『ジョニー・マー自伝  ザ・スミスとギターと僕の人生』

『ジョニー・マー自伝  ザ・スミスとギターと僕の人生』




若い母親は、5歳になろうとしている息子を連れて出かけると、いつもエミリーの店の前で止まらなくてはならなかった。息子がウィンドウ越しに見えるおもちゃの木のギターをじっと見つめて、しばらく動かなくなってしまうからだ。1968年の夏、この日の母親はいつもと違う行動に出る。息子を連れて店の中に入っていくと、エミリーに金を渡した。するとエミリーは棚からギターを取って、5歳の少年に渡してくれた。「僕が初めてギターを手にした瞬間だった。以来、どこへ行くにもギターを手放さなかった」。


ボブ・ディランに影響されてか、最近はミュージシャンの自伝も凝ったつくりのものが少なくないが、このジョニー・マーの自伝は生立ちから現在までがほぼ時系列順に語られていくオーソドックスな構成となっている。原著刊行時にいくつか書評を読んだが、なかには幾分厳しいものも含まれていたが、確かに文学的に洗練されたものというわけではないかもしれない。しかしその分スミスの、そしてジョニー・マーのキャリアに関心のある人は素直に入っていけるだろう。また、スミスは現代イギリス文化史を俯瞰するうえでも欠かせないバンドであるが、それのみにとどまらない現代イギリス社会・文化史といった面でもなかなか興味深く読める。

なお暴露本めいたものを期待していた人はよもやいないと思うが、基本的にはそういった面は意識的に避けられている。人物評でも何人かやや辛辣に評される人はいるが、過度に攻撃的にならないよう気を配られている。辛辣な人物評だらけのモリッシーの自伝についてはこちらを参照。


冒頭に置かれた初めてギターを手にしたエピソードに象徴されるように、母の存在なくして天才ギタリスト、ジョニー・マーの誕生はなかったかもしれない。
両親は共にアイルランドからの移民で、貧しい労働者階級であった。長男のジョニーを産んだとき、母はまだ18歳だった。11か月差で生まれた妹とは双子のような関係になり、その後少し年の離れた弟が生まれることになる。両親は大の音楽好きで、母は欲しいレコードが近所のレコード屋にないと3マイルも歩いて別のレコード屋まで行き、閉店しかけていた店を開けてもらってお目当てのレコードを買うほどだった。トップ20を予想して実際のチャートと比べるということもしていた母親を持てば、息子がラジオの音楽番組に夢中になったのは当然とすべきだろう。息子がラジオやテレビの音楽番組に集中するのは母としてもありがたかった。音楽が子守役を務めてくれて、家事をするときにわずらはされずに済んだからだ。

ジョニーがなによりも耳をそばだてたのはギターだった。そして本格的に音楽をやろうと思ったら、このおもちゃの木のギターではだめだと思うようになる。エレキ・ギター風に改造するだけでなく、電気店に行くとアンプの前から動かなくなった。ギターの虜になった息子を、「この子はちょっと変わっているのかもしれない」と母も思うようになった。

学校や病院でMaherという苗字は「マーハー」だの「メイヤー」だのと読まれ、正しく発音されることはほとんどなかった。マーク・ボランがMarkのスペルをMarcに変えたことを知ると、自分もMarrというスペルにしようと思い、この後、スミスのデビュー時に正式に改名することになる。ジョニーがはじめて自分で買ったレコードはTレックスの「ジープスター」だった。ギターの音色、そしてマーク・ボランのファッションにも魅了される。

この頃にはまともなギターも買ってもらっていて、レコードを聴いては、その全てをギター一本で再現しようと練習を重ねた。四六時中居間でやられたのではかなわないと、ついに自分専用のレコードプレイヤーが買い与えられる。こうしてジョニーはますますギターにのめり込んでいった。

時代はグラムロックからパンクへと移り始めていた。セックス・ピストルズの初のマンチェスターでのライヴに行くことはできなかったが、その噂は伝わってきたし、マンチェスター出身のバズコックスが前座を務めたことは大いに刺激にもなった。様々な音楽を聴きまくり、パティ・スミスに夢中になり、ニューヨークのシーンにも通じるようになった。14歳のときにあったパティのマンチェスターのライヴにはもちろん行った。そこで友人から、以前にも見かけたことのあったスティーヴン・モリッシーという男を紹介されるが、その時は軽い挨拶程度で終わった。


それにしてもこの頃のマンチェスターというのは凄まじい街であったと改めて思う。十代半ばには、後にジョニーも加わるザ・ザを作るマット・ジョンソンをはじめ、プロとして活躍することになるミュージシャンと何人も知り合っている。同い年のイアン・ブラウンの名前もすでに聞いていた。ジョニーがグラマー・スクールを中退して服屋で働き始めるとバイヤー兼カリスマ店員のような存在になるが、この頃にはトニー・ウィルソンにも目をつけられていて、あの手この手でファクトリーに勧誘されており、計画段階のハシエンダの設計図を見せてもらったりもしていた。もちろんマンチェスターは小さな街ではないので、誰もが誰も知り合いであったというのではなく、ジョニーのギターの腕前が広く知れ渡り、ファッションセンスも注目されていたからこそであったのだろう。

年上の知人たちのバンドに加わっていると、エルヴィス・コステロのマネージャーから連絡があり、ニック・ロウの自宅兼スタジオでデモを録らないかと持ちかけられる。デモを録ったがそれっきりになってしまったものの、ショックはなかった。ジョニーはわかっていた。次に作るバンドは自分がリーダーになって、ギターを弾き曲を書くのだということが。そのために、フロントマンとなるシンガーを見つける必要があった。

ジョー・モスは早くからジョニーの才能を認め、彼を支援してくれて、後にマネージャーにもなってもらった。本書がジョーの死で締めくくられていることからも、ジョニーにとってその存在の大きさがわかる。ジョーの家で「サウス・バンク・ショウ」のビデオを観ていると、「ここを観ろよ」とジョーに言われる。「それはジェリー・リーバーがマイク・ストーラーとの出会いを語るシーンだ。未来のパートナーのことを彼は知らなかったが、曲を書くことができるやつだと噂を聞き、どこに住んでいるかを突き止め、家のドアをノックしたという」。

「これだ!と僕は思った」。ジョニーは知人にモリッシーの住所を知らないかと聞いた。その知人は知らなかったが、ポミーというやつなら知っていると教えられた。ポミーの家に行くとモリッシーの住所を教えてくれた。「僕にはわかったのだ。今作ろうとしているバンドが特別なものになるであろうことが」。ポミーにいつ行くのかと聞かれたので、今からだと答えた。どこかわかるのかと聞かれたので、わからないと答えた。人が良く誰からも好かれているポミーは、それなら一緒に行ってやるよと言った。

「それは本当によく晴れた日だった。早くも夏が訪れたかのようで、サウス・マンチェスター郊外を歩きながら、僕らは舗道に落ちる長い影と一緒だった」。10分ほど歩いて、赤レンガの2軒が連なったセミデタッチメントの家に着いた。門を開けドアをノックすると、愛想のいいブロンドの若い女性が出てきた。スティーヴンはいるかと尋ねると、呼んでくると言って、しばらくすると若い男が降りてきた。
「僕が驚かされたのはその声だった。とても柔らかく、穏やかな話し声だ。予想もしない2人の来客にちょっと戸惑った風だったが、彼は礼儀正しく僕に言った。/「やあ、初めまして」」。

バンドを作るのだが歌に興味はないかと言うと、「中に入れよ」と言った。「見ず知らずの他人から玄関でバンドに入らないかと誘われたわりには、驚くほど落ち着いた声だ。良い感触だ」。
二人は音楽の話を始めると止まらなくなった。「たちまち互いを理解し、共鳴し合えた気がした」。ポミーはこの間一言喋らなかったが、二人の間に特別な何かが起こっていることがわかって、ずっと笑顔だった。帰り際にモリッシーはタイプした紙を何枚か渡した。ジョニーは曲だろうと思う。ジョニーが働いているXクローズに電話をしてくれと伝えた。「もし明日、彼が電話をかけてきてくれたならこのバンドはいよいよだ」と思った。翌日の正午に電話は鳴った。

こうしてモリッシー-マーのソングライティングチームができる。曲を作るようになっていたある日、モリッシーの家から帰ろうと二人で舗道に出ると、モリッシーは白い小さなカードを差し出した。そこには青いボールペンで、「ザ・スミス・ファミリー」、「ザ・スミス」、「ザ・ウォーキング・ウンデッド」と書かれていた。「気に入る名前があるのかないのか自分でもよくわからなかったので答えに一瞬ためらったが、<ザ・スミス>を指差した。これが一番嫌いじゃない。「オーケー、それなら」とモリッシーは言うと、微笑みながらこくりと頷いた。「ザ・スミスで」」。

「まるでスミス一家みたいだな、と思ったが、そのシンプルさは好きだったし、もう数分考えていたら最高の名前に思えてきた。ザ・スミス、しっくりくるじゃないか。ザ・スミスで決まりだ」。


デモを作るようになると、モリッシーはトニー・ウィルソンの元にそれを持って行った。「のちにトニーは、チャンスはあったが、スミスとの契約を自分が蹴ったと言いふら」すことになるが、そもそもスミスの側にはファクトリーと契約する気はなかった。目指していたのはラフ・トレードとの契約で、「ファクトリーでは絶対ない。僕はそう信じていた」。
トニーはデモを聴いて、スミスは「特別だと思った」と言ったが、こうも付け加えた。「プレス受けも良いはずだ。だって君のシンガーは元ジャーナリストだからね」。これを批判だと感じたジョニーは、「彼に何かを言われた時にいつも言うやつを言ってやった」。「失せろよ、トニー」。

ジョニーはモリッシーと組むと、「いろんなやつらから、僕の新しいパートナーは昔から友達が1人もいない隠者のような男だと聞かされた」。しかしすでに書いたように、モリッシーにだって友達はいたのである。とはいえ、「隠者のよう」(というか引きこもり気味)ではあったようだ。ジョニーが後に妻となるアンジーの家でアコースティック・ギターをつま弾いていると、あるリフが浮かんできた。しかしアンジーの家には録音機材がなかった。アンジーに車を出してもらってモリッシーの家に向かうことにし、ジョニーは忘れないようにギターを弾き続けた。するとアンジーが「イギーみたいにしてよ」と言い出した。「頼むというよりは、しなさいよ、と命令するような口ぶりで」。「『ロウ・パワー』の曲にありそうなオープン・コードのリフに変えてみた。するとものの数秒ですごく良くなった気がした」。モリッシーの家に着くと、「まさか今日に限ってめったに外出しないモリッシーが外出中だなんてことがありませんように」と祈った。もちろん(?)、モリッシーは家にいた。この時できたのが「ハンド・イン・グローヴ」であった。




と引用し始めたらキリがないエピソードの数々が語られていくことになる。

前述の通り、本書はまたイギリス現代社会・文化史としても興味深く読める。60年代から70年代にかけて、音楽やファッションもめまぐるしく変化していったが、イギリス社会、とりわけ労働者階級をとりまく環境も大きく変わることになる。

父親はガス管設備の仕事をしていた。ジョニーが14歳の時、父がリヴァプールで1週間の仕事に付き合う気はないかと聞いてきた。無口な父親は音楽とファッションに夢中になっている息子と正面から語り合うことはなくなっていたが、ジョン・レノンが通っていたクオリー・バンク高校近くが現場だったことから、興味を持つかもしれないと思ったようだ。「どうかしている」と思ったが、しつこく言ってくるし、バイト代も欲しかったのでやることにした。朝の5時半に起こされ、1時間かけて現場に着いた。父親は「先が見えるか」と言った。「これからあの先まで掘る。先までずっとだ。そして金曜日にはここに俺たちがいたことすら、誰も気づかんだろう」。「僕はもう一度、父が指す先の道を見た。それは長く続く道だった」。

きつい仕事でくたくたになったが、なんとか1週間働き、125ポンドを手にした。「体を張って得た金だ。これを父は毎日やってきたのだ。そのことが何よりも僕を感心させた」。父は息子にこのことを伝えたかったのであろうが、時代はサッチャー政権誕生へと向かっていた。ジョニーがバイトを始めた店の店長はその名もマギーといい、ひたすら従業員をいびり、職場環境は最悪であったが、これはサッチャー政権下で労働者がいかなる目に合うことになるのかの予兆のようにも思えてしまう。

一族の結びつきは深く、近隣に住んでいた親戚一同は助けあっていた。しかしインナーシティから引っ越すと、徐々にその結びつきも薄れていった。引っ越しは悪いことばかりではなかった。それまで金盥にお湯をためて風呂代わりにしていたのだが、新しい家には風呂があった。

もちろんかつてのコミュニティが理想的であったのではない。ジョニー自身も理由のない暴力の被害に合ったこともあった。しかし、新しい家の周辺はイギリス人、東洋系、ジャマイカ移民、アイルランド移民の混在する人種のるつぼであったことは以前と同様であったものの、差別と暴力は激しくなっていった。友人の家にいると、その母親が「アイリッシュの豚どもめ」と吐き捨てたのを耳にして衝撃を受ける。それまでも子ども同士でそのように罵り合うことはあったが、大人からそう呼ばれたのは初めてのことだった。

「労働者階級の人間はファッションにこだわる。なぜなら服装は自分自身、そしてなりたい自分の表現手段だからだ」。こう語るジョニーはイレブンプラスに合格し、グラマー・スクールに通うことになる。しかし新たに着ることになった制服は、「パジャマ・ボーイズ」と揶揄されるようなものであった。ジョニーは制服に手を加えて、垢抜けて見えるように工夫した。グラマー・スクールに通えるというのは成績優秀者の証であり、それは「特権」であったはずだ。しかしジョニーはここになじむことはできなかった。ここではじめて中流階級や上流階級の子どもと一緒になったが、「特権意識はともすると人を小心者にする」ということがわかった。

また時代の変化を表すのにこんなエピソードもある。トニーという友人ができた。美形であった彼は、自分がゲイであることを隠さなかった。「ゲイといっても女っぽいわけでなく、辛辣で、穏やかで冷静沈着。だからなのか、どことなく猫のような身のこなし、計り知れなさを備えていた。同性からは怖がられていたが、僕が知る女性ほとんどが彼に恋していたか、または彼のようになりたいと思っていた」。

トニーとよく一緒にいたことでいろいろと噂をたてられたが、気にしなかった。二人で一緒にいたとき、「お嬢ちゃんたちはホモなのかな?」と絡んできた二人連れの男がいた。男たちは明らかに喧嘩がしたくて挑発してきたのだ。トニーは無視をしていたが、「ホモ野郎」と相手が小突いてくると、まずジョニーを引き寄せて唇にキスし、振り返って男どもにパンチを食らわせた。トニーは「あのキスは良かった」と言うと、笑って「心配するなって。もうしないよ」と付け加えた。

労働者階級というとマッチョなイメージであるし、それはホモフォビアとも結びついてしまうという先入観を持たれがちであるが、必ずしもそうとは限らないエピソードだろう。ジョニーがマーク・ボランのファンであったように、デヴィッド・ボウイなどが人気を博すことで若者に中性的なファッションが広がっていったことも貢献したであろうし、スミスのファッションやそのイメージもこれに連なるものでもある。もちろんスキン・ヘッズのような方向へ行ってしまう人もおり、若年層の労働者階級の全てがそうだったというのではないが。

文学や芸術などいくつか関心を持てるものもありつつジョニーが結局学校を中退するのは、ギタリストとして食べていくという決意の表れでもあるが、同時にシリトーの『長距離走者の孤独』にも通じる反抗心でもあっただろう。

このように労働者階級出身であることに誇りを持っているジョニーにとって、「突然、マンチェスター最貧困地域出身者のふりをし、ほとんど学校にも通えず、青少年犯罪収容所に入れられていた身の上話をすることが、世界で最もヒップなこと」になった「マッドチェスター」ブームには複雑な思いにさせられることになる。

「インナーシティ出身者として、僕は多くの労働者階級の<高い志>をこの目で見てきた。なのに突然、機会に恵まれなかったことを名誉の勲章か何かみたく、誇らし気に胸につけて歩きまわる輩が出てきたのだ。そんなのは事実を履き違えているし、時代の退行だ。しばらくの間はマンチェスターにスポットライトが当たるだろうが、一生かけて勝ち取ろうとしてきたもの、すなわち自尊心、より良い自分であろうと自らを律することで手に入れた勝利を手放し、すべての価値を落とすだけだ」としている。

自らを「政治好き」だとするジョニーは当然ながら左翼的になっていく。サッチャー政権の誕生には、「国民を見くびったようなこの女性を指導者に選ぶほど、この国は集団思考が停止しているのかと思わざるを得なかった」と切り捨てている。しかしサッチャー政権が誕生するとすぐに、「僕の育ったコミュニティ内にも変化が起こり始めていた」。失業する家族が増えると、「不安が人の心を支配するようになった」。

「彼女は巨大なエゴの持主で、その政治哲学は人間が持つ最も負の性質に頼るものだった。人間は困難な状況に置かれた途端、自分の利権を守るため、互いに背を向けるようになる。彼女と保守党が打ち出したのは、人々の恐怖や欲望、他人への無関心に頼る非常にシニカルな未来像だ」。

ジョニーは助成金を得るためにウィゼンショウ・カレッジに一時入学し、英語と美術と演劇のクラスに登録した。「生徒というキャリアは長続きしなかった」が、学生会館で学び、組合の会合に参加したことは大いに刺激になった。トニー・ベンの本は「僕を啓発し、正しい道に導いてくれた」。

「ザ・スミスは政治的なバンドだった。マーガレット・サッチャーが手順通りの冷酷な手段で国内の産業及びコミュニティの解体に取り組んでいたことは、僕ら新世代のアーティストたちを一致団結させ、戦うべき敵を作った」。

グラストンベリー・フェスティヴァルからのオファーがあった時、当初は「フェスティヴァルはヒッピー時代の遺物」であるように思えて消極的であったが、「核兵器禁止運動との連携という意味でも出る意義がある」と説得される。ステージ上にファンが上がるスミスおなじみの光景が初めて見られたのはこのグラストンベリーでのことだった。もっともこれはセキュリティからしたらたまったものではなく、恨みを買うことになった。スミスはこの2週間前にはビリー・ブラッグに賛同し、ケン・リヴィングストンが議長を務める「グレーター・ロンドン・カウンシル」を支援するための「ジョブズ・フォー・チェンジ」という野外コンサートに出演していた。この時にちょっとしたトラブルに巻き込まれており、グラストンベリーでセキュリティから睨まれるだけでなくその復讐にも合うことになる。




スミスの人気絶頂時に、ビリー・ブラッグが始めた労働党を支援する「レッド・ウェッジ」に参加することになる。「僕個人の意見としては、もしオルタナティヴなミュージシャンを名乗るのなら、当然、その人間はアンチ保守派であるべきだ。当時、そのことをバンド同士であからさまに話し合ったことはなかったが、現政権が僕らの共通の敵だという認識は共通していたと思う」。

当初は音楽的な理由からバンドとしては参加せずジョニーがビリーのステージに参加するだけであったが、マンチェスターでレッド・ウェッジが行われると、誰からともなくバンド全員で出ようとなった。会場に向かったが急遽のことで、舞台監督からはローディはどこだ、突然そんなことを言い出して機材はどうするんだと睨まれたが、ポール・ウェラーが自分の機材を貸すと申し出てくれた。次のシングルであった「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」を始めて披露したのはこの時だった。イントロをかき鳴らしながら、「世界がこれを聴くのは今が初めてなのだ」と思った。「その時のモリッシーの素晴らしさと言ったら、これまで僕が彼を見てきた中で一番だった」。






リヴィングストンにも、当時の労働党党首キノックにもいささかげんなりさせられ、政治家というのはこういうものだというのを思い知らされるのであるが、それでも政治から離れたのではない。ソロになって数多くのインタビューを受けるようになると、「いかに僕が政治的なアーティストだと思われていたか」に気づかされる。「それは裏を返せば、今日のミュージシャンに政治的、社会的発言をする者が少ないことの証だろう」。

「サッチャー政権下のイギリスで成人を迎え、その後を見続けてきた僕には、結局どんな時も権力は特権階級の味方で、特権階級を守るための不平等を維持するため、社会の弱者は永遠に劣等に置かれるよう仕組まれているとしか思えない。その思いは年々強まるばかりだ。しかしそれを偉そうに演説ぶるつもりはない。政治理念を持つものは常に誰かを批判したいのだろうと決めつけられるが、労働者階級出身で、社会の不平等をどう思うか?と聞かれれば、意見の1つや2つ持っているのが当然だろう。そして体制を揶揄できるのがミュージシャンの特権だ。そうでなかったら何の意味がある?」

かつてロック・スターになるというのは、たとえほんのわずかな可能性であっても、労働者階級出身者にとっては数少ない成り上がりの手段であったが、近年はミュージシャンを目指すのは(あるいは目指せるのは)中流階級出身者ばかりになってしまったということが指摘されるが、政治に対する意識の齟齬はこのあたりの理由もあるのかもしれない。


政治といえば、当時の首相キャメロンがスミスが好きだと言ったことに対しジョニーが、「スミスが好きだと発言するのをやめろ。好きでも何でもないだろ。君が好きだというのを僕が禁止する」とツイートしたことは話題を集めたが、このエピソードにも触れられている。フォローワー数が一日で三倍になるなど、このツイートは支持と注目を集めたが、保守派は当然ながらこれに反発をした。

「ソーシャル・メディアが映し出す社会の負の側面や人間の攻撃性を目の当たりにするのは、実に興味深かった」と振り返っている。次に何を呟くべきか、娘を学校に送る車の中で考えて、いいネタを思いつくと二人で腹を抱えて笑った。ジョニーが「また誰かが何か言ってくるよ」と実際に投稿するのをためらっていると、娘はさらに一言二言付け加えてさらに笑えるものにして、父親に投稿させたのであった。


最後にスミス以外のエピソードからいくつか。

バーナード・サムナーとエレクトロニックをやっていた頃、ジョニーがハシエンダに車で乗り付けると、見覚えのあるギャングに付きまとわれ、怪しげな仕事の話を持ちかけられた。下手に答えて言質を取られたら大変だとなんとかごまかしてその場を逃れる。バーニーの耳にも入れておかねばとこの話をすると、バーニーは「ちゃんとした話じゃないか。やるべきだったかもしれないよ」と、「真顔で」言ったのだった。

そんなヤバい仕事を平気でやろうとしたりするからファクトリーは潰れちゃうんだよ、バーニー! バーニーはこの他にも本書に爆笑エピソードを提供してくれている。そういえばバーニーの自伝もまだ読んでないな……







息子のナイルがまだ小さかった頃、ラジオからよく流れてきたラーズの「ゼア・シ・ゴーズ」が大のお気に入りになった。ジョニーの自宅兼スタジオでリー・メイヴァースとセッションをしていると、何かやっていることに気付いたナイルがスタジオに顔を出した。ジョニーが「ナイル、お前の好きな曲は何だっけ?」と言うと、目の前にいるのが誰かも知らずにナイルは、「当然の事だと言わんばかりに」、「ゼア・シー・ゴーズ」だと答えた。
「するとリーは立ち上がり、〝ゼア・シー・ゴーズ〟を丸々1曲、熱唱したのだ。まるで2万人の客を前にするかのように」。
リー・メイヴァースも一瞬だけ復活しかけたかと思ったのだけど……







ジョニーのスタジオは弟のイアンが管理していた。当然ながらイアンのもとには兄貴に聴かせてくれと大量のデモ・テープが届いた。多くの場合イアンは「都合よく忘れた」。
イアンの友人が新しくバンドを作り、それが「なかなか良かった」とイアンが言った。イアンが「なかなか良かった」というのは「すごく良かった」という意味である。そしてそのバンドのテープを渡されたが、ジョニーは聞かずにそのままにしていた。

雨の降るある日、イアンと車に乗っていた。「ダッフルコートの背中を丸めて歩く男」の横を通り過ぎると、「今の、ノエルだ」とイアンが言った。ノエル? と聞き返すと、前にテープを渡したやつだという。

二人はノエルを拾ってお茶をしたが、ジョニーはさすがにテープを聴いていないとは言えなくて、1曲だけしか入っていないということはなかろうと「最初の曲がすごく良かったよ」と言った。ノエルと話していると、「頭が切れ、どこか不可思議なところもあったが、やっていることへの情熱と曲作りに対する真摯な態度は本物だ」と感じ、彼に好感を持った。帰宅後テープを聴いてみると、そこから流れてきたのは「新しいのに聴いた瞬間、聴き覚えがあるサウンド。良い意味でだ」、だった。

ノエルにバンドが気に入ったことを伝え、ライヴをやるなら見に行くと約束した。ザ・ヴァーヴのライヴを一緒に見に行くことになり、ノエルの家で待ち合わせをしたが、そこには「驚くべきヘアカットの若者」がいた。部屋には巨大な水槽があり、ジョニーが中を覗きこんで「あのブルーのやつ、あれは?」と訊くと、「ミスター・ヘアカット」は「そんなもの魚に決まってんだろ」と言った。「確かに。僕は思った。そのふてぶてしい態度、非常によろしい」。

その後ノエルは「マンチェスターの学生会館に行き、ギグをやらせてくれ、さもなければここに放火してやるぞと押しまくり、何とかギグの開催を取り付けた」。約束通りジョニーが見に行くと、客は12人ほどしかいなかった。ステージにはあのミスター・ヘアカットもいた。「ハッピー・マンデーズのベズのようなダンサーなのだろう」と思ったら、イアンが横から「あれがリアム。シンガーだ」と言った。「もし、あいつが自分で思ってる見た目の半分でも歌がうまかったなら、これは面白いことになるぞ」と感じた。そしてオアシスは「耳をつんざくような」音で、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」を始めたのであった。



やはりマンチェスター、恐るべし。


モリッシー自伝

Morrissey  Autobiography






発売してすぐに買ってはいたものの、モリッシーの自伝だけにすぐに邦訳が出るだろうからそちらを読めばいいかと本棚の肥しにしていたのだが、まさかの(いや、まさかでもないのかもしれないが)モリッシー当人が翻訳拒否! モリッシーは翻訳を拒否した理由を明らかにしていないが、翻訳の質を心配したのではないかという関係者のコメントがあり、そんなに難解なのかと恐る恐る読み始めた。

冒頭のマンチェスターの描写は散文詩めいているし、音を優先させて韻を踏みたがったり、回想なのに多くが現在形で綴られ、パートごとにかなりトーンが異なるといった具合に、いざ訳すとなると確かに大変かなという感じではある。ただ多少前後することはあっても基本的には時系列順に語られているので、モリッシーやスミスについて予備知識がそれなりにある人は意味を大掴みする分には困難を極めるというほどではないだろう。

ジョニー・マーの自伝も併せて読んだので、そちらについてはこちらを参照。


頭が大きすぎて生まれる時にあやうく母親を殺しかけたうえに、当の子どもも胃や喉に問題を抱えていて長期入院することになり、両親は覚悟するようにと言われていた。ようやく退院となるが、二歳年上の姉はライバル登場におののいたのか、帰りの車で弟を殺そうとするのであった……といった出生のエピソードはこの赤ん坊のその後の運命を考えると、なんともモリッシーらしくも思えてしまう。

モリッシーは当然ながら学校や教師に対して強い拒絶感と嫌悪感を抱くことになり、この自伝でも怒りをぶちまけている。確かに当時は体罰が認められており、教師は権威主義によって子どもたちを型にはめ縛りつけようとするなど、現在から見れば随分ひどい環境にあったものだと感じるが、同時に学校によってモリッシーはモリッシーになっていったというよりも、モリッシーはモリッシーであったがゆえに学校に適応できなかったようにも思えてくる。モリッシーはポップ・ミュージックとテレビに耽溺する幼少期を送ることになる。

とはいえ、時代は1959年生まれのモリッシーの味方であったのかもしれない。「ロックがツェッペリン的マッチョだった時代」はデヴィッド・ボウイらの登場で過去のものになろうとしていた。何よりもモリッシーが夢中になったのがTレックスで、初めて行ったライヴもTレックスのものだった。このしばらく後にマーク・ボランに出会ったモリッシーはこわごわとサインをねだるがあっさりと断られる。けっ!お高くとまりやがって、などとは思わず、難しい状況にあったボランに迷惑をかけてしまったのかもと気に病むのであった。さらに時は流れ90年代にフェスでボブ・ディランと一緒になるが、写真一緒にいいですか、と頼みたかったものの断られたらどうしようと尻込みしてしまうことになる。このあたりもまたモリッシーらしさか。

モリッシーにとって決定的だったのがニューヨーク・ドールズとの出会いだ。ここでのドールズやパティ・スミスなど70年代中盤の音楽シーンへの熱い語りはかつての音楽ライター、モリッシーがいかなる姿であったのかがよくわかるものとなっている。

モリッシーが13歳だった時、甥が学校になじめないことを知ってか知らずか、叔母は「無垢にも」学校を辞めて肉屋(!)で働かないかと言ったことがあった。「よりにもよってなんで肉屋で働かなくっちゃいけないんだ」とモリッシーは思うが、勉強に身の入らない労働者階級の子どもとして、そう遠からず仕事の問題に直面することは避けられなかった。

モリッシーは母の援助で親戚が住むアメリカへ長期旅行へ行ったが、そこで借りたお金を返すためにも仕事を探さねばならなくなった。レコード屋で働き始めたはいいが、クレジットカードを出されてもそれが何かすらわからず、小切手を渡されても処置に窮した。一事が万事この調子で、モリッシーはモリッシーですぐに「こんなの無理!」となるし、雇う側は「使えない奴!」となって、仕事を転々とする。税務署で事務の仕事に就くが、Gabba Gabba Hey Tシャツを着て出勤すると、「なめんとかこら! 辞めようたってお前のような奴には失業保険なんぞやらんからな、運河の掃除でもしてやがれ」(意訳)と言われてしまう。

これならできるかも、と郵便局の仕事に申し込みに行くが、「肉体的にも精神的にも郵便配達に不可」とされ断られ、「もう死ぬしか逃れる術はない」と思いつめるようになる(もっとも、当人も自分の足の速さに触れているように運動神経はいいはずなのに、肉体的にも不可とされたのはやはりやる気がなかっただけなのでは、という気もしなくはないが)。病院では制服をクリーニングに出せるようにするためにこびりついた人間の内臓などを洗い落とすという仕事に就くが、これも数週間しかもたなかった。「忍耐力を試す科学の実験台にされているのか、あるいは神の悪ふざけか」、「僕は宗教によって生きることを禁じられているんだ」。

モリッシーの十代後半は確かに本人からしたらみじめなものだったろう。しかし、「ユーヴ・ゴット・エヴリシング・ナウ」で、「僕は職に就いたことがない そうしようと思ったこともないからね」と唄ったように、その歌詞のイメージからモリッシーは引きこもり状態だったと思っている人もいるが、そうではなかった。働こうとしたし、すぐに辞めてしまうとはいえ働いてもいた。さらにはライヴ会場でよく顔を合わせていたイアン・カーティスとは何度か電話でやりとりしたことがあったとしているように、音楽などを通じて友だちだって少なくなかった。そればかりか、恋人と呼んでも構わないであろう存在までいたのである。モリッシーはこの自伝で、直接には言わないものの、自身のセクシャリティについて誤解のしようのない仕方で語っている。






「もう他人がやっているのを見るのはたくさんだ、自分ならもっとうまくできるはずだ」、そう思うようになったモリッシーは、ヴァージン・レコードでギタリストだというビリー・ダフィという人物が掲示板に貼っていたカードに「僕はシンガーだ」と返事を書き、二人はそのままバンドを組むことになる。

初めてのライヴでマイクの前に立ったモリッシーは、「今まで他人が僕に命令してきたのに逆らって、僕は歌う!」、「他人からのお前はこういう人間だという決めつけは捨て去った、そんなのもうどうでもいい。僕は自分自身の真実を歌うんだ。もしかしたらそれは他の人にとっても真実であるかもしれない」、そう思って歌い始める。

ライヴはNMEにレヴューが載るなど順調かと思われたが、ビリーは他のバンドに移ることを決める。その代りに、「俺よりギターのうまいジョニー・マーって奴がいるんだけど」と言った。検討してみる価値はありそうだが、「あいにくと僕は他人の家の窓をノックしたりするようなタイプの人間ではない。でもジョニーはそういうタイプだった」。ビリーもジョニーにモリッシーのことを伝えていた。

このあたりの経緯についてはモリッシーとジョニーとではいささか異なっているが、人間の記憶というのは当てにならないことに加え、二人の複雑な関係がさらにありのままを語ることを難しくさせているというのもあるのだろう。

二人の「初めて」の出会いについてジョニーが自伝で微に入り細にわたって描写しているのに対し、モリッシーは少々そっけない。というのは、このせいかもしれない。
「僕たち前に会っているんだよね、でも覚えてないみたいで良かったよ」とジョニーは言った。
「あぁ、で も 僕 は 覚 え て い る ん だ よ」
共通の知人が多かった二人は以前にパティ・スミスのライヴで顔を会わせていた。その時ジョニーはこう言ったのだった。「君って変な声してるね」。そりゃ忘れないよね!


ついにザ・スミスが結成されることになる。スミス時代について、モリッシーは所属レーベルのラフ・トレードへの不満をぶちまけ、「ザ・クイーン・イズ・デッド」をはじめ物議をかもしそうな曲のオンエアを避けるなどしたマス・メディアの腰抜けっぷりを徹底的にこき下ろしている。ちなみに、アルバム『ザ・スミス』の日本盤にサンディ・ショウバージョンの「ハンド・イン・グローブ」が収録されたことを見つけたときには「盛大にゲロ吐いたね」、「もうムカつきすぎていっそのこと俺を殺してくれって思ったよ」としている(これが理由で邦訳を拒んでいる、というわけではないだろうけど)。





アルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』についてはジョニーは親がひっくり返るかもしれないんで「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」にタイトルを差し替えてくれないかと言ってきたとしている。また「ゼア・イズ・ア・ライト」は当初モリッシーは「その価値を計り損ねて」アルバムから外そうと提案したが、ジョニーは笑って何バカなこと言っているんだよと一蹴して収録されることになった。「スミスの聖典の中でも最も愛されるパワフルな曲の一つであり続けていることを思うと、なんとも恥ずかしい」と振り返っている。




スミスの解散によって「僕たちは最後のイノセンスを失った」としているが、注目すべきはことスミス時代となると、ジョニーはもちろんマイク・ジョイスやアンディ・ルークにもそれほど否定的な評価をしていないことだろう。ジョニーがトーキング・ヘッズのアルバムに参加することが分かったとき、モリッシーは「僕はモノガミー[単婚]、彼はポリガミー[複婚]」だったとしている。ここで結婚の比喩を持ち出しているように、モリッシーにとってジョニー、そしてスミスは夫婦であり家族であったのだろう。

スミス再結成についてジョニーの立場は、おそらくはぜひともやりたいわけでもなければ断固拒否というわけでもなく、タイミングが合えばやってもいいよ、といったあたりだろう。でも、タイミングが合ったから数カ月家族をやってみるなんてことがあるだろうか。全身全霊を挙げて、操を捧げてくれるのでない限り再結成なんてあり得ない、モリッシーからするとそう思えるのかもしれない。

ジョニーは自伝で、アンディのドラッグ問題で一時的にスミスに加入したクレイグ・ギャノンについて、彼がバンドに貢献する意思を持たなかったとモリッシー同様にやはり厳しいことを書いている。しかしまた、彼の側から見た事情にも配慮をし、一方的に切り捨てることはしていない。それと比べるとモリッシーの筆致の冷淡さが目立つ。モリッシーにとってギャノンは「家族」への闖入者と見えたのかもしれないし、彼がその「家族」への忠誠心を持たなかったことを許容できるはずもなかったということなのだろう。

個人的にはライヴアルバム『ランク』で聴くことができる、ギター二本体制のアグレッシブなスミスも好きなもので、そう意固地にならずにあくまでサポートメンバーと割り切ればいいではないかとも思ってしまうのだが、そうは思えないところがまたスミスというバンドでもある。





この自伝ではスミス解散までで約半分、以降ソロ時代に入るのだが、後半では多量の紙数を費やしてマイクが起こした訴訟について感情的に語られている。あのスミスのメンバー同士がよりにもよってカネをめぐって泥沼の訴訟沙汰に突入というのはメディアから面白おかしく書き立てられ、モリッシーの順調だったソロキャリアを深く傷つけたとすることもできるうえにアメリカ移住の遠因でもあるので大きく取り上げることは当然だろうし、ジョニーもこれについてはかなり詳しく触れている。しかしそれにしても、あまりに腹立たしかったことはわかるものの、あまりに延々とこの話題が続くもので、読んでいて正直「もうこの辺でいいんじゃないですか」という気分になってきてしまった。

この訴訟というのは、スミスの収入の80パーセントをモリッシー-マーが取り、残りの10パーセントずつをジョイスとルークが取るということの妥当性を争ったものであった。つまりジョイス-ルーク組対モリッシー-マー組の訴訟のはずが、モリッシーは次第にジョニーに対しても不信感を強め、あたかも三対一であるかのように思えていくというのはいささかパラノイアめいている印象も否めない(法廷でジョニーとマイクが互いにニヤリとしたのを俺はこの目で見たぞ、と書いているのだが、隣り合ったときに笑みを交わしたのが陰謀の証拠だとされても。本当に共謀しているのならむしろそんなことしないでしょうに)。

アンディは訴訟から早々に脱落するように、二人が本気で不当だと思っていたというよりもカネの臭いを嗅ぎつけた悪徳弁護士に焚きつけられたせいだとするのはまあそうだとも思うが、あいつらパブリック・スクールに行ってるじゃねーか、俺が一番学歴ねえんだよ、というのは、あいつらは資本家側の魔の手に落ちてプチブル化した、労働者階級の自分とは別世界に行ってしまったのだと言いたいのだろうが、さすがに飛躍のし過ぎのような。

家族というのは一度こじれるとかえって家族であるがゆえに修復が難しくなるのであるが、モリッシーのこの執拗さというのはそれだけスミスに対する思い入れのなせる業なのかもしれない。

90年代前半にはモリッシーはNMEからレイシストだと攻撃を浴びることになる。自分たちはユニオン・ジャックを全面に出しながら人のことをファシスト呼ばわりするNMEの欺瞞をモリッシーは逆に非難し返すのであるが、モリッシーが何よりも傷ついたのは、このバッシングの最中に元スミスのメンバーが誰ひとりとして彼の擁護に立ち上がってくれなかったことであるかのようにも読める。苦しい時こそ支えてくれるのが「家族」なんじゃないのか、という声が聞こえてきそうだ。


モリッシーへのレイシスト疑惑はスミス時代にさかのぼる。「パニック」は、チェルノブイリ事故の一報の直後に能天気にもワム!をかけたラジオDJへの怒りから作られたものであるが、「DJを吊るせ」という歌詞がDJがブラック・ミュージックをかけるディスコなどへの攻撃であるとされた。モリッシーはモータウンなど昔のブラック・ミュージックを好む一方で当時の最先端のブラック・ミュージックには嫌悪感を顕わにしていたことも火に油を注ぐことになった(ご存知の通りワムはブラック・ミュージックからの影響を全面に出すデュオでもあった)。ジョニーやアンディはもともとはディスコ・ミュージックやファンクなどのファンであったが、モリッシーの前ではそれをひた隠しにしていたというのも有名な話である。とはいえ、さすがに「パニック」が黒人差別の曲だという非難は長続きしなかった。しかし、ソロになってからの『ビバ・ヘイト』(よりにもよってこのタイトル)収録の「プラットフォームのベンガル人」をはじめとするいくつかの歌詞によってこれが再燃したのである。




レイシストだという批判に対してモリッシーを擁護しようと思えばいくらでもできるし、実際その試みがなされてきたのだが、個人的にはこれについては無理に擁護する必要はないのではないかとも思うようになってきた。といっても、モリッシーはやはりレイシストだったというのではなく、そのような擁護によってかえって物事が見えなくなることの危うさを近年になってより感じるようになったからだ。

モリッシーもジョニーも自伝で共に激しいサッチャー批判を繰り広げているが、ジョニーが政治的信条に基づくものだとすれば、モリッシーのそれは多分に心情的なものという印象がしてくる。

ベジタリアンであるモリッシーは「肉食は殺人だ」と歌い、「僕は友だちを食べない」とプリントされたTシャツ姿もよく知られている。IRAによるサッチャーを狙ったテロで、サッチャーがほんの偶然から難を逃れると、何が残念かってサッチャーがまだ生きてることだと言い放った。保守派からすれば、お前は「友だち」でなければ殺してもいいと思っているのかとなるだろう。動物の権利擁護を訴えながら「ギロチンにかけられるマーガレット あんたはいつ死ぬんだい?」と歌うのは、生命の尊さを訴えながら中絶を行う医師を殺害するキリスト教原理主義者を連想させなくもない。





「スティル・イル」のあまりにモリッシー的な一節、「イングランドは僕のもの 僕を養う義務がある」というのは単に駄々っ子的であるばかりでなく、自己責任を打ち出し「社会」の存在を否定して社会保障の削減を進めるサッチャー保守党政権への強烈な批判ともなる。一方で現在の状況に照らし合わせると、「イングランドは僕のもの」という言葉は、福祉水準を守るために移民を否定する「福祉排外主義」にもつながりかねない不気味な響きも持ちかねない。





近年、モリッシーは極右の巣窟であるUKIPへの(正確にいえばその支持者への)理解を示す発言も行っている。UKIPの大きな支持層の一つが、かつて労働党支持だったものの社会の変化についていけない、高齢化した労働者階級であるとされる。UKIPと保守党右派はまさにこういった人々を焚きつけることによって国民投票で「離脱」を通した。「残留派」だったはずのボリス・ジョンソンが直前で態度を豹変させたように、もともとこれは「キャメロン降ろし」を狙う保守党内の権力争いの一環であったし、UKIPにしても保守党右派の別動隊という面を持つ。しかしモリッシーはこのあたりについてはきちんと向き合ってはいない。

モリッシーはUKIPに回収されたような一部の労働者階級へのシンパシーもあって「ブリグジット」にも好意的であった。これに対しジョニーはこれががデマゴーグによって実現したものであることを喝破し、この結果を批判しつつ、多元主義を支持しているはずの若年層の投票率が低かったこともたしなめるという、たいへん正しい反応を示した。

「ベンガル人」は「イギリス人」になることはできないのだからこっちに来るべきではないというのは、倫理的には認められるべきではないのかもしれない、でもそうだとしても、そう思うんだから仕方ないじゃないかと返されたら、これ以上はどうしようもない。モリッシーがそう主張しているのかはともかく、モリッシー的在り方は対話を拒み、「理屈がどうであれ嫌なものは嫌、以上!」ともなりかねない。

かつてのNMEがそうであったように、モリッシーを批判する側にも様々な思惑があり、そのことに防御的になる気持ちはわからなくはない。しかしモリッシーの(歌詞の)「真意」はこれだとしてモリッシー自身、あるいは彼のようなアティチュードに孕まれる危うさから目を背けると、結果としてその危うさに加担することにもなりかねない。インテリ左翼がロマンティサイズしたがる労働者階級の姿はジョニーにはふさわしいのかもしれないが、モリッシーはそこには収まりきらない。それはイギリスの労働者階級のある一面を映しだすものである一方で、そのことを肯定的に評価しようとするあまりUKIP支持に流れるような一部の労働者階級の方をかえってロマンティサイズしてしまうことにも慎重でなければならない。


……と、いろいろ思うところがある一方で整理できていないもので、自分でも何を書いているのかよくわからなくなってきてしまったので、脱線はこのくらいにしてあとは簡単に。

ドタバタの中でソロ活動が始まったせいもあって、デビューシングル「スエードヘッド」のチャートに周囲は無関心であった。そこに意外な手紙が届く。「6位おめでとう!!! もし動物のための歌を作りたいと思っているなら連絡してね。愛をこめて、リンダ」

モリッシーはリンダ・マッカートニーに返事をしたのかどうかは明かしていないが、もしこの時「ぜひとも!」なんて返していたらポールとモリッシーの共演もあったのかもしれない。この頃ちょうどポールは低迷期で、この後エルヴィス・コステロとの共作に刺激を受けて息を吹き返すことになる。リンダとしてはベジタリアン同士の連帯もさることながら、ポールに刺激を与えたいという思いもあったのかもしれない。とはいえ、モリッシーのアクの強さはジョンのそれとは異質だし、やはり二人で何かをやるというのは想像できない。ちなみにモリッシーはポールがナイトになったことに対し、キツネ狩りをはじめとする動物殺しの王室から爵位なんて受けるんじゃねえよ、と批判している。一方のジョニーはといえば、ポールとセッションをしたことを自伝に書いており、バンド解散後のメディアからのバッシングを含めたその余波への対処法について助言も受けたことを明かしている。

モリッシーはマイケル・スタイプとロンドンでお茶をしていた。「このあたりは好きじゃない」とモリッシーが言うと、「じゃあなんでここに住んでいるんだい」とマイケル。「自分でもよくわからん」と、よくわからない会話を繰り広げた後、二人はハイド・パークを歩いて渡り、ハマースミス・オデオンに向かった。楽屋口から入ると、マイケルは5分後にはそのままの格好でふらりとステージに立っていた。「一日中着ていた服のままだったし、歯も磨かなかった」。スミスとREMは何かと比較されたが、「スミスが窒息死してる間に、REMのロケットが加速した」頃のお話。

『ユア・アーセナル』のツアーの頃、アメリカのホテルでデヴィッド・ボウイとばったり一緒になる。ボウイが「僕はセックスもドラッグもあんなにやってきたってのに、まだ生きてるってことが自分でも信じられないよ」と言うと、モリッシーはこう返した。「僕はセックスもドラッグもほとんどやってないってのに、まだ生きてるってことが自分でも信じられないよ」。


モリッシーが最も強く影響を受けたのは公言する通りオスカー・ワイルドだろう。では作家ならぬ文学作品の登場人物で近いのは誰かといえば、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドかもしれない。ホールデンは妹のフィービーから、お兄ちゃんは死んじゃった人のことしか好きになれないんでしょ、となじられる。この自伝でもジョン・ピールのことを複数回に渡って冷淡に描いているように、モリッシーは嫌いな人間は遠慮会釈なしに徹底的にこきおろすし、愛憎半ばする人に対しても悪態をつかずにはいられない。そしてこの自伝では癌に冒されながら『ユア・アーセナル』をプロデュースしてくれたミック・ロンソンについては心のこもった追悼を寄せている。モリッシーのようなタイプにとって安心して称賛することができるのは、亡くなった人やすでに過去の存在になってしまった人たちだけなのかもしれない。退行願望があるようでいて意外とアクティブといった面も共通点だ(「運転できるの」と訊かれると「もちろん」と返すのであるが、モリッシーは無免許の方がはるかに似合う)。もちろん、ホールデンは心優しいアントリーニ先生に額をなでられると恐慌をきたしてあわてて退散するようなホモフォビアであるし、ニューヨークのアッパーミドル家庭のお坊ちゃんでもある。でも、もしホールデンが20年後にイギリスの労働者階級に生まれていたらどうなっていたかといえば、それはモリッシーのようだったのかもしれない。


モリッシーのソロで好きなのを一曲といわれても迷うが、『ヴォックスオール・アンド・アイ』収録の「ナウ・マイ・ハート・イズ・フル」になるかなあ。アルバムタイトル自体が『ウィズネイルと僕』からきているが、この曲はグレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』(というか47年のその映画化)にインスピレーションを受けたものである……なんてことを知ったのはしばらく後のことで、輸入盤を買ったものでそんなこととはつゆ知らず、長いこと登場する固有名詞が意味不明のままだった……





さて、モリッシーの小説もそのうちいつか。





オノ・ヨーコはお嫌い?

アップルパイ神話の時代』(原克著)を読んでいて、ジョン・レノンのWoman is the Nigger of the Worldを思い起こした。


家事をてきぱきこなすしっかり屋で、夫や子どもに無私の愛情を注ぐ、アップルパイをおしく焼くことができるというアメリカの理想の主婦像。実はこれは伝統的女性象でもなんでもなく、20世紀初頭に雑誌や広告等によって作り上げられたものなのであった。

また、かつて南部で黒人女性が焼いていたおいしいパンケーキを家庭で手軽に再現できるというのが売りのミックス粉の広告として、「古き南部」への郷愁をかきたてるような戦略をとるものもあった。パッケージや広告に使われたこの黒人女性も奴隷であったはずなのに、白人たちはその歴史から目をそらし、権利など主張せずに自らの立場を疑うことなく白人に「従順」であった黒人を懐かしむかのようなその広告から、新たに誕生した家事をこなさなくてはならなくなった白人中流階級の主婦をどのような存在にしたがっていたのかは明らかだ。

タイトルにNワードを使っていてぎょっとさせるWoman is the Nigger of the Worldであるが、これはぎょっとさせることこそが目的であった。もちろん当時も、そして今でも白人であるジョンがこのようにNワードを使うことの是非は論じられてしかるべきであるが、これはそれだけ強い言葉を使わねばならない問題なのだというジョンの意識の表れでもあろう。

「女は奴隷の中の奴隷だ 俺の言うことが信じられないというんなら、あんたと一緒にいる人のことを見てみろよ」と唄うジョンのメッセージはストレートなものだ。





歌詞の一部を引用してみる(なお以下歌詞の引用は僕がその場で適当に訳してるものなので間違ってたり変なところがあったらごめんなさい。sheが女性一般、weが男性一般を指していることをはっきりさせるために主語をいちいち直訳調に訳出してみた)。

俺たちが彼女に化粧をさせ踊らせる
もし彼女が奴隷になりたがらなければ、彼女は俺たちのことを愛していないんだと俺たちは言う
もし彼女が本物なら、彼女は男になりたがっているのだと俺たちは言う
彼女のことを押さえつけているってのに、俺たちはまるで彼女が上位にあるかのようなフリをする


俺たちが彼女に俺たちの子どもを産ませ育てさせる
そして太った母さんが陣取るアパートに取り残す
俺たちは家だけが彼女がいるべき場所だと言ってきかせる
それでもって俺たちの友だちに対してどうしてこうも彼女は世慣れていないんだって俺たちはグチるんだ

俺たちは彼女のことを毎日テレビで侮辱している
そのくせ彼女が勇気も自信もないのはどうしてなのかって不思議がっている
彼女が若かった時、自由になりたいという彼女を意志を俺たちは殺した
賢くなんてなっちゃダメだと彼女に言って
俺たちは彼女を押さえつけて口もきけなくしたんだ



またこの歌詞は「ワーキング・クラス・ヒーロー」とも通じるところがあるだろう。





奴らは家で君を傷つけ、学校では攻撃する
もし君が賢ければ奴らは君を憎み、愚かなら見下すんだ
君が奴らのルールに従えないというのなら、もうどうにかなっちまうよ
労働者階級の英雄になるってのはたいへんなものだよ



僕の音楽遍歴(というほどのものではないが)は70年代後半生まれとしてはちょっと変則的で、まずビートルズに夢中になって60年代の音楽を聴き始めて、そのうちにパンクやオルタナといったあたりにも関心を持ちはじめた。
今でも半ば本気でビートルズにはポップス・ロックのすべてがあるなんて考えてもしまうのだが、ではその言葉通りに60年代の音楽ばかりを聴いていたら、オノ・ヨーコについてどう思っていたのだろうか。

ヨーコについては「ビートルズを解散させた女」として怒りと嫌悪をもって見るビートルズファンがいる一方で、真剣に論じるというよりは嘲笑的に扱う人も多い。もちろん嘲笑的に扱うというのは、彼女を軽んじるという強い意志に基づく行為でもある。では、当時から今にいたるまで蔓延るヨーコへのネガティブなイメージのうち、少なからぬ部分がレイシズムとセクシズムから来るものであることをどれだけの人が意識しているだろうか。

ポール・マッカートニーが、女性ファンからも理想のカップルと見られていたジェーン・アッシャーと別れてリンダ・イーストマンと付き合い始めたときにも、リンダに対するバッシングが起こった。あのかわいらしかったポールがむさくるしい髭をはやすなどヒッピー化したのはあのアメリカ女のせいだという恨み節が聞こえたし、ビートルズ解散後にジョンとヨーコの関係を意識してか、ポールがほとんど音楽的素養のないリンダをウィングスのメンバーに加えたことも失笑を買った。しかし西洋人でありアクの強い性格ではないリンダへのバッシングや嘲笑は次第に沈静化していったのに対し、東洋人であり「出る杭」であることを恐れないヨーコは叩かれ続ける。

映画『レット・イット・ビー』などにおける、スタジオに闖入したヨーコの姿は確かに異様な印象を与えるものかもしれない。しかしこのときすでにジョンはビートルズとしての活動にほぼ関心を失っており、ポールがどうしてもというのでいやいやながらに付き合っていたにすぎない。ヨーコと出会ってビートルズからジョンの心が離れたというよりも、すでにバンドから心が離れかけていたところにヨーコと出会ったとしたほうがいいだろう。

ビートルズの精神的支柱であったマネージャーのブライアン・エプスタインの死去後、ポールはリーダーとなってバンドを引っ張ろうとしたのだが、これは次第に空回りとなって軋轢が生じていく。ホワイト・アルバムの製作中に殺伐とした雰囲気に耐えられずに最初にバンドから抜けると言ってスタジオを飛び出したのはリンゴ・スターであったし、インド音楽やシンセサイザーにいち早く関心を持つなど独自の活動も行うようになっていたジョージ・ハリスンは次第にソングライターとしても自信を持ちはじめていた。こう考えると、ジョンとヨーコがたとえ出会っていなかったとしても、ビートルズ解散は時間の問題であり、避けられないことであったとすべきだろう。

ブライアンが生きていればなんとかなったかもしれないが、彼亡き後はこの流れを押しとどめることは誰にもできなかった。だからこそ、ほんの一瞬とはいえこの流れに抗いバンドとしての一体感を取り戻した『アビイ・ロード』に涙するのである(メンバー間の諍いにうんざりしていたジョージ・マーティンが『アビイ・ロード』のプロデュースを引き受けるにあたって出した条件が、もういがみ合わないことだった)。

ヨーコが他のメンバーからひどく嫌われていたことは確かだが、だからといって彼女こそが解散の原因であるというのは飛躍のしすぎだ。後に映画『レット・イット・ビー』となる、レコーディングの模様をカメラに収めて映像作品化するというのはポールの発案であったが、撮影スペースを確保するためのがらんとしたスタジオで常にカメラに追いまわされるのを他のメンバーは不快に感じていた。この時すでにビートルズの面々の心がすっかり離れてしまっていたことを雄弁に語る、リンゴの表情がなんとも切ないあの有名なポールとジョージの間で起こった口論は、もちろんヨーコの存在とは無関係である(ポールがギターについていちいち指図してくることにジョージがキレたのが原因)。





そのことを知っているはずのビートルズマニアも、その「誤解」をとこうとするのではなく、むしろ尻馬に乗るようなケースがある。そしてそれはヨーコが東洋人であり、フェミニストであるというのも少なからず影響していることだろう。

かくいう僕自身も、長らくヨーコの存在を「半笑い」で受け止めており、「ジョンの横で奇声をあげているだけの人」といった明らかに事実に反するような「ジョーク」も、「ネタ」として笑っていた(ヨーコは確かに奇声もあげていたこともあったが、もちろんそれだけではない)。繰り返しになるが、これは彼女をそれだけ軽んじていたということの表れである。

ソニック・ユースなどを聴き始めると、キム・ゴードンはもちろんサーストン・ムーアもヨーコを超のつくほどリスペクトしていることを知るようになった。ヨーコの存在が70年代後半から80年代以降に登場した前衛芸術やフェミニズムなどに親和的な少なからぬアメリカのミュージシャンへ与えた影響が強いことが遅ればせながらにわかり、偏見をもって先入観にこりかたまっていた自分の浅はかさを恥じいることとなった。

今でも日本人が「サークルクラッシャーの元祖」などといってヨーコを嘲笑的に扱っているのが見受けられるが、彼女が持たれるネガティブなイメージの一因が西洋人による東洋人への蔑視にあったのを思えば、これはなんともグロテスクな反応である。

そして何よりもヨーコが嫌われたのは、やはりフェミニストであったからだろう。東洋人の女性に「従順」さという幻想を投影する人(これは西洋人に限らない)にとっては、「内助の功」の真逆を行くようなヨーコのような存在は受け入れがたい。
「女は世界の奴隷だ!」の歌詞は明らかにヨーコからの強い影響下で書かれている(この曲のクレジットはジョンとヨーコの共作である)。マザーコンプレックスのジョンをだぶらかしてろくでもない道に引きずり込んだドラゴン・レディ、ジョンの名前を利用して自己宣伝にはげむ腹黒い東洋女。そんなイメージはビートルズ解散後のジョンの作品によってより強化されていった。そしてそのような中傷に屈することのないヨーコの姿は若い世代からリスペクトを集めるようにもなっていく。

「女は世界の奴隷だ!」は『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』の一曲目に収録されている。これを受けるかのようにして二曲目に登場するのがヨーコによる「シスターズ・オー・シスターズ」だ。




私たちは緑の大地を失った
私たちはきれいな空気を失った
私たちは自分の本当の知恵を失った
そして私たちは絶望の中で生きている


姉妹たち、おお姉妹たちよ
今立ち上がろう
遅すぎることなどない
初めから始めるのに

知恵、おお知恵だ
これが私たちが求めているもの
そう、わが姉妹たちよ
私たちは求めるようにならねば


知恵、おお知恵だ
これが私たちの求めているもの
このために今私たちは生きている

姉妹たち、おお姉妹たちよ
今すぐに目覚めよう
遅すぎることなどない
心からの声をあげるのに


自由、おお自由だ
このために私は闘っている
そう、わが姉妹たちよ
私たちは闘うようにならねば


姉妹たち、おお姉妹たちよ
これ以上諦めないようにしよう
遅すぎることなどない
新しい世界を築くのに

新しい世界、おお新しい世界
このために私は生きている
そう、姉妹たちよ
私たちは生きなければ


新しい世界、おお新しい世界
このために私たちは生きている
私たちがこれを築かねば


なぜヨーコが蛇蝎のごとく嫌われ、そしてリスペクトされるのかは、この歌を聴けばわかるだろう。


「シスターズ・オー・シスターズ」は好きだけれど、これを書きながらあれこれ聴き返していても、やっぱり『ダブル・ファンタジー』のヨーコの曲はやっぱり飛ばしてしまうのだが、まあ、ジョンの曲だってすべてが好きだというわけにはいかないのだから、音楽的に関心を持てないものだってあるのは仕方がない。もちろんそのすべてを肯定する必要ない。

『ダブル・ファンタジー』といえば、個人的には「ウォッチング・ザ・ホイールズ」の歌詞が好きで、十代の頃の僕は「頭がおかしい? 怠けている? なんとでも言ってくれ、僕はただここに座って回っている車輪を眺めているのが好きなんだ」というのを、ジョンが書いた文脈とは違うものかもしれないが(この曲は「主夫」となったジョンに向けられた否定的声へのリアクションだとされている)、自分のことのように思えたものだった。そして気が付けば『ダブル・ファンタジー』のときの、つまり命を落としたときのジョンの年齢に近づいているのであった。ショーンももう父親の年齢を追い越してしまっているのですからねえ……





出ない邦訳、出る邦訳

ジョニー・マーの自伝が翻訳刊行決定」なる記事のタイトルを見て「モリッシーの方が先でしょうに!」と思ったら、「モリッシーの自伝が翻訳を許されていない現在」なんて箇所が。

不勉強にも気がつかなかったが、こちらにあるように2014年の時点でモリッシーは自伝が翻訳されるのを拒否しているというというのは出ていたのですね。理由はよくわからんが翻訳の質を懸念しているのでは……という推測がなされているが、その結果英語がよくできない人が英語で読まされることによって生まれる弊害もかなり大きいと思うのだけれど。

まあ確かに音楽のバイオ本って質が低い邦訳が他ジャンルに比べて多い印象もあるが、日本のそんな事情をモリッシーが承知しているとも思えないし(もちろん日本語訳だけが拒否されているのではない)、翻訳者の選定など契約によって防ごうと思えば防ぐこともできるだろうし、この推測は真に受けることはできないのだが、まあこれもモリッシーらしいとすべきなのか。

モリッシーの自伝は買ってはいるのだけど、そのうち邦訳が出るだろうからそちらを待とうとほっぽらかしていたのだが、ブレイディみかこさんの本に合わせて頑張って読みますかね……



個人的な……

新聞等でインフルエンザを「インフル」と略すのはもう見慣れたが、では個人的には違和感が消えたのかといえばそうではない。最近よく目にするようになったものではバングラデシュを「バングラ」と略すのもまたそうだ。紙数に限りがあることは言われなくてもわかっているが、しかしその三文字を略すことで何か有益な情報が詰め込めているのか、という気持ちが拭えないのである。……なんてことをぶつくさ言いながら、このところ久しぶりに『バングラデシュ・コンサート』を引っ張り出して聴いている。




1960年代後半から西パキスタンと東パキスタンの関係は緊張の度を増し、後に独立しバングラデシュとなる東パキスタンからは大量の犠牲者が出て、数多くの難民が発生した。シタールの師であるベンガル出身のラヴィ・シャンカールからの要請を受けて、ジョージ・ハリスンを中心に行われたチャリティーコンサートの模様を収めたのがこのアルバムである。久しぶりに手に取って気付いたのだが、このコンサートが行われたのは1971年8月1日なので、間もなく丸45年ということになる。

「めちゃくちゃになっている こんな苦しみは見たことがない 手を差し伸べなくては 理解しなくちゃ」 「こんなひどい惨事が 理解できないよ めちゃくちゃだ こんな苦しみなど知らなかった お願いだから背を向けないでくれ 声を聞かせてくれ バングラデシュの人たちを救わなくては バングラデシュを救わなくては」というジョージが作った「バングラデシュ」の歌詞は、固有名詞を入れ替えれば今でもそのまま通用してしまいそうなのは、なんとも辛い。



ところで、ラヴィ・シャンカールがチューニングを終えると拍手がわいて、「チューニングをこれほど気に入っていただけたのなら、演奏はさらに楽しんでもらえることでしょう」と言っているのだけれど、これって「待ってました」の拍手なのか、チューニングだと思わずに一曲終わったと思ってパチパチやってしまったのとどちらなのだろう。クラシックのコンサートでもちょっとした間で拍手をしてしまう人がいるが、「やっちまったぜ……」という感じだったのだろうか。


またこのコンサートは、何度かあったビートルズの4人が解散後に同じステージに上る可能性があったものの一つとしても知られている。ジョンは参加するつもりでいたがヨーコをステージに上げるのをジョージに拒まれたために参加を取りやめたとされ、ポールはビートルズ再結成の期待をもたせたくないということで見合わせた。ちなみにここでも披露されている「ワー・ワー」は、映画「レット・イット・ビー」において最も有名かもしれない場面である、ポールがジョージに対してギターを「指導」し、ジョージが気分を害して険悪な雰囲気となるというあの出来事の後に書かれたもので、ポールについての歌だとされている。「君には僕の涙が見えない 君には僕の歌が聞こえない」なんて目の前で歌われてたら、ポールはどんな気分になったのだろうか。









そういえばジョージの追悼コンサートではやってましたね。ポールの表情がやや微妙に思えるのは気のせいか。






それでもなかなか豪華な面々が集まったが、中でも注目を集めたのがボブ・ディランとエリック・クラプトンだった。
ディランはバイク事故以降公の場にほとんど姿を現さず、69年のワイト島でのフェス以来久々のライヴだった。後にトラヴェリング・ウィルベリーズも一緒にやるように、ディランはビートルズのメンバーの中ではジョージと一番仲がよかった。








ジョージの親友といえばなんといってもクラプトンである。当時クラプトンはヤク中アル中で心身共にボロボロでほとんど人前に現れることはなかったが、こちらもジョージの友情に応えた。




それにしても、45年前の人にジョージよりもクラプトンの方が長生きするよ、と言っても誰も信じなかったことだろう。世の中どいうのはなにがどうなるのか本当にわからない。バッドフィンガーも参加しているが、いろいろ哀しくもなってくる。

レコード化にあたりプロデューサーをジョージと共に務めたのはフィル・スペクターであるが、この30年ほど後にあんなことになるよ、と当時の人に言ったとしても誰も……驚かないかもしれない。

ちょうど『オール・シングス・マスト・パス』が出た後ということでこのアルバムから多くの曲が演奏されている。ご存知の通り、フィル・スペクターは未完成のまま放り出された「ゲット・バック・セッション」をアルバム『レット・イット・ビー』に仕上げるが、ポールはスペクターによる過剰プロデュースに激怒した。一方ジョージとジョンはスペクターをソロ・アルバムのプロデューサーに起用しており、『オール・シングス・マスト・パス』もフィル・スペクタープロデュースである。




個人的にはタイトル曲の「オール・シングス・マスト・パス」は『アンソロジー 3』に収録されることになるギターでのシンプルな弾き語りの方が合っているような気がしなくもない。ポールは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」がスペクターにストリングスと女性コーラスを足されて大仰なアレンジにされたことに腹を立てたのだが、個人的には「オールシングス・マスト・パス」も装飾を削った方がより曲の魅力が引き立つように感じられる。





ではジョージとフィル・スペクターは合わないのかといえば、「ウォール・オブ・サウンド」が全開となっていて心地よい曲も多い。まあこのあたりのアレンジというのは完全に好みの問題で、「ヒア・カムズ・ザ・サン」(これはフィル・スペクターは関係ないが)なんかは僕はやっぱりあのシンセがないと物足りないなあなんて感じるのだが(ジョージはいち早く電子楽器にはまっていた)、『バングラデシュ・コンサート』でのようにシンプルにアコギだけで十分だし余計な音を加える必要なんてないじゃん、となる人の方が多いかもしれない。



『オール・シングス・マスト・パス』の中では個人的には分厚い音の「ホワット・イズ・ライフ」が一番好きなのだけれど、この曲のどこがどう好きなのかと訊かれてもうまく答えられそうにない。




個人的な好みの問題といえば、ちょうどジョン・カーニー監督の『シング・ストリート』が公開されているが、前作『はじまりのうた』のキーラ・ナイトレイの歌声はもうどんぴしゃに好みで、これを聴いただけでもうたまらんという感じになった。



一方で同じ曲を歌っても、アレンジや歌手によってこうも異なるのかというのがこちら。アダム・レヴィーンのバージョンはアレンジも歌い方もとにかく苦手で、もう笑ってしまいたくなるくらい嫌なのだけれど(なんだよ、あの裏声は!)、これなど理屈の問題ではなく、それを言っちゃあおしまいよという言葉を使えば、生理の問題なのだろう。









音楽映画といえば『ラブ&マーシー』はブライアン・ウィルソンの精神が1960年代に崩壊していくのと80年代についに回復し始める様子とが平行して描かれるのであるが、映画そのものの出来がどうというのではなく、個人的な好みでいえば80年代のパートはいらなくて60年代の『ペット・サウンズ』の成功から『スマイル』の挫折のみでもよかったんじゃないかとも思ってしまった。まあそれならいっそのことハル・ブレイン(『ラブ&マーシー』でもいい味を出していた)を狂言回しにして50年代後半からの10年ほどのアメリカの音楽シーンを描くというような映画があってもいいのかもしれない。フィル・スペクターも大活躍することになるしね。






という感じで『オール・シングス・マスト・パス』も聴いているのだけれど、『バングラデシュ・コンサート』には未収録ながらリハは行われていて、『オールシングス・マスト・パス』には収録されているディラン作の「イフ・ノット・ユー」であるが、聴き返すたびに思うのだけれど、これって「ピース,ラヴ・アンド・アンダースタンディング」の、とりわけエルヴィス・コステロ版に影響を与えているような気がするのだが、個人的な思い込みだろうか。こういうのって一度そう聞こえてしまうともうそうとしか思えなくなってしまうのですよね、という感じで現実逃避をしている……









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