『ラ・ラ・ランド』

『ラ・ラ・ランド』には十分楽しませてもらったが、では映画史的に見てエポックになるような作品だと感じられたとか、あるいは個人的に打ちのめされるような作品だったかというと、そこまでとはいかなかった。この作品を手放しで絶賛している人には「いや、それほどでは……」と言いたくなるし、この作品を酷評している人にもやはり、「いや、そこまででは……」と言いたくなる。これはデイミアン・チャゼル監督の前作『セッション』も同様であった。

『セッション』では、ミュージシャンを目指していたこともあるチャゼルが音楽映画を撮ったのであるが、その音楽考証の杜撰さは玄人筋から顰蹙や怒りを買うことになった。過去のミュージカル作品へのオマージュをふんだんに取り入れた『ラ・ラ・ランド』であるが、シネフィル的な人からは冷ややかな反応も目立つ。後ろから弾を撃たれているような、なんだか不憫な感じもしてきてしまうが、ジャズと映画といえばうるさ型のファンを擁する二大ジャンルでもあるだけに、地雷原に全速力で突っこんでいくようなチャゼルの意気込みというのはその分感じることもできるのだが、その鼻息の荒さにかえってイラっとくる人もいるのかもしれない。

「ジャズは死にかけている。そのまま死なせてやれという人もいる」とセブは言うが、これはミュージカル映画にもそのまま当てはめることができるだろう。死に瀕しているこのジャンルを救いたい。うるさ型がでんと控えることによよって新しいファンが疎外されるというのはどのジャンルにも起こりうることだ。玄人受けばかり狙って「老人向け」に作ったところで新しいマーケットを開拓することはできず、衰退していくだけだ。一方で「未来」に向けてジャズのアップデートを図る(?)キースであるが、音楽に通じているとはいえないミアすらドン引きさせるチープなものになっている(正確にいえば音楽にドン引いたのではなく、意に沿わないことをカネのためにさせられているセブに同情したのではあるが、ミアがこのバンドに心を動かされなかったことは間違いない)。このように、批判を浴びることを恐れて新たなチャレンジができないのであらばそのジャンルは衰退してしまうし(セブはそういうキャラクターでもある)、そんなものどこふく風で堂々とやってのけるのだという風でありつつもまた、「大人」の賢しらさへのシニカルな視線もある。

ジャズ、ミュージカル、業界内幕もの、観光案内的、そしてエマ・ストーンと、これらはウディ・アレンのものでもあるが、アレンは肩の力を抜いて飄々とやっている(「ありえたかもしれない世界」をウディ・アレンがやれば、それはロマンティックなものであっても愛すべき小品として作ったり、あるいはみみっちい泣き言という形になるのだろう)。本作も、それこそキースとセブの絡みの場面なんかはスラップスティック調にやってもよかったのかもしれないし、それもまたミュージカルらしさにもなったのだろうが、チャゼルの場合どうしても力みかえってあらゆる場面で全力疾走しているかのようであり、このあたりも好みが分かれるところだろう。


ベル・アンド・セバスチャンのスチュアート・マードックが監督した『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』は、いかにもベルセバ的世界であり、ファンとしてはチャーミングで楽しめる作品となっているものの、映画として洗練されているかといえばいささか留保をつけざるをえない。『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』と『ラ・ラ・ランド』を比べると、やはりチャゼルの監督としての力量の確かさを讃えずにはいられない。一方で、ミュージカル、引用の数々、原色とくればゴダールでもあるが、『ラ・ラ・ランド』を見ると、やっぱりゴダールはすごいのだな、という気分にもなってくる。

チャゼルの作品は、溢れ出る才能を御しきれない結果としていびつなものになっているのかというと、どうもそうではないようにも思える。彼の監督としての能力が高いことは間違いないが、実は映画的(さらには音楽的)センスというのが今一つなのかもしれないとも思えてしまった。

象徴的なのが、『ラ・ラ・ランド』であるいくつかの演奏場面だろう。これが二流のディレクターによるテレビ番組であるかのように、どうにも格好良くない。セブがネガティブな感情を抱いている場面であえてダサくするのならわかるが、肯定的な感情を持っているはずの場面でも、カメラワークや編集を含めて、「おおっ!」と思わせてはくれないし、むしろこの人は本当にジャズに興味があるのだろうかとすら思えてしまった。このあたりは『セッション』の主人公がドラムの早叩きに執念を燃やすものの「スウィング」には無関心といったたりからもその疑念が生まれる。『セッション』も、そもそも主人公は本当にジャズが好きなのか、それとも自己顕示欲からくるものなのか、音楽学校でジャズを教えることができるのか、といったあたりがテーマになってもおかしくないのだろうが、そのあたりにはチャゼルはほとんど関心がないようであった。

チャゼルという人は全体をまとめて観客をフックする力はあるのだが、細部へのこだわりというのが欠けいて(彼について極めて否定的な評価をする人が最もひっかかるのはこのあたりだろう)、その結果一般的なイメージとはむしろ逆に、観客の心をワンショットで鷲掴みにするような、「心震わせるようなショット」というのが撮れない監督のようにも思える。大きな(あるいは最大の)見せ場である冒頭の高速道路の場面も、すごいことはすごいのだが、ちょっといじわるな見方をすると、金と手間隙かけたミュージックビデオかipodの広告のようにも見えてしまいかねなかった。ストーリーとは直接絡まないここは、この作品は衒いなく正面きってミュージカルをやるのだという宣言であり、イントロとしては十分に機能しているとも思うが、それ以上ではないといえばそうとも思える。


考えてみれば、現代でミュージカル映画をやるというのは、『レ・ミゼラブル』のような古典を題材にしたものならともかく、基本的にはあらかじめ負けが決まっている戦いなのかもしれない。ジャンル映画としてミュージカルファンにだけ訴求できればいいと割り切るか、ノスタルジーに訴えかけるか、異化効果を狙うか、こういったあたりでないと厳しいと長年考えられてきたことだろう。そんな中でチャゼルが本作を批評的にも興行的にも成功させたというのは、それだけでも称賛に値することだ。

どうしてもチャゼルには過大評価と過小評価とがつきまとってしまうのであるが(悪名は無名に優るではないが、それもまたチャゼルの才能のなせる業でもあろう)、誉め言葉には聞こえないかもしれないが、「普通に面白い」映画を撮る能力は間違いなく高い映画監督であろう。『セッション』がそうであったように、『ラ・ラ・ランド』も、ふらっと映画館に入って偶然見たのだとしたら、多くの人にとって得をしたような気分になれるくらい楽しませてくれる作品であることは間違いない。ちょっとぶつぶつ言いつつも、僕も十分に楽しめた作品であった。


ストーリー的に気になるところといえば、すでに作中でもスマホの時代になっているにも関わらず、セブは携帯を持っていないのだろうか。映画館での待ちぼうけやミアの舞台に急遽行けなくなるところなど、メール一本入れておけばそれで済むだろうというところでそうしないもので、持っていないとすべきなのだろうが、その割には終盤でミアが残していった(?)スマホを普通に使っているのはどうしたことか(映画館運が悪くて、隣の人に集中力を乱されたせいでいくつか見落とした場面があるもので、このあたりにきちんと説明がなされていたのだとしたらごめんなさい)。

携帯描写といえば村上春樹の『騎士団長殺し』でもやや強引な印象があったが、映画や小説で、とりわけ『ラ・ラ・ランド』のようなすれ違いを描いた作品で携帯という存在が邪魔になるというのはわかるのだが、それならいっそのこと携帯がまだない時代に設定すればいいのではないかと思ってしまう。『騎士団長殺し』の場合東日本大震災を登場させたかったのであの時代になったのであろうが、『ラ・ラ・ランド』の場合携帯が普及する前の時代にしたところでまるで支障がなかったはずだ。


本筋には関係ない話では、セブが帰ると家に姉が無断あがっており、不意をつかれて「ビクッ!」となるところは個人的にツボにはまってしまった。セブよ、お前は意外と気が小さいのか。僕もよくああなって失笑を買うことがあるもので他人事とは思えなかったのだが、セブ(とゴズリング)のあのキャラだけに余計におかしい。ミアがそっと帰宅した時にもなるのだが、よく鍋をひっくりかえさなかった。

あと、僕は昔からエマ・ストーンが好きなもので、パーティでリクエストをする時に腕をぴんと上げたところは可愛らしくてよかった。

一方で雑誌の撮影シーンだが、あれはなんなのだと不快でになってきた。あんなカメラマンが被写体の魅力を引き出せないのは誰にだってわかるし、そんな無能なカメラマンがあの年齢になるまで仕事を続けているうえに、有名雑誌の仕事まで得るなどというのはまず有りえない。もちろんここはカメラマンなどどうでもよくって、セブの置かれた状況とそれがもたらす心理を戯画的に描いた場面だということはわかるのだが、それにしたってアレはないのではないか。チャゼルのこうした粗雑さやいい加減さにイラっとくる人が多いというのも、よくわかる場面であった。



『沈黙  サイレンス』

『沈黙  ――サイレンス――』

長編小説を映画化した場合、原作にこだわりすぎた結果として、原作を未読の人には意味がわからず、読んでいる人にはあれが足りないこれが足りないとなってしまうということがままある。その点この『沈黙  サイレンス』は、スコセッシが長年温めていた企画だけあって見事にまとめあげられていて、原作をほぼ忠実になぞりながら、独立した作品としてもきっちり一作に収めている。


とはいえ、直前に原作を読み直してから行ったものでどうしても両者を比較してしまいたくなってしまい、まずは本筋とはいえないここから。


ロドリゴは井上について、見るからに禍々しい存在を予想していたのであるが、目の前にいる人を喰ったような飄々とした老人がその井上であることを知り驚く。このあたりは原作も同じである。

「茫然として、彼は老人を見つめた。老人は子供のように無邪気にこちらを眺めて手をもてあそんでいる。これほど、自分の想像を裏切った相手を知らなかった。ヴァリニャーノ師が悪魔と呼び次々と宣教師たちを転ばせた男を彼は今日まで青白い陰険な顔をした男のように考えてきた。しかし眼の前には、ものわかり良さそうな温和な人物が腰かけていた」。

しかし映画の観客は、ロドリゴとこの驚きを共有することはないだろう。イッセー尾形が井上役だといった予備知識ゼロで見始めたとしても、井上の登場の仕方は意味ありげであり、彼が重要な人物であることが初登場時に示される。原作でもロドリゴはこの老人の一見温和な様子の裏に潜む狡猾さを目撃しているのであるが、これがどれほどの人物であるのかは読者には示されない(この部分はロドリゴがしたためている手紙という形式のため、読者はロドリゴ以上の知識を持てない)。

原作では冒頭で恐るべき拷問である「穴吊り」への言及があり、ヴァリニャーノは「日本には今、基督教徒にとって困った人物が出現している。彼の名はイノウエと言う」と警告を発する。ヴァリニャーノは、井上と比べれば「さきに長崎奉行として多くの切支丹を虐殺したタケナカなどはたんに凶暴で無智な人間にすぎない」と言う。そして「悲しむべきことに」、「彼はかつて我々と同じ宗教に帰依し、洗礼まで受けた男なのだ」。だからこそ井上は、「前任者タケナカとは全く違った蛇のような狡猾さで、巧みな方法を駆使し、それまでは拷問や脅しにもひるまなかった信徒たちを、次々に棄教させ」ることができるのであった。
ロドリゴは日本潜入前に、「やがて日本に上陸した後、おそらく出会うかもしれぬこの日本人の名を記憶にとどめるため、馴れぬ発音を私たちは口のなかで繰りかえ」すのであった。

井上をめぐるこのあたりの描き方は原作の方が効果的であろう。映画でもマカオでロドリゴが井上の名前を耳にして強烈な印象を抱いていたとすることは難しくなかったはずだが、あるいは脚本を長年に渡って切った貼ったしているうちに削られてしまったのかもしれない。

原作では井上とい存在はロドリゴとガルペのみならず読者にも冒頭で強く印象づけられている。しかも井上が元キリスト教徒だけあってキリスト教を知り尽くし、主観的にはともかく第三者から見れば、フェレイラやロドリゴが井上の術中にまんまとはまっていくというのは、この物語が与える多義的な印象にとって重要な部分でもあるので、本筋とは関係ないとしたが、単にエンターテイメント的効果の問題に留まらない微妙だが大きな改変部分だとすることもできるかもしれない。



『沈黙』という小説は、単に長さの問題だけでなく映像化しにくい要素を抱えている。三人称、書簡体、日記と複数の視点とナラティブが混在しているためだ。このあたりをどう処理しているのかが一つの注目であったのだが、スコセッシはボイスオーバーという好みが分かれる手法を恐れない監督だけあって、一人称部分はそのものずばりで描いていた。スコセッシの作品ではおなじみのもので違和感を覚えた観客はあまりいないと思うが、その分原作のナラティブの使い分けといったあたりは後景に退くことになっている。語りの問題というのは小説と映像の最大の差異であり(映像作品で完全な一人称の再現は不可能といわないまでも非常に困難である)、むろんこれに唯一の解があるというのではない。

遠藤がこうした手法を用いたのは、『沈黙』という作品に複数のテーマが内包されているからであろう。神の沈黙、キチジローに代表されロドリゴらにも潜む人間が抱える弱さとその救済、そして日本人カトリック作家による、日本という場所でキリスト教徒になりえるかという疑念といったあたりが主なものである。これらは「信仰をめぐる問い」と一くくりにすることも可能であり、スコセッシがこの作品に惹かれたのはまさにここであろうし、その結果として映画『沈黙』は確かにきれいにまとまってはいるのだが、原作に孕まれていた「いびつ」さというのがそがれているようにも思えた。

それを象徴するのが、基本的には原作に忠実でありながら、ここだけは大きく改変した最後のパートである。遠藤は読みにくい「漢文体」の「切支丹屋敷役人日記」をエピローグとして結末に置いており、実際にここは読み飛ばされたり、意味がよくつかめなかった読者も多かったようで、こちらに書いたように遠藤は自作解説を行わなくてはならないほどであった。もちろんこの人を遠ざけるようなわかりにくさや曖昧さこそが遠藤の狙いであったのだろうが、映画『沈黙』ではこれをオランダ商館員ヨナセンの日記を引き伸ばす形で処理し、結末は観客が誤解のしようのない形になっている。井上の術中にはまってキリスト教が「日本と申す泥沼」に敗れていくという、普遍宗教であるはずのキリスト教の普遍性への疑念を描いたものともとれてしまう原作には、少なからぬクリスチャンが居心地の悪さを覚えることだろうが、映画をその結末まで見れば、このような居心地の悪さは生まれないだろう。
スコセッシが直接的に描いたあの場面は遠藤自らが解説しているように原作からも引き出せるものであり、必ずしもエッセンスまでをも改変したわけではないが、やはりその印象は大分異なるものにもなっている。


微妙な印象の違いといえば、聖書的イメージとの類似と差異というのもあるだろう。キチジローからは誰もがユダを連想するだろうし、明らかに重ね合わされている部分がある。しかし同時に、キチジローはユダと違って首を吊らないように、遠藤は意図的にあえてずらしているところもあり、これこそがこの作品の肝の一つであろう。彼のような人間も救われるのかというのは遠藤の問いでもあり、非常にスコセッシ的な問いでもある。この部分は原作と映画は明確に共有している。しかし映画では、ロドリゴはかなり露骨に自らをイエスと重ね合わせているのであるが、原作では捕らえられたロドリゴは、予想と違いその「のどか」な捕われの日を送る中で、「自分が多くの殉教者や基督のように、悲劇的で、英雄でないことに幻滅さえ感じ」ることになる。

ロドリゴはキチジローの密告によって捕われる直前にこう考える。
「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎で焼かれ、海に沈められることを耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏絵を踏んだかもしれぬ」。

まさに彼は踏絵を踏むことになる。つまり、ロドリゴが「転ぶ」ことになるのは、独善的な信仰のみを盲信し教条主義に陥るのではなく今苦難に見舞われている弱き者にこそ寄り添わねばならないという一種の悟りを得た結果のみだけではなく、ロドリゴ自身が捕らえられる前から、自分はキチジローと同じ弱さを持っているのではないかという疑念を抱いており、まさにその弱さゆえであったのではないかということもまた示唆されている。もちろん映画でもこのあたりは汲み取られていて、フェレイラの見るからに、明らかに自信なさげな、目線をそらすおびえたような様子は、彼が己と信仰の強さへの自信からあえて転んだのではなく、弱さに押し潰された結果であることも表しており、当然ロドリゴもまたそれを共有することになっているであろうと思わせるのであるが、映画ではロドリゴについてはこの部分の描写は弱い。

死ぬことになるのに「みんな、平気なのか」とロドリゴが問うと、同じく捕われの身にある女は「パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると石田さまは常々申されとりました。あそこじゃ、年貢のきびしいとり立てもなかとね。飢餓も病の心配もなか」と答える。「ほんと、この世は苦患ばかりじぇけえ。パライソにはそげんものはなかとですかね、パードレ」、そう訊ねられると、ロドリゴは「天国とはお前の考えているような形で存在するのではない」と言いかけるのであるが、口をつぐむ。ロドリゴは「天国とはきびしい税金も苦役もない別世界だと夢みる」百姓たちの、「その夢を残酷に崩す権利は誰にもな」いと思い、「そうだよ(……)あそこでは、私たちは何も奪われることはないだろう」と言う。

ここでロドリゴは、信仰を棄てずに「パライソ」に行く覚悟を決める(というかむしろそれを積極的に望む)百姓たちの信仰心の篤さに感動しているのではない。土着化した信仰がキリスト教から離れていっていることは日本で布教を開始してから感じてきたが、まさにそうであることを見せつけられるのであり、彼がそれを正さないのは、同情心からであってこれこそが真の信仰だと考えたからではない。

しかし、 キリスト教にとってイエスの死とその復活とが信仰の核であり、最初期の伝道師たちは次々と殉教を遂げ聖人となっていったように、殉教はキリスト教の普及にとって欠かせないファクターであり、まさにイエズス会はそれを恐れぬ団体である。この世の辛さからの救済を求めて死を願う日本人百姓と、あえて殉教を望むかのような宣教師たちに違いはあるのだろうか。そもそもロドリゴとガルペはあまりに危険だという警告を振り切って日本に潜入したことを思えば、布教やフェレイラの棄教の噂の真相を確かめたいという目的もあるとはいえ、殉教すること自体を望んでいたという部分もないとはいえないだろう。この「のどか」な捕われ生活を送っているときは知る由もないが、後にガルペはロドリゴと違い殉教することになる。転ぶことを拒み、信徒とともに死ぬことを選ぶガルペはこれに忠実であり続けた。一方ロドリゴは殉教しない、あるいはできない自分が、「多くの殉教者や基督のように、悲劇的で、英雄でない」という事実を突きつけられ、自分がキチジローと変わらないのではないかと「幻滅」し、「言いようのない不満」を覚える。

こう考えると、原作ではロドリゴが耳にする神、あるいはイエスの声は、彼が自己防衛として頭の中で作り出しているようにも思えてくるのであるが、映画ではロドリゴはより直接的に自分をイエスと重ねているため、「実際」にこの声を聞いているという印象の方が強まる。もちろん映画でもそれは逃避的幻覚、幻聴であるとも解釈できるため、必ずしも原作から逸脱しているとはいえないが、やはりその肌合いというのは多少異なることになる。

誰もが誉め言葉として、映画『沈黙』が原作に忠実であると口にするし、改変した結末のエッセンスをも含めて実際にその通りであるのだが、同時にこうした差異から生じる微妙な肌触りの違いというのもある。


当然ながら、映像作品の価値とは原作をいかに再現するかにかかっているのではない。原作との間に差異があるからといって、スコセッシの『沈黙』の価値が低下するというのではない。
文学作品をいかに映像化するのかというのは文字通りに山のような試みが重ねられてきており、絶対の正解というものが存在しないどころか、ある意味では敗北があらかじめ決定付けられている試みであるとともに、また文学とは違う形での勝利の可能性というものを映像作品は持っている。
スコセッシの『沈黙』は映画単体としても完成している素晴らしい作品であるが、二つの『沈黙』を対比的に見るのも面白いし、篠田正浩版は未見なのだが、この三者を比較してみるとまたいろいろなものが見えてくることだろう。もし映画を観て原作を未読であれば、ぜひとも一読していただきたいし、原作を読んだが映画を観るのは迷っているという人がいれば、ぜひとも映画も観ていただきたい。このようにしてさらに探求を重ねることができるタイプの作品になっている。


そういえば前作『ウルフ・オブ・ウォールストリート』はこれとはまったくテイストの異なる作品なのであるが、こちらに書いたように、このはちゃめちゃな物語も意外なほど原作に忠実でもあった。テーマ、作風のみならずバジェットからして全く違うのであるが、それでいてやはりどちらも紛れもないスコセッシ印の作品ともなっており、スコセッシという監督の個性についてこのあたりから考えることもできるのかもしれない。


ついでにいくつか。
キチジロー役が窪塚洋介であることも、結構意見が分かれるかもしれない。窪塚の演技力の問題ではなく、キチジローというキャラクターを考えると、もっと軽い感じのお調子者風でよかったのではないだろうかとも思えた。そうであれば、こういう人物があのような行動を取るからこその痛切さというのがより一層のものとなったであろう。世が世なら、彼は頼りがいはないが気のいい男として、平々凡々、それなりに幸せな人生を送れたはずである。それが自分の「弱さ」をこれ以上ない形で突きつけられ、救済を信じて死ぬことすらできずに呪われたように生き延び、それでも救いの可能性を求め続ける。ところがこれが窪塚では、顔の整った造型を含めて見るからに「悩める青年」風になっていて、彼の苦悩がかえって一般化されることで、その効果が弱まったようにも感じられてしまった。原作でキチジローのお調子者っぷりが描かれ、ロドリゴは少々呆れつつ微笑ましくも彼を見つめるのであるが、映画ではキチジローはどこにあっても孤立しているような姿で描かれており、常に「実存的」な悩みに煩悶しているかのように見えてきてしまう。
まあハムレットをどういった人物像にするかというのは演出家の腕の見せ所で、現在進行形で何種類ものハムレットが今も生み出され続けているように、このあたりにも絶対の正解があるわけではもちろんないので、あくまで個人的な解釈と好みによると、というところである。

それから、気にならない人にはまったく気にならないが、ひっかかる人にはどうにもひっかかるのが言葉の問題であろう。映画では英語で交わされている会話が一応ポルトガル語でしゃべっているという設定になっていることには微苦笑してしまったが、ただでさえ資金集めに苦労した作品だけにこれはやむを得ないだろうと同情する。そもそもが、原作でも「ここはいったい何語で話しているのか」というような場面もあるので(上の引用の場面でも、ロドリゴは短期間で方言を聞き取れるようになったのだろうか、そして彼は自分の意思を十分に伝えられるほどの日本語を身につけたのだろうか、それとも信徒たちはポルトガル語で言われたことをきちんと理解できるのであろうか)、目くじらたてる必要はないとは思うのだが、「ロドリゲス」と言われると、う~むとならないこともないが。


ゼルダ、ドラマ化

「ニューヨーカー」のZELDA FITZGERALD LETS IT ALL HANG OUTという記事にあるように、アマゾンでゼルダ・フィッツジェラルドを描いた『Z: The Beginning of Everything』というドラマが製作された(パイロット版は2015年に作られていたそうだが知らなかった)。ゼルダ役はクリスティーナ・リッチであるが、ちょっとイメージ違うかなあという気もしなくもないが(というかどうしても昔のイメージが浮かんできてしまうもので)。





ゼルダという人はフェミニズム的観点からもいろいろと注目できることだろう。アラバマ、ジョージア二州に並ぶ者のいない美女と呼ばれ、貧しかったスコット・フィッツジェラルドは彼女と結ばれるために何としても成功しなくてはならなかった。スコットは『楽園のこちら側』で衝撃的なデビューを飾り、時代の寵児として富と名声を得て二人は放蕩生活に突入する(フィッツジェラルドは大恐慌で全財産を失ったのではなく、稼いだ莫大なカネは二人で使いきったのであった)。

しかしゼルダは満たされないものも感じており、一時はバレエに熱中する。常識的に考えて二十歳を過ぎてバレエを始めたところでバレリーナになれるはずもないが、ゼルダの異様とも思える執着は、後に考えれば狂気の兆候だったとされることもある。

ゼルダは自分も作家を目指したし、スコットも彼なりに支援したつもりだったのだろうが、共に私生活をネタにしようとしたことからネタがかぶるという問題が生じることになる。スコットはゼルダの個人的な体験を含めて、自分がそれを小説の題材にするのを当然の権利だと感じていた。
ゼルダの狂気はこういったフラストレーションが原因となったのかはともかく、これが彼女を悪化させたことは間違いないだろう。

このドラマがどういったものになっているのかはわからないが、個人的にはゼルダ目線、スコット目線、スコッティー(二人の娘)目線の三部構成の映像作品が作られればなあとずっと思っている。黒澤明の『羅生門』ではないが、同じ出来事でもそれぞれにはまるで違ったように映っていたことだろう。ゼルダにもスコットにもスコッティーにも、それぞれに感情移入できる要素があるだけに、どのように描き分けるのかというのは腕の見せ所になるのだろうが、『Z』に引き続いて製作してくれたりしたらうれしい。


『ヘビー・ウォーター・ウォー』

『ヘビー・ウォーター・ウォー』

「ヘビー・ウォーター」とカタカナで書かれるとピンとこないが、重水のことである。ノルウェーで作られる重水は原子爆弾実現のために必要とされ、第二次世界大戦開戦前からドイツとフランスの間で鞘当が繰り広げられていた。第二次大戦が始まるとナチス・ドイツはノルウェーを占領する。ノーベル賞受賞者である天才物理学者ハイゼンベルクは亡命せずにドイツに残り、原爆開発に取り組むことになる。ドイツは大量の重水をノルウェーから輸入しようとするが、ノルウェーから脱出しイギリス軍に合流したレジスタンスたちはこれを阻止しようと、工場の破壊を試みる……





ノルウェー製作のテレビ・シリーズで、かなりの予算をかけたようでなかなかのスケール感のある作品に仕上がっている。『テレマークの要塞』をはじめとしてしばしば取り上げられてきた出来事であり、結果がわかっているとはいえ、はらはらとさせてくれる。

原爆開発に取り組むハイゼンベルク、ナチス・ドイツ占領下ノルウェーの化学工場、ノルウェーから脱出してイギリス軍と協力して破壊工作を試みるレジスタンスと、三つの視点から描かれる。
個人的に注目はハイゼンベルクがどう描かれるかであった。ナチ党に入党はしなかったものの、亡命は拒みドイツに残って原爆開発に取り組んだハイゼンベルクの「真意」がどこにあったのかは諸説ある。本気で実現しようとしたが失敗したのか、気乗りしなかったのか、サボタージュを行ったのか、本作でもそのあたりはおそらくは意図的に曖昧に描かれているが、やや同情的に解釈できるような雰囲気を漂わせている。

そういえば「帝国」に新兵器開発に自分は不可欠なのだと思わせておいてサボタージュするというのは『ローグ・ワン』に登場するゲイレン・アーソだが、ハイゼンベルクあたりからの影響もあったりするのだろうか。『スター・ウォーズ』といえば、僕は砂漠や雪原の光景というのにどうにも惹かれるのであるが(もっとも自分で行くのは御免だが)、この作品も『インセプション』もとい『女王陛下の007』など、雪原でのアクションが好きな人にとっても楽しめるだろう。

史実を基にしながらも主要キャラクターに虚構の人物がいるなどかなり脚色が施されているようだが、しかしわかりやすいエンターテイメントに落とし込んでいるだけではない。ノルウェーにとってはこの一連の出来事は英雄的レジスタンスの活躍として神話化するだけで済ますわけにはいかない苦いものでもあり、本作はそのあたりもふまえられているあたりには好感が持てた。



『マッドメン』完走

ちょろちょろと一年くらいかけてドラマ『マッドメン』をついに完走。数々の賞に輝き批評家筋の評判も大変いいドラマであるが、確かに面白かった。




「マッドメン」とは「マディソン街(Madison Avenue)」の「広告屋(adman)」を掛け合わせた言葉であるが、「狂人」や「向こう見ず」といった意味もかけられているのだろう。準大手広告代理店スターリング・クーパー社の花形コピーライターにしてある暗い秘密を抱えるドン・ドレイパーを中心に、1960年代のアメリカと広告業界とを描いていく。なお「ドレイパー」という名字はモデルとなった50年代に活躍したDraper Danielsというコピーライターからとったそうだが、「ドン」という名前の方は『失われた週末』の主人公のドンと関係あるのだろうか。両者ともに作中での年齢がほぼ同じであるし、アルコールの問題を抱えているという共通点がある。

なんといっても時代設定が絶妙だ。大恐慌の記憶があり、第二次世界大戦や朝鮮戦争に出征した世代が働き盛りであるが(ドンも朝鮮戦争に行き、そこで……)、若い世代にとっては豊かなアメリカは自明のものであり、ベトナム戦争もまだ遠い。シーズン1はケネディ対ニクソンの大統領選挙が背景となるのだが、まさにこれはアメリカの、そして広告業界の変化を予告する選挙であった。ケネディの勝利を決定付けたのはテレビ討論だったとされるように、イメージこそが政治をも動かすことが改めて見せつけられ、その主役は活字や写真やラジオからテレビへと移っていく。


シーズン2だったか、ドレイパー一家がピクニックに行くのだが、ドンは子どもたちの目の前で、まるで見えないところに投げてしまえば消えてしまうかのように空缶を投げ捨てる。妻のベティはレジャーシートからゴミを払い落とすと、そのままゴミを放置して車に乗り込む。おそらくこの当時はゴミをこうして「処理」することが誰にとっても当たり前だったのだろう。
わずか50年ほど前と映るか、50年も昔の話と映るかはともかく、こうした当時の「常識」を見せられて現在の視聴者はぎょっとさせられることになる。

登場人物は男も女も(妊婦までも)、時と場所を選ばずに(映画館だろうがどこであれ)とにかくめったやたらとタバコを吸いまくる。仕事中にも酒(蒸留酒)をぐいっとやるが、こそこそ隠れ飲むのではなく当然のたしなみとしてであり、個室には酒が常備されている。女性たちは男性の従属的な仕事しかまかせてもらえず、男性社員は公然と女性社員を値踏みし、彼女たちを性の対象としてしか見ていないことを隠しもせず、仕事中に露骨にくどくばかりか、実際に行為に及ぶことまである。

そういえば、仕事から家に帰るとドンはまず一杯やるのであるが、その後手も洗わずにそのまま食卓につく。これはバーで酒を飲んでもカネを払うシーンが滅多にないのと同じように演出上の都合によるものなのか、それともこの頃は外出先から帰宅しても手も洗わずに食事をするのが普通だったのだろうか。当時は毎日風呂に入っているといえばかえって変わり者扱いされただろうし、手なんて目に見えて汚れでもしていない限り洗うものではなかったのかもしれない。アメリカにおける手洗いの歴史については何も知らないが、「手洗いの社会史」なんて研究も探せばどこかにあるのだろう。


1950年代、それは「古き良きアメリカ」の時代であった。60年代後半に55年の話題に出ると、ドンは「あの頃はいい時代だった」と言う。もちろんこれはあくまで括弧つきで、ドンを含めて都市部の白人男性にとっては、ということだ。男性は我が物顔で女性をモノ扱いし、シーズン前半で登場する黒人はほとんどがエレベーターボーイや家政婦であり、彼/彼女は白人に対し礼儀正しく従順である。すでに南部では公民権運動とそれへの弾圧が激化していたが、ニューヨークの広告屋にとっては知ったことではない。

地位と名声と高収入を得たドンと元モデルで金髪美人のベティは人もうらやむ理想の夫婦のように映っているが、実はベティの精神には暗い影が差している、といったあたりは『レボリューショナリー・ロード』を想起させる。ある種の人々にとっては豊かさと自由を享受できる素晴らしき時代と映る50年代は、別の人々にとっては抑圧と欺瞞の時代でもあった。

60年代はある人々にとっては自由とを求め解放のために闘った「政治の季節」であったが、50年代のアメリカを享受した人々にとっては素晴らしき時代が崩壊していくかのように思えただろう。この時代は急速にアメリカ社会を変えていくが、また全てがひっくり返ったのでもない。


『マッドメン』をまとめて見ると、なんといっても目を引くのがファッションの変化である。とりわけ若者の服装や髪型は、わずか数年でまるで別の国に来たかのように激変するし、中高年にしてもこの変化に引きずられていく。

前半ではマリファナは個人的なパーティーなどでまわされる程度だが、後半にいくと職場で公然と吸う者もでてくる(もちろん皆がそうだったわけではなく、広告業界ならではというとろこでもあろうが)。ゲイの男性社員は、自分のセクシャリティが露見すれば破滅だと思っており擬装結婚までしていたが、堂々とカムアウトする人が現れ衝撃を受ける。同時にゲイというセクシャリティは男性異性愛者のほとんどにとっては依然として忌むべきもの、あるいは嘲笑う「ネタ」であり、偏見そのものは一向に変化してはいない。前半では女性たちは常に男性の性的な視線にさらされ、時には暴力的扱いを受け、職場ではそれを受け流すのも仕事のうちであるかのようだが、後半ではこれに立ち上がることになる。しかし世の中はまだそれを受け止めるだけの変化は起こっておらず、旧態依然とした制度慣行考え方が残存されたままでもある。

ケネディ暗殺は共和党支持者にとってすらとてつもなくショッキングな出来事であり、マリリン・モンローの死はむしろ女性たちのほうが堪えたという描写もある。このように時代史、文化史として秀逸で、時代考証も一部で懐疑的な声もあるようだが(実際には黒人のコピーライターもすでにいたようである)、基本的には優れたものだとしていいだろう。こういうのを気合を入れて作りあげる時のアメリカのドラマや映画というのは本当にすごい。もちろんその分制作費は嵩むわけで、そういった事情もあることはわかっているが、日本の映像作品でファッション、音楽、映画、文学などの文化史を巧みに扱う映像作品が作られることが皆無とまではいわないが、あまりないのは残念なことである。


『マッドメン』を見始めてまず印象深いのが、ドンを演じるジョン・ハムの「大人感」だろう。シーズン1開始時にまだ36歳で、今の僕とほぼ同じなのであるが、にわかには信じがたいほどだ。現在の30代から40代のほとんどの人が、良きにつけ悪しきにつけ、「子どもの頃に思っていた3、40代と違う!」と感じているだろうが、これは精神年齢はもとより外見上でもそうだろう。東アジアだけでなく北米をはじめ世界各地のこの世代を見ると、50年前とは明らかに顔立ちからして違う気がしてくる。ドンが「大人」に感じるのは服装や髪型、物腰といった面もあるだろうが、では他の出演者が現在から見れば年齢不相応なほどの「大人感」をかもし出しているかといえば、そうは見えない。ジョン・ハムはすさまじく髯が濃いのであるが、こういった面も含めてやはり彼の個性によるものだろうし、彼なくしてはこのドラマの成功はなかったとしてもいいだろう。現在の30代で中折れ帽が渋く似合う人などそうはいない。もっともその分、若き日のドンを描いた場面では少々無理が生じているようにも見えてしまうのだが。後半になって雰囲気に年齢が追いついてきた感じになる。


こんなお茶目なことがでいる人でもあります。この曲が登場したエピソードを見た後、数週間に渡って耳にこびりついて離れなかった。可愛そうなサル……



若っ!




僕は経済小説というものをまるで読まないのでどういったものなのかよくわかっていないのだが、『マッドメン』はこういったジャンルのファンにとってもまた大いに楽しめるだろう。実在の企業名が飛び交い、広告代理店が顧客にふりまわされるどころか、クズとしか言いようのない要求まで呑まされることすらある(ジャガーのクソっぷり!)。このあたりは似たような話はあったにしても、特定企業と結びつく実話というわけではないだろうし、実話でないからこそ企業側も受け入れているのだろうが、日本でよくやる「毎朝新聞」みたいな架空の企業名でやられるより迫真性が増している。まあアメリカでも地上波であればさすがに無理だっただろうが。

『マッドメン』の肝となる設定が、スターリング・クーパー社が準大手広告代理店だというころだ。世間的には大企業であり、とりわけ経営幹部は経済的成功を享受しているのだが、マッキャン・エリクソン社(これも実在の企業が実名で登場する)のような業界最大手からすれば、スターリング・クーパー社など人にたかる蚊のようなものだろう(目障りでうるさいが、血眼になって潰しにいくほどではないとはいえ、下手を打つと危険な存在ともなりかねない)。スターリング・クーパー社は同業の最大手の攻勢をかわしつつ、独自性を残しながら生き残りを図っていく道を模索する。権謀術数、陰謀渦巻き、裏切りや打算によって味方が敵になり敵が味方になる。買収や合併が繰り返され、生き馬の目を抜く個人、企業の生存競争が繰り広げられる。

またドロドロの恋愛劇は「昼ドラ」的でもある。『マッドメン』は映画と比してどうというより、やはり優れたドラマとすべきであり、こういった形式は「ドラマ」として視聴者を引きつけるのにうってつけだろう。
一方で経済小説的抗争劇や「昼ドラ」的恋愛劇は型にはまりがちなものであるし、実際『マッドメン』も中盤以降は同じパターンを繰り返しながらインフレを重ねていくという、アメリカのドラマにありがちな悪いパターンに片足を突っこんだという感じもなきにしもあらずで、マンネリ化する前にこのあたりで切り上げたのは正解だろう。

視聴者がこの作品の主要登場人物に100パーセント感情移入することは難しいように作られている。主人公であるドンにしても、良い面を見ればいいのであるが駄目なところは度し難い。このように単純な勧善懲悪的な、あるいは成り上がり的ストーリーとは一線を画しているが、しかしまたドンを完全に悪魔化させたり、全く理解不能な人物にまで突き放してはおらず、またわかりやすい敵役や痛快に思える展開も用意されている。このあたりはブラックジョークやオフビート感あるジョークも含め、近い時期に製作された『ブレイキング・バッド』とも通じるだろう。ありきたりの展開ではもう視聴者を引き付けることはできないし、かといって完全に視聴者をドン引きさせてしまえば、それはそれで瞬間的な関心を掻き立てたとしてもシリーズを積み重ねていくことはできない。このあたりの匙加減というのが、現在のアメリカのドラマにとっては勝負の分かれ目になっているのかもしれない。


それにしても、2016年末になって『マッドメン』を見ると、少々複雑な気分にもなってくる。すでに書いたように、60年代というのは括弧つきの「古き良きアメリカ」が崩壊していく過程でもあるのだが、トランプ支持者にとっては50年代というのは括弧抜きで、そのまま古き良きアメリカと映っているのかもしれない。60年代後半から保守派・右派は60年代的理想主義を目の敵としており(これはアメリカに限らず、西ヨーロッパなどでもそうだ)、50年代への郷愁を煽り、これがニクソン政権やレーガン政権の誕生につながったようにかなりの成功を収めてきた。しかしさすがに時代は変わり、あの頃を「古き良き」などと語るレトリックはもう通じなくなっている……かに思えたところに、かつての白人男性中心社会を取り戻したいという層が吹き上がったのがトランプ現象の一面でもある。

僕なんかはドンを含めて(彼はまだマシなほうであるが)、こんな連中と仕事をすることになんて耐えられないと感じるし、男の僕からしてそうなのだから女性からするとなおさらのことだろう。しかしあのような職場環境を見て、あの頃は良かったと懐かしんだり、ああいった世の中が羨ましい、あの時代に生まれたかった、なんて感じた人がかなりいたのかもしれないし、そういった人は容易にトランプ支持に絡めとられていったことだろう。

『マッドメン』の影響で蒸留酒の売上げが伸びたなんて話もあるし、ドンの大胆不敵な行動や驚異的なプレゼン能力、そして苦みばしった顔でタバコをふかしながらバーで飲む姿を、「格好良い大人」として「ああなりたい」と思ってしまう感情が湧かないことはないが(どれも僕には欠けているものばかりだ)、それでもあの「格好良さ」を支える社会がいったい何の犠牲の上に成り立っているのかを考えると、「あの頃は良かった」などと言う気にはとてもなれない。『マッドメン』を見ると広告業界になんて絶対に関わりあいたくないと思うのだが、『ウォール街』を見てゲッコーにあこがれて金融業会を目指す人がいるように、「俺もあの世界の中にいたい」なんて涎をたらしながら目を輝かせてしまう人もいるのだろうなんて考えると、ちょっと憂鬱にもなってくる。

かくいう僕も中盤以降の新しいオフィスはなんだか落ちつかなくて、前のほうが良かったのになあなんて思えてしまったりもするし(オフィスが変わってからの方がむしろ長いのだが、オープニングで名残を見せられるせいもあるのだろう)、時代が変わるというのはまさにそういったことが日々突きつけられることでもある。そうなるとつい過去を美化してしまいたくもなるのだが、そういった誘惑に屈するとろくなことにはならないのである。


……で、ここからはファイナル・シーズンのエンディングを含め全体のネタバレ全開で書くので、未見の方はご注意を。




ドンは大きな仕事がしたいと、巨大な成功を渇望しているが、それはまたマッキャン・エリクソン社のような最大手に移籍して達成するのでなく、自分の力で成し遂げたいと思っている。スターリング・クーパー社とドンはこの点で利害を一致させており、マッキャンなど大手の圧力をかわしながら生き残りを図っていく。注目すべきは、ドンは業界で知らない人がいないくらいその才能を認められているのに、独立しようとはしないことかもしれない。彼には自分が経営や営業に向いていないということがわかっているが、ドンの名声を使えば能力と野心のある人間を集めることも可能なはずだし、そうしていれば会社は小さいながらも思い通りにやることができたはずである。結局はクーパーと、とりわけロジャーの庇護なくしてはやっていく自信がないのだろうし、また責任を負いたくない、常に逃げ道を用意しておきたいという気持ちも強いのだろう。会社と契約を結ぶことに対してあれほど拒否感を表し逡巡するのは、ドンが言うように自分が選ぶ方の立場でいたいからというよりは、逃げ道をふさがれ縛り付けられることへの不安がそうさせているかのようだ。

なんやかんやあって、結局はマッキャンによる友好的買収という形で決着を見る(またこれはロジャーがドンを守るために仕組んだことでもある)。「祝杯をあげたまえ」とマッキャン側はスタ-リング・クーパー社(もうそうではないのだが、面倒くさいので便宜上そうしておく)側の勝利なのだと言うが、彼らの狙いはシボレー獲得のチームであり、なかんずくドンの才能であった。それ以外のスターリング・クーパー出身者の多くはマッキャンで苦労を重ねることになる。一方長年狙っていたドンを獲得したことにマッキャン側は大喜びで、ドンも当初はそれに満足げであったが、実際に仕事を始めようとすると巨大企業の組織化され画一化された体質では自分の思うようにはやれないとわかり、断りもなく姿を消す。

これは例によって例のパターンで、何度目だよ!というところであるのだが(周囲にはとまどうよりも「またか」という反応も多い)、今回は違うことが起こる。アメリカ各地を放浪しながらドンは子どもたちと連絡を取っていたが、別れた妻のベティが末期の肺癌であることを知らされる。ドンは子どもたちを引き取りたいと申し出るが、ベティは自分の弟夫婦にまかせようとする。子どもたちに必要なのは母親代わりと「普通」の生活であり、ドンのもとではそれは得られないと言う。

トラブルに巻き込まれながら旅を続け、ドンはカリフォルニアの「姪」のもとを訪れると、彼女にヒッピー的、コミューン的なセラピーへと連れていかれる。ドンには心に傷を抱えた「姪」を救うことはできず、またドン自身も癒されることなくボロボロになり、かつての部下でマッキャンに移籍したペギーに別れを伝えていなかったからと電話する。ペギーはドンを心配し、あなたには帰る場所がある、マッキャンはまた受け入れる、コカ・コーラのCMをやりたくないかと励ますが、ドンは自分はもう駄目なのだと崩れ落ちる。

ベティと子どもたち、スターリング・クーパー出身者のそれぞれの新たな出発の姿が描かれる。そしてセラピーに残り瞑想を行うドンの顔がアップになると、彼は不敵な笑みを浮かべ、コカ・コーラのコマーシャルが流れて物語は終わる。





このCMは実際にあった有名なものであり、現実にもマッキャン・エリクソン社が製作を担当している。多様な解釈を許すオープンエンディングといえばそうだが、おそらくはほとんどの人が、ドンがここでコカ・コーラのCMのインスピレーションを得て、マッキャンに戻りこれを製作したと考えるだろうし、そうであれば非常にシニカルな終わり方のように映る。

最終回の一つ前のエピソードで終わらせることもできただろうし、ここで終わらせていればハッピーエンドとはいかなくともバディ・ホリーのEverydayが切なく流れる、きれいに収まる形になったはずだったが、やはりこのドラマらしく一捻りきかせたものにしてきた。




勝手に予想したのは、かつてドンはリゾートホテルのPRの仕事で入水自殺を連想させるようなポスターを作りボツにされたことがあったが、これが伏線になっていて、これをなぞるような形で、旅を続けているうちにふらりと海に向かい、一泳ぎしているだけとも身を投げたともどちらとも受け取れるという結末だが、見事に外れ。またあえてハッピーエンドにするならば、ロジャーとドンがいつものようにバーで飲んでいるが、二人が会ったのは実は数年ぶりのことで、会話が途切れたところでロジャーが広告業界に戻りたいなら何とかすると言うと、ドンはこれを断り、ディック・ホイットマンと名前の入った中古車か毛皮販売業の名刺(どちらもロジャーによって雇われる前にドンがやっていた仕事)を差し出して立ち去り、子どもたちを迎えにいくなんてのも考えたが、やはりそうはならなかった。


映画を見ているときはあまりそうは思わないのだが、シーズンを重ねたドラマだとついあの人には幸せになってほしい、どうかもう不幸が襲ってきませんように、なんて気分になってくる。『マッドメン』では幸福な再出発を迎える人もいるかと思えば、そうとは思いにくい中で結末を迎える人もいるが、ではドンの場合はどうだったのだろう。

ドンは終盤において、不安定でエキセントリックな言動が経営に脅威となるとして解雇寸前にまで追い込まれる。ドンがマッキャンに再び迎え入れられコカ・コーラのCMを担当したのだとすると、結局は彼のようなエゴイスティックな天才を金儲けの材料として使いこなすことができるのは、マッキャンのような巨大資本を持つ大企業のみであるということが示唆されているかのようだ。さらには、60年代理想主義に基づく多文化主義を称揚するようなイメージを使ったこのコカ・コーラのCMは、反体制、反資本主義、反消費主義であったはずのヒッピーに代表される60年代理想主義が、70年代以降はアップルをはじめとする大企業のイメージ戦略に回収されていくようになるのをシニカルに予告するようでもある。ちょうどシーズン1でのケネディ対ニクソンの大統領選挙が60年代を予告したものであったように。

イメージがもたらす差異の力を利用する後期資本主義社会はカウンターカルチャーですら呑み込んでいくし、コピーライターの仕事とはイメージの力を用いて人々を必要もないはずの消費へと駆り立てることである。

ドン・ドレイパーの正体はドン・ドレイパーではなく、ディック・ホイットマンであった。上に書いた「姪」とはディックの姪ではなく本物のドンの妻の姪である。ディックは悲惨な生い立ちと陰鬱な環境から逃れたくて朝鮮戦争に志願し、そこで身元取り違いを誘発させ、死亡したドンと入れ替わって新たな人生を踏み出していた。このため彼は常に自分の本当の身元が露見するのではないかと恐れ(また彼に気付いて訪ねてきた弟をすげなく追い返し、自殺に追い込んだことを後悔し続ける)、アイデンティティー・クライシスに陥り、女性やアルコールに救いを求め、状況をより悪化させていく。
僕が妄想したように名刺に「ディック・ホイットマン」と記せたとしたら、彼が繰り返し言う、「過去は捨てられる」、「前に進めば楽になる」のだという逃避をやめ、現実と自分自身を受け入れたということになるのだが、やはりドンはそうすることはできなかった。


複数のシーズンにまたがって断片的に、バラバラに語られるディックの物語を時系列順に直して再編集したものがあげられている。




このような設定はおそらくは『グレート・ギャツビー』をふまえたものでもあるだろう。貧しい生い立ちのジェイムズ・ギャッツはギャングと組んで(おそらくは)密造酒の売買によって富を築き、ジェイ・ギャツビーという新たなペルソナをまとって別人になり、かつて恋こがれたものの夢破れた憧れの女性と念願叶って結ばれそうになるが、現実に復讐される。ギャッツ/ギャツビーの場合は密造酒であった富の源泉が、ドンの場合イメージであり広告であるというのは時代の変化を象徴している。しかもドンの場合、ギャツビーと違い、彼が本当に何を望んでいるのかは、自分でもよくわかっていないのだろう。身元の露見を恐れるならば人前に出る仕事などすべきでないのに、彼ははっきりそうとは言わないが、やはりちやほやされるのを望んでいる。それは他人に自分が一角の人間であることを認めてもらいたい、認めさせたいということであろうが、では具体的にはどういった形になれば彼は満足するのであろうか。

ベティはモデル出身であり、次に結婚するメーガンは女優である。ジョーンが意地悪っぽく言うように、ドンが妻にしたがるのは人目を引くような派手な美人だ。彼は経済的には十分に成功しながら、さらに上を目指している。それは優れた広告を生み出すということなのだろうか、あるいはさらなるカネを手にしたいということなのだろうか、それとも美女を抱いて世間に向けてひけらかしたいということなのだろうか。ドンは飽くなき野心と破滅衝動との間を極端に揺れ動く。彼が幾度もふらっと姿を消してしまうのは、不安に押し潰されたり、自分が状況をコントロールできなくなることに腹を立てたりするということでもあるが、また望んでいたはずのものを手にしそうになった時に、それが本当に自分が望んでいたものではないという現実を突きつけられるのを恐れているからでもあろう。彼には本当に手にしたいものなど何もないのかもしれない。ここは自分の居場所ではない、自分にはもっとふさわしい場所があるはずだと思いながら、ここから逃れたいと望むことはできても、行きたい場所など現実にはなく、それを具体的に思い描くことすらできず、その結果自らを苦しめ、人をも傷つけていく。

逆にいえば、他人が作りあげた商品を自分が欲しいかどうかなど関係なしに人々に消費欲を喚起させることを狙うコピーライターは、ドンにとって天職なのかもしれない。彼がペルソナをまとってそれに満足しているうちは天才的能力を発揮するが、自分に正直になったり、現実を突きつけられたり、不安にかられると、顧客や消費者を(束の間の見せかけであろうとも)いい気分にさせるのが仕事であるコピーライターとしては致命的なミスを犯してしまうのである。


『マッドメン』は一つのメッセージに回収できるドラマではなく、いくつもの視点が用意されている。
マリリン・モンローのようなスタイルを持つ赤毛の美人のジョーンは優秀な秘書であり、また経営幹部の愛人であり、そしてコピーライターをはじめ数多くの男たちと浮名を流している。彼女は当初は自分の置かれた環境に強い違和感は覚えてはいないようだが、次第に能力に見合った評価をされないことにフラストレーションを感じるようになる。さらには地位と経済的成功を得る代わりに尊厳を傷つけられることまでしなければならなくなる。マッキャンに移籍すると経営陣の中では最も軽んじられ、女が上司などやってられないという男性社員に仕事を妨害されるが、助けを求めた相手からは性の対象としてしか見られず、この事態を解決しようと上層部に掛け合うと逆に脅迫され、退社に追い込まれる。現在ならば法廷闘争に持ち込まれるべきことであるが、当時としては泣き寝入りするより他なかった。それでも彼女は結婚という幸福を選ぶのではなく、自ら起業することを決意する。

当初ドンの秘書に配属されるペギーはその能力が認められクリエイティブ部門に移り、男性からのやっかみや嫌がらせにもめげずに、コピーライターとして自らの道を切り開いていく。

ペギー参上!




ついに保守的な広告業界でも黒人女性が秘書として雇用されるようになる。採用されたドーンは白人の機嫌を損ねたらすぐに仕事を失うかもしれないとびくびくしながら過ごしていたが、理不尽な扱いについに堂々と抗議する。

こう書くと男性中心社会を告発するフェミニズム的ドラマのように思えてしまうが、そうとばかりは言い切れない。
ドンの二番目(というか三番目というか)の妻となるメーガンは、彼のおかげで秘書からクリエイティブ部門へと移るが、それでも満足できずにやはり夢である女優になりたいと言い出す。ドンのコネをきっかけに成功に踏み出せたようだが、ドンとともにカリフォルニアへ移る計画が頓挫するなど二人の関係はうまくいかなくなる。結局二人は離婚することになるのだが、メーガンは完全に被害者面である。ドンの独占欲と自己中心主義に苦しめられたとはいえ、夫のカネで贅沢三昧のどんちゃん騒ぎを繰り広げたうえに仕事を得るために友人まで裏切ってドンの影響力を利用したのだから、「被害者面してんじゃねーよ、なんでこんな女に引っかかったんだよ、ドン」なんて気についなってしまうのだが、メーガンの最後など悪意を持って描かれているとしてもいいほどで、上昇志向が強く女を武器に男を利用しながら、うまくいかないとこれまた女を武器にして一方的な被害者と自分を位置づけて男を非難するというのは、「嫌な女」のステレオタイプとしてのミソジニー的キャラクター設計でもある。


涎をたらすなよ、ハリー……




このように60年代という時代についても両義的で、その理想主義や社会を変えていこうという動きを全否定しているわけではない一方で、揶揄的な描写も多々ある。もちろんこれは製作陣の政治観を表したものと言いたいのではなく、富裕層が群がる広告業界(基本的には共和党支持者の集まりであり、マイノリティーの苦境になどなんの関心もない)を描く以上こうなるのは当然といえばそうであり、むしろこのようなシニカルともいえる物語をどう受け止めるのか、視聴者側の視点のありかが問われるとしてもいいのかもしれない。数年前(つまりテレビのオンエアー時)ならきゃっきゃと笑いながら見ることができたであろう描写でも、今となってはう~むと考え込んでしまったりすることにもなる。


ロジャーのキャラなんて初登場時と終盤ではかなり変わったように思えるし(ただの嫌な奴という感じからしょうもない女好きだが憎めないという感じに変化していく)、基本的には悪役でありつつもそのへたれっぷりも会わせてどこか愛嬌のあるピートにしても、話の展開によってご都合主義的にドンとの距離感が変わりまくったりする(カリフォルニアでドンと再会したときに、握手しようと手を差し出したドンにハグをするピートは可愛くもある)。これは『マッドメン』に限らず、あのシーズンのあの出来事を忘れたのかよといった感じにキャラや人間関係が変化していくというのは長く続くドラマではやむを得ないだろう。

また重要な役割を担いそうな雰囲気で登場しながらたいして活躍しなかったキャラクターや、伏線を張っているかのような意味深なエピソードがどこにもつながらなかったりするのもそうだろう。
序盤でそれなりに大きな役割を担い、黒人の恋人ができて南部で公民権運動に参加するなどしたコピーライターのポールは、世代間対立として使えそうであるがあっさりと退場し、その後ヒッピー的な軽薄な東洋趣味を揶揄するようなエピソードで顔を出すだけ。ケンは小説家という一面はあまり生かされず(『ギャツビー』の作者フィッツジェラルドも作家となる前に一時広告業界にいたことから、そのあたりを絡めてくるかと思ったが、たいした話にはつながらなかった)、しかし退場したかと思えば復活し、それでいてキャラは最後まで定まらなかったようでもある。ダックは消えそうで消えず便利屋として居残り、やはり消えたかに思えて何度も復活するフレディだが、ドンやペギーへの貢献度を考えると彼についてちらっとでも何かあってほしかった。中盤以降コミックリリーフを担う秘書のメレディスはいつ退場してもおかしくない立場であったが、むしろ出番が増えていくというのは彼女のすっとぼけたキャラが使えると判断されたのだろう。


サプライズ!




ポールの代わりに現れたかのような、反体制的であり天才的センスを持つがエキセントリックなユダヤ系のコピーライターのギンズバーグは、その生い立ちの謎や変わり者の養父といったあたりは前フリになっていそうで、存在感をあまり発揮できないまま退場する。経歴詐称がピートにつかまれるという点ではドンを彷彿とさせ、ジョーンに接近し、セクシャリティやその過去についてもあれこれありそうなベンソンもフェードアウトして終わり。このあたりはレッドヘリング(注意をそらすための偽の手がかり)というよりも、何らかの意図を持って仕込んでいたことが不発に終わったのかもしれない。ドラマが継続していればそれが描かれたのか、製作側で膨らますことができなかったのか、あるいは視聴者などの反応によってストーリーを変えていったのかはわからない。このあたりは役者が降板を希望することもあるし、撮影スケジュールの関係やギャラなど制作費の問題も絡んでいるので一概には言えないし、熱心なファンならあれこれ裏話を知ってるのだろうが、さすがにそこまでは調べていない。

とはいえ(少々酔っていてその勢いとはいえ)こんなダラダラ書くつもりはなかったのにこうなってしまい、それでもまだあのキャラクターやらこのキャラクターやらまだまだあれこれ言いたいこともあったりするので、『マッドメン』にはやはりかなりハマってしまったのだろう。




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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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