『男性・女性』再訪

『男性・女性』(1966年公開)



映画そのものへのオマージュ、直接間接の引用の数々、ジャンプカットに代表される編集テクニック、そして売春や階級対立への関心といったように、手法においても主題においてもいかにもゴダールという感じである。同時に、前に見たのはかなり昔のことで、そのころはゴダールの伝記的事実なんかを大まかにしか把握していなかったのだが、多少なりとも知識が増えてフィルモグラフィなどと合わせて考えると、あのころとはまた違った見え方がしてくるようでもあった。

なぜ見返したのかというと『トリュフォーの手紙』にて引用されていたトリュフォーによるゴダールへ宛てた決別の手紙の中で、トリュフォーが『男性・女性』を作品としては評価しつつも、彼にとって分身にして息子同然でもあるジャン=ピエール・レオーへの演出について触れられていた箇所があったためだ。

トリュフォーは冒頭のカフェのシーンでレオーが「不安と苦痛」を感じていることを見てとり、監督であるゴダールの演出手法がまるで「昆虫を観察する学者の視点のようで息がつまりそうだった」としている。

レオーは俳優としてこの作品に起用される前に『気狂いピエロ』をはじめ数作のゴダール作品において助監督を務めている。ゴダールにとってレオーは弟子のようなもので(これはレオー自らもそう自認している。『気狂いゴダール』を参照)、そのために俳優を心理的に追い詰めることでその内面を引き出そうとするような冷徹な演出を厭わなかったのではないか、トリュフォーの目にはそう映っていたのかもしれない。

しかし改めてレオー演じるポールの描き方を見ると、必ずしもそうとは言えないのではないかという印象も受ける。それどころか、ゴダールはトリュフォー同様にこの作品において、レオーを自らの分身と位置づけようとしていたのではないかとすら思えるところもある。もちろんそこはゴダールらしく、かなり屈折したやり方ではあるのだが。

若きトリュフォーがヤケを起こして兵役に志願し、アンドレ・バザンに救い出されたのは有名なエピソードである。一方のゴダールはスイスとフランスの二重国籍を持っており、兵役から逃れるためにその立場を利用したことは『ゴダール 映画史(全)』において当人も認めている。

『男性・女性』のレオー演じる主人公ポールは21歳で、16ヶ月に及ぶ兵役を終たばかりである。恵まれない家庭の出身であったトリュフォーに対しゴダールはブルジョワ家庭の出身であり、おそらくはそのこともコンプレックスとなり後に政治的に先鋭化していくことにも影響したのだろう。さらには兵役という点についても、ゴダールはトリュフォーに、そしてまた同時代のフランスの若者に対して複雑な思いを抱えていたのかもしれない。
公開時を作品の「現在」であるとするなら、ポールが兵役に就いていた時期にはアルジェリア戦争は一応終結を見ていた。1930年生まれのゴダールがもし兵役に就いていたとしても、年齢的にアルジェリア戦争はまだ本格化していなかったころだろう。それでも、ほんのわずかでも時がズレ、立場が立場なら自分が何を目撃することになったのかということを一度ならず想像したことだろう。

1960年に撮られたゴダールの監督二作目の『小さな兵隊』はアルジェリア戦争をめぐる物語である。スイスを舞台にOASとアルジェリア民族解放戦線との暗闘を描いたこの作品はテーマゆえに長くお蔵入りとなってしまう。ゴダールにとっては時事的な興味もあったのだろうが、またそれだけででもないだろう。執拗な拷問場面があるが、アルジェリア戦争は凄惨な拷問が行われていたことでも悪名高い。この拷問場面において、ゴダールは自分が拷問の加害者に、あるいは被害者になった可能性からそう遠くにいたわけではないのだということは意識したことだろう。
このように、ポールを兵役に就かせたことにゴダールの屈折した思いを見ることもできる。

『小さな兵隊』はまた、ゴダールがアンナ・カリーナをくどきおとして主演に起用し、公私共にパートナーとなった作品でもある。カリーナ演じる役は一見するとノンポリのようでありながら実はアルジェリア民族解放戦線の活動家でもあった。しかしこの作品はまた、カリーナのキュートな魅力をも引き出している。この作品における写真撮影のシーンはゴダールがカリーナを起用できた、そして結ばれることになった喜びに満ちているようでもある。

『男性・女性』の1年後の67年に撮られるのが『中国女』である。すでにアンナ・カリーナと破局してたゴダールはアンヌ・ヴィアゼムスキーを主演に起用する。ゴダール夫人となるヴィゼウムスキーに対して舐めまわすようなクローズアップを多様しているが、これもゴダールの欲望の露出とも考えられる。
『小さな兵隊』のカリーナも、『中国女』のヴィアゼムスキーも、共に政治活動家として設定され、なおかつゴダールは性的な視線を封印するどころかそれを素直に開陳しているかのようだ。

『男性・女性』においてポールが兵役についていたという設定がゴダールの屈折した思いを表しているのなら、ポールの恋もまたゴダールの屈折した思いの表れなのかもしれない。
ポールはシャンタル・ゴヤ演じる歌手デビューを控えたマドレーヌと恋におちる。

『男性・女性』の中で辛辣な視線を向けられるのが、「消費社会の産物との会話」という字幕の後に登場する「ミス19才」へのインタビューである(これは演技ではなく実際にインタビュー形式で撮影されたのだそうだ)。ここで「ミス19才」は政治に対する無知と無関心を披露し(「反動」と「反抗」の意味を取り違えている)、まさに忌むべき資本主義が生み出した醜き消費社会の申し子であるかのように描かれている(それにしても完成した作品を見てこの「ミス19才」はどう思ったのだろうか)。
『小さな兵隊』と『中国女』のヒロインと違ってマドレーヌは政治的存在ではない。それどころか、歌手として成功の一歩を踏み出した彼女はこの「ミス19才」に近い存在ですらあるのかもしれない。ポールはヴェトナム反戦や大統領選挙に向けての活動をしているが、恋の鞘当を繰り広げるこの二人の政治観は釣り合いそうにはない。

『男性・女性』で最も有名なのは、「この映画のまたの題名はマルクスとコカコーラの子供たち」と挿入される字幕であろう。
ゴダールは『男性・女性』を撮るにあたって、「マルクスの子供」となるか「コカコーラの子供」となるのかという決断の時が近づいて来ていると感じていたのかもしれない。
『小さな兵隊』と『中国女』のヒロイン象に代表されるように、ゴダールの好みはコケティッシュな魅力を放ちつつも同時に政治的同志とも成り得る女性であったのだろう。恋人ではないアイドル歌手であったシャンタル・ゴヤを起用した『男性・女性』においては、ゴダールは自らの好みをある程度投影しつつも、同時にポールとマドレーヌとの関係に、今生じつつある齟齬を反映させようとしていたとも考えられる。

ハリウッド映画を崇め、「B級」映画を偏愛した『カイエ・デュ・シネマ』の批評家/監督たちはまさに「コカコーラの子供」でもあったといえるだろう。
68年5月にゴダールと袂を分ったトリュフォーはその後、よりにもよってスピルバーグのSF大作『未知との遭遇』にまで出演してしまう(ゴダールはスピルバーグに拘泥し続けることになるが、これにはかつての親友を取られたという思いもあるのだろう)。ゴダールによるトリュフォーへの度を越しているとしか思えない罵倒は、「コカコーラの子供」を選んだトリュフォーへのアンビヴァレントな思いの裏返しでもあろう。もしかしたら、自分も「コカコーラの子供」たりえたのかもしれない。しかしゴダールは「マルクスの子供」になることを選んだ。

『中国女』は一年後に起こる5月革命を予言したともされる。ゴダールが政治的に先鋭化していくことを思えば『中国女』は「革命」を称揚した作品であると想像する人もいるかもしれないが、必ずしもそうではないだろう。むしろマオイストの浅薄さを冷徹に暴きあげているようにもとれる。暗殺劇の後に憑き物が落ちたようになるところなどは、5月革命において最も急進的だったマオイストの学生たちの多くがその後転向することになることをこそ予言しているかのようでもある。

ゴダールの政治性というのは現在から振り返ると少々奇妙なものであるようにも思える。極左化した後に無反省にシーンに復帰したように見えなくもないが、同時に5月革命におけるマオイストのその後とは違い、転向したうえで反動化したというわけでもない。だいたい60年代末に極左化していくには、当時すでに40歳に近かったゴダールは歳をとりすぎている。これはゴダールの極左化というのが、そのように思われがちな一時の熱狂によって見境がつかなくなったというよりは、もっと意識的に選び取られたものであり、ゆえにより(必要以上に)過激になっていったということなのかもしれない。キルケゴール的な「あれかこれか」の実存主義的選択を下さねばならないのだと思いつめていたかのように(ゴダールは年齢的にはサルトル的な実存主義の影響を強く受けているであろうし、その極左的行動はどこかサルトルを思わせるところもある)。

商業映画から離れる68年までのゴダールの作品がとりわけ魅力的であるのは、それは映画が「マルクスとコカコーラの子供たち」であることが可能であると思われた、その可能性を見せてくれているためなのかもしれない。しかし『男性・女性』のころ、ゴダールはその子供たちは最早兄弟として共存することはできないのではないかという不安にかられはじめ、そして決断を下さねばならないと感じ始めていたのかもしれない。

トリュフォーは『男性・女性』のレオーが「不安と苦痛」を感じているかのようだったとしているが、実はこれはレオーの内面から滲み出たものではなく、監督であるゴダールの不安と苦痛が投影された結果であったのかもしれない。
ポールはマドレーヌをくどいたり、親友と下卑た冗談を言い合うことに喜びを感じているが、この恋が実ろうとも満たされることがないであろうこともまた感じていたことだろう。ポールの最後はあっけないものである。それは女性たちの証言のみによる死。「マルクスかコカコーラか」、ポールはその決断を下せずに無様なフェイドアウトを遂げるしかなかったということなのだろうか。
ゴダールのその「不安と苦痛」を感じとることのできなかったトリュフォーは、ゴダールからするともはや別々の道を歩むしかないように思えてきたのかもしれない。ゴダールのトリュフォーに対する振る舞いは、再び同志となることを望んでいるというよりは、あえて関係を回復せずに距離を置きたがっているかのように思えなくもないものであった。


……と、まあこんなことを長々と書こうと思って書き始めたわけではなかったものでいろいろとピント外れの思い込み感想であるとは思いますが、何が書きたかったのかといえば「ドワネル将軍」の登場には涙を禁じえないということなのです。「アントワーヌ・ドワネル」シリーズは『大人は判ってくれない』に始まるジャン=ピエール・レオー主演のトリュフォーの自伝的連作であり、「ドワネル将軍」はレオーを借り受けたゴダールの友情溢れる目配せであるわけだが、これからわずか2年後には絶交し、7年後には激烈な最後の手紙のやりとりを行い、そのまま和解することなく永遠に別れてしまうなどということをこの作品公開時に誰が想像していただろうか。しかしその萌芽は、この『男性・女性』の中に確かに存在していたのではないかということもまた、感とることもできるのかもしれない。


久しぶりに見ると結構暗い話だったんだなあ、という気にもなってしまったのだが、昔見た時はこれほど暗いという印象を受けなかったのは、一つにはゴダールの伝記、フィルモグラフィー的に結びつけて見ることがなかったからでもあるけれど、もう一つにはこのシャンタル・ゴヤの歌ですよね。使われ方も本当に素晴らしい。







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佐藤太郎(仮)

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