『美しき闘争』

タナハシ・コーツ著 『美しき闘争』





2015年に刊行された『世界と僕のあいだに』は高く評価され、ベストセラーとなった。本書は2008年に刊行された、コーツの幼少期から大学入学までを綴った自叙伝である。

「ボルティモアにクラックが出回るようになって、僕たちの社会は崩壊した」。こうあるように、75年生まれのコーツが語るのは80年代から90年代にかけての荒廃した、黒人が多く居住する都市部についてであり、これはボルティモアに限らず多くの都市部で起こったことでもあっただろう。

もちろん昔も喧嘩沙汰はあったし、それによってけがをすることもあった。でも「葬儀屋の世話になって讃美歌が流れるなんてことはめったになかった」。父が若かった頃はコミュニティの結束は固く、互いに支え合っていたが、「それが時間とともに僕たちは支援しなくなるどころか共食いするようになってしまった」。

「その時はわからなかったけれど、これが恥ずべき僕たちの始まりだった。マンデラ、ニカラグア、そしてレーガン政権に対する闘い――世間は重要な主張に基づく運動で盛りあがっていたのに、僕たちは、世界のどこかで奴隷のように働かされている人たちが縫ったスニーカー、白人が所有するスポーツチームを応援するジャケット、南部連合に参加した州の名前を刺繍した野球帽、そんなつまらないもののために殺し合っていた」。

この部分だけを読むと、コーツは荒廃したアメリカ都市部の黒人社会を嫌悪し、それを否定しようとしているかのように思えるかもしれない。むろんそう単純なものではなく、なぜ黒人社会がこうなってしまったのかを、かつてブラックパンサーの支部長であり、従軍したことで在郷軍人局から支給される小切手目当てで30歳から大学に通うようになり、修士号まで取り、大学図書館で初めて専門職に就き、黒人による古典の復刊に努めるようになった父の歩みをたどるなどして探ろうとしていく。

父の経歴を見ればわかるように、コーツ家は典型的、平均的な都市部の黒人家庭ではない。家庭環境もかなり複雑だ。
「ストリート出身だけれどストリートに属していない」とコーツは自分と父について書いている。豊ではなかったが誇りを持ち、子どもたちの可能性を伸ばそうとし続けた。コーツ自身何度も罠にからめとられるように道を踏み外しそうになるが、その度に引き戻されていったのは父と母のおかげであったろう。裏を返せば、このような父と母でなければ、ヤクの売人になりつまらないことで拳銃を振り回し、マイク一本を武器にラッパーとしてのしあがるかみじめで陰惨な生活に転落するかといった人生になっていたかもしれない。

コーツもやはりラップに夢中になり、自身でもリリックを書いていた。このようにアメリカ都市部の黒人文化を否定し、それを乗り越えようというのではなく、そこから多くのものを受け取り、それを肯定してもいる。まずプロレスに関するエピソードから始められるように、現代アメリカの黒人文化の一部はファンタジーやアニメ(本書には『マクロス』のリン・ミンメイの名前も出てくる)など、ある意味ではごった煮的なサブカルチャーの中から紡がれていったという面もあり、コーツもまたその中で育ち、それに積極的に意義を見いだしているようにも見える。

訳者解説で触れられているように、本書のタイトルからしてタリブ・クウェリの曲から取られたものであり、「各章のタイトルもさまざまなラップのリリックからの引用となっている」。コーツのヒップホップに寄せる思いはここからも明らかだ。

このように、80年代から90年代前半のヒップホップをリアルに体験した世代からの回想ともなっており、ヒップホップファンにとっては『世界と僕のあいだに』にも増して必読であろう(なお『世界と僕のあいだに』には訳注が付されていなかったが、本書にはちゃんと注があり、引用元などが確認できる)。

僕自身はヒップホップには明るくないもので、コーツのその時々のシーンへの反応が平均的なものか特異なものであったのかはよくわからないが、80年代後半に勃興したパブリック・エネミーのようなシリアスなアティチュードがギャングスタ・ラップに取って代わられていくのを苦々しく書いている。

「パブリック・エネミーのチャックDフレイヴァー・フレイヴは彼らにできるかぎりのところまで僕たちを導いてくれたけれど、新しい音楽はすでに殺人を礼賛する集団に乗っ取られていた。つい先週マルコムXにシャウトアウト(尊敬している人物にささげる)していたラッパーたちが、スタジオのギャングスタに変わり、目に入る黒人をすべて殺してしまう。僕にだってそういった力で支配するストリートの世界で、街角に立って大金を設けたい気持ちが部分的にあった。でも、大人になる入口にいた僕は、こういったラッパーたちに影響されなかった。彼らは、いちばん大事でないことに力をこめ――女性すべてを批判し、ストリートを経済的に支配していると主張し、そして白人に続いてストリートから逃げたのだ」。

当時のシーンをこのように振り返るコーツに異論があるヒップホップファンは少なくないだろうが、コーツにとって重要な問いの一つが、父の世代である60年代から70年代にかけて盛りあがったはずの黒人たちによるムーヴメントがなぜコミュニテイの崩壊、社会の荒廃という形になってしまったのかであり、それを80年代から90年代にかけての自らの世代の経験に重ね合わせているところからきているのかもしれない。


本書を読んでいると、これは映像化にぴったりではないかという気分になってくる。家族の物語であり、また友情や淡い恋といった少年の成長物語であり、そして現代アメリカ文化史でもある。近年は映像作品でもヒップホップの歴史を描くことが積極的に行われるようになってきたが、本書を連続ドラマ化でもすれば、そこにまた新たな視点が加わることだろう。


『最底辺  トルコ人に変身して見た祖国・西ドイツ』

ギュンター・ヴァルラフ著 『最底辺  トルコ人に変身して見た祖国・西ドイツ』





「頑丈な体格の外国人、職を求む。重労働、汚れ仕事、低賃金でも可」

1983年3月、ヴァルラフはこのような広告を新聞に出した。
彼は「極薄で黒みがかった色付きのコンタクトレンズ」を専門家に作ってもらい、「客はふつう青い目しか希望しない」と驚かれる。これで「南欧人みたいにするどい目つき」だというお墨付きをもらった。少々心持たなくなっていた頭に黒髪のかつらをつけると、実年齢の43歳ではなく20代後半だと言い張っても通用しそうだ。一番不安だったのは言葉の問題で、「外国なまりのドイツ語」、つまり自然な片言のドイツ語(という言い方も変かもしれないが)がうまく再現できるか自信はなかった。「一度でもこの国に住んでいるトルコ人やギリシア人が話すのに耳を傾ける努力をした者なら、私のことをちょっとおかしい、と気がつかなくてはならないはずだった」。しかしこれも杞憂だった。ということはつまり、ほとんどのドイツ人が彼らの話をまともに聞いていないということだ。
こうしてヴァルラフはトルコ人のアリとなり、潜入調査を開始する。


果たして自分の変装は通用するのか。ヴァルラフは、コール率いるキリスト教民主同盟が選挙で勝利し、政権を奪還したことを喜ぶ政財界人が集まる場を「ゲネプロ」に選んだ。ヴァルラフは「トルコ・ファシズムで主導的役割を演じている政治家テュルスからの使者だといって自己紹介」すると、誰もそれを疑わなかった。セキュリティ担当の警官も大勢いたが、変装した人物が混じっているとは彼らも全く気付いていないようで、コールまで手を伸ばせば届きそうなところまで近づくことができたほどだった。

ドイツ対トルコのサッカーの試合でネオナチの観客の一画に入り込んだり(ドイツが勝ったからいいようなものの、もしトルコが勝利を収めていたら無事であった保証はなかった)、極右政党のキリスト教社会同盟の集会にこれまたトルコのファシストを装って参加したり、カトリック教会に押しかけ洗礼を希望したりして人々の本音を引き出すのは、サシャ・バロン・コーエンが本書を読んでいたのかは知らないが(そういえばコーエンにはアリ・Gというキャラもある)、『ボラット』などを連想してしまう。トルコ人を公然と差別しながら奇妙な連帯感も示す極右や、グダグダ言って洗礼を避けようとする神父。アスベスト工場で働いていたために気管支と肺の末期がんになったという設定で自分の遺体をどうやって送還するのかを葬儀屋に相談にいくと、女主人は「何らかの同情を寄せたりは、したくないらし」く、「その代わり話題はすぐ商売に移った」といったあたりはそのままコーエンの映画の一幕のようだ。

しかし本書は笑えるものではない。ここで暴露されるのは、あまりに陰鬱な現実である。
「私は確かに本当のトルコ人ではなかった。しかし社会の仮面を剥ぐためには変装しなくてはならず、真実を探りあてるには欺き、偽装しなくてはならない」。こうして明らかになったのは、広く蔓延る差別であり、外国人労働者を食い物にして利益を稼ぐ人々だった。「毎日身にうけている屈辱、敵意、憎悪を外国人たちがどうやって耐えしのんでいるのか、私には今になっても分からない。だが、外国人がどんなことに耐えなくてはならないか、この国の人間軽視がどの程度まで進みうるものかは分かった」。

「ボラット」や「ブルーノ」のような架空のキャラクターではなく、生身の人間たちが日々劣悪な環境下で、蔑まれ、傷つけられ、搾取されていたのである。「我々のいる真只中で――この民主主義国家で――かなりの人種差別[アパルトヘイト]がなされている。私が体験したことは、予想をはるかに上回るものだった。否定的な意味においてである。ドイツ連邦共和国の真只中で、ふつうだったら十九世紀についての歴史書でしか記述されないような状況を体験した」。

ある農家では、「暖かく清潔な部屋もいくつか空き室のまま」であったにも関わらず、古く錆びついた車か家畜小屋か工事が中断されたまま鍵もかからないドアがあるだけの石くずだらけの部屋のどこに住むのかを選ばされた。工事途中の部屋はトイレもなく、バケツで用を足さねばならない。さらにはこの農家は「トルコ農場」と陰口をたたかれないように、アリの存在を隠していた。そして文字通りに「家畜のように扱われ」たのである。
こういった例は極端なものではなく、トルコ人のアリは次々と信じがたいような環境下で働くことになる。


マルクスの『資本論』は19世紀資本主義残酷物語の優れたルポルタージュとしても読めるが、1883年のマルクスの死からちょうど100年後の、1980年代半ばの西ドイツの外国人労働者たちも、それと大差ないかのような労働環境にあった。
地下鉄の工事に従事していたある労働者は72時間働き通し(睡眠は休憩時間に30分ほど眠り込むような形で取っていた)、またある運転手は36時間ぶっ続けで運転させられた。危険な工事現場でもマニュアルは守られず安全対策はおろそかにされる。そして外国人労働者たちは、職を失うことを恐れ、劣悪な労働環境や低賃金に抗議することすらできない。

儲けるのはもっぱら人材派遣会社だ。アリが勤務することになる人材派遣会社の社長のアードラーは、自分の会社を「レメルトのような大企業にしたい」という夢を持っている。違法上等で極限までコストをカットすることが売りである、ヤクザが経営する悪徳口入屋のようなアードラーの会社と大企業のレメルトとの差は、「たとえて言うなら、暗黒街と売春婦の世界の差のようなものだ。アードラーは、労働者を一切、当局の許可なしに売却するが、レメルトの方は、少なくとも時々、合法的なこともする」。外国人労働者たちを「昔のガレー船の奴隷」のように酷使し、使い捨てして富を築いたのがレメルトであり、アードラーは自分の会社もそうなることを夢みている。


このような状況は当時の西ドイツに限られたことではないだろう。西ヨーロッパの多くの国が、使い捨てできる安価な労働力として外国人を連れてきて、必要なくなればお払い箱にした。日本にも様々な形で、事実上多くの外国人労働者がすでにいるが、「外国人実習生」の例を見れば明らかなように、弱い立場にある人を低賃金で劣悪な労働環境で酷使することは横行している。

そしてこういった外国人労働者に涎を垂らしながら食指を伸ばしている人材派遣会社パソナの会長である竹中平蔵が、政府の「規制改革」に「経済学者」として影響力を持ち続けていることのグロテスクさはいくら強調してもし過ぎることはない。ちなみにアードラーも政治家(よりにもよって社民党)と深く結びついているようだ。


「今になってみんなさっさと忘れちまっているのは、ヒットラーが誰にでもパンと仕事を与えたってことさ」とアードラーはアリに言う。「あと一〇〇万か二〇〇万失業者が増えれば、またヒットラーのような人物が出てくるぞ」。
「うん、そうなるとオレたちの番だ。オレたちユダヤ人になるんだ」とアリが不安がると、アードラーは「心配するこたあない。すぐにガス室に入れたりゃしないさ」と言い、ユダヤ人への偏見をまくしたてる。

アードラーは外国人労働者をこき使うことで稼いでいながら、西ドイツが外国人労働者を受け入れすぎたのが失敗だったとする。その一方でこうも語るのである。「でもな、トルコ人が全員いなくなったって――今、二三〇万失業者がいるわけだが――ほんの少ししか失業者は減らないって、オレは確信してるんだ。このこたあ、トルコ人とは直接関係ないわな。全員出てったとする、そううりゃあほんの少しだけ失業者が減る。二二〇万になるかもしれない。でも何の足しにもならん、焼石に見ずだわな」。
安く使い倒せる労働力は欲しいが、まともな賃金を払わなければならない労働者はいらないということなのだろう。

アードラーとアリとの会話は経済相が告訴されたというラジオのニュースで中断される。
「この経済相、刑務所入る?」
「いや絶対、そんなこたあない。そうなりゃ政府の半分がムショ入りだ。そうはいかないじゃないか」
「何十億マルク儲けて、もっと欲しい、言う」
「そりゃそうよ。オマエだっていつも、オレから金を欲しがるじゃないか。そりゃあ人間の本性ってもんよ、そうじゃないかい?」


上記の会話も現代日本のそれのようにすら思えてしまうが、日本との関連でいえば本書でも原発の問題が取り上げられている。当時の西ドイツの原発では、「常勤スタッフを比較的少数にとどめ」、「割合危険の多い仕事には、下請け企業を通して何度も短期間の新規採用をして」いた。
「その人々は、ほんの数時間、あるいは数日で、いや時にはほんの数秒間で、五〇〇〇ミリレムという一年間の放射線被曝最高限度に達してしまうことがよくある」。これが外国人労働者であれば、追跡調査などなされず、将来健康被害が出ようが責任を問われることはない。

原発で働いていたある人物はこう証言する。
「故障の時は普通、トルコ人が動員されてたな。"飛び入り助太刀"として危険な汚染地域に送り込まれて、年間許容量の五〇〇〇ミリレムを浴びちまうまで、ずっとそこで辛抱しなけりゃならないんだ。その量に達するまで何時間もかかることもあるけど、極端な場合、数分、いや数秒のときもあるんだ。仲間うちじゃこのことを"空動員"なんて呼んでたもんよ」。
基準を超えればその人はもう原発で働けなるのだが、「だけど他のトコで仕事を続けられる手だてはあるよ」とも語っている。

「うちの下請け会社には大体二五〇〇人いるんだ。そのうち少なくとも一五〇〇人が外国人よ。そいつらは短期間の仕事をそこでしてて原発の検査が終わるとまた解雇されるんだ。だいたいが数週間しかいないんだ。/そういう連中が一番危険な仕事に動員させられてるな。一定の放射線をそこで浴びちまうってわけよ」。

覚悟を持って働いている人もいるかもしれない。しかしユーゴスラヴィア人の労働者はこう語る。
「雇われたとき会社側じゃあ、放射線の危険についてなんか一言も話さなかった。ただ三カ月の許容量二五〇〇ミリレム、年間五〇〇〇って言われただけだ。それ以上何も言わなかった。どんなに危険か、一体危険なことなのか、なんて誰も言わなかった」。

線量計をロッカーに入れっぱなしにすることでごまかしたり、事故に合ったにもかかわらず被曝量が記載されているはずの放射パスに数字が何も記載されていなかったなど、これもあたかも日本の原発のそれのようであり、各国の原発のおそまつな安全管理はどれも共通している。日本でも以前から外国人労働者が使われていたという証言は多くあり、さらに福島での事故後は除染作業等にリスクを説明されないまま外国人が従事させられたという事例もあった。

当時の西ドイツに限らず、その国の歪みというのは弱い立場にある労働者の労働環境という形で表れるのかもしれないし、原発というものはさらにそれを最悪の形で煮詰めたようなものにならざるをえないのだろう。


救いといっていいのかはわからないが、訳者あとがきによれば原著は1985年に出版されると240万部の大ベストセラーとなり、普段はこのような本を手にしない労働者にも広く読まれ、学校で教材として使われたり討論会が開かれたりしたという。また外国人の同僚に声をかけて家に招待するようになったドイツ人も多くなったそうだ。現在のドイツが周辺国と比べて排外主義の高まりが比較的抑えられているのは、失業をはじめとする経済状況が大きく作用していることは確かだろう。しかしそれだけではなく、こうして自らの問題点に真摯に向き合う姿勢を持っていたということも今につながっているのかもしれない。また本書は18カ国語に翻訳され、ヴァルラフが扮したトルコ人にも読まれ、「自分たちにも拒否する権利があるのだと気づくようになった」のだという。

潜入ルポといえば日本でも鎌田慧の『自動車絶望工場』や横田増生によるアマゾンやユニクロへの潜入ルポなどがあるが、社会への大きなインパクトになったのかといえばそこまでとはいえないかもしれない。そして、とりわけ外国人労働者の労働環境や人権への関心は一般には極めて低いままだ。今の日本で本書を読むとあたかも「予言の書」とも思えてきてしまう。だからこそ、今読まれるべきであろうし、何らかの形で復刊してくれることを希望する。



『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』

ロベルト・ゲルヴァルト著 『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』





「ラインハルト・ハイドリヒは、二十世紀最悪の犯罪者の一人として、ナチ・エリートの中でさえとりわけ忌まわしい人物として、広く認められている」。

ハイドリヒは死亡時38歳の若さにして、「SS(親衛隊)諜報機関たるSD(SS保安部)」等が合体して1939年に発足していた「ナチの巨大な政治警察組織」であるRSHD(国家保安本部」の長官として「ゲシュタポ、SDの将校からなる大規模な影の軍隊を指揮下に置いていた」。また彼は「オーストリア、チャコスロヴァキア、ポーランドそしてソヴィエト連邦への侵攻の際、悪名を轟かせたSS移動殺戮部隊、アイザングルッペンの責任者」でもあった。「ヒトラーによってボヘミア・モラヴィア保護領の総督代理に任命され」、「プラハでの彼の統治、そして彼の暗殺に伴なう凄惨な諸事件」が起こった8か月間は「現代チェコ史最暗黒の時期として今も記憶されている」。そして1941年7月にはゲーリングから、「ヨーロッパにおける「ユダヤ人問題の全面的解決」策を策定し実行するよう指示」され、これは「ヨーロッパ・ユダヤ人の組織的な無差別殺戮となって頂点に達することになる」。

1931年9月の選挙の頃にはハイドリヒは「殴り込み部隊のリーダーとして急速に確かな悪名を獲得し、ハンブルクの共産党員からは「金髪の野獣」と呼ばれるようになった」。1942年6月に暗殺されると、トーマス・マンはその翌日のBBCの放送で彼をヒトラーの「絞首人」と呼んだ。

ハイドリヒが暗殺されるとナチスは犯人の捜索と復讐のため残虐行為をさらに押し進め、リディツェの村では虐殺と破壊とが行われた。43年にはトーマスの兄ハインリッヒ・マンが亡命先のカリフォルニアで小説『リディツェ』を書き、同年にハンフリー・イェニングスは映画『沈黙の村』を撮っている。これもやはり43年に、ドイツからの亡命者でもあるベルトルト・ブレヒトとフリッツ・ラングは『死刑執行人もまた死す』を制作する。75年には映画『暁の七人』が公開され、近年でもローラン・ビネがハイドリヒ暗殺を描く(のを描く)小説『HHhH』を書いている。

このように存命中から悪名をはせ、現在に至るまで継続的に関心がもたれ続けているハイドリヒであるが、意外なことに学術的な伝記は2011年に原著が刊行された本書が初めてなのだという。これまでジャーナリストなどによって伝記はいくつも書かれているが、信頼性はかなり薄いものであったようだ。ハイドリヒはヒムラーやゲッベルスと違い日記をつけておらず、手紙もごく一部しか現存していない。このあたりも信頼に足る伝記が書かれなかった理由であろう。著者はヨーロッパ各国の文書館で調査を重ね、「ハイドリヒの生涯に関する資料は、かつて考えられていたよりは多い」ことが明らかとなり、「これらに基づいて、彼の日々の行動や意思決定過程を、細部に至るまで再構築することはかなりの程度可能」であるとしている。

なお増田好純の解説によると、本書のうちボヘミア・モラヴィア保護領総督代理としてのハイドリヒの描写について「主にドイツをフィールドとする歴史家が「ハイドリヒの総督代理としての政策を巧みに描き出した」と肯定的に評価する一方、中東欧に足掛かりを持つ研究者らは分析の基礎に置かれてしかるべき重要な史料に漏れがあると批判」しているという。チェコ語の史料は翻訳に依拠せざるをえなかったところもあったようで、このあたりが影響しているのだろう。このように本書はハイドリヒについての研究の決定版とまではいかないのかもしれないが、この恐るべき人物の全体像が明らかとなる貴重な伝記であることは間違いない。


ラインハルトの祖父カール・ユリウス・ラインホルト・ハイドリヒは37歳で結核で死亡した。妻のエルネスティネ・ヴィルヘルミネには6人の子どもと経済的困窮が残された。その3年後、エルネスティネは13歳年下の錠前職人と結婚する。長男のブルーノとの年の差はわずか9歳だった。この再婚相手の名前が「ズュース」とユダヤ人を連想させる名前であったため、ハイドリヒの先祖が「非アーリア系」であるという噂が付きまとうことになる。戦後もハイドリヒにはユダヤ人の血が流れていてそれを否定するために躍起になって残虐行為を行ったとされることもあったが、著者は明確にこの噂を否定している。

ブルーノは貧しい暮らしにもめげずに音楽家として身を立てることを決意し、苦労しながらそれに成功する。ブルーノが手掛けたオペラ『アーメン』によって経済的にも安定し、恩師の娘エリーザベトと結婚する。『アーメン』の主人公ラインハルトは「ドイツ的ヒーローであって、抜群の道徳性、知性、肉体的能力を備えている」。作中でラインハルトは「社会民主主義の忌まわしい台頭を象徴する」、足の悪い農民指導者トーマスの「背後からの残酷な一突き」によって命を落とす。ブルーノは長男にこのオペラの主人公の名前をつけた。

ラインハルトは音楽学校経営をするようになった両親から音楽の英才教育を受け、その才能を引き継いでいた。当時ギムナジウムへ進学できるのはわずか6パーセントほどの特権であったが、両親はラインハルトをギムナジウムに入れる。ラインハルトの成績は平均以上で、とりわけ理系に秀で、将来化学者になることも考えた。またこのころには英米の探偵小説も読みふけった。

ハイドリヒ一家の運命を大きく変えたのが第一次世界大戦の勃発だった。戦争の長期化によって音楽学校の経営は徐々に悪化していく。一方ラインハルトは、まだ戦場に赴くには年少であり、同年代の多くの子どもと同じように安っぽい愛国小説によって、戦争を「冒険」であるかのように見なし、「その冒険の果てに、不可避的宿命のようにドイツ人が勝利者としてあらわれる」ことを夢見ていたのだろう。

また戦時中にちょっとした事件が起こる。新しく刊行された音楽事典にブルーノがとりあげられたのだが、ここに彼がユダヤ系であるかのようなほのめかしが載っていたのだった。ブルーノはこれを中傷であると訴えた。これはブルーノを逆恨みしたかつての教え子の仕業と判明し、第二版からは訂正された。しかしこの噂は消えることはなく、さらにブルーノの義弟がユダヤ人がと結婚したため、ラインハルトは「イジ」「イジドール」とからかわれた。ハイドリヒ家では戦時中この噂の火を消してまわるのが仕事となり、「しつこく言いふらす者には告訴で対抗した」。ブルーノはとりたてて反ユダヤ主義者というわけではなかったが、「ユダヤ人」であるとされることは「中傷」であると受け止め、実際彼を嫌う人間はその意図でこの噂を広めたのであった。これは当時のドイツで反ユダヤ主義がいかに一般的であったかを示すものだろう。

ハイドリヒは勝利を信じて疑わなかったが、ドイツは敗北を喫する。さらにドイツ各地で革命の火の手があがり、武力衝突が繰り広げられた。予想外の戦争での敗北、革命の恐怖と武力鎮圧、こういった出来事は十代半ばであったハイドリヒにとって大きな影響を与えたであろうし、この世代で後にナチスに惹かれていく人々も同様であっただろう。

1922年にハイドリヒは優秀な成績でアビトゥーア(大学入学資格証書)を取得するが、音楽家になって学校を引き継いでほしいという両親の願いに反して、海軍士官の道を選ぶ。学校の経営は悪化の一途をたどっており、最早魅力的な選択肢ではなくなっていた。

士官候補生としてのハイドリヒは目立つような成績でもなく、かといって落第生というわけでもなかったが、孤立しがちであったことは確かなようだ。当時海軍は右翼の巣窟と化していたが、ハイドリヒはその中でむしろ非政治的な人間とみられていた。士官になった後に一般の水平や下士官などに横柄な態度をとって暴動寸前にまでいたったということからも彼が権威主義的であったことは確かだろうが、それは現実政治への関心には結びついていなかった。1930年、リナ・フォン・オステンとの出会いによってハイドリヒは大きく変わることになる。

学校経営者だったオステン家はもとはデンマーク貴族の出であるが、没落を重ね、すっかり零落していた。まだ女性教師が珍しかった時代であったが、リナは教職を目指していた。「ハイドリヒは、自信に溢れた美しい十九歳の金髪女性にたちまち心を奪われ」、リナもまた彼に惹かれた。

オステン家の面々はすでに極右となっており、リナの兄は28年にはナチ党に接触をはじめ、リナ自身もラインハルトと出会ったときすでに「確信的ナチ党支持者であり、猛烈な反ユダヤ主義者だった」。リナは29年にナチ党大会に参加しており、黒い制服姿のSSに魅了されていた。彼女がハインリヒに惹かれたのも、彼が金髪碧眼にして海軍の制服を着ていたせいなのかもしれない。二人が出会ったときもハイドリヒは政党には無関心で、それどころか「ボヘミアの伍長」や「片足の短い」ゲッベルスについて冗談すら飛ばしたと、リナは後に振り返っている。

この時、ハイドリヒの人生を変えるもう一つの出来事が起こる。彼がリナとの婚姻前告知を行うと、かつて逢瀬を重ねていた女性がこれを見て神経症になってしまった。この女性が何者であったのかはわからないが、彼女の父親は海軍上層部にコネを持っていたようだ。ハイドリヒは軍事名誉法廷に召喚され、婚約不履行について説明を求められた。ここで殊勝な態度をとっていれば譴責程度で済んだかもしれないが、彼は傲慢な態度を取り、それが不興を買い罷免されてしまうのであった。1931年、大不況の真っただ中で、年金受給資格にも足りないまま、ハイドリヒは失業してしまう。追い打ちをかけるように学校もトラブルに見舞われており、実家を頼れるはずもなかった。

追い詰められたハイドリヒのために動いたのが母エリーザベトだった。家族ぐるみで付き合いのあったエバーシュタイン男爵に「息子の職業的不運」について相談すると、男爵は息子のカールと連絡を取った。カールは20年代半ばにナチ党員となり、SAの幹部となっていた。

当時SSはSA指導部に従属する小さな組織にすぎなかった。ハイドリヒは名前を聞いたこともなかったSSに入るためにナチ党に入党した。必要だった二通の推薦状のうち一通はエバーシュタインが書いたが、彼はハイドリヒの軍歴について無知だったゆえか、あるいは彼を応援するためか、そこにハイドリヒが「情報専門家」として働いていたことがあったと書いた。ヒムラーはちょうど情報機関を設立しようとしていたところだった。ハイドリヒがヒムラーに会った1931年6月14日を、35年後にリナは「私の人生の、私たちの人生の、最大の瞬間でした」と書くことになる。

ヒトラーやヒムラー、ゲッベルスなど、ナチスの幹部の多くが彼らが掲げる理想の外見からは程遠かった。一方ハイドリヒは長身で金髪碧眼、理想の「アーリア人」に近かった。求めていた諜報の素養があるの人間(実際にはハイドリヒにはそのようなものはなく、かつて読みふけった探偵小説などからの知識からでっちあげたのだが、ヒムラーはそのことに気が付かなかった)であっただけでなく、彼の外見もその採用に影響したことだろう。
ハイドリヒの方もすぐにナチスに順応し、ヒトラーやヒムラーへの忠誠心とその大胆不敵な行動により、たちまち頭角を現すことになる。

こうしてヒムラーに重用されるのみならず、30年代遅くまでにはヒトラーも「ハイドリヒの忠誠と「才能」を深く信頼し、自らの本心に最も近い政治的に敏感な問題――対ユダヤ戦争――の責任を彼に委ねるのである。ハイドリヒとヒトラーは社交的レベルでは稀にしか接触しなかったが、「任務上」の関係は密接だった。ハイドリヒはヒトラーに対し、総統への絶対的忠誠を示し、ヒトラーは、ナチ体制のますます暴力的になりゆく諸政策を最も過激な形で実行するハイドリヒの能力に全幅の信頼を置いたのだった」。
ナチ党員としてのハイドリヒの歩みは、ほぼそのままナチスの蛮行の歩みと重なることになる。


本書を読んでいてとりわけ印象深いのが、非政治的であったはずのハイドリヒが、ナチス入党からエスカレートする一方である蛮行の数々において中心的な役割を果たすようになるまで、葛藤らしきものが一切ないことである。これは日記等の内面を表す史料が欠けているためにそう映るのではないく、おそらくは実際に躊躇いや逡巡を持たなかったのだろう。

ハイドリヒが海軍を追われたとき、SSよりも実入りのいい仕事も紹介されていた。よい給料とはとてもいえない仕事をわざわざ選んだのは、妻とその実家への配慮もあったのだろうが、やはり「制服」への固執があったのだろう。ハイドリヒは単に暴力的なだけでなく、ヒトラーが信頼を置いたように能力の高いテクノクラートでもあった。当時社会ダーウィニズムもまた広く信じられていたが、それだけに能力に見合った地位を得ることができないというフラストレーションはよりつのったであろうし、それがもともと彼に潜んでいた権威主義や反ユダヤ主義を最悪な形で強化していったのかもしれない。SSや、残虐行為で悪名高いアイザングルッペンには博士号取得者を含め高学歴の者が多かった。こういった鬱屈を抱えた人間を受け止めてくれたのがナチス、なかんずくSSであったのだろう。

アイヒマンもまさにそういったタイプの人間であり、あれだけの巨大組織を30代にして動かせるというのは、その高い「能力」があってのことだ(アレントの「凡庸な悪」という言葉が先行して誤解されがちであるが、アイヒマンの担った役割はしがない中間管理職的なものなどではなく国務大臣クラスだった)。こういったタイプの人間が何のためらいもなく一線を越え、おそるべき残虐行為に進んで手を染めるというのは当時のドイツに限ったことではなく、いつでも、どこでも起こりうると肝に銘じておくべきだろう。


またヒムラーは1940年5月に占領地域の住民の教育は「せいぜい五〇〇までの数が数えられ、自分の名前が書けて、ドイツ人に従い、正直で勤勉で善良であることが神の掟なのであるという教義」に限定されるべきだと語った。42年2月にハイドリヒはこれと軌を一にして、「チェコ教育界は「反対勢力の訓練所」となっている。自分は教育界中心部に「強烈な打撃を加える」つもりである。チェコの中等学校の数も大幅に減らさなければならない。チェコの若者たちは、あまりに長い間、「きわめて愛国主義的な教師」に誤った指導を受けてきた……」と表明した。

これを受けて新聞各紙は「教育はチェコ住民にとっては不必要な贅沢だ、との大合唱を始めた」。広く読まれていた『チェスケー・スロヴォ』紙は「われわれが現在七万の中等学校生徒を抱えているという事実は経済的観点からして耐えがたいことである」とし、「これらの生徒は直ちに実務に入れるよう職業訓練校に移るべきだ、と提唱した」。
イギリスの諜報レポートはこのような施策が目指しているのはチェコ青年を「支配民族体制が求める奴隷人種に変える」ことだと分析した。

このあたりも、現在の世界と無縁であるのだろうかとも考えてしまう。


さて、ハイドリヒ暗殺後に残された家族はどうなったのであろうか。夫が暗殺されたときリナは31歳で、第四子妊娠中の臨月であり、ショックでベルリンで行われた夫の葬儀に参列すらできなかった。ヒトラーはリナに「ユングファーン・ブレシャンの屋敷を、ハイドリヒ家永遠の財産として贈った」。ヒムラーはリナが「ボヘミアの田園生活を快適に送れるよう」に、ユダヤ人の強制労働従事者を30人ほど彼女の屋敷で働かせた。戦後の証言によれば、リナはしばしばベランダから望遠鏡で働きぶりを監視し、「緩慢な動きをしている者には鞭打ちを食らわせた」。囚人たちが虐待されているのを見ても「何らの感情も示さなかった。44年1月には強制労働させられていたユダヤ人たちは絶滅収容所に送られ(つまりそこで殺され)、その代わりにこれも迫害され収容所に入れられていたエホバの証人の女囚15人を働かせた。

45年4月には赤軍が迫り、抑圧されてきた非ドイツ人民衆の復讐から逃れるため、リナらは民族ドイツ人難民の群れに加わった。「着の身着のままの逃避行だったが、リナは、亡夫の血に染まったSS大将の制服だけは後生大事に持っていた。それは今も息子ハイダーのもとに保存されている」。

息子の死後リナと行動を共にしてきたエリーザベトは義理の娘と別れドレスデンにたどり着いたが、ここで餓死することになる。一方リナは実家であるバルト海沿岸フェーマルン島にたどり着くことに成功した。この一帯はイギリス占領地区であり、戦後に冷戦がはじまっていたため、47年にチェコスロヴァキアからの身柄引き渡し要求は拒絶された。イギリスは西ドイツとの友好関係を重視し、「ドイツ当局もリナに過酷な態度はとらなかった。リナは奴隷労働虐待で裁かれることはなく、終戦直後にイギリス軍に押収されていた金融資産やフェーマルン島の別荘の所有権を彼女に認めた。リナはこの別荘を改装して「インブリア・パルヴァ」という小さなペンション兼レストランを開き、「やがてそこはかつてのSS将校がしばしばつどって「古き良き時代」の思い出を語り合う場となった」。

リナは56年と59年には年金受給をめぐって訴訟を起こし、「ハイドリヒがホロコーストにおいて果たした役割について膨大な証拠があるにも関わらず、連邦共和国は、彼女に、戦没した将軍の場合の寡婦年金を払わざるを得なくなった。ドイツの納税者たちの援助の上に安住しつつ、リナは夫の行為について一度たりとも後悔や自責の念を表明したことはなかった」。

リナは「年金訴訟の判決を批判した検察側や左派系新聞をあざ笑うかのように、一九七〇年代に、『戦争犯罪人とともに生きて』と題する回想録を出版した。偉大なるドイツという大義のため自分の家族の払った犠牲を認めようとしない社会への嫌悪を隠そうとしないまま、一九八五年八月に死去した」のであった。


『ダーク・マネー  巧妙に洗脳される米国民』その2

ジェイン・メイヤー著 『ダーク・マネー  巧妙に洗脳される米国民』





その1の続き。


……と、『ダーク・マネー』は読んでいてなんとも気の重くなる本でもあるが、本書はまたコーク兄弟、リチャード・メロン・スケイフ、ジョン・オリンとブラッドレー兄弟といったエキセントリックなビリオネアの実態を描いたものでもある。クルップ社経営一族にインスパイアされた『地獄に落ちた勇者ども』や新聞王ハーストがモデルの『市民ケーン』、近年では潔癖症の謎の大富豪ハワード・ヒューズを描いた『アビエーター』があり、『フォックスキャッチャー』ではデュポン家の一員が起こした殺人事件の顛末が語られているが、本書で描かれるビリオネアたちもそのままこのような作品にしてしまいたくなるような人物たちである。とりわけコーク兄弟についてはポール・トーマス・アンダーソンあたりが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『ザ・マスター』の風味で撮ったらなかなかのものになりそうである。


コーク兄弟の父親フレッドは1927年に「原油からガソリンを抽出するプロセスを改善する方法を発明」したが、大手石油会社から警戒され業界から締め出された。15年以上にわたる法廷闘争を繰り広げ150万ドルの和解金を手にすることになるが(当時としてはすさまじい額である)、法廷闘争の最中、彼は判事が買収されているのではと疑っていた。そしてこの疑いは正しかったのであった。フレッドはこの経験から「正義は金で買えるし、ルールを守るやつは食い物にされると信じるようになった」とされる。

アメリカから締め出されていたフレッドが手を組んだのが、なんとソ連であった。ソ連はフレッドの技術を必要とし、フレッドには仕事をする場が必要だった。しかしソ連が技術を吸収すると活躍の場は細っていった。次に目を付けたのが、ヒトラーが政権の座についたドイツであった。「熱烈なリバタリアンのコーク一族は、史上もっとも悪名高い独裁者2人、ヨセフ・スターリンとアドルフ・ヒトラーのおかげで、富の一部を築いた」。

フレッドが個人的にヒトラーのことをどう考えていたのかはよくわからない。しかしニューディール政策によって保護されるようになったアメリカの労働者より、ドイツの労働倫理をほめたたえていたようだ。そして長男フレディと次男チャールズのために、熱烈なナチス支持者のドイツ人女性を家庭教師として雇った。両親は子どもにあまり関わらず、この乳母兼家庭教師によって長男と次男は厳しく支配された。チャールズの性格にこの影響を見る人もいる。コーク家にはさらにビルとデイヴィッドの双子の息子が誕生するが、この頃にこの家庭教師はヒトラーのフランス侵攻に歓喜し、祖国で総統と喜びを分かち合いたいとして自らの意志でドイツに帰ったようだ。

際立った負けず嫌いであった次男チャールズが兄弟のなかで中心的存在となっていく。長男フレディは母親似の「芸術家肌」になり、部屋でおとなしく本を読んでいるのが好みであった。デイヴィッドはチャールズになつき、一方ビルはチャールズから除け者にされていると感じるようになる。

チャールズは父に反抗し、原子力と化学工学で修士号を得ると、ボストンで経営コンサルタントとして働き始める。しかし健康を害し始めていた父が家業を継がなければ会社を売却するかもしれないと考え、父親のもとで働くことにする。父に反発していたチャールズであるが、価値観の多くを父親と共有していた。フレッドは右翼団体のジョン・バーチ協会の会員で、チャールズとデイヴィッドもこれに加わる。フレッドはゴールドウォーターの熱心な支援者で、極右陰謀論にもどっぷりつかっていた。チャールズは当時は、ジョン・バーチ協会流の陰謀論には否定的であり、後にジョン・バーチ協会は陰謀論によって拡大に失敗したと考えたが、一方で徹底した組織の秘密主義などはここから学ぶことになる。若き日のチャールズが父親の右翼ネットワークの中で魅了されたのは、極右陰謀論よりも経済理論だった。

コーク家はジョン・バーチ協会とも密接な関係にあったフリーダム・スクールの支援者であった。「フリーダム・スクールでは、おいはぎ貴族(悪徳資本家)は悪者ではなく英雄」だった。ここでは税金は盗みであり、ニューディール政策は失政であり、ジョンソンが展開する貧困との戦いは「社会主義への破滅的方向転換」であった。

フリーダム・スクールに魅せられたチャールズは兄弟に受講するよう勧めた。しかし文学や歴史などの教養を身に着けていた兄弟のはぐれ者長男フレディは、同校のカリキュラムをたわごとだとこき下ろし、中心人物はアプトン・シンクレアの小説に出てくるペテン師にそっくりだと言った(多くの国で右派が批判的思考を教育する人文学に憎悪を燃やす理由はこれでおわかりだろう)。激怒したチャールズは、「統率に従わないと「殴り倒す」といった」と、フレディは振り返っている。チャールズはハイエクを知りその理論を信奉し、リバタリアン思想の普及に努めることになる。

兄弟は父親から資産を相続することになり、父親はここで「節税」テクニックを駆使した。しかし「盗み」である税金から資産を守れても、兄弟の反目は避け難かった。チャールズはフレディがゲイであるという噂(当人は否定している)を利用し、母親に知られたくなければ株を譲れと脅しをかけるなどして、兄の追放に成功する。さらに弟のビルとも袂を分かち、チャールズとデイヴィッドは一層結びつきを強めていく。ちなみにフレディやビルがみじめな境遇に追いやられたのかといえばそうではなく、会社から追放されたとはいえ相続によって大金持ちになったフレディは弟たちよりは慎み深い慈善家となり、やはり莫大な資産を相続したビルも自ら事業を起こし成功しており、こちらは思想的にはチャールズと同根であるようだ。さらに付け加えれば、デイヴィッドは近年は同性婚を容認する立場に転じたようだが、彼一人がそう言ったところで性差別全開の右派運動の流れに影響はないし、この流れに抗して闘いを開始するかといえば、もちろんそんなことはしない。

秘密主義でほとんど表に出ないチャールズにとって、「ちょっと抜けている」とすらされる社交的なデイヴィッドは表看板としてうってつけだった。
1980年には、舞台裏での活動を好むチャールズはデイヴィッドを説き伏せてリバタリアン党の副大統領候補として立候補させる。ここで注目すべきは、党首であったエド・クラークがこの時すでに「リバタリアンは「きわめて大きなティーパーティ」を主催する用意がある、なぜなら、大衆は税金に「死ぬほどうんざりしている」」からだと述べていることだ。リバタリアン党の公約は選挙資金法の廃止、連邦選挙委員会も全廃。メディケアとメディケイドを含む政府の医療プログラムも廃止。すべての所得税と法人税に反対。脱税者に対する訴追をやめること(!)。証券取引委員会に環境保護庁にCIAにFBIも廃止。最低賃金や未成年者保護など「雇用を妨げる」あらゆる法律も廃止。「子供に「強制的に」教育をほどこす機関」であるとして公立学校も廃止。食品医薬品局、労働安全衛生局も廃止。シートベルト着用を義務付ける法律も廃止。そして「貧困層に対するあらゆる福祉をすべて廃止することを求めている」。

これでは1パーセントしか得票を集められなかったのも当然であろう。しかしすでにクラークがすでに「ティーパーティ」へ言及しているように、コーク兄弟の政治信念はこの時すでにできあがっており、ここから基本的には変わっていないとすべきだろう。つまりアメリカをこのような社会システムにすることこそが、コーク兄弟の究極の目標なのである。

コーク兄弟には学習能力がある。この惨敗の反省から、現実政治に影響を与えるにはどうしたらいいのかを考え、策を練り、それを実行するようになるのであった。

このような人物によって経営される企業が悪辣なものになるのもまた当然であろう。違法な水銀の廃棄などの環境汚染や、従業員に健康リスクを伝えるのを怠るといったことは常習的に行われている。安全性よりコスト重視、人命が失われる事故(というより事件)が発生することもたびたびだ。内部告発を行おうとしたり被害を訴えようとすると、かつてのピンカートン探偵社の仕業かと思うような偽FBI捜査官が現れて恫喝するといった異様な手法も厭わない。それでも告発者が屈しなければ、最後の手段として秘密保持と引き換えに金で揉み消すのである。


『市民ケーン』の興行的失敗は、モデルとなったハーストからの凄まじい嫌がらせも影響していたとされる。著者は「ニューヨーカー」誌の記者であるが、それまで一般的にはほとんど知られていなかったコーク兄弟を取り上げた記事を書くと、さっそく嫌がらせを受けることになる。右翼メディアから過去に盗作をしていたと書き立てられそうになったのであった。幸いにもこの右翼メディアのやり口があまりに杜撰であったので大事には至らなかったが、陰謀のネットワークが張り巡らされていることを目の当たりにして背筋が凍る思いだったろう。

著者に対する陰謀など映画化するならそのオープニングにふさわしく思えてしまったのだが、表にほとんど姿を現さず、デイヴィッドを操ってついに共和党に強い影響力を及ぼすようになるチャールズの姿は、パラノアイと極右陰謀論にまみれた虚構の人物であるかのようにすら映ってしまうものの、これが実在しており、アメリカ政治を動かす重要人物であるというのは、紛れもない現実なのである。もちろんこれはアメリカの制度的な問題もあり、このような手法がそのまま世界各国で行われているわけではないが、日本においても安倍晋三とJR東海葛西や富士フィルム古森などとの関係を考えると、右翼財界人による政治的影響力の拡大は、対岸の火事ではないどころか、すでに極めてアクチュアルな問題になっていると考えるべきだ。またそれが不可視化されていることにも、危機感を持つべきだろう。

『ダーク・マネー  巧妙に洗脳される米国民』その1

ジェイン・メイヤー著 『ダーク・マネー  巧妙に洗脳される米国民』





2009年1月20日、バラク・オバマの大統領就任式の日、首都ワシントンは多幸感と高揚感に包まれていた。同月下旬、カリフォルニア州パームスプリング郊外には大富豪たちが結集していた。この集まりを主催したのはチャールズ・コーク。資産10億ドル以上のビリオネアである。チャールズとデイヴィッドのコーク兄弟はオバマの就任演説を聞いて、彼らの政治顧問のリチャード・フィンクと「アメリカは滅びる道をたどっている」という点で意見が一致した。「オバマの当選が示す進歩主義の潮流を撃退するには、「生涯の戦い」が必要だ」と、フィンクは告げた。


大富豪と貧しい人のどちらの数が多いのか、統計を調べてみるまでもない。では金持ちも貧しい人も平等に一票ずつであるはずの民主主義国家において、大富豪が勝ち続けるのはなぜだろうか。貧しい人になくて大富豪にあるもの、それは言うまでもなく金である。莫大な金があれば、民主主義国家においてもごく少数の者が国を支配することも可能になる。アメリカ合衆国のように。

コークに召集された大富豪たちに女性は少なく、非白人はさらに少なかった。コーク兄弟がそうであるように、彼らの多くが親などから莫大な資産を受け継ぎ、それをさらに子孫に受け渡そうとしている。エネルギー産業や金融業など当局による規制にその利害が直接左右される者たちが多く、また法的な問題を抱えている者も多い。このような大富豪が求める政治がいかなるものかは容易に想像がつくことだろう。

本書はコーク兄弟を中心とする右翼の大富豪がいかにアメリカ政治を金の力によって支配しているのかを、その来歴から解き明かしたものである。


金の力といっても、政治家を買収する、あるいは莫大な政治献金によって政党や政治家個人へ影響力を及ぼすといった単純な話ではない。コーク兄弟をはじめとするビリオネアたちはもちろん献金等も行っているが、アメリカにおいて最も強く影響力を発揮しているのは、表に出ない「ダーク・マネー」だ。これは主にフィランソロピー、つまり慈善を装って作り出される。

アメリカの大富豪の「寄付文化」について、日本ではノブレス・オブリージュのように理解している人がいるかもしれないが、そのような意図を持つ人が皆無であるとまではいわないものの、たいていは的外れであろう。莫大な寄付の第一の目的は税金対策である。さらには、単に既存の慈善団体に渋々ながら寄付をするのではなく、自らに優位な政治、社会に誘導するためのマシーンを作り上げるのに使われている。税金逃れをするだけでなく、金持ちが税金を払わなくていい社会、大企業が規制を逃れる社会がこうして出来上がっていっている。

戦略的に大学、シンクタンク、圧力団体、NPOなどの非営利団体へ資金を流し込み、メディアなどを使って右派イデオロギーの浸透を図るとともに、保守内部においてすら「奇人」とすらされるような強硬右派を支援する。これらはまたリベラル派や穏健保守へのネガティブ・キャンペーンの実働部隊ともなっている。

1980年のアメリカ大統領選挙でデイヴィッド・コークはリバタリアン党の副大統領候補となったが、集められた票はわずか1パーセントほどだった。もっともこれは、候補者になれば無制限に資金を選挙に投じることができることから、当選を望んでのことというよりは(当人たちも当選の見込みがあるとは考えてもいなかっただろう)、プロパガンダの機会と捉えていたという見方もできるし、実際デイヴィッドは多額の私財をキャンペーンにつぎ込んでいる。いずれにせよ、コーク兄弟の奉じるリバタリアン思想の信奉者とは当時はせいぜいこの程度であったということもできる(もっとも「思想」というほど立派なものというよりは、ハイエクのご都合主義的なつまみ食いといったほうがいいだろう)。

この約10年前の71年には、あのニクソンですら自らをケインズ主義者だと称していた。しかし、レーガンが大きな政府か小さな政府かが問題なのではなく政府そのものが問題なのだと言ったように、リバタリアン的発想はこれ以降加速度的に信奉者を増やしていき、80年代以降社会保障は削られ、富裕層の税金は軽減され、環境や金融などの規制は取り払われ、コーク兄弟のような人物はますます肥え太っていった。クリントン政権も基本的にはこの流れを踏襲したものであったが、ブッシュ・ジュニアの失態もあり、オバマ政権の誕生という事態にビリオネアたちは危機感を募らせていった。こうして徐々に影響力を拡大していた右翼大富豪たちはさらに戦線を拡大することにし、最高裁から「言論の自由」を理由に事実上無制限に選挙に金をぶち込めるようになったことも追い風に(もちろんこれ自体が右派による運動の成果でもある)凄まじいキャンペーンを張り、共和党から穏健保守を追放するなどして党内を制圧ようとするティーパーティ運動としてそれは結実することになる。


フィランソロピーという形で税逃れをするとともに政治的影響力の拡大を図るというのはコーク兄弟らによって始められたのではない。ジョン・D・ロックフェラーは1909年に財団の法的な承認を得ようとしている。セオドア・ルーズヴェルトなどの批判派はその目的を見抜き、「そういう財産を使っていかなる慈善を行おうとも、その富を手に入れるための違法行為を埋め合わせことはできない」とした。1915年にアメリカ労使関係委員会のフランク・ウォルシュは「財団と称する巨大な慈善トラストは社会にとって脅威だと思われる」と述べ、スタンフォード大学教授のロブ・ライシュは「私立財団は「そもそも富豪階級の声を代表する」ものであるから、「基本的に根深い反民主主義の厄介な存在である……この統一体は、政治的平等を脅かし、公共政策に影響をあたえ、永遠に存在しつづけるおそれがある」とした。

まるで約100年後を予言したかのようであるが、この発言の十数年後にはこれは杞憂であったと思われたかもしれない。ニューディール政策に反対した富豪は多かったが、反ニューディールキャンペーンはうまくいったとはいえない。では、とりわけ1980年代以降この手法が成功を収めたのはなぜか。より大規模に、より巧妙に行われるようになったのであった。

ヘリテージ財団をはじめとする右派シンクタンクに多額の資金を流し込み、リベラル派の政策を批判させ、右派の政策のプロパガンダを行わせた。大学に寄付をして講座や人事に影響を行使し、エビデンスを欠いた学術的には話にならないような怪しげな主張にまでお墨付きが与えられるようお膳立てした。司法にも食い込み、観光地で裁判官向けに右派思想の「研修」会を開き、多くの裁判官がこれを無料のバカンスとして利用した。その中には後の最高裁判事も含まれていた。NPOなどを使い複雑に金をやりとりすることで、法的にも保護され、資金の流れの解明は難しくなった。

また卵が先か鶏が先とすべきか、メディアの環境も大きく変化したことも影響しているだろう。70年代以降、「リベラル偏向」という批判を浴びたニューヨーク・タイムズがその批判を交わすために保守派のコラムニストを起用するなど、エスタブリッシュメントメディアが右派にひよった態度を見せる一方で、右派によるトークラジオやフォックス・ニュースなどが台頭していく。さらには富豪たちはメディア企業を所有しているケースも多い。

エスタブリッシュメントメディアがプロパガンダを真に受け、ティーパーティを自然発生的草の根運動であるかのようなピント外れの報道をしている中、右翼のビリオネアたちは様々な団体を通して「ダーク・マネー」をせっせと流し続けた。グレン・ベックは「ティーパーティのスーパースター」であった。フォックスにおいて「最大で年間100万ドルの報酬で、ベックはフリーダムワークスのスタッフが書いた「埋め込みコンテンツ」を読んだ。オンエアで話すことを、フリーダムワークスが指示し、ベックはそれが自分の意見であるかのようによどみなく語りに盛り込んだ。フリーダムワークスの公開された税務記録は、この手段を「宣伝費」に計上している」。

「フリーダムワークス」とはフィリップモリスのような大企業と、コーク兄弟と並んで本書の主要登場人物であるリチャード・メロン・スケイフなどのビリオネアが中心的に資金を提供し、「ティーパーティ運動の初期にもっとも大きな役割を果たした組織」である。
つまりフォックスのこの番組は事実上スポンサードを受けた宣伝コンテンツであったのだが、視聴者はそうとは気づかないままベックのような煽情的司会者に煽られていき、リベラルなメディアまでもが当時はそれに騙されていたのであった。


コーク兄弟をはじめとする右翼の大富豪とその関連団体の最大の強み、それは失敗から学ぶことだろう。オバマの当選ばかりか再選までをも許したように、彼らは連戦連勝であったのではない。失敗し、反省し、それを挽回していった歴史でもあった。草の根にアピールしようとする手法は民主党のそれから学んだものである。またティーパーティ運動などによって共和党から穏健派を駆逐し過激さが増し民心がついてきていないとみると、中道無党派の取り込みをも図る。コーク兄弟は黒人大学連合や米国刑事弁護士協会といった相容れないかに思える団体への多額の寄付を行うようになる。コーク兄弟は行き過ぎた厳罰主義など刑事司法への批判も開始するようになるが、もっともこれは人権を重視するものというよりは、自身や保有する企業が訴追の対象になるという危機感からのものであるようだ。こういった私的な実利を追及しつつ社会正義の皮をまとうのも彼らの得意とするところだ。

大学への寄付も右翼への紐付きに限らないものも開始する。リベラル派といっていい学者の中にまで、資金を出してもらえるのならコーク兄弟の金でも受け取るという者まで現れるようになる。こうして「慈善家」のイメージを振りまくことで、著者らの報道によりその実態が暴かれたことへのダメージコントロールを図っていることは明らかだ。

また、90年代以降は大統領選挙では民主党が優位であるにも関わらず、州知事、州議会は各地で共和党が圧倒的に優位となっている。これは知事選や地方議員選挙にも右翼ビリオネアたちが以前では考えられないほどの莫大な資金を投じていることも影響している。知事、州議会を抑えることで連邦下院の区割りに影響力を行使することができ、これが共和党の下院議会選挙の強さの要因の一つでもある。また判事が選挙で選ばれる地域もあるが、こういったものにも丹念に資金を流し込み、司法への浸透にも余念がない。こういった小さな選挙もおろそかにしない地に足の着いた戦術はリベラル派にとってボディーブローのようにきいているし、リベラル派に非があるとすれば、こういった本来得意であったはずの地道な活動で右派の独走を許したことだろう。


原著刊行は2016年1月だが、共和党をすっかり支配したかのようなコーク兄弟を公然と批判する人物として、党のアウトサイダーから大統領選に挑むドナルド・トランプに言及されているのは、トランプ当選後に読むとなんとも皮肉なものを感じる。まさかこの時点では、著者はトランプが大統領に上り詰めるとは思ってもいなかったことだろう。しかし今になって読むと、本書には不気味な予言ととれるような箇所がいくつもある。

一部にはトランプが共和党大統領候補となったことで党が割れると予想した人もいたが、結局共和党の一体感が失われることはなかった。コーク兄弟はさすがにトランプを全面支援することはなかったが、かといってトランプ大統領誕生の阻止にも動かなかった。これは彼らの行動が実利優先で「思想」に基づくものではないことの何よりの証拠であろう。そもそもが真のリバタリアンならば中絶や同性婚の禁止などを求め私的領域への介入を強める共和党を支持できるはずがない。ほとんどの党人や共和党支持者は、トランプが大統領候補に指名されると批判を手控えるだけでなく、熱量にいくらかの差はあれ支援にまわった。共和党とその支持者にとって何よりも大事なのはリベラル派に権力を渡さないことであり、そのためにならどのような人物とも平気で手を組むことができる。これこそが保守・右派の最大の「強み」だろう。

トランプの登場によって何かが変わったのではない。本書を読めばトランプは結果なのであって原因ではないことがわかる。トランプ登場以前から、共和党が得意としてきたキャンペーンは差別とデマであった。本書に描かれているように、凶悪な顔をした黒人がリベラル派のおかげで死刑を免れることができたと喜ぶイラストがダイレクトメールで大量に送付されたり(ちなみにここでやり玉にあげられた民主党の候補はリベラル派どころか死刑存置派の保守的な人物であったそうだ)、あるいはニューヨークの「グラウンド・ゼロ」の跡地にモスクが作られるだの、オバマケアによって「死の判定団」が設置されるだのといったデマが共和党やその支持団体から流された。差別を煽り、デマを流布するのが共和党に長年染みついたやり口であり、それについていくのが共和党支持者であるという状況はすでに生じていた。トランプはそこに乗じたのであって、それを生み出したのではない。

一方民主党にも、数や金額では劣るとはいえジョージ・ソロスをはじめとするビリオネアは何人かついている。しかし、オバマ対ロムニーの大統領選挙の際、ロムニーがハゲタカファンドの経営者であったことへのネガティブキャンペーンを打つと、ウォール街や大富豪に気を使ってこれを批判する政治家が民主党内部から出ることになる。共和党がリベラル派を権力から遠ざけるためなら手段を択ばずに団結するのに対し、民主党はむしろ金融規制や税制をはじめとするいくつかの論点で分裂に向かってしまう。むろん大富豪やウォール街はリスクヘッジとしてこのために民主党にも資金を流しておりその結果だとすることもできる。ちなみにこの時に投資家擁護に動いた有力者の一人がビル・クリントンであった。本書によればヒラリーはビルのこのような動きに不快感を抱いたそうだが、これも今となってはなんとも皮肉な話である。


トランプ大統領の誕生を白人労働者階級の怒りや彼らを自暴自棄の状態にまで追い詰めたリベラル派の欺瞞のせいにしたい人もいるが、これもまた右派によるプロパガンダの一環という面があることに注意が必要だ。トランプが選挙期間中から提示していた減税プランは富裕層に有利なものであったのは周知のとおりである。当選後はウォール街が泣いて喜ぶような政策を実行に移そうとしているが、これに騙されたと憤っているトランプ支持に転じた元民主党支持者がどれだけいるだろうか。確かに個別的に見れば元民主党支持者もいくらかは流れ込んだろうが、それは経済政策や労働政策、再分配政策によってリベラル派に失望させられたからというよりは、白人男性中心の権威主義的社会の復活に引き寄せられたという要素の方が強いだろう。本書ではさらっと触れてあるだけだが、敵失によってオバマが「圧勝」をおさめたはずの2012年の大統領選挙であるが、この時すでに白人と高齢者票は前回より減っていたのである。まさにこの中高年白人がトランプ支持のコアな層であることを考えれば、トランプ大統領を誕生させる下地はすでに2012年には表に露出し始めていたとも考えられる。

差別的傾向のある権威主義者、こういった人々に差別とデマを使ってアピールすることは、右派の得意中の得意とするところだ。トランプが大統領になると、その支離滅裂な経済政策にも関わらず株価は上昇した。ウォール街やビリオネアは、リベラル派を権力から遠ざけたことで誰が得をするのかをよく知っている。共和党の支持層は経済保守と文化保守から成るが、両者の間に政策における共通点はほとんどない。両者が共に抱いているのはリベラル派への嫌悪であり、経済保守は手っ取り早く動員できる文化保守を焚きつけるのに手段を選ばない。

本書には、数少ないまともなビリオネであるウォーレン・バフェットのこんな言葉が引用されている。「階級戦争はたしかにあるが、戦争を行っているのは、私の階級、つまり富裕層で、勝ちつづけている」。


というところで長くなったのでその2に続く。
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