『橋川文三  日本浪曼派の精神』

宮嶋繁明著 『橋川文三  日本浪曼派の精神』





加藤周一の『『羊の歌』余聞』には、宋左近が召集令状を受け、その歓送会で白井健三郎と橋川文三が一触即発の言い争いをしたエピソードに触れられている。当時日本浪曼派に浸かっていた橋川らが「きみ、それでも日本人か」と言い出し、これに対し白井は「いや、まず人間だよ」と答えたという。

この有名なエピソードは当事者たちを含めて多くの証言があるが、その内容は様々である。真相はどこにあったのだろうか。
本書では橋川の生い立ちから大学専任講師になる60年代前半までが扱われている。著者の宮嶋繁明は学生時代から橋川に師事しており、橋川に好意的な視点から描かれているのでその点は少々注意を必要とするだろうが、橋川の前半生を丹念に追った労作になっている。

橋川は保田与重郎の影響もあり、「戦争と死を自明としてうけいれ、それ以外の現実を想像することはない人間だった」と振り返ることになる。祝詞を唱えるような日本主義的右翼ではなく、「私たちは死なねばならぬ!」という日本浪曼派的美意識を内面化していたのであった。

皮肉なことに、戦争で死ぬことを求めていた橋川は徴兵検査で結核が判明し徴兵免除となるのであった。橋川はこの後に自殺未遂を起こしたという証言もあり、このあたりの屈折も白井との口論につながっているのだろう。

橋川によると、白井が「結局ナチスと同じじゃないか」と言い出し、橋川はユダヤ人迫害を持ち出して「ナチスは否定すべきだ、ナチスと日本は違うと主張した」という。まずは「感情の論理みたいなもの」があり、「日本ロマン派なんてのに惹かれたのもそういうことなんで『まず日本人であれ』って主張を、何かスローガンにしていたのじゃなく、いまの言葉でいえば、そういう『実存』様式を前提としない議論はウソだという考えなんで、もちろん理論的な信念というようなものじゃない」としている。「『要するに死んでみせますよ』という少年期の心理的亢進だったんだな」と振り返っている。


橋川は戦後編集者時代に丸山真男と知り合い師事することになるのだが、東大在学時には丸山の授業は受けていなかったそうだ。これは勘違いをしている人が多いというが、まさに僕もそうだった。いったいどういう心理で戦時中に丸山と付き合っていたのやら、と疑問だったのだが、本書でそういうことだったのかというのがようやくわかった。

なお橋川は敗戦間際に、故郷の広島食料事務所で働いていたが、東京の農林省から採用試験のために呼び戻され、原爆投下の二日前に広島を離れている。この呼び出しがなければ橋川は被曝していたことだろう。そしてこの時「丸山二等兵」も広島におり、被曝することになる。あるいは二人をより一層結び付けたのは、この経験だったのかもしれない。

その「師」である丸山は、白井らとの悶着の際に橋川が、「天皇の悪口をいうと、胸ぐらつかんでね、貴様何とか、といったという……」としているのだが、もちろん丸山はこの場にいなかったので伝聞情報なのだろう。著者は橋川は天皇崇拝はしていなかったとし、橋川の「私たちのまわりの少年ロマン派の仲間たちは、『天皇』に文字通りイロニカルな、適度に不逞な嘲弄感をいだいていた」という証言を引いている。

また一部に橋川が日本刀を持ち出したとされることもあるがそんなことはなく、「そんな非国民、たたっきってやる」と言ったという証言から勘違いが生まれたのだろうとしている。しかしそのような発言があったことは確かなようだ。

著者は戦後橋川と親しくなる吉本隆明の、加藤周一らにたいする批判を取り上げている。吉本は加藤らが戦争を嫌い、ファシズム的な運動に加わらなかったのは確かだが、しかし戦後にいうように当時から戦争反対を公言していたわけではなかったではないかとなじっている。グループ内で内緒話としてしたことはあったかもしれないが、「リベラルな人たちが表立って戦争に反対したことはない。だから彼らまで含めて、純粋さがなかった」と批判する。一方で吉本らは「僕らは自分の命と引き換えにして、こうだ、と追い詰めた。追い詰めた結果はどうであれ、それなりの青年としての純粋さはあった」と語る。では吉本は戦中非転向を貫いた共産党員を「純粋」だと評価したのかといえばそうではなく、吉本のことがあまり好きではない僕から見れば、吉本のこの手の発言はまったく支離滅裂に映り、他人の批判をして自己肯定をしたいだけのように思えてしまうのだが。著者はこの吉本の心理は当時の橋川に近かったのかもしれないと推測している。

当時の橋川からすれば、「自分の方は「たたききられる」のも覚悟の上で、自分の命を引き換えにすることも辞さない覚悟で主張していた」が、白井らは「仲間うちの送別会という私的な場所であったからこそできた発言で、自らの全存在を賭けて、戦争反対と公言したわけではない」と映ったのかもしれない。

では白井らは、何もせずに過ごしていたのだろうか。本書でも触れられているように、彼らなりの抵抗をしていた。白井は「徴兵忌避を目的に食事制限などにより肉体を衰弱させて、徴兵検査では通常は徴兵免除となる第三乙だった」。それでも戦争末期に赤紙がくるが、「入営後も食事を取らずに眠らずにいると、顔面蒼白、血沈が速くなり、軍医はついに帰郷を命じるに至った」(白井 『知と権力』)。

宋もまた絶食をし、丙種となったが、こちらも戦争末期に赤紙が来る。精神病だと主張するが却下され、上官を刺して狂人を装うかと考えていたが、軍医少佐に呼ばれ、「大学では何を勉強している?」ときかれ、「西洋哲学であります」と答えると、しばらくして「即日帰郷を命じる。その病気では軍隊はつとまらん」ということになったという(宋 『縄文発進』)。

また橋川より4歳年少のいいだももは、「この農村にめんめんと伝わる『醤油のみ』の秘伝は、ぼくも召集令状が来て入隊しなければならなくなった時には活学・活用させていただき、首尾よく『即日帰郷』ということにあいなりました!」と振り返っている(『サヨナラだけが人生か。』)。

著者が書くように、「白井、宋、いいだらのこうした兵役に対する姿勢は、積極的な徴兵忌避」であった。著者は当時の橋川や吉本の方を必ずしも肯定的に評価しているのではなく、橋川より2,3歳上の白井、宋らと、橋川より年少のいいだらとを比較し、橋川や吉本の世代がわずか数歳の差も大きいほど、特殊なメンタリティを持ったのかを論じている。とはいえ橋川は戦後に白川らとの口論について、「我が方に利ありとも思えない」という、誤りを認めたとはいえ消極的なものに留まったことにも触れている。橋川はその後『日本浪曼派批判序説』で自身を含めて過去との対決を行うことになるが、しかし橋川、あるいはその周辺にいささか危ういものを感じさせなくもないことを、本書のこの事件への記述は図らずも明らかにしてしまっているようでもあった。


橋川は戦後に共産党に入党することになる。宋は橋川から「きみも活動せよ」と言われたが、言を左右していると、「もうすぐ革命が成功する。そしたら、デス・バイ・ハンギングだ、お前なんか」と言われたと振り返っている。では熱烈な共産主義者になった結果なのかといえば少々疑わしく、丸山は橋川から、このとき左翼的な出版社に勤めていたため「どうもパルタイにはいらないと編集の上で具合が悪いんです」と言われたとしている。丸山は「具合が悪いなんていうことで入党するもんじゃないって、ぼくは叱ったのを覚えています」としているが、結局橋川は入党し、そしてしばらくした後に党を離れる。「だから後年、橋川君はぼくに笑いながら、『どうも変なもので、なんとなく入党し、なんとなく脱党したという感じです』なんて話したことがあります」と、丸山は言っている。

松本健一はこのようなエピソードに触れ、「かれはつねに状況との関わりかたが、受身なのである」と論じているという。
「受身」というよりも「おっちょこちょい」とでも言った方がいいのかもしれない。橋川は必ずしも政治的な人間ではないのだろう。むしろ現実政治になど向いていないタイプだ。それでも周囲の雰囲気を受けて、過剰反応してしまったということなのかもしれない。著者自身を含め、橋川と仕事をした多くの人が、橋川が「優しい人」であったとしている。また宋は敗戦間際に自分の歓送会であんなことを引き起こされたうえに、戦後には今度は逆の立場からお前なんか絞首刑だと言われたにも関わらず、「戦中も戦後も、しかし、橋川が憎めなかった」としている。橋川がいかに「いい人」であったかが窺えるのであるが、そのような「優しい人」がおっちょこちょいな政治的思い込みによってとんでもないことを言い始めるということでは、ちょっとぞっとするようでもある。


本書で最も印象深いのは、橋川の極貧エピソードかもしれない。
橋川家はもともとは父の才覚もあり裕福であったが、橋川が旧制高校一年の時に父がガンで死去してしまう。しかしすぐに追い詰められたわけではなく、当時は家庭教師などのバイトで学費や寮費を捻出しなければならない一高生もいたが、橋川がこのような生活を強いられるほど経済的に逼迫したわけではなかったようだ。というのも父は残された家族のために、資産を現金化して残しておいてくれていたのであった。しかしこれが裏目に出ることになる。間もなくやって来るインフレによって、またたくまに目減りし始めるのであった。

橋川は現在とは比べ物にならないほど超のつくエリート高校であった一高生の中でも一目置かれるほど勉学に秀で、文学的才能にも恵まれていると目されていた。周囲は当然東大文学部に進学するものと思っていたが、橋川は法学部に進む。これは就職を考えてのことだった。当然官僚コースを歩むはずであり、当人もそう考えていたのだろうが、敗戦間際に学徒勤労令により貴族院などで働かされたことで考えを変える。橋川は靴もなく、中学時代の地下足袋を実家から送ってもらうほどだったが、当時の小磯首相は「ぴかぴかに輝く長靴」をはいていた。貴族院で「戦局の苛烈さが、この世界にほとんど影響を与えていないらしい」ことを見せつけられ、「私たちとは別の人びとが、何かべつの考え方でこの戦争を指導しているらしいということも感じないではいられなかった」。さらに「日本軍=皇軍を義軍」だと考えて橋川は、「暴行・掠奪はおろか、虐殺・強姦まで行う」という噂話を同じ大学生から聞かされて衝撃を受ける。当時の橋川は「同じ年齢の学生仲間でも、いくらかロマンティクで、幼稚だった」。議会の低調さとこの噂話によって、「この戦争の疑わしさ」をようやく認識するようになった。さらには官僚が物資に恵まれた贅沢な生活を送っていることも目の当たりにし、このような「腐敗・堕落を知った橋川は、そうした官吏の側に身を置くことに、疑問を感じ始めていた」。

敗戦直後の橋川の行動は謎が多いが、茫然自失状態となったのか働くこともできなかったようだ。橋川の東京のアパートには数人が転がり込み、金も食料もないことから「ネコのすき焼き」や「犬鍋」を食い、本のカバーや机の脚を燃料として燃やさねばならなかった。当時は一部の特権階級を除けば東京のほとんどがこうした状態だったのだろうが、中でも「橋川の貧乏は最低だった」と友人は振り返っている。大学卒業から五ヵ月後にようやく小さな出版社の仕事にありつく。こうしてしばらくの間いくつかの小出版社を渡り歩いて糊口をしのぎ、編集者として丸山と親しくなり、「丸山シューレ」の一員となる。

橋川にとってさらなる負担は、弟が重度の結核に冒されていたことだった。不幸は重なるもので、母も40代の若さで死去し、橋川は妹たちを東京に呼び寄せ、四畳半一間のアパートで兄妹の三人での生活を試みるが、すぐに限界に達する。橋川自身が、徴兵検査のときにひっかかった結核のシェーブ(病巣の拡大・転移)に襲われたのだった。

丸山が結核で入院して片肺を摘出することになった。橋川は見舞いに行ったが、丸山から橋川も受診するように言われる。すると医者からなぜこんな状態になるまでほっといたのかと言われるほどの状態で、即入院が決まる。橋川は肋骨を六本も切除する大手術を受け、4年に渡る療養生活が始まる。かねてから丸山らは橋川の窮状をみかねて翻訳の仕事などを回すなどしていたが、入院中も弟の治療費のためにも翻訳の仕事を病床で続けた。病状が深刻だった弟は痛みを緩和するたえにモルヒネを投与されたが、モルヒネ中毒となってしまっていた。橋川は弟のために、なんとか高価なモルヒネ代をひねりだす。故郷に帰っていた妹の事情で一度広島に戻り、弟を見舞うが、帰京の二ヵ月後についに弟は亡くなる。この知らせを受け橋川は「帰るべきだが、迷う、金もなく、体にも自信がない」という有様だった。「翌日空しく金策に歩いた」ところを追いかけるように、「カヘルニハオヨバヌバンジスンダ」という電報が届いた。

これ以降も橋川の極貧生活は続き、生活保護を受けていたが、これが打ち切られて退院を余儀なくされた。橋川は英語と、高校・大学で学んだドイツ語の他に、フランス語とロシア語を独学し、翻訳の仕事でわずかながらの収入を得ていた。このあたりはさらっと書いてあって事情がよくわからないのだが、収入といってもごくわずかであり、こんな状態で生活保護が打ち切られてしまったのはひどい話である。さらには質の方は定かでないとはいえ、貧困にあえぎ肉体的にも悲惨な状況でありながら独習したフランス語とロシア語で翻訳をこなすというのもすさまじい。

なんとか健康を回復した橋川は再び編集者となり、次第に書き手としてもジャーナリズムから注目を浴びるようになり、そして明治大学の講師に就任する。「丸山シューレ」の一員であった明大教授の藤原弘達が招聘したもので、丸山も形式的なものではなく「大論文」となる推薦状を書いた。さらにこの4年後に専任講師に就任してようやく橋川の経済状態は安定する。

これについても少々不思議な話がある。橋川は当初は教授ではなく「教授会員でない専任講師」(現在でいうと非常勤講師のようなもの)を希望したが、その理由は「本業である文筆活動を続けたいから」というものだった。4年後に「ご自身の心境の変化」があったとして、ようやく専任講師となり「正規のステップ」をふむこととなった。大学教授になっても文筆に割く時間もあるということは編集者としてわかっていたはずなのになぜこんな希望を出したのかは理解に苦しむのだが、どうやら橋川は給与を含めた待遇の差をわかっていなかったようなのだ。著者は「後になってその実情を知るにおよんで、あまりの格差に「ちょっとおかしいぞ」と思ったことがあると、本人が語るのを聞いた覚えがある」としている。

金に不自由したことのない人ならともかく、極貧生活を数年に渡って繰り広げた後であるにもかかわらずこのあたりをきちんと確認しないというのは、橋川という人はやはり相当のおっちょこちょいなのだろう。また丸山らはあげたつもりで橋川に資金援助を行っていたのだろうが、経済状態が上向くと橋川は律儀にこの「借金」を返済したのであった。このあたりも橋川の性格というものがよく表れている。本書には丸山らしくないとも思える珍エピソードもあるが、それだけ丸山は橋川に気を許していたのだろうし、この二人は思想的つながりというよりも性格的なつながりの方が強かったのかもしれない。


『『羊の歌』余聞』

加藤周一著 鷲巣力編 『『羊の歌』余聞』




加藤の40歳までを描いた自伝『羊の歌』の英訳が刊行される際に書かれた、『羊の歌』以降を振り返った「『羊の歌』その後」をはじめ、「この『羊の歌』に連なる著作や対談・講演、すなわち、自伝的性格を帯びる著作や対談・講演を編んだのが本書である」(編者解説)。


1972年に書かれた「私の立場さしあたり」に次のような箇所がある。

 民主主義は程度の問題である。もう少し話をせばめて、たとえば「言論表現の自由」もまた、程度の問題である。したがって、戦後日本社会が民主主義的であるか、ないか、という問いに、意味があるとは、私には考えられない。意味のある問いは、戦後日本社会が、どの程度に民主主義的であったか。将来この社会をより民主主義的にする道がひらけているか、どうか。それとも今日の状況は、不可避的に、社会をいよいよ非民主主義的にする方向に動いているのか、ということである。前者の道がひらけていれば、先へ進む、後者の状況が現実ならば、抵抗して現状をまもる、――他にすることはなかろう。これが私のいわば「政治」的信条の要旨である。そのためには、当人なりの民主主義の定義を必要とするが、民主主義的ユートピアの実現の可能性を、信じる必要はない。
 私の民主主義の定義は、実践的な目的のためには(理論的な目的のためには、ではない)、甚だ簡単である。強きを挫き、弱きを援く。日本国内で、できるだけ支配層の権力を制限し、人民の権利そのもの、その行使の範囲を拡大すること。国際的には、工業先進国による後進社会支配の現状を破ること。
  (pp.323-324)


加藤はこう続けてもいる。そのように定義した民主主義に近づくために何ができるかの戦略についての自分の意見は、わからぬことが多すぎるために簡単ではない。自分一人に何ができるのかについては思いわずらうことはない。というのもはじめから自身に多くのことを期待しないために、世の中が自分の念願と逆の方向に動いても「挫折感」は覚えないし、念願の方向に動くよう何万分の一かの貢献をつづけるだけであるとし、こう書いている。

「また貢献のし方は、人によってちがうのがあたりまえだ、という立場をとるから、勇気凛々として陣頭に立つ人々に感心はするが、みずからそうでないことに、ほとんど全くうしろめたさを感じない。私にできることをしてみずから足れりとするのである」。

加藤は晩年には九条の会の呼びかけ人の一人を務めることになる。民主主義への考え方については、九条の会に参加する約30年前に書かれた文章と変化はないのだろうが、「貢献のし方」については変化が生じたのかもしれない。加藤にそうさせた危機感がよく表れているのが、2002年に書かれた「それでもお前は日本人か」だろう。

「それでもお前は日本人か」はこう書き出されている。

「昔一九三〇年代の末から四五年まで、日本国では人を罵るのに、「それでもお前は日本人か」と言うことが流行っていた。「それでも」の「その」は、相手の言葉や行動で、罵る側では「それ」を「日本人」の規格に合わないとみなしたのである。その規格は軍国日本の政府が作ったもので、戦争を行うのに好都合にできていた。日本人集団への帰属意識を中心として、団結を強調し(「一億一心」)、個人の良心の自由を認めず(「滅私奉公」)、神である天皇を崇拝する(「宮城遥拝」)。そういう規格日本人集団に属さない外国人または外国人かぶれの日本人はすべて潜在的な敵であった(「名誉ある孤立」)。国際紛争は、武力による威嚇又は武力の行使によって解決する(「撃ちてし止まむ」)。多くの日本人はそういう規格に合わせて生きてきたのである」。

そして宗左近の『詩のささげもの』の中から、加藤とも親交の深かった白井健三郎のあるエピソードを引いている。宗が召集令状を受けその歓送会で、当時東大法学部の学生だった橋川文三ともう一人その同級生が、当時海軍軍令部に勤めていた白井に食ってかかり、「きみ、それでも日本人か」と言いだした。白井は落ち着いて「いや、まず人間だよ」と答えたという。

「まず人間とは何だい。ぼくたち、まず日本人じゃあないか」
「違うねえ、どこの国民でも、まず人間だよ」
「何て非国民! まず日本人だぞ」
「馬鹿なこというなよ。何よりもさきに、人間なんだよ」
橋川らは殺気だち、「そんな非国民、たたききってやる」と叫んだが、同席していた友人たちが間に入って暴力沙汰にはいたらなかったそうだ。

「初めて知ったこの問答は、四五年以前の日本国において、実に典型的であった。「それでも日本人か」は修辞的質問にすぎず、実は「それならば日本人ではない」というのと同義である。すなわち「非国民」」。

この晩白井は二人に対していたのではなく、「ただひとり社会の圧倒的多数意思に対抗していたのである」。その多数意見は官製であり、「「まず日本人」説を主張するのは多かれ少なかれ大勢順応主義であり、当人が自覚しようとしまいと、権力順応主義でもあった。そこに同調せず自説を曲げなかった白井の精神の自由を私は尊敬する」。

そして加藤はこう書いている。
「「まず日本人」主義者と「まず人間」主義者との多数・少数関係は、四五年八月を境として逆転した――ように見える。しかしほんとうに逆転したのだろうか。もしそのとき日本人が変ったのだとすれば、「それでもお前は日本人か」という科白をこの国で再び聞くことはないだろう。もしその変身が単なる見せかけにすぎなかったとすれば、あの懐かしい昔の歌が再び聞こえてくるのも時間の問題だろう」。


徐京植との対談、「教養に何ができるか」を読むと、加藤の生い立ちやその教育を様々な人物と比較したくなってくる。

加藤家は地主であり、戦後の農地改革で貧しくなったのかもしれないが、次男であった加藤の父は本家とは切れていたので影響は被らなかった。しかし父の家は医者を始める際に祖父に土地を買ってもらっていたものでもあった。つまり、「その土地は祖父から来たものです」。

「そういうことを考えると、私は、埼玉県の地主が持っていた財産で東京の土地を買って、その土地を売って買い代えた土地にいま住んでいるということで、一般の市民にくらべて私は、言ってみれば不当な恩恵を受けていたと思いますね。どうして埼玉県の地主が豊かであったかというと、それは小作人を搾取していたからでしょう。ところが、小作人搾取の結果がある程度まで私のところに来ているのだから、ちょっと後ろめたいです」。

加藤がこの「後ろめたい」気持ちを持てたのには、父の教育も影響していたのだろう。地主の息子で医師となっている父からすれば、息子を早くから私立学校に入れて英才教育をしたいという気を起こしそうなものだが、そうはしなかった。

「父は子どもを特殊な学校には入れなかった。だから私は、普通の町の小学校に通いました。比較的中産階級以上の家の子どもたちが通う特殊な学校に行くと、普通の庶民と直接接しないでしょう。子どものときからそれではまずいというのが、父の考えでした」。

小学校の同級生の中に、他の子とは段違いに勉強ができる男の子がいた。
「その子どもは、中学校から高等学校へと上ったのではなく、高等小学校へ行って家業を、大工さんだったかと思いますが、継いだ。私の家では、子どもを大学まで送ったわけだから。それはまったく本人の力ではないということは私自身がよく自覚していて、思い出して『羊の歌』にそのことを書いたんです。それは非常に強い印象を受けました」。

さらに加藤はこんなことも思い出している。
「家は渋谷にありました。散歩に行くと、道玄坂では夏は氷屋とかが出ているわけ。ハチ公がいたところです。散歩に行くと氷屋の息子の同級生がそこで氷なんかを売っている。そこで氷を買って飲むというような感じがね、学校にいるときは平等という感じだけれども、夜になると彼は街で氷を売っている。こっちは働いていないわけだから、そういうところで差別があるということを理解したな、小学校の時に完全に理解しましたよ、不当なる差別だということを。私の父は子どもに理解させることが大事だと思ったんですね」。

子どもがどんな家に生まれるのかを選べるわけではないので、金持ちや特権的な家庭に生まれたことをもってどうこう言うべきではないのはもちろんである。しかし社会の現実から切り離されたような生活を送り、同質的な人間に囲まれた教育を受けてしまうことの危うさは、とりわけその家庭が権力に近いものであればあるほど、強調し過ぎるということはないだろう。


ところで、「教養に何ができるか」にはこうある。

父は開業医であったが文学にも興味を持っており、若い頃にはアララギや明星のグループともつき合いがあった。そして周一少年はこう気づく。

「それで、文学というものには古典がたくさんあって、トルストイとかドストエフスキーとかシェイクスピアとかがあるでしょう。それを聞いたこともなく、一冊も読んだこともありませんっていうのでは友だちとまともな会話ができない。こりゃ大変だということになってね。とても英語では読めない、ロシア語はまったく知らない。そこで、古典は岩波文庫で読みました。ある時期、高等学校の一年か二年のときだったか、「一日一冊主義」という目標を立てたんです。手当たり次第にとにかく一日一冊何かを読むことにしたんですね。日本語だからできないことはない。だからそのころは外国語の本は読みませんでした。外国語の本は時間がかかって、とてもじゃないけど一日一冊主義なんてできませんから。それでいくらか読んで応急手当をして、それが私の教養の出発点になったのかな、と思いますね。/でもそれは「又聞き」とは違うんです。シェイクスピアについての本やシェイクスピア物語とかではなくて、直に、とにかくたとえ翻訳でもはじめから終わりまで一つの芝居を読むということは、やはり大きいと思います」。

加藤にとって精神的な師の一人ともいえる渡辺一夫については本書でも幾度も言及されているが、『狂気について』に収録されているエッセイでも加藤と同じような焦燥感に触れられている。こういったものが健康なものであるかどうかについては意見が分かれるところであろうが、「教養」への強迫観念的焦燥が1970年代あたりからほころび始め、80年代から90年代にかけて完全に崩壊してしまった後に育った人間からすると、「若い頃にもう少しでも古典を読んでいれば……」と後悔することしきりなもので、ある程度の教養主義的プレッシャーというのはあったほうがいいのではという気にもなってくるのであるが、もっとも実際にそういったものがあったらむしろ反発して「古典なんぞなんぼのものじゃい」となるようにも思えてもしまい、どっちにしろ古典をまともに読むことなんてなかったのだろうとも思ってもしまうところでもあるが。


『さあ、見張りを立てよ』

ハーパー・リー著 『さあ、見張りを立てよ』




『アラバマ物語』で描かれたあの日々から約20年の時が流れた。スカウトことジーン・ルイーズは26歳になり、一人ニューヨークに住んでいる。兄のジェムは心臓の発作ですでに亡くなっており、風変わりな親友ディルはヨーロッパに行ったきり戻ってこず、70歳を越えたアティカスは弁護士を続けながらも、関節炎に苦しんでいた。
ジーン・ルイーズは毎年帰省していたのだが、1956年のこの年は、これまでとは何かが違っていた……


すでにそのセンショーナルな内容は広く報じられているのでぼかす必要はないだろう。ジーン・ルイーズは、あれだけ尊敬していた父アティカスが人種差別にどっぷりつかり、差別団体の集会にまで顔を出しているという恐ろしい現実を突きつけられることになるのであった。

上岡伸雄による「訳者あとがき」に本書の成立、出版過程について簡単に触れられている。本作は「『アラバマ物語』の続編として構想されたのではなく、『アラバマ物語』を推敲していく過程で放棄した原稿をまとめたものだという(そのため、ところどころ『アラバマ物語』と重複する文章がある)」。
編集者の助言によって「現在」を扱った部分を放棄し、過去を回想する部分のみが抽出されたのが『アラバマ物語』で、残された「現在」の部分がこの『さあ、見張りを立てよ』である。

『アラバマ物語』、およびこれを原作とした映画はアメリカ人にとってまさに国民的物語となっていく。「現在」のパートが一緒に発表されていればそうなるのは難しかったであろうことが推測できるので、そういう点ではこの編集者は慧眼の持主だったしてもいいのだろう。

スカウトとジェム、ディルらの姿は、南部出身者以外にも微笑ましいノスタルジーを呼び起こす。そしてアティカスは、映画ではグレゴリー・ペックが演じたというその視覚的イメージもあいまって、アメリカの理想を体現するかのような人物として受け入れられた。アメリカには確かに不正義が数多くある。しかし、理想を抱き、公正にして不屈、そしてユーモアをも兼ね備える暖かな精神を持つアティカスのような人物が、弁護士として法廷でその不正義に立ち向かい、これを乗りこえていく。まさにこれ以上なくアメリカ的物語であった。

リーはなぜ『さあ、見張りを立てよ』をなかなか刊行しなかったのだろうか。一つには、『アラバマ物語』があまりに巨大な成功を収めたせいもあるだろう。結局リーは、プレッシャーもあって続編どころか新たな作品を発表することさえできなかった。そして上岡がもう一つ推測しているのが、「時代が急速に進んだ」ことである。公民権法などが成立した60年代半ば以降にもなれば、50年代の南部の雰囲気を描いた小説は過去のもの、今さらながらと感じられるおそれがあっただろう。ほぼリアルタイムの時事性を取り入れた作品だけに、その分ほんの数年で古びてしまいかねない。

原稿はそのまま放棄されていたのだが、2014年に発見され、リーが出版に同意したことでついに日の目を見ることになった。
この出版の経緯については様々な憶測が飛び交うことになったが、本作を読むと、やはりリーはこの作品を世に出すべきだという確信を持ったうえで出版に同意したのではないかと思えてくる。これを生前に出すというのは彼女なりのけじめであったのかもしれない。さらには、過去の遺物とも受け取られかねなかったこの物語は、発表された2015年というよりも、2016年11月のあの大統領選挙の結果を受けて、極めてアクチュアルな作品になってしまったかのようにも感じられてしまう。


「誠実さ、ユーモア、辛抱強さこそ、アティカス・フィンチを表す三つの言葉だった」。
偏見や周囲の白眼視にも屈せず、法廷で黒人男性の冤罪をはらしたアティカス。その彼がなぜ変質してしまったのか。いや、あるいはアティカスは変わってなどいなかったのかもしれない。1930年代の南部で人種問題に「穏健」だった人は、50年代から見ると良識的どころか差別的に映ることだろう。そして50年代に「穏健」であった人も、後世から見ればまたそう映るはずだ。

アティカスを含め町中に蔓延する人種差別に嫌悪感をつのらせるジーン・ルイーズであるが、彼女の南部の黒人に対しての視線も、現在からすればかなり問題があるとされるだろう。またジーン・ルイーズは、差別に反対しつつも、最高裁判決や連邦政府の決定など、上から(つまり北部から)差別是正政策が押し付けられることや、急速に差別を解消させようという世の中の流れには心理的な反発を抱いている。リー自身もこのように感じていたようであるし、かつての南部の穏健な反差別主義者が現在からすれば差別主義者と五十歩百歩に見えかねないというところもあるだろう。そういった点でも本作は執筆時より現在読むことで、かえって興味深いものとなっている。


以前にも書いたが、トランプの主張や手法に新しさというのはまったくない。アメリカのポピュリズムの歴史をたどれば、彼とその周辺はあちらこちらからつまみ食いしているだけだというのは明らかである。それだけに文字通りの意味で矛盾だらけで、両立しない政策を同時に掲げることになっている。

その中で、トランプの主張にかなり近いのが、かつての南部民主党員たちだろう。農本主義に基づき経済政策としては保護主義、熱心な(というか頑迷な)キリスト教保守派で、人種差別的。公民権法成立によって完全に民主党を見限ったこういった人々を共和党が拾い上げることで、かつては民主党の牙城であった南部は共和党の大票田となった。

差別心を煽ることで、貧しい白人たちも被っているはずの不公正、不平等から目を背けさせ票を稼ぐというのは、共和党がこの数十年に渡って行ってきたことである。2016年の大統領選挙では、「ラストベルト」と呼ばれる北部の製造業を担ってきた地域でも、このような手法が「有効」になってしまった、とだけするのはもちろん粗雑な分析であって、実際はアッパーミドルや富裕層が私的利益を優先させたという面が大きかったことも忘れてはならない。今回の大統領選挙については、収入や学歴よりも、人種、年齢、居住地域によってその投票先が大きく分かれたとしたほうがいいだろう。端的にいえば、非大都市に住む白人中高年層が主なトランプ支持者であり、ここに前述の公益よりも私益を優先させる人々が加わったとするのが最大公約数的解釈だろう。

非大都市に住む白人中高年層の多くが、なぜあの下劣にして支離滅裂な男に煽動されてしまったのかといえば、それは彼らの内に潜んでいた差別意識を正当化するものが得られたからであろう。それは自らを被害者の立場に置くことである。これもまた共和党が長年に渡って繰り返し「犬笛」を吹いてきたことでもある。

ホフスタッター的文脈における反知性主義とは反権威主義のことでもあり、エリートや官僚への反発へと結びつく(これは多くのEU加盟国で起こっていることでもあり、日本の場合はむしろ「お上」にまかせておけばいいという意識が広まっているのであって、ホフスタッター的文脈における反知性主義とは別のものであるともできる)。一部の特権的な「リベラルエリート」によって「普通の人々」が大切にしてきたものが脅かされている、このような被害者意識は人種差別に嫌悪感を抱くジーン・ルイーズに(そして一部はリーにすら)共有されている。

ティーパーティーを「白人最後の悪あがき」と評した人がいたが、トランプ支持者の、もちろん全てではないが、多くを表すのにこれほどふさわしい言葉はないだろう。このままではアメリカ合衆国が白人(男性)のものでなくなってしまう! そんなことには耐えられない! これが倫理的に堕落しきった、支離滅裂で矛盾する政策を平然と掲げるトランプを支持できてしまう人の多くの根っこにある。

メキシコからの「不法移民」がもたらす安価な労働力によって自分たちが恩恵を受けていることは、アメリカ人なら誰でも知っている。例えばレストランで働くこういった人々が全員追放されれば、そのレストランの値段がどうなるかに気づかないアメリカ人などまずいない。メキシコ人叩きは少なからぬアメリカの白人にとっては娯楽であり、さらには被害者感情によってそれを正当なものだと強弁することができることになる。英語ができない奴はアメリカに来るな、学校で英語ではなくスペイン語で(あるいはその他英語以外の言語で)授業が行われるのはおかしい、こんなプログラムに税金が支出されることに納得いかない、こういった主張の裏にあるのが、このままではアメリカが白人のものではなくなるという被害者意識である。

黒人の血を引く、超のつくほどのインテリであるオバマが大統領になったことで、こういった層の被害者意識は活性化されていき、はたから見れば「逆ギレ」に過ぎないのであるが、心置きなく自らを脅かされる被害者の立場に置き、そして恥じることなくトランプを支持できるようになる。

脱線してしまったが、『さあ、見張りを立てよ』はまさにこのような、依然としてマジョリティであり、政治的、経済的にも恩恵を引き続き受けているはずの白人が自らを被害者の立場に置き、差別を正当化する心理が克明に描かれている。リーがこの小説で描いた50年代の「現在」は、あたかも2010年代の「現在」を予言したかのようにすら思えてきてしまう。


「私があそこにいた理由は二つある。連邦政府とNAACPだ。ジーン・ルイーズ、最高裁の判決を聞いたとき、真っ先にどういう反応をした?」
差別団体の集会に出ていたことを娘から問い詰められると、アティカスはこう返す。ジーン・ルイズですら最高裁が南部社会に介入してくることに不快感を抱いていることを突いたのだ。このように、最高裁や連邦政府と並んで、この町の人々が神経を尖らせる組織がNAACP(全米黒人地位向上協会)である。

もちろん30年代も差別は激しかった。しかしまともな人であれば人前で「ニガー」などとは言わなかった。なのに今(56年)では、「普通の人々」までもが平然とこの言葉を口にするようになってしまった。とまどうジーン・ルイーズに対して、多くの人が時代が変わったのだと言う。

アティカスは、NAACPに雇われた黒人の弁護士が黒人が白人相手に重罪を起こすのをハゲタカのごとく待っているのだと言う。彼らは陪審員に黒人を加えるよう要求し、判事のミスを誘おうとし、事件を連邦最高裁まで持っていこうとする。「知っている限りの合法的手段を使って」。
かつて法廷で黒人男性の無罪を勝ち取ったアティカスがこのような主張をしているのである。ジーン・ルイーズがNAACPの活動はアラバマで禁止されているという事実を指摘すると、「君は知らないんだよ、アボット群で似たようなことが起きたときにどうなったのか。(……)この辺で流れを食い止めないと」とアティカスは言うのだった。

アティカスのような人は、30年代に黒人が隷属的立場に置かれていた自分たちの地位をおとなしく受け入れていた頃は、彼らが(ある程度の)正義を得られるよう協力することにやぶさかではなかったのだろう。しかし堂々と権利を主張するようになると、これに拒絶反応を示すようになったのである。

人種差別、性差別、宗教差別は、かつては平然と行われていたが、2016年にはこれらは許されないものというコンセンサスがアメリカ社会にはできていた。さらには同姓婚など、数十年前には考えられなかった権利まで認められるようになった。このような社会の変化を耐え難く感じていた人々は、自分たちこそが迫害される側なのだと考えトランプ支持に走るのであるが、こういった現象は南部では過去にすでに起こっていたのだということを、この作品は炙り出している。

また50年代といえば赤狩りの時代でもある。この町の人々は当然のごとく共産主義を目の敵にしている。そしてNAACPに共産主義とのつながりを見出し、さらなる被害者意識にかられる。彼らの被害妄想は「国を守る」という愛国心によって強化され、差別を正当化する。

「北部で活動しているニガーたちはガンジーがやったみたいにやろうとしているんだって」と言うヘスターに、ジーン・ルイーズがどういうこと?と訊くと、彼女は「共産主義よ」と答える。

「いったいどこにいたの、ジーン・ルイーズ」とヘスターは呆れる。「彼らは自分たちの目的のためなら手段を選ばないのよ。カトリックの連中と同じなの。(……)黒人を改宗させるためなら、聖パウロは皆さんと同じニガーだったって言いかねないわ。(……)共産主義も同じよ。彼らは国を乗っ取るためなら何でもするの。それがどんなことであってもね。しかもそこらじゅうにいて、誰がそうで誰がそうじゃないかがわからないのよ。ここメイコム郡にだって――」。
「共産主義者がメイコム郡をどうしたいっていうの?」とジーン・ルイーズは笑ったが、「わからないわ。でもタスカルーザに組織があるっていうのは知ってる」と言い返される。ジーン・ルイーズは「ついていけない」と嘆息するのであった。

ガンジーを共産主義者として非難し、カトリックと共産主義を同じ穴の狢扱いするという滅茶苦茶な世界観であるが、自分たちの敵はすべて裏でつながっていていて陰謀を張り巡らせているのだという被害妄想もまた、現在でも世界中で広く見られるものだ。その結果、論理的整合性を追及するなら否定的に評価すべき存在まで敵の敵は味方と肯定してしまうのは、トランプ支持者やヨーロッパをはじめとする世界各地の極右がプーチンをどう評価しているかを見れば、過去のことではない(最早自国を最優先させる「愛国者」ですらないのである)。もちろんというべきか、日本の極右も、東洋人など差別される側であるにも関わらずトランプに、そして日本の「国益」と矛盾しようとも、プーチンに圧倒的な好意を寄せている。

またヘスターは「 いったいどこにいたの」と言うが、ジーン・ルイーズはここは同じアメリカ合衆国とはいえ、ニューヨークとはまるで違う世界なのだということを突きつけられる。獄部、とりわけニューヨークと南部のように、地域による意識の差も、アメリカはもともと危険な水域に達していたといっていいほどにあった。


自分の娘に対して「NAACPの会員証は持ち歩いているのかな」とすごんでみせるアティカスの姿も衝撃的であるが、ある意味では最も深刻に映るのは、アティカスの弟のジャックかもしれない。彼は理路整然と南部のメンタリティーを分析してみせ、そのうえで正当化するのである。

「国の他の地域を見てごらん。ずっと前から南部のことなど無視してずっと先を考えている」とジャックは言う。「由緒ある慣習法上の財産権の考え方」が失われたのだと彼は嘆く。貧しい人たちが立ち上がり、当然の報酬を得るだけでなく、「ときにはそれ以上を得た」。そして「金持ちは余分な報酬を得ないように制限された。老齢という北風からは守られている。自分の意思で守られているのではなく、国民を信用しない政府によって守られている。国民が自分で老後のための貯えをするとは思えないから、無理に貯えさせてやるというわけだ」。

このあたりは、連邦政府を信頼せず、税金と再分配政策に憎悪をたぎらせるアメリカの保守のメンタリティを代表したようなもので、トランプ支持者の一部にもこれは共有されている(もちろん介入主義、保護主義を唱えるトランプはこれと真っ向から対立するのであるが、そのような矛盾を気にするようではトランプの、そして共和党の支持者などやってられないのである)。

ジャックはまた「原子力の時代」に「新しい階級の人々が出現したことに気づかなかったかな?」と姪に問いかける。
「小作人はどこに行ったんだ? 工場だよ。作男たちは? 同じところだ」。こうして南部ですら農業中心から工業社会に移り変わることで、南部は悪しき変化を遂げたのだとする。
「自由」を重んじるはずのアメリカの「保守本流」とは異なるトランプ支持者は、アメリカを守るために政府が介入してでも工場を守れとするのであるが、ではジャックのこの発言と対立するものなのかといえばそうではないだろう。かつての南部の白人にとっては農業が工業に移り変わることで「古き良き」アメリカの南部が失われたと思えた。そして現在の北部製造業のかつての担い手たちには、工業がサービス業や金融業などに取って代わられることで「古き良き」ものが失われていると映る。「ラストベルト」が失業者で溢れ返っているのかといえば、必ずしもそうではない。現在より状況が悪い時でも民主党を支持してきたはずの人の一部がトランプ支持に走ったのは、失業そのものよりも、時代が移り変わっていくということへの恐れと警戒心と拒絶感だろう(もちろん、仕事は選ばなければあるにしても、とりわけロウワーミドルの人々が厳しい生活を強いられていることもまた現実であり、民主党がこれらの人々の苦境を軽視しがちであったこともまた確かでもあるが)。
こういった人々は、個々の政策に一致点を見出しているのではなく、間違った方向に時代が動いているという危機感と被害者意識を共有してるので、互いに矛盾し合いながらも政治行動を一致させられることになる。

ジャックが嫌悪感を抱くのは、「父親的温情主義と、金をばらまく政府」である。「こうした人たちは連邦政府の掌中の珠ってやつさ。政府は彼らが家を建てるように金を貸す。軍に奉仕すれば無料で教育を受けさせてやる。老後の貯えもしてやるし、失業すれば数週間は面倒を見てやる」。
大きな政府とそれが行う社会保障こそがジャックには何よりも忌むべきものなのであり、ティーパーティーに典型的なように、アメリカの「保守」に流れ続けているものである。またここに由来する、自分たちが得た金が税金として不当に徴収され、政府に頼ることばかり考える寄生虫的人間に奪われているのだという「保守」の被害者意識は、その差別意識と相まっての攻撃性が増していく。

ジャックは「この国について俺がただ一つ恐れているのは、その政府がいつの日か大きくなりすぎて、国で一番ちっぽけな人がつぶされてしまうってことだ」とする。
ここはアメリカの保守とトランプ支持者を本来なら分けるところであるはずで、トランプは福祉国家とはまた別の次元で「大きな政府」を作ろうとしているのであるが、ではこれに保守の側が徹底して抗しようとしているのかといえば、とてもそうは見えない。そしてこのような欺瞞はトランプ現象に始まったものではなく、ここ数十年の共和党支持者全体に見られることである。

一つには私的な利益を優先させるという行動に表れている。連邦政府が妊娠中絶のようなプライベートな領域にまでずかずかと足を踏み入れようとも、企業や富裕層の税金を安くして、金融や環境にまつわる規制を緩和してくれさえすれば、それは「小さな政府」ということにしてしまうのである。

そしてもう一つが、シニシズムだろう。
「南部はいま最後の産みの苦しみの真っ只中にいる。新しいものを産み出そうとして、俺の気に入るものかどうかはわからないが、産まれた頃には俺はいないだろう」。
「俺や兄貴のような人間は時代遅れで、そろそろ退場しなきゃいけない」と、ジャックは悟ったようなことを言う。しかし同時に、「この社会に関して意味のあるものまで俺たちといっしょに消えるんだったら、それは残念なことだ――ここにはよい部分もあったんだよ」ともする。
リベラルが政治的勝利を収め自分たちが望まない方向に世の中が動くくらいならこの世の中が滅茶苦茶になった方がマシだという、無力感に包まれつつシニカルなせせら笑いを浮かべる保守主義者は、トランプ支持者の中にも少なからず含まれている。


ジャックは自分こそが、アメリカの理想をわかっているのだと考えているかのようだ。そしてアティカスのようにこの町でNAACPと共産主義に憎悪の炎を燃やす人々も、自分たちこそがアメリカの価値観を体現し、守っているのだと考えているのだろう。

「私は時代遅れの人間だが、これだけは心の底から信じている。私はジェファソン的民主主義者なんだ」とアティカスは言う。「ジェファソンはこう信じていた。完璧な市民権というのは各自が獲得しなければならない権利であり、気軽に与えられるものでも得られるものでもない。ジェファソンの目から見れば、人は人だからってだけで投票できるのではなく、責任のある人でなければならないんだ。ジェファソンにとって投票権とは、人が自分で勝ち取った貴重な権利なんだよ――“おのれも生き他人も生かせ”という経済体制においてね」。

アティカスにとって、南部の「怠惰」で「遅れた」黒人は投票権を得るのに値しない人々なのである。そして北部のエリートやNAACPはそんな事情もおかまいなしに、(アティカスから見れば)アメリカ的価値観を逸脱した平等思想を押し付けてくる。しかも投票権をはじめとする公民権の問題だけでなく、「おのれも生き他人も生かせ」という経済体制は福祉国家化によって失われようとしているではないか。アティカスも弟と同じように自分が「時代遅れ」であることはわかっている。それでも、「放っておいてもらいたいという気分」なのである。「この“おのれも生き他人も生かせ”という経済体制において、自分のことは自分でするよ。自分の州の運営に関しても、放っておいてもらいたい」。

アティカスはこのような考えを持つ自分が「上流気取りの嫌なやつ」であることを認めている。ではなぜその「上流気取り」の彼が、うさん臭い、下劣極まりない人間が集まる差別主義者の集会に顔を出せるのであろうか。
「では、これを考えてくれ。南部の黒人がみんな、突如として完璧な市民権を与えられたらどうなる? 教えてあげよう。また再建時代が始まるよ。州政府の運営を、その運営の仕方がわからない人たちに任せたいかい? この町の運営を――ちょっと待って――ウィロビーは詐欺師だ、それはわかっている。だが、黒人でウィロビーほどに物をわかっている人を知ってるかな? ジーポがメイコム町長になるようなもんだよ。ジーボ程度の能力の人に町の財政を担ってもらいたいかい? 白人は数で負けているからね」。

「数で負けている」白人が権力を持ち続けるためなら、「詐欺師」だとわかっている人間のことだって支持できてしまう、それが時代の変化に直面したアティカスが辿り付いた境地であった。これはまさに、民主党には何があろうと勝たせないためにトランプのような人物にも平然と投票する共和党員の姿を見るようでもある。

アティカスにとって南部の黒人たちは「国民としてまだ児童のようなもの」だった。それでも進歩を遂げていたし、少しずつ前進していたにも関わらず、NAACPが入ってきて「途方もない要求をし、粗悪な州政府を作ろうとした」ことが受け入れられないのだとする。「こちらの日常の問題をまったく知らない人たちから、こちらの人々にああしろこうしろと言われ」た結果、「南部の白人たちが怒ったとしても、彼らを責められるかい?」

これを「アメリカの白人たちが怒ったとしても、彼らを責められるかい?」と置き換えれば、「白人の苦境」にばかり焦点をあて彼らへの同情を喚起することで議論をミスリードさせ、トランプ支持者を被害者なのだとして擁護し、差別を正当化しようとする声と重なる。


トランプの主張が新しいものではないように、こうした現実を切り取ったリーのこの感性もまた、新しいものではない。『風と共に去りぬ』でスカーレット・オハラが憎悪を燃やすのは、「ヤンキー」とつるんでビジネスや政治に乗り出そうとする黒人である。オハラは黒人の触った物には触れられないといったタイプの人種差別主義者ではない。黒人たちが奴隷という地位を受け入れて、白人におとなしく服従している限りにおいては、それなりの扱いをするのにやぶさかではない。しかし黒人たちが権利を主張しようものなら、憎悪のあまり呪い殺さんばかりとなる。しかし彼女が何よりも憎むのは、黒人たちをそそのかしたぶらかすヤンキーどもである。

アティカスは30年代には差別にさらされる黒人たちにシンパシーを寄せているかのようだった。50年代に公然たる差別主義者となっているのだが、彼はかつての自分を否定し、新たな価値観を身につけたとは考えてないだろう。変わったのは時代の方だと思っている。アティカスは人種主義に基づき黒人の能力を低く評価しており、黒人を対等の存在とは認めていないが、彼が憎むのはその「劣った」黒人たちではなく、そのような黒人をそそのかし、たぶらかすNAACPであり、「現実」も知らずに社会変革を迫る北部人(ヤンキー)、連邦政府、最高裁である。アティカスは百年前に生まれていれば「いい奴隷主」であり、オハラのように南北戦争で全てを失い、ヤンキーに憎悪を燃やしたことだろう。

ヤンキーに不当にも虐げらる南部という物語は、2016年には虐げられる白人の物語へと転化して、北部の一部にも受け入れられるようになった。アメリカ的価値観を否定しているかのように映るトランプであるが、その支持者たちからすれば、むしろ自分たちこそがアメリカ的価値観を体現しているのだと思っているのだろうし(Make America Great Again!)、だからこそ、正しいはずの自分たちが不当に迫害されているという物語を進んで作り出し、受け入れていく。

マーガレット・ミッチェルはオハラや南部を告発したのではなく、失われた「騎士道精神」へのノスタルジーで作品を包み込んだ。リーは50年代当時としては、「穏健」な立場で南部の人種差別と対峙しようとした。この点で両者はイコールではないものの、『さあ、見張りを立てよ』のその結末では、結果としては両者がかなり接近しているような印象もある。

「アメリカの分断」は今になって始まったのではない。東部と西部、北部と南部、あの広大にして多様な地域を一つの国とするのに無理があるといえばそうかもしれないが、それでも一つの国であることを可能にしてきたものは、独立宣言と合衆国憲法が生み出す神話であり物語である。アメリカでは、保守派もリベラル派もともに憲法を擁護し、我こそは憲法の精神、つまりアメリカの精神を体現しているのだと主張する。アメリカという正しい物語を紡いでいるのは自分たちだという争いはまた、アメリカ合衆国の歴史そのものでもある。


正直にいえば、『さあ、見張りを立てよ』は、小説単体の出来としては傑作とはいいかねる。それでも、やはり『ラバマ物語』とセットで読むと、より一層「アメリカとは何か」を考えさせる作品となっており、アメリカについて考えるうえでは必読であろう。そして皮肉なことに、2015年になって出版されたことにより、現在さらなる今日性を帯びたかのようでもある。


ところで、これと合わせて『アラバマ物語』の新訳も出てくれればと思ったのだがそうはならなかったようで。版権がどうなっているのか知らないが、「新訳ブーム」でもあるのだし、ぜひとも実現すべきだと思うのだけれど。



『未成年』

イアン・マキューアン著 『未成年』





高等法院の裁判官、フィオーナ・メイは二杯目のスコッチを手にしていた。もう一杯飲もうか。当番判事なので突然の問い合わせがあるかもしれず、深酒をすることはできないのだが、それでも今日という日はアルコールの誘惑にかられた。フィオーナの判決文は、「本人がいないところでさえ、褒められていた。歯切れのいい文章で、皮肉とまでは言えないが、温かいというほどでもなく、じつに簡潔な言葉で係争の論点を整理していた」。肯定的な意味で絵に描いたような優秀な裁判官ともいえるフィオーナがこんな心境になったのは、夫ジャックからの突然の告白だった。ジャックは結婚生活を維持したまま、若い女性と寝ることの許しを求めてきたのだった。二人の間にはもう長い間性交渉はなかった。59歳の自分は(60歳でしょ、とフィオーナは指摘する)まだ老いてはいない、最後のチャンスである今回、情熱的な関係をまたもちたいのだとジャックは言った。フィオーナは相手が誰なのかもわかっていた。それにしても、まさかこんなことを言い出してくるとは。

それでも仕事から逃れることはできない。家事部に属しているフィオーナは離婚をはじめとする訴訟を扱わなければならないが、もちろん感情的になることなどあってはならない。
夜遅く電話が鳴る。当番判事であるフィオーナへの仕事の電話だった。17歳の少年が白血病と診断されたが、両親も当人もエホバの証人の信者のため輸血を拒否している。すぐに治療をすれば助かる可能性が高いが、輸血を拒めば死亡するのは確実だという。病院側は輸血の許可を求めている。成人であれば信仰上に理由による治療の選択の権利が保障されているが、18歳未満の場合はそうではない。とはいえあと数ヶ月で成人することになる少年だ。急を要する案件で、数日内に判決を下さなくてはならない。

法廷では双方の弁護士が激しいりとりをするが、フィオーナは意外なことを求める。少年と直接会うのだという。そして病院でのこの出会いが、60歳を間近に控えた裁判官と18歳目前の少年にとって重くのしかかることになる。


フィオーナの人生は順調なものであったとしていいだろう。優秀な彼女は高い評価を受け、仕事にやりがいも感じている。長年連れ添ってきた夫との関係も良好だと思っていた。大学教員のジャックは知る限りでは浮気をしたこともなかった。一方で、中年から老人にさしかかろうとしている夫婦なら、誰もが澱のようなものがたまっていることだろう。先にそれを噴出させたのはジャックであったが、これを機にフィオーナも、自分の人生について様々な思いをめぐらすことになる。

マキューアンは綿密な取材に基づいて判事の仕事をリアルに描き出し、また得意の心理描写によってフィオーナの揺れる精神を巧みに抽出していく。フィオーナはそのキャリアからしても「平均的」や「普通」とされるような人物ではない。しかし彼女が人生を重ねていくことによって積み重ねてきた大小様々な経験の結晶は、また多くの人が共有するものでもあるだろう。二人は子どもを作らないことを決意した。しかしこの決定までには様々な曲折があった。子どもとキャリアとどちらを優先させるか。高齢出産の不安。甥っ子姪っ子たちを見て、自分の下した判断が正しかったのか考えは揺れる。代理出産はどうだろうか、養子をもらうことは。そしてもし二人に子どもがいたら、夫はこんなことを言い出しただろうか。

このような「揺れ」を描き出すことはマキューアンの最も得意とするところであろうし、本作でもそれが堪能できる。しかし後半の展開に関しては、伏線の回収を含めてメロドラマ的すぎるというか、O・ヘンリー調になっているようなところもなくはない。皮肉がかった辛辣さというのも控え目で、マキューアン作品としては少々物足りないという感じもしてしまうが、まあこれは期待の大きさゆえなのかもしれない。

宗教や法の論理をめぐる物語として、このあたりに関心のある人も興味深く読めるだろうし、やはりその技術的確かさというのは健在で、さすがのものである。

『ミッテラン』

ミシェル・ヴィノック著 『ミッテラン  カトリック少年から社会主義者の大統領へ』




ある人物の生涯を辿ることが、そのままある時代を描くことになる存在がある。フランソワ・ミッテランはまさにそのような人物であろう。ミッテランを描くことは20世紀のフランスを描くことであり、20世紀のフランスを描くうえでミッテランという存在を欠かすことはできない。大嶋厚が「訳者あとがき」で数多くの文献に言及しているように、存命中から現在に至るまでミッテランについて膨大な本が生み出されてきた。左翼の立場から彼を高く評価するもの、右翼の立場から酷評するもの、あるいは左翼の立場から告発するもの。本書をはじめとするミッテランの伝記を読めば、これだけ評価が分かれるのは当然のことのように思えるだろう。そしてまた、政治家ミッテランのみならずその私生活等にも関心が寄せられるのは、かの有名な「隠し子」をめぐる逸話のようなゴシップ趣味にとどまらず、政治家ミッテランについて考えるには人間ミッテランについて考えることが欠かせないからでもある。

モーリアックはミッテランのことを「小説の登場人物」と評したが、もし彼の人生をフィクションとして描くならば、『市民ケーン』よろしく臨終の場面からはじめて、その生涯にまつわる謎を解明していくという手法をとりたくなってくる。邦訳サブタイトルにあるように、ミッテランは時代ごとにその立場を大きく変えたし、それはきれいに説明がつくものから謎のまま残されたものもある。彼はその中核にあるものは変わらない、首尾一貫したものを持っていたと解釈できなくもないし、またコアとなるものなど持たない日和見主義者とも映りかねない。時代、フランスの置かれた状況、そしてミッテランの人間性と、様々な要素がからみあうことで、政治家としても人間としても多面的な、捉えがたいとも見える存在となっていった。


ミッテランはカトリックの信仰篤いブルジョワ家庭に生まれた。このような環境に育った若者が保守的な政治観を持つようになるのは自然なことだったろう。後々まで、若き日のミッテランが極右だったのではないかという疑惑がつきまとうことになる。彼はアクション・フランセーズに参加していたという噂をきっぱりと否定し、人民戦線内閣ができたときには歓喜したと述べたが、前者は正しく後者は虚偽であった。ミッテランは確かにアクション・フランセーズには参加していなかった(おそらくカトリックの信仰がそれを止めたということが大きかったのだろう)。しかし火の十字団には入団していた(なお著者は火の十字団をファシスト団体とまでするのは行き過ぎだとしており、ミッテランがその過去を消そうといた理由の一つは、この団体に入ったことでファシストだったと見られるのを避けようとしたというのもあるのだろう)。そして人種差別的主張を掲げた極右のデモに参加したことさえあった。当時のミッテランを極右とまですることはできないかもしれないが、右寄りというのを超えてはっきりと右翼であったとしていいだろう。

右から左へ政治的立場を転じたといえばモーリス・ブランショがいるが、当時の二人にはやや似たところもあったかもしれない。二人には共にユダヤ人の友人がいて、そのことによって視野が広がったといったあたりも似ている。ブランショがはっきりと極右だったのに対し、ミッテランは右翼といったあたりだった。そのせいか、ブランショがその政治的立場を短期間ではっきりと転回したのに対し、ミッテランの歩みはわかりにくいものになっている。

第二次大戦が勃発し、従軍していたミッテランはドイツの捕虜となる。この捕虜収容所での体験は彼を大きく変えることになった。彼は自分にリーダーとしての資質が備わっていることを発見したし、またこれまで交わることのなかった下層階級出身の兵士を知ることにもなった。もともと保守的なカトリックとして、大企業や少数の富豪が世の中を動かすのに不快感を抱いていたことから、この体験を経て左傾化していくことになる……とできればわかりやすいのだが、ミッテランはそうではなかった。

収容所内でも保守派として知られ、ついに脱出に成功したミッテランはヴィシー政府下で職に就くことになる。これだけなら非難にはあたらないかもしれないが、彼はペタンからフランシスク勲章まで受けている。このことで戦後攻撃されると、これはレジスタンスに参加し不在中に授与されたものだと主張することになるのだが、ペタンから直接受勲した写真が出てくることになる。当時のミッテランがヴィシー政府を支持していたこともまた確かだ。そしてペタンに対する尊敬の念は消えることなく、大統領就任後にもなおその墓前に花を贈るほどだった。同時に、ミッテランは常に反ドイツでありナチに与することはなかった。

ミッテランはレジスタンスに参加することになるが、ペタンを敬愛し保守的であることとこの行動は矛盾するものではなかった。しかしまた、レジスタンス内で指導的立場につき、ロベール・アンテルムら共産党系レジスタンスとも共闘することにもなる。アンテルムの『人類』、アンテルムの妻だったマルグリート・デュラスの『苦悩』にも描かれているように、ミッテランは間一髪でナチスによる逮捕を逃れたが、アンテルムは捕らえられ、強制収容所へと送られる。こちらに書いたように、ミッテランは瀕死のアンテルムを偶然発見し救出することになるのだが、本書は「網羅的」な伝記ではないと著者が断っているように、このあたりのエピソードには軽く触れられる程度である。おそらくフランスではすでに大量の文献が出ているためであろうが、日本では必ずしもそうではないもので、この時代に関心のある者としては少々残念なところでもある。これからこの当時のミッテランやその周辺を扱った本も邦訳されていってほしい。

レジスタンスの活動を通じてミッテランが左翼となっていったのかといえば、それも違う。第二次大戦後、ミッテランは政治の世界に足を踏み入れることを決意する。彼の当時の立ち位置は、反共保守の中道右派といったあたりだろう。そして小政党所属の身軽さもあって、第四共和制時代に次々と大臣職を務めることになる。後に大統領として、世論の反対を押し切って死刑廃止を実現することになるミッテランであるが、法務大臣時代にアルジェリア紛争をめぐって下した死刑執行令は、少なからぬ人に記憶され、後々まで批判や疑念を呼ぶことになる。

ミッテランは政治的軸足を徐々に右から左へと移していった。ある瞬間に決定的な転回を遂げたのではなく、その時々の政治状況で、左に身を置いたほうが有利だという判断もあったことだろう。ミッテランは本当に左翼になったのか、それとも単に権力を取るために有利だという理由でそれを装ったのかは、様々な憶測を生んだ。著者は、徐々にではあるがミッテランは確かに左翼へとなっていったという評価をしている。いずれにせよ、このような過去から彼には狡猾なマキャベリスト、権力を得るためなら手段を選ばぬ日和見主義者というイメージがつきまとうことになる。

ド・ゴールによって第五共和制が開始されると、ミッテランはこれを激しく批判することになる。そして右派を打ち破るために欠かせない左翼の大同団結に力を発揮し、ついには自らがその中心となっていく。ミッテランは左翼となったといってもマルクス主義者になったのではない。むしろ共産党の影響力をそぎ、社会党が左翼で中核を占められるようヘゲモニー争いを繰り広げ、左翼内の闘争に勝利する。そしてついに、不可能にも思われていた第五共和制において左翼の大統領となるのであった。


初期のミッテラン政権は順調さとは程遠いものだった。政策的失敗としてはなんといっても急速に企業の国有化を進め、経済的混乱を引き起こしたことがある。ミッテランは周囲に慎重意見もあるなか、国による株式の100パーセント取得などを進めていった。ミッテランが本当に左翼なのかという疑念が常につきまとったがゆえに左翼であることを証明せねばならないという心理がそうさせたのかもしれない。その後政策的には「革命的」であることをやめ、漸進主義的な、社会民主主義的な道を模索することになるのだが、また社会党の綱領の変更は行わなかった。著者はこのあたりのミッテランの不決断が尾を引くことになると否定的に評価している。著者はミッテランが出馬した四回の大統領選挙でいずれもミッテランに投票したとしているが、熱烈な支持者というわけではなかったともしている。端々から見える著者の政治的立場は穏健左派といったあたりだろう。こういった立場からすると、ミッテランがはっきりと社民主義に舵を切らなかったことは不十分なことと映るだろう。一方でマルクス主義者や社会主義者からは、ミッテランは「現実」に屈し左翼の理想を追求することを放棄したとも映ることとなる。

このように左翼内でもその評価は揺れており、また当然ながら右翼からは基本的には否定的に評価されることになるのだが、しかし右からの評価も一定ではない。ミッテランは第五共和制が独裁化すると批判したが、自らが権力の座に登りつめるとこれを改革するのではなく、そこにすっぽりと収まって「君主」のように振る舞うことになる。議会多数派を失いコアビタシオン(保革共存)政権となり、首相となったジャック・シラクとは火花を散らすのであるが、シラクはまたミッテランに魅了されてもいた。ミッテランが「総理、もうお帰りですか」と言うと、シラクは思わず「はい、将軍……。いや、大統領」と返事をしてしまったことすらあったという。政策的には相容れない二人の間にある種の絆が生まれたのは、ミッテランの人格ゆえであろう。


政治家としても捉えどころがないように映るが、人間的にも多面的である。ブルジョワ家庭に生まれエリート教育を受けたミッテランは、気さくで親しみやすいキャラクターではなかった。政治家となり選挙でもまれることで多少やわらかくはなったにせよ、テレビ時代となった社会状況ではこの性格はプラスには働かない。しかし彼のその堂々たる威風は神秘性やカリスマ性といったものを帯びることにもなる。

本書を読むまで気がつかなかったのだが、ミッテランは極度にというほどではないが、どちらかといえば小柄なほうであった。複数人で映っている写真を見ると、確かに彼が小柄であることが確認できるのだが、僕は今までずっと、勝手にミッテランは大柄なのだと思いこんでいた。写真や映像はこれまでも見ているわけで、その身長はわかっていたはずのなのにそう思えてしまったのは、ミッテランが醸しだす雰囲気のせいだろう。

「君主」と揶揄気味に評されるのもゆえなきことではない。ここには正否両方の意味が込められてもいる。繰り返しになるが、ミッテランは気安い人付き合いをするタイプではなかった。一方で、彼はまた友情に篤い人間でもあった。そして政治的打算を超えた人付き合いをするのであるが、これは物議を呼ぶものとなることも多かった。

大統領就任後もペタンの墓前に花を贈っていたことはすでに書いたが、そればかりか、ドイツ占領下フランスにおける汚点である、ナチスに協力しユダヤ人迫害を行った中心人物ルネ・ブスケとの交遊も続けていた。ミッテランにとってはブスケは49年に裁判にかけられたことで過去の禊はすんだということだったのだろうが、ミッテランがブスケとの友人関係に代表されるように対独協力者を裁くことに否定的であったことは、彼自身の右翼でありペタンから勲章を受けたという過去も相まって強い批判と疑念を呼ぶことになる。

「君主」らしく、彼はそのような批判に動じることはなかったが、権力を持った者のこのような姿勢は腐敗を招くことにもなる。80年代後半以降、ミッテラン政権は数々のスキャンダルに見舞われることになるが、そのなかのいくつかはミッテラン自身が招いたものでもある。彼は疑惑を持たれるような相手でも切り捨てることはしなかった。権力者がこういった態度であれば、メディアへの監視や圧力という方法でこういった人物を守ろうという方向へと向かっていくことになる。ミッテランは一度友人になると、疎遠になったとしても、遠ざけることはあっても切り捨てはしなかったというが、人間的にはともかく政治家としては致命的な過ちにもつながりかねないし、実際に政権や社会党は大きく傷つくことになる。


ミッテランは常に本を手放さず、高い教養で知られた。読書趣味は政治や政策的なものよりも、文学の方を好んだ。アルジェリア問題でテロが吹き荒れたときにも、ミッテランは大臣や重要政治家として護衛がつくことになっていたが、彼はこれを拒み、自由でいることを選んだ。彼は妻の他に愛する女性ができ、彼女との間に子どもをつくることを望み、それを実行した。妻はそれを知りつつ離婚はせずに受け入れ、ミッテランは二つの家庭で生活を送った。こういったエピソードはいかにもフランス的であるように思えるし、政権末期に「隠し子」が暴露された記事を受けても、彼に近い立場の人はプライバシーの侵害であると擁護に回り、世論もこれを受け入れた。現在でもミッテランへの批判がそれほど高まらなかったことが「美談」のように扱われることが多いだろう。政治家といえども、とりわけ恋愛や家庭をめぐるプライバシーは尊重されるべきだという意見もあるかもしれないし、倫理的潔癖症を装った政争の具にされることにうんざりする向きもあろう。しかしまた、彼の大統領の任期中にもう一つの家庭を維持するために税金が使われていたことも確かである。

ミッテランは就任直後に自身がガンに冒されていることを知る。医師は余命は3か月から3年と診断したが、実際には15年ほど生きることになる。ミッテランは健康診断書の定期的公開を公約にしていたが、虚偽のものを発表し続けた。医師たちは秘かに治療を行い、この秘密を守り続け、政権末期までミッテランの健康状態は公表されることはなかった。もう一つの家庭の問題と並んで、行政のトップを務める政治家の振る舞いとしては非常に問題があったとすべきだろうし、現在ではこれが受け入れられることはないだろう。

いずれにせよ、このような政治家はフランスにおいても、ミッテラン以降は良くも悪くも登場することはないだろう。任期中その支持率は乱高下といっていいほど大きく揺れた。誰もが愛し、信頼を寄せた大統領だったとはとてもいえない。それでも、ミッテランの死後、左右を問わず、政治的意見の相違を超えて彼を哀悼するムードに国中が包まれたのは、まさに彼が最後の「君主」であったことを表しているかのようだ。


本書はまたフランスについて、そしてヨーロッパについて考えるうえでも有益なものである。フランスというと成熟した民主主義国家であったり、あるいはレジスタンス神話もあって共産党が強力であったことから左翼が強い国というイメージを持つ人も多いかもしれない。しかし実際には、第二次大戦後においても、とりわけアルジェリア問題をめぐって軍事政権ができる可能性は決して低くなかったし、ド・ゴールが独裁者として復帰するのではないかという恐れも現実離れしたものではなかった。再登場したド・ゴールは彼を待望した右翼の願いとは逆にアルジェリアを独立させることで事態の収束を図りつつ、大統領権限を大幅に強化する第五共和制を開始する。そしてこの政治体制において左翼が勝利を収めるのは不可能と見られるほど、右派が優勢でもあった。

一方で右翼の中にはド・ゴール派に裏切られたことを根に持ち続ける勢力もいた。ド・ゴール派憎しで極右が左翼連合を支持するという倒錯したことが起きることもあり、当然ながら左翼の中にはこれを拒絶すべしという意見もあったが、ミッテランは受け入れた。また邦訳に解説を載せねばならぬほどフランスの選挙制度は複雑怪奇といってもいいほどのものであり、様々な思惑から度々いじられているのだが、ここでもミッテランは極右を利することによって右翼を削る作戦を取ったこともあった。もともとが右翼で極右的人物との親交もあっただけに極右へのアレルギーもなかったのかもしれないが、こういったミッテランによるマキャベリスムがフランス社会を毒していって現在に至っているという面もあるのかもしれない。

またフランスは政治においては女性への偏見が根強くあることは現在でも指摘されている。ミッテランは91年にフランス初の女性首相としてエディト・クレソンを起用するが、これは散々な結果に終わり、クレソンは一年も持たずに退陣に追い込まれる。「ル・モンド」にすら「ねえ、クレソンちゃん、わかるかな……」というコラムが掲載されたように、彼女が「国会議員、ジャーナリスト、お笑い芸人の集中砲火を浴びた」のは、女性蔑視が背景の一つをなしていたことは確かだろう。また彼女の起用には政局をめぐる思惑もあったことから、クレソンは十分に支えてくれなかったミッテランに、自分は利用されたのだと恨みを抱くことになる。

ミッテランは政権後半にはヨーロッパ統合へ邁進し、これも彼の威信を高めることになるが、現在考えると不気味な出来事もあった。81年の大統領選挙では、「「青・白・糞」の候補を自称するお笑い芸人のコリューシュ」を一部の知識人が支持し、ブルデュー、ドゥルーズ、ガタリらが「道化師の赤い鼻をつけ、オーバーオールを着た芸人が「反糞的」公約を読み上げるのを聞いて喜んだ」。コリューシュは最終的には出馬を断念するが、一時は12.5パーセントもの支持率を得た。これはイタリアにおける五つ星運動を予告するもののようにも映る。ドイツ統一やユーゴ問題等で曲折はありつつも、ミッテランはコールらドイツの首脳とも良好な関係を築きヨーロッパ統合への道筋をつけていったのだが、その下では全てに唾を吐きかけたり、インテリ層においてさえそれに快哉を叫ぶといった、このようなマグマがフランスのみならず各地で蠢いてもいたのである。


その政治的成功と失敗、理想と狡猾さなどを含めて、ミッテランという複雑な政治家、人間は、フランスの歴史のみならずヨーロッパの現在にもなお、光と影とを投げかけているかのようでもある。


プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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