『「壁と卵」の現代中国論』

梶谷懐著『「壁と卵」の現代中国論』





本書は俗流中国論とは一線を画した、多様でバランスのとれた中国論になっている。
著者の専門は現代中国経済論であり、その専門性が活かされた不動産バブルをめぐるEUと中国の違いや、現在のアメリカと中国の深く絡み合った経済システムの分析があり、また中国経済への歴史的アプローチもなされている。
それだけにとどまらず、広い視野をもった考察もなされている。西洋と東洋、人権や国際的援助のあり方について、民族とネーション、都市と農村の関係、貧困や格差など、これらは中国の問題であると同時に地球規模の普遍的問題でもあろう。

なかなかに興味深い議論が展開されているのだが、これにはまた少々複雑な気分にもさせられる。「中国」を切り口にこれだけ多様な議論ができてしまうことは、それだけ俗流中国論がはびこる要因でもあるのだろう。
中国は現実的にも比喩的にもあまりに巨大であり、そこからなんでも引き出すことができてしまう。中国をダシに使えば何でも語ることができてしまうということにもなってしまう。


タイトルに使われている「壁と卵」とはもちろん村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチからきている。
村上春樹は欧米のみならず中国語圏でも多くの読者を獲得している。これについて、「村上文学の特徴である喪失感が中国でも共有されているため」というような解説をする人もいるが、著者はそのような安易な説明には飛びついていない。

「壁」とは圧倒的な力を持つ国家や軍隊に代表される「システム」であり、「卵」とはその「壁」によって破壊されていく脆くよるべない個の比喩であると理解していいだろう。そして村上は自分は「卵」の側につくと言うのだが、これを「壁」=悪、「卵」=善という二項対立による図式的勧善懲悪に単純に還元することはできない。「システム」は「重層化」されているのである。

地方都市の女子大生が騙されて「嫁」として農家に売り飛ばされ、村ぐるみで監禁・虐待される映画『盲山』が例としてあげられている。観客は哀れな女子大生に感情移入し、村人に怒りを憶えることだろう。しかしこのような作品を見る人々は「中国でも一定の教育水準を持つ層に限られ」ている。女子大生に感情移入している人たちは、そこに「実は農村からの出稼ぎ労働者を「野蛮で教育がない」として差別する者たちのまなざしと紙一重であることに気づいてはっとすることになる」。
被害にあう女性は「大学生」であり、彼女は「はっきりした自分の考えを持った「こちら側の人間」」であり、彼女の「人権」が侵害されていることに対する怒りは「農民たちを「人でなし」(=あちら側の存在)とみなして排除する姿勢を必要とする。そこには無垢な「告発者」の立場は存在しない」(p.234)。

マイケル・ウィンターボトム監督のドキュメンタリー、『グアンタナモ、僕達が見た真実』では、中国国内での差別からウイグル人コミュニティのあるアフガニスタンにふらりとやってきた若者が、「テロリスト」としてグアンタナモに送られるという出来事が描かれる。グアンタナモで過酷な扱いを受けるが、それでも彼らは「中国に強制送還されるよりましだと思った」と口にしているという。
ここにおいて「システム」を、そびえたつ一枚の「壁」であると単純に考えることはできなくなる。

著者は村上春樹はこのような「非ヨーロッパ後進国に普遍的な現象とも言うべき、「近代化」にともなうシステムの重層化に関わる問題を、その内部に深く抱え込んでいる」とし、これが中国でも「絶大な人気」を集める理由であるとしている。小山鉄郎を引用しつつ、村上は「都会的かつポストモダンなイメージが一部で強い」が、そこには「アジア的なもの」、「近代化されえないもの」も深く抱え込まれているとしている。

村上作品には「邪悪なもの」が頻出するが、それは二つの系列に分類できるとしている。一つは「やみくろ」に代表される「近代的なシステムの「外部」にある、不確実および超越性、といったものを体現した存在」であり、もう一つが「いわば近代的なシステムの「内部」に巣食うものである」。後者は「本来は「外部」から自分たちを守るために構築されたはずのシステムが、いわば過剰防衛によりその暴力を内部に向けるようになった結果生じたものだ、と理解することができる」(p.240)。

この後者の例として「五反田君」や「綿谷ノボル」がいる。彼らは「ほぼ例外なく現代の高度資本主義社会にスマートな適応能力を示す優等生」である。「近代的で画一化されたシステムが社会全体を覆おうとするときには、そこから排除されるものが必ず存在する。そういったシステムに適合不可能なものを「邪悪(異質)なもの」として排除することによって、排除しようとした自らが「邪悪なもの」に転化してしまう。こういった、近代化自体の持つねじれた性格を、「システムとそれに適応する個」という構図で、小説世界の中で繰り返し描き続けてきたのが、村上春樹という作家なのではないだろうか」(p.241)。

このような村上作品の理解は世界的にも広く共有されていると思うが、著者はこれをさらに中国という観点から深めていく。ここで似たような考えをした思想家として竹内好の名をあげている。
竹内は「「近代化のゲームのルール」に優等生的に順応しようとし、その結果近隣アジアへの高圧的態度を見せるようになっていく戦前の日本の思想を、奴隷を解放するのではなく、自らが奴隷の主人となろうとするものだ、として厳しく批判し、そこに一連の侵略戦争につながる根源的な「原罪」のようなもの(=「邪悪さ」)を見出そうとした」(p.241)のである。竹内の場合、その結果として「毛沢東時代の中国を高く評価」することになってしまうのだが。

村上作品(特に初期)には中国人がよく登場する。ここでの中国人は「慎重にステレオタイプを避け」るという「フェアな姿勢」が見られる。「<中国人>ないし<中国>が村上の小説世界の中における完全に「内部」の存在として扱われていることを示している」と解釈できるとしている。
では『ねじまき鳥クロニクル』における残虐な「蒙古兵」はどうであったのだろう。芝山豊の「村上春樹とモンゴル」を参照しつつ、これは「全く異質なものとして描かれている<アジア人>」であるのではないかとしている。
村上が中国語圏において圧倒的に支持されていることは、また「「中華世界」の「外部」としての「遊牧民の領土」を代表するものとしての<モンゴル>が、そのまま村上の小説世界の「外部」として設定されている、ということと表裏一体」であることなのかもしれない。

「村上の中国と中国人に対するフェアな視線、あるいは日本の侵略戦争に対する内省的な視点は、恐らく戦後日本の良心的な姿勢を正統的に受け継ぐものであった。だがそれは同時に、その「外部」に位置する周辺民族へのアンフェアな視点を内在していたのかもしれない、という点は、きちんと指摘しておくべきだろう」(p.247)。

これは日本の「良心的知識人」が「中国の少数民族問題に対して最近まで示していた無関心さ、また現在においてその問題が語られるときの難しさとも対応しているだろう」。
竹内は戦前には中国の「回教徒」について、これを宗教問題ではなく民族問題としてとらえ、積極的に発言していたが、戦後は「おそらく戦前の日本による中国大陸の諸民族への関心が、軍事的侵略と不可分であったことの反省から、そういった中国国内の民族問題への発言を封印してしまう」のである。

このような竹内の姿勢に代表されるものは、欧米諸国が植民地支配の建前として「啓蒙」を掲げていたことを考えると、必ずしも日本と中国の関係に限られたことではないのかもしれない。
同時にまた、本書では触れられていないが 村上において彼の中国への関心が父親の戦争体験に由来していることは間違いなく、竹内や村上親子のみならず、そのような個別的経験というものを切り離すこともできないであろう。

うまくまとめられなかったもので長々と引用を繰り返してしまったが、中国について考えるということは、普遍的な問題を考えるということであり、また同時に個別的な問題ともなっている。全てを普遍的問題に回収してしまうことはできないしするべきではないし、まただからといって過度に個別的体験に結び付けてしまうことも同様だろう。一般論としてはあらゆる問題がそうであるとも言えるのだが、日本において中国について考えるときには、その要素はとりわけ強くなるのかもしれない。
中国について語るときに我々は実際には何を語っているのだろうか、なんてことを考えつつ。



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Author:佐藤太郎(仮)
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