『デトロイト』

『デトロイト』





キャサリン・ビグローのフィルモグラフィーは『ハート・ロッカー』以前と以降に分けても構わないだろう。マーク・ボールが脚本を手掛けた『ハート・ロッカー』、『ゼロ・ダーク・サーティ』、『デトロイト』には共通するスタンスがある。それは「大局」をあえて描かないことだ。もちろんこの手法には危うさがあり、『ハート・ロッカー』も『ゼロ・ダーク・サーティ』も、そして『デトロイト』もその点で厳しい見方もある。しかし、大局が描かれないからこそ、かえってよりはっきりと見えてくるものもある。そしてこの『デトロイト』の題材こそが、ビグロー-ボール的アプローチに最もマッチするものだったのではないだろうか。

それだけに、本作を前半・中盤・後半と三分割すれば、前半と後半をも少し切り詰めてより大胆な構成にしたほうが効果的であったのではないかとも思うが、さすがにそれではあまりに文脈を捉えそこなう観客が多くなり過ぎ、また観客は胃に鉛を押し込められ、そのまま放り出されるようになってしまうので、そこまではできなかったのかもしれない。


1930年代のドイツやその周辺のユダヤ人の言動を、ホロコーストを知っている目で見ると、なんとも歯痒く感じられてくる。もちろん、この後に何が起きるのかを知っていたらその行動はまるで違ったものになっていただろう。虐殺の被害者たちは迫りくる状況が見通せないし、一度暴力の濁流に飲み込まれてしまうと、最早そこから自力で逃れる術はほぼない。

ジョン・ボイエガ演じるディスミュークスは、白人からは話しのわかる黒人に映っていることだろう。一方で黒人からすれば白人に媚びを売る「アンクル・トム」と罵りたくなるような人物でもある。ディスミュークスの心理はよくわかる。怒りを抑え、腹立ちを飲み込み、屈辱に耐え、とにかく今この場の被害を最小限にしなければならない。そうして一日一日を生き延びなければ、しかるべき機会は訪れないではないか。しかしその彼は、アルジェ・モーテルの惨劇を前にあまりに無力である。もちろんその先に何が待っているのかを知っていれば、彼の対応は違ったものになっていただろう。

すでに数多く指摘されているように、ビグローはアルジェ・モーテルの惨劇をホラー映画の手法で描いている。人里離れた山荘、あるいは謎の邸宅、そこでちょっとした過ちや軽率な行動から巨大な暴力を引き寄せてしまい、得体の知れない、論理の通じない不条理な「何か」によって次々と命を奪われていくというのはホラー映画の定型である。アルジェ・モーテルは隔離された環境となり、被害者たちは先が全く見通せない状況に追い込まれる。この場を耐え忍んでやり過ごすべきなのか、逃げるべきか闘うべきか、論理が通じないだけに「正解」を探ることすらできない。

このように、『デトロイト』はもちろん人種問題を扱ったものでもあるが、同時に虐殺の起こるメカニズムを、被害者と加害者双方の側から描いている作品としても観ることができる。


先が見通せない、暴力の濁流に流されるという現象は加害者の側にも起こっている。デトロイト市警は「イカれている」とミシガン州警察に言われるほど、人種差別に凝り固まった白人警官を多数抱えている。一応は緊張に火に油を注がないように、恣意的な手入れをなるべく人目に触れさせないようにしようとするなど括弧つきの「配慮」ぐらいは示せるが、そんなものすら犬にでも食わせろといわんばかりの差別主義者が虐殺の加害者となる。しかし彼らは、警告もなしに背中から発砲するように黒人に対する暴力に一切の躊躇を持たないのであるが、ではアルジェ・モーテルの一件を完全にコントロールしていたのかといえばそうではない。

彼らは主観的には自分たちには正当性があると考えており、正当性があるからこそ暴力が許容されると認識している「黒人を殺して何が悪い?」とは、内心はともかく正面からは決して言わない。丸腰の黒人を背後から撃ちながら虚偽の証言で正当防衛を主張したり、射殺死体の横にナイフをぽとりと置くといった雑な証拠捏造は、この程度も自分たちが見逃してもらえるだろうと高をくくっているからでもあるが、またそれによって自分たちの振る舞いが正当なものであったと認められると本気で思っているからでもある。

アルジェ・モーテルの惨劇の最大の注目点は、警官たちの意思の疎通がうまくいっていなかったことから思わぬ事態が起こり、それによって正当性が毀損されてしまった思った警官たちが恐慌をきたし始める場面だ。つまり彼らは黒人相手なら何をしても自分たちは許されるはずだと考えていたのではない。正当性があれば自分たちの暴力は許容されるはずだし、自分たちのやっていることは正当なものだと受け入れられるはずだと信じていたのである。

これは関東大震災後の虐殺を想起してみるといいだろう。多くの証言があるように、虐殺の実行犯の多くは自分が何人殺したかを自慢しあうなど、明らかに暴力に、殺人に快楽を感じていた。では彼らは快楽殺人予備軍であったのだろうか。そうではないだろう。彼らは平時には、朝鮮人や中国人に差別的言動を取るかもしれないが、夜な夜なこれらの人びとを殺してまわるといった行動には出ないだろう。快楽殺人はどの社会にも存在するが、またそれは極めて例外的事象でもある。ある状況においては人殺しを楽しめるような人間でも、殺人は許されざるものであるという規範に行動を縛られている限りでは、その戒めを解いてまで殺人に手を染める者はごく少数だ。しかし一度暴力が正当化されるのだと感じれば、それはとめどなくエスカレートしていく。

そして虐殺が起こるもう一つにきかっけが被害者意識である。アルジェ・モーテルの惨劇はおもちゃの銃から始まった。警官も州軍も被害の実態を確かめもせず、自分たちが狙撃されたのだと思い込む。別の場面で子どもがブラインド越しに外をのぞいたのを狙撃犯が潜んでいると誤認しいきなり銃を乱射するのは、警察や州軍がいかにおびえていたかを表している。

日中戦争での日本軍やベトナム戦争でのアメリカ軍は、村丸ごと一つ焼き払うような蛮行をくり返した。誰が敵だかわからない以上全てを敵と見なせ、さもないとこちらがやられるという恐怖心や猜疑心も虐殺の引き金となる。

自分たちが正当性を持っているという意識と被害者意識は手を取り合う。やらなければやられる。やられる前にやれ。「我々」がやられるくらいならその前に「奴ら」を殺しても構わない。これは暴力ではなく身を守る防衛である。虐殺の実行者たちは暴力の快楽にひたりながら、同時にこれは「我々」を守るための「正しい」行為であると本気で信じている。

そうでなければ人は虐殺を行えない。ナチスがガス室を虐殺方法に選んだ理由の一つが、銃殺などの手段によって大量のユダヤ人の殺害を命じられていた兵士の精神的負担の軽減がある。殺すことが許されるどころか、それが奨励される状況にあってさえ、多くの人が殺人に抵抗感を覚える。全ての人間がその抵抗感を抑え込んで虐殺に参加するのではない。しかし少なからぬ人間からその抵抗感を消えさせるのは、自分たちこそが被害者であり、自分たちの行いは正当なものであるという意識であろう。そして彼らが公然と逸脱的な暴力をふるうようになればなるほど、平時であれば暴力を止める行動を取ったかもしれない人びとを傍観者へと追いやる。自分は殺さないが、目の前の殺人を止めようとはしなくなっていく。

虐殺のメカニズムでもう一つ重大な役割を果たすのが同調圧力である。「やらなければやられる」という意識もさることながら、「やらなければナメられる」という意識も人間を虐殺に向かわせる。これはマイノリティに対して「こちらが下手に出れば奴らはつけあがる」という意識だけでなく、マイノリティに同情的である、あるいは暴力の行使を躊躇していると仲間に思われたら、自分が「我々」の中で立場を失うという恐怖感となる。これは「普通」のドイツ人がいかに虐殺者を行うようになったか、そして虐殺に加わらなかったのはどのような人だったのかを扱ったクリストファー・ブラウニングの『普通の人びと』に描かれている。こういった同調圧力に屈する形で虐殺に加わる人間は、しばしば過剰な行動に出る。『デトロイト』でもまさにそのような警官が登場するが、皮肉なことに彼の行動が流れを変えることになる。これはアルジェ・モーテルが戦場ではなかったからで、もしこれが戦場であれば、あるいは関東大震災後のような混乱を極めた環境であれば、より一層激しい暴力を焚きつけたことになったかもしれない。またこの同調圧力は、虐殺や直接的な暴力にまで至らなかったとしても、差別の温床となる。

差別扇動がなぜ許されないのかは言うまでもない。近代以降の虐殺とされる事象の全てで差別扇動が行われているといっていいだろう。差別扇動はマジョリティの被害者意識を掻き立てる。このまま状況を放置すれば「我々」が「奴ら」に支配されることになる、狡猾な「奴ら」はどこにでも潜みおそるべき策略を立てている、卑怯で蔑むべき「奴ら」は手段を選ばないはずだ。そして差別扇動は、「やらなければ「我々」がやられる、故にこの暴力の行使は正しい」と、正当性を持っているという意識を与えることになる。

アルジェ・モーテルで警官たちは銃の発見に血道をあげる。明らかにその目的を逸脱しつつも(白人女性と同じ部屋にいた黒人男性に憎悪をつのらせる)、なおそれに固執し続ける。黒人が白人を狙撃した(と思い込んでいる)銃の存在は、「奴ら」による現実の脅威を証明するものであり、それによって自分たちの行いが正当化される(と信じている)からだ。銃を探し続けることは、自らの正当性を示す行為なのである。正当性が失われたと感じた警官たちは、あれほど固執していた銃の存在など忘れたかのように振る舞いだす。


もちろん、『デトロイト』は虐殺のメカニズムのみではなくアメリカの人種問題を扱った作品でもある。本作を残忍な差別主義者と可哀そうな被害者を描いたものだと思って観始めた人は、前半で黒人による商店の略奪が延々と描写されるのにとまどうかもしれない。とりわけ文脈を共有していない人が多い日本では「どっちもどっち」論を呼び起こしかねない。

なぜ商店の襲撃や略奪に至るのかといえば、恒常的な差別によって迫害されているだけでなく、嫌がらせである手入れの手引きをするのが黒人警官とその手先の黒人であるように、コミュニティが白人によって破壊されているからでもある。黒人政治家がここは我々の故郷だ、故郷を荒らすなと呼びかけても冷淡な反応しか返ってこない。多くの黒人たちがここを故郷だと感じられなくなっている。これは何年住んでいるかという問題ではない。商店主は警察と良好な関係を築かなければ商売をやっていけない。虐げられている黒人からすれば商店主は権力の手先どころか権力そのものとも映る。もちろん「大局」的に見るならば、敵を見誤っており無意味な暴力であってそんなことをしたところで事態はむしろ悪化するだけだとすることもできるだろう。しかしこれは差別され、踏みつけら、コミュニティがずたずたにされてきたことへのリアクションであって、無から生じた暴力ではない。

アメリカの黒人はなぜ暴力的なのかと、作中で白人女性が疑問を抱く。寸劇が繰り広げられその説明がなされるのであるが、これについてはタナハシ・コーツの『世界と僕のあいだに』を未読の人はぜひ読んでほしい。アメリカ合衆国では黒人は、自分や自分の愛する人が、いつ理不尽な暴力に合い命を奪われるかわからないという恐怖にさらされている。しかもそれは警官によってもたらされる。白人が感じるような被害妄想ではなく、現実にその被害が起きている。ただ道を歩いているだけで、車を運転しているだけで、警官から執拗な尋問を受ける。そして警官が不安を感じたからというだけの理由で黒人を射殺しても、その理由は正当なものだとして免責される。肉体的な暴力にまで至らなくとも、虫の居所が悪い警官が黒人に対して嫌がらせのような職質を行うことで憂さを晴らすというのもよく見られる。アメリカ合衆国に住む黒人はいつ何時理不尽な暴力にさらされるかという恐怖心の中でいきなければならず、これは被害妄想ではないのである。これもまた、無から暴力が生じているのではなく、リアクションとして暴力に至っているのである。


また後半部分でも観客をいささか戸惑わせる、あるいは右翼的な人間が喜びそうな展開がある。さしものデトロイト市警もアルジェ・モーテル事件を放置するわけにはいかず、実行者たちの訴追を決め任意での取り調べで自供を得ようとする。しかしここに警察組合の弁護士が介入し、弁護士抜きの取り調べを中止させる。ではこれは「人権派」弁護士が被害者を無視して加害者の保護ばかりを行っているというを表しているのだろうか。

人権思想には長年に渡って様々な批判があり(勘違いしている人が多いが、人権には私有財産の保護などが含まれているためにかつて左翼はブルジョワ思想の賜物だとこれを批判していた)、そして様々な挑戦を受けてきた。限界を認めつつも、現在では人権が認められない社会と認められている社会とのどちらがより良いものであるかについては論を俟たないであろう(……と言いたいところであるが、とりわけ「人権派」が罵倒用語として機能する日本では心持たないが)。

人権の肝は普遍性である。ある人には人権が認められるがある人には認められないというのであれば、それは最早人権と呼ぶことはできない。いくらでも恣意的な線引きが可能になり、実質的に人権は存在しないも同じになってしまう。「人権派」弁護士は犯罪者の味方をして被害者をないがしろにしているのではない。たとえ犯罪者であったとしても人権は守られるべきであるし、ましてや有罪の確定していない逮捕段階、さらには逮捕前においてはなおさらである。

恣意的に出し入れする人権は人権ではない。そもそもが、もし当時のアメリカ合衆国で遍く全ての人に平等に人権が認められていれば、あの差別主義者の警官たちはとっくに免職になっていたはずだ。人権が認められすぎているのが問題なのではなく、人権が無視され差別が横行していたがためにあの惨劇が起こったのである。

惨劇を途中で止めることができる可能性があったのは州軍とミシガン州警察である。前者のある人物は暴力に加わり、また別の人物は個人的にこれにささやかな抵抗をする。しかし公的にこの暴力を停止させようとはしない。ミシガン州警察にいたっては、黒人にも人権があるという認識を持ち、その人権が侵されていることを知りながら、やっかいごとに巻き込まれるのはごめんだと見て見ぬふりを決め込んで立ち去るのである。

「犯罪者に人権はない」と不当な捜査や拷問などが容認されるようなことになれば社会は腐っていく。死体の指紋をつけることすらなくナイフをぽとりと置いた程度でも、その「証拠」があれば相手は「犯罪者」であるのだから多少の荒っぽさは見逃しても構わないということになっていく。警官が暴力をふるいたい相手を挑発し、相手が手を出してくれば望むところ、散々挑発したうえでナイフを相手に差し出しこれに手を伸ばそうものならしめたもの、あとは警官が何をしようがこれは正当防衛であるということになってしまう。

「法の支配」やデュー・プロセスもまた同じである。裁判では強制的に取られた自供は証拠能力を持たないとしてこれが退けられ、警官たちの無罪につながる。「犯人」は自供しているのだからどういった状況で取られたものであれ自供は自供として扱うべきだということになれば、あらゆる手段を尽くして自供さえとってしまえばいいと、拷問すら認められるようになる。日本の刑事司法がまさにこれで、どんな形であれ自供が「証拠の王様」とされることから、人質司法をはじめとする人権侵害が未だに続き、冤罪の温床となっている。

ではあの裁判官はデュー・プロセスの原則に基づいて、弁護士の立ち合いのない任意の取り調べで強制的に取られたものだとしてあの自供を退けたのであろうか。これも人権と同じである。相手によって立場を変えるようであればそれは法の支配とは呼べない。白人と黒人の立場が逆であってもあの裁判官が同じ論理で自供を採用しなかったのかといえば大いに疑問である。アメリカの裁判が差別的に運用されているというのよく知られている。同じ罪でも白人なら起訴猶予なのが黒人なら起訴、白人なら執行猶予がつくのに黒人は実刑、白人よりも黒人に思い量刑が課せられるという状況は現在でも残っている。ましてやこれが60年代であれば、裁判官が恣意的に上辺のデュー・プロセスを使い分け、白人に甘く黒人に厳しい裁判の傾向は一層顕著であろう。陪審員の選出も公正なものとはとてもいえず、この事件の裁判のように多くの場合白人に有利なものとなる。

しかしデュー・プロセスなど欺瞞にすぎない、こんなものはクソくらえだ、犯罪者を裁くのに適正な手続きなど必要ないとなってしまえば、むしろ悪夢的状況が一層進展することになる。批判すべきはデュー・プロセスではなく、名ばかりのデュー・プロセスを恣意的に使うことである。「法の支配」とは「悪法でも法は法、法に従うのは当然で違法行為は粛々と取り締まる」というものではなく、とりわけ権力による恣意的な立法や法の運用を認めないということである。


本作に描かれているように、アメリカでは人権もデュー・プロセスも白人たちが恣意的に使うことによって黒人などマイノリティを抑圧し、支配してきた。アメリカの暗部をえぐりだした作品としていいであろうし、そうであるからこの作品は安易な希望をふりまくことはできない。

もちろん本作は倫理的に完璧なものではなく(そもそもそういったものは有り得ない)、その視点をはじめ、とりわけ黒人の側から見れば様々な異論や批判があるのも当然であろう。しかしアメリカの欺瞞をえぐりだしたかのようなこの作品を日本で見ると、また違った思いが沸いてくる。

腐っても鯛ではないが、やはりアメリカの「強さ」はこういった作品が撮れることにあるのだろう。それも破産覚悟で私財を投げうって作るのではなく、商業ベースで作ることができる。センシティブな歴史的事件を商業化することには批判的検証が必要であるし、そういったことが安易になされてしまうことこそが悪しき意味でアメリカ的なのだという見方もできる。とはいえ、アメリカの恥部、暗部までこのように商業作品にできてしまうことは、なんだかんだいってアメリカ合衆国をアメリカ合衆国たらしめている社会の「強さ」であろう。ハリウッドのリベラルの欺瞞を嘲笑う人は少なくないが、こういった作品が撮れなくなったとき、アメリカ合衆国はアメリカ合衆国であることを実質的にやめることになるのだろう。

こういった点も含め、日本社会の現状と合わせて考えたくなる作品でもあった。

『スリー・ビルボード』

『スリー・ビルボード』

ミズーリ州エビングの外れ、車の通りもほとんどない田舎道に三枚の看板が表れた。娘がレイプされたうえに焼き殺されたにも関わらず、捜査が一向に進んでいないことに憤ったミルドレッドが、警察の怠慢捜査を批判するかのような看板を出したのであった。町の人びとからの信任が厚く、末期がんにおかされ余命幾許もないことが広く知れ渡っている署長のウィロビーを名指しする看板は、警官のみならず周囲からも強い反発を招き、ミルドレッドの周辺は不穏な空気に包まれていく……


僕は映画を観る前に、いわゆるネタバレをあまり気にしない。もちろん謎解きに主眼を置いたミステリーや、大どんでん返しが待っているような作品であればその結末を事前に知りたいとは思わない。しかし映画というのは、前に戻ったり一時中断して調べものができる小説と比べて取りこぼす分量が多いものであり、あらかじめ複数回観ると決めているのでもない限り、その取りこぼしを少なくするために多少は予備知識を仕入れて観ることが多い。結末まで記された詳細なあらすじを読んでから行くことはさすがにないが、キーとなりそうな関連作などはチェックしたりすることもある。

『スリー・ビルボード』についてはおそらく少なからぬ人が「難解そう」、「予備知識がないと意味不明なのではないか」といった事前の印象を持っているであろうし、僕もそのように思ったのでいくつか情報を仕入れてから行った。

事前に予備知識を入れるとどうしても作品に予断を持ってしまことになる。『スリー・ビルボード』もフラナリー・オコナーの「善人はなかなかいない」がモチーフの一つとされていたことから、オコナー的テイストの作品なのだろうと身構えてしまっていた。確かにオコナー的要素もあるが、しかしどちらかといえばむしろそこから外れていく部分が多かったのではないだろうか。

アメリカ南部がいかなるところかといった社会的な予備知識はあったほうがいいだろうが、それ以外については、少なくともメイン・プロットを追ううえでは、必ずしも予備知識を必要とする作品ではない。

オコナーへの目配せに加えて、主演がフランシス・マクドーマンドなだけにどうしてもコーエン兄弟の作品が浮かんできてしまうもので、事前に勝手に『ノーカントリー』のような、不条理な暴力に支配された作品なのではないかと予想してしまっていた。『スリー・ビルボード』も結末を見せない結末なのであるが、『ノーカントリー』的な、観客が途方にくれるような終わり方ではない。こういう言い方をしては何だが、「普通」に理解でき、「普通」に感情移入できるようになっていく作品であった。「普通でない」ものを、理解不能なように思える不条理さを待ち構えて観るよりも、むしろ白紙で観る方がより作品に入り込めるタイプであるのかもしれない。


といったあたりで、以下ネタバレを気にせずに書くので未見の方はご注意を。





娘を残酷に奪われ、警察に対して憤りを抱く母親といえば、観客は無条件に感情移入したくなる。しかしすぐに、ミルドレッドは絵に描いたような被害者の遺族ではなく、全面的に感情移入するのが難しい人物であることが示される。

ミルドレッドから名指しで批判される警察署長のウィロビーは、町の人びとからの信任が厚い。これまた僕は予断を持って、彼の裏の顔が次第に明らかにされ、町の人びとの隠された残虐さに火をつけるのではないかなどと想像していたのだが、ウィロビーは登場したままの実直な人物として悲劇的な最期を迎える。

人種差別主義者の暴力警官ディクソンは、人種偏見に凝り固まったままの母親と二人暮らしである。彼は貧しい生まれであり、学歴もなく、さらにはおそらくはゲイであり、それは周囲の人間にも気付かれているであろうことが示唆される。ディクソンは自分を守るために、母親に、南部に、警官の世界に過剰適応してしまっているのだろう。その結果彼は差別と暴力に生きてきたのである。

ミルドレッドは娘を失った(しかも非常に後悔するやり取りの後に事件が起こる)結果、他者に対する共感能力を失っているように見える。若い妻と幼い娘がいて末期がんにおかされたウィロビーがいったいどんな心境にあるのかについて、思いを巡らすことを拒んでいるかのようだ。

ディクソンもまた共感能力を失っている。彼は自分がマジョリティと同じであることを示さねばならない、ナメられてはいけないという不安感からか、常に過度に攻撃的であり、攻撃にさらされる人たちの恐怖心に想像力を働かすことをを意識からシャットアウトしているかのようだ。彼がイヤホンで大音量でアバ(!)を聴くのは、実際の自分とこうであらねばならないと思う自分の乖離からの逃避であり、現実からの逃走であろう。

ウィロビーはミルドレットのことも、ディクソンのことも理解している。そしてミルドレッドやディクソンが共感能力を取り戻せるよう手紙で導き、二人は通じ合うようになっていく。

このように、「普通」に感動できる作品なのである。ミルドレッドが歯医者の親指に穴を開けた時は(これは北野武の『アウトレイジ』オマージュだろうが、歯医者での暴力シーンって想像したくないものを見せられるせいで怖さ倍増である)、これから復讐の連鎖が始まるのかと思わせたが、その負の連鎖はウィロビーが断ち切る。

警察署で業火に包まれたディクソンは、とっさに放火犯の正体を察知したかもしれないが、ウィロビーの手紙によって警察官のなすべきことに目覚め始めた彼が行うのはレイプ殺人事件の捜査資料を炎から救い出すことであった。大やけどを負ったディクソンは、病院で彼の暴力によって重症を負った看板業者のレッドと思わぬ形で再会する。レッドは復讐を試みるのではなく、優しさをふり絞りディクソンに手を差し伸べ、ディクソンはそのレッドの振る舞いに涙する。

レストランで小人症のジェームズと「デート」をするミルドレッドの態度はひどいもので、 彼の心を深く傷つける。かつてDVを行っていたとおぼしき元夫は、娘ほどの年齢の恋人を連れて同じレストランに居合わせる。元夫はミルドレッドに侮辱的な態度を取り、ミルドレッドがワイン・ボトルで彼の顔面を打ちのめすことを登場人物にも観客にも予想させながら(あの持ち方はどう見ても殴るためにしか見えない)、ミルドレッドは暴力の連鎖をついに拒む。ジェームズへの自分の仕打ちを反省的に振り返ることで、共感能力を取り戻したためであろう。

とにかく事件に片を付けねばならない。ミルドレッドもディクソンもそう思っていたが、共感能力を回復した二人が解決方法は暴力しかないという思い込みから抜け出そうとしていることが示される。


フラナリー・オコナーは『全短篇』の訳者あとがきに引用されている「自作について」でこう述べている。

「私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受けいれる準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つ。人物たちの頭は非常に固くて、暴力のほかに効き目のある手段はなさそうだ。真実とは、かなりな犠牲をはらってでもわれわれが立ち戻るべきなにかである」。

「善人はなかなかいない」がそうであるように、オコナーの作品には突発的な、不条理に思える激しい暴力が炸裂するものが多い。オコナーの作品をまとめて読むと、オコナーはただ暴力に惹かれているのではなく、彼女がアメリカ南部の作家であるとともに、あるいはそれ以上に、カトリックの作家であるという印象が鮮明になってくる。オコナーの作品に登場するような人びとには、「恩寵」は暴力を通してしか表れない。それはわかりやすい救いなどではない。峻厳で、むしろ人は神から見放されたかのようにすら感じられてしまう。それでも、その瞬間に、「何か」がある。世界の認識が一変するような瞬間が、不意に訪れる。

オコナーはやはり『全短篇』の訳者あとがきに引用されている「小説の本質と目的」にはこう書いている。

「希望を持たない人びとが、小説を書くことはない。それどころか、そういう人は小説を読みもしない。希望をもたない人は、なにかを長く見つづけるようなことはしない。その勇気がないからだ。絶望に至る道とは、なんであれ経験を拒むことである。そして小説は、もちろん、経験する方法である」。 

一見すると絶望を描き続けているようなオコナーが真に描いていたのは希望であった。

『スリー・ビルボード』は広くキリスト教的テーマが表れているとすることはできるかもしれないが、オコナー的な、カトリック的モチーフが使われているのではない。南部の世界という点では十分にそのエッセンスを取り入れているであろうが、希望を描いているといっても『スリー・ビルボード』の直截さは、核の部分ではオコナー的世界からはむしろ遠いとすべきかもしれない。オコナー作品における暴力は少なからぬ人にとって理解不能な不条理な印象を与えるであろうが、『スリー・ビルボード』は殺伐とした印象を与えるようで、わかりやすくも暴力を乗り越えていこうとする物語へと収斂していく。

もちろんこれはオコナーと『スリー・ビルボード』の監督のマーティン・マクドナーのどちらが上かという問題ではないい。不勉強にも僕はマクドナーの作品は演劇はもちろん映画もこれが初めてであったが(勉強していくのならまずそこからだろうと我ながら思ってしまうが)、『スリー・ビルボード』はマクドナーにしてはずい分丸く収めたという評価もあるようだ。アイルランド系のマクドナーの過去作もふまえると、オコナー作品との関係もまた違った印象を受けることになるのかもしれないが。


『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』

『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』


若干ネタバレ気味のところもありますので未見の方はご注意を。





ライアン・ジョンソン監督の『ルーパー』は割りと好きで、とりわけ大友克洋風の部分などは特に良かった。一方でこの作品に不満を感じる人が多かったというのもわかる。タイムパラドックスをはじめとする設定の詰めが甘く、「細かいことはいいんだよ」とばかりに強引に押し切っているのだが、とりわけSFファンにとっては「いや、どうでもいいところじゃないだろ」という感じであったろうし、そこがノイズになってしまうという弱点を持っていた。そして『最後のジェダイ』もその弱点を持ち越してしまっている。クレジット上は単独脚本だが、実際にはジョンソンが1人で仕上げたわけではないのだろうから、全体を俯瞰して交通整理ができる腕のある脚本家にきちんと参加してもらうべきだったろう。

ホルド中将はある作戦をほとんどのクルーにも秘密裡に進めるのだが、この不必要な秘密主義によって一部に疑念を招き、内紛を引き起こしかける。これなどレジスタンスに内通者がいる疑いがあるといったような描写を入れておけば簡単に処理できるのであるが、そのへんに気が回らないのがこの作品を象徴するかのようでもある。

多くの人がひっかかったであろう部分が、フィンと新キャラのローズのパートだろう。エンディングのあそこにつなげるためと、新たな三角関係を発生させたかったのだという狙いはわかるが、それにしたってもっとコンパクトなエピソードにできたはずだ。フィンが活躍する要素がなかったので無理やりねじ込んだという印象は否めないし、本編にスピンオフが紛れ込んだかのような収まりの悪さがあった。

しかし、そもそもが『スター・ウォーズ』はそんなにかっちりした作品ではないという反論もあるだろう。『最後のジェダイ』冒頭の見せ場が爆弾「投下」をめぐってなのであるが、重力や大気の問題を完全に無視するというのは第一作から一貫している。個人的には無重力シーンというのが大好物なもので「スター・ウォーズ」サーガについて常々感じている物足りなさなのであるが、このあたりはむしろ「スター・ウォーズ」らしさといえばそうと強弁できなくもない。

では、とりわけ熱心な「スター・ウォーズ」ファンが反発を感じたのはどこに対してであったのだろうか。本作でより前景化したのは、ジョンソンというよりもJ・J・エイブラムスとすべきかもしれないが、「続編」を作り続けるというよりは、あくまで「リブート」をやるのだという意志である。『フォースの覚醒』と『最後のジェダイ』はいわばfarewell partyのようなものであって、これからは新しい流儀でさせてもらうよ、という宣言ともとれるのが、濫用とも思えるフォースの拡張だ。

カイロ・レンとレイがフォースを通して会話するというのは、どちらかといえばガンダムのニュータイプに近いように思えてしまった。カイロ・レンがいろいろとシャアっぽいと感じている人は少なくないようであるが、『最後のジェダイ』にはキシリアの「意外と兄上も甘いようで」とかシャアの「なら同志になれ」といった、ガンダムの有名なセリフをそのまま持ってきてしまいたくなるような場面がある(そもそもが「レイ」という名前も……という気にさせられてしまう)。

このような「濫用」は、「スター・ウォーズ」に特別なものを見出したいと願うファンにとっては、フォースがただの超能力になってしまったかのように思えたことだろう。ジェダイが神聖視されることによって生まれる傲慢さが宇宙を乱しているのではないかというルークの懸念を思うと、それこそが狙いであるとすることもできる。死ぬことが決定づけられた作戦を描く『ローグワン』が第一作であるエピソード4につながるのであるが、『最後のジェダイ』では生き延びることの重要さが説かれるように、意図的な切断が行われている。多くの人が今作でレイの出生の秘密が明らかになると想像したであろうし、(他ならぬレイ自身を含め)少なからぬ人が何らかの形でスカイウォーカー一族とのつながりがあることを期待しただろうが、あえてそうはしなかった。


「スター・ウォーズ」サーガはその神話性が何かと言われるのであるが、同時に「懐かしさ」、もっといえば保守性がその成功に寄与してもいた。『ジェダイの帰還』を例にとれば、イウォークは「インディアン」や南洋の孤島の「人喰い人種」を模していることは明らかだ。金色のC3POが神と崇められてしまうのは、南米の先住民が白い肌を持つスペイン人侵略者のことを伝承に基づいて神だと思い込んでしまいみすみす虐殺されたことを思い起こせば素直に笑えなくなる。チューバッカやR2の可愛さも彼らが「主人」への忠誠心が厚いところからも来ているが、『ロビンソー・クルーソー』のフライデー的とすることもできる。

「野蛮な原住民」や「人喰い人種」が登場するようなかつての娯楽活劇をそのまま現在に持ってくることはできないが、舞台を宇宙に移すことでこれを可能にしたのが『スター・ウォーズ』でもあった。アメリカが深く傷ついていた73年に、イノセンスがかろうじて保持されていた60年代前半を舞台にした『アメリカン・グラフィティ』を撮ったように、ジョージ・ルーカスは過去へと捉われる傾向もある。ルーカスは保守反動なのではなく、『アメリカン・グラフィティ』も来るべき暗い時代を見据え、『スター・ウォーズ』もまた単なる居直った反動ではない。しかしまた、同時代との対話を重ねてアップデートを重ねていった『スター・トレック』とは異なるテイストを持ったシリーズとなっていった。

「リブート」された『フォースの覚醒』以降の「スター・ウォーズ」は、どちらかといえば「スター・トレック」的要素を強めている(というかエイブラムスは実際に「スター・トレック」もやっているわけだし)。『最後のジェダイ』のローズは、遠回しに言うのも何なんではっきり書けば、とびっきりの美人ではない。その容姿を揶揄するような反応が多く見られたことは「スター・ウォーズ」ファンの保守性を表しているとすることもできるだろう。「英語で演技ができる無名のアジア系美女」など山のようにいるにも関わらずあえてこのキャスティングにしたのは、ルッキズムへの挑戦と考えられる。

個人的にはこの挑戦は好意的に受け止めているが、同時にまた困難な道に足を踏み入れたことをエイブラムスをはじめ製作陣がどれほど意識しているのかは少々心持たないところもある。ストームトルーパーも血を流す生身の人間であるとした『フォースの覚醒』以降、一度アップデートを始めたからには、これからは常にアップデートし続けていかなくてはならなくなる。かつてキャリー・フィッシャーを「奴隷」にしたようにして、もう一度女優にあのような衣装を着せることは大目に見られることはない。

スピンオフも含めればこれから毎年のように「スター・ウォーズ」シリーズが楽しめることだろう。しかしこれは毎年その場だけで消費されて終わってしまうことにもなりかねない。一度アップデートを開始してしまった以上、「そういうものだ」という言い訳は通用せず、その結果として作品が古びるのも早くなる危険性がある。40年後も特別な感情を持ってかつての作品を振り返ることができるようなものを生み出せるのかという重さを、エイブラムスらがどこまで意識しているのかはいささか怪しいように思えてしまう。

シネコン名物といえばそれまでだが、僕が見た回では本編開始後5分ほどたってからポップコーンを持ったカップルが入ってきた。ポップコーン買う暇があるクセに「スター・ウォーズ」のオープニングを見逃すとは何たることか! と思ってしまったのだが、その程度の温度感のシリーズになっていくのだということを表しているかのようでもあった。「スター・ウォーズ」特有のマジックは、これからどんどん薄れていくことになるのだろう。

といっても、だからといって「保守的」な世界にとどまるべきだったというのではない。ルーカスが「活劇」を蘇らせたもう一つのシリーズが「インディー・ジョーンズ」であり、地球を舞台にしているだけに危ういところは「スター・ウォーズ」よりもさらに多い。三部作はあくまで過去を舞台にしているという言い訳がきいたが、久々の続編である、「現在」にぐっと近づいた『クリスタル・スカルの王国』における核の描写には呆れはてた人も多かっただろう。「保守性」に固執することも、このようなリスクがある。

『スター・ウォーズ』を「リブート」させるにはこの一歩は必要であったとは思うが、個人的にはエイブラムスへの信頼感はかなり低いのでどうしても不安のほうが強くなる。


もう一つ不満を述べるなら、『フォースの覚醒』以降で物足りないのは「大人」の不足だろう。レイとフィンのみならず、カイロ・レンにしてもあまりに「幼い」。世慣れず青臭いルークと海千山千乗り越えてきたハン・ソロのコンビが良かったのだし、ランバ・ラルやスレッガーのいない『ガンダム』を想像してみてほしい。ダメロンはダメダメすぎるし(一応学習能力はあるし、このシリーズの新たな方向性を身をもって学んだのであるが、その分「大人」の魅力は醸し出せていない)、ベニチオ・デル・トロ演じるDJがソロ的役割を果たしていくのかと思ったら、なんですかあれは。今後の伏線になっていないのだとしたら凄まじい無駄遣いではないですか。

僕は「スター・ウォーズ」の熱心なファンというわけではないので、まあこんなものかというところでもあったのだが、熱烈なファンが腹を立てる気持ちは(同意するかはともかく)わからないではない。もっともルーカス自身が手掛けた「新三部作」のグダグダっぷりを見てきているのだから(ミディ=クロリアン!)、この程度なら可愛いものではないかというところでもある。『最後のジェダイ』にぶーたれている旧三部作をリアルタイムで見た人には、こっちはあの新三部作だったんだよ! と言いたくもなってくる。

もう一度ガンダムを召喚すると、『Z』までは何とか許容するが『ZZ』は無理だという人がいるが(というか僕がそうなのである)、もし『ZZ』を作ったのが富野由悠季でなかったとしたら……というのを想像してみたらいいかもしれない。そういえば冒頭のダメロンの軽口とかルークとレイのしょうもないやりとりとか無意味に上半身裸になるカイロ・レンやらはちょっと『ZZ』っぽいノリといえるのかもしれない。全体の出来不出来以前に「そんなの求めてないんですけど……」というのがどうしても先行してしまう。

ボロクソに酷評している人は作品単体の質以外の要素が入っているので割り引くにしても、『最後のジェダイ』が欠点の相当に多い作品であることもまた間違いないので、絶賛している人のそれもまた作品単体の質以外のところに価値を見いだしている可能性が高いので割り引いた方がいいだろう。個人的には『ルーパー』の方が好きだし、ジョンソンの監督としての資質も超大作よりもややこじんまりとした方が向いているのではないかと思えるもので、ジョンソンに今後もまかせるというのはエイブラムスともども大丈夫かいなという気持ちにはなってしまった。

さて、次はソロの若き日であるが、監督はロン・ハワードか。うむ……



『ブレードランナー 2049』

『ブレードランナー 2049』


『ブレードランナー』を好きなのか? と改めて自分に問うてみると、いささか答えに窮してしまうところもある。僕は70年代後半生まれなので、意識的に映画を見るようになった時にはすでに『ブレードランナー』の評価は定まっていた。少々大袈裟にいうと(いや、大袈裟ではないのかもしれないが)、小説好きがドストエフスキーやカフカを、ロックファンがビートルズやストーンズを手に取るような感覚に近かったのかもしれない。ドストエフスキーやカフカが小説というジャンルを開拓したのではないし、ビートルズやストーンズが結成される前からロックン・ロールはかき鳴らされていた。でも、これらの存在がなければその世界は全く違ったものになっていただろう。小説好きやロックファンを自認しながらこれらを手に取らないというのは有り得ないし(手に取った結果どう評価するかは様々ではあれ)、そのようにして僕は『ブレードランナー』を見て、関連書もいくつか読んでいた。

『ブレードランナー』の続編が製作されると知った時は期待よりも不安のほうが大きかったが、それは「聖典」が汚されるといった恐れではなく、今ではすっかり「当たり前」のものとなった『ブレードランナー』におけるリドリー・スコット的世界をアップデートしようとしても、あまりに陳腐なものとなってしまうのではないかと思えたからだ。

しかしその不安は杞憂であった。『ブレードランナー 2049』はリドリー・スコット的世界をアップデートしようとしたものではなく、前作からの引用やオマージュをたっぷり込めながらも、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の個性がより強く出たものになっている。あれだけ強烈な作品を「続編」として成功させるには、前作の熱心なファンからは多少の不満はあるかもしれないが、これしかなかったであろう。

『ブレードランナー』以外にも、「スター・ウォーズ」サーガ、「ターミネーター」シリーズ、『A.I.』、『インセプション』や『her』などなど、『ブレードランナー』前後から近年までのSF映画をふまえつつ、タルコフスキーやアンゲロプロスといったあたりも射程に入れていることだろう。このようにリドリー・スコット的世界を含むここ4、50年のSFを中心とする映画をヴィルヌーヴ風にまとめあげたものとしていいだろう。


個人的な好みとしては、ヴィルヌーヴの作品というのは決して嫌いではないのだが、「もうひと押し」が足りないようにも感じてきた。そして『ブレードランナー 2049』もやはりそのような印象であった。

これはネタバレには当たらないと思うので書いてしまうが、今作では「ブレードランナー」であるKはレプリカントであり、本人もそのことを知っているという設定になっている。旧型レプリカントは共感能力に欠けているが新型はその欠点を補っており、そのために記憶の埋め込みが行われており、さらには新型レプリカント自体がそれを承知しているのである。

そのせいか、Kは冒頭から憂いを持っている。彼は問答無用で力づくでテストを行い(テストは簡素化されているので網膜をスキャンするだけで済む)、いきなり後ろから銃を撃つような真似はしない。まどろっこしいような手順を踏むし、それによって自らを危険にさらしてしまいさえする。もちろんこういったかけひきは前作へのオマージュであり、また本作のテーマとも絡んでいるのだが、これによってKの造形に矛盾が生じてしまっているように感じられた。彼は徹底して非情なわけではないし、それでいて人間の上司の命令には忠実であるが、しかしその部分に関しては葛藤を抱いていないかのようだ。

レプリカントでありブレードランナーであることによってKは二重の差別に直面しており、明らかに心に空虚さを感じており、さらにはそれを埋め合わせてくれるのは人間でもなければレプリカントでもない。同時に、精神が擦り切れていってはいるが、自らの存在への不安におののいているようには必ずしも映らない。

Kはある秘密と謎を探りあて、その真相が明らかになったと思うが、さらにそれが裏切られ別の真実が明らかとなっていく。Kはこれに翻弄されていくのであるが、しかしここにはディック的現実崩壊感覚というのは薄い。前作と比べてノワール的、ハードボイルド的な面が後退し実存への問いがより前景化されているようでいて、実はその部分に関しても後退しているのではないだろうか。

『ブレードランナー』は決してウェルメイドな作品ではない。展開はぎくしゃくし過ぎているし、隙や矛盾も多く、それらは意識的に行ったものではなく様々な事情で意図せずして生じてしまったものが多い。この副産物としてデッカード=レプリカント説をはじめとするいくつもの解釈が生まれ、スコット自身がそれに乗っかるようになるのだが、こういった偶然によって生じる奇跡もまた映画ならではのものだろう。

奇怪にすら見える行動を取るデッカードに素直に感情移入することは難しく、むしろ地獄のような光景を目にし、そこから逃れてきて死の不安に苛まれるレプリカントたちの方がはるかに「人間的」であるかのように見える。デッカードはレイチェルをはじめとするレプリカントと出会うことによって人間の「心」を取り戻す(あるいは彼がレプリカントだとすると、人間の「心」を得る)かのようでもある。これは意識的なものでもあるが、かの有名なロイの独白が入念に練られたものではなくアドリブであったように、意図を超えた「余剰」でもある。

『ブレードランナー 2049』は様々な目配せがされており、隙や矛盾は明らかに前作よりは抑えられている。映画としてのまとまりは『ブレードランナー 2049』の方が上であろうが、意図せざるものを含めた多様な解釈を誘発する深みでは前作に軍配が上がるかもしれない。そしてこのような幾分の物足りなさは脚本のみに由来するものではなく、僕がヴィルヌーヴ監督作品にかねがね感じている「もうひと押し」が足りないというところでもある。

前作ファンが怒りにかられたり失望させられることはないであろうし、単なる前作ファンへのサービスで終わらない新たな魅力も持っており、個人的にも好きな部類に入るのではあるが、「もうひと押し」あってくれればなあとも感じられたのだが、まあこれは映画に対する評価というより個人的相性のレベルでの話かもしれない。




『ダンケルク』

『ダンケルク』


近年のクリストファー・ノーラン作品について、個人的には「志しもやりたいこともわかるし期待したのだが……」というものが多かった。ではこの『ダンケルク』はどうだったかというと、ノーランがやりたかった事とやれた事とがしっかりと嚙み合ったとしていいのではないだろうか。

フランスのダンケルクからイギリスへの帰還を試みる若き兵士、イギリスからダンケルクへ援護に向かう戦闘機、ダンケルクへ英兵救出へ向かう民間の小型船と三つの視点が平行して進められるのだが、それぞれ時間の進み方が異なるというのはちょっと『インセプション』っぽくもある。本作の肝はこの三つの物語が徐々にシンクロしていき一つに重なるところであり、それが瑕疵なくきれいに一つに溶け込んでいるところは『インセプション』よりもはるかに洗練されている。ノーランよ、こういうウェルメイドな脚本を書けるのではないかと思ってしまったが、本作は単独クレジットで、かえって弟がいない方が……ということなのかどうかは知らんが(『インセプション』も単独脚本か)。


ヒトラーはもちろんのこと生身のドイツ兵はほぼ登場しないし、方やイギリス側でもチャーチルは会話の中で言及されるだけでその姿は描かれない。このように、本作は大局的視点を意図的に回避している。

我が身可愛さで醜悪な行動を取る兵士や、守護天使のごとく救いの手を差し伸べる兵士が実は……といったあたりは危機に直面した人間の多様な姿が炙り出されている。しかし、「人間の本質とは何かが極限状態の中で抉りだされる」といった「壮大」な試みがなされているのではない。哲学を比喩に使えば、形而上学的ではなくプラグマティズム的作品となっている。根源を問うのではなく、限られたリソースの中でいかに生き延びるか、あるいは限られたチャンスを最大化するにはどのような選択をなすべきか、それが時間的にもタイトに描かれている。

『ダークナイト』前後の「バットマン」に典型的なように、ノーラン作品は志しは高くとも、脚本が甘く、またスペクタクル的視覚表現もそれについていけていない印象が強かった。そう考えると、このようにプラグマティズム的作品の方が彼の資質に合っているのではないだろうか。ノーランの「壮大」な作品も楽しみではあるが、こういう方向に進むほうが監督と観客双方にとって幸福なのかもしれない。


あと、お腹が弱い人間としては用を足そうとしながらそれが果たせないトミーの姿は他人事ではなかった。災害時を考えても、トイレ問題は笑いごとではないのですよね。とりわけ下しがちな人間にとっては。




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佐藤太郎(仮)

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