『わたしは、ダニエル・ブレイク』

『わたしは、ダニエル・ブレイク』





ケン・ローチが引退を撤回して作ったこの作品は、制作時から絶対に見なくてはと思ってはいたものの、精神的なしんどさに耐えられる自信がなくって後回しにしていたのだがようやく。確かにきついものであるのだが、それだけに見ておかなくてはならないと思わせてくれるものとなっている。


貧困を社会の問題ではなく個人の倫理の問題にすり替えることによって起こる悪夢的状況を描いたものであるが、何よりも強調しておきたいのは、この作品で描かれることは決して大袈裟なものではないということだ。

キャメロン政権下のイギリスで進められた緊縮策でいったい何が起こったのかが検証されている『経済政策で人は死ぬか?』はこの作品と合わせて読むべき一冊だ。キャメロン政権は社会保障全般の削減を進め、障害手当も例外ではなかった。不正受給が横行しているとしてシステムを根本的に改め、フランスの民間企業アトスに業務を委託した。しかしキャメロンが喧伝した不正受給の実態はといえば、額にして200万ポンド程度、金額ベースで1パーセントにも満たなかったのだが、アトスはなんと4億ポンドもの支払いをイギリス政府に要求したのであった。

壮大な無駄であるばかりでなく、おぞましい事態も起こった。57歳の男性は脳卒中の発作の後遺症で半身不随となったが、アトスから就労能力検査を受けるよう通知がくる。検査の結果この男性はなんと就労可能と判定され、障害者手当が打ち切られてしまった。絶望にかられたこの男性は間もなく亡くなった。

映画の中ではダニエルは心臓発作のため医師から働くことを禁じられているが、外見上は健康な男性と区別がつかない。現実では、病気の後遺症に苦しみ車椅子生活を強いられている人の障害者手当までが就労可能であるとして打ち切られるという、映画で描かれた以上にグロテスクなことすら起こっているのである。

では手段を選ばないキャメロン政権の社会保障削減政策が強い批判を呼んだのかといえば、必ずしもそうとはいえない。その理由の一つは、イギリスでは貧困や失業問題が社会の問題ではなく個人の倫理の問題だと考える価値観が広まってしまったためだろう。そしてこのような倫理問題へのすり替えはすでに「ニューレイバー」を掲げたブレア政権によって強力に推し進められていたことは現在では周知の通りである。

「不正受給」を喧伝することによってあたかも社会保障を受給すること自体が非倫理的行為であるかのような印象操作を行政が積極的に仕掛け、メディアがこれに追従するというのは、言うまでもなく日本にとって他人事ではない。この他の面でも、イギリスと同様、あるいはそれ以上にグロテスクな事態が進行している。


映画の冒頭、噛み合わないやり取りが繰り広げられる。目の前のダニエルを見ずに、ひたすらマニュアルをこなそうとする審査担当者は、委託を受けたアメリカ企業に雇われた人物である。そして医師から働くことを禁じられているにも関わらず、ダニエルの手当は打ち切られてしまう。

たらいまわしにさせられたあげく、社会保障事務所に抗議に行ったところでまともに相手にされない。電話はろくにつながらず、問い合わせや手続きはネットでやれと言われても重度のパソコン音痴であるダニエルにはどうすることもできない。

ダニエルは仕方なく求職者手当の受給をしようとするが、減点法で管理されることになる。ルールに従えない受給者にはペナルティが科せられていき、個人の事情など一切考慮されない。ここで起こっているのはまさに倫理問題へのすり替えだ。なぜ貧困や失業に陥るのか。それはルールに従うことができないからではないか。ならばただ金を与えただけでは根本的な解決にならない。きちんとルールに従える人間へと矯正しなければならないのである。失業や貧困を倫理問題とするとこのような発想が生まれてくる。この発想は、今現に貧困状態にある人や失業している人は倫理的に問題のある人物なのだという認識に至る。ルールに従えない人間は罰を与えられてしかるべきであり、その非倫理的な人間が苦しもうがそれは自業自得であり、自己責任とされてしまうのである。

このような自己責任論を信じる人間に、アトスのような企業に業務を委託することはむしろ「高くつく」というデータを見せたところで、これは損得の問題ではなく倫理の問題なのだと居直られることになるだろう。民間の業務請負業者の存在は当然利権に結びつくが、自己責任論者がそこで私腹を肥やす人間の非倫理性を追及することはない。社会保障問題ではないが、雇用の流動化を進めた竹中平蔵が人材派遣会社パソナの経営陣に収まり私腹を肥やしていることを思い浮かべればいいだろう。竹中のような人物がでかい顔をし続けられる世の中が倫理的であるとはとても思えないが、そのようなことは気にもとめないのが生活保護叩きに血道をあげるような自己責任論者なのである。再配分政策の否定は単に金持ちが税金を払わなくていい社会を望むということにすぎないのであるが、貧困や失業を個人の倫理問題とすることで自己正当化を図ると同時に、再配分政策によって恩恵を受けるはずの階層の人々までをも「倫理」を武器に自己責任論へと巻き込んでいく。

また重要なのは、委託業者で働く人の多くが有期雇用の低賃金であり、また彼らもまたマニュアルによってがんじがらめにされ、人間性を失うよう奨励されることだ。映画冒頭の職員も、有期雇用低賃金労働者であった可能性が高いだろう。定められたマニュアルを淡々と消化しなければ、自らも職を失いかねないという恐怖に縛られる。欲を言えば映画でもこの部分への視点ももっと打ち出してもらいたかったが、さすがにそこまで広げると話が込み入ったことになりすぎるのかもしれないが。

映画ではダニエルに同情的な職員も描かれるが、マニュアル外の支援を行おうとすれば、それは逸脱行為として罰せられることになる。こうして弱い立場にある人同士が助け合うのではなくいがみ合うよう誘導されていく様はきちんと押さえられている。

貧困や失業を個人の倫理に帰してしまう最大の問題は何か、それはその人たちから尊厳を奪うことだ。貧しさや失業が自己責任であれば、その人は手を差し伸べる必要などない蔑まれて当然の人間だという扱いをうける。人間から尊厳が奪われたらどうなるだろうか。蔑視を浴び続ければ気力も奪われていくし、社会から離脱することさえ望むようになってしまう。こうしてさらに追いつめられ、さらに蔑まれることになってしまう。

ダニエルは二人の子どものいるシングルマザーのケイトと知り合い、彼女の力になろうと奮闘する。フードバンクを訪れたケイトが、空腹のあまりその場で缶詰を開けて果物を食べようとして泣き崩れる場面はあまりに痛々しい。さらには、フードバンクに行ったところを見られたケイトの娘が学校でいじめられるという事態はどこまでも気持ちを暗くさせるが、大人が貧しい人を蔑んでかまわないという政策を進めるのであるから、子どもたちは嬉々として貧しい家庭の子どもを馬鹿にしていじめることだろう。娘のために靴一つ買ってやることができないケイトは追いつめられていき、ある決断をすることになる。

ケイトは向学心もあり、きちんと支援を受けられれば学校を出て働き自立することもできるだろう。現金給付や個人の事情に応じた支援を手厚くすることは社会全体にとってプラスになるのであるが、自己責任論者はむしろケイトのような立場にある人たちをいたぶり、再出発を阻むことに喜びすら見出しそうだ。

そしてついには、あのダニエルでさえ心が折れていく。連帯の可能性が示されるが、本作がハッピーエンドを迎えることは許されない。

「尊厳を失ったら終わりだ」と言うダニエルはこの言葉を残す。


私は依頼人でも顧客でもユーザーでもない 怠け者でも たかり屋でも 物乞いでも泥棒でもない 国民保険番号でもなく エラー音でもない きちんと税金を払ってきた それを誇りに思っている 地位の高い者には媚びないが 隣人には手を貸す 施しはいらない 私はダニエル・ブレイク 人間だ 犬ではない 当たり前の権利を要求する 敬意ある態度というものを 私はダニエル・ブレイク 1人の市民だ それ以上でも以下でもない


本作にあえて不満を述べるとすれば、それはダニエルやケイトが感情移入せずにはいられないキャラクターになっていることだ。ダニエルは権力に媚びず、困っている人がいればほっておけない、口は悪いが気は優しい誇り高き労働者階級を代表するような人物だ。ケイトは様々な困難に見舞われているが、何とか再出発をして人生をやり直そうとしている。そしてケイトの二人の子どもたち! 

だが、たとえろくでもなかったりどうしようもない人間であったとしても、施しとしてではなく権利として、まともな生活を営むべきなのでる。僕自身もつい功利主義的に「損得」の問題として、積極的再分配政策を進めることはそのコストはかえって安くのだと強調したくなるのだが、この戦略は一見練れているようで逆手に取られる危険性がある。ニューレイバー支持者が陥った罠には気をつけねばならない。もちろん個別的政策も重要であり軽視してはならないが、理由の如何に関わらずあらゆる人間が尊厳ある暮らしを営む権利を有する、この考えを広く浸透できない限り、現状を変えていくことはできないのだろう。


『ヴァーサス/ケン・ローチ映画と人生』

『ヴァーサス/ケン・ローチ映画と人生』






ケン・ローチは2014年に引退を表明、50年に渡るキャリアに終止符を打った。しかしその翌年の選挙で保守党が圧勝するとこれを撤回し、『わたしは、ダニエル・ブレイク』の製作に乗り出す。

このドキュメンタリーは『ダニエル・ブレイク』の制作過程を追いながら、ローチのこれまでのキャリアを振り返ったものである。

「人びとの暮らしについての映画を作るなら 政治は不可欠だ」。こう語るローチが論争の的になることは避けられない。「偉大な活動家か 取るに足らない不快な映画監督か」、「リアリズムの達人か 行きすぎたマルクス主義者か」、「天才か 虫けらか」、タイトルの「ヴァーサス」にあるように、ローチの作品はイギリスにおいて激しい議論を呼んできた。


父親は工作機械の機械工で、実直で優秀であった彼は出世していく。職人としての誇りを持つ父の生き方に息子は好感を持っていたが、父が「デイリー・メール」を愛読する保守党支持の右派であったことは気に留めたことはなかった。というのも、ケン・ローチ自身も若い頃は自然と保守的な政治観を植え付けられていたからだ。1950年に学校で選挙があった時、恥ずかしながら保守党の候補者に投票したと振り返っている。

第二次世界大戦後のイギリスでは労働者階級の子どもでも、ほんの少数の成績優秀者に限られるとはいえ階級上昇の機会が与えられるようになっていた。ローチはグラマー・スクールに進み、ついにはオックスフォードへの進学も果たす。後には、自分はこうして労働者階級から抜け出すことができたが、ふるいにかけられ落とされていった人たちはどうなったのであろうかと思いを巡らすことになるが、それはもう少し先のことになる。

ローチは幼少期から演劇に魅せられていた。親は弁護士になってほしいと望んだが、父親から役者では食えないと言われながらも、大学でも演劇に熱中する。また普段のローチは上品で礼儀正しく、まるで銀行員のように見えたと皆が口をそろえて言うように、派手な印象を与えるタイプではなかった。さらには政治に関心を持っているようにもまるで見えなかったという。

オックスフォード出身の演劇好きで堅実な印象を与えていたローチがBBCで働くようになったのは当然のことなのかもしれない。60年代初頭のBBCは変革期にあった。これまでは受け入れられなかった労働者階級出身者も働くようになっていた。変化は番組にも表れるようになる。これまでは労働者階級の生活が描かれるようなドラマはまず作られることはなかった。また上流階級出身の役者が労働者階級を演じることはできてもその逆は有り得ないという思い込みに支配されていた。このような状況下で、ローチは労働者階級の生の姿を描くドラマを制作していく。労働者階級の喜び、恋愛、性愛、そして子どもを引き離されたり違法な堕胎手術といった様々な苦境、困難をリアルに描いたドラマは、左派から熱狂的な支持を集める一方で保守派からの攻撃にさらされた。

「ザ・ビッグ・フレイム」はロケ地を所有する会社に「ロミオとジュリエットのような恋愛モノ」と偽って撮影を開始した。実際にはストライキを扱ったものであり、ロケ地所有の会社が脚本を見て抗議に来ると、「BBCが港湾労働者のストライキを扱った映画に許可を出すわけがないじゃないか」といってごまかした。逆に言えば、BBCからも警戒の目を向けられていたということでもあり、ロケ撮影だというと問題にされたのでスタジオ撮影だと偽ったこともあったという。

ローチはこれらのドラマを作る中で確固たる左翼となっていき、この政治信条は現在に至るまで揺らぐことがない。

ローチのキャリアは順調であったのではない。とりわけ社会が保守化を強める70年代中盤以降は危機に陥る。サッチャーが権力の頂点に昇りつめようとする時代、BBCはローチの作品を許容することはなくなり、資金調達ができずに作品そのものが作れなくなってしまう。

「国中が絶望的なムードに覆われ」、「毎日どこかの工場が閉鎖され 失業者は増え続けた」が、ローチは「だが何をすればいいのかわからなかった」とあの頃を振り返っている。
ドキュメンタリー製作を行おうとするが散々なことになる。組合の裏切りを描こうとすると組合幹部の圧力にテレビ局は屈した。サッチャー批判をこめて警察の蛮行を撮る企画はボツにされた。ITVの系列局15は放送免許の更新の時期であり、ローチの企画が他で断られているので危険だと思い込んだのであった。

「時代のせいじゃない 放送局としてのプライドを持っているかどうかだ 彼らにはプライドがなかった」とローチは言う。

窮地に陥ったローチはCM監督を務めねばならなくなった。あのケン・ローチがネスレやマクドナルドなどのグローバル企業の広告を手掛けねばならなかったのである。
保守党政権が緊縮策を進める中でローチが引退を撤回して『ダニエル・ブレイク』製作を決意したのは、サッチャー政権と十分に戦うことができなかったという後悔もあってのことだろう。

1990年についに久々の映画『ブラック・アジェンダ 隠された真相』を撮り、カンヌ映画祭で審査員賞を受賞して復活を果たす。同時にやはりこれも保守層の怒りを買い、右派メディアがバッシングを繰り広げ、保守党の政治家は映画を見もせずに批判をした。

『ブラック・アジェンダ』の成功によってこれ以降コンスタントに映画を撮れるようになり、とりわけヨーロッパでは巨匠として認められるようになったが、イギリスでの反応は歓迎一色ではなかった。

『麦の穂を揺らす風』はカンヌでパルムドールを取ったが、この作品もまた右派メディア、政治家の激しい攻撃にさらされる。当時の右派メディアの見出しにはこういったものがあった。「なぜケン・ローチはあれほど自国を嫌っているのか?」、「自国をけなす監督たち」、「カンヌ最高賞にIRA支持の映画」、「宝くじ助成金が製作費」、「国から金を搾り取る男 ケン・ローチの新たな毒」。

是枝裕和監督が『万引き家族』がカンヌでパルムドールを取ると一部にこれと似たような反応が見られることになる。ローチは常にこの攻撃の中で戦い続けてきた。


このドキュメンタリーはまたケン・ローチの映画術も明かしてくれている。
『ダニエル・ブレイク』のロケハンでも太陽の角度などに気を配っているように、ローチの作品はただ政治的メッセージを全面に出しただけのものではない。「観察するように撮る」チェコ映画など、ローチが影響を受けた作風、撮影手法や、彼の作品がいかに作りあげられているのかもわかる。

効率を無視して基本的に物語の時系列順に撮っていくが、それによって俳優が「よりキャラクターに入り込めると考えた」ためだ。「時系列順に撮影していくことで 役者は まだ撮っていないシーンを想定せずに済む ちゃんと記憶を積んでいけるんだ」と語っている。

「壁を作るのではなく 気持ちや思考や弱さをさらけだせる俳優が欲しい 多くの俳優は自分を守り 何かを表現するための技術を磨こうとする だけど大事なのは本来 彼らがどういう人間かということだ  弱さを持っているということは非常に重要だ だが監督はそれを利用しようとせず彼らを安心させる必要がある すると役者は弱さを見せられる」。

とはいえ、そこは芸術家、「だが監督はそれを利用しようとせず彼らを安心させる必要がある」という言葉を文字通りに信用することはできない。『ケス』撮影時には子どもたちを追い込むような撮影もなされた。当時は体罰が問題にされない時代であったことを割り引いても、その手法に違和感を覚えた出演者やスタッフもいたようだ。ローチは「常に俳優と愛のある関係を築ける その一方で 無慈悲だ」という証言もある。

『ダニエル・ブレイク』撮影時に「みんなの声は聞こえる 実際のようにしゃべれば そう聞こえるだろうし逆なら真実味が薄れる」とエキストラを含む出演者、スタッフに語りかけている。単にだらだらと撮っただけで「真実味」が映画に刻めるはずもない。もちろん『ケス』の時のような手法は今では行っていないのだろうが、この「真実味」をいかに引き出すのかに腐心しているのだろうし、そのためには厳しい要求も辞さないという面もあるのだろう。


他にも子どもを失った苦しみや、実はキッチュなミュージカルがお好みといった内面にも触れられている。ローチの作品はもちろんだが、イギリス文化史などに関心がある人も目を通しておくべきドキュメンタリーに仕上がっている。


『ブラックパンサー』

『ブラックパンサー』




監督のライアン・クーグラー、主演のチャドウィック・ボーズマンをはじめ主要スタッフ、出演者の多くが黒人のスーパーヒーロー映画であり、それにふさわしくアフリカの収奪やアメリカ合衆国の黒人の抑圧などの歴史に、持つ者と持たざる者、そして難民問題といった今日的テーマもふんだんに盛り込まれている。と、このように説明すると何やら堅苦しい作品であるかのように思われるかもしれないが、アメリカで記録的なヒットとなっているように、なんといっても面白い作品なのである。

一つ間違えば収拾がつかなくなりかねないほど多くのテーマを扱いながらエンターテイメント作品としてよくまとまっているのは、物語の型をしっかりふまえているからだろう。まだ未熟でいささか頼りない(同時に善良で理想家でもある)王子が準備が整わないまま父の突然の死によって王位に就き、イニシエーションを経て成長していくというのは古典的といっていいほどだ。ある人物が後半で見せる以外な行動は、むしろお約束的展開であろう。

また各キャラクターにしても、必ずしも斬新なわけではない。武人風で職業的義務感が強いが実は感情豊かで忠誠心が篤いオコエ、王と恋のさや当てを繰り広げる美貌のスパイのナキア、軽いノリの天才科学者兼兄の冒険に加わりたがるお転婆姫のシュリなど、地獄のような光景をくぐり抜けてきて主人公に「正しさ」を突き付けるキルモンガーが『ブレード・ランナー』のロイなどを思い浮かべずにはいられないように、未踏の地を切り開いたのではない。

物語の型をふまえている、あるいはどこかで見たことのあるようなキャラクターが登場するというのは、陳腐であるとか書割的であるというのではない。古典的な型を踏襲することで複雑に入り組みそうな物語をわかりやすく整理し観客を混乱させることなく物語にライドさせ、登場人物たちは今日的にアップデートされているため観客は感情移入しやすくなる。

キルモンガーがキルモンガーになるまでを描くスピンオフなどすぐにでも出来そうだし、シュリを主役にティーン向けテレビシリーズなんてのもあっていいかもしれない。個人的には何よりも、オコエとナキアが世界各地で暴れまくるなんてのがあればぜひとも観たい。こう思わせてくれるのは脇役を含むキャラクターの造形に成功したからだ。


アフリカ的なイメージをふんだんに使うことは、悪しきステレオタイプに陥ったり、逆にそのイメージを覆そうとするあまりに空回りともなりかねないし、マーベル側では文化の盗用といったあたりに気を遣うところもあったろう。原作のブラックパンサーとブラックパンサー党との関係はマーベル側ではこれまで曖昧にしてきたが、この映画『ブラックパンサー』では憶することなくシンクロさせている。そして最後に持ってくるのは現在のアメリカをはじめとする世界へのこれ以上ないストレートなメッセージだ。打てるものなら打ってみろと言わんばかりにど真ん中に直球を投げ込むかのようなこの作品は自信の表れであろうし、その自信にたがわずマーベル映画の良質な部分が詰め込まれている。

欲を言えばブラックパンサー対キルモンガーなどバトルシーンに「これをここでこう使うとは!」といったフレッシュさやサプライズがあればというところもあったが、そんなものが小さく感じるほど「真っ当なエンターテイメント」に仕上がっている。

アフリカやアメリカの歴史、今日のアメリカや世界情勢といった文脈をふまえていなくても存分に楽しめること請け合いだが、文脈をふまえていればより奥行きが増すことだろう。僕自身ヒップホップには疎いしアフリカ文化なども通り一遍の知識しかないもので、取りこぼしている情報というのは非常に多いことだろうと思う。そういった文脈を構築していく欲求も掻き立ててくれる。

新しいコミックの方はタナハシ・コーツが原作を手掛けてるんですよね。こっちも読んでみたいな。

クロノスと石仮面

『クロノス』は1993年公開のギレルモ・デル・トロのデビュー長編。






1536年、ある錬金術師が宗教裁判所から逃れるためメキシコへとやって来た。彼は総督ご用達の時計師となり、永遠の生命を与える鍵となる「クロノス」を作った。400年後の1937年、ある建物の丸天井が崩れ、大理石のような肌をした男が心臓に一撃を受けた。あの錬金術師であった。男の持物は調査され、すべて競売にかけられたが、そこに「クロノス」は含まれていなかった。

孫娘と店に出ている骨董屋の老主人は、奇妙な客の動きをきっかけに天使像に隠されていた「クロノス」を発見する。「クロノス」を捜し求めていた男は情報をつかみ天使像を買い求めるが……


最近になってようやく見たのだが、「デビュー作にはすべてがつまっている」と言われるように、いかにもデル・トロといった感じ全開である。

ところで、「クロノス」の造型はどこか『ジョジョの奇妙な冒険』の石仮面を思わせる。「クロノス」の触手に刺されると若返り死ななくなるが、人間の血を求め、太陽の光を浴びると焼けるように痛むというのはドラキュラをモチーフにしているので設定として重なるのは当然といえばそうではあるが、形状においても連想を誘う。

どこかに元ネタがあったりするのだろうか(こっちが知らないだけで有名だったらごめんなさい)。はたしてこの段階でデル・トロは『ジョジョ』を読んでいたのか気にならないことはないが、まあデル・トロならそれも不思議ではないものの、それよりも荒木飛呂彦とデル・トロの想像力がシンクロしたと考えた方がより楽しいかも。




『シェイプ・オブ・ウォーター』

『シェイプ・オブ・ウォーター』


『パンズ・ラビリンス』は母の再婚とスペイン内戦後の独裁政権という、少女にはどうすることもできない家庭的・社会的状況を背景に、少女がファンタジーの世界に入り込み、それでも当然ながら現実から逃れることはできずに、双方に飲み込まれていく物語であった。

現実に背を向けていた中年女性が現実と向きあいざるをえなくなっていくかのような『シェイプ・オブ・ウォーター』がこれと対極をなす物語なのかといえば、そこはさすがギレルモ・デル・トロ、ファンタジーに逃げ込むか現実の中で戦うのかといった単純な二元論に陥ることはない。同時に『シェイプ・オブ・ウォーター』は複雑な物語ではなく、あくまでストレートな愛の物語なのである。


軍の研究施設で掃除婦として働いているイライザは肉体的に声を発することができない。先天的にではなく、幼少期におそらくは暴力的に声を奪われた。彼女は映画館の上階に住んでおり、隣人の老画家ジャイルズと一緒にテレビでミュージカルなどを観るのが大好きで、自分がミュージカルの中にいる夢想をする。

ジャイルズは時代の変化に対応できず、取り残されようとしている人間だ。彼は広告用の絵を古巣の会社に持ち込むが、1962年といえばすでに写真の時代であり、つれない対応であしらわれる。テレビで見るのはもっぱら映画やミュージカルで、キューバ危機や人種問題が深刻化しているにも関わらず彼はニュースなど見たがらない。60年代の広告業界を描いたドラマ『マッドメン』にはやはり時代の変化に直面する広告会社のアート部門担当のサルというキャラクターが登場するが、デル・トロが『マッドメン』を見ていたのかは知らないが、サルと同様ジャイルズもゲイである。

ジャイルズは思いを寄せていた男性に思い切って近づくが、暴力的な反応が返ってくる。そればかりか、人当たりのよさそうだったその男は実は人種差別主義者でもあったという現実を目の前に、尻込みしていた戦いに加わる決意をする。

ジャイルズがなんとかして憧れの男と話す機会をひねり出そうとしたり、イライザが毎朝(?)マスターベーションをするように、二人はひたすら逃避的に生きているのではなく、肉体的欲望を抱き、生の感情を持っている。それを完全に抑圧しているわけではないが、しかし障害を持つイライザとセクシャルマイノリティーであるジャイルズはそれを充足させるのが困難であるという諦念を持っているかのようでもあり、それがミュージカルの世界などへの耽溺につながっているのかもしれない。ある意味では安定しているともいえるその生活を揺さぶるのが「半魚人」である。

イライザたちが対峙するのはアメリカ合衆国(の白人男性)のマッチョイズムであり、それを体現しているのが元軍人の警備責任者ストリックランドだ。ストリックランドは滑稽なまでに男性性を誇示しようとし(トイレで小用をたしても手を洗わない!)、それは当然ながら直接的に暴力に結び付く。

ストリックランドは常に「男」であることを証明しなければならない、それもdecentな、一角の男であることを証明しなければという強迫観念にとりつかれている。彼を支えるのは家庭の愛ではなく、もっと上を目指さなければならない、信じればそれは実現できるといった軽薄な自己啓発である。他人から見れば問題なく映るであろう家庭生活も彼の心を癒してくれはしないし、それがイライザへの歪んだ欲望となっていく。ストリックランドは子どもの頃からの好物である飴が手放せないのは、その重圧から逃れたいがゆえのストレスであろうし、それを感じているからこそより攻撃的に、高圧的になっていく。冷戦という冷徹な「現実」を直視しているという感情は自らを正当化し、己の振る舞いを問い直すことはない。異形の半魚人はマッチョイズムと括弧つきの「現実主義」によって暴力にさらされる。


トランプを大統領に押し上げたのはまさにこのストリックランド的な強迫的なまでのマッチョイズムであるし、イライザは「異種」に対する暴力によってこれと正面から向き合うことになる。しかしそれはファンタジーへの逃避か、現実に留まって戦うのかという二択ではない。イライザを突き動かすのは損得勘定に基づく計算ではなく、押しとどめようもなく溢れてくる愛である。奪われた「声」を絞り出すイライザがいるのはどこか。その美しさを、心弾む様を、切実なる心の叫びを具象化してくれるものもまたミュージカルであり映画でもある。

60年代前半を舞台に、現在のアメリカを中心とする世界を覆い尽くさんばかりとなっているメンタリティを炙り出し、さらには寄る辺ない個人がそれとどう対峙していくことができるのかを、臆面もないほどのロマンティックな愛の物語として描き出している。


このように非常に「正しい」作品なのであるが、現状を描くという点で一つ不満をあげるとすれば、イライザの同僚の黒人女性ゼルダかもしれない。身寄りのないという似たような境遇にあったゼルダがイライザに保護者的感情を抱くというのはわかるが、無私の愛をイライザに注いでいるかのようなゼルダは、白人のお嬢様を口うるさくも暖かく見守る(とされる)南部のナニー的な雰囲気をまとってしまっている。ゼルダ役のオクタヴィア・スペンサーがまさにそういった白人によって作られたステレオタイプな世界が揺さぶられる『ヘルプ』の出演者だけによりそう見えたところもあったかもしれない。二人の関係はもう少し対等な感じであってもよかったかとも思う。

こういったことを言い出せばきりがなくなってしまうし、作品そのものの瑕疵にまでなっているかといえばそこまでではないだろう。それよりもやはりデル・トロの心意気を買いたい。






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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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