラドで起きたことに胸を痛め愕然としている……いかなるナチス信仰も許されるものではない」とのメッセージを発表したが、メディアからはマンソンへのバッシングとは対照的に、KMFDと事件との関連性自体が無視された。

事件後に、犯人たちはジョックとともに福音派も狙っていたとされ、右派メディアは好んでこの話題を取り上げたが、これも実態に基づくものではなかった。また事件直後に、二人のことを知りもしないジョックが犯人を「オカマ野郎」だとし、「変態」が「触り合って」いるのを見たとまで語った。主要メディアはこの話題を報じることを避けたが、右派メディアやキリスト教右派は騒ぎ立てた。

本書では触れられていないが、この事件をモチーフにした『エレファント』は、ガス・ヴァン・サントの立場は右派とは正反対であるものの、事実との比較という点では安易な報道や右派によって掻きたてられた噂に結果として近いものになってしまっている。もちろんあの作品はあくまでフィクションなので、これによって『エレファント』の評価が左右されるべきではないが、皮肉といえば皮肉な話である。

自分の見たいものを投影することができる事件だったということでもあり、それゆえに「通説」が今でもまかり通り続けているのだが、ショッキングな出来事を「消化」するためには、人はそうせざるをえないのかもしれない。


こちらに書いたように、昨年ディランの母は当時のことや事件についての回想録を出版している。エリックの家族は依然として沈黙を守り続けているようである。


『昭和初年の『ユリシーズ』」

川口喬一著 『昭和初年の『ユリシーズ』」





芥川龍之介の『餓鬼窟日録』には、大正8年6月に「丸善より本来る。コンラッド2、ジョイス2」との記述がある。洋書売場であった丸善2階は芥川にとって特別な場所であり、洋書を熱心に漁っていた。コンラッドもジョイスもこの時点では日本では本格的に論じられておらず、芥川のその目敏さに注目できる。

芥川が購入した2冊のジョイスの本のタイトルは記されていないが、うち一冊が『若き日の芸術家の肖像』であったことは確実だ。芥川はこの1年後にエッセイで『若き日の芸術家の肖像』について触れていて、「冒頭の章の特質を見事に言い当てているのはさすがというほかはない」。

芥川は余程この作品が気に入ったのか、これからさらに2年後には、「「ディイダラス」という題で第一章のさわりの部分を置き換えてさえいる」。

ただこの翻訳には不思議な欠落部分があり、例えば「クレヨン」が欠字になっているそうだが、当時の辞書になくてよくわからなかったということなのだろうか。「しかしもっと不可解なのは、主人公の意識に焦点を当てたこの部分で、その「彼」に「(ダンテ)」と補っている点である。芥川はどうやら主人公(スティーヴン)、フレミング(級友)、ダンテという、ここで話題になる人物たちの関係を十分に把握していないようなのだ」。

一高東大を出て英語教師にもなった、秀才の誉れ高かった芥川ですらきちんと読めていないのだから当時の日本の知識人の英語力は……と思われる人もいるかもしれないが、著者はこう書いている。「いずれにしろ私はまず芥川がわざわざこの部分を選んで抄訳していることに敬服する。冒頭の部分から一部を選ぶとすれば、六歳のスティーヴンの世界認識の特性をグラフィックに描いたこの部分以外からは考えられないからである」。このように、むしろ芥川の批評眼を讃えるべきかもしれない。


芥川が当時日本ではほとんど知られていなかったコンラッドやジョイスの名前をどうやって知ったのかはわからないが、おそらくは丸善の出していた雑誌『学燈』を通してであったことは、そこに両者の記事があったことから推測できる。そして『学燈』にジョイスの紹介を書いたのが、詩人のヨネ野口こと野口米次郎だった。野口はアメリカ生活を切り上げた後ロンドンの渡り、ここでエズラ・パウンドらとのネットワークを築く。パウンドは後に日本について関心を抱くことになるが、まだそれ以前のことであった。

「文壇興行師」パウンドはジョイスの才能を認め、そのプロデューサー的役割を務めた。野口はロンドンで知り合ったパウンドやその周辺人脈を通してジョイスを日本に紹介することになった。野口はここでH・G・ウェルズのジョイス評を引用しているのだが、これは「驚くべき誤訳が飛び出してくる」代物であるようだ。またウェルズの皮肉や当てこすりも理解できていないという。英語で詩作をしていた野口にしてこの有様かとも思えるが、何よりも目を引くのが、野口のその異様とも思える文体である。野口は「二重国籍者の詩」において、「僕は日本語にも英語にも自信が無い」と書くことになるが、これはあながち詩的隠喩ではなく率直な本音であったのかもしれない。その後の野口の歩みを考えると、このコンプレックスがかなり作用したのではないかと思えてくる。

『ユリシーズ』は雑誌連載中から様々な騒動を引き起こし、英米では出版できずにフランスのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店(もともと本屋として出発していたが、ジョイスのために出版をてがけることになった)からようやく刊行される。このスキャンダラスな書について『英語青年』誌上において最初に日本に紹介したのが、当時シカゴに滞在していた杉田未来こと高垣松雄だった。杉田はここで「英語で書かれたもっとも早い時期の『ユリシーズ』批判のひとつ」であるアーノルド・ベネットによる批判を紹介しているが、以外な人物がこの評を読んでいた。「後藤新平の娘婿」(とされているが、鶴見俊輔の父親とした方が通りがいいかもしれない)の鶴見佑輔である。鶴見は「朝鮮沖、船中にて、紅茶の後」でベネットのエッセイ集を読んでいることを書いているが、感想は記していないそうだ。

この後しばらくは堀口大學をはじめ間接的な紹介が多かったが、その中で異彩を放つのが、杉田がシカゴからジョイスの記事を送ろうとしていた頃にボストンに向けて出発した土居光知だった。当時42歳の土居は「じつに行き届いた論文」である「ヂヨイスのユリシイズ」を書くことになる。まだ二十代だった伊藤整らの「稚拙な受容ぶり」とは異なる、「年季の入った」研究の成果を見せている。この論文を有意義なものにしているのは、何よりも土居による試訳である。第五挿話では「ほぼ順当な翻訳」が行われ、ブルームの「意識の流れあるいは内的独白も書き留められている」。土居は日本の読者にわかりやすくするためこの部分を括弧に括って処理しており、この手法は「伊藤整や川端康成ら初期の「実験小説」の書法にも影響を与えている」。しかし第六挿話などでは「かなりの誤解」が見られることになるのだが、まあこれはやむを得ないだろう。

時間が前後するが、伊藤整は『ユリシーズ』に入れ込み、後についには全訳をすることになるが、しかしその伊藤の熱を嘲笑うかのように、小林秀雄は痛烈に批判している。ここでの土居の論文は原文を読み込み、試訳まで数多く行い、伊藤のような「稚拙」さや小林のような「ただフランス語の翻訳で読んだだけ」といったいい加減さとは一線を画するものとなっている。

土居は最終挿話のモリーの独白も訳出していて、この訳業は大きな影響を与えることになる。しかし、土居はこの論文の結論部ではジョイスに好意的であったが、後に『英文学の感覚』として単行本に収録される際にはここを書き改め、『ユリシーズ』を「未完成」とし、「長く愛読されるべき傑作ではなく」、「やがて忘れられるべき運命をもつてゐる」と、一転して否定的になっている。


「新心理主義」の立場から『ユリシーズ』を高く評価した伊藤整であるが、小林秀雄にこっぴどくやっつけられた(もっとも丸谷才一が「飛躍と逆説による散文詩的恫喝の方法」としているように、小林による批判は本質的なものではなく、伊藤もこれにめげずに『ユリシーズ』の全訳に取り組み続けた)。しかしその翻訳は、「総じて伊藤(たち)は口語的文章に特に弱い。これは当然ながらこれは意識の流れの理解には致命的になる」のであるが、当然ながら当時の辞書等の限界もあり、このあたりにはやはり同情的になってしまう。

その後も西脇順三郎による、「伊藤整たちの「メトオド」中心の受容とは明らかに一線を画した、いま読んでも、われわれが『ユリシーズ』に関して大きな忘れ物をしてきたことをいまさらのように思い出させる、気持ちのいい文章」である「ヂエイムズ・ヂオイス」が書かれるなど、『ユリシーズ』は当時の日本でも広く論じられていた。

そして原著刊行から10年たった1932年、ついに『ユリシーズ』(の一部)の翻訳が刊行されることになるのだが、岩波文庫と第一書房とから二種類の訳が出ることで、「翻訳合戦」となった。なおこの情報を掴んだジョイス側は日本の「海賊版」を取り締まろうとするが、当時はヨーロッパの版権の保護期間が10年とされていた法律が日本にあったため利益を得損ね、ジョイスは「小額の版権料」を「怒りにまかせて突っ返した」のだが、これが岩波版なのか第一書房版なのかはわからない。

第一書房版は伊藤整らによる訳で、岩波版は「森田草平以下五人が訳者として名を連ねている」。『父・夏目漱石』にも描かれていたように、森田の英語力は少々というか、かなり怪しいところがあり、この難解な『ユリシーズ』を訳すことができたのだろうか。結論からいえば森田は名義貸しで、それも元々はやはり漱石門下の野上豊一郎のところに話があったのだが諸般の事情で同じく法政大学にいた森田にお鉢が回ってきたということのようだ。実際に翻訳にあたったのは名原広三郎、瀧口直太郎、小野健人、安藤一郎、村山英太郎の法政関係者を中心とするグループだった。森田はといえば「若い友人たち」が困難な訳業に挑んでいる最中に『ユリシーズ』について「性に合はない」とまで書いている。森田はここではなぜか中心人物であるブルームについては一切触れていないが、おそらくは、「『ユリシーズ』の冒頭の数章を読んだだけで、ブルームの登場する挿話は読んでいないのかもしれない」という有様だったようだ。

第一書房に出版で先を越された岩波はライバル心むきだしで宣伝に努めた。そして第一冊が出ると『ユリシーズ』出版記念会が開かれ、『新英米文学」」によると、これには「文壇、英学会の知名士百数十名」が参加した。ここに面白い名前が載っている。「当時東京高等師範学校と東京理科大学で教鞭をとっていた「ウヰリアム・エンプソン」」である。「のちにニュー・クリティシズムの聖典として崇められる」、『曖昧の七つの型』などで知られるエンプソンは、避妊具を持っていたことが発覚してケンブリッジを追われ、三年契約の東京での教職に飛びついたのだった。当時25歳だったエンプソンは、来日早々に新聞の三面記事をにぎわせる。深夜に投宿先のステーションホテルに戻ると一階の窓から侵入しようとして強盗に間違われて通報されてしまったのである。1931年9月1日の朝日新聞の「強盗にあらず実は大学教授/戸惑ひ英国人が今暁東京駅宿直室に侵入」という見出しの記事にある「ダブリユ・エンプ」とはエンプソンのことであった。

後に「かなり癖のある」『ユリシーズ』論を書くことになるエンプソンであるが、着任後一年に満たないエンプソンが、岩波の『ユリシーズ』出版記念会になぜ出席し、どんな振る舞いをしたかはわからない」そうだ。当時この会に出席した人の中で、エンプソンが後に超大物になるなどと想像した人がいただろうか。

第一書房版と岩波版の翻訳の比較が行われている。もちろん今の水準から見れば限界があるのだが、むしろよくここまで訳せたものだとも思えてしまう。『ユリシーズ』は「二〇世紀最大の小説」とされるとともに「二〇世紀の最も偉大な読まれない小説」ともされるように、英語圏の人にとっても予備知識なしにきちんと読んで理解することは困難であろう。文法的な破格や大胆極まりない省略、複数のセンテンスを一つにまとめてしまうなど、研究の蓄積があってようやく意味がとれるようになるような箇所も多々あり、これを読みこなすには英語力だけが問題となるのではない。


第一書房版も岩波版も完訳が出されるまではかなり遅れ、岩波など最終の第五冊が出たのは第一冊の出版の三年後のことであった。この遅れの最大の理由が、英米でも問題になった「猥褻」の問題で、日本でもどちらも伏字だらけで出版されることになったのだが、また猥褻の問題だけでもなかったようだ。岩波版では「そのおとこの名をいつてごらん。だれです? いつてごらん。だれです? ××××ですか?」という箇所があるのだが、これはなんと「(独逸)皇帝」が伏字にされていたのであった。「ドイツ皇帝への不敬罪を配慮したものであろうか」。

こうして苦労を重ねて完訳が出たのであるが、その反応といえば訳者たちが期待したようなものではなかった。

伊藤整は戦後になってロレンスの『チャタレー夫人の恋人』でわいせつ罪に問われる。そしてこの「チャタレー裁判」では、なんとあの土居光知が検事側の証人として法廷に立つことになるのであった。二人は「形の上では初対面であるが、実質的には、伊藤にとては久しぶりにまみえるジョイス紹介の先達であった」。

伊藤はここでの土居について辛辣に書くことになるが、著者が注目するのは、土居が「ある時期から、「ロレンスとかジョイスの様な文学的の現象」に関心を失い、批判的な姿勢を持つようになったらしいこと」だ。土居は論文執筆時と単行本収録時でジョイスの評価を変えたが、土居のこの「ハイ・モダニズムの作家」に対する評価の変化は、「わが国における『ユリシーズ』退潮の時期と奇妙に重なっているのである」。

この「チャタレー裁判」の影響は『ユリシーズ』にも及び、新潮社が企画していた伊藤の新訳『ユリシーズ』では問題の箇所は英語原文を挿入するという形となり、岩波文庫を踏襲した三笠書房版でも同じ形がとられる。「伏字なしの完全版は、昭和三六年の丸谷才一らによる河出書房版まで待たなければならなかった」。


ユリシーズを燃やせ』は『ユリシーズ』という小説の伝記であったが、本書は日本での『ユリシーズ』受容史であり、また1920年代から40年代あたりまでの日本の文学的潮流を追うこともできるものとなっている。


『ユリシーズを燃やせ』

ケヴィン・バーミンガム著 『ユリシーズを燃やせ』




「最も偉大な文学作品は何か」、このようなアンケートを取ると、ほぼ確実にジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』が上位に食い込むことだろう。そして『ユリシーズ』が、アメリカなどでは長らく発禁にされ、数にして実に千部以上が燃やされたたというのも、またこの作品にまつわる挿話としてよく語られる。

「本書は『ユリシーズ』の伝記である」と「序」にあるように、ジョイスによる構想の芽生えから混乱に満ちた雑誌での連載とそれを巡る闘い、単行本化されてますます激しくなる争い、そしてついに1933年にアメリカ最高裁で出版が許可されるまでが描かれている。

『ユリシーズ』の伝記というということは、もちろんジョイスの伝記ということでもある。彼のエキセントリックで常人には理解し難い人生も辿られることになる。『ユリシーズ』の舞台となるのは1904年6月16日のダブリンであるが、この日はジョイスと妻のノーラにとって記念すべき日であった。一度約束をすっぽかされたジョイスであったが、今回は二人で会うことができた。ノーラはジョイスに身体を近づけ、ワイシャツの裾をたくし上げると、「器用に指を滑り込ませて愛撫を始める。彼がうめき声を上げると、ノーラはその顔を見て小馬鹿にするように笑った。「あら、どうしたの?」 それは文学史における重要な瞬間だった」。

この後、ジョイスは永遠にアイルランドを離れることを決め、出会ってまだ4ヶ月の19歳のノーラに「僕を理解してくれる人間がいるだろうか?」と訊ねた。「イエス」と彼女は答えた。
このように本書はノーラの物語でもあり、『ユリシーズ』の単行本を刊行することになる「シェイクスピア・アンド・カンパニー書店」の創設者のシルヴィア・ビーチの物語であり、W・B・イェイツ、エズラ・パウンド、T・S・エリオット、ヴァージニア・ウルフと、直接間接にジョイスや『ユリシーズ』と関係のあった文学者たちを描いた20世紀モダニズム文学の歴史であり、またアメリカ出版史の一断面でもある。

本書において何よりも印象深いのが、ジョイスを支えた女性たちだ。女性たちを堕落から守るという名目で検閲や弾圧が行われたが、まさにこれこそが女性たちが戦うべき理由であった。アメリカでジョイスを攻撃する急先鋒となったのが悪徳防止協会であり、アメリカで弾圧の道具とされたのが「猥褻、みだら、または性的な本、冊子、写真、新聞記事、あるいはその他の不道徳な出版物」を米国郵便システムを使って配布、宣伝することを禁じた、1873年に制定されたコムストック法だった。女性参政権論者たちにとって、ジョイスのあけすけな性行為、性器、糞便等への言及は因習への挑戦でもあり、共闘できるものであった。『エゴイスト』をはじめとする雑誌で発表の機会を与え、また資金面でも支え続けた。本書はまた、20世紀前半の女性たちの戦いの記録でもある。

このように、『ユリシーズ』入門としても読むことができるだろうし、20世紀前半の文学史として、社会史としても読むことができる。またアイルランド人であるジョイスがダブリンを舞台にチューリッヒやパリなどヨーロッパで書いた作品であるが、アメリカ合衆国のピューリタン的潔癖症と、それを打ち破るのに法廷闘争を敢然と挑むランダムハウス社という構造は、アメリカ合衆国の持つ複雑な姿を理解するのにも役立ってくれるだろう。


それにしても、やはりなんといっても一番印象に残るのはジョイスという人物である。スコット・フィッツジェラルドはジョイスと会うと、忠誠心を示すためにそう命じられたら窓から飛び降りると言うと、ジョイスは「あの若者はどこかおかしいに違いない」、「自身を傷つけるのではないかと心配だ」と言ったが、「どこかおかしい」のはあなたの方でしょ、と思わずにはいられない。

「僕たちは出会うのが遅すぎた。あなたは年を取りすぎていて、僕に何の影響も及ぼさない」、当時20歳のジョイスが35歳だったイェイツに対して放ったこの言葉は有名である。このように格好いいと思えるようなエピソードもあるにはあるが、とにかくもうそのどうしようもない浪費癖や自己中心性がすべてをかっさらっていく。トリエステで弟とともにベルリッツで働いていた際、貯金という概念のなかったジョイスはすでの子どもがいる身でありながら、月末に金が余るとレストランなどで散財し、翌月には前借を頼むという有様で、弟がいい加減にしろとぶちぎれてぼこぼこに殴りまくったというのも有名な話であろう。また支援者たちが懲役刑をくらう覚悟で『ユリシーズ』の密輸や配送を行っている最中にも、あまりに身勝手な金の無心をして、ついには忍耐強く気前よくジョイスを支え続けてくれていたビーチとも袂を分かつことになる。

手術を繰り返し、ついにはほぼ失明状態にまで陥るその姿は痛々しくあるが、また素直に感情移入するにはエキセントリックすぎるのでもあるが、天才とはそういうものといえばそれまでかもしれない。


なお巻末には邦訳オリジナルのブックガイドもある。ジョイスについてはなんといってもリチャード・エルマンの『ジェイムズ・ジョイス伝』であろう。これは前に目を通していたのだが、また読み返したくなってきた。柳瀬尚紀の『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』の紹介に「柳瀬氏の『ユリシーズ』完訳を心から待ちわびるひとりとして、ブックガイドの締めくくりに本書を挙げておきたい」とあるのはつらい……


このブックガイドで紹介されている本を含めて日本での書誌についてはSTEPHENS WORKSHOPというサイトで見ることができる。

『いま、松下竜一を読む  やさしさは強靭な抵抗力となりうるか』

下嶋哲朗著 『いま、松下竜一を読む  やさしさは強靭な抵抗力となりうるか』




松下竜一といえば以前大杉栄と伊藤野枝の娘を描いた『ルイズ 父に貰いし名は』の感想をこちらに書いたが、実は読んでいるのはこれ一冊で、代表作の『豆腐屋の四季』などはまだ読んでいない。別に理由があって読んでいないわけではないので、いつかそのうちに。


竜一は生後間もなく急性肺炎からくる高熱が続き、両眼が飛び出してしまった。十人もの医者に見放され、奇跡的に助かったものの「熱でやられて白痴だろう眼も見えまい」と宣告された。この後遺症で右眼の視力はなく、右眼には「ホシ」があった。母は「それはね、竜一ちゃんの心がやさしいから、お星様が流れて来てとまってくださったのだよ」と言っていた。

小学校では「虚弱児」だったうえに目のこともあって激しいいじめにあう。おいおい泣いて帰ると母は「ホラホラ、そんなに泣くと、目のお星様が流れ出てしまうよ」と言った。竜一が「目の星なんか流れた方がいいや」と泣きじゃくると、母は「お星様が流れて消えたら、竜一ちゃんのやさしさも心から消えるのだよ」と言うのだった。

「母は一度だって強い子になれとはいわなかった。ただ、やさしいかれ、やさしかれと語りかけるのだった」。「母はたぶん知っていたのです。やさしさに徹することでしか、ぼくは強くなれないのだと。でもほんとうにやさしくなることは、なんと至難なことでしょう」。
発電所建設のための埋め立てに抗議をする「巨大な暴力に丸腰で抵抗する若き者たち」を前に、松下は「やさしさがそのやさしさのままに強靭な抵抗力になりえぬのか」を考え続けることになる。

母は小学校も終わらないうちに紡績工場に働きに出され、読み書き算数はその工場で習ったという。「かんじを忘れて一一きくのもめんだうです。かな文字ばかりで人が見たら笑ひます。読んだら焼きなさいね」、そう書いた母の手紙は2通だけ遺されている。

母も、そして豆腐屋の父も無学だった。「わが家には蔵書など一冊もなかった」。ある元図書館長が「弟をおぶって、幼い私の手を引いた母が、「何か竜一の読むような本を貸してください」といって、図書館を訪ねてきた」と回想している。

本を読み漁るようになった竜一は高校ではトップの成績であった。作家になりたかった竜一が目指すは東大仏文科だった。しかし結核による療養生活に入り浪人、しかもその最中に母が倒れて急死する。叔父は豆腐屋を一人でやっていくことはできないからと、「父を扶けて豆腐屋として働け」と竜一に引導を渡した。

「本はもう読むまい」と決めたが、それでも本が恋しくなった。「午前三時から起き出して、日の暮れるまで働く。その中にもある作業の途切れるわずかなスキの書物の逢引」が日常だった。
「たとえば、夜明けの配達を終えて朝食をすませ、次にあぶらげを揚げ始めるまでに三十分くらい休息がある」。竜一はこうして「孤独で惨めな日々」を耐えた。

六人兄弟、弟二人は生活のあてもないまま上京し、帯の仕立て職人となるが、なんの保障もない賃仕事だった。「家の前に止まる郵便屋の赤いスクーターは恐怖だった」。東京にいる二人は、どちらかが病気になればたちまち行き詰まり、金を送ってくれるよう連絡が来るのだった。竜一はなけなしの金を弟に送る。

父は再婚したが、これは家庭をさらに暗くさせた。この新しい母は子連れで、竜一らがその日の食事代にも困る爪に火を灯すような生活を送っていたのに、実子には特別に小遣いを与えたりしていた。
上京した弟たちは食い詰めると帰郷し、また上京しては行方不明になるということを繰り返していた。鬱屈からか、弟の一人は粗暴化していくが、そのはけ口として標的にされたのが竜一だった。体が弱い彼は、力勝負になれば弟にたちうちできなかった。それを知ってか、竜一に当り散らすのだった。

竜一はついに耐えかね、家を出て小倉で仕事を探しはじめるが、気力もなくなり、自殺を考えるようになる。連れ込み宿に泊まって遺書も書いたが、自分が死ねば「家族は完全に破滅する」。素直に育った、まだ中学生の末弟はどうなるだろうか。そう考えこれを思いとどまった。女中にひどい扱いをされたので遺書を寝床に並べて裏口から忍び出た。女中が驚愕して警察に駆け込むところを想像して「ひそかに笑っ」たが、「なんと暗い笑いだったろう」と竜一は振り返っている。


極貧生活、豆腐作りも失敗ばかり、それでも「父だけは黙々と耐えた」。竜一はそんな豆腐屋の日々や父の姿を朝日歌壇に投稿するようになる。何千もの投稿がひしめくなかで一位を獲得するなどその才能が認められる一方で、家族を題材にしていることから様々な波紋も起きることとなった。

そんな竜一も恋をすることになる。豆腐の納入先の娘の洋子との結婚を夢想するようになった。当時竜一は25歳、洋子は14歳の中学生だった。もともとは洋子の母が内気すぎる娘について竜一に相談してきたのがきっかけだった。「洋子ちゃんは、母親に似て美しい娘になるだろう。とても気の優しい娘になるだろう。今から五年、そのことをひそかに私の胸に秘めて、待っていようか」。こう思うものの、自分の肉体が若者らしい生気を取り戻すことができるとも思えなかった。

この直後、竜一は日記に「私の三原の奥さんに対する感情は、もはやまぎれもない恋情である」と書くのだった。竜一は自分より11歳年上の、洋子の母を愛するようになっていたのだった。「私がもう一度若くなれるんだったら、あなたに結婚を申し込むんですけどね」と奥さんは答えたように、二人の関係はプラトニックなままだったが、この噂はたちまち広がり、竜一は姉にもなじられた。

洋子は後に「あんたとかあちゃんが好き合ってるのは、早くから知ってたわ」と語る。母は二階で家族で食事をしていても、店から竜一の咳(竜一は年中風邪をひいて咳が止まらなかった)を聞くと大急ぎで食べて下へと降りていくということもあった。

洋子は高校二年のとき、母から「あのお豆腐屋さんはすばらしい人よ。きっと将来何かする人よ。それにとってもやさしい人だから、あんたがお豆腐屋さんと結婚したら、きっとしあわせになれると思うわ。あの人はそのつもりでずっとあんたを待ってるんよ」と言われる。
洋子はこういわれる日がいつかは来ると思っていたため驚きはしなかったが、「いややなあとは思ったわ。そんなに早く結婚なんか考えられんやったもの。それに、うちは早起きが苦手やから、豆腐屋はいややったし」と思った。それでも、高校を卒業すると竜一と結婚することになる。竜一29歳、洋子18歳だった。

後に「かあちゃんの身替わりに結婚されて結婚させられるんやなあち思うと、かあちゃんがうらめしかったんよ」と洋子は言うが、逆にこんなことをあけっぴろげに言えるほど、竜一と洋子は幸せな結婚生活を送った。竜一は生涯洋子を愛しぬき、「そのあまりに深い愛し振りに周囲の人びとはうらやみを超えてあきれかえった」ほどだった。


とはいえ、他人からするとやはり相当に不思議な関係であるように思えてしまう。竜一は「洋子をかならず幸せにすることであなたへの愛を成就するのだ」と洋子の母に言った。「絶望の淵であがいていた私を、彼女は救いあげてくれたのだ。その出会いがなければ、私は二十代の終わりに自死していただろう」と書くが、この「彼女」とは「心の妻」のことだった。

洋子は母から「あんたほどのしあわせものはいない、よっぽどいい運の星の下に生まれたやろうなあ」と言われたそうだが、一体どんな気分だったのだろう。そもそも竜一に短歌を詠むようにすすめたのも母だった。ちなみにこの母は離婚したり未亡人だったわけではなく、「夫は妻と竜一との仲も知っていながら、小心ゆえに内向させてきたという」。この夫(竜一からすると義理の父)は妻が末期癌となって、ようやく竜一に強く出るのだった。


前にW・B・イェイツが、モード・ゴンへの求婚がうまくいかないとみるや娘に目を向けたということをこちらに書いたが、イェイツは恋焦がれ続けた人の娘と結婚することはなかったが、これが松下の場合だとさらに複雑なことになっている。まあ二人が幸せならそれでいいので、他人がとやかくいうようなことではないが、それにしてもすごい話である。


『豆腐屋の四季』を自費出版し、残ったものをよければ差し上げますと洋子が朝日新聞に投稿するとこれが大反響となり、注文が殺到するようになった。もともとのきっかけが洋子の内気さを相談されたことだったが、取材も殺到し、「何気なく投稿した小文の波紋に怯えて、気弱な洋子の様子がおかしくなった。布団を被り泣いているのだ」ということもあったという。洋子は当初は「いややなあ」と思ったのかもしれないが、ここまで内気だと竜一のような人でないと結婚できなかったのかもしれない。

『豆腐屋の四季』はベストセラーとなり、緒形拳主演でドラマ化されるほどだった。体の弱かった竜一はこれ以上豆腐屋を続けるのは無理と廃業を決意するが、そのブームも下火となっており、執筆依頼はなかなか来ない。そしてようやく来たのが、西日本新聞からの公害現場のレポートだった。この作業を通じてかねてから心にひっかかっていた問題と向き合うようになっていく。

こうして竜一は洋子と「ビンボー暮らし」を続けながら、優れたノンフィクションを生み出していくことになるのであった。


もちろん松下の本を読まなくてはなあという気にもさせてくれるのであるが、結婚にまつわるエピソードに全部持っていかれた観もなきにしもあらずでもあった。



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