『ダウントン・アビー』完走

『ダウントン・アビー』を結局最後まで見てしまった。NHKの地上波の海外ドラマってちょっと人気がなくなるとすぐに打ち切られてしまうのだが(『Glee』はどうなった)、ラストシーズンまできっちり放送されたということは日本でも人気が高かったことの証だろう。





1912年のタイタニック号沈没から25年まで、第一次世界大戦や労働党のなど時代の変化とともにある伯爵家の姿が描かれる。最後は(いささかとってつけたかのような)ハッピーエンドとなっているが、作者のジュリアン・フェロウズの言わんとしたのは、『山猫』から拝借すると「変らずに生きてゆくためには、自分が変らねばならない」というものだろう。フェロウズは政治的にも保守であり、明らかに貴族にシンパシーを抱いているが(使用人との関係は現実にはあんなふうにはいかないだろうし、このドラマにはまった人はバランスを取るために労働者階級の視点から20世紀イギリスを見つめなおした『ザ・ピープル』あたりも併せて読んでもらいたい)、同時に失われた貴族文化への哀惜というトーンはそれほど強くない。おそらくここが、イギリスのみならず世界各地で受け入れられた最大の理由だろう。

グランサム伯爵の妻はアメリカ人であるが、当時のイギリス貴族は富裕なアメリカ人を妻に迎えることでなんとか貴族の伝統的生活を維持したという例が多数あった(チャーチルの母もアメリカ人である)。伯爵は物語開始後も数度にわたって資産を溶かしそうになるが、これは貴族が時代の変化に適応できていないことの隠喩であろう。もし伯爵が時代の変化についていけずに意固地に伝統に固執していたなら、ドラマに登場する少なからぬ他の貴族と同様に屋敷を手放し、かつての生活と完全に縁を切らねばならなくなったことだろう。

伯爵は娘が運転手と結婚するのを許し、妻が働くことも受け入れるようになる。このように、抵抗を抱きつつも時代の変化を受け入れ、適応したからこそハッピーエンドが訪れることになる。変化の到来を表すのに一目瞭然なのがファッションで、とりわけ女性のそれは短期間でこれほどまでにと感じられるほど急速に変わっていった。これは正しいか否かではなく、押しとどめようのない事実としてあるのであり、旧弊なファッションに固執したところで失笑を買うだけであり、貴族の生活様式にしてもまたそうである。

そしてこれは現在の社会の変化をも反映しているところもあろう。影の主役(?)として人気を集めたのが、すがすがしいほどのクズっぷりをみせる陰湿な使用人のトーマスであるが、彼はゲイである。トーマスが見境なく陰湿な行動に出るのは明らかに自分のセクシャリティに対する過剰な防衛反応であり、後半にいくにしたがってそれは前景化され、彼は苦悩し始める。ふた昔前の保守的なドラマなら彼には現実的に、あるいは象徴的に「罰」が下るか、あるいは社会から受け入れられずに退場するか、受け入れられるにしてもそれは異性愛者となるといった形がとられたことだろう。しかし、風呂場でのあの出来事は明らかに再洗礼の隠喩であり、新たな生を得たトーマスは希望に満ちた再出発を迎える。

とはいえ、憑き物が落ちたかのような「きれいなトーマス」はルドヴィコ療法でも受けたかのようにも思えてしまい、どうにも物足りなくもある。結局は変化を受け入れた伯爵家の温情によって救われるとも解釈でき、彼は自分自身であり続けることができたのかといえば疑問にも思える。このあたりは保守的な人間であるフェロウズの限界ともできるだろう。


ではこのような結末を当初から計算していたのかといえば、そうではないだろう。長く続くドラマにつきものなのが、イメージの固定化を嫌った俳優の降板だ。『ダウントン』でもシビル、マシューという主役級を消さざるを得なくなった。ここで失速するか否かが優れたドラマとして記憶されるかどうかの分かれ目であるが、これをうまく乗り切ることができた(シビルの後継キャラであるローズ役のリリー・ジェームズがここまで売れたのは、スケジュールを切るうえで制作陣にとっては誤算だったかもしれないが)。

シーズン1では、高慢な長女メアリー、いじけた次女のイーディス、姉たちに似ずに天使のような三女シビルというキャラ設定であったが、シビルの退場により姉二人の造形は変化を余儀なくされたのだろうが、これがプラスに転じていったように思える。もっともそのせいで、長く続くドラマに付き物の、あの事を忘れたんかいなとか、あの人の性格変わりすぎといったことにもなる。とりわけトムの性格はあまりにもご都合主義的に変化しすぎだろ、ともなってしまうが、まあそこはドラマならではのご愛敬ということで。

結果としてプライド高く身分に固執するメアリーに変化が生じ、いじけていたイーディスも自己実現を果たしていくことになるが、シビルがいたらまた違う展開になっていたかもしれない。個人的にはシーズン1の殺伐とした展開も捨てがたいし、ラストシーズンでのメアリーのクズっぷりはそれを彷彿とさせたが、さすがにそのまま終わりにするわけにはいかなかった。

ある人物がドイツでナチスの手にかかって死亡したり、ある人物がユダヤ人と結婚するといったあたりはさらにドラマが長期化するのに備えた仕込みのようにも感じられたが、続編としてドラマではなく映画が製作されるということになったようだ。なんだかんだいって、基本的には恋愛や嫉妬を軸とした「昼ドラ」の豪華版といえばまあそうであるが、だからこそこれだけ引き付けることもできたのだろう。つまりドラマという形式こそがふさわしかっただけに、はたしてどうなるのかというところでもある。一見さんお断りのファン感謝にあえて徹するか、逆にドラマのファンを切り捨てでも映画として優れたものを作ろうとするのか、このあたりが中途半端になると目も当てられないことにもなりかねないし、伝えられるマギー・スミスの出演拒否はそこらへの警告といった意味も込められているのかもしれない。


『ラ・ラ・ランド』

『ラ・ラ・ランド』には十分楽しませてもらったが、では映画史的に見てエポックになるような作品だと感じられたとか、あるいは個人的に打ちのめされるような作品だったかというと、そこまでとはいかなかった。この作品を手放しで絶賛している人には「いや、それほどでは……」と言いたくなるし、この作品を酷評している人にもやはり、「いや、そこまででは……」と言いたくなる。これはデイミアン・チャゼル監督の前作『セッション』も同様であった。

『セッション』では、ミュージシャンを目指していたこともあるチャゼルが音楽映画を撮ったのであるが、その音楽考証の杜撰さは玄人筋から顰蹙や怒りを買うことになった。過去のミュージカル作品へのオマージュをふんだんに取り入れた『ラ・ラ・ランド』であるが、シネフィル的な人からは冷ややかな反応も目立つ。後ろから弾を撃たれているような、なんだか不憫な感じもしてきてしまうが、ジャズと映画といえばうるさ型のファンを擁する二大ジャンルでもあるだけに、地雷原に全速力で突っこんでいくようなチャゼルの意気込みというのはその分感じることもできるのだが、その鼻息の荒さにかえってイラっとくる人もいるのかもしれない。

「ジャズは死にかけている。そのまま死なせてやれという人もいる」とセブは言うが、これはミュージカル映画にもそのまま当てはめることができるだろう。死に瀕しているこのジャンルを救いたい。うるさ型がでんと控えることによよって新しいファンが疎外されるというのはどのジャンルにも起こりうることだ。玄人受けばかり狙って「老人向け」に作ったところで新しいマーケットを開拓することはできず、衰退していくだけだ。一方で「未来」に向けてジャズのアップデートを図る(?)キースであるが、音楽に通じているとはいえないミアすらドン引きさせるチープなものになっている(正確にいえば音楽にドン引いたのではなく、意に沿わないことをカネのためにさせられているセブに同情したのではあるが、ミアがこのバンドに心を動かされなかったことは間違いない)。このように、批判を浴びることを恐れて新たなチャレンジができないのであらばそのジャンルは衰退してしまうし(セブはそういうキャラクターでもある)、そんなものどこふく風で堂々とやってのけるのだという風でありつつもまた、「大人」の賢しらさへのシニカルな視線もある。

ジャズ、ミュージカル、業界内幕もの、観光案内的、そしてエマ・ストーンと、これらはウディ・アレンのものでもあるが、アレンは肩の力を抜いて飄々とやっている(「ありえたかもしれない世界」をウディ・アレンがやれば、それはロマンティックなものであっても愛すべき小品として作ったり、あるいはみみっちい泣き言という形になるのだろう)。本作も、それこそキースとセブの絡みの場面なんかはスラップスティック調にやってもよかったのかもしれないし、それもまたミュージカルらしさにもなったのだろうが、チャゼルの場合どうしても力みかえってあらゆる場面で全力疾走しているかのようであり、このあたりも好みが分かれるところだろう。


ベル・アンド・セバスチャンのスチュアート・マードックが監督した『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』は、いかにもベルセバ的世界であり、ファンとしてはチャーミングで楽しめる作品となっているものの、映画として洗練されているかといえばいささか留保をつけざるをえない。『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』と『ラ・ラ・ランド』を比べると、やはりチャゼルの監督としての力量の確かさを讃えずにはいられない。一方で、ミュージカル、引用の数々、原色とくればゴダールでもあるが、『ラ・ラ・ランド』を見ると、やっぱりゴダールはすごいのだな、という気分にもなってくる。

チャゼルの作品は、溢れ出る才能を御しきれない結果としていびつなものになっているのかというと、どうもそうではないようにも思える。彼の監督としての能力が高いことは間違いないが、実は映画的(さらには音楽的)センスというのが今一つなのかもしれないとも思えてしまった。

象徴的なのが、『ラ・ラ・ランド』であるいくつかの演奏場面だろう。これが二流のディレクターによるテレビ番組であるかのように、どうにも格好良くない。セブがネガティブな感情を抱いている場面であえてダサくするのならわかるが、肯定的な感情を持っているはずの場面でも、カメラワークや編集を含めて、「おおっ!」と思わせてはくれないし、むしろこの人は本当にジャズに興味があるのだろうかとすら思えてしまった。このあたりは『セッション』の主人公がドラムの早叩きに執念を燃やすものの「スウィング」には無関心といったたりからもその疑念が生まれる。『セッション』も、そもそも主人公は本当にジャズが好きなのか、それとも自己顕示欲からくるものなのか、音楽学校でジャズを教えることができるのか、といったあたりがテーマになってもおかしくないのだろうが、そのあたりにはチャゼルはほとんど関心がないようであった。

チャゼルという人は全体をまとめて観客をフックする力はあるのだが、細部へのこだわりというのが欠けいて(彼について極めて否定的な評価をする人が最もひっかかるのはこのあたりだろう)、その結果一般的なイメージとはむしろ逆に、観客の心をワンショットで鷲掴みにするような、「心震わせるようなショット」というのが撮れない監督のようにも思える。大きな(あるいは最大の)見せ場である冒頭の高速道路の場面も、すごいことはすごいのだが、ちょっといじわるな見方をすると、金と手間隙かけたミュージックビデオかipodの広告のようにも見えてしまいかねなかった。ストーリーとは直接絡まないここは、この作品は衒いなく正面きってミュージカルをやるのだという宣言であり、イントロとしては十分に機能しているとも思うが、それ以上ではないといえばそうとも思える。


考えてみれば、現代でミュージカル映画をやるというのは、『レ・ミゼラブル』のような古典を題材にしたものならともかく、基本的にはあらかじめ負けが決まっている戦いなのかもしれない。ジャンル映画としてミュージカルファンにだけ訴求できればいいと割り切るか、ノスタルジーに訴えかけるか、異化効果を狙うか、こういったあたりでないと厳しいと長年考えられてきたことだろう。そんな中でチャゼルが本作を批評的にも興行的にも成功させたというのは、それだけでも称賛に値することだ。

どうしてもチャゼルには過大評価と過小評価とがつきまとってしまうのであるが(悪名は無名に優るではないが、それもまたチャゼルの才能のなせる業でもあろう)、誉め言葉には聞こえないかもしれないが、「普通に面白い」映画を撮る能力は間違いなく高い映画監督であろう。『セッション』がそうであったように、『ラ・ラ・ランド』も、ふらっと映画館に入って偶然見たのだとしたら、多くの人にとって得をしたような気分になれるくらい楽しませてくれる作品であることは間違いない。ちょっとぶつぶつ言いつつも、僕も十分に楽しめた作品であった。


ストーリー的に気になるところといえば、すでに作中でもスマホの時代になっているにも関わらず、セブは携帯を持っていないのだろうか。映画館での待ちぼうけやミアの舞台に急遽行けなくなるところなど、メール一本入れておけばそれで済むだろうというところでそうしないもので、持っていないとすべきなのだろうが、その割には終盤でミアが残していった(?)スマホを普通に使っているのはどうしたことか(映画館運が悪くて、隣の人に集中力を乱されたせいでいくつか見落とした場面があるもので、このあたりにきちんと説明がなされていたのだとしたらごめんなさい)。

携帯描写といえば村上春樹の『騎士団長殺し』でもやや強引な印象があったが、映画や小説で、とりわけ『ラ・ラ・ランド』のようなすれ違いを描いた作品で携帯という存在が邪魔になるというのはわかるのだが、それならいっそのこと携帯がまだない時代に設定すればいいのではないかと思ってしまう。『騎士団長殺し』の場合東日本大震災を登場させたかったのであの時代になったのであろうが、『ラ・ラ・ランド』の場合携帯が普及する前の時代にしたところでまるで支障がなかったはずだ。


本筋には関係ない話では、セブが帰ると家に姉が無断あがっており、不意をつかれて「ビクッ!」となるところは個人的にツボにはまってしまった。セブよ、お前は意外と気が小さいのか。僕もよくああなって失笑を買うことがあるもので他人事とは思えなかったのだが、セブ(とゴズリング)のあのキャラだけに余計におかしい。ミアがそっと帰宅した時にもなるのだが、よく鍋をひっくりかえさなかった。

あと、僕は昔からエマ・ストーンが好きなもので、パーティでリクエストをする時に腕をぴんと上げたところは可愛らしくてよかった。

一方で雑誌の撮影シーンだが、あれはなんなのだと不快でになってきた。あんなカメラマンが被写体の魅力を引き出せないのは誰にだってわかるし、そんな無能なカメラマンがあの年齢になるまで仕事を続けているうえに、有名雑誌の仕事まで得るなどというのはまず有りえない。もちろんここはカメラマンなどどうでもよくって、セブの置かれた状況とそれがもたらす心理を戯画的に描いた場面だということはわかるのだが、それにしたってアレはないのではないか。チャゼルのこうした粗雑さやいい加減さにイラっとくる人が多いというのも、よくわかる場面であった。



『沈黙  サイレンス』

『沈黙  ――サイレンス――』

長編小説を映画化した場合、原作にこだわりすぎた結果として、原作を未読の人には意味がわからず、読んでいる人にはあれが足りないこれが足りないとなってしまうということがままある。その点この『沈黙  サイレンス』は、スコセッシが長年温めていた企画だけあって見事にまとめあげられていて、原作をほぼ忠実になぞりながら、独立した作品としてもきっちり一作に収めている。


とはいえ、直前に原作を読み直してから行ったものでどうしても両者を比較してしまいたくなってしまい、まずは本筋とはいえないここから。


ロドリゴは井上について、見るからに禍々しい存在を予想していたのであるが、目の前にいる人を喰ったような飄々とした老人がその井上であることを知り驚く。このあたりは原作も同じである。

「茫然として、彼は老人を見つめた。老人は子供のように無邪気にこちらを眺めて手をもてあそんでいる。これほど、自分の想像を裏切った相手を知らなかった。ヴァリニャーノ師が悪魔と呼び次々と宣教師たちを転ばせた男を彼は今日まで青白い陰険な顔をした男のように考えてきた。しかし眼の前には、ものわかり良さそうな温和な人物が腰かけていた」。

しかし映画の観客は、ロドリゴとこの驚きを共有することはないだろう。イッセー尾形が井上役だといった予備知識ゼロで見始めたとしても、井上の登場の仕方は意味ありげであり、彼が重要な人物であることが初登場時に示される。原作でもロドリゴはこの老人の一見温和な様子の裏に潜む狡猾さを目撃しているのであるが、これがどれほどの人物であるのかは読者には示されない(この部分はロドリゴがしたためている手紙という形式のため、読者はロドリゴ以上の知識を持てない)。

原作では冒頭で恐るべき拷問である「穴吊り」への言及があり、ヴァリニャーノは「日本には今、基督教徒にとって困った人物が出現している。彼の名はイノウエと言う」と警告を発する。ヴァリニャーノは、井上と比べれば「さきに長崎奉行として多くの切支丹を虐殺したタケナカなどはたんに凶暴で無智な人間にすぎない」と言う。そして「悲しむべきことに」、「彼はかつて我々と同じ宗教に帰依し、洗礼まで受けた男なのだ」。だからこそ井上は、「前任者タケナカとは全く違った蛇のような狡猾さで、巧みな方法を駆使し、それまでは拷問や脅しにもひるまなかった信徒たちを、次々に棄教させ」ることができるのであった。
ロドリゴは日本潜入前に、「やがて日本に上陸した後、おそらく出会うかもしれぬこの日本人の名を記憶にとどめるため、馴れぬ発音を私たちは口のなかで繰りかえ」すのであった。

井上をめぐるこのあたりの描き方は原作の方が効果的であろう。映画でもマカオでロドリゴが井上の名前を耳にして強烈な印象を抱いていたとすることは難しくなかったはずだが、あるいは脚本を長年に渡って切った貼ったしているうちに削られてしまったのかもしれない。

原作では井上とい存在はロドリゴとガルペのみならず読者にも冒頭で強く印象づけられている。しかも井上が元キリスト教徒だけあってキリスト教を知り尽くし、主観的にはともかく第三者から見れば、フェレイラやロドリゴが井上の術中にまんまとはまっていくというのは、この物語が与える多義的な印象にとって重要な部分でもあるので、本筋とは関係ないとしたが、単にエンターテイメント的効果の問題に留まらない微妙だが大きな改変部分だとすることもできるかもしれない。



『沈黙』という小説は、単に長さの問題だけでなく映像化しにくい要素を抱えている。三人称、書簡体、日記と複数の視点とナラティブが混在しているためだ。このあたりをどう処理しているのかが一つの注目であったのだが、スコセッシはボイスオーバーという好みが分かれる手法を恐れない監督だけあって、一人称部分はそのものずばりで描いていた。スコセッシの作品ではおなじみのもので違和感を覚えた観客はあまりいないと思うが、その分原作のナラティブの使い分けといったあたりは後景に退くことになっている。語りの問題というのは小説と映像の最大の差異であり(映像作品で完全な一人称の再現は不可能といわないまでも非常に困難である)、むろんこれに唯一の解があるというのではない。

遠藤がこうした手法を用いたのは、『沈黙』という作品に複数のテーマが内包されているからであろう。神の沈黙、キチジローに代表されロドリゴらにも潜む人間が抱える弱さとその救済、そして日本人カトリック作家による、日本という場所でキリスト教徒になりえるかという疑念といったあたりが主なものである。これらは「信仰をめぐる問い」と一くくりにすることも可能であり、スコセッシがこの作品に惹かれたのはまさにここであろうし、その結果として映画『沈黙』は確かにきれいにまとまってはいるのだが、原作に孕まれていた「いびつ」さというのがそがれているようにも思えた。

それを象徴するのが、基本的には原作に忠実でありながら、ここだけは大きく改変した最後のパートである。遠藤は読みにくい「漢文体」の「切支丹屋敷役人日記」をエピローグとして結末に置いており、実際にここは読み飛ばされたり、意味がよくつかめなかった読者も多かったようで、こちらに書いたように遠藤は自作解説を行わなくてはならないほどであった。もちろんこの人を遠ざけるようなわかりにくさや曖昧さこそが遠藤の狙いであったのだろうが、映画『沈黙』ではこれをオランダ商館員ヨナセンの日記を引き伸ばす形で処理し、結末は観客が誤解のしようのない形になっている。井上の術中にはまってキリスト教が「日本と申す泥沼」に敗れていくという、普遍宗教であるはずのキリスト教の普遍性への疑念を描いたものともとれてしまう原作には、少なからぬクリスチャンが居心地の悪さを覚えることだろうが、映画をその結末まで見れば、このような居心地の悪さは生まれないだろう。
スコセッシが直接的に描いたあの場面は遠藤自らが解説しているように原作からも引き出せるものであり、必ずしもエッセンスまでをも改変したわけではないが、やはりその印象は大分異なるものにもなっている。


微妙な印象の違いといえば、聖書的イメージとの類似と差異というのもあるだろう。キチジローからは誰もがユダを連想するだろうし、明らかに重ね合わされている部分がある。しかし同時に、キチジローはユダと違って首を吊らないように、遠藤は意図的にあえてずらしているところもあり、これこそがこの作品の肝の一つであろう。彼のような人間も救われるのかというのは遠藤の問いでもあり、非常にスコセッシ的な問いでもある。この部分は原作と映画は明確に共有している。しかし映画では、ロドリゴはかなり露骨に自らをイエスと重ね合わせているのであるが、原作では捕らえられたロドリゴは、予想と違いその「のどか」な捕われの日を送る中で、「自分が多くの殉教者や基督のように、悲劇的で、英雄でないことに幻滅さえ感じ」ることになる。

ロドリゴはキチジローの密告によって捕われる直前にこう考える。
「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎で焼かれ、海に沈められることを耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏絵を踏んだかもしれぬ」。

まさに彼は踏絵を踏むことになる。つまり、ロドリゴが「転ぶ」ことになるのは、独善的な信仰のみを盲信し教条主義に陥るのではなく今苦難に見舞われている弱き者にこそ寄り添わねばならないという一種の悟りを得た結果のみだけではなく、ロドリゴ自身が捕らえられる前から、自分はキチジローと同じ弱さを持っているのではないかという疑念を抱いており、まさにその弱さゆえであったのではないかということもまた示唆されている。もちろん映画でもこのあたりは汲み取られていて、フェレイラの見るからに、明らかに自信なさげな、目線をそらすおびえたような様子は、彼が己と信仰の強さへの自信からあえて転んだのではなく、弱さに押し潰された結果であることも表しており、当然ロドリゴもまたそれを共有することになっているであろうと思わせるのであるが、映画ではロドリゴについてはこの部分の描写は弱い。

死ぬことになるのに「みんな、平気なのか」とロドリゴが問うと、同じく捕われの身にある女は「パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると石田さまは常々申されとりました。あそこじゃ、年貢のきびしいとり立てもなかとね。飢餓も病の心配もなか」と答える。「ほんと、この世は苦患ばかりじぇけえ。パライソにはそげんものはなかとですかね、パードレ」、そう訊ねられると、ロドリゴは「天国とはお前の考えているような形で存在するのではない」と言いかけるのであるが、口をつぐむ。ロドリゴは「天国とはきびしい税金も苦役もない別世界だと夢みる」百姓たちの、「その夢を残酷に崩す権利は誰にもな」いと思い、「そうだよ(……)あそこでは、私たちは何も奪われることはないだろう」と言う。

ここでロドリゴは、信仰を棄てずに「パライソ」に行く覚悟を決める(というかむしろそれを積極的に望む)百姓たちの信仰心の篤さに感動しているのではない。土着化した信仰がキリスト教から離れていっていることは日本で布教を開始してから感じてきたが、まさにそうであることを見せつけられるのであり、彼がそれを正さないのは、同情心からであってこれこそが真の信仰だと考えたからではない。

しかし、 キリスト教にとってイエスの死とその復活とが信仰の核であり、最初期の伝道師たちは次々と殉教を遂げ聖人となっていったように、殉教はキリスト教の普及にとって欠かせないファクターであり、まさにイエズス会はそれを恐れぬ団体である。この世の辛さからの救済を求めて死を願う日本人百姓と、あえて殉教を望むかのような宣教師たちに違いはあるのだろうか。そもそもロドリゴとガルペはあまりに危険だという警告を振り切って日本に潜入したことを思えば、布教やフェレイラの棄教の噂の真相を確かめたいという目的もあるとはいえ、殉教すること自体を望んでいたという部分もないとはいえないだろう。この「のどか」な捕われ生活を送っているときは知る由もないが、後にガルペはロドリゴと違い殉教することになる。転ぶことを拒み、信徒とともに死ぬことを選ぶガルペはこれに忠実であり続けた。一方ロドリゴは殉教しない、あるいはできない自分が、「多くの殉教者や基督のように、悲劇的で、英雄でない」という事実を突きつけられ、自分がキチジローと変わらないのではないかと「幻滅」し、「言いようのない不満」を覚える。

こう考えると、原作ではロドリゴが耳にする神、あるいはイエスの声は、彼が自己防衛として頭の中で作り出しているようにも思えてくるのであるが、映画ではロドリゴはより直接的に自分をイエスと重ねているため、「実際」にこの声を聞いているという印象の方が強まる。もちろん映画でもそれは逃避的幻覚、幻聴であるとも解釈できるため、必ずしも原作から逸脱しているとはいえないが、やはりその肌合いというのは多少異なることになる。

誰もが誉め言葉として、映画『沈黙』が原作に忠実であると口にするし、改変した結末のエッセンスをも含めて実際にその通りであるのだが、同時にこうした差異から生じる微妙な肌触りの違いというのもある。


当然ながら、映像作品の価値とは原作をいかに再現するかにかかっているのではない。原作との間に差異があるからといって、スコセッシの『沈黙』の価値が低下するというのではない。
文学作品をいかに映像化するのかというのは文字通りに山のような試みが重ねられてきており、絶対の正解というものが存在しないどころか、ある意味では敗北があらかじめ決定付けられている試みであるとともに、また文学とは違う形での勝利の可能性というものを映像作品は持っている。
スコセッシの『沈黙』は映画単体としても完成している素晴らしい作品であるが、二つの『沈黙』を対比的に見るのも面白いし、篠田正浩版は未見なのだが、この三者を比較してみるとまたいろいろなものが見えてくることだろう。もし映画を観て原作を未読であれば、ぜひとも一読していただきたいし、原作を読んだが映画を観るのは迷っているという人がいれば、ぜひとも映画も観ていただきたい。このようにしてさらに探求を重ねることができるタイプの作品になっている。


そういえば前作『ウルフ・オブ・ウォールストリート』はこれとはまったくテイストの異なる作品なのであるが、こちらに書いたように、このはちゃめちゃな物語も意外なほど原作に忠実でもあった。テーマ、作風のみならずバジェットからして全く違うのであるが、それでいてやはりどちらも紛れもないスコセッシ印の作品ともなっており、スコセッシという監督の個性についてこのあたりから考えることもできるのかもしれない。


ついでにいくつか。
キチジロー役が窪塚洋介であることも、結構意見が分かれるかもしれない。窪塚の演技力の問題ではなく、キチジローというキャラクターを考えると、もっと軽い感じのお調子者風でよかったのではないだろうかとも思えた。そうであれば、こういう人物があのような行動を取るからこその痛切さというのがより一層のものとなったであろう。世が世なら、彼は頼りがいはないが気のいい男として、平々凡々、それなりに幸せな人生を送れたはずである。それが自分の「弱さ」をこれ以上ない形で突きつけられ、救済を信じて死ぬことすらできずに呪われたように生き延び、それでも救いの可能性を求め続ける。ところがこれが窪塚では、顔の整った造型を含めて見るからに「悩める青年」風になっていて、彼の苦悩がかえって一般化されることで、その効果が弱まったようにも感じられてしまった。原作でキチジローのお調子者っぷりが描かれ、ロドリゴは少々呆れつつ微笑ましくも彼を見つめるのであるが、映画ではキチジローはどこにあっても孤立しているような姿で描かれており、常に「実存的」な悩みに煩悶しているかのように見えてきてしまう。
まあハムレットをどういった人物像にするかというのは演出家の腕の見せ所で、現在進行形で何種類ものハムレットが今も生み出され続けているように、このあたりにも絶対の正解があるわけではもちろんないので、あくまで個人的な解釈と好みによると、というところである。

それから、気にならない人にはまったく気にならないが、ひっかかる人にはどうにもひっかかるのが言葉の問題であろう。映画では英語で交わされている会話が一応ポルトガル語でしゃべっているという設定になっていることには微苦笑してしまったが、ただでさえ資金集めに苦労した作品だけにこれはやむを得ないだろうと同情する。そもそもが、原作でも「ここはいったい何語で話しているのか」というような場面もあるので(上の引用の場面でも、ロドリゴは短期間で方言を聞き取れるようになったのだろうか、そして彼は自分の意思を十分に伝えられるほどの日本語を身につけたのだろうか、それとも信徒たちはポルトガル語で言われたことをきちんと理解できるのであろうか)、目くじらたてる必要はないとは思うのだが、「ロドリゲス」と言われると、う~むとならないこともないが。


ゼルダ、ドラマ化

「ニューヨーカー」のZELDA FITZGERALD LETS IT ALL HANG OUTという記事にあるように、アマゾンでゼルダ・フィッツジェラルドを描いた『Z: The Beginning of Everything』というドラマが製作された(パイロット版は2015年に作られていたそうだが知らなかった)。ゼルダ役はクリスティーナ・リッチであるが、ちょっとイメージ違うかなあという気もしなくもないが(というかどうしても昔のイメージが浮かんできてしまうもので)。





ゼルダという人はフェミニズム的観点からもいろいろと注目できることだろう。アラバマ、ジョージア二州に並ぶ者のいない美女と呼ばれ、貧しかったスコット・フィッツジェラルドは彼女と結ばれるために何としても成功しなくてはならなかった。スコットは『楽園のこちら側』で衝撃的なデビューを飾り、時代の寵児として富と名声を得て二人は放蕩生活に突入する(フィッツジェラルドは大恐慌で全財産を失ったのではなく、稼いだ莫大なカネは二人で使いきったのであった)。

しかしゼルダは満たされないものも感じており、一時はバレエに熱中する。常識的に考えて二十歳を過ぎてバレエを始めたところでバレリーナになれるはずもないが、ゼルダの異様とも思える執着は、後に考えれば狂気の兆候だったとされることもある。

ゼルダは自分も作家を目指したし、スコットも彼なりに支援したつもりだったのだろうが、共に私生活をネタにしようとしたことからネタがかぶるという問題が生じることになる。スコットはゼルダの個人的な体験を含めて、自分がそれを小説の題材にするのを当然の権利だと感じていた。
ゼルダの狂気はこういったフラストレーションが原因となったのかはともかく、これが彼女を悪化させたことは間違いないだろう。

このドラマがどういったものになっているのかはわからないが、個人的にはゼルダ目線、スコット目線、スコッティー(二人の娘)目線の三部構成の映像作品が作られればなあとずっと思っている。黒澤明の『羅生門』ではないが、同じ出来事でもそれぞれにはまるで違ったように映っていたことだろう。ゼルダにもスコットにもスコッティーにも、それぞれに感情移入できる要素があるだけに、どのように描き分けるのかというのは腕の見せ所になるのだろうが、『Z』に引き続いて製作してくれたりしたらうれしい。


『ヘビー・ウォーター・ウォー』

『ヘビー・ウォーター・ウォー』

「ヘビー・ウォーター」とカタカナで書かれるとピンとこないが、重水のことである。ノルウェーで作られる重水は原子爆弾実現のために必要とされ、第二次世界大戦開戦前からドイツとフランスの間で鞘当が繰り広げられていた。第二次大戦が始まるとナチス・ドイツはノルウェーを占領する。ノーベル賞受賞者である天才物理学者ハイゼンベルクは亡命せずにドイツに残り、原爆開発に取り組むことになる。ドイツは大量の重水をノルウェーから輸入しようとするが、ノルウェーから脱出しイギリス軍に合流したレジスタンスたちはこれを阻止しようと、工場の破壊を試みる……





ノルウェー製作のテレビ・シリーズで、かなりの予算をかけたようでなかなかのスケール感のある作品に仕上がっている。『テレマークの要塞』をはじめとしてしばしば取り上げられてきた出来事であり、結果がわかっているとはいえ、はらはらとさせてくれる。

原爆開発に取り組むハイゼンベルク、ナチス・ドイツ占領下ノルウェーの化学工場、ノルウェーから脱出してイギリス軍と協力して破壊工作を試みるレジスタンスと、三つの視点から描かれる。
個人的に注目はハイゼンベルクがどう描かれるかであった。ナチ党に入党はしなかったものの、亡命は拒みドイツに残って原爆開発に取り組んだハイゼンベルクの「真意」がどこにあったのかは諸説ある。本気で実現しようとしたが失敗したのか、気乗りしなかったのか、サボタージュを行ったのか、本作でもそのあたりはおそらくは意図的に曖昧に描かれているが、やや同情的に解釈できるような雰囲気を漂わせている。

そういえば「帝国」に新兵器開発に自分は不可欠なのだと思わせておいてサボタージュするというのは『ローグ・ワン』に登場するゲイレン・アーソだが、ハイゼンベルクあたりからの影響もあったりするのだろうか。『スター・ウォーズ』といえば、僕は砂漠や雪原の光景というのにどうにも惹かれるのであるが(もっとも自分で行くのは御免だが)、この作品も『インセプション』もとい『女王陛下の007』など、雪原でのアクションが好きな人にとっても楽しめるだろう。

史実を基にしながらも主要キャラクターに虚構の人物がいるなどかなり脚色が施されているようだが、しかしわかりやすいエンターテイメントに落とし込んでいるだけではない。ノルウェーにとってはこの一連の出来事は英雄的レジスタンスの活躍として神話化するだけで済ますわけにはいかない苦いものでもあり、本作はそのあたりもふまえられているあたりには好感が持てた。



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