オノ・ヨーコはお嫌い?

アップルパイ神話の時代』(原克著)を読んでいて、ジョン・レノンのWoman is the Nigger of the Worldを思い起こした。


家事をてきぱきこなすしっかり屋で、夫や子どもに無私の愛情を注ぐ、アップルパイをおしく焼くことができるというアメリカの理想の主婦像。実はこれは伝統的女性象でもなんでもなく、20世紀初頭に雑誌や広告等によって作り上げられたものなのであった。

また、かつて南部で黒人女性が焼いていたおいしいパンケーキを家庭で手軽に再現できるというのが売りのミックス粉の広告として、「古き南部」への郷愁をかきたてるような戦略をとるものもあった。パッケージや広告に使われたこの黒人女性も奴隷であったはずなのに、白人たちはその歴史から目をそらし、権利など主張せずに自らの立場を疑うことなく白人に「従順」であった黒人を懐かしむかのようなその広告から、新たに誕生した家事をこなさなくてはならなくなった白人中流階級の主婦をどのような存在にしたがっていたのかは明らかだ。

タイトルにNワードを使っていてぎょっとさせるWoman is the Nigger of the Worldであるが、これはぎょっとさせることこそが目的であった。もちろん当時も、そして今でも白人であるジョンがこのようにNワードを使うことの是非は論じられてしかるべきであるが、これはそれだけ強い言葉を使わねばならない問題なのだというジョンの意識の表れでもあろう。

「女は奴隷の中の奴隷だ 俺の言うことが信じられないというんなら、あんたと一緒にいる人のことを見てみろよ」と唄うジョンのメッセージはストレートなものだ。





歌詞の一部を引用してみる(なお以下歌詞の引用は僕がその場で適当に訳してるものなので間違ってたり変なところがあったらごめんなさい。sheが女性一般、weが男性一般を指していることをはっきりさせるために主語をいちいち直訳調に訳出してみた)。

俺たちが彼女に化粧をさせ踊らせる
もし彼女が奴隷になりたがらなければ、彼女は俺たちのことを愛していないんだと俺たちは言う
もし彼女が本物なら、彼女は男になりたがっているのだと俺たちは言う
彼女のことを押さえつけているってのに、俺たちはまるで彼女が上位にあるかのようなフリをする


俺たちが彼女に俺たちの子どもを産ませ育てさせる
そして太った母さんが陣取るアパートに取り残す
俺たちは家だけが彼女がいるべき場所だと言ってきかせる
それでもって俺たちの友だちに対してどうしてこうも彼女は世慣れていないんだって俺たちはグチるんだ

俺たちは彼女のことを毎日テレビで侮辱している
そのくせ彼女が勇気も自信もないのはどうしてなのかって不思議がっている
彼女が若かった時、自由になりたいという彼女を意志を俺たちは殺した
賢くなんてなっちゃダメだと彼女に言って
俺たちは彼女を押さえつけて口もきけなくしたんだ



またこの歌詞は「ワーキング・クラス・ヒーロー」とも通じるところがあるだろう。





奴らは家で君を傷つけ、学校では攻撃する
もし君が賢ければ奴らは君を憎み、愚かなら見下すんだ
君が奴らのルールに従えないというのなら、もうどうにかなっちまうよ
労働者階級の英雄になるってのはたいへんなものだよ



僕の音楽遍歴(というほどのものではないが)は70年代後半生まれとしてはちょっと変則的で、まずビートルズに夢中になって60年代の音楽を聴き始めて、そのうちにパンクやオルタナといったあたりにも関心を持ちはじめた。
今でも半ば本気でビートルズにはポップス・ロックのすべてがあるなんて考えてもしまうのだが、ではその言葉通りに60年代の音楽ばかりを聴いていたら、オノ・ヨーコについてどう思っていたのだろうか。

ヨーコについては「ビートルズを解散させた女」として怒りと嫌悪をもって見るビートルズファンがいる一方で、真剣に論じるというよりは嘲笑的に扱う人も多い。もちろん嘲笑的に扱うというのは、彼女を軽んじるという強い意志に基づく行為でもある。では、当時から今にいたるまで蔓延るヨーコへのネガティブなイメージのうち、少なからぬ部分がレイシズムとセクシズムから来るものであることをどれだけの人が意識しているだろうか。

ポール・マッカートニーが、女性ファンからも理想のカップルと見られていたジェーン・アッシャーと別れてリンダ・イーストマンと付き合い始めたときにも、リンダに対するバッシングが起こった。あのかわいらしかったポールがむさくるしい髭をはやすなどヒッピー化したのはあのアメリカ女のせいだという恨み節が聞こえたし、ビートルズ解散後にジョンとヨーコの関係を意識してか、ポールがほとんど音楽的素養のないリンダをウィングスのメンバーに加えたことも失笑を買った。しかし西洋人でありアクの強い性格ではないリンダへのバッシングや嘲笑は次第に沈静化していったのに対し、東洋人であり「出る杭」であることを恐れないヨーコは叩かれ続ける。

映画『レット・イット・ビー』などにおける、スタジオに闖入したヨーコの姿は確かに異様な印象を与えるものかもしれない。しかしこのときすでにジョンはビートルズとしての活動にほぼ関心を失っており、ポールがどうしてもというのでいやいやながらに付き合っていたにすぎない。ヨーコと出会ってビートルズからジョンの心が離れたというよりも、すでにバンドから心が離れかけていたところにヨーコと出会ったとしたほうがいいだろう。

ビートルズの精神的支柱であったマネージャーのブライアン・エプスタインの死去後、ポールはリーダーとなってバンドを引っ張ろうとしたのだが、これは次第に空回りとなって軋轢が生じていく。ホワイト・アルバムの製作中に殺伐とした雰囲気に耐えられずに最初にバンドから抜けると言ってスタジオを飛び出したのはリンゴ・スターであったし、インド音楽やシンセサイザーにいち早く関心を持つなど独自の活動も行うようになっていたジョージ・ハリスンは次第にソングライターとしても自信を持ちはじめていた。こう考えると、ジョンとヨーコがたとえ出会っていなかったとしても、ビートルズ解散は時間の問題であり、避けられないことであったとすべきだろう。

ブライアンが生きていればなんとかなったかもしれないが、彼亡き後はこの流れを押しとどめることは誰にもできなかった。だからこそ、ほんの一瞬とはいえこの流れに抗いバンドとしての一体感を取り戻した『アビイ・ロード』に涙するのである(メンバー間の諍いにうんざりしていたジョージ・マーティンが『アビイ・ロード』のプロデュースを引き受けるにあたって出した条件が、もういがみ合わないことだった)。

ヨーコが他のメンバーからひどく嫌われていたことは確かだが、だからといって彼女こそが解散の原因であるというのは飛躍のしすぎだ。後に映画『レット・イット・ビー』となる、レコーディングの模様をカメラに収めて映像作品化するというのはポールの発案であったが、撮影スペースを確保するためのがらんとしたスタジオで常にカメラに追いまわされるのを他のメンバーは不快に感じていた。この時すでにビートルズの面々の心がすっかり離れてしまっていたことを雄弁に語る、リンゴの表情がなんとも切ないあの有名なポールとジョージの間で起こった口論は、もちろんヨーコの存在とは無関係である(ポールがギターについていちいち指図してくることにジョージがキレたのが原因)。





そのことを知っているはずのビートルズマニアも、その「誤解」をとこうとするのではなく、むしろ尻馬に乗るようなケースがある。そしてそれはヨーコが東洋人であり、フェミニストであるというのも少なからず影響していることだろう。

かくいう僕自身も、長らくヨーコの存在を「半笑い」で受け止めており、「ジョンの横で奇声をあげているだけの人」といった明らかに事実に反するような「ジョーク」も、「ネタ」として笑っていた(ヨーコは確かに奇声もあげていたこともあったが、もちろんそれだけではない)。繰り返しになるが、これは彼女をそれだけ軽んじていたということの表れである。

ソニック・ユースなどを聴き始めると、キム・ゴードンはもちろんサーストン・ムーアもヨーコを超のつくほどリスペクトしていることを知るようになった。ヨーコの存在が70年代後半から80年代以降に登場した前衛芸術やフェミニズムなどに親和的な少なからぬアメリカのミュージシャンへ与えた影響が強いことが遅ればせながらにわかり、偏見をもって先入観にこりかたまっていた自分の浅はかさを恥じいることとなった。

今でも日本人が「サークルクラッシャーの元祖」などといってヨーコを嘲笑的に扱っているのが見受けられるが、彼女が持たれるネガティブなイメージの一因が西洋人による東洋人への蔑視にあったのを思えば、これはなんともグロテスクな反応である。

そして何よりもヨーコが嫌われたのは、やはりフェミニストであったからだろう。東洋人の女性に「従順」さという幻想を投影する人(これは西洋人に限らない)にとっては、「内助の功」の真逆を行くようなヨーコのような存在は受け入れがたい。
「女は世界の奴隷だ!」の歌詞は明らかにヨーコからの強い影響下で書かれている(この曲のクレジットはジョンとヨーコの共作である)。マザーコンプレックスのジョンをだぶらかしてろくでもない道に引きずり込んだドラゴン・レディ、ジョンの名前を利用して自己宣伝にはげむ腹黒い東洋女。そんなイメージはビートルズ解散後のジョンの作品によってより強化されていった。そしてそのような中傷に屈することのないヨーコの姿は若い世代からリスペクトを集めるようにもなっていく。

「女は世界の奴隷だ!」は『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』の一曲目に収録されている。これを受けるかのようにして二曲目に登場するのがヨーコによる「シスターズ・オー・シスターズ」だ。




私たちは緑の大地を失った
私たちはきれいな空気を失った
私たちは自分の本当の知恵を失った
そして私たちは絶望の中で生きている


姉妹たち、おお姉妹たちよ
今立ち上がろう
遅すぎることなどない
初めから始めるのに

知恵、おお知恵だ
これが私たちが求めているもの
そう、わが姉妹たちよ
私たちは求めるようにならねば


知恵、おお知恵だ
これが私たちの求めているもの
このために今私たちは生きている

姉妹たち、おお姉妹たちよ
今すぐに目覚めよう
遅すぎることなどない
心からの声をあげるのに


自由、おお自由だ
このために私は闘っている
そう、わが姉妹たちよ
私たちは闘うようにならねば


姉妹たち、おお姉妹たちよ
これ以上諦めないようにしよう
遅すぎることなどない
新しい世界を築くのに

新しい世界、おお新しい世界
このために私は生きている
そう、姉妹たちよ
私たちは生きなければ


新しい世界、おお新しい世界
このために私たちは生きている
私たちがこれを築かねば


なぜヨーコが蛇蝎のごとく嫌われ、そしてリスペクトされるのかは、この歌を聴けばわかるだろう。


「シスターズ・オー・シスターズ」は好きだけれど、これを書きながらあれこれ聴き返していても、やっぱり『ダブル・ファンタジー』のヨーコの曲はやっぱり飛ばしてしまうのだが、まあ、ジョンの曲だってすべてが好きだというわけにはいかないのだから、音楽的に関心を持てないものだってあるのは仕方がない。もちろんそのすべてを肯定する必要ない。

『ダブル・ファンタジー』といえば、個人的には「ウォッチング・ザ・ホイールズ」の歌詞が好きで、十代の頃の僕は「頭がおかしい? 怠けている? なんとでも言ってくれ、僕はただここに座って回っている車輪を眺めているのが好きなんだ」というのを、ジョンが書いた文脈とは違うものかもしれないが(この曲は「主夫」となったジョンに向けられた否定的声へのリアクションだとされている)、自分のことのように思えたものだった。そして気が付けば『ダブル・ファンタジー』のときの、つまり命を落としたときのジョンの年齢に近づいているのであった。ショーンももう父親の年齢を追い越してしまっているのですからねえ……





出ない邦訳、出る邦訳

ジョニー・マーの自伝が翻訳刊行決定」なる記事のタイトルを見て「モリッシーの方が先でしょうに!」と思ったら、「モリッシーの自伝が翻訳を許されていない現在」なんて箇所が。

不勉強にも気がつかなかったが、こちらにあるように2014年の時点でモリッシーは自伝が翻訳されるのを拒否しているというというのは出ていたのですね。理由はよくわからんが翻訳の質を懸念しているのでは……という推測がなされているが、その結果英語がよくできない人が英語で読まされることによって生まれる弊害もかなり大きいと思うのだけれど。

まあ確かに音楽のバイオ本って質が低い邦訳が他ジャンルに比べて多い印象もあるが、日本のそんな事情をモリッシーが承知しているとも思えないし(もちろん日本語訳だけが拒否されているのではない)、翻訳者の選定など契約によって防ごうと思えば防ぐこともできるだろうし、この推測は真に受けることはできないのだが、まあこれもモリッシーらしいとすべきなのか。

モリッシーの自伝は買ってはいるのだけど、そのうち邦訳が出るだろうからそちらを待とうとほっぽらかしていたのだが、ブレイディみかこさんの本に合わせて頑張って読みますかね……



個人的な……

新聞等でインフルエンザを「インフル」と略すのはもう見慣れたが、では個人的には違和感が消えたのかといえばそうではない。最近よく目にするようになったものではバングラデシュを「バングラ」と略すのもまたそうだ。紙数に限りがあることは言われなくてもわかっているが、しかしその三文字を略すことで何か有益な情報が詰め込めているのか、という気持ちが拭えないのである。……なんてことをぶつくさ言いながら、このところ久しぶりに『バングラデシュ・コンサート』を引っ張り出して聴いている。




1960年代後半から西パキスタンと東パキスタンの関係は緊張の度を増し、後に独立しバングラデシュとなる東パキスタンからは大量の犠牲者が出て、数多くの難民が発生した。シタールの師であるベンガル出身のラヴィ・シャンカールからの要請を受けて、ジョージ・ハリスンを中心に行われたチャリティーコンサートの模様を収めたのがこのアルバムである。久しぶりに手に取って気付いたのだが、このコンサートが行われたのは1971年8月1日なので、間もなく丸45年ということになる。

「めちゃくちゃになっている こんな苦しみは見たことがない 手を差し伸べなくては 理解しなくちゃ」 「こんなひどい惨事が 理解できないよ めちゃくちゃだ こんな苦しみなど知らなかった お願いだから背を向けないでくれ 声を聞かせてくれ バングラデシュの人たちを救わなくては バングラデシュを救わなくては」というジョージが作った「バングラデシュ」の歌詞は、固有名詞を入れ替えれば今でもそのまま通用してしまいそうなのは、なんとも辛い。



ところで、ラヴィ・シャンカールがチューニングを終えると拍手がわいて、「チューニングをこれほど気に入っていただけたのなら、演奏はさらに楽しんでもらえることでしょう」と言っているのだけれど、これって「待ってました」の拍手なのか、チューニングだと思わずに一曲終わったと思ってパチパチやってしまったのとどちらなのだろう。クラシックのコンサートでもちょっとした間で拍手をしてしまう人がいるが、「やっちまったぜ……」という感じだったのだろうか。


またこのコンサートは、何度かあったビートルズの4人が解散後に同じステージに上る可能性があったものの一つとしても知られている。ジョンは参加するつもりでいたがヨーコをステージに上げるのをジョージに拒まれたために参加を取りやめたとされ、ポールはビートルズ再結成の期待をもたせたくないということで見合わせた。ちなみにここでも披露されている「ワー・ワー」は、映画「レット・イット・ビー」において最も有名かもしれない場面である、ポールがジョージに対してギターを「指導」し、ジョージが気分を害して険悪な雰囲気となるというあの出来事の後に書かれたもので、ポールについての歌だとされている。「君には僕の涙が見えない 君には僕の歌が聞こえない」なんて目の前で歌われてたら、ポールはどんな気分になったのだろうか。









そういえばジョージの追悼コンサートではやってましたね。ポールの表情がやや微妙に思えるのは気のせいか。






それでもなかなか豪華な面々が集まったが、中でも注目を集めたのがボブ・ディランとエリック・クラプトンだった。
ディランはバイク事故以降公の場にほとんど姿を現さず、69年のワイト島でのフェス以来久々のライヴだった。後にトラヴェリング・ウィルベリーズも一緒にやるように、ディランはビートルズのメンバーの中ではジョージと一番仲がよかった。








ジョージの親友といえばなんといってもクラプトンである。当時クラプトンはヤク中アル中で心身共にボロボロでほとんど人前に現れることはなかったが、こちらもジョージの友情に応えた。




それにしても、45年前の人にジョージよりもクラプトンの方が長生きするよ、と言っても誰も信じなかったことだろう。世の中どいうのはなにがどうなるのか本当にわからない。バッドフィンガーも参加しているが、いろいろ哀しくもなってくる。

レコード化にあたりプロデューサーをジョージと共に務めたのはフィル・スペクターであるが、この30年ほど後にあんなことになるよ、と当時の人に言ったとしても誰も……驚かないかもしれない。

ちょうど『オール・シングス・マスト・パス』が出た後ということでこのアルバムから多くの曲が演奏されている。ご存知の通り、フィル・スペクターは未完成のまま放り出された「ゲット・バック・セッション」をアルバム『レット・イット・ビー』に仕上げるが、ポールはスペクターによる過剰プロデュースに激怒した。一方ジョージとジョンはスペクターをソロ・アルバムのプロデューサーに起用しており、『オール・シングス・マスト・パス』もフィル・スペクタープロデュースである。




個人的にはタイトル曲の「オール・シングス・マスト・パス」は『アンソロジー 3』に収録されることになるギターでのシンプルな弾き語りの方が合っているような気がしなくもない。ポールは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」がスペクターにストリングスと女性コーラスを足されて大仰なアレンジにされたことに腹を立てたのだが、個人的には「オールシングス・マスト・パス」も装飾を削った方がより曲の魅力が引き立つように感じられる。





ではジョージとフィル・スペクターは合わないのかといえば、「ウォール・オブ・サウンド」が全開となっていて心地よい曲も多い。まあこのあたりのアレンジというのは完全に好みの問題で、「ヒア・カムズ・ザ・サン」(これはフィル・スペクターは関係ないが)なんかは僕はやっぱりあのシンセがないと物足りないなあなんて感じるのだが(ジョージはいち早く電子楽器にはまっていた)、『バングラデシュ・コンサート』でのようにシンプルにアコギだけで十分だし余計な音を加える必要なんてないじゃん、となる人の方が多いかもしれない。



『オール・シングス・マスト・パス』の中では個人的には分厚い音の「ホワット・イズ・ライフ」が一番好きなのだけれど、この曲のどこがどう好きなのかと訊かれてもうまく答えられそうにない。




個人的な好みの問題といえば、ちょうどジョン・カーニー監督の『シング・ストリート』が公開されているが、前作『はじまりのうた』のキーラ・ナイトレイの歌声はもうどんぴしゃに好みで、これを聴いただけでもうたまらんという感じになった。



一方で同じ曲を歌っても、アレンジや歌手によってこうも異なるのかというのがこちら。アダム・レヴィーンのバージョンはアレンジも歌い方もとにかく苦手で、もう笑ってしまいたくなるくらい嫌なのだけれど(なんだよ、あの裏声は!)、これなど理屈の問題ではなく、それを言っちゃあおしまいよという言葉を使えば、生理の問題なのだろう。









音楽映画といえば『ラブ&マーシー』はブライアン・ウィルソンの精神が1960年代に崩壊していくのと80年代についに回復し始める様子とが平行して描かれるのであるが、映画そのものの出来がどうというのではなく、個人的な好みでいえば80年代のパートはいらなくて60年代の『ペット・サウンズ』の成功から『スマイル』の挫折のみでもよかったんじゃないかとも思ってしまった。まあそれならいっそのことハル・ブレイン(『ラブ&マーシー』でもいい味を出していた)を狂言回しにして50年代後半からの10年ほどのアメリカの音楽シーンを描くというような映画があってもいいのかもしれない。フィル・スペクターも大活躍することになるしね。






という感じで『オール・シングス・マスト・パス』も聴いているのだけれど、『バングラデシュ・コンサート』には未収録ながらリハは行われていて、『オールシングス・マスト・パス』には収録されているディラン作の「イフ・ノット・ユー」であるが、聴き返すたびに思うのだけれど、これって「ピース,ラヴ・アンド・アンダースタンディング」の、とりわけエルヴィス・コステロ版に影響を与えているような気がするのだが、個人的な思い込みだろうか。こういうのって一度そう聞こえてしまうともうそうとしか思えなくなってしまうのですよね、という感じで現実逃避をしている……









『ビートルズ・サウンドを創った男  耳こそはすべて』

ジョージ・マーティン著 『ビートルズ・サウンドを創った男  耳こそはすべて』

亡くなってからで申し訳ないが、未読だったジョージ・マーティンの自伝をようやく。原著の刊行は1979年なので当然ながらジョージ・ハリスンやジョン・レノンの訃報には触れられていない。また60年代後半の、ビートルズが空中分解していく様子というのもほとんど描かれてはいない。考えてみれば原著刊行時はまだあれから10年足らずのことで、マーティン自身も傷ついただろうし、振り返るには関係者にとってはあまりに生々し過ぎるということだったのかもしれない。『サージェント・ペパー』レコーディング時にポールのある行動によって気分を害したエピソードがあるが、ビートルズのその後をほのめかしているようにも読めなくもないものの、マーティンは解散後はポールと一番近かったのでうがちすぎかもしれないが。

という感じで、むろん暴露本の類ではもちろんないので、ある程度ビートルズについて知識がある人にとっては本書によって意外な真相や衝撃的な事実が明らかになるというということはないかもしれない。ユーモラスな調子で生い立ちから70年代までが語られ、またレーコディングの技術的なことについても詳しく扱われているので、ジョージ・マーティンの人間性についてやレコーディング技術史のようなものに興味がある人にとってもいいだろう。


第Ⅰ章はビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインから夜中に電話がかかってくる場面から始まる。これまでイギリス勢がアメリカのチャートで成功するのは至難の業であり、ビートルズも数度壁に跳ね返されていた。しかしついに、「抱きしめたい」が全米一位を獲得することになったという報せだった。この時マーティンはパリのホテルにいた。目的の一つはオリンピア劇場でのビートルズのフランスでのデビューを見ること。もう一つがそのついでにパリでレコーディングすることだった。

ドイツのEMIは、ドイツ語で歌わない限りドイツでは成功しないと主張した。そのためドイツ語で「抱きしめたい」と「シー・ラヴズ・ユー」をレコーディングしていた。フランスでも同じ事をするはずだったのだが、マーティンがパリのスタジオで待っていてもメンバーは一向に現れない。ホテルに電話すると、ロード・マネージャーのニール・アスピノールが電話に出て、例のレコードを作りたくないからそちらには行かないと言った。マーティンは激怒した。何に怒ったのかというと、彼らがそれを直接言う度胸がなかったことだ。メンバーが彼をこれほど怒らせたことはなかった。ホテルに乗り込むと、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ、それにアスピノールとアシスタントのマル・エヴァンス、ポールの恋人のジェーン・アッシャーが、ルイス・キャロルの世界のごときお茶会を開いていた。マーティンが部屋に入ると、メンバーは走り回ってソファーやピアノなど隠れられそうなところに逃げ込んだ。「卑怯者め!」と怒鳴りつけると、「恥ずかしそうに微笑みながら、イタズラな生徒のように、それぞれの隠れ場からビートルズの顔が現れ」、「悪かったよ、ジョージ」と呟くのであった。こんな顔をされたらもう怒ってはいられない。結局マーティンもこの「気違いざた」のパーティーに参加することになる。そして彼らの言うとおり、ビートルズはもう英語で歌うだけで十分だということがわかることになるのであった。

ビートルズがついに契約を獲得してジョージ・マーティンと初めてのレコーディングに挑んだとき、マーティンが録り終えたばかりの音を聴かせて、「もし気に入らないことがあったらなんでも言ってくれ」と言うと、ジョージ・ハリスンが「そうですか、そんならあなたのネクタイが気に入らない」と返した。「まるで学校の先生をからかった生徒を、ほかの生徒がふざけて突っつくように」、メンバーは笑い転げた。

このようにジョージ・マーティンとビートルズの関係は幸福な意味で、学校の先生と憎めないイタズラ小僧とのそれのようだ。皆がドラッグにはまりだしても、レコーディングの最中にマーティンの前では使うことはなく、トイレに入ってマリファナを吹かしたりしていたのだった。


ジョージ・マーティンの父親は大工だった。つまりビートルズの面々と同じように労働者階級出身である。娯楽の少ない当時のこと、幼少期には後にテレビが占める位置にピアノがあった。短いレッスンを受けた以外は独学でピアノの練習を続ける。第二次大戦が始まるとマーティンは海軍航空隊に志願する。ピアノの腕を見込まれて海軍の娯楽演芸班に誘われたこともあったが、これは断っている。戦後も軍に残り、退役軍人の再就職の支援を行う部署に務めたが、今度は除隊後の自分の身の振り方を決めねばならなくなる。教育も、手に職もなかったマーティンにとって、やれることといえば音楽しかなかった。

エリック・ハリスンというピアニストのコンサートに行き、みんながいなくなるまで時間を潰して、一人になったところでピアノを弾き始めた。それをエリック・ハリスンが聴き、今のはなんていう曲だとたずねた。マーティンは自分で作曲したと答える。エリックが名前をもらったシドニー・ハリスンという人物を紹介され、シドニーはギルドホール音楽学校への進学を勧める。軍務についていたので補助金が支給されることになり、最初の妻とささやかな生活を送ることができた。

ギルドホールではオーボエを始め、学校を出たあとはオーボエ奏者などとしてなんとか生計を立てようとしたが厳しかった。そんなときにEMIから声がかかる。どうやって自分の名前を知ったのか不思議だったが、後にこの事情がわかる。EMIのオスカー・ブレウスはアシスタントを探していて、ヴィクター・カーンという人物に相談する。このカーンはシドニー・ハリスンの親友だった。カーンから心あたりを訊ねられると、シドニーはこう答えた。「ギルドホールを終えたばかりの若者がいる。名前はジョージ・マーティンだ」。


ジョージ・マーティンがEMIで働くまでの話も偶然に導かれてのことのようだが、何よりもビートルズとの出会いこそがその最大のものだろう。

ビートルズはレコード会社との契約を逃し続けた。ブライアン・エプスタインは最後の手段として自主制作レコードを作ることにする。当時HMVショップに1ポンド強でプライベート・レコードが作れるコーナーがあった。そこでエンジニアをしていたのがテッド・ハントリーという人物だった。彼は一聴してこれはいけると思い、友人のシド・コールマンに電話した。ブライアンはシドの務めている音楽出版社にできたてのレコードを持っていく。シドは出版社を見つける前にレコード契約が先ではないか、と言う。ブライアンはすでにあちらこちらから断られ続けていることを話した。するとシドは、「それなら、パーロフォンのジョージ・マーティンに会ってみたら?」と言ったのだった。シドはマーティンの友人だった。マーティンのもとにシドから電話がある。まだレコード契約していないバンドから音源を持ち込まれたのだが、聴いてみないかと訊かれ、マーティンは「もちろん」と答える。

デッカのディック・ロウは「ビートルズを見送った男」という汚名を背負わされているが、これは不当なものだと、マーティンは言う。というのも、デッカだけでなくイギリス中が契約を見送っていたからだ。むしろ彼は、「他の人がまったく相手にしなかった時に、真剣に彼らに取組んだとして称賛されるべきだ」。なにせデッカは、ビートルズに一度ならず二度もレコーディング・テストの機会を与えていたのだから……とはいうものの、だからこそ「汚名」はかえって強くもなってしまうのでもあるのだが。

もっとも当時の業界ではこんなことは日常茶飯事だった。マーティンもEMIで働き始めたすぐの頃、ある映画を見てその音楽をレコードにするのにふさわしいか報告する仕事を与えられた。もちろんこれは個人的な好みを訊いているのではなくヒットするか否かを判断しなくてはならないのだが、その曲が趣味に合わなかったマーティンは酷評するレポートを出した。そしてご想像の通り、その曲はヒットすることになる。

またマーティンのアシスタントだったロン・リチャーズは同じ任務を帯びてある映画を見に行った。彼は「いくつかの付随的な音楽はあったが、どれもさほどの価値がない」と報告した。その映画に使われていた曲は「ムーン・リバー」といった。コロムビアはダニー・ウィリアムズが「ムーン・リバー」を吹き込みヒットさせたが、「パーロフォンは何ひとつ作らなかった」。

1957年、マーティンはトミー・スティールとザ・ヴァイパーズ・スキッフル・グループを見に行ったことがあった。リードシンガーには心惹かれなかったが、バンドには光るものがあったように思えた。そこでEMIはバンドとだけ契約を結び、トミーはその翌日にデッカと契約する。大スターとなったのはトミーだった。

こういった悲喜劇は現在でも繰り返されているのであるが、ビートルズが成功を収めてどのレコード会社も血眼になってスター候補を探し、先物買いをしまくることになるまでは、レコード業界のあり方というのはこの後とは大分違ったようだ。

ジョージ・マーティンはビートルズを手がける前はピーター・セラーズなどとコミックソング的なレコードを作っており、ビートルズの面々はこれを知っていたのでマーティンのことを出会った時から尊敬していた。

このようなレコードの初回プレスはなんと三〇〇枚ほどだった。「今日の標準から考えれば、三〇〇枚のレコードなど、情けないほど少なく思える。けれども、当時はおそらく一八〇枚ほどしか売れなかったものが大半を占めていたのである。録音経費がさほどかからなかったために、そうした数字は経済的に見通しがつくものであったわけだが、一方レコードの値段は非常に高かったのである」。

現在では配信やストリーミングなどによってレコード/CDが売れなくなったことへの嘆き節がよく聞かれる。僕もどちらかといえばCD、あるいは紙の本といった「モノ」にいささかフェティッシュな思い入れがある方なので、全てがデータに取って代わられるような世界を想像するとぞっとしてしまう。

とはいえ、活版印刷が発明されるまではヨーロッパにおいては本など手にしたことのある人の方が超のつく少数派であり、ペーパーバックの登場以前と以後では「本を買う」という感覚は大分異なるものだろう。アルバム単位でレコードを買うのが一般化するようになるのは、それこそビートルズ登場以降のことである。長い音楽の歴史からすればレコード/CDでアルバムを買って、それを通して聴くというのはたかだか50年ほどの、ほんのわずかな期間のことであったとすることもできるのかもしれない。

本書の「プレリュード」はまずレコードの歴史から始められている。ちょうどこの本執筆時の1977年のレコードには、レコード誕生100周年を記念するプリントがされたものが多かったそうだが、つまりレコードの歴史からしてその程度のものということもできるのだろ。

では音楽は新たな段階に入っただけで嘆くにはあたらずと思うのかといえば、それこそ『サージェント・ペパー』をはじめとするビートルズのアルバムを通しで聴くあの感覚を思えば、やはり失われては困るものとも感じるのであるが。


本書は品切れ状態なので古本屋で探すか図書館をあたって……と思ったら復刊されるのね、よかったよかった。





ジョージ・マーティン

「イン・マイ・ライフ」のピアノはジョージ・マーティンが演奏している。



この曲は『ラバー・ソウル』に収録されているが、このあたりの中期ビートルズというのが、ビートルズの面々の才能とジョージ・マーティンのプロデュースとが最も幸福な形で噛み合っていたのかもしれない。ビートルズについてはよく初期と後期どっちが好きかというような話になるが、足して2で割ってというわけではないが、個人的には『ラバー・ソウル』や『リボルバー』などの中期が一番好みかもしれない。

『リボルバー』ではストリングスやブラスといった「非ロック的」な楽器を導入しての美しいバラードやポップスがあり、「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」のような実験を繰り広げつつ、かつストレートなロックンロールも奏でてくれているが、ジョージ・マーティンという存在抜きに彼らだけで到達できただろうか。







メンバー全員が絶大な信頼を寄せていたマネージャーのブライアン・エプスタインの死後、メンバー間のすれ違いが取り返しようもなくなっていってしまうが、それでもこのあと数年間バンドとしてなんとかふんばることができたのは、ジョージ・マーティンあってというところもあったことだったろう。

とか偉そうなことを書いてしまったが、ジョージ・マーティンの自伝『耳こそはすべて』は未読なもので、そのうちに読まないと。



プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR