ヘレロ族の虐殺とその後

トマス・ピンチョンは『V.』、『重力の虹』の中で、1904年に起こったドイツによるヘレロ族虐殺を取り上げている。ナチスによる蛮行に先立つこと約30年、すでにドイツはある民族を絶滅させるという意図をもって大虐殺を行っていた。しかしドイツは当時激しい国際的な批判にさらされることはなかった。これがアフリカで起こったことで、被害者がアフリカ人であったためだろう。このことからわかるのは、ユダヤ人やロマ(ジプシー)、障害者、同性愛者などの大虐殺をナチスのせいにだけ帰することはできないし、またドイツ人のせいにだけすることもできないということだ。もしこの時ドイツがその行いによって国際社会から強く批判され、ジェノサイドを防ぐための国際法や条約が作られていたなら、その後の世界史は違ったものになっていたかもしれない。ピンチョンがこの虐殺に注目した理由は明らかだ。


EconomistにSalt in old wounds What Germany owes Namibiaという記事があり、ピンチョンのファンとしてもなかなか興味深かったので、その内容をざっと紹介する。

ドイツの政治家の中には罪を認め、とりわけ虐殺から100年目にあたる2004年には反省の気運も高まり、これを「ジェノサイド」だったとした政治家もいたほどだった。しかしドイツとナミビアとの間で謝罪と補償の交渉が始まると、複雑な展開を見せることになった。

ヘレロ族と、同じく虐殺・迫害の被害にあったナマ族の有力者の一部が、国を超えてジャノサイドなどの国際法違反を審理できるニューヨークのAlien Tort Statuteに、補償はヘレロ族とナマ族へ直接行うよう訴えたのだった。というのも、現在のナミビアで中心的存在となっているオヴァンボ族はこの蛮行の被害とは無縁であったためだ。ナミビアの友好的な交渉役であった人物はヘレロ族出身であったが、彼は裏切り者という批判を浴びることになった。こうした動きにナミビアの財務大臣は「部族主義が醜い首をもたげた」と非難するのであるが、彼はといえばドイツ系なのであった。

ドイツの官僚側では、補償交渉中に「G-word(ジェノサイド)」を避けようとする動きが支配的となった。ある高官は国連のジェノサイド条約が締結されたのは1948年のことで、それ以前に起こったことなのだからこれはジェノサイドにはあたらないとし、「倫理的には不満を感じる人がいるかもしれないが、法的にはそのような立場をとる」と語っていた。これに対しジェノサイドだという告発を支援するドイツ人歴史家は「たわごとだ」と憤る。「まるで弁護士のような言い草で、倫理や政治的責任について考えていないではないか」。

なおTelegraphのこちらの記事には、2016年にドイツはこれまでの方針を変え公式に「ジェノサイド」であったと認め、謝罪したとある。Economistのこの記事はどこまでが過去で、どこからが現在進行形なのか時系列がわかりづらい。


ナミビアではかつてほどではないとはいえ、依然としてドイツ系がビジネス、農業で優位な立場にある。ナミビアのドイツ系住民は、ジンバブエであったように、農場が補償という名目で没収されるのではないかと戦々恐々としているという。

ナミビアのドイツ語メディアにおいて「ジェノサイド」という表現は禁句であった。そしてナミビアのドイツ系住民の多くは、引退した農民で第二の人生として虐殺を否定する著述に手を染めるようになったある人物の意見に共鳴しているようだ。その人物によれば、ドイツ人もヘレロ族に襲われて被害に合っておりヘレロ族への殺害は一方的なものではなく、また絶滅指令はすぐにベルリンから取り消されたにもかかわらずヘレロ族の被害は実数以上に過大に見積もられており、そしてナミ族が収容所や砂漠へ追い立てられたのも意図的なものではないため、これらをジェノサイドとは呼べないというのだ。
ドイツの歴史家はこのような主張を「否認論者」によるものだと一刀両断切り捨てている。

ドイツ系住民が通うナミビアのルター派の監督は、ドイツ人に負うべき罪があることは認めるものの、「ホロコースト」と同一視されるべきではないと言い、過去を引きずりだしてこれを歴史的連関に架橋しようとする人に我々は非常にフラストレーションを感じている、とまでしている。

ある農夫は祖父のことを思い起こしている。プロイセンの男爵だった祖父は1913年にこの地にやってきて、1915年、第一次世界大戦中にイギリスに牛を没収されていた。「私もイギリスに補償を要求すべきなのかもな」とこの農夫は「冗談」を口にした、というところで記事は締めくくられている。


なるほど、確かにこの男爵は虐殺後の移住したのであって、直接手を下したわけではない。しかし彼がアフリカで農園を営むことができたのはドイツがここを植民地にしたからで、その植民地を維持するためにこの大虐殺は行われた。そして孫の世代が依然としてナミビアで特権的地位にあるのは、それだけ植民地時代の残滓が色濃いからである。こういった事実への反省的視線を一切欠き、相対化してはならない過去を相対化しようとする「冗談」が口にされるというのは、なんともグロテスクだ。植民地支配からの多大な「恩恵」を散々享受しながら、むしろ被害者意識にかられているというのは、あまりに身勝手な論理であろう。

そしてナミビアのドイツ系住民にはびこる否認論を見ると、史料の恣意的なつまみ食いという歴史修正主義者の手口はどこにおいても同じものだと嘆息してしまう。

歴史問題において日本は、とりわけ60年代以降の(西)ドイツにおける取組から学ぶべき点が多々ある。しかしまた、いたずらにドイツを理想化するのにも危ういところがあるのも事実だ。ドイツの官僚が交渉を優位に進めるために「ジェノサイド」という表現を避けようとしというのはその一端であろう。もしこれがヨーロッパの白人相手であれば同じ手法をとったのだろうかと考えると、ピンチョンがこの問題を取り上げたことの慧眼を改めて評価したくなる。

同時に「ドイツだって一皮むけばこうなのだから……」と日本に蔓延る歴史修正主義を相対化し、正当化するような動きには警戒しなければならない。むしろあのドイツですらこのような対応なのだから、日本の右派政治家や、とりわけ官僚(とりわけ外務官僚の右傾化は極めて深刻な状態にまで至っているが、主要メディアはこの問題にほぼ沈黙してしまっているためにそのことが多くの日本人には不可視化されてしまっている)が、国連をはじめとする国際社会でいかなる振る舞いに及んでいるのかを、一層注視しなければならないとすべきだろう。



『パディントン』と若年層の政治性

ようやく『パディントン』を。





ほぼ予備知識がなかったもので(原作の絵本も読んでいなかった)、「難民問題にもさりげなく目配せしたものらしい」みたいなイメージだったのが、実際に見てみるとそうではなかった。さりげなく目配せどころか、ど真ん中に直球を投げ込むかのような作品であった。

伯爵……じゃなくってパパの言う、関わり合いになるとロクなことにならない、同情を引こうとしてウソをついている、可哀そうに思うかもしれないが住む世界が違うんだ、といったことはそのまま今日の難民に浴びせられる視線そのものだ。

『パディントン』の素晴らしいところは、ストレートな正しいメッセージと、子ども向け作品という本分を踏み外さない良質なエンターテイメント性とが無理なく両立していることだ。「実は大人も楽しめる」という言い訳によって子どもを置き去りにすることもなく、また子ども向けなんだからこんなもんでいいだろうといった安易さとも無縁である。

動物擬人化はなんだかんだいってやはり可愛いし、セロハンテープぐるぐる巻きのパディントンといったスラップスティック調、耳垢たっぷりの歯ブラシのような子どもが大好きな「下ネタ」、複線とその回収もわかりやすいがあざといというほどではなく、『ミッション・インポッシブル』などの映画のパロディも、大人向けというよりは元ネタを知らなくても子どもでも楽しめるもので、様々な笑いに満ちたきらびやかなフルコースといった感じだ。

大まかに分けると同じカテゴリーに入れていいであろう『ズートピア』がアメリカでは作られたが、英米でのこのような流れをどう考えたらいいのだろうか。

イギリスのEU離脱を問う国民投票では、若年層は世論調査では残留派が圧倒的であったが、投票率は低かった。アメリカ大統領選では、白人に限定しても若年層はクリントン支持が上回っていたが、こちらも投票率は低かった。あるいは英米の若年層にとっては、多文化主義をはじめとする社会の変化の流れはすでに決したもので、積極的に守り、育んでいかねばならぬのだという感覚さえない自明なものであり、そのせいで逆に投票率が低かったということもあったのかもしれない。

このたびのイギリスの総選挙では、労働党は勝利したとはとてもいえないが、それでも事前の予想を覆し党勢のある程度の回復に成功した。その要因の一つが若年層の投票率が高く、その多くが労働党へと票を投じたことである。保守党(というかメイ個人)の自滅という要素も大きかったとはいえ、「ブリグジット」の衝撃が若者を動かしたという面もあったのかもしれない。来年の中間選挙、また次の大統領選挙でアメリカの若年層がどういった政治行動を取るのかは、こういった観点からも注目できるだろう。


『パディントン』の監督は僕と同世代であるが、残念ながら日本のこの世代のクリエーターに『パディントン』や『ズートピア』のような作品を作ろうという気概のある人がどれだけいるかといえば、胸を張れそうにはない(単なる僕の無知ゆえの偏見であって、実際にはそういう流れはすでに生じているということであればいいのだが)。

多くの国で右傾化が生じているが、その担い手は基本的には中高年(さらに付け加えると男性)である。韓国の大統領選挙を見ると、保守的な中高年層と進歩的な若年層のグラデーションは一目瞭然だ。ところが日本の場合、世界的に見てかなり稀どころか、一応は民主主義とされる国においては唯一無二かもしれないほど若年層に保守的な傾向が強い。「選択肢がない」というだけではこの現象に説明をつけることは難しいように思える。

この若年層の政治的傾向の違いは、正しさへの感覚に表れているだろう。日本では公正さや公平さ、普遍的正義への感覚が希薄で、最も強い「イデオロギー」(あえてこう言おう)は「長いものには巻かれよ」であるかのように映る。日本の若者はある角度から見ればすごく「いい子」であるが、また別の角度から見れば個性に乏しく、権威・権力に「従順」である。

学生運動というと大学と反射的に考えてしまうかもしれないが、『高校紛争』(小林哲夫著)にも描かれているように、60年代末から70年代初頭にかけては高校でも学園闘争が行われた。同書にあるように村上龍の『シックスティナイン』は、69年の龍自身の高校時代の経験を描いたものである。

一部の学校では学生の自治といった果実が実ったが、大方の高校の「解決策」が高校生の政治活動の禁止であった。政治への忌避感を植え付けることで、高校生の側でも政治に関心を持つのは変な人、権力に逆らうのは愚かな振る舞いという価値観が内面化されていったとも考えられるし、その過程を過小評価することはできないだろう。

先日話題になった都立高校の「地毛証明書」の提出であるが、これは黒髪直毛のみが「正しい」もので、それ以外は逸脱と見なしている点で管理教育云々という以前に明らかな差別であるが、どこかの高校の生徒会がこれに抗議したり問題化したという話は聞かない(表に出ていないだけであったのかもしれないが)。教育問題においても被害妄想にかられている日本の右派であるが、実態としては教育において右派は一方的な勝利を収めたし、これもその結果であろう。

社会を支配する「コード」を疑い、あるいはクリティカルに分析するのではなく、その「コード」があるのならとりあえず従っておけばいいし、それが正しいのか否かを問うなどというのは愚かしいことで、そこからはみ出る存在は社会から不可視化されてそれでおしまいとなる。どう振る舞えば自分が一番損をしないか、その「賢さ」こそが日本の若年層の「保守化」の正体かもしれない。

「近頃の若いのは」と言い出したら年を取った証拠とされるが、言い訳をさせてもらうと日本の若年層の政治的傾向の特異さはすでに書いたように主観に基づくものではなく、国際的なデータの比較をしてやはり突出したものだろう。とはいえ、若年層だけの問題なのかといえば、もちろんそうではない。

東芝の経営陣の不正行為に気づいていた人間は内部のみならず監査法人等の外部も含めて相当数に及ぶはずだが(もちろんほとんどが中高年)、ほぼ全員がこれと正面から対峙することなく、問題を放置し、取返しのつかないところにまで悪化させた。余計なことをして目をつけられるような真似はしたくないという、個人として「損をしない」選択を重なった結果、企業としてとてつもない損失を出し、会社自体が風前の灯火となりかけている。さらにいえば、東芝がここに至ってまだ「生き残って」いるのは、この巨額の損失と不正が「国策」である原発事業の結果であるためだろう。そもそもがこのレールを引いたのが経産省である疑いは濃厚であり、「国策」であるゆえに不正が看過されている疑いもまた濃厚である。

実体としての権力というよりも、抽象化された権力、権威の顔色を窺い、ご機嫌を損ねないよう振る舞うのが「賢い」ことだというのが、あらゆる層に浸透しているのが現在の日本社会であろう。

さらなる卑近な例を出せば、「プレミアムフライデー」なるものがある。うまくいかなかったことに驚いている人がいたら驚きであるほど、馬鹿らしいとしかいいようのない企画であるが、民間企業が勝手に始めたのなら「ご勝手に」というところであるが、音頭を取ったのは政府であり、おそらくは少なくない額の税金が広告代理店などに投入されているのであろうが、これが検証されることはないのだろう。どこぞの愚かな人間が政策に影響力を持ってしまい、その愚かな人間による馬鹿げた発案が現実化しようとしても誰もこれを止められず、大手民間企業も主要メディアもおそらくは本音では馬鹿らしいと思いながらもこれに唯々諾々と協力をした。

そんなに消費を増やしたいのであれば、行政がやるべきは違法な長時間労働等をきっちり取り締まることであり、民間企業がやるべきは有給の消化を妨げるような体質を改めることであり、政治がやるべきは最低賃金の引き上げや非正規労働者への賃金をはじめとする差別待遇を解消するなどして、誰もが尊厳ある暮らしができるようにすることであるが、この馬鹿げたイベントが決まった際に正面切って批判した主要メディアは皆無であったし、「王様は裸だ!」と叫ぶべきコメディアンが「プレミアムフライデー」にまともな「突っ込み」を入れたという例も寡聞にして知らない。現在の日本の「お笑い」は本来ならそれを揺さぶる役割であるはずが、むしろ抑圧のコードを内面化するのに貢献してしまっている。

「長いものには巻かれよ」と批評精神の欠如こそが日本のテレビ(とりわけバラエティ)の惨状をなによりも表すものであろうし、これが平然と受け入れられている限りは『パディントン』や『ズートピア』のような作品は若い世代からは生まれないのではないかとも思えてしまう。

もちろんこれは隣の芝が青く見えてしまっているだけなのであるが、それを承知しつつも、『パディントン』を大いに楽しんだからこそ、暗い気持ちにもさせられてしまったもので(酔った勢いで)与太をついダラダラと。




チャップリン演説再び

Soldiers! don’t give yourselves to brutes - men who despise you - enslave you - who regiment your lives - tell you what to do - what to think and what to feel!

兵士たちよ! 獣どもに身を委ねてはいけない。奴らはあなたを見下し、奴隷にし、生き方まで統制して、こうしろ、こう考えろ、こう感じろとまで命令するんだ!


ご存知チャップリンの『独裁者』のあの有名な演説より。




今これを聞くと、兵士たちへの呼びかけをアメリカ市民に、あるいは日本を含む多くの国の市民に置き換えてもそのまま通じるように思えてきてしまう。

「理性の基準に従わない世界の様々な動向を、主体的な努力によって制御することができる」と信じた啓蒙が、「過酷な現実が延々と広がる一様性」しか認めず、「勇気をかなぐり捨て、あらゆる積極性をはなから欺瞞と決めつけ、ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さ」となり、理想に対して侮蔑や嘲笑を浴びせかけるようになるまでに変質していく過程を描いたスローターダイクの『シニカル理性批判』を読んでふと思い出したのが、この演説だった。

『シニカル理性批判』の感想の中で、日本におけるシニシズムの一つの表れとして啓蒙を「口うるさい学級委員長」といった程度のものへと矮小化しようとする「80年代的感性」をあげたが、それは僕自身がまさにこの中で育ってきたからでもある。日本の「80年代感性」においては、チャップリンのこの演説に素直に感じ入ってしまうことほど恥ずかしいものはないだろう(「チャップリンなんてあんなものお涙頂戴じゃないか」となる)。

芸能人になんて説教されたくない、ましてやそれが「正しい」ものであればあるほどムカつく、という感性は、いつの時代にもどの地域にもあることだろう。『チャップリンとヒトラー』(大野裕之著)によると、公開当初はアメリカでも批評家筋にはこの最後の演説は圧倒的に不評であったようだ(これには内容そのものさることながら、あえて映画文法を逸脱させたその手法への冷ややかな視線も含まれているだろう)。

チャップリンのこの演説は啓蒙的というよりも、素朴なヒューマニズムに根差したものだとした方がいいだろう。それだけ率直にして切実な訴えであると受け止められると共に、その分だけ「恥ずかしい」ものと感じる人も出て来ることになる。

啓蒙によって懐疑精神を得た人間は、世界を変えていこうという理想をも懐疑するようになり、「人間的な文化が生んだ様々な理想に言及するにしても、嘲笑か無効宣告という形でないかぎり、もはや耐えら」れず、「過酷な現実」の前に「ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さ」によって身を守ろうとする誘惑にかられ続けることになる。

スローターダイクが書くように、これは近年になって突如生じたものではなく、長い年月に渡って繰り返されてきたことだ。しかしだからこそまた、チャップリンの素朴なヒューマニズムに基づくメッセージもまた普遍性を持つことともなる。


Then - in the name of democracy - let us use that power - let us all unite. Let us fight for a new world - a decent world that will give men a chance to work - that will give youth a future and old age a security. By the promise of these things, brutes have risen to power. But they lie! They do not fulfil that promise. They never will!

さあ、民主主義の名の下に、この力を使おう。みんな団結するんだ。新しい世界のために戦おう。人びとに働く機会を与えてくれる、若者には未来を、老人には安心を与えてくれるまともな世界のために。こういうことを約束して、獣どもも権力を持った。でも奴らは嘘つきだ!こんな約束など守ってくれはしない。奴らは決してやりはしない!


シニシズムにとり憑かれた人びとやそれに煽動される人びとに、啓蒙やヒューマニズムによって対抗できるのかは、近年の世界各地の動きを見ると心許ないというのが正直なところでもある。しかしチャップリンの演説が教えてくれるのは、働く機会が与えられ、若者が未来を夢見ることができ、老人が安心して暮らしていける社会こそが昔から多くの人が望んでいるものだということだ(貧困家庭出身のチャップリンは何よりもこのことを強く感じていたことだろう)。

アメリカでは1930年代にF・D・ルーズヴェルト政権によりニューディール政策が始まり、イギリスでは45年に労働党が保守党を破り福祉国家へと一気に舵を切った。アメリカでもイギリスでも共和党/保守党への政権交代はあったが、ニューディール体制、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家は維持されていった。最大の理由は有権者がそれを望んだということだが、もう一つ重要なファクターは、共産主義の拡大を防ぐことであった。完全雇用と分厚い社会保障は、国民世論の左傾化への防波堤としても機能した。

多くの人が「革命」に希望を託すことができなくなると、右派は安心して福祉国家を破壊し、完全雇用と分厚い社会保障を葬り去ることに一切のためらいをもたなくなった。それがサッチャー/レーガン以降の英米であり、多くの国がそれに追従した。こうして破壊されたのは、左傾化への防波堤ではなく右傾化への防波堤であった。不安と猜疑心に支配された「過酷な現実」である世界は、歯止めなく右へ右へと落ちていくし、これこそが右派の狙いであった。

ここで行われるようになったことを右翼的グローバリゼーションとでも呼んでもいいのかもしれない。サッチャーやレーガンがまず血道をあげて取り組んだのが労働組合の弱体化であり、社会保障の削減だった。失業者や貧困者が社会保障を受け取ろうにも、19世紀に逆戻りしたかのような過酷なミーンズテストによって尊厳が傷つけられ、スティグマ性は高められた。失業しているということは、貧しいということは、同情ではなく再び蔑視の対象とされるようになってしまった。失業への恐怖心は高められ、仕事を失いたくなければ低賃金、劣悪な労働環境、不安定雇用を受け入れるよう迫られる。頼れる組合はもうなく、それどころか組合は雇用の敵だという考えすら植えつけられる。国境を越えて労働者を入れ、国境の外に仕事を出して企業は利益を出すが、経営者や富裕層は税金を払うことすら拒み、自らの手にその利益を抱え込むだけで、とりわけブルーカラーの労働者たちは国の指数でどれだけ景気が良くなろうともその恩恵をまるで感じることができない。政治家や経営者たちは矛先がこちらに向かわないように、「移民が仕事を奪った、外国人によって社会保障が食い荒らされている」という世論を作り出す。移民やアウトソーシングのおかげで自分たちは利益をあげ、労働者を締め上げて、労働者や貧しい人びとを反目させ合い、連帯を阻み、孤立化させ、わかりやすい「敵」をでっちあげることで政治的に吸い上げていく。サッチャーやレーガンをはじめとするいわゆる「ネオリベ」の政治家が総じてナショナリズムを煽りたて差別的政策を取るのは偶然ではない。

またこういった政治家は往々にして国家への奉仕を求め、「伝統的価値観」を擁護し、個人主義の「行き過ぎ」を批判するのであるが、実際にやっていることはといえば、中産階級以上の階層に「もうこれ以上社会保障を手厚くすることはできない、そんなことをしようとすれば税金が上って馬鹿を見るのはあなたたちだ、失業や貧困に陥るのは自己責任による自業自得であり、外国からあなたがたの税金にたかりに来る連中になぜカネを与えなければならないのか」と、失業者や貧困者、移民、さらには難民までをも蔑むよう誘導し、保身を第一に政治行動を取るよう促す。


右傾化への防波堤が何であるかは言うまでもない。とはいえ、確かにニューディール体制やイギリス型福祉国家を現代にそのまま蘇らせることは困難だろう。しばしばし指摘されるように、福祉国家は政治的には国境が閉じられていることが前提となっていることが多く、北欧諸国が高福祉を実現できたのもその影響が大であろう。北欧諸国も右派によって移民を制限するか福祉国家を放棄するかという選択が持ち出されるだろうし、すでにその兆候は表れてきている。

偏見に凝り固まり、差別に煽動されてしまう人の多くが被害者意識を抱いていることだろう。確かに慣れ親しんできたつもりの社会が大きな変化を迎えると、不安にかられるのは当然のことだ。しかしだからといって、不公正な社会を改善するためには啓蒙の理想に基づく社会を築く夢を放棄し、社会的不公正よりも経済的不公正に集中的に取り組むべきだという「戦略」をとることは極めて危うい。アメリカの「白人ブルーカラー層の声も聞け」という主張そのものは正しい。そして被害者意識によって差別や偏見を正当化する人びと(もちろん白人ブルーカラー層のすべてがそうだというのではないし、ミドルクラス以上の階層にもこういう人は大勢いる)にどう声を届けるかというのは左派にとって重要な課題であるが、しかしその答えは差別や偏見に目をつむれということではないはずだ。そこを転倒させて、「あれかこれか(社会的不公正と経済的不公正のどちらに優先的に取り組むか)」という「戦略」を取ることは、一見すると「現実的」なようで右派の罠に落ちているにすぎない。

「decent world 」を築くのだという意志と勇気を失い、強欲と憎しみと不寛容に屈しては、世界は「獣ども」の手にむざむざと落ちていくだけとなってしまう。


Dictators free themselves but they enslave the people! Now let us fight to fulfil that promise! Let us fight to free the world - to do away with national barriers - to do away with greed, with hate and intolerance. Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men’s happiness. Soldiers! in the name of democracy, let us all unite!

独裁者どもは自分たちは好き放題やり、大衆を奴隷にする! さあ、まともな世界を築くのだという約束を実現するために戦おう! 世界を解放するために戦うんだ。国を遮る障壁を取り払おう、強欲と憎しみと不寛容を払いのけよう。科学と進歩が全ての人間を幸せにする理性ある世界のために戦おう。兵士たちよ! 民主主義の名の下に、皆で団結しよう!


青臭い? 気恥ずかしい? まあね。でもそう言われ嘲笑われることを恐れるあまり「賢しら」になることこそが「獣ども」の望みであるのだから、むしろ今こそ堂々とヒューマニズムと啓蒙の旗を掲げ、カントが希望を抱いていた「みずみずしい性質の勇気」を再び持たなければならないのだと、久しぶりにこのチャップリンの演説を見て、自分自身にそう言い聞かせている。


よろめく「アメリカ」

2008年の大統領選挙に向けて、民主党のホープ、若き上院議員バラク・オバマが出馬表明をした時、多くの人が「今回はヒラリーで決まり、これは顔見せでオバマが本気で目指しているのは4年後ないし8年後だ」と考えたことだろう。しかしオバマは本気で勝ちにいっていた。圧倒的劣勢からスタートしても、戦略を磨き上げ、したたかに予備選を勝ち抜いた。もしかすると、オバマはこの時こう考えていたのかもしれない。「自分には残された時間が少ない」。


NPRのこちらの記事を読めばわかるように、ドナルド・トランプは爆発的に票を伸ばしたというよりもなんとか共和党票をまとめたといった程度にすぎず(得票数ではオバマに「大敗」したロムニーと大して変わらない)、ヒラリー・クリントンが一方的に民主党の票を失ったことで勝敗が決したとすべきだろう。

「トランプ現象」を過大に評価する必要はないとすることもできるのかもしれないが、それでも結果を知った直後に感じたショックが和らぐことはない。
言うまでもなく、トランプに投票した人の全てが黒人を見たら石を投げつけ、メキシコ人の家に火を放つというようなタイプのレイシストではない。その多くが、近所に住む、あるいは仕事場の同僚にいるマイノリティともうまく付き合っているのだろう。一方で、差別に基づく不正義が行われていたとしても、「自分には関係のないことだから」と背を向けることができる人たちでもある(非白人においても、得票率は少ないとはいえトランプに投票した人もいたが、こういった人たちもまたトランプが撒き散らした差別は自分とは無関係なのだと思ってのことだろう)。

トランプという個人だけが問題なのではなく、あのような選挙手法が有効であるとの前例が作られることこそが恐ろしく、投票に行かなかった人を含め、そのことへの危機感があまりに薄いいことに暗澹たる気分にさせられた。「ブリグジット」の後、イギリスでは排外主義が一気に高まったとされる。トランプの勝利によって差別的言動が許されるのだと考える人間はすでに出てきている。

もちろん白人ブルーカラー層の苦境は深刻なものだ。その状況に「ワシントン」はあまりに鈍感であった。しかしトランプ支持者の心情に寄り添おうとする人々(日本人を含む)の多くが、差別される側のマイノリティへの視線が欠如している。この感覚こそがトランプを勝たせてしまったのだろう。トランプに投票した人を(あるいはブリグジットに賛成した人を)レイシスト呼ばわりするなという声は左翼的な人からも聞こえる。これは「戦略」としては「正しい」かもしれない。その差別性をいくら指摘したところで、「向こう側」に追いやるだけだというのはそうだろう。しかしその結果として、トランプが撒き散らした全方位的差別(人種差別、宗教差別、性差別、障害者差別)が正当化されてしまいかねないことに鈍感になってはいないか。白人ブルーカラー層にシンパシーを寄せることと、その中の少なからぬ人が持つ差別意識を克服していこうとすることが両立しないわけではないはずだ(「ラストベルト」のブルーカラーにまともな職がないのは、メキシコからの不法移民とは何の関係もない)。労働者階級の苦境の改善に取り組みつつ差別の解消に務めることこそがリベラルに求められているのであって、どちらか一方を選ばなければならないという問題ではない。右派はこれを盾にリベラルは口では偉そうなことを言いながら白人ブルーカラーの苦境をわかっていないという旗を振って、差別をも肯定しようとするが、これに対しリベラルのすべきことは、アンフェアな、問題設定の誤ったリングにのこのこと上っていくことではない。

それにしても、そもそもが、この選挙結果は本当に「忘れられていた貧困層の怒り」によってもたらされれたものであろうか。Trump and Brexit: why it’s again NOT the economy, stupidというやや挑発的なタイトル(これはビル・クリントンの92年の選挙スローガン、「問題は経済だ、愚か者め」を意識してのものだろう)の分析にあるように、何かと比較される「ブリグジット」と同じく、有権者の経済的なバックグラウンドよりも右翼的権威主義との親和性こそが投票行動に反映されたのだと見ることもできる。人種構成を含めて多様化するアメリカの変化についていけない人々が、右翼化、権威主義化し、トランプ支持へと傾いていったようだ。

出口調査を見ると、白人ブルーカラー層の多くがトランプに流れたことは確かだが、中高年白人男性を見ても、大卒以上の学歴を持ち、ミドルクラス以上の収入がある人もトランプに多く投票している。そしてほとんどの専門家、メディアが読み損ねたであろうことが、中高年白人大卒ミドルクラスの女性においても、男性ほどではないにしても相当にトランプに票が流れたことだろう。トランプ大統領を生み出したのは、「貧困層の怒り」というよりも、白人中高年層における右翼的権威主義の進行した結果なのかもしれない。収入格差よりも、若年層と中高年、都市部と郊外といった対比ほうがよりはっきりとした相関が出ている地域もある。

日本ではあまり注目されていないが、上院議員選挙でも事前の予想を覆して共和党が多数を確保した。「貧困層の怒り 」なら議会選挙において共和党に逆風が吹いてもいいはずだが、むしろ共和党の権威主義的体質に追い風が吹いた。「格差」がトランプ大統領を生んだという視点だけでこの選挙結果を見るのは、やはりミスリードだろう。

出口調査は投票に行った人の中での割合なので、トランプが勝利を収めた州においても、実数としてはトランプ支持者が溢れ返っているというほどではないだろう。しかしトランプを支持していなくとも、投票所へ足を運んでトランプ大統領の誕生をなんとしても阻止しなくてはならないと考えた人が予想以上に少なかったことも、予想を狂わせた一因であろう。
高い教育を受け安定した収入を持つ「中間層」は、極端に流れずに中庸な政治選択をするので民主主義の守り手だとされてきたのだが、今回はそういった階層が防波堤にならなかったようだ。


少し引いた目で視点を変えると、このような状況を作り出したのはトランプの「強さ」ではなくヒラリーの「弱さ」であったとすることもできる。ヒラリーは潜在的支持層を投票所に向かわせることに失敗した。今にして思えば、ここ数年のアメリカ社会に負の意味で変化の兆候は表れていたが、同時にヒラリーが極めて「弱い」候補であったこともまた事実であろう。ではなぜこんなにも「弱い」候補であるヒラリー・クリントンが民主党の本命とされ、そして敗れることになってしまったのだろうか。

願望と現実を取り違えるというのは誰にでも起こることだ。ここ数年の民主党はまさにこの状態に陥っていたのかもしれない。

大統領選の投票日前に書かれたものだが、Economistのこちらのコラムに、民主党って年寄りばっかりだよね、とある。バーニー・サンダースは75歳、上下両院のトップであるハリー・リードとナンシー・ペロシは共に76歳。ヒラリーの69歳が若く感じるほどだ。このコラムでは、民主党関係者が口を揃えて期待する新鋭カマラ・ハリスを紹介するものであるが(気が早いことをいうと2020年の大統領選挙の候補の一人であろうし、黒人とインド系の血を引くという様々なバックグラウンドを持つ彼女が女性蔑視発言を繰り返すトランプを破って「ガラスの天井」を壊せば、それはさぞドラマになることだろう)、この状況は民主党がここ数年人材育成に失敗してきたということを表しているかのようだ(もっともその点では共和党も似たようなものでもあるが)。

2008年にオバマが大統領選で勝利を収めると、「8年後はヒラリーで決まり」だと民主党指導層は考えたことだろう。有力政治家は予備選の出馬すらためらい、サンダースが出てこなければヒラリーは全くの無風で民主党大統領候補になっていた。しかし当然ながら、民主党はうんざりすほど細かく、頻繁に世論調査を繰り返していただろうし、ヒラリーの不人気ぶりは数字で突きつけられていたはずだ。サンダースにあれだけの人が飛びついたのも、ヒラリーだけはごめんだという人が民主党支持者にも多数いたことを示している。にも関わらずなぜ民主党指導層においてヒラリーが大統領候補となることが既定路線とされてしまったのか。「ヒラリーを大統領にしたい」という願望が「ヒラリーなら大統領になれるはず」という認識にすり替わり、「ヒラリ-なら本選で絶対に勝てる」という根拠のない思い込みを現実だと取り違えたということだったのかもしれない。


ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』、及び森本あんりの『反知性主義』は今回の選挙を考えるうえで必読文献だろう。
アメリカ合衆国は、少数のエリートが権力を専横することへの拒否感がとりわけ強い国である。こちらに書いたように、才気煥発とは言いかねるワシントンが初代大統領に選ばれたのも、彼には実子がなかったことから新たな「王朝」が作られるという懸念が薄かったせいでもあった(予備選と本選で「ブッシュ王朝」と「クリントン王朝」を倒したとはしゃいでいる人がいるのは、まさにこの表れだ)。

このような反権威、反権力、反インテリ志向は健全な懐疑精神であり、民主主義的なものであるとすることができる一方で、民主主義の負の側面である悪しきポピュリズムに容易に堕する可能性を常に秘めた社会だということにもなる。

口から先に生まれたかのような香具師的な人物アンドリュー・ジャクソンの最大のライバルは、第二代大統領を父に持ち、ヨーロッパに長期滞在して複数の外国語を身につけ、大学教授まで務めるほど学識に溢れ政治権経験も豊富なジョン・クィンシー・アダムズであった。泥仕合そのものの激しい中傷合戦を繰り広げた長年に渡る両者の戦いは、ジャクソンの勝利で幕を降ろす。ジャクソンは大統領としてアメリカ独特のリボルビングドアシステムの原型を作り(猟官運動に応え支持者に利権をばらまいたということなのだが、同時に国や地域を統治するのに一部のエリートに頼る必要はない、「普通の人」にもそれは可能なのだという反知性主義を体現したものでもあった)、「ジャクソニアン・デモクラシー」にその名を残すように「大衆」の感覚に寄り添った政治をした。そしてその帰結の一つが、先住民への過酷な迫害であった。大量の命が失われ、生活の根が奪われ、先住民たちはこれ以降さらに苦しみ続けることになる。スピルバーグが『アミスタッド』で描いたように、アダムズはジャクソンに敗れ大統領を退任した後、弁護士として、黒人奴隷のために建国の理念を掲げ法廷で戦うことになる。

このような歴史がそのまま繰り返されることはないだろうが、この「伝統」について民主党はもっと敏感であるべきだったろう。
1960年代後半、民主党は分裂状態に陥る。ヴェトナム戦争を泥沼化させたジョンソン大統領への不満が爆発し、未だはびこる、党を仕切るボス政治に批判が集中した。ジョンソンの後を襲ったニクソンはウォーターゲート事件を引き起こし、共和党支持者の不信はつのった。1976年には、ジョージア州知事を務めたとはいえ中央政界では全く無名であったカーターがあれよあれよと大統領に上り詰める。そのカーターを破ったのはカリフォルニア州知事であったレーガンだが、彼は共和党内では異端的な立場にあった。88年には副大統領だったブッシュが勝利するが、その再選を阻んだのは南部の小さな州アーカンソーの知事だったビル・クリントンであり、この92年には政治経験ゼロの実業家ロス・ペローが旋風を巻き起こした。2000年の大統領選挙は二世政治家同士の戦いとなり、アメリカ政治の寡頭化を印象づけるものであったが、いけすかない政治エリート、退屈なインテリのゴア対田舎の気のいいおじさんのブッシュというイメージ作りに成功した結果、政治家としての能力が極めて疑わしいにも関わらずブッシュは(一応の)勝利を収めた。この時も、民主党側にはいくらなんでもゴアがブッシュなんぞに負けるわけがないという油断があり、問題となったフロリダ以外でも取るべき州を取りこぼしていた。


オバマが2008年の民主党予備選に敗れ2016年の大統領選を目指していたとしたら、この間彼は将来の大統領候補としてメディアに多く露出することになっていただろう。名前が売れると同時に、政治家としては手垢にまみれるということにもなる。上院議員や、あるいは副大統領であれば「ワシントン」のインサイダーと見なされかねない。2008年の予備選ではオバマの政治経験の浅さが攻撃に使われたが、これはむしろ望むところ、オバマの弱みであるどころか強みであった。この機を逃せば、オバマはこの優位性を失うことになる。「今回の選挙で勝つしかない」、2008年にオバマはそう考えていたのかもしれない。

「ワシントン」のインサイダーへの不信感はアメリカの伝統であるだけでなく、ここ50年でますます高まり、とどまることを知らない。8年前にはこのことをわかっていたはずのオバマですら、今回は冷徹な計算をめぐらすことができなかった。2008年の予備選の結果、ヒラリーというカードは失われたのだと、民主党指導層はそう認識すべきだった。もちろんその見通しを覆し、ヒラリーは予備選を勝ち抜くことになっていたかもしれない。「過去の人」と見なされた逆境を乗り越えそのようなムーヴメントを起こすことができたとしたら、それは彼女が「強さ」を身につけたということになる。しかし初めからスタートラインに一人だけ立たせるようなレースを行うことに決めていたのでは、そのような強さが生まれることはない。この8年間民主党は次の大統領候補となる人材の育成を怠ったし、それは民主党全体を弱体化させることにもなった。


ただ、ここまで民主党指導層の目を曇らせた「ヒラリーを大統領にしたい」という願望はわからなくもないところもある。

リベラル派がヒラリーを嫌う理由はいくつもある。オバマ対ヒラリーでは、彼女がイラク戦争に賛成していたことが徹底的に突かれた。そればかりでなく、ヒラリーの上院議員としての投票行動は極めてタカ派色が強かった。大統領になるということはアメリカ軍のトップになるということでもある。共和党との本選では「女に軍のトップが務まるのか」という攻撃が行われることを当然予想していただろう。タカ派的投票行動を取ったのはこれへの予防線であったとも考えられる。リベラル派から見れば、ヒラリーは権力を手にすることこそが目的であり、信念も何もあったものではないと写ることになる。

民主党と共和党、どちらがウォール街に近いのかは言うまでもない。しかしウォール街はリスクヘッジとして民主党にも大量の資金を流しこんでいる。長年に渡って大統領最有力候補とされたヒラリーは、ウォール街としてはなんとしても取り込みたい相手であり、ヒラリーにしても「ビジネスフレンドリー」というイメージを作り出せることは中道派の票を得るうえで悪くないことだと思えたのだろう。しかしビル・クリントン政権で何が行われたのかをリベラル派は覚えている。ゴールドマン・サックス出身のロバート・ルービンに率いられた経済チームによって、ほとんど共和党と変わりない経済政策が取られた。グラス-スティーガル法の撤廃はリーマンショックの直接の要因である。ルービン一派の民主党への影響力は強大で、オバマ政権ですらこの呪縛から逃れられず、金融規制強化などは遅々として進まなかった。

クリントン政権はまた社会保障の削減や厳罰化なども進め、この点でも共和党とほとんど差がなかった。ゴア政権はクリントン政権の三期目であり、こんなのにはうんざりだとリベラル派は感じていたし、ヒラリー・クリントン政権もビル・クリントン政権の延長にすぎないと感じられたことだろう。

ビル・クリントンがホワイトウォーター疑惑などで共和党の集中砲火を浴びると、ヒラリーはこれを右翼による陰謀だと言った。この物言いは必ずしも大袈裟なものではなく、右派のクリントン夫妻に向ける憎悪は常軌を逸したものになっていく。一方で付け入る隙を与えるほうが悪いのではないかとすることもできるだろう。ティーパーティは、そしてトランプは「オバマは実はアメリカ生まれではない、出生証明書は偽造されたものだ」とわめき散らしていた。話にもならない馬鹿げた陰謀論であり、まともな人は誰も相手にしなかったが、これくらいしかオバマに向ける「陰謀」の材料がなかったということでもある。しかしクリントン夫妻は叩けば山のように埃が出てくる。二人が清廉潔白だと思っている人は、民主党支持者でもほとんどいないだろう。クリントン財団が設立された時、ヒラリーが大統領を目指していることは周知の事実であった。ならば慎重のうえにも慎重を期するべきなのに、不必要な危ない橋をわざわざ渡るというのは理解し難いことだ。国務長官時代のメール問題にしても、周囲の忠告を受け入れずに事態を悪化させたのは他ならぬヒラリー自身であった。


このように欠点や瑕疵をあげていけば切が無いのであるが、しかしヒラリーに向けられてきた批判や懐疑は正当なものばかりであったとはいえない。

ヒラリーとビルは当初夫婦別性を選んだ。しかしビルが知事選に敗れると、周囲はアーカンソーでは夫婦別性など受け入れられない、同じ姓を名乗るべきだと迫った。ヒラリーはこれを受け入れ、姓を二重化させヒラリー・ロダム・クリントンと名乗るようになったが、このような選択ほぼ女性にだけ迫られるものである。ヒラリーのオポチュニスト的行動の少なからぬものが、女に経済はわからない、女に軍のトップをまかせられるかといった女性であるがゆえに加えられる攻撃への防衛反応でもあっただろう。

スキャンダルまみれであったビル・クリントンは「愛すべき駄目男」として今でも高い人気を誇っている。ビルがこれほど人気がありながらヒラリーが蛇蝎のごとく嫌われているのは、二人の人格によるものだろうか。男の浮気が大目に見られることがあっても、女の浮気が大目に見られることはまずないない。同じことをしても、男を見逃しても女に対しては徹底的に懲罰を加えなければ気がすまないといったタイプの人間はまだまだ多い。

ヒラリーの「悪名」を一躍轟かせたあのクッキー発言にしても、文脈をふまえれば専業主婦を馬鹿にしたものでもその生き方を否定したものではなく、女性にも多様な生き方があるべきだといった程度のものであるが、右派はここぞとばかりに叩きまくった。

「むかつく女だ」、トランプは公然と言い放ったが(ついもれたものではなく、「受ける」という確信があっての計算づくの発言だろう)、もしヒラリーが同じような感情的言葉をトランプに向けていたら、いったいどうなっていただろうか。
保守的なジェンダー観を持つ人間にとって、ヒラリーは絵に描いたような「むかつく女」である。頭が切れて弁が立ち仕事も優秀、そして何より野心を隠さない(ちなみにミシェル・オバマも頭が切れて弁が立ち仕事も優秀な弁護士であるが、彼女のファースト・レディーとしてのイメージ戦略は明らかにヒラリーを反面教師にしたものだ)。野心を持たない男など「女々しく」て嘆かわしい、野心を持つ女など虫唾が走る、このような感覚は今でも根強い。ヒラリーが感情を隠せば冷たい女だと言われ、感情を表せばやはり女は女だ、政治には向かないとされる。

あの「ドヤ顔」の作り笑いは散々揶揄の対象とされてきたが、いくら言われてもやめることができなかったのは、どちらを向いても中傷される中であの表情に追い込まれたということだったのだろう。皮肉なことに、大統領への道を断たれた敗北スピーチがヒラリーの過去最高の演説だともされた。これは、彼女が「希望」や「夢」を伝える積極的なメッセージを発する能力が欠如している政治家であったというのではなく、権力の頂点を目指す女性政治家という立場から外れるまで、がんじがらめにされ、その能力を充分に発揮することができなかった結果だったようにも思えてくる。

こういった状況を長年見続けてきた民主党幹部は、ヒラリー・ロダム・クリントンをなんとしても大統領にしたい、いや、そうすることで社会を変えなくてはならないのだと考えるようになり、冷徹な計算ができなくなったということだったのかもしれない。


逆に冷徹に計算をめぐらし続けることができるのが経済保守の富裕層だということが、今回改めて示された。ひたすら「小さな政府」を求める経済保守にとって、妊娠中絶や同性婚の禁止などどうでもいいことだろう。「政府はできるだけ小さくあるべきだ」として富裕層への課税強化、環境や銀行の過度の投機的行動への規制などは徹底的に否定しながら、個人の選択に委ねられるべきことに政府がずかずかと立ち入り介入することは平気で認める。「金持ちを守れ、金持ちがひたすら栄え、貧乏人が野垂れ死ぬ社会にしよう」などと訴えたところで集票には限界があるが、宗教保守を煽れば票は簡単に手に入る。倫理的問いや論理的整合性など気にも留めない、これこそが保守/右派の「強さ」の秘訣である。とにかく権力を手に入れさえすれば、あとはどうにでもなる。白人の偏見や不安に付け込み、それを煽ることで票を稼ぐというのは共和党が南部や中西部で長年に渡って行ってきたことだ。トランプの戦略もその延長線上にあり、今回それがついに北部でも有効になってきたことが示されてしまった。

トランプが大統領になれば経済は滅茶苦茶になると言われたが、富裕層やウォール街は本気でトランプ大統領誕生の阻止に動いたのだろうか。確かに献金等は過去と比べると控え目であったが、しかしヘッジファンド等の人脈はトランプ陣営にしっかりと食い込んでいた。ウォール街からカネをたんまりもらっているとヒラリーを罵倒し続けたトランプは、殊勝ぶった勝利演説で金融規制強化を否定し、私はあなたがたの味方だとウォール街にウィンクしてみせた。「市場」はそのメッセージをしかと受け取り、株価は一気に上昇した。


一番おそろしいのは、トランプが政権運営に行き詰ったり、支持率の大幅な低下が起こった時に、批判をかわすためにカードとして差別を持ち出すことだ。こうなれば大統領自らがヘイト・スピーチを行いヘイト・クライムを呼びかけるという異常な事態にもなりかねない。権力を保つための「賭け」としてはあまりに危険なものであるが、共和党を長年支えている勢力ならば、健康のためなら死んでも構わないという人間よろしく、リベラルが権力を持って社会の流れを変えるのを目にするくらいなら、世界が滅ぶ方がマシだとすら考えているのかもしれない。

「ヒラリーもトランプも同じくらいひどいからトランプが勝とうが別にショックはない」だの「トランプ当選のショックによって人々は目覚めるはずだ、むしろこれはチャンスなのだ」などと寝言を並べ立てている人は、ヒトラーが政権を握ろうとしていた時にドイツ共産党が何と言っていたかを思い起こすべきだ。ちょっとしたショックが起こったところで人が目覚める事例は少ない。むしろより深く蒲団に潜り込み、自己正当化に走り現実から目を背け、落ちるところまで落ちてようやく気がつくことになるが、そのような事態は何としても避けねばならないことも歴史が与えた教訓であったはずだ。


この選挙結果にショックを受けるなんて馬鹿らしい、アメリカなんてもともとそんな国だろ、という冷めた意見もあるだろう。僕もアメリカの文化、社会、政治などに多少なりとも関心があるので、その歴史においてとんでもないことが平然と行われてきたことも知っているし、嫌なところや駄目なところも人並みに認識はしているつもりだ。

トマス・ピンチョンは、黒人奴隷にとって運命を分ける線となることをそうとは知らずに引いた二人の人物を主人公にした『メイスン&ディクスン』において、「建国の父」たちを胡乱な、暗い影をもたらす人物として描いた。しかしピンチョンはまた、「もう一つのアメリカ」を、緑溢れる可能性に満ちた「ヴァインランド」を幻視し続ける作家でもある。スティーヴ・エリクソンが『きみを夢見て』で描いたように、アメリカは惑い、よろめく。それでも前進していくのが(象徴としての)「アメリカ」なのである。「もう一つのアメリカ」とは現実の国家であるアメリカ合衆国を指すのではないが、やはり合衆国と深く結びついているものであり、それはまた様々な意味で世界に強い影響を与える存在でもある。そのアメリカが踏ん張ることが出来ずに、惑い、よろめいたあげくに倒壊してしまうことになるかもしれない、それほど危機感を与える出来事でありながら危機感が薄かったことが、さらに不安をつのせていくのである。

もっとも、若年層の投票行動を見ればそこまで心配する必要はないという声もあるだろう。むしろ若年層の投票行動を考えると日本の方がはるかにヤバいのでは、と言われるとまさにその通りで……


21世紀における民主主義の最大の敵

ロバート・アルトマンのドキュメンタリー『ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』を見ていたらこんなニュース音声が挿入されている場面があった。

「トルドー首相は教会指導者と会談 カナダはアメリカの徴兵忌避者を受け入れると明言しました」

アルトマンは独立系監督を支援していたためにカナダを撮影地に選び、また『マッシュ』を撮る直前にはベトナム戦争に反対であったことからカナダ移住を考えたこともあったそうだ。

この「トルドー首相」というのはもちろん現カナダ首相ジャスティン・トルドーの父親のことである。これを見たのは数ヶ月前のことで、面白いなあと思ってメモしたもののそのまま放っておいたのだが、全く笑えない状況でこのエピソードを思い出すことになるとは。


今回のアメリカ大統領選の結果は全く予想していなかったし(後知恵込みでいうと投票直前に楽観論が広がったことになんだか嫌な予感はなきにしもあらずであったが)、ほんとうにショックで、気を紛らわせるために何か書かないことにはということで。


トランプ勝利の原動力となったのは見捨てられた白人ブルーカラー層で、彼らの絶望的な状況をエスタブリッシュメントが汲み取ることができなかったためにこんなことが起きたという説明のされ方をしていくことになるのだろう。確かにそれは間違いではない。間違いではないが、全てでもないことを押さえておかなくてはならないし、それこそが僕がショックを受けたことであった。

ニューヨークタイムズのこちらの記事にあるように、2013年に出たShelby County v. Holderの最高裁判決の影響というのは間違いなくあっただろう。ものすごくざっくりまとめると、事実上選挙人登録(アメリカでは投票するためにはこの手続きしなくてはならない)の際に差別的な嫌がらせをすることを州が合法化するのに道を開いた判決である(今回の選挙でさらにおそろしいのは、上院も共和党が勝ったため最高裁がさらに保守化するおそれが強いことだ)。
またワシントンポストのこちらの記事にあるように、選挙人登録などでトランプ支持者は1920年代のKKKさながらの嫌がらせを行っていたという。

つまり少なからぬ白人をトランプ支持へと駆り立てのは紛れもない人種差別意識であったということなのである。トランプによってこのような状況が作られたというよりは、このような状況を見て取ったトランプがこれを利用したとすべきかもしれない。「黒人の大統領になど耐えられない、メキシコ人がでかい顔をすることなど許せない、次は女の大統領? そんなことは絶対に阻止する!」、このようななメンタリティがここ数年で急速に広がっていたのだろう。一連の警官による黒人射殺事件もこれが表れたものだとすることもできるのかもしれない。

Shelby County v. Holderの判決が1965年の法律を事実上修正したものであるように、少なからぬ白人の意識は公民権法以前に戻ってしまったかのようだ。これは単に選挙の勝敗だけではないショッキングな状態であり、民主党関係者からすれば「まさかここまでの広がりを見せているとは」ということだったのかもしれないし、僕もこのことに愕然としている。

選挙人登録の際の嫌がらせの実例を知りたい人はキング牧師と公民権運動を描いた『グローリー/明日への行進』をぜひ見てもらいたい。映画の冒頭がまさにこれを描いたもので、アメリカの差別主義者の常套手段なのである。FBIが公民権運動を敵視し、キングの女性関係などを盗聴し脅迫していたことも描かれているように、FBIが差別主義者に加担するというのもまたおなじみの光景といえばそうだ。この作品を撮ったエイヴァ・マリー・デュヴァーネイは黒人女性監督であり、オスカーが「真っ白」であったことを厳しく批判していたが、比較的リベラルなはずのハリウッドですらこの状況であったのだから、他は推して知るべしという状況はすでにこの頃にはあったともできるだろう。

最近思うところあって『風と共に去りぬ』を見返してみたのだが、トランプ支持者が取り戻したい「偉大なアメリカ」とはこのような世界なのかもしれない。「騎士道精神」溢れる「古き良き南部」がヤンキーどもに蹂躙される。その実態は奴隷制に支えられたおぞましいものであるが、南部の貴族的白人富裕層にはそう写っていたことだろう。
黒人奴隷がその身分を受け入れ白人に唯々諾々と従っていれば温情をかけることにやぶさかではない。しかしそこを踏み越えれば激しく憎悪を燃やす。黒人がヤンキーと組んでビジネスに乗り出したり、ましてや政治的野心を持つなどということなど断固として容認できない。「ヤンキー(北部人)」を「リベラル」に置き換え、黒人にメキシコ人を加えれば、トランプ支持者の一部の傾向と重なるところが多いだろう。

もちろん「ワシントン」への不信と不満というのはそれこそ民主党員のジョンソンへの不満、共和党員のニクソンへの不信からクリントン対ブッシュの時のロス・ペロー現象など一貫して根強いものであるし、さらにクリントン夫妻というのは非常に脇が甘い政治家であることも確かだ。このあたりも大きく作用しているであろうし差別問題が全てだというつもりはないが、しかし重大なファクターであるわりには軽視されているという印象があるし、その軽視こそがトランプへの追い風となったのではないだろうか。


ということでメディアではあまり語られることはないだろうが、やっぱり引っかかっていることなので以下はポール・セローのインタビューを基に書いたこちらのほとんど繰り返しになるが。

セローはトランプ支持者は銃の見本市に集まるような連中で、とりわけ南部の貧困状態にある白人は被害妄想をつのらせ、もはや共和党すら信用していない、そしてこのような心情はマサチューセッツのようなリベラルは州のホワイトカラーの白人共和党員にすら広がりを見せていると語っている。
これはまさに実体験に基づく適切な意見であろうが、強調しておきたいのはトランプとテレビとの関係である。

ここ約50年ほどの共和党は「経済保守」と「文化保守」という、本来異なる価値観を持つ両者が「リベラル」という共通の敵を前にして共闘している。「共闘」というよりは、極端な経済保守が手っ取り早く動員できる文化保守を利用しているとすべきだろう。もちろん共和党にも穏健派はいるのだが、そういった勢力が伸張しそうになると、経済保守は宗教や差別カードを切って文化保守を動員し、共和党を右へ右へと引っ張っていく。トランプの言っていることはティーパーティと大差ないし、ティーパーティの言っていることは90年代の共和党を象徴するギングリッチと大差ない(このあたりは『バーニー・サンダース自伝』を読むとよくわかる)。そしてこれらの種を播いたレーガンは「福祉の女王」をはじめとして白人による差別感情を煽る手段をとることを厭わなかった。トランプが「新しい」とすれば、より直接的に文化保守にアウトリーチしたことだろう。セローが言うように、共和党は長年に渡って「犬笛」を吹いてきた。共和党主流派は「差別的」な言動を繰り返してきたのだが、「差別的」ではなく差別そのものを口にするトランプは、より「本音」を語っているように写ることになる。

トランプ支持者について調べると、実際にはアッパーミドルや富裕層も多数含まれているとされる。とりわけヘッジファンド系の富裕層にとっては、金融の規制強化や金融取引への課税といったことを避けるためにも、是が非でも民主党大統領を阻止したかったはずだ。つまりトランプ現象とは特殊なものというよりは、経済保守と文化保守が「共闘」してリベラルに敵対するという、いつものパターンにより近いのではないだろうか。トランプは一見すると労働者に寄り添っているようで富裕層への目配せもしている。共和党支持層はだいたいにおいて党に忠実で、そこに普段は選挙に行かない層が乗っかったという形になったということかもしれない。

とはいえそのバランスはやはりこれまでとは異なるものでもあるが、それを可能にしたのがテレビであろう。
トランプという存在は日本でいえば石原慎太郎と橋下徹を掛け合わせたようなものである。差別発言を繰り返しながらメディアはそれを正面きって批判することに及び腰であり、またトランプはテレビタレントでありテレビコンテンツの製作者でもある。トランプはどういったロジックを使えばテレビの視聴者が喜ぶか、どこまでの差別発言がテレビ局に許容されるかを身を持って学習してきた。

民主主義は何もかもを多数決で決めることではない。某氏が名前を知らないといった芦部信喜は、人権を制限するような憲法改定はたとえ多数派の意志であっても認められないと主張したが、僕もこれを強く支持する。トクヴィルはアメリカを見て、民主主義に潜む多数派による専制という危険性に警戒心を抱いたが、これを防ぐのが憲法であり三権分立であり人権である。つまり差別を煽って票を稼ごうとする人物は民主主義の外にいるのであり、民主主義の担い手はこれと対決することが義務なはずだ。そのタガが外れてしまったことが、この結果だろう。

アメリカのテレビは「おいしいネタ」としてランプの発言を垂れ流し続けた。「テレビに出ている」というだけで何か正当性があるかのように感じる人がいるし、テレビの露出が多いというだけで支持者が集まってしまうことは、半年前には自民党支持者にすらその存在が忘れられかけていた小池百合子をワイドショーが大量に露出させることで何が起こったのかを見れば、日本でも証明されている。

いや、日本でも証明されているというよりは、日本で証明されていたこと(小池のやったことは小泉のコピーであり、橋下にとって石原の振る舞いはロールモデルであったことだろう)がアメリカにも伝播したとすべきだろう。トランプ当選はアメリカのテレビの日本化の産物だ。

トランプの側近にはロシア利権を持つ人物が複数おり、トランプ自身もロシアで一儲けしようとたくらんでいたともされる。ロシアは民主党へのハッキング攻撃でトランプを援護し、これを受けてトランプはロシアに対してさらなるハッキングを呼びかけた。まともに考えれば無茶苦茶な状態なのであるが、アメリカのテレビはトランプとロシアとの問題を掘り下げてきちんと報じることはほとんどなかった。

ワシントンポストはかなり頑張ったし、ニューヨークタイムズもそれなりにやったが、今回は予備選から本選を通じ、アメリカのテレビが気概を見せたことはなかった。これはアメリカのテレビに限られたことではなく、BBCを見ていても、差別発言を公然とする人物が権力の座に近づいているという危機感などなく、まるでスポーツイベントでも楽しむかのような調子であった。今回の大統領選挙は政治のエンタメ化の成れの果ての姿であり、その「最先端」を走っているのが日本である。

「地上波のテレビはもうオワコン!」なんてことを言う人がいるが、実際には新聞の存在感は大きく低下し、ネットメディアの広まりは限定的(基本的には同質的な人の中にしか響かない)という状況で、政治的な影響力という点では地上波のテレビの一人勝ち状態になっている。

21世紀における民主主義の最大の敵は地上波のテレビであった、なんてことが言われないように、テレビに関わる人には最低限の良識と気概を持って欲しいのだが、思いつくままに適当にこんなことを書いているうちに、なんとも絶望的な気分になってきて……


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佐藤太郎(仮)

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