チャップリン演説再び

Soldiers! don’t give yourselves to brutes - men who despise you - enslave you - who regiment your lives - tell you what to do - what to think and what to feel!

兵士たちよ! 獣どもに身を委ねてはいけない。奴らはあなたを見下し、奴隷にし、生き方まで統制して、こうしろ、こう考えろ、こう感じろとまで命令するんだ!


ご存知チャップリンの『独裁者』のあの有名な演説より。




今これを聞くと、兵士たちへの呼びかけをアメリカ市民に、あるいは日本を含む多くの国の市民に置き換えてもそのまま通じるように思えてきてしまう。

「理性の基準に従わない世界の様々な動向を、主体的な努力によって制御することができる」と信じた啓蒙が、「過酷な現実が延々と広がる一様性」しか認めず、「勇気をかなぐり捨て、あらゆる積極性をはなから欺瞞と決めつけ、ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さ」となり、理想に対して侮蔑や嘲笑を浴びせかけるようになるまでに変質していく過程を描いたスローターダイクの『シニカル理性批判』を読んでふと思い出したのが、この演説だった。

『シニカル理性批判』の感想の中で、日本におけるシニシズムの一つの表れとして啓蒙を「口うるさい学級委員長」といった程度のものへと矮小化しようとする「80年代的感性」をあげたが、それは僕自身がまさにこの中で育ってきたからでもある。日本の「80年代感性」においては、チャップリンのこの演説に素直に感じ入ってしまうことほど恥ずかしいものはないだろう(「チャップリンなんてあんなものお涙頂戴じゃないか」となる)。

芸能人になんて説教されたくない、ましてやそれが「正しい」ものであればあるほどムカつく、という感性は、いつの時代にもどの地域にもあることだろう。『チャップリンとヒトラー』(大野裕之著)によると、公開当初はアメリカでも批評家筋にはこの最後の演説は圧倒的に不評であったようだ(これには内容そのものさることながら、あえて映画文法を逸脱させたその手法への冷ややかな視線も含まれているだろう)。

チャップリンのこの演説は啓蒙的というよりも、素朴なヒューマニズムに根差したものだとした方がいいだろう。それだけ率直にして切実な訴えであると受け止められると共に、その分だけ「恥ずかしい」ものと感じる人も出て来ることになる。

啓蒙によって懐疑精神を得た人間は、世界を変えていこうという理想をも懐疑するようになり、「人間的な文化が生んだ様々な理想に言及するにしても、嘲笑か無効宣告という形でないかぎり、もはや耐えら」れず、「過酷な現実」の前に「ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さ」によって身を守ろうとする誘惑にかられ続けることになる。

スローターダイクが書くように、これは近年になって突如生じたものではなく、長い年月に渡って繰り返されてきたことだ。しかしだからこそまた、チャップリンの素朴なヒューマニズムに基づくメッセージもまた普遍性を持つことともなる。


Then - in the name of democracy - let us use that power - let us all unite. Let us fight for a new world - a decent world that will give men a chance to work - that will give youth a future and old age a security. By the promise of these things, brutes have risen to power. But they lie! They do not fulfil that promise. They never will!

さあ、民主主義の名の下に、この力を使おう。みんな団結するんだ。新しい世界のために戦おう。人びとに働く機会を与えてくれる、若者には未来を、老人には安心を与えてくれるまともな世界のために。こういうことを約束して、獣どもも権力を持った。でも奴らは嘘つきだ!こんな約束など守ってくれはしない。奴らは決してやりはしない!


シニシズムにとり憑かれた人びとやそれに煽動される人びとに、啓蒙やヒューマニズムによって対抗できるのかは、近年の世界各地の動きを見ると心許ないというのが正直なところでもある。しかしチャップリンの演説が教えてくれるのは、働く機会が与えられ、若者が未来を夢見ることができ、老人が安心して暮らしていける社会こそが昔から多くの人が望んでいるものだということだ(貧困家庭出身のチャップリンは何よりもこのことを強く感じていたことだろう)。

アメリカでは1930年代にF・D・ルーズヴェルト政権によりニューディール政策が始まり、イギリスでは45年に労働党が保守党を破り福祉国家へと一気に舵を切った。アメリカでもイギリスでも共和党/保守党への政権交代はあったが、ニューディール体制、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家は維持されていった。最大の理由は有権者がそれを望んだということだが、もう一つ重要なファクターは、共産主義の拡大を防ぐことであった。完全雇用と分厚い社会保障は、国民世論の左傾化への防波堤としても機能した。

多くの人が「革命」に希望を託すことができなくなると、右派は安心して福祉国家を破壊し、完全雇用と分厚い社会保障を葬り去ることに一切のためらいをもたなくなった。それがサッチャー/レーガン以降の英米であり、多くの国がそれに追従した。こうして破壊されたのは、左傾化への防波堤ではなく右傾化への防波堤であった。不安と猜疑心に支配された「過酷な現実」である世界は、歯止めなく右へ右へと落ちていくし、これこそが右派の狙いであった。

ここで行われるようになったことを右翼的グローバリゼーションとでも呼んでもいいのかもしれない。サッチャーやレーガンがまず血道をあげて取り組んだのが労働組合の弱体化であり、社会保障の削減だった。失業者や貧困者が社会保障を受け取ろうにも、19世紀に逆戻りしたかのような過酷なミーンズテストによって尊厳が傷つけられ、スティグマ性は高められた。失業しているということは、貧しいということは、同情ではなく再び蔑視の対象とされるようになってしまった。失業への恐怖心は高められ、仕事を失いたくなければ低賃金、劣悪な労働環境、不安定雇用を受け入れるよう迫られる。頼れる組合はもうなく、それどころか組合は雇用の敵だという考えすら植えつけられる。国境を越えて労働者を入れ、国境の外に仕事を出して企業は利益を出すが、経営者や富裕層は税金を払うことすら拒み、自らの手にその利益を抱え込むだけで、とりわけブルーカラーの労働者たちは国の指数でどれだけ景気が良くなろうともその恩恵をまるで感じることができない。政治家や経営者たちは矛先がこちらに向かわないように、「移民が仕事を奪った、外国人によって社会保障が食い荒らされている」という世論を作り出す。移民やアウトソーシングのおかげで自分たちは利益をあげ、労働者を締め上げて、労働者や貧しい人びとを反目させ合い、連帯を阻み、孤立化させ、わかりやすい「敵」をでっちあげることで政治的に吸い上げていく。サッチャーやレーガンをはじめとするいわゆる「ネオリベ」の政治家が総じてナショナリズムを煽りたて差別的政策を取るのは偶然ではない。

またこういった政治家は往々にして国家への奉仕を求め、「伝統的価値観」を擁護し、個人主義の「行き過ぎ」を批判するのであるが、実際にやっていることはといえば、中産階級以上の階層に「もうこれ以上社会保障を手厚くすることはできない、そんなことをしようとすれば税金が上って馬鹿を見るのはあなたたちだ、失業や貧困に陥るのは自己責任による自業自得であり、外国からあなたがたの税金にたかりに来る連中になぜカネを与えなければならないのか」と、失業者や貧困者、移民、さらには難民までをも蔑むよう誘導し、保身を第一に政治行動を取るよう促す。


右傾化への防波堤が何であるかは言うまでもない。とはいえ、確かにニューディール体制やイギリス型福祉国家を現代にそのまま蘇らせることは困難だろう。しばしばし指摘されるように、福祉国家は政治的には国境が閉じられていることが前提となっていることが多く、北欧諸国が高福祉を実現できたのもその影響が大であろう。北欧諸国も右派によって移民を制限するか福祉国家を放棄するかという選択が持ち出されるだろうし、すでにその兆候は表れてきている。

偏見に凝り固まり、差別に煽動されてしまう人の多くが被害者意識を抱いていることだろう。確かに慣れ親しんできたつもりの社会が大きな変化を迎えると、不安にかられるのは当然のことだ。しかしだからといって、不公正な社会を改善するためには啓蒙の理想に基づく社会を築く夢を放棄し、社会的不公正よりも経済的不公正に集中的に取り組むべきだという「戦略」をとることは極めて危うい。アメリカの「白人ブルーカラー層の声も聞け」という主張そのものは正しい。そして被害者意識によって差別や偏見を正当化する人びと(もちろん白人ブルーカラー層のすべてがそうだというのではないし、ミドルクラス以上の階層にもこういう人は大勢いる)にどう声を届けるかというのは左派にとって重要な課題であるが、しかしその答えは差別や偏見に目をつむれということではないはずだ。そこを転倒させて、「あれかこれか(社会的不公正と経済的不公正のどちらに優先的に取り組むか)」という「戦略」を取ることは、一見すると「現実的」なようで右派の罠に落ちているにすぎない。

「decent world 」を築くのだという意志と勇気を失い、強欲と憎しみと不寛容に屈しては、世界は「獣ども」の手にむざむざと落ちていくだけとなってしまう。


Dictators free themselves but they enslave the people! Now let us fight to fulfil that promise! Let us fight to free the world - to do away with national barriers - to do away with greed, with hate and intolerance. Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men’s happiness. Soldiers! in the name of democracy, let us all unite!

独裁者どもは自分たちは好き放題やり、大衆を奴隷にする! さあ、まともな世界を築くのだという約束を実現するために戦おう! 世界を解放するために戦うんだ。国を遮る障壁を取り払おう、強欲と憎しみと不寛容を払いのけよう。科学と進歩が全ての人間を幸せにする理性ある世界のために戦おう。兵士たちよ! 民主主義の名の下に、皆で団結しよう!


青臭い? 気恥ずかしい? まあね。でもそう言われ嘲笑われることを恐れるあまり「賢しら」になることこそが「獣ども」の望みであるのだから、むしろ今こそ堂々とヒューマニズムと啓蒙の旗を掲げ、カントが希望を抱いていた「みずみずしい性質の勇気」を再び持たなければならないのだと、久しぶりにこのチャップリンの演説を見て、自分自身にそう言い聞かせている。


よろめく「アメリカ」

2008年の大統領選挙に向けて、民主党のホープ、若き上院議員バラク・オバマが出馬表明をした時、多くの人が「今回はヒラリーで決まり、これは顔見せでオバマが本気で目指しているのは4年後ないし8年後だ」と考えたことだろう。しかしオバマは本気で勝ちにいっていた。圧倒的劣勢からスタートしても、戦略を磨き上げ、したたかに予備選を勝ち抜いた。もしかすると、オバマはこの時こう考えていたのかもしれない。「自分には残された時間が少ない」。


NPRのこちらの記事を読めばわかるように、ドナルド・トランプは爆発的に票を伸ばしたというよりもなんとか共和党票をまとめたといった程度にすぎず(得票数ではオバマに「大敗」したロムニーと大して変わらない)、ヒラリー・クリントンが一方的に民主党の票を失ったことで勝敗が決したとすべきだろう。

「トランプ現象」を過大に評価する必要はないとすることもできるのかもしれないが、それでも結果を知った直後に感じたショックが和らぐことはない。
言うまでもなく、トランプに投票した人の全てが黒人を見たら石を投げつけ、メキシコ人の家に火を放つというようなタイプのレイシストではない。その多くが、近所に住む、あるいは仕事場の同僚にいるマイノリティともうまく付き合っているのだろう。一方で、差別に基づく不正義が行われていたとしても、「自分には関係のないことだから」と背を向けることができる人たちでもある(非白人においても、得票率は少ないとはいえトランプに投票した人もいたが、こういった人たちもまたトランプが撒き散らした差別は自分とは無関係なのだと思ってのことだろう)。

トランプという個人だけが問題なのではなく、あのような選挙手法が有効であるとの前例が作られることこそが恐ろしく、投票に行かなかった人を含め、そのことへの危機感があまりに薄いいことに暗澹たる気分にさせられた。「ブリグジット」の後、イギリスでは排外主義が一気に高まったとされる。トランプの勝利によって差別的言動が許されるのだと考える人間はすでに出てきている。

もちろん白人ブルーカラー層の苦境は深刻なものだ。その状況に「ワシントン」はあまりに鈍感であった。しかしトランプ支持者の心情に寄り添おうとする人々(日本人を含む)の多くが、差別される側のマイノリティへの視線が欠如している。この感覚こそがトランプを勝たせてしまったのだろう。トランプに投票した人を(あるいはブリグジットに賛成した人を)レイシスト呼ばわりするなという声は左翼的な人からも聞こえる。これは「戦略」としては「正しい」かもしれない。その差別性をいくら指摘したところで、「向こう側」に追いやるだけだというのはそうだろう。しかしその結果として、トランプが撒き散らした全方位的差別(人種差別、宗教差別、性差別、障害者差別)が正当化されてしまいかねないことに鈍感になってはいないか。白人ブルーカラー層にシンパシーを寄せることと、その中の少なからぬ人が持つ差別意識を克服していこうとすることが両立しないわけではないはずだ(「ラストベルト」のブルーカラーにまともな職がないのは、メキシコからの不法移民とは何の関係もない)。労働者階級の苦境の改善に取り組みつつ差別の解消に務めることこそがリベラルに求められているのであって、どちらか一方を選ばなければならないという問題ではない。右派はこれを盾にリベラルは口では偉そうなことを言いながら白人ブルーカラーの苦境をわかっていないという旗を振って、差別をも肯定しようとするが、これに対しリベラルのすべきことは、アンフェアな、問題設定の誤ったリングにのこのこと上っていくことではない。

それにしても、そもそもが、この選挙結果は本当に「忘れられていた貧困層の怒り」によってもたらされれたものであろうか。Trump and Brexit: why it’s again NOT the economy, stupidというやや挑発的なタイトル(これはビル・クリントンの92年の選挙スローガン、「問題は経済だ、愚か者め」を意識してのものだろう)の分析にあるように、何かと比較される「ブリグジット」と同じく、有権者の経済的なバックグラウンドよりも右翼的権威主義との親和性こそが投票行動に反映されたのだと見ることもできる。人種構成を含めて多様化するアメリカの変化についていけない人々が、右翼化、権威主義化し、トランプ支持へと傾いていったようだ。

出口調査を見ると、白人ブルーカラー層の多くがトランプに流れたことは確かだが、中高年白人男性を見ても、大卒以上の学歴を持ち、ミドルクラス以上の収入がある人もトランプに多く投票している。そしてほとんどの専門家、メディアが読み損ねたであろうことが、中高年白人大卒ミドルクラスの女性においても、男性ほどではないにしても相当にトランプに票が流れたことだろう。トランプ大統領を生み出したのは、「貧困層の怒り」というよりも、白人中高年層における右翼的権威主義の進行した結果なのかもしれない。収入格差よりも、若年層と中高年、都市部と郊外といった対比ほうがよりはっきりとした相関が出ている地域もある。

日本ではあまり注目されていないが、上院議員選挙でも事前の予想を覆して共和党が多数を確保した。「貧困層の怒り 」なら議会選挙において共和党に逆風が吹いてもいいはずだが、むしろ共和党の権威主義的体質に追い風が吹いた。「格差」がトランプ大統領を生んだという視点だけでこの選挙結果を見るのは、やはりミスリードだろう。

出口調査は投票に行った人の中での割合なので、トランプが勝利を収めた州においても、実数としてはトランプ支持者が溢れ返っているというほどではないだろう。しかしトランプを支持していなくとも、投票所へ足を運んでトランプ大統領の誕生をなんとしても阻止しなくてはならないと考えた人が予想以上に少なかったことも、予想を狂わせた一因であろう。
高い教育を受け安定した収入を持つ「中間層」は、極端に流れずに中庸な政治選択をするので民主主義の守り手だとされてきたのだが、今回はそういった階層が防波堤にならなかったようだ。


少し引いた目で視点を変えると、このような状況を作り出したのはトランプの「強さ」ではなくヒラリーの「弱さ」であったとすることもできる。ヒラリーは潜在的支持層を投票所に向かわせることに失敗した。今にして思えば、ここ数年のアメリカ社会に負の意味で変化の兆候は表れていたが、同時にヒラリーが極めて「弱い」候補であったこともまた事実であろう。ではなぜこんなにも「弱い」候補であるヒラリー・クリントンが民主党の本命とされ、そして敗れることになってしまったのだろうか。

願望と現実を取り違えるというのは誰にでも起こることだ。ここ数年の民主党はまさにこの状態に陥っていたのかもしれない。

大統領選の投票日前に書かれたものだが、Economistのこちらのコラムに、民主党って年寄りばっかりだよね、とある。バーニー・サンダースは75歳、上下両院のトップであるハリー・リードとナンシー・ペロシは共に76歳。ヒラリーの69歳が若く感じるほどだ。このコラムでは、民主党関係者が口を揃えて期待する新鋭カマラ・ハリスを紹介するものであるが(気が早いことをいうと2020年の大統領選挙の候補の一人であろうし、黒人とインド系の血を引くという様々なバックグラウンドを持つ彼女が女性蔑視発言を繰り返すトランプを破って「ガラスの天井」を壊せば、それはさぞドラマになることだろう)、この状況は民主党がここ数年人材育成に失敗してきたということを表しているかのようだ(もっともその点では共和党も似たようなものでもあるが)。

2008年にオバマが大統領選で勝利を収めると、「8年後はヒラリーで決まり」だと民主党指導層は考えたことだろう。有力政治家は予備選の出馬すらためらい、サンダースが出てこなければヒラリーは全くの無風で民主党大統領候補になっていた。しかし当然ながら、民主党はうんざりすほど細かく、頻繁に世論調査を繰り返していただろうし、ヒラリーの不人気ぶりは数字で突きつけられていたはずだ。サンダースにあれだけの人が飛びついたのも、ヒラリーだけはごめんだという人が民主党支持者にも多数いたことを示している。にも関わらずなぜ民主党指導層においてヒラリーが大統領候補となることが既定路線とされてしまったのか。「ヒラリーを大統領にしたい」という願望が「ヒラリーなら大統領になれるはず」という認識にすり替わり、「ヒラリ-なら本選で絶対に勝てる」という根拠のない思い込みを現実だと取り違えたということだったのかもしれない。


ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』、及び森本あんりの『反知性主義』は今回の選挙を考えるうえで必読文献だろう。
アメリカ合衆国は、少数のエリートが権力を専横することへの拒否感がとりわけ強い国である。こちらに書いたように、才気煥発とは言いかねるワシントンが初代大統領に選ばれたのも、彼には実子がなかったことから新たな「王朝」が作られるという懸念が薄かったせいでもあった(予備選と本選で「ブッシュ王朝」と「クリントン王朝」を倒したとはしゃいでいる人がいるのは、まさにこの表れだ)。

このような反権威、反権力、反インテリ志向は健全な懐疑精神であり、民主主義的なものであるとすることができる一方で、民主主義の負の側面である悪しきポピュリズムに容易に堕する可能性を常に秘めた社会だということにもなる。

口から先に生まれたかのような香具師的な人物アンドリュー・ジャクソンの最大のライバルは、第二代大統領を父に持ち、ヨーロッパに長期滞在して複数の外国語を身につけ、大学教授まで務めるほど学識に溢れ政治権経験も豊富なジョン・クィンシー・アダムズであった。泥仕合そのものの激しい中傷合戦を繰り広げた長年に渡る両者の戦いは、ジャクソンの勝利で幕を降ろす。ジャクソンは大統領としてアメリカ独特のリボルビングドアシステムの原型を作り(猟官運動に応え支持者に利権をばらまいたということなのだが、同時に国や地域を統治するのに一部のエリートに頼る必要はない、「普通の人」にもそれは可能なのだという反知性主義を体現したものでもあった)、「ジャクソニアン・デモクラシー」にその名を残すように「大衆」の感覚に寄り添った政治をした。そしてその帰結の一つが、先住民への過酷な迫害であった。大量の命が失われ、生活の根が奪われ、先住民たちはこれ以降さらに苦しみ続けることになる。スピルバーグが『アミスタッド』で描いたように、アダムズはジャクソンに敗れ大統領を退任した後、弁護士として、黒人奴隷のために建国の理念を掲げ法廷で戦うことになる。

このような歴史がそのまま繰り返されることはないだろうが、この「伝統」について民主党はもっと敏感であるべきだったろう。
1960年代後半、民主党は分裂状態に陥る。ヴェトナム戦争を泥沼化させたジョンソン大統領への不満が爆発し、未だはびこる、党を仕切るボス政治に批判が集中した。ジョンソンの後を襲ったニクソンはウォーターゲート事件を引き起こし、共和党支持者の不信はつのった。1976年には、ジョージア州知事を務めたとはいえ中央政界では全く無名であったカーターがあれよあれよと大統領に上り詰める。そのカーターを破ったのはカリフォルニア州知事であったレーガンだが、彼は共和党内では異端的な立場にあった。88年には副大統領だったブッシュが勝利するが、その再選を阻んだのは南部の小さな州アーカンソーの知事だったビル・クリントンであり、この92年には政治経験ゼロの実業家ロス・ペローが旋風を巻き起こした。2000年の大統領選挙は二世政治家同士の戦いとなり、アメリカ政治の寡頭化を印象づけるものであったが、いけすかない政治エリート、退屈なインテリのゴア対田舎の気のいいおじさんのブッシュというイメージ作りに成功した結果、政治家としての能力が極めて疑わしいにも関わらずブッシュは(一応の)勝利を収めた。この時も、民主党側にはいくらなんでもゴアがブッシュなんぞに負けるわけがないという油断があり、問題となったフロリダ以外でも取るべき州を取りこぼしていた。


オバマが2008年の民主党予備選に敗れ2016年の大統領選を目指していたとしたら、この間彼は将来の大統領候補としてメディアに多く露出することになっていただろう。名前が売れると同時に、政治家としては手垢にまみれるということにもなる。上院議員や、あるいは副大統領であれば「ワシントン」のインサイダーと見なされかねない。2008年の予備選ではオバマの政治経験の浅さが攻撃に使われたが、これはむしろ望むところ、オバマの弱みであるどころか強みであった。この機を逃せば、オバマはこの優位性を失うことになる。「今回の選挙で勝つしかない」、2008年にオバマはそう考えていたのかもしれない。

「ワシントン」のインサイダーへの不信感はアメリカの伝統であるだけでなく、ここ50年でますます高まり、とどまることを知らない。8年前にはこのことをわかっていたはずのオバマですら、今回は冷徹な計算をめぐらすことができなかった。2008年の予備選の結果、ヒラリーというカードは失われたのだと、民主党指導層はそう認識すべきだった。もちろんその見通しを覆し、ヒラリーは予備選を勝ち抜くことになっていたかもしれない。「過去の人」と見なされた逆境を乗り越えそのようなムーヴメントを起こすことができたとしたら、それは彼女が「強さ」を身につけたということになる。しかし初めからスタートラインに一人だけ立たせるようなレースを行うことに決めていたのでは、そのような強さが生まれることはない。この8年間民主党は次の大統領候補となる人材の育成を怠ったし、それは民主党全体を弱体化させることにもなった。


ただ、ここまで民主党指導層の目を曇らせた「ヒラリーを大統領にしたい」という願望はわからなくもないところもある。

リベラル派がヒラリーを嫌う理由はいくつもある。オバマ対ヒラリーでは、彼女がイラク戦争に賛成していたことが徹底的に突かれた。そればかりでなく、ヒラリーの上院議員としての投票行動は極めてタカ派色が強かった。大統領になるということはアメリカ軍のトップになるということでもある。共和党との本選では「女に軍のトップが務まるのか」という攻撃が行われることを当然予想していただろう。タカ派的投票行動を取ったのはこれへの予防線であったとも考えられる。リベラル派から見れば、ヒラリーは権力を手にすることこそが目的であり、信念も何もあったものではないと写ることになる。

民主党と共和党、どちらがウォール街に近いのかは言うまでもない。しかしウォール街はリスクヘッジとして民主党にも大量の資金を流しこんでいる。長年に渡って大統領最有力候補とされたヒラリーは、ウォール街としてはなんとしても取り込みたい相手であり、ヒラリーにしても「ビジネスフレンドリー」というイメージを作り出せることは中道派の票を得るうえで悪くないことだと思えたのだろう。しかしビル・クリントン政権で何が行われたのかをリベラル派は覚えている。ゴールドマン・サックス出身のロバート・ルービンに率いられた経済チームによって、ほとんど共和党と変わりない経済政策が取られた。グラス-スティーガル法の撤廃はリーマンショックの直接の要因である。ルービン一派の民主党への影響力は強大で、オバマ政権ですらこの呪縛から逃れられず、金融規制強化などは遅々として進まなかった。

クリントン政権はまた社会保障の削減や厳罰化なども進め、この点でも共和党とほとんど差がなかった。ゴア政権はクリントン政権の三期目であり、こんなのにはうんざりだとリベラル派は感じていたし、ヒラリー・クリントン政権もビル・クリントン政権の延長にすぎないと感じられたことだろう。

ビル・クリントンがホワイトウォーター疑惑などで共和党の集中砲火を浴びると、ヒラリーはこれを右翼による陰謀だと言った。この物言いは必ずしも大袈裟なものではなく、右派のクリントン夫妻に向ける憎悪は常軌を逸したものになっていく。一方で付け入る隙を与えるほうが悪いのではないかとすることもできるだろう。ティーパーティは、そしてトランプは「オバマは実はアメリカ生まれではない、出生証明書は偽造されたものだ」とわめき散らしていた。話にもならない馬鹿げた陰謀論であり、まともな人は誰も相手にしなかったが、これくらいしかオバマに向ける「陰謀」の材料がなかったということでもある。しかしクリントン夫妻は叩けば山のように埃が出てくる。二人が清廉潔白だと思っている人は、民主党支持者でもほとんどいないだろう。クリントン財団が設立された時、ヒラリーが大統領を目指していることは周知の事実であった。ならば慎重のうえにも慎重を期するべきなのに、不必要な危ない橋をわざわざ渡るというのは理解し難いことだ。国務長官時代のメール問題にしても、周囲の忠告を受け入れずに事態を悪化させたのは他ならぬヒラリー自身であった。


このように欠点や瑕疵をあげていけば切が無いのであるが、しかしヒラリーに向けられてきた批判や懐疑は正当なものばかりであったとはいえない。

ヒラリーとビルは当初夫婦別性を選んだ。しかしビルが知事選に敗れると、周囲はアーカンソーでは夫婦別性など受け入れられない、同じ姓を名乗るべきだと迫った。ヒラリーはこれを受け入れ、姓を二重化させヒラリー・ロダム・クリントンと名乗るようになったが、このような選択ほぼ女性にだけ迫られるものである。ヒラリーのオポチュニスト的行動の少なからぬものが、女に経済はわからない、女に軍のトップをまかせられるかといった女性であるがゆえに加えられる攻撃への防衛反応でもあっただろう。

スキャンダルまみれであったビル・クリントンは「愛すべき駄目男」として今でも高い人気を誇っている。ビルがこれほど人気がありながらヒラリーが蛇蝎のごとく嫌われているのは、二人の人格によるものだろうか。男の浮気が大目に見られることがあっても、女の浮気が大目に見られることはまずないない。同じことをしても、男を見逃しても女に対しては徹底的に懲罰を加えなければ気がすまないといったタイプの人間はまだまだ多い。

ヒラリーの「悪名」を一躍轟かせたあのクッキー発言にしても、文脈をふまえれば専業主婦を馬鹿にしたものでもその生き方を否定したものではなく、女性にも多様な生き方があるべきだといった程度のものであるが、右派はここぞとばかりに叩きまくった。

「むかつく女だ」、トランプは公然と言い放ったが(ついもれたものではなく、「受ける」という確信があっての計算づくの発言だろう)、もしヒラリーが同じような感情的言葉をトランプに向けていたら、いったいどうなっていただろうか。
保守的なジェンダー観を持つ人間にとって、ヒラリーは絵に描いたような「むかつく女」である。頭が切れて弁が立ち仕事も優秀、そして何より野心を隠さない(ちなみにミシェル・オバマも頭が切れて弁が立ち仕事も優秀な弁護士であるが、彼女のファースト・レディーとしてのイメージ戦略は明らかにヒラリーを反面教師にしたものだ)。野心を持たない男など「女々しく」て嘆かわしい、野心を持つ女など虫唾が走る、このような感覚は今でも根強い。ヒラリーが感情を隠せば冷たい女だと言われ、感情を表せばやはり女は女だ、政治には向かないとされる。

あの「ドヤ顔」の作り笑いは散々揶揄の対象とされてきたが、いくら言われてもやめることができなかったのは、どちらを向いても中傷される中であの表情に追い込まれたということだったのだろう。皮肉なことに、大統領への道を断たれた敗北スピーチがヒラリーの過去最高の演説だともされた。これは、彼女が「希望」や「夢」を伝える積極的なメッセージを発する能力が欠如している政治家であったというのではなく、権力の頂点を目指す女性政治家という立場から外れるまで、がんじがらめにされ、その能力を充分に発揮することができなかった結果だったようにも思えてくる。

こういった状況を長年見続けてきた民主党幹部は、ヒラリー・ロダム・クリントンをなんとしても大統領にしたい、いや、そうすることで社会を変えなくてはならないのだと考えるようになり、冷徹な計算ができなくなったということだったのかもしれない。


逆に冷徹に計算をめぐらし続けることができるのが経済保守の富裕層だということが、今回改めて示された。ひたすら「小さな政府」を求める経済保守にとって、妊娠中絶や同性婚の禁止などどうでもいいことだろう。「政府はできるだけ小さくあるべきだ」として富裕層への課税強化、環境や銀行の過度の投機的行動への規制などは徹底的に否定しながら、個人の選択に委ねられるべきことに政府がずかずかと立ち入り介入することは平気で認める。「金持ちを守れ、金持ちがひたすら栄え、貧乏人が野垂れ死ぬ社会にしよう」などと訴えたところで集票には限界があるが、宗教保守を煽れば票は簡単に手に入る。倫理的問いや論理的整合性など気にも留めない、これこそが保守/右派の「強さ」の秘訣である。とにかく権力を手に入れさえすれば、あとはどうにでもなる。白人の偏見や不安に付け込み、それを煽ることで票を稼ぐというのは共和党が南部や中西部で長年に渡って行ってきたことだ。トランプの戦略もその延長線上にあり、今回それがついに北部でも有効になってきたことが示されてしまった。

トランプが大統領になれば経済は滅茶苦茶になると言われたが、富裕層やウォール街は本気でトランプ大統領誕生の阻止に動いたのだろうか。確かに献金等は過去と比べると控え目であったが、しかしヘッジファンド等の人脈はトランプ陣営にしっかりと食い込んでいた。ウォール街からカネをたんまりもらっているとヒラリーを罵倒し続けたトランプは、殊勝ぶった勝利演説で金融規制強化を否定し、私はあなたがたの味方だとウォール街にウィンクしてみせた。「市場」はそのメッセージをしかと受け取り、株価は一気に上昇した。


一番おそろしいのは、トランプが政権運営に行き詰ったり、支持率の大幅な低下が起こった時に、批判をかわすためにカードとして差別を持ち出すことだ。こうなれば大統領自らがヘイト・スピーチを行いヘイト・クライムを呼びかけるという異常な事態にもなりかねない。権力を保つための「賭け」としてはあまりに危険なものであるが、共和党を長年支えている勢力ならば、健康のためなら死んでも構わないという人間よろしく、リベラルが権力を持って社会の流れを変えるのを目にするくらいなら、世界が滅ぶ方がマシだとすら考えているのかもしれない。

「ヒラリーもトランプも同じくらいひどいからトランプが勝とうが別にショックはない」だの「トランプ当選のショックによって人々は目覚めるはずだ、むしろこれはチャンスなのだ」などと寝言を並べ立てている人は、ヒトラーが政権を握ろうとしていた時にドイツ共産党が何と言っていたかを思い起こすべきだ。ちょっとしたショックが起こったところで人が目覚める事例は少ない。むしろより深く蒲団に潜り込み、自己正当化に走り現実から目を背け、落ちるところまで落ちてようやく気がつくことになるが、そのような事態は何としても避けねばならないことも歴史が与えた教訓であったはずだ。


この選挙結果にショックを受けるなんて馬鹿らしい、アメリカなんてもともとそんな国だろ、という冷めた意見もあるだろう。僕もアメリカの文化、社会、政治などに多少なりとも関心があるので、その歴史においてとんでもないことが平然と行われてきたことも知っているし、嫌なところや駄目なところも人並みに認識はしているつもりだ。

トマス・ピンチョンは、黒人奴隷にとって運命を分ける線となることをそうとは知らずに引いた二人の人物を主人公にした『メイスン&ディクスン』において、「建国の父」たちを胡乱な、暗い影をもたらす人物として描いた。しかしピンチョンはまた、「もう一つのアメリカ」を、緑溢れる可能性に満ちた「ヴァインランド」を幻視し続ける作家でもある。スティーヴ・エリクソンが『きみを夢見て』で描いたように、アメリカは惑い、よろめく。それでも前進していくのが(象徴としての)「アメリカ」なのである。「もう一つのアメリカ」とは現実の国家であるアメリカ合衆国を指すのではないが、やはり合衆国と深く結びついているものであり、それはまた様々な意味で世界に強い影響を与える存在でもある。そのアメリカが踏ん張ることが出来ずに、惑い、よろめいたあげくに倒壊してしまうことになるかもしれない、それほど危機感を与える出来事でありながら危機感が薄かったことが、さらに不安をつのせていくのである。

もっとも、若年層の投票行動を見ればそこまで心配する必要はないという声もあるだろう。むしろ若年層の投票行動を考えると日本の方がはるかにヤバいのでは、と言われるとまさにその通りで……


21世紀における民主主義の最大の敵

ロバート・アルトマンのドキュメンタリー『ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』を見ていたらこんなニュース音声が挿入されている場面があった。

「トルドー首相は教会指導者と会談 カナダはアメリカの徴兵忌避者を受け入れると明言しました」

アルトマンは独立系監督を支援していたためにカナダを撮影地に選び、また『マッシュ』を撮る直前にはベトナム戦争に反対であったことからカナダ移住を考えたこともあったそうだ。

この「トルドー首相」というのはもちろん現カナダ首相ジャスティン・トルドーの父親のことである。これを見たのは数ヶ月前のことで、面白いなあと思ってメモしたもののそのまま放っておいたのだが、全く笑えない状況でこのエピソードを思い出すことになるとは。


今回のアメリカ大統領選の結果は全く予想していなかったし(後知恵込みでいうと投票直前に楽観論が広がったことになんだか嫌な予感はなきにしもあらずであったが)、ほんとうにショックで、気を紛らわせるために何か書かないことにはということで。


トランプ勝利の原動力となったのは見捨てられた白人ブルーカラー層で、彼らの絶望的な状況をエスタブリッシュメントが汲み取ることができなかったためにこんなことが起きたという説明のされ方をしていくことになるのだろう。確かにそれは間違いではない。間違いではないが、全てでもないことを押さえておかなくてはならないし、それこそが僕がショックを受けたことであった。

ニューヨークタイムズのこちらの記事にあるように、2013年に出たShelby County v. Holderの最高裁判決の影響というのは間違いなくあっただろう。ものすごくざっくりまとめると、事実上選挙人登録(アメリカでは投票するためにはこの手続きしなくてはならない)の際に差別的な嫌がらせをすることを州が合法化するのに道を開いた判決である(今回の選挙でさらにおそろしいのは、上院も共和党が勝ったため最高裁がさらに保守化するおそれが強いことだ)。
またワシントンポストのこちらの記事にあるように、選挙人登録などでトランプ支持者は1920年代のKKKさながらの嫌がらせを行っていたという。

つまり少なからぬ白人をトランプ支持へと駆り立てのは紛れもない人種差別意識であったということなのである。トランプによってこのような状況が作られたというよりは、このような状況を見て取ったトランプがこれを利用したとすべきかもしれない。「黒人の大統領になど耐えられない、メキシコ人がでかい顔をすることなど許せない、次は女の大統領? そんなことは絶対に阻止する!」、このようななメンタリティがここ数年で急速に広がっていたのだろう。一連の警官による黒人射殺事件もこれが表れたものだとすることもできるのかもしれない。

Shelby County v. Holderの判決が1965年の法律を事実上修正したものであるように、少なからぬ白人の意識は公民権法以前に戻ってしまったかのようだ。これは単に選挙の勝敗だけではないショッキングな状態であり、民主党関係者からすれば「まさかここまでの広がりを見せているとは」ということだったのかもしれないし、僕もこのことに愕然としている。

選挙人登録の際の嫌がらせの実例を知りたい人はキング牧師と公民権運動を描いた『グローリー/明日への行進』をぜひ見てもらいたい。映画の冒頭がまさにこれを描いたもので、アメリカの差別主義者の常套手段なのである。FBIが公民権運動を敵視し、キングの女性関係などを盗聴し脅迫していたことも描かれているように、FBIが差別主義者に加担するというのもまたおなじみの光景といえばそうだ。この作品を撮ったエイヴァ・マリー・デュヴァーネイは黒人女性監督であり、オスカーが「真っ白」であったことを厳しく批判していたが、比較的リベラルなはずのハリウッドですらこの状況であったのだから、他は推して知るべしという状況はすでにこの頃にはあったともできるだろう。

最近思うところあって『風と共に去りぬ』を見返してみたのだが、トランプ支持者が取り戻したい「偉大なアメリカ」とはこのような世界なのかもしれない。「騎士道精神」溢れる「古き良き南部」がヤンキーどもに蹂躙される。その実態は奴隷制に支えられたおぞましいものであるが、南部の貴族的白人富裕層にはそう写っていたことだろう。
黒人奴隷がその身分を受け入れ白人に唯々諾々と従っていれば温情をかけることにやぶさかではない。しかしそこを踏み越えれば激しく憎悪を燃やす。黒人がヤンキーと組んでビジネスに乗り出したり、ましてや政治的野心を持つなどということなど断固として容認できない。「ヤンキー(北部人)」を「リベラル」に置き換え、黒人にメキシコ人を加えれば、トランプ支持者の一部の傾向と重なるところが多いだろう。

もちろん「ワシントン」への不信と不満というのはそれこそ民主党員のジョンソンへの不満、共和党員のニクソンへの不信からクリントン対ブッシュの時のロス・ペロー現象など一貫して根強いものであるし、さらにクリントン夫妻というのは非常に脇が甘い政治家であることも確かだ。このあたりも大きく作用しているであろうし差別問題が全てだというつもりはないが、しかし重大なファクターであるわりには軽視されているという印象があるし、その軽視こそがトランプへの追い風となったのではないだろうか。


ということでメディアではあまり語られることはないだろうが、やっぱり引っかかっていることなので以下はポール・セローのインタビューを基に書いたこちらのほとんど繰り返しになるが。

セローはトランプ支持者は銃の見本市に集まるような連中で、とりわけ南部の貧困状態にある白人は被害妄想をつのらせ、もはや共和党すら信用していない、そしてこのような心情はマサチューセッツのようなリベラルは州のホワイトカラーの白人共和党員にすら広がりを見せていると語っている。
これはまさに実体験に基づく適切な意見であろうが、強調しておきたいのはトランプとテレビとの関係である。

ここ約50年ほどの共和党は「経済保守」と「文化保守」という、本来異なる価値観を持つ両者が「リベラル」という共通の敵を前にして共闘している。「共闘」というよりは、極端な経済保守が手っ取り早く動員できる文化保守を利用しているとすべきだろう。もちろん共和党にも穏健派はいるのだが、そういった勢力が伸張しそうになると、経済保守は宗教や差別カードを切って文化保守を動員し、共和党を右へ右へと引っ張っていく。トランプの言っていることはティーパーティと大差ないし、ティーパーティの言っていることは90年代の共和党を象徴するギングリッチと大差ない(このあたりは『バーニー・サンダース自伝』を読むとよくわかる)。そしてこれらの種を播いたレーガンは「福祉の女王」をはじめとして白人による差別感情を煽る手段をとることを厭わなかった。トランプが「新しい」とすれば、より直接的に文化保守にアウトリーチしたことだろう。セローが言うように、共和党は長年に渡って「犬笛」を吹いてきた。共和党主流派は「差別的」な言動を繰り返してきたのだが、「差別的」ではなく差別そのものを口にするトランプは、より「本音」を語っているように写ることになる。

トランプ支持者について調べると、実際にはアッパーミドルや富裕層も多数含まれているとされる。とりわけヘッジファンド系の富裕層にとっては、金融の規制強化や金融取引への課税といったことを避けるためにも、是が非でも民主党大統領を阻止したかったはずだ。つまりトランプ現象とは特殊なものというよりは、経済保守と文化保守が「共闘」してリベラルに敵対するという、いつものパターンにより近いのではないだろうか。トランプは一見すると労働者に寄り添っているようで富裕層への目配せもしている。共和党支持層はだいたいにおいて党に忠実で、そこに普段は選挙に行かない層が乗っかったという形になったということかもしれない。

とはいえそのバランスはやはりこれまでとは異なるものでもあるが、それを可能にしたのがテレビであろう。
トランプという存在は日本でいえば石原慎太郎と橋下徹を掛け合わせたようなものである。差別発言を繰り返しながらメディアはそれを正面きって批判することに及び腰であり、またトランプはテレビタレントでありテレビコンテンツの製作者でもある。トランプはどういったロジックを使えばテレビの視聴者が喜ぶか、どこまでの差別発言がテレビ局に許容されるかを身を持って学習してきた。

民主主義は何もかもを多数決で決めることではない。某氏が名前を知らないといった芦部信喜は、人権を制限するような憲法改定はたとえ多数派の意志であっても認められないと主張したが、僕もこれを強く支持する。トクヴィルはアメリカを見て、民主主義に潜む多数派による専制という危険性に警戒心を抱いたが、これを防ぐのが憲法であり三権分立であり人権である。つまり差別を煽って票を稼ごうとする人物は民主主義の外にいるのであり、民主主義の担い手はこれと対決することが義務なはずだ。そのタガが外れてしまったことが、この結果だろう。

アメリカのテレビは「おいしいネタ」としてランプの発言を垂れ流し続けた。「テレビに出ている」というだけで何か正当性があるかのように感じる人がいるし、テレビの露出が多いというだけで支持者が集まってしまうことは、半年前には自民党支持者にすらその存在が忘れられかけていた小池百合子をワイドショーが大量に露出させることで何が起こったのかを見れば、日本でも証明されている。

いや、日本でも証明されているというよりは、日本で証明されていたこと(小池のやったことは小泉のコピーであり、橋下にとって石原の振る舞いはロールモデルであったことだろう)がアメリカにも伝播したとすべきだろう。トランプ当選はアメリカのテレビの日本化の産物だ。

トランプの側近にはロシア利権を持つ人物が複数おり、トランプ自身もロシアで一儲けしようとたくらんでいたともされる。ロシアは民主党へのハッキング攻撃でトランプを援護し、これを受けてトランプはロシアに対してさらなるハッキングを呼びかけた。まともに考えれば無茶苦茶な状態なのであるが、アメリカのテレビはトランプとロシアとの問題を掘り下げてきちんと報じることはほとんどなかった。

ワシントンポストはかなり頑張ったし、ニューヨークタイムズもそれなりにやったが、今回は予備選から本選を通じ、アメリカのテレビが気概を見せたことはなかった。これはアメリカのテレビに限られたことではなく、BBCを見ていても、差別発言を公然とする人物が権力の座に近づいているという危機感などなく、まるでスポーツイベントでも楽しむかのような調子であった。今回の大統領選挙は政治のエンタメ化の成れの果ての姿であり、その「最先端」を走っているのが日本である。

「地上波のテレビはもうオワコン!」なんてことを言う人がいるが、実際には新聞の存在感は大きく低下し、ネットメディアの広まりは限定的(基本的には同質的な人の中にしか響かない)という状況で、政治的な影響力という点では地上波のテレビの一人勝ち状態になっている。

21世紀における民主主義の最大の敵は地上波のテレビであった、なんてことが言われないように、テレビに関わる人には最低限の良識と気概を持って欲しいのだが、思いつくままに適当にこんなことを書いているうちに、なんとも絶望的な気分になってきて……


敵は緊縮策である

イギリスの政治・社会事情に通じているわけでもなく、ただの印象論ではありますがちょっと思ったことをダラダラと。


イギリスの国民投票によるEU離脱については様々な角度から分析できるだろうし、その作業がなされていくことと思うが(ウェールズにおいて離脱票が多かったというのは政治学というよりはむしろ心理学の領域かもしれない)、投票から数日たっても、もちろん様々な経緯が絡んでのことであるとはいえ、やはり最大の要因はナショナリズムと排外主義によるものだったのではないかとの印象は強い。

アメリカでの「トランプ現象」は共和党自身が種を播き水をやってきたことの結果だとの指摘は多い。イギリスではサッチャー時代にすでに、労働者階級に対して移民が職を奪う、移民が社会保障を食い散らかす、移民に厳しいのは保守党だという働きかけがなされていた。今回の国民投票では年齢が高くなるほど離脱派の割合が多くなっていっているが、これはサッチャーに票を投じ続けた人々が眠れる記憶を呼び覚ましたということだったのかもしれない。

そもそもデヴィッド・キャメロンは先の下院選挙において、スコットランド国民党の伸張を受けて、労働党に投票することはスコットランドを失うことだとイングランドナショナリズムを煽り、さらに国民投票を公約に入れたのも、保守党よりさらに右のUKIP票を削るための選挙戦略でもあった。この戦略は「成功」を収めたのだが、キャメロンにとって誤算だったのは、恥知らずにもナショナリズムを掻きたてた自身よりもさらに厚顔無恥なボリス・ジョンソンがこのムードを利用し、キャメロン追い落としを図るという挙に出たことだろう。

離脱に投票した人々は「エリート」や「インテリ」が右往左往することに溜飲を下げたかったというような見方もあるが、これではまさにエリート中のエリート、特権階級もいいところのジョンソンが中心的役割を果たした離脱運動に引かれていったことの説明がつかない。ジョンソンの特異なキャラクターのせいもあろうが、トランプ支持者と同じように「見たいものしか見ない」という層が着実に育っていった状況をジョンソンらが利用して首相の座を奪おうとしたというところではないだろうか。

今回の国民投票で特徴的であったのは、右から左まで、資本家から労働者階級までほぼあらゆる層にとって不利益をもたらすであろう決定がなされたことである。こちらに書いたように、アダム・スミスは「金持ちや権力者を崇敬」するような傾向は社会の道徳感情を蝕み、さらには資本主義の利点まで腐食させていくことになることを懸念していた。国家という強い存在と同一化し、富裕層と対峙するのではなく手っ取り早く叩ける移民にその標的が向かった結果、資本家にとってすら不利益をもたらす状況が生まれたのであった。

もちろんジョンソンはそんなことは百も承知で大嘘をつき煽動を行ったのだろう(離脱派のキャンペーンに誠実さという文字はない)。このように少なからぬ部分が保守党内部における権力闘争という「政局」にも起因していたものでもあろうが、それを実行に移させたのは労働党の弱体化でもあろう。政治的混乱が吹き荒れ、大不況がやってこようとも、(自分が率いる)保守党が選挙に負けることはないという確信が、ジョンソンにはあるのではないか。


イギリスにおいて教育・医療・住宅といった問題が、とりわけ労働者階級を直撃していることは確かだろう。しかしこれらは移民によってもたらされたものではなく、近年の保守党政権によって押し進められた緊縮策の結果であり、保守党がナショナリズムや排外主義を煽るのはこの事実から目をそらさせるための策略でもある。

今回の国民投票において労働党はほとんど存在感を発揮することができなかった。
緊縮策という病』にも書かれていたように、そもそもEUは緊縮を志向するドイツの「オルド自由主義」をその政策の基盤に置いている。もっと俗な言い方をすれば、非常に「ネオリベ」的である。ジェレミー・コービンはもともとがEU懐疑派であり、彼が残留運動に力が入らなかったのも当然のことなのかもしれない。

一方でEUは、労働者の保護という点に関しては保守党よりは遥かにマシであり、EUという「頚木」が外れれば保守党政権が何をしでかすかわかったものではないのであるが、「ここはひどい所であることは確かだが、あいつらに言いくるめられて向こうに行けばもっとひどいことになるぞ、もっともここにとどまっていても状況はロクに改善されることはなさそうけれど」と言ったところで人を惹きつけることはできないだろう。

さらには労働党は保守党と同じく、あるいはそれ以上に深刻な内部対立を抱えており、メディアの格好の餌食となっている。これこそがジョンソンの楽観の源であろう。

本来ならば、現在の苦境は移民によってもたらされたものではなく保守党政権による緊縮策のせいだという主張を全面に押し出して保守党と対峙すべきであるが、労働党右派はブレア時代の幻想に捉われ続け、コービンら左派はこれを押し戻すだけの力も戦略もないまま手をこまねいているだけである。


ギリシャのシリザについては左右双方から厳しい評価があるだろう。しかし、個人的には早々に政権が瓦解してギリシャは極右の手に落ちるのではないかと恐れていたのだが、意外なほどのふんばりをみせている。
スペインでも選挙があり、イギリスの国民投票の結果の余波なのか、反緊縮を掲げるポデモスは事前の予想ほどには議席を伸ばせなかったが、それでもその存在感は健在である。そしてスペインでは極右は伸張していない。

シリザやポデモスをとりあえずは「左派ポピュリズム」と呼んでおこう。ハンガリーやポーランドなどEU圏内の東欧諸国の多くの極右化はますます進行しており、またドイツやフランスなどでも極右はその勢力を拡大させている。こういった国々には左派ポピュリズムの大きなうねりは見られない。もちろん南欧と西欧、東欧では社会状況も経済状況もまったく異なるので単純な比較はできないが、左派ポピュリズムの欠如は極右の勢力拡大の歯止めのなさにもつながっているとも考えられる(もっともこれは卵が先か鶏が先かということなのかもしれないが)。

アメリカにおいて、バーニー・サンダースの支持者がトランプ支持者と同類だとされるのはヒラリー・クリントン陣営による印象操作という部分もあったので鵜呑みにしてはいけないが、しかしサンダース支持者の一部の言動を見るとそのような傾向は皆無であるとも言い切れない。言葉を代えれば、サンダースがいたからこそ踏みとどまれた人もいたとすることもできるだろう。

もちろんこのような左派ポピュリズムには危うさもあって、民主党予備選終盤でのサンダース陣営によるクリントンへのネガティブ・キャンペーンの質については首をかしげざるを得ないものもあったように、「ダークサイド」に落ちてしまう可能性を孕んでもいる。またイタリアの五つ星運動のように、まさに「右も左もない」、とにかく手っ取り早く受けそうなことならなんでもアリというポピュリズムの極地のような勢力を生み出してしまう危険性も秘めてもいる。


左派ポピュリズムは主要メディアにおいては当然ながら評判が悪く、バッシングを招くか無視されるかのどちらかであろう。左派政党が左派色を薄め、「ビジネスフレンドリー」で「持続可能な社会保障」のための「痛みを伴う改革」も適宜行うという姿を打ち出せば、メディア受けは非常にいいことだろう。しかしそうなれば、わざわざ左派政党に投票する必要はなくなり、労働者階級や貧しい人々がナショナリズムや排外主義など直接感情に訴えてくる保守・右派政党に吸い寄せられていくこととなる。

アメリカでもリベラルがアイデンティティ・ポリティクスなどにばかりかまけていた結果経済的苦境にある労働者の支持を失っていったという指摘もあるが、個人的にはこの手の見方は要注意であるとは思っている。しかしまた、大学教授が大学生に語りかけるように政策を訴えても労働者階級にはまるで響かないという指摘は、無視していいものではないだろう。同時に、苦境にある人々に寄り添うことは大切であるが、因果関係を転倒させて排外主義に惹かれる人々の正当化に陥れば、それこそ保守・右派陣営の思うツボともなる。

世界のあちらこちらから谺する「取り戻す!」の掛け声はなんとも憂鬱にさせられるものであるが、「あんなものに惹かれる連中はトンカツ屋に駆け込む豚の群れのようなものだ」と悪態をついたところでどうなるものでもない。

左派勢力が労働者階級にアウトリーチするためには何が必要なのだろうか。
まずは敵は緊縮策だという認識を、最低限の土台として築き上げることことが重要であり、これができない限り左派は、扇情的な右派にいいようにやられ続けてしまうことになるだろう。
左派は今回の国民投票の結果から大いに学び取る必要があるが、間違った回答を導き出して回り道している余裕はない。もちろんこれはイギリスの左派に限った話ではない。


敵を見誤るな、真の敵は緊縮策である! と、それが言いたくてダラダラ書いてしまいました。



スミスの懸念

「金持ちや権力者を礼賛し、崇敬さえしかねないこうした傾向、さらには、貧しく卑しい境遇に置かれた人びとを、良くて無視、悪くすると蔑んでしまう傾向は……われわれの道徳感情を腐敗させる大きな、そして最も普遍的な原因なのである。」

どこの左翼からの引用だ、と思われた方もいるかもしれないが、これは古典派経済学の父、あのアダム・スミスの『道徳感情論』からの引用なのである。新古典派(やその影響下にある)経済学者などがスミスのこのような倫理的部分を切り捨てているかについて取り上げられることは少なからずあるが、一般に浸透しているとまではいえないかもしれない。

上の引用はトニー・ジャット著『荒廃する世界のなかで これからの「社会民主主義」を語ろう』からの孫引きである。この本はジャットが筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒されながら行った講演に病床で補足したものだ。

ジャットはまたこう書いている。

「スミスにとって、こうした富そのものへの無批判な賛美は、単に願い下げというだけでは済みませんでした。それはまた、近代の商業経済が潜在的にもっている破壊的な特徴の一つでもあって、時間の経過とともに資本主義の長所そのものを蝕んでしまうかもしれない、彼の見方からすれば資本主義が保持し育成しなくてはならない長所を蝕んでしまう恐れがあったのです」(p.33)。

スミスの懸念はここ数十年でグロテスクにも復活してしまったかのようだ。

イングランドでは「新救貧法」が1834年に制定される。ディケンズの『オリヴァー・ツイスト』で、オリヴァーはワークハウス(救貧院)で育ったために「ワーカス小僧」と罵られる。「これこそ今日わたしたちが「福祉の女王さま」などとけなして言うのとまったく同じ気持ちが、一八三八年に表明されていたのです」(p.35)。

二〇世紀の福祉国家は「すべては本人の意思次第、したがって受給資格の規準は懲罰的、というヴィクトリア時代の倫理」から脱したものの、「さて、今日、わたしたちはヴィクトリア時代初期に我が先祖たちがとっていた態度へと立ちもどってしま」ったのである(p.36)。これらがレーガンやサッチャー政権のみならず、クリントン、ブレア政権下において一層進められたのであった。

「福祉の「改革」は、あの恐ろしい「ミーンズテスト(資力調査)を復活させました。ジョージ・オーウェルの読者なら覚えておいででしょうが、大恐慌期イングランドの低所得者が生活保護を申請できたのは、当局が――高圧的調査によって――申請者の蓄えが使い果たされたことを確認した場合だけでした。一九三〇年代アメリカの失業者に対しても、同じような調査が行われました。マルコムXはその回想記のなかで、彼の家族を「チェック」に来た役人のことを書いています――「毎月の福祉チェックで、彼らお役人は遠慮なしだった。我が物顔に振る舞っていた。母としては、できることなら連中を家に入れたくなかっただろうに、それはできなかった。……政府が肉やらジャガイモやら、果物やら、あらゆる種類の缶詰をくれるというのに、母が明らかにそれを嫌がっているのはなぜか、わたしたちにはわからなかった。後になってわたしたちは理解したのだが、母は自分の、そしてわたしたち家族の誇りを護ろうと、絶望的な努力をしていたのだ。誇りだけがわたしたちに残されたすべてだった。と言うのも、一九三四年に至って、わたしたちは本当に困窮し始めたのである。」(pp.37-38)。


2016年に本書を読むと、このあたりはさらに考え込まされることになる。「パナマ文書」は世界に衝撃を与えたとされることもあるが、むしろそのインパクトの少なさにこそ注目すべきかもしれない。ジャットの死の数ヶ月前に誕生したキャメロン保守党政権はイギリスの社会保障制度の破壊をさらに進めている。ケン・ローチの新作I, Daniel Blakeは、病気で働けない身体になったにも関わらず嫌がらせのような仕打ちにより苦境に立たされる高齢者の物語のようだが、これがイギリスの現状を大袈裟にいっているものではないことは、『経済政策で人は死ぬか?』を読むとよくわかる。

非人道的のみならず経済政策としても不合理な緊縮策を押し進めた当事者であるキャメロンの父親がタックス・ヘイヴンを利用し、キャメロンはその資産を相続したのではないかという疑惑は以前からくすぶっていた。キャメロンはこれまでその疑惑を否定してきたが、パナマ文書の流出によりこれを認めざるを得ないところまで追い込まれた。脱法的行為によって利益を得ていたうえに虚偽の説明をしてきたという二重にひどい話なのだが、そのしたことと比べて怒りの声はそれほど高まらなかったように思える。もしこれが、貧困者が違法ではないが脱法的行為により社会保障費をかすめとっていたということが明らかになったのだとしたら、どうだったろうか。怒りはすぐさま沸騰し、瞬く間に法改正が図られることになったのかもしれない。

脱法的行為によって利益を得ていたキャメロンが押し進める緊縮策が受け容れられる一方で、パナマ文書の波及力が「弱い」ままに留まっている状況は、まさにスミスが危惧した「金持ちや権力者を礼賛し、崇敬さえしかねないこうした傾向、さらには、貧しく卑しい境遇に置かれた人びとを、良くて無視、悪くすると蔑んでしまう傾向」が現代の多くの人にとって内面化されていることを表したものだろう。

オーウェルが指摘した、あるいはマルコムXの母が経験した尊厳を傷つける「ミーンズテスト」は日本では過去から現在に至るまで変わることなく行われ続けている。そして日本で近年起こった生活保護バッシングは、スティグマ性を高めることによって申請そのものを抑制する、あるいは「水際作戦」をはじめとする行政側の違法行為を正当化するために仕掛けられたものであることは想像に難くない。

貧しい人はそれだけで「罰」を受けるべきであり、権利を主張するなど盗人猛々しいと感じている人々が、富裕層の脱税に対して生活保護の「不正受給」と同じだけの怒りを抱くのかといえば大いに疑問である。
生活保護バッシングが吹き荒れた一方で、ふるさと納税は富裕層への還付措置に他ならず、そればかりかまさに日本のタックス・ヘイヴンとして機能しているという報道がなされても大きな関心を呼ぶことがなかったのは、日本においても権力者、金持ちに対して「崇敬」の念を抱くこと、あるいはそれらとの心理的一体化が進んでいることをよく表している。


そもそも権力者はそのまま金持ちであることが多いし、直接的に政治権力を保持していなくとも、当然ながら貧しい人よりも金持ちの方が権力に対して影響力を行使できる。貧しい人たちを蔑み、「金持ちや権力者を礼賛」するイデオロギーを作りあげることは、直接的に権力者や金持ちの利益に結びついたもので、人間の「自然」の感情などではなくまさにイデオロギーとして形成されたものとすべきだろう。

しかしそのようなイデオロギーが通用しなくなる時代が迫っていたことがあった。ビスマルクは社会主義者の弾圧と社会保障制度の拡充を平行して行ったが、これは革命を防ぐためであった。この裏面として、かつて共産党は社会民主主義者を「社会ファシスト」と罵倒した。これは社民主義者によって漸進主義的改革が行われれば、革命が遠のくと考えたからであった。

ルーズヴェルト政権のニューディール政策や、第二次大戦後の労働党政権によって進められた「揺りかごから墓場まで」のイギリスの社会保障政策は、政権が保守に移っても基本的には継承されていった。これは福祉国家を堅持することが、当時の保守層にとっても革命を防止するという観点からも利益になると考えられたせいもあろう。

こうして西側資本主義諸国においてさえ、貧困者に対して「懲罰的」な「ヴィクトリア朝の倫理」は過去のものとなったのであった。
しかし革命への幻想が潰え、左翼の退潮もあって、権力者、金持ち崇拝のイデオロギーはサッチャー政権、レーガン政権によって復活を遂げることになる。

幾度か揺り戻りが起こることが期待されることもあったが、保守政権が福祉国家を堅持したかつての姿との裏返しのように、クリントン政権やブレア政権においても貧困者に対する「懲罰的」なイデオロギーの拡大を押しとどめられないどころか、それがむしろ強化されることとなった。

当初は「リベラル」で穏健な、サッチャー的なものとは異なる新しい保守であるかのように装っていたキャメロンが、サッチャー以上に悪辣な社会保障攻撃を繰り広げるようになったのは、臆面もないその姿をさらしても政権を維持できると考えてのことだろう。そして反発を呼びつつも、ほとんど極右と化しながら政権を保っているというのがイギリスの現状である。


何も金持ちの資産を全て奪い焼き尽くせなどというのではない。ただ適正な税金をきちんと納めろという、それだけのことがハードルの高い政治的主張と化してしまっている。
タックス・ヘイヴンを利用している企業や富裕層がまともに税金を払うようになるだけで、世界の少なからぬ問題が解決できるのかもしれない。タックス・ヘイヴンなどによる恩恵を直接的に受けている人々など超のつく少数派であるにも関わらず、民主主義国家であるはずの多くの国で高い関心を呼ぶことがなく、そればかりか貧しい人々の尊厳を傷つける政策がより一層進められていくのは、「富そのものへの無批判な賛美」というイデオロギーのなせる業だろう。

そしてこのようなイデオロギーは、「資本主義が保持し育成しなくてはならない長所を蝕んでしまう」ことにもなる。

企業や富裕層がまともに税金を払い、きちんとした再分配政策を行うことは、長期的には他ならぬ企業や富裕層の多くにとっても利益にも結びつくものでもあろう。労働者も、そして貧困者も消費者であるというごく当たり前の事実を忘れ去り、ひたすら人件費を抑制することによって短期的利益をあげるというのは、タコが自分の足を食べて腹を満たすようなものであり、この結果社会は不安定さを増し底が抜けたような状況へと向かっているかのようだ。

スティグリッツはレント・シーキングの問題に度々言及している。権力者と金持ちのインナー・サークルにおいては利益相反という言葉は存在しない。日本には「政商」という言葉があるが、近年はこのような存在が暗躍どころか、大手を振って公然と活動するようになった。権力への近さが富につながるというのはクローニー・キャピタリズムそのものであり、このような権力者と金持ちとの結合は資本主義をも腐らせることになる。このような歪んだ体制を維持するためには、中間層を含む多くの人に権力者や金持ちとの心理的一体化を高め、貧しい人々への蔑視を広める必要がある。

あのスミスが「金持ちや権力者を礼賛し、崇敬さえしかねないこうした傾向、さらには、貧しく卑しい境遇に置かれた人びとを、良くて無視、悪くすると蔑んでしまう傾向」に懸念を抱いているように、これは多くの人が共闘できる課題であるはずだ。

ジャットの本のサブタイトルである「これからの「社会民主主義」を語ろう」というのは邦訳によってつけられたものだが、今こそこの旗を高く掲げることが求められている時だろう。ケン・ローチのようなガチの左翼にとってはこういった論法は気が進まないものであるだろうし、僕も本来はそっち側の人間であるのだが、そんな悠長なことをいっていられないほど、この社会は深く傷つき、腐敗が進んでいるように思えるのである。





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Author:佐藤太郎(仮)
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