個人的な……

新聞等でインフルエンザを「インフル」と略すのはもう見慣れたが、では個人的には違和感が消えたのかといえばそうではない。最近よく目にするようになったものではバングラデシュを「バングラ」と略すのもまたそうだ。紙数に限りがあることは言われなくてもわかっているが、しかしその三文字を略すことで何か有益な情報が詰め込めているのか、という気持ちが拭えないのである。……なんてことをぶつくさ言いながら、このところ久しぶりに『バングラデシュ・コンサート』を引っ張り出して聴いている。




1960年代後半から西パキスタンと東パキスタンの関係は緊張の度を増し、後に独立しバングラデシュとなる東パキスタンからは大量の犠牲者が出て、数多くの難民が発生した。シタールの師であるベンガル出身のラヴィ・シャンカールからの要請を受けて、ジョージ・ハリスンを中心に行われたチャリティーコンサートの模様を収めたのがこのアルバムである。久しぶりに手に取って気付いたのだが、このコンサートが行われたのは1971年8月1日なので、間もなく丸45年ということになる。

「めちゃくちゃになっている こんな苦しみは見たことがない 手を差し伸べなくては 理解しなくちゃ」 「こんなひどい惨事が 理解できないよ めちゃくちゃだ こんな苦しみなど知らなかった お願いだから背を向けないでくれ 声を聞かせてくれ バングラデシュの人たちを救わなくては バングラデシュを救わなくては」というジョージが作った「バングラデシュ」の歌詞は、固有名詞を入れ替えれば今でもそのまま通用してしまいそうなのは、なんとも辛い。



ところで、ラヴィ・シャンカールがチューニングを終えると拍手がわいて、「チューニングをこれほど気に入っていただけたのなら、演奏はさらに楽しんでもらえることでしょう」と言っているのだけれど、これって「待ってました」の拍手なのか、チューニングだと思わずに一曲終わったと思ってパチパチやってしまったのとどちらなのだろう。クラシックのコンサートでもちょっとした間で拍手をしてしまう人がいるが、「やっちまったぜ……」という感じだったのだろうか。


またこのコンサートは、何度かあったビートルズの4人が解散後に同じステージに上る可能性があったものの一つとしても知られている。ジョンは参加するつもりでいたがヨーコをステージに上げるのをジョージに拒まれたために参加を取りやめたとされ、ポールはビートルズ再結成の期待をもたせたくないということで見合わせた。ちなみにここでも披露されている「ワー・ワー」は、映画「レット・イット・ビー」において最も有名かもしれない場面である、ポールがジョージに対してギターを「指導」し、ジョージが気分を害して険悪な雰囲気となるというあの出来事の後に書かれたもので、ポールについての歌だとされている。「君には僕の涙が見えない 君には僕の歌が聞こえない」なんて目の前で歌われてたら、ポールはどんな気分になったのだろうか。









そういえばジョージの追悼コンサートではやってましたね。ポールの表情がやや微妙に思えるのは気のせいか。






それでもなかなか豪華な面々が集まったが、中でも注目を集めたのがボブ・ディランとエリック・クラプトンだった。
ディランはバイク事故以降公の場にほとんど姿を現さず、69年のワイト島でのフェス以来久々のライヴだった。後にトラヴェリング・ウィルベリーズも一緒にやるように、ディランはビートルズのメンバーの中ではジョージと一番仲がよかった。








ジョージの親友といえばなんといってもクラプトンである。当時クラプトンはヤク中アル中で心身共にボロボロでほとんど人前に現れることはなかったが、こちらもジョージの友情に応えた。




それにしても、45年前の人にジョージよりもクラプトンの方が長生きするよ、と言っても誰も信じなかったことだろう。世の中どいうのはなにがどうなるのか本当にわからない。バッドフィンガーも参加しているが、いろいろ哀しくもなってくる。

レコード化にあたりプロデューサーをジョージと共に務めたのはフィル・スペクターであるが、この30年ほど後にあんなことになるよ、と当時の人に言ったとしても誰も……驚かないかもしれない。

ちょうど『オール・シングス・マスト・パス』が出た後ということでこのアルバムから多くの曲が演奏されている。ご存知の通り、フィル・スペクターは未完成のまま放り出された「ゲット・バック・セッション」をアルバム『レット・イット・ビー』に仕上げるが、ポールはスペクターによる過剰プロデュースに激怒した。一方ジョージとジョンはスペクターをソロ・アルバムのプロデューサーに起用しており、『オール・シングス・マスト・パス』もフィル・スペクタープロデュースである。




個人的にはタイトル曲の「オール・シングス・マスト・パス」は『アンソロジー 3』に収録されることになるギターでのシンプルな弾き語りの方が合っているような気がしなくもない。ポールは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」がスペクターにストリングスと女性コーラスを足されて大仰なアレンジにされたことに腹を立てたのだが、個人的には「オールシングス・マスト・パス」も装飾を削った方がより曲の魅力が引き立つように感じられる。





ではジョージとフィル・スペクターは合わないのかといえば、「ウォール・オブ・サウンド」が全開となっていて心地よい曲も多い。まあこのあたりのアレンジというのは完全に好みの問題で、「ヒア・カムズ・ザ・サン」(これはフィル・スペクターは関係ないが)なんかは僕はやっぱりあのシンセがないと物足りないなあなんて感じるのだが(ジョージはいち早く電子楽器にはまっていた)、『バングラデシュ・コンサート』でのようにシンプルにアコギだけで十分だし余計な音を加える必要なんてないじゃん、となる人の方が多いかもしれない。



『オール・シングス・マスト・パス』の中では個人的には分厚い音の「ホワット・イズ・ライフ」が一番好きなのだけれど、この曲のどこがどう好きなのかと訊かれてもうまく答えられそうにない。




個人的な好みの問題といえば、ちょうどジョン・カーニー監督の『シング・ストリート』が公開されているが、前作『はじまりのうた』のキーラ・ナイトレイの歌声はもうどんぴしゃに好みで、これを聴いただけでもうたまらんという感じになった。



一方で同じ曲を歌っても、アレンジや歌手によってこうも異なるのかというのがこちら。アダム・レヴィーンのバージョンはアレンジも歌い方もとにかく苦手で、もう笑ってしまいたくなるくらい嫌なのだけれど(なんだよ、あの裏声は!)、これなど理屈の問題ではなく、それを言っちゃあおしまいよという言葉を使えば、生理の問題なのだろう。









音楽映画といえば『ラブ&マーシー』はブライアン・ウィルソンの精神が1960年代に崩壊していくのと80年代についに回復し始める様子とが平行して描かれるのであるが、映画そのものの出来がどうというのではなく、個人的な好みでいえば80年代のパートはいらなくて60年代の『ペット・サウンズ』の成功から『スマイル』の挫折のみでもよかったんじゃないかとも思ってしまった。まあそれならいっそのことハル・ブレイン(『ラブ&マーシー』でもいい味を出していた)を狂言回しにして50年代後半からの10年ほどのアメリカの音楽シーンを描くというような映画があってもいいのかもしれない。フィル・スペクターも大活躍することになるしね。






という感じで『オール・シングス・マスト・パス』も聴いているのだけれど、『バングラデシュ・コンサート』には未収録ながらリハは行われていて、『オールシングス・マスト・パス』には収録されているディラン作の「イフ・ノット・ユー」であるが、聴き返すたびに思うのだけれど、これって「ピース,ラヴ・アンド・アンダースタンディング」の、とりわけエルヴィス・コステロ版に影響を与えているような気がするのだが、個人的な思い込みだろうか。こういうのって一度そう聞こえてしまうともうそうとしか思えなくなってしまうのですよね、という感じで現実逃避をしている……









『ビートルズ・サウンドを創った男  耳こそはすべて』

ジョージ・マーティン著 『ビートルズ・サウンドを創った男  耳こそはすべて』

亡くなってからで申し訳ないが、未読だったジョージ・マーティンの自伝をようやく。原著の刊行は1979年なので当然ながらジョージ・ハリスンやジョン・レノンの訃報には触れられていない。また60年代後半の、ビートルズが空中分解していく様子というのもほとんど描かれてはいない。考えてみれば原著刊行時はまだあれから10年足らずのことで、マーティン自身も傷ついただろうし、振り返るには関係者にとってはあまりに生々し過ぎるということだったのかもしれない。『サージェント・ペパー』レコーディング時にポールのある行動によって気分を害したエピソードがあるが、ビートルズのその後をほのめかしているようにも読めなくもないものの、マーティンは解散後はポールと一番近かったのでうがちすぎかもしれないが。

という感じで、むろん暴露本の類ではもちろんないので、ある程度ビートルズについて知識がある人にとっては本書によって意外な真相や衝撃的な事実が明らかになるというということはないかもしれない。ユーモラスな調子で生い立ちから70年代までが語られ、またレーコディングの技術的なことについても詳しく扱われているので、ジョージ・マーティンの人間性についてやレコーディング技術史のようなものに興味がある人にとってもいいだろう。


第Ⅰ章はビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインから夜中に電話がかかってくる場面から始まる。これまでイギリス勢がアメリカのチャートで成功するのは至難の業であり、ビートルズも数度壁に跳ね返されていた。しかしついに、「抱きしめたい」が全米一位を獲得することになったという報せだった。この時マーティンはパリのホテルにいた。目的の一つはオリンピア劇場でのビートルズのフランスでのデビューを見ること。もう一つがそのついでにパリでレコーディングすることだった。

ドイツのEMIは、ドイツ語で歌わない限りドイツでは成功しないと主張した。そのためドイツ語で「抱きしめたい」と「シー・ラヴズ・ユー」をレコーディングしていた。フランスでも同じ事をするはずだったのだが、マーティンがパリのスタジオで待っていてもメンバーは一向に現れない。ホテルに電話すると、ロード・マネージャーのニール・アスピノールが電話に出て、例のレコードを作りたくないからそちらには行かないと言った。マーティンは激怒した。何に怒ったのかというと、彼らがそれを直接言う度胸がなかったことだ。メンバーが彼をこれほど怒らせたことはなかった。ホテルに乗り込むと、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ、それにアスピノールとアシスタントのマル・エヴァンス、ポールの恋人のジェーン・アッシャーが、ルイス・キャロルの世界のごときお茶会を開いていた。マーティンが部屋に入ると、メンバーは走り回ってソファーやピアノなど隠れられそうなところに逃げ込んだ。「卑怯者め!」と怒鳴りつけると、「恥ずかしそうに微笑みながら、イタズラな生徒のように、それぞれの隠れ場からビートルズの顔が現れ」、「悪かったよ、ジョージ」と呟くのであった。こんな顔をされたらもう怒ってはいられない。結局マーティンもこの「気違いざた」のパーティーに参加することになる。そして彼らの言うとおり、ビートルズはもう英語で歌うだけで十分だということがわかることになるのであった。

ビートルズがついに契約を獲得してジョージ・マーティンと初めてのレコーディングに挑んだとき、マーティンが録り終えたばかりの音を聴かせて、「もし気に入らないことがあったらなんでも言ってくれ」と言うと、ジョージ・ハリスンが「そうですか、そんならあなたのネクタイが気に入らない」と返した。「まるで学校の先生をからかった生徒を、ほかの生徒がふざけて突っつくように」、メンバーは笑い転げた。

このようにジョージ・マーティンとビートルズの関係は幸福な意味で、学校の先生と憎めないイタズラ小僧とのそれのようだ。皆がドラッグにはまりだしても、レコーディングの最中にマーティンの前では使うことはなく、トイレに入ってマリファナを吹かしたりしていたのだった。


ジョージ・マーティンの父親は大工だった。つまりビートルズの面々と同じように労働者階級出身である。娯楽の少ない当時のこと、幼少期には後にテレビが占める位置にピアノがあった。短いレッスンを受けた以外は独学でピアノの練習を続ける。第二次大戦が始まるとマーティンは海軍航空隊に志願する。ピアノの腕を見込まれて海軍の娯楽演芸班に誘われたこともあったが、これは断っている。戦後も軍に残り、退役軍人の再就職の支援を行う部署に務めたが、今度は除隊後の自分の身の振り方を決めねばならなくなる。教育も、手に職もなかったマーティンにとって、やれることといえば音楽しかなかった。

エリック・ハリスンというピアニストのコンサートに行き、みんながいなくなるまで時間を潰して、一人になったところでピアノを弾き始めた。それをエリック・ハリスンが聴き、今のはなんていう曲だとたずねた。マーティンは自分で作曲したと答える。エリックが名前をもらったシドニー・ハリスンという人物を紹介され、シドニーはギルドホール音楽学校への進学を勧める。軍務についていたので補助金が支給されることになり、最初の妻とささやかな生活を送ることができた。

ギルドホールではオーボエを始め、学校を出たあとはオーボエ奏者などとしてなんとか生計を立てようとしたが厳しかった。そんなときにEMIから声がかかる。どうやって自分の名前を知ったのか不思議だったが、後にこの事情がわかる。EMIのオスカー・ブレウスはアシスタントを探していて、ヴィクター・カーンという人物に相談する。このカーンはシドニー・ハリスンの親友だった。カーンから心あたりを訊ねられると、シドニーはこう答えた。「ギルドホールを終えたばかりの若者がいる。名前はジョージ・マーティンだ」。


ジョージ・マーティンがEMIで働くまでの話も偶然に導かれてのことのようだが、何よりもビートルズとの出会いこそがその最大のものだろう。

ビートルズはレコード会社との契約を逃し続けた。ブライアン・エプスタインは最後の手段として自主制作レコードを作ることにする。当時HMVショップに1ポンド強でプライベート・レコードが作れるコーナーがあった。そこでエンジニアをしていたのがテッド・ハントリーという人物だった。彼は一聴してこれはいけると思い、友人のシド・コールマンに電話した。ブライアンはシドの務めている音楽出版社にできたてのレコードを持っていく。シドは出版社を見つける前にレコード契約が先ではないか、と言う。ブライアンはすでにあちらこちらから断られ続けていることを話した。するとシドは、「それなら、パーロフォンのジョージ・マーティンに会ってみたら?」と言ったのだった。シドはマーティンの友人だった。マーティンのもとにシドから電話がある。まだレコード契約していないバンドから音源を持ち込まれたのだが、聴いてみないかと訊かれ、マーティンは「もちろん」と答える。

デッカのディック・ロウは「ビートルズを見送った男」という汚名を背負わされているが、これは不当なものだと、マーティンは言う。というのも、デッカだけでなくイギリス中が契約を見送っていたからだ。むしろ彼は、「他の人がまったく相手にしなかった時に、真剣に彼らに取組んだとして称賛されるべきだ」。なにせデッカは、ビートルズに一度ならず二度もレコーディング・テストの機会を与えていたのだから……とはいうものの、だからこそ「汚名」はかえって強くもなってしまうのでもあるのだが。

もっとも当時の業界ではこんなことは日常茶飯事だった。マーティンもEMIで働き始めたすぐの頃、ある映画を見てその音楽をレコードにするのにふさわしいか報告する仕事を与えられた。もちろんこれは個人的な好みを訊いているのではなくヒットするか否かを判断しなくてはならないのだが、その曲が趣味に合わなかったマーティンは酷評するレポートを出した。そしてご想像の通り、その曲はヒットすることになる。

またマーティンのアシスタントだったロン・リチャーズは同じ任務を帯びてある映画を見に行った。彼は「いくつかの付随的な音楽はあったが、どれもさほどの価値がない」と報告した。その映画に使われていた曲は「ムーン・リバー」といった。コロムビアはダニー・ウィリアムズが「ムーン・リバー」を吹き込みヒットさせたが、「パーロフォンは何ひとつ作らなかった」。

1957年、マーティンはトミー・スティールとザ・ヴァイパーズ・スキッフル・グループを見に行ったことがあった。リードシンガーには心惹かれなかったが、バンドには光るものがあったように思えた。そこでEMIはバンドとだけ契約を結び、トミーはその翌日にデッカと契約する。大スターとなったのはトミーだった。

こういった悲喜劇は現在でも繰り返されているのであるが、ビートルズが成功を収めてどのレコード会社も血眼になってスター候補を探し、先物買いをしまくることになるまでは、レコード業界のあり方というのはこの後とは大分違ったようだ。

ジョージ・マーティンはビートルズを手がける前はピーター・セラーズなどとコミックソング的なレコードを作っており、ビートルズの面々はこれを知っていたのでマーティンのことを出会った時から尊敬していた。

このようなレコードの初回プレスはなんと三〇〇枚ほどだった。「今日の標準から考えれば、三〇〇枚のレコードなど、情けないほど少なく思える。けれども、当時はおそらく一八〇枚ほどしか売れなかったものが大半を占めていたのである。録音経費がさほどかからなかったために、そうした数字は経済的に見通しがつくものであったわけだが、一方レコードの値段は非常に高かったのである」。

現在では配信やストリーミングなどによってレコード/CDが売れなくなったことへの嘆き節がよく聞かれる。僕もどちらかといえばCD、あるいは紙の本といった「モノ」にいささかフェティッシュな思い入れがある方なので、全てがデータに取って代わられるような世界を想像するとぞっとしてしまう。

とはいえ、活版印刷が発明されるまではヨーロッパにおいては本など手にしたことのある人の方が超のつく少数派であり、ペーパーバックの登場以前と以後では「本を買う」という感覚は大分異なるものだろう。アルバム単位でレコードを買うのが一般化するようになるのは、それこそビートルズ登場以降のことである。長い音楽の歴史からすればレコード/CDでアルバムを買って、それを通して聴くというのはたかだか50年ほどの、ほんのわずかな期間のことであったとすることもできるのかもしれない。

本書の「プレリュード」はまずレコードの歴史から始められている。ちょうどこの本執筆時の1977年のレコードには、レコード誕生100周年を記念するプリントがされたものが多かったそうだが、つまりレコードの歴史からしてその程度のものということもできるのだろ。

では音楽は新たな段階に入っただけで嘆くにはあたらずと思うのかといえば、それこそ『サージェント・ペパー』をはじめとするビートルズのアルバムを通しで聴くあの感覚を思えば、やはり失われては困るものとも感じるのであるが。


本書は品切れ状態なので古本屋で探すか図書館をあたって……と思ったら復刊されるのね、よかったよかった。





ジョージ・マーティン

「イン・マイ・ライフ」のピアノはジョージ・マーティンが演奏している。



この曲は『ラバー・ソウル』に収録されているが、このあたりの中期ビートルズというのが、ビートルズの面々の才能とジョージ・マーティンのプロデュースとが最も幸福な形で噛み合っていたのかもしれない。ビートルズについてはよく初期と後期どっちが好きかというような話になるが、足して2で割ってというわけではないが、個人的には『ラバー・ソウル』や『リボルバー』などの中期が一番好みかもしれない。

『リボルバー』ではストリングスやブラスといった「非ロック的」な楽器を導入しての美しいバラードやポップスがあり、「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」のような実験を繰り広げつつ、かつストレートなロックンロールも奏でてくれているが、ジョージ・マーティンという存在抜きに彼らだけで到達できただろうか。







メンバー全員が絶大な信頼を寄せていたマネージャーのブライアン・エプスタインの死後、メンバー間のすれ違いが取り返しようもなくなっていってしまうが、それでもこのあと数年間バンドとしてなんとかふんばることができたのは、ジョージ・マーティンあってというところもあったことだったろう。

とか偉そうなことを書いてしまったが、ジョージ・マーティンの自伝『耳こそはすべて』は未読なもので、そのうちに読まないと。



キャリー・ブラウンスタインの回想録も……

キム・ゴードンが自伝『Girl in a Band』を出版した後にスリーター・キニーのキャリー・ブラウンスタインと対談している。



そのブラウンスタインも最近回想録Hunger Makes Me a Modern Girl: A Memoirを出版した。ニューヨーク・タイムズの書評はこちら




こちらはデイヴ・エガーズとの対談。



『Girl in a Band』は思いのほか早く邦訳が出たが、こちらも邦訳が出て欲しいのだが、どうなりますか……







『GIRL IN A BAND  キム・ゴードン自伝』

キム・ゴードン著 『GIRL IN A BAND  キム・ゴードン自伝』




2011年10月、キム・ゴードンとサーストン・ムーアの離婚が公表された。仲のいい夫婦というイメージのみならず、ミュージシャン同士のカップルという枠を越えて、ある種の象徴のように仰ぎ見ていた人にとってはかなりの衝撃を受けた出来事であったろう。

本書には「サロン」に載った、「まさかキム・ゴードンとサーストン・ムーアが離婚するなんて」という記事が引用されている(これかな)。この記事に「彼らが私たちとは違うなんてことがあるだろうか」とある。
キムはこう書いている。「いい質問だ。私たちは違っていなかったし、そこで起こったことはといえば、おそらく史上最高によくある話だった」。

キムといえばまず浮かぶイメージが「クール」だろう。クールという言葉がこれほど似合う女性はそうはいない。しかしこれはキムの真の姿であったのだろうか。
「超然としている、無表情、人を寄せつけないといった多くの人が私に抱いているイメージは、私が感情を示すとそれがどんなものであろうとからかわれることになった日々に由来する仮面〔ペルソナ〕だ」(p.41)としている。キムの「クール」さとは防衛反応でもあったのだ。それは彼女の幼少期の体験に由来しているのかもしれない。


父はUCLAの教授で教育社会学を専門とし、母は専業主婦だった。かつては詩人を目指したこともある父はどこか浮世離れしたところもあり、母はそれとは対照的に実務的であった。専業主婦とはいっても仕事をしていなかったわけではなく、大恐慌時代をほぼ母子家庭で生き抜いた経験を持つだけに裁縫が得意でお針子もしている。子どもの頃の服は全て母のお手製だった。キムは次第に母の作る服に満足がいかなくなるが、母は実用一辺倒のコンサバ趣味であったわけではないようだ。60年代に入るとヒッピー風の服も作るようになるし、また「ニューヨーカー」の表紙を使ってコラージュを作ったりもしていた。これは「油汚れ対策だと彼女は私たちに言ったが、しかし実際のところそれ以上のものだったし、気の利いた、ありがちでないアート作品だった」。幼い頃にすでにアーティストになるという夢を持ったキムにとって、「専業主婦」に収まっている母と「アーティスト」という面を持つ母はアンビヴァレントな存在に映っていたのかもしれない。

キムとサーストンの間にココが生まれると、母はただ一人の孫を可愛がったが、抱きかかえて離さないといった溺愛の仕方ではなく、何時間も眺めて見守った。母は「彼女は大丈夫、あなたは本当に彼女とよく遊んでふれあっているから」と言った。「それこそ彼女が私に決してしなかったことだと言わんばかりに」。キムは独立心旺盛な子どもであったが、同時に母との親密な関係も求めてもいた。ある時には「なんで私はもうお母さんの膝に座っちゃいけないの? なんでお母さんは私を抱きしめたりしないの?」と感じたこともあった。
「両親はふたりとも考え込む人だった」。キムの兄のケラーは母に「神経質すぎるよ!」と言った。キムも「なんでそんなに悲しそうなの?」と続けると、母は「だってこの世界はすごく気が滅入るところだから――戦争、とか」と言うのであった。

両親の不安はヴェトナム戦争という時代のみにあったのではない。このケラーの存在も、家族を暗くさせることになる。
キムは幼い頃には兄の傍若無人な振る舞いに苦しめられる。しかし次第に、ケラーの大胆不敵な行動や知的な面に魅力を感じるようになり、兄から文学や音楽を学びとっていく。しかしケラーのエキセントリックな言動は、彼の個性の問題ではなく精神の病であったことが明らかとなっていく。ケラーは大学をドロップアウトし、トレーラーに住み着くようになる。ヴェトナム戦争の最中のこと、徴兵されるのではないかという不安も病気に輪をかけたのかもしれない。ヒッピーとしてうろつくうちにチャールズ・マンソンファミリーから誘いを受けたこともあったが、幸いにもこれに加わることはなかった。ハンサムで女性にはよくモテたが、元ガールフレンドの一人がマンソンファミリーに殺されたという話もあるそうだ。

キムは兄の異変に気づき、両親に医者に見せるように訴えるが、当時は精神科への偏見もまだ根強く、両親は手に負えなくなるまで息子を病院に通わせることはなかった。結局ケラーは施設に入るより他ない状態にまで悪化し、現在にいたるまで完全には回復していない。兄を見舞いにいくと、薬のおかげもあって暴力的になることはなく優しい性格になっているものの、「現実とファンタジーの間を軽快に行き来し」、文明から隔絶したかのような生活をしている。面会に行くとき以外は電話をかけることはない。兄が「どこにいるんだ?」「いつ会いにくるんだ?」と言い出すことは避けられないし、期待を持たせてそれを失望に変えることをしたくないためだ。キムは「もし私の兄が彼でなかったら、私はどんな人間になっていただろうか」と考えるのだった。

父は若くしてパーキンソン病を患い、身体が衰えていく中医療ミスで死亡する。母はヘルパーの運転する車に乗っていて事故に合い、後遺症を抱えたまま亡くなる。貧困や虐待といった不幸な生い立ちではなかったものの、また幸せ溢れる家庭であったともいえないだろう。

人前に出る仕事をする人は(もっといえばあらゆる人間は)多かれ少なかれペルソナをかぶっているものだ。しかしキムの場合、この「クール」なペルソナは強いられたものという面もあり、当人も知らず知らずのうちに負担になっていたのかもしれない。
リチャード・ヘルの自伝についてこちらに書いたが、ヘルを名乗る前の幼少期から、彼の顔立ちは見間違えようもなくヘルそのものだ。内容的にもヘルのパブリック・イメージを裏切る部分はない。その演技性も含めてリチャード・ヘルというペルソナを引き受け続けているようにも読めた。一方、本書に収録されている写真を見ると、ティーンエイジャーの頃になっても、少しぽっちゃりとした少女らしいその姿はあのキムとはなかなか結びつかない。キムがあのキム・ゴードンの姿となるのは、家を出た二十歳前後の頃からだ。ここでいう「ペルソナ」というのはもちろん内面的なものであるのだが、外見においても、キム・ゴードンというあまりに強烈なパブリック・イメージのペルソナはどこか負担になっていたのかもしれない。

この回想は、すでに離婚を発表していたが契約上出演しなければならなかった南米のフェスを巡る、ソニック・ユース最後のツアーの模様から始まる。サーストンのロック・スター然とした振る舞いにキムは苛立っている。サーストンはまるで「僕は帰ってきた。僕は自由。僕はソロ」と叫んでいるかのようだった。これは裏を返せば、この時にはもうサーストンは自身のペルソナを脱いでふっきれていたということなのかもしれない。そしてキムは、「クール」なペルソナを脱ぎ捨てるにはこの回想を書くという作業を必要としていたということなのだろう。

多分これだろうが、確かにキムの表情は冴えないし、この時のサーストンにイラっとくるというのもなんとなくわからなくはない(キムも書いているように、特に最後の振る舞い方)。



本書はソニック・ユースのファン、そして8、90年代のアメリカのオルタナ・シーンなどに興味のある人にとっても貴重なものになっている。
サーストンとの運命的な出会い(キムがたまたま貰って家に置いてあったギターを見て、この日初めて彼女のアパートに来たサーストンはこのギターを知っていると言い張った。これは嘘ではなく、このギターの持主だった女性は二人の共通の知人で、サーストンは以前にこのギターを弾いたことすらあったのだ)。ソニック・ユースの結成、各アルバム製作秘話、ニール・ヤングなどとのツアーの様子や、娘のフランシスが生まれたがコートニー・ラブともどもドラッグに溺れ、「どうしたらいいのかわからない」とキムに訴えるカート・コバーンの姿なども語られる。

コートニーは自分のことしか考えられず、カートはコートニーよりも長い時間娘のフランシスと過ごしていたが、安心して助言を求められる相手が他に誰もいなかった。ちょうどこの瞬間を捉えた写真も収録されている。R.E.M.とツアーに出た際に、マイケル・スタイプと一緒にウィリアム・バロウズを訪ねると、バロウズは「あの子はどうしたんだ?」とマイケルに尋ねた。マイケルは「残念です……」と言うと、少し気まずそうにその場をキムとサーストンに譲った。「私たちはカートとニルヴァーナの歴史の一部みたいなものだったから」。




またフリー・キトゥンなどのサイド・プロジェクトや、ファッション・ブランド、X-girlにまつわるエピソード(キャンペーンのために幼いココと一緒に日本に来た時にソフィア・コッポラが撮った写真も収録されている)や、2001年9月11日の混乱をニューヨークで迎えた生々しい経験も語られている(当時ソニック・ユースにいたジム・オルークもこの時は大変だった)。


サーストンは世間で思われているよりも自己中心的で傲慢なところがあった。サーストンがキムに乱暴に口をきくのを初代ドラマーのリチャード・エドソンは諌めたが、リー・ラナルドやその後バンドに加わったスティーヴ・シェリーは口をつぐんだ。これはどこまでがバンド内のもめごとで、どこからがカップルの問題なのかが見極めにくかったためだろう、としてある。バンド内にカップルがいるとこういう少々ややこしい事態は避けられないのだろう。
「パワー・カップル」の「片割れの女性」という印象を与えないよう気を配り、またリーやスティーヴの前ではサーストンと口論しないよう気をつけた。

「私は生涯ずっと、他の人たちの感情を気にして、順応しようとしてきた――私の一見強そうな個性についてプレスがどれだけ頻繁に語ってきたかを思うと、皮肉な話だ」。

バンド内で「紅一点」であることや子どもを持つことに対するメディアの反応は旧態依然たるもので、苛立たせられた。子育てのためにニューヨークを離れたせいもあってバンドの力関係なども変化が生じざるをえなかった。

とはいえ、サーストンがいい父親であることは間違いなかった。家族の不幸も乗りこえ、ココも順調に育っていった。バンド内の力学もうまくいくようになっていった。全てが理想通りとはいかなくとも、これで文句を言ったらあまりに贅沢というものだろう、そう思えていたのかもしれない……あの事件が起きるまでは。


ある日、キムはサーストンのメールからある女性との関係を発見してしまう。当然ながら、キムはこの女性を極めて否定的に書いている。本書を読むと、ソニック・ユースの関係者なら誰でもいいといわんばかりのグルーピーに(なにせキムにも近づいてきた!)サーストンは年甲斐もなくひっかかってしまったかのようだ。しかしサーストンがその後もこの女性との交際を継続していることを考えると、サーストン側からは違った光景が見えていることだろう。

サーストンは関係を一旦は否定したものの、すぐに謝罪して問題は収まりかけたが、また同じことを繰り返す。二人はセラピーを受け、結婚カウンセラーとも面会する(あまり想像したくない場面だ)。サーストンがすぐに関係を断てば結婚生活やバンドを続けることも可能であったのかもしれないが、彼女への思いが断ち切られることはなかった。キムは裏切られた人間としてラップトップを見る権利があると主張した。「ごみ箱」から彼女への未送信メールが間もなく見つかった。「彼女というドラッグは彼を嘘つきに変えてしまった」。二人の共通の友人がサーストンの「暗闇」に不快にさせられ、彼にはもううちに来てほしくない、と語るほどだった。

しかしここでふと思うのは、そんなにヤバいものをなぜきちんと(という言い方もアレだが)処理しておかなかったのだろうかということだ。サーストンはそれが露見すれば結婚生活が破綻することは当然ながらわかっていたことだろう。サーストンは「ごみ箱」に入れただけで完全に消去されたと思うほどのコンピュータ音痴だったのだろうか。おそらくは、少なからぬ浮気の露見がそうであるように、意識的にか無意識的にかはともかくとして、二人の関係がキムにバレることをサーストンは望んでいたのだろう。サーストンの意識の中では、すでに夫婦関係はすでに終わりを迎えていて、あとは「何か」が背中を押してくれるのを待つばかりという状態だったのではないだろうか。

この騒動はベックをプロデューサーに迎えてサーストンがソロ・アルバムを製作する前後に起こっている。サーストンはベックとのセッションのためにLAへ向かう機上で情緒不安定であり、涙を浮かべたかと思うと心ここにあらずという感じになったというが、この直後に自らまた彼女と会っているということを告白している。そしてキムはサーストンの迷惑メールの中から、「信じられないぐらい不快な彼女の写真を見つけ」ることになる。サーストンはこの写真はずっと前に撮られたものだとしょうもない言い訳をするのだが、やはりこのあたりも結婚生活の終わりを望んでいた結果のように思えてしまう。

離婚の前後に泥試合を展開していてもおかしくはなかったのだろうが、サーストンは結婚の終わりもバンドの終わりも受け入れると新たな生活をすんなりと始めているかのようだ(キムにとってはそれはより一層腹立たしいことと写っただろう)。見ようによっては身勝手さを表しているとすることもできるのだろうが、サーストンの腹がすでに決まっていたことの表れだとすることもできるだろう。もちろん、だからといってサーストンの行為が正当化できるというのではないが。


事前の評判なんかを聞くと、二人の関係についてもっとどぎついことが書かれているのかと思ったのだが、まあきついといえばきついのだが想像していたほどではなかった。これはキムが「赤裸々な告白」をするようなタイプには思われていなかったために広まった評判だったのだろう。

浮気を発見して「泣くまいと震えながらニューヨークをさまよ」ったり、セラピストに電話をしたが何を言われたのかすら覚えていない、最後のツアーに向かう前のリハーサルは抗不安薬を飲んでなんとか乗り切った、といったようなことは、いずれもキムのパブリック・イメージが強烈に植えつけられている側からするとあまり知りたくないような出来事であるが、逆にキムからすると、であるからこそこれを書かなくてはならなかったのだろう。そう考えると、一人の女性が傷つきながら解放され、自由を獲得する物語としても読むことができるし、意味深にも思えるタイトルはこのあたりに由来しているのだろう。


その他に面白かったエピソードをいくつか。

高校時代に仲のよかった友人の兄が後にテレビドラマ『アンジェラ 15歳の日々』を製作することになるが、この撮影が行われたのはキムが通っていた高校なのだという。キムは当時のボーイフレンドとよく学校を抜け出して鉄条網を乗り越えて彼の家に行ってはマリファナをキメてはマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』を聴いていちゃついていたということだが、そんなことを想像しながらこのドラマを見てみるのも一興かもしれない。

1972年にキムはサンタモニカ・カレッジに通い始め、ヴェニスに引っ越した。ここの家主のギレルモはクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのローディーもやっていて、ツアーから帰ってくると夜通し大騒ぎをして、キムもその一団に加わっていた。ギレルモにはブルース・ベリーという友人もいたが、90年代にソニック・ユースがニール・ヤングとツアーをしたときに、オーバードーズしたローディについてのヤングの「トゥナイト・ザ・ナイト」がこのブルースのために書かれたものだと気づいたそうだ。ブルースは73年に亡くなっている。



キムはそのブルースらと、夜通しドライブしてまったく関係なさそうな人の家を訪れるということをしていた。ハル・ブレインやプライマル・スクリーム療法の考案者のアーサー・ヤノフの家も訪れたという。何か応対したのか無視されたのか、その反応は書かれていないが、いい迷惑だったことは確実だろう。この時代のカルフォルニアに住んでいた有名人はよくこういう目にあっていたのかもしれない。

ニューヨークといえばゴキブリはその代名詞みたいなもの(?)で、キムもこれに悩まされた。「私の考えでは、小さなゴキブリ駆除装置コンバットを発明した人々こそ都会人のヒーローだ」。
僕は虫が苦手なもので、ニューヨークのゴキブリ話を見聞きする度に絶対にあそこには住めないわ~、と思ってしまうのだが、コンバットでなんとかなるものなのだろうか。
またキムがニューヨークへ出てきた頃は、鋪道を歩く時は建物から少し距離をあけておかなければならなかったそうだ。そうしないと巨大ネズミが……といのはうぎゃ~という感じで、キムより少し早くニューヨークへ出てきていたサーストンが、テレヴィジョンやリチャード・ヘルなんかをCBGBで生で見てたんだぜ、と自慢するのだが、あの時代のCBGBに行けるものなら行ってみたいものの、「やっぱり無理!」とも思ってしまう。

フェスでの簡易トイレの汚さに年をとると耐えられなくなってくることなどにも触れられていているが、不潔さといえばCBGBのそれはやはり別格という感じで、便座のないトイレで床に服や荷物をつけないように用を足すというのは男性にとってもそうだが、女性にとってはさらに大変だったろう。写真で見たことあるけれど、あんな所では出るものも出なくなるだろうなあ。


嗚呼!









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Author:佐藤太郎(仮)
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