『クララの明治日記』

『勝海舟の嫁 クララの明治日記』




まず「はしがき」を参照してクララの足跡を追ってみよう。

クララの父、ウィリアム・ホイットニーはニュージャージー州で実業学校を開いていた。日本にも欧米流の商法、簿記を教える学校が必要だと考えていた森有礼は、ウィィリアムのいとこと知り合いだったこともあって彼に白羽の矢を立てる。学校の経営状態が思わしくなかったウィリアムはこの誘いを受けて一家で日本へ向かう。
ところがいざ来日してみると準備はまるで整っておらず、一家はあやうく路頭に迷いそうになる。この窮状を救ったのが勝海舟だった。海舟は千ドルを寄付し、ホイットニー一家は日本での生活をなんとか始めることができた。
この縁もありクララは勝家の人々と親しく交際する。中でも同い年の三女逸子とは親友となる。

その後いろいろとあった末にクララは海舟の息子梅太郎(正妻の子どもではなく、海舟が長崎で生ませて引き取って育てていた)の子どもを身ごもる。結局梅太郎とクララの間には六人の子どもができる。子どもたちの日本名はいずれも海舟がつけたそうだ。
梅太郎は海舟の鷹揚というかずぼらなところが遺伝したのか、いわゆる甲斐性がないタイプであった。海舟の死によって勝家に経済的に依存し続けることはできないと考えたクララは梅太郎と別れ、アメリカに帰国することを決意する。


日記は1875年(明治八年)、クララが15歳になる直前に日本に到着するところから始まる。
確認しておくと、黒船来航が1853年、大政奉還が1867年、彰義隊の上野戦争が1868年、そして西南戦争が1877年のことである。

はるか昔と思うか結構近いと感じるかは人それぞれであろうが、クララが体験する赤穂浪士の墓に詣でたり、鎌倉の大仏見学に箱根旅行、能を見ては隅田川の花火大会に、なんてことは今でも観光スポットとしてはあまり変わってないかも。

大久保利通暗殺は1878年のことだが、クララは西南戦争の原因を大久保と西郷の個人的いさかいとしている。そして親しくしている大久保一翁は(利通と違って)人望があるとし、徳川政府は「最近不思議に人気が出てきた」ともしている(上p.543)。他にも海舟がいかに立派な人かを説く人がいるなど、クララが勝家と親しいということを割り引いても当時の新政府の不人気ぶりが窺える。

ここらへんのことだけでも興味深いが、なんといっても登場人物がすさまじい。「はしがき」から引用すると「外国人としては、東京、横浜在住の有名人で出てこないものはない」。例えば「アメリカ公使のビンガム、イギリス公使のパークス、ヘボン式ローマ字で今も有名なドクター・ヘップバン、ボアソナード、フェノロサ、グラント将軍」などなど。日本人でも津田一家との会話で幼くしてアメリカに渡った梅子が日本語ができなくなってるのではと心配したり(後に帰国した梅子とは親しくなる)、新島襄が顔を出したかと思えばば内村鑑三の結婚式に出席していたりもする。
この時代の予備知識が豊富な人ならさらに興味深く楽しめたのだろう。

ホイットニー家には福沢諭吉も目をかけるのだが、海舟と諭吉といえば不仲であるともされる。ここらへんも頭に入れておくといろいろ味わい深い。
来日して最初のクリスマスに諭吉はホイットニー家に招待されていたのだが欠席する。まさか勝家の子どもたちが来ていたために……というのはさすがにうがち過ぎで、その後海舟と諭吉が同席している場面も登場する。ここらへんの記述を読むとクララは海舟と諭吉の微妙な関係には気づいていないようである。

長らくクララは諭吉をベタ誉めしていた。
例えば1879年8月の日記では「福沢氏は思想上完全な革命を遂げられた。というのは、洋式の家、洋式の生活様式を捨てられたばかりでなく、もう洋服は召されないし、私たちのような挨拶の仕方もなさらない。しかしあの方は今まで通りの方で、東京の三著名教授(福沢・中村正直・津田仙)の中で一番好きな人である。彼は熊だけれども、やさしい熊である」(下pp.310-311)としている。
しかしそれから間もなく、同年12月には一変する。ホイットニー一家が帰国する際に、先行して出発する父の見送りに諭吉が現れなかったことに過剰なほど腹を立る。
「福沢家の人々がクリスマスのデコレーションを見に三田からやってこられた。子供さんたちはきわめて行儀が悪く粗野で、親切なジョー夫妻に対する行動があまりに私をいらだたせたので、まったく構わないことにして、子供たちや福沢氏にただお辞儀だけをした。福沢氏は父にお別れにこれなかった言い訳を、くどくど述べはじめられたが<富田夫人も憤慨して、福沢家を訪問しなくなった>、私はお辞儀をしただけで一言も答えずさっさと部屋から出てしまった。福沢氏は驚かれたと思うが、父に対して、大変失礼な仕打ちをされたのだ」(下pp.395-396)以後諭吉に言及することはない。
確かに頭にはきたのだろうが、これだけが原因にしてはやり過ぎのようにも思える。もしかするとこの間に海舟と諭吉の関係に気づいたのかも、なんてことを勘ぐってしまう。


話は戻って最初のクリスマスの日、クララは「勝」はCatsと発音するので子どもたちはKittens(子猫)という冗談を気に入ったようだが(上p.102)、ここらへんからもわかるように、この日記の楽しさは少女がつけていたことも大いに貢献している。

これは不満な部分となるのだが、来日時15歳目前ということもあって、クララは日本に対して「文化人類学的関心」とでもいうものをあまり抱いていない。歴史や言葉を学ぶことにはそれなりに熱心なのだが、限られた特権階級の人のみと交際することに疑問や不満を抱くことはない。
日本に到着したその日に、漁船に乗っている人が「素裸」なのに衝撃を受ける。さすがに局部は露出してなかったのだろうが、肌をあそこまで露出するということに大いに戸惑う。また初めて風呂に入るときも、使用人などが平気でウロウロすることに神経をとがらすのだが、ここらへんの日本とアメリカとの裸に対する意識の違いというものを深く考察することはない。
来日当初、町を出歩くと貧しそうな人やら子どもやらが白人の存在にものめずらしげにゾロゾロついてくる事に閉口するのだが、このような庶民がどのような暮らしを営んでいたかということにもあまり興味がないようだ。

同時にこれの利点としては、感情的とも思えるほど忌憚のない人物評もあるし、なによりもかなり特殊な環境に置かれた少女の心の中を覗けてしまうというのはやはり興味を惹かれてしまう。

クララがどの程度「普通」だったかと考えるのはなかなか難しい。
現在から見れば白人、自民族中心的な価値観が垣間見えるが、当時のことを考えればむしろ穏やかなほうなのかもしれない。
一方で、よく言えば信仰心厚い、悪く言えばやや狂信的なところもある。
アメリカ帰りの無神論者だという矢田部良吉が遊びに来て、クララはそれなりに楽しく過ごすのだが、安息日の掟を破ったのだということに気づく。「私の良心を麻痺させたのはきっと悪魔だったのだろう」(上p.242)と、冗談めかしてではなくどうも本気で書き残していたりもする(ちなみに当時の日本は1と6のつく日が休みという決まりだったようで、これが日曜が休みに変わるということにクララは喜ぶ)。
一度帰国したホイットニー一家が再来日するのには母や子どもたちの信仰心から来る使命感も作用していたようだ(父のウィリアムは再来日の途中に客死してしまう)。

海舟の子どもたちは、一時は宣教師になろうと決意する梅太郎をはじめ何人かがキリスト教徒となり、海舟自身にも「自分のヤシキに教会をもっている、という評判が長いことたっ」たという。ホイットニー一家が帰国中も勝の「ヤシキ」では小さな集会が続いており、門には「ヤソキョウ」という表札もかけていたというが、これが事実なら海舟もまんざらではなかったのかもしれない。
津田仙(梅子の父)から「勝氏は今は未だ受け入れられてはおられないが、やがてクリスチャンになるだろうと言わ」れて歓喜する。クララは海舟のような影響力のある人物がキリスト教徒になってくれればと願う。
「ヤシキの人たちは皆改宗するであろうし、ここに教会をもちたいという我々の心からの願いもかなえられるであろう」(下pp.481-482)
ここらへんは「純粋」な信仰心からなのかもしれないが、キリスト教に限らず信仰というものを持たない僕のような人間からすると少々ぞっとしてしまったというのが正直なところでもあるのだが。

日記のもつ性格もクララのキャラクターを難しくさせる。
なかったことをあったと日記に書くのは少数派だろうが、あったことをあえて書かなかったり、出来事や心の動きなどを歪めて記することもある。
例えば教師としての父親の仕事は順風満帆からは程遠い過程を辿ることになるのだが、一緒に暮らしていたとは思えないほど父親の記述が欠けていたりする。
特にクララの場合、この日記が後に公開されることを意識しているフシがあるし(実際こうして刊行された)、小説を書こうとしていたりもするだけになおさらである。

「信仰心が厚い」というと性的には保守的なことが連想されようが、「書かれていない」ことから推測するに、クララは異性に対してむしろ結構積極的だったのではとも思わせるところもある。
例えば来日してすぐにアメリカ時代からの知り合いの中原国三郎と仲良くなるのだが、それにしてもというくらい行動を共にする。中原が結婚したかもという噂を聞いた時のぷんすか具合からすると気があったと考えたほうがよさそうであるが、そうとは書かれていない。
クララの前にはストーカーまがいの行動を取る人物が何人か現れるのだが(先に名前を出した矢田部もその一人)、向こうからしたら「そっちがその気にさせたんじゃないかい!」ということなのかもしれない。
日記によると当時の日本の上層階級では結婚前の若い男女が親しくするということはないという習慣だったようで、クララのあっけらかんとした男性への態度が「男の勘違い」を招いたのかもしれないが。
このように行間を読んでいくというのも覗き見の楽しさをなかなか高めてくれる。
それにしても百年越しでストーカー的行為を暴露されるというのも辛いよのう。

梅太郎はクララより4歳年下である。二人の出会いはクララ15歳、梅太郎11歳の時であろうが(日記に登場するのはもう少しあと)一体いつクララは梅太郎を「男」として意識したのだろうか。ちなみに二人は1886年にいわゆる「できちゃった結婚」をする。
残念ながら日がたつにつれ日記が丁寧につけられることはなくなり、二人が結ばれたあたりはすっぽりと書かれていない。また日記はクララが最初の子どもを生んだところで終わっており、海舟爺様が「青い目の孫」にどう接したかというところもわからない。
ホイットニー家は一時帰国し、約二年後に再来日するのだが、83年にクララは19歳となった梅太郎に再会し、彼ががキリスト教徒となり、みちがえるようになっているのを喜ぶ。もしかするとこのころもうすでに、いや出会ったころから実は……なんて妄想をいろいろ膨らませたりしちゃったりして。


と、なにせ大部なものでいちいち感想を書き出していけばきりがないのだが、それにしてもこんな魅力的な題材、なぜ今までドラマや映画になることがなかったのだろうか(それとも知らないだけでされていたのだろうか)。今これをやるカネがあるのはNHKくらいなものだろうが、ぜひとも『クララの明治日記』を映像化してもらいたいものである。
思わず吹き出してしまうようなユーモラスなシーンや、涙なくしては読めないようなところも満載なのですから。

例えばこんな場面はどうだろうか。
海舟の次女孝子の息子の玄亀はクララのお気に入りだ。「クララさん」だの「おクララさん」だのとまとわりつく。
1880年の新年早々やってきた玄亀はこう話しかける。「クララさん、どうしてそんなに鼻が高いの。ああわかった、外国人だからだね。でも僕のみたいにかっこよく低くしたいなら、ただ『ぼくぼく』って言えばいいんだよ」そして「見えないほど小さい自分の鼻を、小さな人差し指でトントンと叩」き、「でも小さい時にこれを知らなかったから、きっとこうしたんだね。『ぼくぼく』」なんてことを言いながら小さな鼻をつまみあげる玄亀のかわいらしいことといったら!(下p.401)。

あるいは83年2月の大雪の日のこんな場面。
「正午頃には雪はやんだ。間もなく得体の知れない種々雑多ななりをした男の子や女の子の群れが、勝家の門からヤシキの広い空き地に現れた。そこでその子たちははめをはずして大笑いしながら、猛烈に雪つぶてを投げあった。一方は勝家の若奥様が、女中たちに囲まれて攻撃の指揮をし、他方は梅太郎が男の子の一隊を率いていた。(中略)それは面白い眺めで、見物人も雪合戦に加わっている人たちと同じくらい大笑いした」(下pp.448-449)。

しかしこの場面は微笑ましいだけではない。
海舟の長男小鹿(ころく)はアメリカで海軍兵学校の留学を終えて帰国した快活な青年として登場するのだが、この頃にはすっかり体調を崩し、「発作」を繰り返すという有様で、医者からも匙を投げられていた。
「勝家の若奥様」とは小鹿の妻のおたてのことであろう。クララはおたてを「日本に来て今までに会った人たちの中で一番の美人」(下p.436)としている。「今日の午後に小鹿さんの奥様が来られ、木挽町から持ってきた大きな背の高い雨水を入れる水槽は、私の風呂桶かときかれた。高い円筒形の水槽なのにまったく滑稽である」(下p.447)なんてちょっと天然入ってたりもする。
そのおたては、翌84年には病を得て、7月に満二十歳で死去する。死の間際に会ったクララの兄によると「私はこのようなことを信じます。私はキリスト教徒です」と言って意識を失い、そのまま亡くなったという(下p.537)。小鹿はこの日だけで「発作」を三回も起こしてしまう。

このころは医療事情のせいで、かなりあっさりと人がバタバタ死んでしまうのですが、ちょびっとしか登場しないものの、おたてのなんと不憫なことよ!なんて思ってしまった。

結局小鹿はもう少し生きることになる(とはいえ父海舟より先に逝く)。そして再婚して子どもをもうけ、その女の子の娘婿として徳川慶喜の十男精(くわし)を迎え、この精が勝家の跡取りとなったりするのだが、それはまた別のお話。


訳者のひとりの一又民子さんは海舟の曾孫にあたる(次女孝子の孫。ところであのかわいい玄亀はどうなったのだろう)。その一又さんはアメリカを訪れクララの末娘(つまり海舟の孫)ヒルダと会う。その時ヒルダが着ていたのは「クララが杉田家を訪問したさいに見せていただいた婚礼衣装で、同家の長男武さんがクララが結婚するときにあげると約束したもの」で、杉田夫人も同じ約束をしていたという。当該ページをのぞくと確かにある! 
「食後に婚礼衣装を見せていただいた。(中略)どれもとてもすばらしく美しいものだった。よしさんと私はこの着物を着せてもらって、貴婦人のようにお辞儀をしたり、気取って微笑したりして部屋の中を歩きまわった。武さんは私が結婚する時に一枚くださるとおっしゃった」(1877年11月。上p.424)
「杉田夫人からご自分の結婚式のお話をうかがった。すばらしく美しい衣装<これは私の結婚式の時にくださるとおっしゃった>をお召しになり、提灯や箱や槍を持った男たちを先頭に、腰元を従えて駕籠に乗って行かれたそうである」(1878年1月。上p.458)。
わざわざ念押しするとはよほど気に入っていたのでしょうね。

「私は杉田家の二人がきちんと約束を守られ、その結婚衣装が百年余りの間アメリカで大切に保管されていたことに感動した」(下p.556)。
どうです、ドラマのオープニングシーンにぴったりじゃありませんかね。

それにしても文庫刊行時の96年、ヒルダは百歳で存命中だったとは!



あら、こんなのもあったのね。読んでみようかな。



海舟の伝記はやっぱりこれなのかな。この本で興味を持って『クララの明治日記』を読んでみたのでありました。厚いよ!





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