『市民科学者として生きる』

高木仁三郎著『市民科学者として生きる』




本書の刊行は1999年。高木氏はガンにおかされ、その病床で本書を執筆し、2000年に死去。
迫り来る死の予感の中での「自己史」である。
その生涯については当人がコンパクトにまとめている。


私はちょうどその(核分裂現象の発見の年である)一九三八年に生まれ、一九四五年には小学校一年で敗戦を体験した。その後原子核化学を専攻し、約四〇年間「核」と付き合ってきた。その初めの三分の一は、原子力利用を進める体制内の研究者として、残りの三分の二は、大きな研究・開発体制からとび出した、独立の批判者、市民活動家として。(p.13)


生い立ちから東大進学、数学志望が破れ化学へと道を変え、中でも原始核化学を専攻するようになる。
卒業後は、周囲からは大学院に進学すると見られていたが、東芝―三井系の日本原子力事業へ就職する。「当然のコースをはずれてみたい」という気持ちに加え恩師から「核化学をやるなら原子炉のそばで」という言葉も後押ししたという。

当時、原子力産業はまだ産業たり得ていなかった。そして原子力への期待ばかりが先行している感じだった(p.72)

とあるように、理論も技術も手探りの中、「国策」として原発開発がかなり強引に進められていくことになる。
当時を振り返ってこう書いている。

政治的思惑ばかりが先行し、着実な技術的、科学的基盤がないという感じは、当時の現場の雰囲気として強く感じていた(p.73)

就職後は実験の日々、「放射能との格闘」が始まる。当初感じていた放射能への恐怖心は次第に麻痺していき、後輩に「少しぐらいの放射能を恐れていては一人前になれないぞ」(p.80)とまで言うようになってしまう。ここらへんの心理というのは現在進行中の惨状を見ても原子力界隈の人が容易に陥ってしまうものなのだろう。

そんな中出合ったのがグレン・シーボーグのTransuranium Elements 『超ウラン元素』である。
そこにはプルトニウムを作り出した核化学を「現代の錬金術」として自賛してあった。高木氏はそこに昂揚感ともに違和感も憶える。次第に後者が高まっていくことになる。

会社内でも行き詰っていく。
炉水内の放射能の汚染などを調べる実験などを重ねるが、会社が求めていたのはそんなことではなかった。

「放射性物質の挙動は複雑で分かっていないことが多い。もっともっと基礎の研究を固めなくては」と思っても、会社が期待していたのは「放射能は安全に閉じ込められる」「こうすれば放射能はうまく利用できる」ということを外に向かって保障することだったのだ(p.85)。

高木氏は会社を退職し、東大原子核研究所へ、そこからさらに都立大へと移る。
次第に学生時代から感じてきたが流してきた違和感が高じ、三里塚や宮沢賢治との出会いから「自前の科学」後に「市民の科学」と呼ぶものを目指し大学の世界から離れる。

以降の高木氏の足取りはよく知られたものであろう。
原始力資料情報室の設立に関わり、長く代表を務め、日本における反原発運動の中心的存在となっていく。
ここらへんの経緯も詳しく書かれているが、興味を引かれたのは当時資料室代表であった武谷三男氏とのやりとりである。
武谷氏は「科学者には科学者の役割があり、(住民)運動には運動の果たすべき役割がある。君、時計をかな槌代わりにしたら壊れるだけで、時計にもかな槌にもなりはしないよ」と言った。
これに対して高木氏は「資料室はともかく、私個人はそういう役割であることを拒否したいと思います。少なくともかな槌の心を併せもった時計を目指したいのです。時計は無理でもせめて、釘の役割でもよいです」と返したという(pp.164-165)。

これはなかなか微妙な問題である。
科学者が科学を優先させるがために人間という存在を忘れてしまうというのはしばし起こることである。一方で有能だったはずの科学者が善意から道を外れ、非科学的トンデモ理論へと傾斜してしまうこともまたしばしである。
誤解のないようにいっておくが高木氏は運動を優先させて科学をないがしろにするようになったのではない。両者を架橋することこそが自分の使命であると思ったのだろう。

数式を使えば簡単に説明できることも言葉で説明するのは案外難しい。うまい比喩(例えば放射性物質の廃棄の困難さは「トイレのないマンションである」)に感心すると同時に、ただ「放射能こわい」を連呼するだけというのも否定する。「何故そうなのかという科学的、技術的背景は常に用意しておかなければならない」(p.206)のである。

僕自身本書を読んで高木氏にシンパシーを憶えたのはこの部分であった。
本書の中で自分行動についても、過去のうかつさや迷い、批判なども含めて振り返っている。



この本を読もうと思ったきっかけはもちろん福島での原発事故である。
僕個人があの事故以前にどうであったかといえば、一般論としての原子力には懐疑的ではあった。人間は完璧なものではないし、万が一の事故が起こった時のすさまじい影響を考えると慎重であるべきだし、だいたい放射性廃棄物とかどうする気なの?何千、何万って単位で時間を必要とするものもあるし、その間何事もないなんてことが100パーセント保障することなどできない。
また日本の原子力政策に関しては完全に否定派であった。イデオロギー的なものではなく、行政や電力、並びに関連会社の体質があまりにヤバすぎると思っていたからである。

一方で、もちろん高木仁三郎という名前や原子力資料情報室のことは知っていたが、今頃になって本書を読んでいることからもわかるように、そのような懐疑の念を憶えたからといって具体的に何かをしていたのでもない。
ありがちな「ぬるい否定派」という程度であった。このことは自分自身で忘れてはならいことだ。


今回の原発事故で問われているのは健全な批判精神であり、適切な合理主義であると思う。
諦めや冷笑や無関心や信仰心ではない。

今回の件について、反原発の少なからぬ人が怪しげな知識や伝聞で不安や恐怖を煽っているが、このことはかえって「反原発の人間はやっぱり科学知識のないトンデモ電波だ」という偏見を補強してしまていることになり、浅はかな言動はその点で合理性を欠くものとなっている。
僕自身、反原発を掲げる人がオカルトやスピリチュアルや陰謀論などにどっぷりつかっているのを見てげんなりしてしまった経験が多々ある。

一方で原発推進派というのも著しく合理性を欠いた行動を取り続けてきていたこともふまえなくてはならない。
スリーマイル島やチェルノブイリでの事故の後で世界中の世論がどう振れたかを考えれば、もっとも気をつけなければならないことは原発が大きな事故を起こさないようにすることであったはずだ。
原発が必要だと考える人ほどより安全性に気を配らねばならないはずである。
ところが「原発安全神話」に寄りかかり、福島第一原発の老朽化や地震・津波対策の不備、あまりに杜撰な保守管理体制などが散々指摘されていたにもかかわらず、それらを放置し続けていた。
自らの過ちを見ずに、ただ反原発派に嘲笑を浴びせているだけという連中は強く批判されるべきだろう。

反原発派にしろ原発推進派にしろ、今求められているのは誤りを誤りと認め、分からないことは分からないと認める知的謙虚さであるし、こういう姿勢がない人間は単にイデオロギーにとらわれているだけと見なされても仕方ないだろう。


長くなってしまったがもうちょっと付け加えると本書の中にも気になる部分がいくつかあったのも事実である。

例えば高木氏は宮沢賢治に傾倒することになるのだが、その中で『農民芸術概論綱要』から「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という有名な一節を肯定的に引用している。しかし僕にとってはこの一節は全体主義の肯定にもつながりかねない危険なものに映る(ご存知の通り宮沢賢治は国柱会に傾倒したし、彼の思想の中にファシズムとの親和性があることは否定しがたいと個人的には思っている)。

また「幸福」調査などを持ち出して、経済成長を求めることを戒めているのだが、これは個人の倫理観としてはご自由に、としか言いようがないが、このような言葉が不況の固定化に貢献し、結果として社会的弱者が一番割を食うことになってしまっているのである。まあ99年の時点でこ、まさかこれから十年、さらに経済情勢が悪化するとは思ってなかったのだろうが……

こう見ると高木氏も反原発運動家によく見られる傾向から決して自由であったわけではない。
いずれにせよ、今でも、今だからこそ一読する価値のある本であると思う(けど品切れ?)。
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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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