『小津安二郎と戦争』

田中眞澄著 『小津安二郎と戦争』




本書は小津安二郎の網羅的伝記ではなく、少年時代と戦争体験に主な焦点が当てられている(小津自身が記した「小津安二郎陣中日誌」も収録されている)。
僕は小津の伝記的事実に対して詳しくなかったものでいろいろと興味深かった。

小津は宇治山田中学生時代に「稚児事件」で停学処分をくらっている。おそらくは巻き添えをくらった「冤罪」であったようだが、なぜそのような立場に追いやられたのだろうか。小津は後々まで処分にかかわった舎監を許さなかったためこの舎監は小津の伝記においては悪者扱いされがちなのであるが、実際には「そんなに評判の悪い教師ではな」いばかりか、「卒業生たちが懐かしく回想する先生として、第一に指を屈する人物であった」そうだ。
一方の小津はといえば後輩たちの評判は芳しくなかった。二年後輩のある人物は小津を「時々、腕力をふるうこの暴君」とし、小津が受験に「見事にすべった」際には「いつもいじめられていた下級生は、やんやのかっさい」があったことを回想している。
小津は「男色」に関しては「冤罪」であったかもしれないが、日頃の素行不良っぷりが舎監に目をつけられていたために連座させられたといった感じだろうか。それにしても受験に失敗して下級生から「やんやのかっさい」がわくってどれだけ嫌われてたんだか。


小津は1936年に招集され、中国戦線に送られる。所属した中隊は「毒ガス使用を前提とした部隊」だった。小津は戦場にライカを持参するが、これは「きわめてまれではあるが、例がないわけではない」そうだ。同じく中国戦線に送られ、27歳で野戦病院で急性腸炎のために死亡することになる山中貞雄もコンタックスを持参していたようだ。小津はライカで戦地で再会した山中との写真を撮り、それは本書にも収録されている。「これが山中のコンタックスだったら――その写真は山中その人と同様、日本に帰還することはなかったかもしれない」。

小津はすでに映画監督として知名度もあり、メディアから取り上げられることも多かった。ここらへんは知っていたもので、勝手にそれほど危険な場所には送られなかったのではないかと思っていたのだが、必ずしもそうではなかったようだ。
ここで注目すべきはむしろ、小津が具体的な戦闘などを書き残すことがあまりなかったことかもしれない。小津は「もっとも過酷な強行軍」の後、日記に「あるくことハたゞ意志の力だつた。歯を喰いしバつて黙々とあるきつゞけた。山中ハ歩兵だつた。これは山中の供養だと思つた。」というような記述もあるが、手紙などでは「ユーモアやしゃれっ気を忘れない」のであった。

では戦争の現実から飄々と逃避していたのかといえばそういうわけでもないのだろう。友人への手紙で「慰安所」が作られたことに触れ、「慰安所心得」を書きうつしている。また日記にも湖北省応城で慰安所での「慰安券」、コンドームの配給、「半島人三名支那人十二名」といったことや料金や規則についてこまごまと書き残している。また「陣中日誌」には「対敵士兵宣伝標語集」を延々と筆写している。

このあたりの小津の心理というのは図りかねるところでもある。戦争体験に基づいて映画を撮ろうという構想もあり、いくつか試みられてもいることを考えると記憶を完全に閉ざそうとしたというわけではないだろう。一方でその過酷な体験を積極的に語ろうというわけでもなかったような印象も受ける。
戦争を直接体験した表現者はそれを積極的に作品に描こうとする人と直接的な言及を避けようとする人とにはっきり分かれることがある。小津の戦後の作品は、明らかに戦争の影を漂わせつつも明示的に描くことには慎重であるようようにも思えるという微妙な感じであるが、このあたりも小津個人の戦争体験が尾を引いているのだろうか。


小津は除隊後には「軍報道部」付きでシンガポールに渡り、ここで日本国内では見ることができなかったハリウッド映画を見まくったというのは有名なエピソードである。シンガポール時代には俳句にもいそしんだようだが、1947年に受けたインタビューでこんなことを語っている。
「やがて終戦となり、向こうの収容所に入り、帰還するまで労働に従事しいていました。ゴム林の中で働く仕事を命じられ、そこに働いているあいだ暇をみては連句などをやっていました。撮影班の一行がその仲間なんです。」
個人的に面白かったのはこれに続く部分である。「故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある。われわれには、とても勉強になりました」。

寺田は1930年ころから映画についてのまとまった文章を発表し始めていた。それは「よくある文学側からの我田引水的で客観性を欠いた印象批評ではなく、映像の芸術としての映画の本質にかかわる問題提起だった。それだけに彼の所説は映画の専門家からも注目されたのである。寺田の映画論の核心は「映画のモンタージュ技法は、連句の構成に似ている」という着想にあった」(p.133)のだそうだ。

寺田は実際にこんな文章を書いている。孫引きだが引用してみる。
「映画の工学的映像より成る一つゝのショットに代はるものが、連句では実感的心像で構成された長句或は短句である。さうして此等の構成要素は其のモンタージュのリズムによつて或は急に或は緩やかなる波動を描いて行く、即ち音楽的進行を生ずるのである」。

「此のやうに、映画の画面の連結と連句の句間の連結とは意識水準面の下で行はれるときにはじめて力学的な意味をもつのである。例へば水面に浮かんで居る睡蓮の花が一見ばらゝに散らばつて居るやうでも水の底では一つの根につながつて居るやうなものである」。

寺田が映画好きだというのはどこかで見聞きした覚えがあったのだが、「日本の伝統である連句と、ソヴィエト映画が発明したモンタージュ技法の意外な組み合わせ」のような高度な映画理論を展開していたとは。「そんなの常識だろ、んなことも知らなかったんかいな」ということなのかもしれないけれど。

寺田の映画についての文章の一部は青空文庫にもありますね(こちら)。キンドルを持っている人はいくつか0円でダウンロードできるようです。全集だと八巻。




それから、本書を読み終えた後に目を通した「新潮」2013年4月号に山城むつみによる「蘇州の空白から 小林秀雄の「戦後」」が掲載されていた。この評論は小林が1938年に中国、朝鮮へと派遣されて書いた従軍記事を精読し小林の思考を辿りながら、また初出であった「文藝春秋」がページが破り取られるという形で検閲されていたことが判明し、その内容を探るという構成になっている(一部はこちらで読める)。
小林は「慰安所」を訪れた体験について書いていたが、「残念ながら削除処分のため「蘇州」はその慰安所の記述がほとんど読めない。しかし、検閲官の目に「皇軍の威信を失墜せしむる」と映っていた箇所は、いずれも小林が慰安所を正確に写生している箇所であることに注意しよう」とある(p.131)。
小津にしろ小林にしろ、同時代の人間にとっても「慰安所」という存在はかなり異様なものと映ったからことが窺えるし、また検閲官にとってはその「正確な写生」は「皇軍の威信を失墜」させることであるという認識がなされていたのであろう。

陸艶の「小林秀雄 「蘇州」をめぐって」はこちら(PDF注意)。
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