『ダンケルク』

『ダンケルク』


近年のクリストファー・ノーラン作品について、個人的には「志しもやりたいこともわかるし期待したのだが……」というものが多かった。ではこの『ダンケルク』はどうだったかというと、ノーランがやりたかった事とやれた事とがしっかりと嚙み合ったとしていいのではないだろうか。

フランスのダンケルクからイギリスへの帰還を試みる若き兵士、イギリスからダンケルクへ援護に向かう戦闘機、ダンケルクへ英兵救出へ向かう民間の小型船と三つの視点が平行して進められるのだが、それぞれ時間の進み方が異なるというのはちょっと『インセプション』っぽくもある。本作の肝はこの三つの物語が徐々にシンクロしていき一つに重なるところであり、それが瑕疵なくきれいに一つに溶け込んでいるところは『インセプション』よりもはるかに洗練されている。ノーランよ、こういうウェルメイドな脚本を書けるのではないかと思ってしまったが、本作は単独クレジットで、かえって弟がいない方が……ということなのかどうかは知らんが(『インセプション』も単独脚本か)。


ヒトラーはもちろんのこと生身のドイツ兵はほぼ登場しないし、方やイギリス側でもチャーチルは会話の中で言及されるだけでその姿は描かれない。このように、本作は大局的視点を意図的に回避している。

我が身可愛さで醜悪な行動を取る兵士や、守護天使のごとく救いの手を差し伸べる兵士が実は……といったあたりは危機に直面した人間の多様な姿が炙り出されている。しかし、「人間の本質とは何かが極限状態の中で抉りだされる」といった「壮大」な試みがなされているのではない。哲学を比喩に使えば、形而上学的ではなくプラグマティズム的作品となっている。根源を問うのではなく、限られたリソースの中でいかに生き延びるか、あるいは限られたチャンスを最大化するにはどのような選択をなすべきか、それが時間的にもタイトに描かれている。

『ダークナイト』前後の「バットマン」に典型的なように、ノーラン作品は志しは高くとも、脚本が甘く、またスペクタクル的視覚表現もそれについていけていない印象が強かった。そう考えると、このようにプラグマティズム的作品の方が彼の資質に合っているのではないだろうか。ノーランの「壮大」な作品も楽しみではあるが、こういう方向に進むほうが監督と観客双方にとって幸福なのかもしれない。


あと、お腹が弱い人間としては用を足そうとしながらそれが果たせないトミーの姿は他人事ではなかった。災害時を考えても、トイレ問題は笑いごとではないのですよね。とりわけ下しがちな人間にとっては。




『刑事フォイル』

『刑事フォイル』をちょろちょろと見始めた。





邦題が「刑事フォイル」というくらいなのでミステリーではあるのだが、事件の謎解きという点ではやや弱めかもしれない。犯人に「証拠隠滅くらいちゃんとやれよ!」と思わず言いたくなってしまうし(現実の事件というのも往々にしてこういうものかもしれないが)、偶然に頼りすぎという感じもなきにしもあらずである。ただ、原題は「フォイルの戦争」だけに、この作品の本質はそこではなく第二次大戦下イギリスの暗部を抉り出すところにあるだろうし、このあたりは非常に秀逸な設定となっている。

戦争を利用し私腹を肥やす人物、親ナチのファシストなどが登場するが、フォイルが「刑事」としてしばしば直面するのは、イギリスにとって戦争遂行に有用な人物が罪を犯した場合に、それをどうするのかという問題だ。フォイルは軍務に就くことを希望するように愛国的な人物であるし、戦争の大義を疑っているのでもない。それでも彼は、やはり刑事としてなすべきことを為さねばならない。もちろんナチス・ドイツが悪であることは疑いようもないのであるが、では悪に勝つために悪を見逃すことが許されるべきなのだろうか。

探偵小説における探偵は、法と秩序の側に立ち、乱された秩序を回復するという役割を与えられているのであるが、では法と秩序が両立しなかったとき、探偵はどちらを向くのであろうか。正統派ミステリーという形式でありつつ、アンチ・ミステリーとまではいかないが、ハードボイルド的感性の作品でもあろう。

ミステリーというのは何よりも探偵やその周辺のキャラの魅力というのが謎解きそのものよりも大事とすらいってもいいのかもしれないが、本作でもサムやミルナーとチームになっていく様は魅力的で、「普通」のミステリーとしてももちろん楽しむことができる。

なお第一話には若き日のジェームズ・マカヴォイやロザムンド・パイクも出演している。マカヴォイは一目でそれとわかるが、パイクはそうと言われないと気がつかないかも。これから十年以上たって大きな役を射止めることになるのであった。

第二話ではダンケルクの戦いが扱われており、これもこのドラマならではの視点となっている。




『ワンダーウーマン』

『ワンダーウーマン』





『バットマンvsスーパーマン』は暗い、話が雑、アクションも地味でフレッシュさがないと、近年のDC作品の駄目なところを煮詰めたような作品であったが、そんな中唯一救いとなったのがワンダーウーマンの存在であった。そして待望の『ワンダーウーマン』であるが、期待にたがわぬ快作といっていいだろう。


当然ながら、アクション作品で女性が主人公を務めたからといってそれが即フェミニズム的作品になるのではない。シガニー・ウィーバー主演の『エイリアン』はむしろミソジニー的作品であるという分析もなされる。

本作と何かと比較されるであろう『マッドマックス 怒りのデスロード』を撮るにあたってジョージ・ミラーはフェミニズム的知見を積極的に取り入れ、そのかいあって『怒りのデスロード』はほぼ満額回答といってもいいほどの出来栄えであった。一方『ワンダーウーマン』は、フェミニズム以外の点でも両義性が滲み出る作品にもなっている。そしてこれは、必ずしも作品の欠点であるのではない。


マッドサイエンティストであるマル博士は、若かりし日はおそらくは女性であること、そしてさらには美人であることによってその能力よりも軽んじられたことだろう。彼女は立場上男性の軍人に引き上げてもらわねば「活躍」できないが、また顔に大きな傷を負っていてそれをマスクによって隠しながら生活しなくてはならない。スティーブのやろうとしたことは「色仕掛け」ともとれ、二重の意味でいささか残酷なものとも映る。ダイアナが彼女に鉄槌を下すのか否かというのは、フェミニズム的観点から論じることができるだろう。

ロンドンにやって来たダイアナが露出の激しい格好で平気で歩きまわろうとすると、生唾を飲んで見つめるのも男性なら、慌てふためいてこれを隠そうとするのも男性である。
フェミニズムはおしゃれをすることや露出の多い服装を拒むのではない。男性の視線や欲望に従属するのではない、自己解放のためのファッションを肯定する。男性は自らが「所有」する女性が他の男性の余計な視線を集めないようコンサバな格好を望むが、女性にとってそれは象徴的にも文字通りにも動きにくい、抑圧を生じさせる服装ともなる。


そのロンドンで、ダイアナが無邪気にも初めて見たアイスクリーム屋を褒めたたえる姿は、誰もが微笑まずにはいられないだろう。俗世間から隔絶されたような世界からやって来た「お姫様」のこうした姿は映画において繰り返し登場するものでもあるが、階級という観点から見るとどうだろうか。

ダイアナは「セクレタリー(秘書)」の仕事内容を聞いて、それは「スレイヴリー(奴隷)」ではないかと言う。それにしても、ダイアナはどこで奴隷の存在を知ったのだろうか。ダイアナは男を見たことがなかったが本で性愛について学んでいた。奴隷についても同じなのだろうか。しかし彼女は「姫」である。彼女の「母」である女王は選挙や籤引きで選ばれた存在であるようには見えない。女王の「娘」であるダイアナの「血筋」は「選ばれた者」であると認識されていたのだろうが、これはつまり「選ばれなかった者」も存在しているということにもなる。ダイアナが一騎打ちの際に出身と名前を名乗るのは「騎士道精神」からくるのだろうが、大量殺戮の時代にあってこれはなんとも滑稽に響く。しかし同時にまた、そんな時代錯誤的行動によって彼女の「高貴」さがより強調されているともとれるし、ダイアナ自身、自分の「出自」に誇りを持っているがゆえにこのような行動に出ているのだろう。


その分だけ「選民」による戦いという面が浮かび上がる。ダイアナは平和を守るためには力が必要であると考えている。素朴な善悪二元論に基づき、「悪」を倒せば平和が訪れると考えていたのだが、言葉を変えれば「悪」を倒さない限りは平和は訪れないということになる。休戦交渉を否定し主戦論を唱えるダイアナは、傍からは好戦的なタカ派に見えてしまう。そして、ダイアナを演じるガル・ガドットがイスラエルの占領政策の熱烈な支持者であることを思うと、このあたりはなんとも居心地の悪い思いをさせられる。言うまでもなく俳優の政治的意見と作品のキャラクターは別物であるが、しかし観客はまたメタ的な視線から逃れることもできない。

ダイアナの「母」である女王は、彼女を「力」から遠ざけておきたかった。力を得ればその分だけ「悪」に見つけられる可能性が高まると考えたからだ。これはまた、平和のために力が必要なのではなく、平和のためと称する力こそが悪を生み出し引き寄せるとも読むことができる。

制作側はこれらを意識してイスラエル出身のガドットをキャスティングしたわけではないのだろうが、むしろこのあたりは観客は積極的に居心地の悪さを感じるべきであろうし、その居心地の悪さを感じた観客ほど、後半でのダイアナに突き付けられる事実、そして彼女の価値観の揺らぎを多角的に見ることができるようになる。


シリアスさと陰気さとを取り違えたかのような作品が目立ったDCであるが、青空が登場する『ワンダーウーマン』は、アメコミというジャンルを超えた「深遠」な世界を築きたいという『ダークナイト』以来の呪いを打ち破っているように見える。近年のDCは、「深遠」さとは程遠い陰気なだけ絵の具でモノトーンに作品世界を塗りたくっていたにすぎない。『ワンダーウーマン』はむしろ、アメコミというジャンルを積極的に引き受けることで、その多様な世界を取り戻したといえよう。

よく論じられるように『スーパーマン』をはじめアメコミの作者にはユダヤ系が多く、第二次大戦中にスーパーヒーローたちがナチスと全面対決に入るのは必然の流れであった。一方でこれはマッチョな愛国主義にも容易に転じることになるし、そのせいもあってしばらく時代から取り残されることになる。

アメコミ原作者たちの動機はシリアスにして切実なものであったが、同時に、マスクを被ったりマントを纏ったり赤パンを履くといったヒーローたちは滑稽な存在でもあり、それだけで真剣に受け止めることができない人もいる。両義性、軋轢、矛盾、過剰な解釈、過小評価といったものはアメコミというジャンルに避け難く不随するものでもあろう。

ついに誕生した女性の「ヒーロー」に胸躍らせた女性読者がいたと同時に、露出の多いコスチュームのワンダーウーマンは男性からは別の視線を送られていたことだろう。『THE HERO アメリカン・コミック史』によれば、原作ではワンダーウーマンは毎回のように緊縛され、悶え苦しむという描写が登場するのだという。どういう読者に「サービス」していたのかは言うまでもない(そもそも原作者の趣味が……ということでもあるらしい)。今回ももちろん(?)ダイアナは拘束され悶え苦しむことになる。

「異形」のスーパーヒーローたちはマイノリティの隠喩でもあるが、「異形」のヴィランたちもまたマイノリティの隠喩であるのかもしれない。法を踏み越えてでも「正義」を追求しようとするスーパーヒーローは、独善的自警団主義にも陥りかねない。ワンダーウーマンは女性をエンパワーする存在であったとともに、男性読者からの性的な視線に晒され、男性ヒーローの従属的存在でもあった。このような往還を続けてきたのがアメコミの歴史でもあったが、その土台としてあるのが、あくまでこのジャンルがエンターテイメント作品であるということだ。どれだけ高い志を抱こうが、エンターテイメントとしての魅力がなければそのジャンルは衰退していく。

絶対的な悪を絶対的な他者だと思い込んでいたのがそうではなかった、闘うべき相手である「悪」に逆に誘惑されるといった展開は定型的なもので、これまでいくらでも繰り返されてきた。ダイアナが最後に達する境地も凡庸なものといえばそうである。では定型的な物語はイコール見飽きたものになるのかといえばそうとは限らない。むしろ「型」によって観客は安心して物語に没頭できることになる。その「安心」を揺さぶろうとするのに捉われ過ぎて、予防線を張ることにばかり懸命になって、エンターテイメントとしての本丸がおろそかになってしまっていたのが近年のDC作品であろう。

『ワンダーウーマン』はステレオタイプから逃れようとするのではなく、むしろエンターテイメント作品における「型」を積極的に引き受けている。そしてまた、アメコミというジャンルを、そこに孕まれる矛盾や両義性、居心地の悪さ等を含めて、受け止めている。

『ワンダーウーマン』は様々な投影の対象ともなる。男どもをぶちのめすダイアナの腕力に見惚れる女性がいると同時に、ダイアナの力強い生足にうっとりとする男性もいることだろう。男性に従属するのではないダイアナの行動力に憧れる人もいれば、美男美女のロマンスに憧れる人もいるだろう。物語の「定型」をふまえたことによる心地よさにもひたれるし、そこからはみ出る余剰部分も存在している。万人向けの爽快なアクションエンターテイメント作品として論じることも可能なら、肯定的にも否定的にも見る者が問われる作品であるという切り口から論じることもできる。アメリカでは女性客が押し寄せたのに対し、日本での宣伝、イメージ戦略がああなってしまうというのは日本社会の今を反映したものであり、作品受容の比較という点からも論じることができよう。これらを力強くごそっとかき集めてなお観客を魅了できたことが、『ワンダーウーマン』の勝利を示している。



『ダウントン・アビー』完走

『ダウントン・アビー』を結局最後まで見てしまった。NHKの地上波の海外ドラマってちょっと人気がなくなるとすぐに打ち切られてしまうのだが(『Glee』はどうなった)、ラストシーズンまできっちり放送されたということは日本でも人気が高かったことの証だろう。





1912年のタイタニック号沈没から25年まで、第一次世界大戦や労働党のなど時代の変化とともにある伯爵家の姿が描かれる。最後は(いささかとってつけたかのような)ハッピーエンドとなっているが、作者のジュリアン・フェロウズの言わんとしたのは、『山猫』から拝借すると「変らずに生きてゆくためには、自分が変らねばならない」というものだろう。フェロウズは政治的にも保守であり、明らかに貴族にシンパシーを抱いているが(使用人との関係は現実にはあんなふうにはいかないだろうし、このドラマにはまった人はバランスを取るために労働者階級の視点から20世紀イギリスを見つめなおした『ザ・ピープル』あたりも併せて読んでもらいたい)、同時に失われた貴族文化への哀惜というトーンはそれほど強くない。おそらくここが、イギリスのみならず世界各地で受け入れられた最大の理由だろう。

グランサム伯爵の妻はアメリカ人であるが、当時のイギリス貴族は富裕なアメリカ人を妻に迎えることでなんとか貴族の伝統的生活を維持したという例が多数あった(チャーチルの母もアメリカ人である)。伯爵は物語開始後も数度にわたって資産を溶かしそうになるが、これは貴族が時代の変化に適応できていないことの隠喩であろう。もし伯爵が時代の変化についていけずに意固地に伝統に固執していたなら、ドラマに登場する少なからぬ他の貴族と同様に屋敷を手放し、かつての生活と完全に縁を切らねばならなくなったことだろう。

伯爵は娘が運転手と結婚するのを許し、妻が働くことも受け入れるようになる。このように、抵抗を抱きつつも時代の変化を受け入れ、適応したからこそハッピーエンドが訪れることになる。変化の到来を表すのに一目瞭然なのがファッションで、とりわけ女性のそれは短期間でこれほどまでにと感じられるほど急速に変わっていった。これは正しいか否かではなく、押しとどめようのない事実としてあるのであり、旧弊なファッションに固執したところで失笑を買うだけであり、貴族の生活様式にしてもまたそうである。

そしてこれは現在の社会の変化をも反映しているところもあろう。影の主役(?)として人気を集めたのが、すがすがしいほどのクズっぷりをみせる陰湿な使用人のトーマスであるが、彼はゲイである。トーマスが見境なく陰湿な行動に出るのは明らかに自分のセクシャリティに対する過剰な防衛反応であり、後半にいくにしたがってそれは前景化され、彼は苦悩し始める。ふた昔前の保守的なドラマなら彼には現実的に、あるいは象徴的に「罰」が下るか、あるいは社会から受け入れられずに退場するか、受け入れられるにしてもそれは異性愛者となるといった形がとられたことだろう。しかし、風呂場でのあの出来事は明らかに再洗礼の隠喩であり、新たな生を得たトーマスは希望に満ちた再出発を迎える。

とはいえ、憑き物が落ちたかのような「きれいなトーマス」はルドヴィコ療法でも受けたかのようにも思えてしまい、どうにも物足りなくもある。結局は変化を受け入れた伯爵家の温情によって救われるとも解釈でき、彼は自分自身であり続けることができたのかといえば疑問にも思える。このあたりは保守的な人間であるフェロウズの限界ともできるだろう。


ではこのような結末を当初から計算していたのかといえば、そうではないだろう。長く続くドラマにつきものなのが、イメージの固定化を嫌った俳優の降板だ。『ダウントン』でもシビル、マシューという主役級を消さざるを得なくなった。ここで失速するか否かが優れたドラマとして記憶されるかどうかの分かれ目であるが、これをうまく乗り切ることができた(シビルの後継キャラであるローズ役のリリー・ジェームズがここまで売れたのは、スケジュールを切るうえで制作陣にとっては誤算だったかもしれないが)。

シーズン1では、高慢な長女メアリー、いじけた次女のイーディス、姉たちに似ずに天使のような三女シビルというキャラ設定であったが、シビルの退場により姉二人の造形は変化を余儀なくされたのだろうが、これがプラスに転じていったように思える。もっともそのせいで、長く続くドラマに付き物の、あの事を忘れたんかいなとか、あの人の性格変わりすぎといったことにもなる。とりわけトムの性格はあまりにもご都合主義的に変化しすぎだろ、ともなってしまうが、まあそこはドラマならではのご愛敬ということで。

結果としてプライド高く身分に固執するメアリーに変化が生じ、いじけていたイーディスも自己実現を果たしていくことになるが、シビルがいたらまた違う展開になっていたかもしれない。個人的にはシーズン1の殺伐とした展開も捨てがたいし、ラストシーズンでのメアリーのクズっぷりはそれを彷彿とさせたが、さすがにそのまま終わりにするわけにはいかなかった。

ある人物がドイツでナチスの手にかかって死亡したり、ある人物がユダヤ人と結婚するといったあたりはさらにドラマが長期化するのに備えた仕込みのようにも感じられたが、続編としてドラマではなく映画が製作されるということになったようだ。なんだかんだいって、基本的には恋愛や嫉妬を軸とした「昼ドラ」の豪華版といえばまあそうであるが、だからこそこれだけ引き付けることもできたのだろう。つまりドラマという形式こそがふさわしかっただけに、はたしてどうなるのかというところでもある。一見さんお断りのファン感謝にあえて徹するか、逆にドラマのファンを切り捨てでも映画として優れたものを作ろうとするのか、このあたりが中途半端になると目も当てられないことにもなりかねないし、伝えられるマギー・スミスの出演拒否はそこらへの警告といった意味も込められているのかもしれない。


『ラ・ラ・ランド』

『ラ・ラ・ランド』には十分楽しませてもらったが、では映画史的に見てエポックになるような作品だと感じられたとか、あるいは個人的に打ちのめされるような作品だったかというと、そこまでとはいかなかった。この作品を手放しで絶賛している人には「いや、それほどでは……」と言いたくなるし、この作品を酷評している人にもやはり、「いや、そこまででは……」と言いたくなる。これはデイミアン・チャゼル監督の前作『セッション』も同様であった。

『セッション』では、ミュージシャンを目指していたこともあるチャゼルが音楽映画を撮ったのであるが、その音楽考証の杜撰さは玄人筋から顰蹙や怒りを買うことになった。過去のミュージカル作品へのオマージュをふんだんに取り入れた『ラ・ラ・ランド』であるが、シネフィル的な人からは冷ややかな反応も目立つ。後ろから弾を撃たれているような、なんだか不憫な感じもしてきてしまうが、ジャズと映画といえばうるさ型のファンを擁する二大ジャンルでもあるだけに、地雷原に全速力で突っこんでいくようなチャゼルの意気込みというのはその分感じることもできるのだが、その鼻息の荒さにかえってイラっとくる人もいるのかもしれない。

「ジャズは死にかけている。そのまま死なせてやれという人もいる」とセブは言うが、これはミュージカル映画にもそのまま当てはめることができるだろう。死に瀕しているこのジャンルを救いたい。うるさ型がでんと控えることによよって新しいファンが疎外されるというのはどのジャンルにも起こりうることだ。玄人受けばかり狙って「老人向け」に作ったところで新しいマーケットを開拓することはできず、衰退していくだけだ。一方で「未来」に向けてジャズのアップデートを図る(?)キースであるが、音楽に通じているとはいえないミアすらドン引きさせるチープなものになっている(正確にいえば音楽にドン引いたのではなく、意に沿わないことをカネのためにさせられているセブに同情したのではあるが、ミアがこのバンドに心を動かされなかったことは間違いない)。このように、批判を浴びることを恐れて新たなチャレンジができないのであらばそのジャンルは衰退してしまうし(セブはそういうキャラクターでもある)、そんなものどこふく風で堂々とやってのけるのだという風でありつつもまた、「大人」の賢しらさへのシニカルな視線もある。

ジャズ、ミュージカル、業界内幕もの、観光案内的、そしてエマ・ストーンと、これらはウディ・アレンのものでもあるが、アレンは肩の力を抜いて飄々とやっている(「ありえたかもしれない世界」をウディ・アレンがやれば、それはロマンティックなものであっても愛すべき小品として作ったり、あるいはみみっちい泣き言という形になるのだろう)。本作も、それこそキースとセブの絡みの場面なんかはスラップスティック調にやってもよかったのかもしれないし、それもまたミュージカルらしさにもなったのだろうが、チャゼルの場合どうしても力みかえってあらゆる場面で全力疾走しているかのようであり、このあたりも好みが分かれるところだろう。


ベル・アンド・セバスチャンのスチュアート・マードックが監督した『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』は、いかにもベルセバ的世界であり、ファンとしてはチャーミングで楽しめる作品となっているものの、映画として洗練されているかといえばいささか留保をつけざるをえない。『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』と『ラ・ラ・ランド』を比べると、やはりチャゼルの監督としての力量の確かさを讃えずにはいられない。一方で、ミュージカル、引用の数々、原色とくればゴダールでもあるが、『ラ・ラ・ランド』を見ると、やっぱりゴダールはすごいのだな、という気分にもなってくる。

チャゼルの作品は、溢れ出る才能を御しきれない結果としていびつなものになっているのかというと、どうもそうではないようにも思える。彼の監督としての能力が高いことは間違いないが、実は映画的(さらには音楽的)センスというのが今一つなのかもしれないとも思えてしまった。

象徴的なのが、『ラ・ラ・ランド』であるいくつかの演奏場面だろう。これが二流のディレクターによるテレビ番組であるかのように、どうにも格好良くない。セブがネガティブな感情を抱いている場面であえてダサくするのならわかるが、肯定的な感情を持っているはずの場面でも、カメラワークや編集を含めて、「おおっ!」と思わせてはくれないし、むしろこの人は本当にジャズに興味があるのだろうかとすら思えてしまった。このあたりは『セッション』の主人公がドラムの早叩きに執念を燃やすものの「スウィング」には無関心といったたりからもその疑念が生まれる。『セッション』も、そもそも主人公は本当にジャズが好きなのか、それとも自己顕示欲からくるものなのか、音楽学校でジャズを教えることができるのか、といったあたりがテーマになってもおかしくないのだろうが、そのあたりにはチャゼルはほとんど関心がないようであった。

チャゼルという人は全体をまとめて観客をフックする力はあるのだが、細部へのこだわりというのが欠けいて(彼について極めて否定的な評価をする人が最もひっかかるのはこのあたりだろう)、その結果一般的なイメージとはむしろ逆に、観客の心をワンショットで鷲掴みにするような、「心震わせるようなショット」というのが撮れない監督のようにも思える。大きな(あるいは最大の)見せ場である冒頭の高速道路の場面も、すごいことはすごいのだが、ちょっといじわるな見方をすると、金と手間隙かけたミュージックビデオかipodの広告のようにも見えてしまいかねなかった。ストーリーとは直接絡まないここは、この作品は衒いなく正面きってミュージカルをやるのだという宣言であり、イントロとしては十分に機能しているとも思うが、それ以上ではないといえばそうとも思える。


考えてみれば、現代でミュージカル映画をやるというのは、『レ・ミゼラブル』のような古典を題材にしたものならともかく、基本的にはあらかじめ負けが決まっている戦いなのかもしれない。ジャンル映画としてミュージカルファンにだけ訴求できればいいと割り切るか、ノスタルジーに訴えかけるか、異化効果を狙うか、こういったあたりでないと厳しいと長年考えられてきたことだろう。そんな中でチャゼルが本作を批評的にも興行的にも成功させたというのは、それだけでも称賛に値することだ。

どうしてもチャゼルには過大評価と過小評価とがつきまとってしまうのであるが(悪名は無名に優るではないが、それもまたチャゼルの才能のなせる業でもあろう)、誉め言葉には聞こえないかもしれないが、「普通に面白い」映画を撮る能力は間違いなく高い映画監督であろう。『セッション』がそうであったように、『ラ・ラ・ランド』も、ふらっと映画館に入って偶然見たのだとしたら、多くの人にとって得をしたような気分になれるくらい楽しませてくれる作品であることは間違いない。ちょっとぶつぶつ言いつつも、僕も十分に楽しめた作品であった。


ストーリー的に気になるところといえば、すでに作中でもスマホの時代になっているにも関わらず、セブは携帯を持っていないのだろうか。映画館での待ちぼうけやミアの舞台に急遽行けなくなるところなど、メール一本入れておけばそれで済むだろうというところでそうしないもので、持っていないとすべきなのだろうが、その割には終盤でミアが残していった(?)スマホを普通に使っているのはどうしたことか(映画館運が悪くて、隣の人に集中力を乱されたせいでいくつか見落とした場面があるもので、このあたりにきちんと説明がなされていたのだとしたらごめんなさい)。

携帯描写といえば村上春樹の『騎士団長殺し』でもやや強引な印象があったが、映画や小説で、とりわけ『ラ・ラ・ランド』のようなすれ違いを描いた作品で携帯という存在が邪魔になるというのはわかるのだが、それならいっそのこと携帯がまだない時代に設定すればいいのではないかと思ってしまう。『騎士団長殺し』の場合東日本大震災を登場させたかったのであの時代になったのであろうが、『ラ・ラ・ランド』の場合携帯が普及する前の時代にしたところでまるで支障がなかったはずだ。


本筋には関係ない話では、セブが帰ると家に姉が無断あがっており、不意をつかれて「ビクッ!」となるところは個人的にツボにはまってしまった。セブよ、お前は意外と気が小さいのか。僕もよくああなって失笑を買うことがあるもので他人事とは思えなかったのだが、セブ(とゴズリング)のあのキャラだけに余計におかしい。ミアがそっと帰宅した時にもなるのだが、よく鍋をひっくりかえさなかった。

あと、僕は昔からエマ・ストーンが好きなもので、パーティでリクエストをする時に腕をぴんと上げたところは可愛らしくてよかった。

一方で雑誌の撮影シーンだが、あれはなんなのだと不快でになってきた。あんなカメラマンが被写体の魅力を引き出せないのは誰にだってわかるし、そんな無能なカメラマンがあの年齢になるまで仕事を続けているうえに、有名雑誌の仕事まで得るなどというのはまず有りえない。もちろんここはカメラマンなどどうでもよくって、セブの置かれた状況とそれがもたらす心理を戯画的に描いた場面だということはわかるのだが、それにしたってアレはないのではないか。チャゼルのこうした粗雑さやいい加減さにイラっとくる人が多いというのも、よくわかる場面であった。



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佐藤太郎(仮)

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