『コズモポリス』

ドン・デリーロ著 『コズモポリス』





クローネンバーグが映画化ということで『コズモポリス』を再読。


ポール・オースターに献辞が捧げられているが、これは多分深読みの必要はないだろう。
エピグラフにはズビグニェフ・ヘルベルトの詩から「ネズミが通貨の単位となった。」という言葉が使われているが、こちらはこの作品のまさに核心を表すものである。

エリックは全てを手にしているかのようだ。資産運用会社を経営するたたき上げの大富豪、妻は名家の資産家の娘である詩人。しかし28歳の彼は、部下である二十歳そこそこの天才的中国人チンと話していて自分が歳をとったのだということを感じ始めてもいる。
エリックは詩を読み、自分の住むビルの階数が素数であることに喜びをおぼえるが、これらは彼が美を解する人間であるというよりも、金融屋独特の神経症的であるようにさえ映る。


経済学を多少なりともかじったことのある人ならば、現在において金本位制が優れているなどということは決して思いはしないだろう。しかし少なからぬ、いや多くの人は金本位制(的な発想)を好む傾向にある。これはおそらく、「カネ」というものには何らかの根拠があってしかるべきだということなのだろう。「カネ」が単なる媒介物(medium)であってはならないのだ、と。

『ホワイト・ノイズ』はテレビを中心としたメディアが我々の日常から最早切り離すことはできないということが描かれている。「ホワイト・ノイズ」はあまねく広がっている。眠れない夜中に、ふと冷蔵庫のモーター音が気になりだすとそれが耳の奥底にまでこびりついてしまうかのように、耳をふさぐことはできない。デリーロにとって「カネ」という媒介物をテーマにすることは当然のことであったのだろう。

2000年4月のニューヨーク、エリックは幻覚とも妄想ともつかない奇妙な体験を立て続けに重ねていく。これらの支離滅裂とも取れる出来事に貫かれているのは、「見る」という意識と「見られている」という意識の分離不能性だろう。エリックは反グローバリゼーションのアナーキスト集団に襲撃されるが、むしろ彼らにシンパシーすら抱いているかのようだ。これは「カネ」という「ゼロ記号」への感覚の共振なのかもしれない。同じものを右から見るか、左から見るか。


妻について、エリックはこう考える。「彼は理解し始めた。彼女の美しさとは二人で作り上げたものなのだ。二人で共謀して虚構を作り出し、それが相互の行動と喜びに役立ったのだ」(以下引用は単行本から p.89)。

ある人物は「私たちは金儲けという技術について考えたいのよ」と語る。「ギリシャ語にはそれを表す言葉があるの」と。
「「クリマティスティコス」と彼女は言った。「でも、この言葉に少し幅をもたせないといけないわね。現在の状況に当てはめるの。だって、お金というものは方向転換したでしょ。すべての富は、富のための富になってしまった。それ以外の巨万の富というのはなくなったの。お金はその物語的な性質を失った。ちょうど絵画がずっと昔にそうなったように。お金はそれ自体にしか語りかけなくなったの」」(p.96)。

エリックは円が安く振れるほうに莫大な投資を行う。しかし彼の予想は市場によって裏切られようとしている。
「「どこか深いレベルでは秩序というものがあるんだよ」と彼は言った。「人に見られることを求めているパターンが」/「じゃあ見なさいよ」/彼の耳に遠くから群集の声が聞こえてきた。/「ずっと見てきたさ。でも、今回は捉えどころがないんだ。俺のブレーンたちも足掻いてきたけれど、もう降参ってとこだ。俺もずっと取組んできた。寝ても覚めても格闘してきたよ。何か共通する外見があるんだ。市場の動向と自然世界のあいだには類縁関係があるんだよ」/「相互作用の美学」/そうだ。でも今回、俺は疑い始めているんだ。それが見つからないんじゃないかって」/「疑い。疑いって何? あなたは疑いなんて信じていない。そう言ってたわよね。コンピュータの力は疑いを消去する。あらゆる疑いは過去の経験から沸き起こる。でも過去は消えつつある。かつて、我々は過去を知っていて、未来のことは知らなかった。それが変わりつつある」と彼女は言った。「我々は時間に関する新たな理論を必要としているの」(p.106)。

マルクスの『共産党宣言』からのパロディである「幽霊が世界に取り憑いている」と叫ぶ人々。
「市場文化というのは総合的なものだわ。それはこういう男女をも生み出しているの。彼らはシステムにとって必要なのよ。彼らが軽蔑するシステムにとって。彼らはエネルギーと定義を与える。市場に動かされているの。世界市場で取引されているのよ。だから彼らは存在しているの。システムを活気づけ、永続させるために」(p.111)。

「「アナキストたちが常に何を信じてきたかわかるでしょう」/「ああ」/「言ってみて」/「破壊しようという衝動はクリエイティヴな衝動である」/「これは同時に資本主義的思想の特質でもあるわけね。強制された破壊。古い産業は容赦なく抹消されなければならない。新しい市場は強制的に生み出されなければならない。古い市場は再開拓されなければならない。過去を破壊せよ、未来を作り出せ」(p.114)。

相容れないかのような存在が実は手に手をとりあっている。金本位制(的世界)への固着、物語の失効、カネを支える根拠の喪失、これらはまたカネをただカネとして増殖させるという躁病的強迫観念とも結びついている。我々は常に見られているし、見る/見られるという関係の共犯性すらも意識から消すことはできない。残されているのはノスタルジーへの逃避であり、身体性の確認である。エリックの運命はすでに決していた。


という感じで、『ビデオドローム』でメディアと身体性などをめぐるテーマを扱ったの監督でもあるクローネンバーグがこの作品を映画化するというのは当然のことであるようにも思える。さて映画は如何。



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Author:佐藤太郎(仮)
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