映画という宿命?


これまた今ごろになってという話ですが今敏監督の『パプリカ』(2006年公開)をようやく見ましたので。



今となってはどうしても『インセプション』(2010年公開)とからめて考えざるをえないわけで。
他人の夢に侵入するという設定もさることながら、ホテルの廊下のシーンでは「クリストファー・ノーランやりすぎw」と思わず笑ってしまった。よくいえば影響下にある、オマージュを捧げたということになるんだろうが「パクリやんけ!」と言われても仕方ないだろうなぁってくらい直接的すぎでしたね。

特に今監督が2010年に死去されたということを考えるといろいろ複雑な思いにかられてしまう。
ただ一方で映画というものにおいて「オリジナル」とはなんなのかということもまた難しいものだとも。
『パプリカ』は筒井康隆の原作は未読なのだが映画を見ると『マイノリティ・リポート』(2002年公開)からの影響というのがかなり強いように感じた。

文学批評などではロラン・バルトなどがテクストを引用の織物として考えることを提唱したが、これは「オリジナル」などというものは厳密には有り得ず、全ては何らかの引用であるとして作者の特権的地位というものを否定したもの……で、いいんだっけ?

赤ちゃんが言葉を話しだすのは周りの大人の真似をして、つまり引用を始めてようやく言葉を使えるようになる。逆に言えば引用なしでは言葉自体が存在し続けることができないという事態になってしまう。

もちろん文学においてもそうなのだが、映画というジャンルはよりその傾向が強いように思える。
例えば「道を何気なく歩く男の様子」というのは実際に道を何気なく歩いている男の引用なくしては有り得ない。言葉もさることながら、映像、とりわけフィクションの映像においては引用というものはどうあっても切り離せない宿命なのだといえる。

ヌーヴェルヴァーグ、中でもゴダールというのはそこらへんに極めて意識的であったし、ゆえにその筋の人がゴダールを語る時には過度なほどペダンティックになってしまうという現象が生じてしまうのあろう。

もちろん、だからといって「パクリだなんだとごちゃごちゃ言うんじゃないよ」などと言うつもりはないし、権利関係なんかは最低限の節度を守っていただきたいとも思うのではあるが、一方でそれが過度になってしまうと創作自体の手足を縛ることにもなってしまう危険性もあるわけで。

どこからがアウトでどこまでがセーフなのかというのは人や作品によってまちまちとなってしまう。
とはいえ今監督といえば『Perfect Blue』(1997年公開)とアロノフスキー監督の『レクイエム・フォー・ドリーム』(2000年公開)のこともあるし。ただ『パプリカ』における悪夢のシーンって『レクイエム』のジャンキー母さんの幻覚からの影響もある気がしなくもない……(一度そういう目で見出すとなんでもそう思えてきてしまう)。
ま、答えのない問題なんだな。


「夢」をモチーフにしたというとどうしても精神分析について考えてしまうのだけれど、なにも夢に魅せられたのはフロイトが最初というわけではない。
聖書におけるヨセフは夢を解読したいという欲望に応えたものかもしれない。
東洋では「これは夢を見ている夢を見ている夢を……」という独我論的不安は「胡蝶の夢」で描かれている。

映画についての解説で、「これは実は映画そのもののメタファーになっているんですよ」という解説がされることが多い。
「夢」を扱った映画はまさにそうであり、それに関わった人の反応が精神分析的であったりするのは「夢」と映画と精神分析の相性の良さなのでしょうか悪さなのでしょうか。


個人的にはなんだかんだで『インセプション』は非常に好きなんだな。確かに欠点はいろいろあるんだけどやっぱこれを実写で見せられるとね。



こんなん作られてるしw







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