「アレックス三部作」再訪

ここ十数年に渡って、「自分は本当にレオス・カラックスのことが好きなのか」という疑念にかられ続けていた……というと大袈裟だが、まあとにかくこのような思いというのがあったことは確かである。
『ポーラX』は期待しすぎて何がなんだかわからなくなってしまったが、冷静になると魅力はあるにしても手放しで賞賛することは個人の好みとしても難しい。オムニバス『TOKYO!』の「メルド」ではさらに距離が開いてしまったようにも感じてしまった。

カラックスの久々の長編『ホーリー・モーターズ』は批評家筋からの評価も高く、その分だけもしこれが合わなければ……ということを考えるとなんだか恐怖心が湧いてきて、見る勇気がでなかった。とはいえいつまでも見ないわけにもいかないよなあ、というところに早稲田松竹で「アレックス三部作」プラス『ホーリー・モーターズ』がかかるということで今度こそ見てこようと思う。。


以下は『ホーリー・モーターズ』が日本公開された時にアレックス三部作をまとめて見返したので書こうとしたのだが、結局書きかけのまま放置してしまっていたのを、これを機にとりあえずは書き上げたものである。

なおご存じない方のために書いておくと、ドニ・ラヴァン演じるアレックスという役名はカラックスの本名であり、カラックス自身の分身とでもいう存在になっている。


まずは『ボーイ・ミーツ・ガール』から。

この作品はなんといってもデヴィッド・ボウイのWhen I Live My Dreamの流れる中アレックスが夜のパリを彷徨い歩き、ミレーユがオーバーラップしていく場面がもうたまらない。個人的には映画の中で五指に入るくらい好きなシーンである。




作品全体的を見ても23歳でこれを作り上げたというのは驚異としか言いようが無い。この一作によりカラックスは「フランス映画界の恐るべき子ども」の一人に数えられることになる。

『カイエ・デュ・シネマ』の批評家から監督業に進出したという経歴を含め、カラックスといえばすぐにゴダールの名が浮かぶし、作品を見てもその影響を隠そうともしていない。ただ久しぶりにこうしてアレックス三部作を見返してみると、模倣や類似とともに差異も結構大きいのではないかという気もしてきた。


ということで続いて『汚れた血』。



原色を前面に押し出した色彩、ややチープなSFハードボイルド風味、『軽蔑』のミシェル・ピコリの起用、そしてスイス云々と「ゴダール的」要素はさらに強くなっているようにも思える。一方で両者の資質の違いというものもはっきりと表れているようでもある。

『 ボーイ・ミーツ・ガール』は兵役を間近に控えたうえに恋人に裏切られたアレックスと、こちらも恋人とうまくいっていないミレーユとがついに出会うものの、二人は出会うべき時に出会うことができなかった(少なくともアレックス目線では)という悲恋の物語である。この時の溝を埋めようというアレクスの焦りが悲劇を呼び込んでしまう。そして『汚れた血』もまた、すれ違ってしまう男女の物語である。この両作におけるカラックスの恋愛観はロマンティシズムにもとずいているといっていいだろう。

オーソン・ウェルズは24歳で『市民ケーン』を撮った。映画監督を夢見る者は誰しもその年齢までに処女作を撮りたいと思うものだ、というようなことをゴダールは言っている。ゴダールの二十代はといえばお世辞にも輝かしいものとは言えず、トリュフォーをはじめとする「カイエ」の仲間たちから完全に遅れをとっていた。二十代の終わりにようやく撮ることができた『勝手にしやがれ』には確かにある種のロマンチックな恋愛幻想が存在しないわけではないが、あくまでそれは幻想であることが示される。その結末は非常にシニカルなものであり、もっといえばミソジニー的であるとさえいえるだろう。ゴダールの「焦り」はカラックスによる青春の懊悩とは明らかに異質なものである。

カラックスは23歳(!)で処女長編を撮り成功をおさめる。もしゴダールが同世代であったなら嫉妬で呪い殺していたのではないかというほどの華々しいデビューを飾った。ついでにいうと『ボーイ・ミーツ・ガール』のミレイユも『汚れた血』のジュリエット・ビノシュもカラックスの当時の恋人であったのだが、カラックスみたいな感じの男ってたとえ成功してなかったとしても結構モテそうだ。それに引き換えゴダールはといえば……というところでもある。

ゴダールにも甘いロマンティシズムがないわけではない。『小さな兵隊』ではアンナ・カリーナを口説き落として主演として起用する。『小さな兵隊』での写真撮影シーンはアンナ・カリーナを手にしたゴダールの喜びがにじみ出ているようでもある。そして『中国女』では妻となるアンヌ・ヴィアゼムスキーに対して、やはり舐めまわすようなクローズアップを多用する。
『ボーイ・ミーツ・ガール』や『汚れた血』のミレイユやビノシュへのクローズアップはカラックスから彼女たちにあてたラブレターのようでもある(違う恋人に同じことするなよ、とも思ってしまうが)。こう考えるとカラックスはゴダールを無邪気に模倣したようにも思えるが、はたしてそうなのだろうか。

『汚れた血』のビノシュの役名は「アンナ」。アレックスは一目で彼女に惹かれるが、彼女はアレックスの父親の仕事仲間であった父親ほどの年齢の男の恋人なのである。この男を演じるピコリの『軽蔑』での役は、当時のゴダールの心情を反映したものだともされる。この設定はいやがうえでもエディプス・コンプレックスを想起せずにはいられない。しかしこの作品では、アレックスは「父殺し」を行わない。『汚れた血』にはもう一つの親子の葛藤につながりそうな設定が用意されている。敵役である「アメリカ女」から、彼女がかつてアレックスの父親と深い仲であったことを告げられる。しかしここにおいてもアレックスは「直接対決」を行わない。

「父殺し」のモチーフはすでに『ボーイ・ミーツ・ガール』にも登場していた。アレックスのもとに父親から電話があり、もし自分が寝たきりになるようなことがあれば頭にズドンと銃弾を撃ちこめと言うのだ。プロットとは直接関係のないこの場面が唐突に挿入されるが、ここでもこのテーマは深められることはなかった。

アレックスは「父殺し」に失敗するのではない。むしろそれを回避しているようにすら思える。
精神分析風にいうならアレックスは、いやカラックスは「去勢」に失敗したまま全能感を抱えている「子ども」であるのかもしれない。


そして『ポンヌフの恋人』である。



この作品の製作過程については鈴木布美子著『レオス・カラックス』に詳しいが、まあよくぞ完成したものだというほどのトラブル続きであった(同書には写真も多数収録されているが、強風でぐにゃりと崩壊したセットのインパクトはいつ見ても強烈である)。オーソン・ウェルズは24歳で『市民ケーン』を撮り、そしてこの作品で「呪われた映画監督」となってしまった。カラックスはこの『ポンヌフの恋人』によって呪われた監督となってしまうのである。


『汚れた血』でリーズ役に起用されたジュリー・デルピーはカラックスと折り合いが悪く、撮影中の雰囲気もひどいものであった。デルピーは以前にゴダール作品に出演しており、鈴木はこれこそがカラックスがデルピーを起用した理由ではないかとしている。そしてゴダールは二人の仲が最悪だということを知りながらあえて『リア王』で二人を恋人役に起用する。

デルピーはこの撮影をこう振り返っている。「ゴダールの撮影現場では、うぬぼれの強い人ほど辛い思いをするのよ。例えばこんなことがあったわ。あるとき、レオスが小さな声でボソボソ話すと、ゴダールは『君の撮影があんなに時間がかかるのは、君の声が小さくてスタッフに伝わらないからじゃないかね』って皮肉を言った。レオスは何も言わずに黙ってしまったわ」(『レオス・カラックス』p.183)。

ちなみにデルピーはゴダールとの相性は良かったそうだが、まあゴダールにも撮影中の鬼畜エピソードなら山ほどあるんですけどね……。

閑話休題。ここでゴダールは若く未熟なカラックスの父親役をあえて演じているようにも思える。逆に考えるのなら、安心して父親役を演じられてしまうほどカラックスに対して脅威を感じていなかったということなのかもしれない。つまり、「こいつは父殺しなどできない奴なのだ」ということを見抜いていたのかもしれない。

六〇年代ゴダール』にはカラックスとは対照的なゴダールのエピソードが登場する。『ポンヌフの恋人』は制作費が大幅に超過し、それがスキャンダルとなるほどだった。一方のゴダールはといえば予算だけは律儀に守り通しているのである。もちろんこれはゴダールが生真面目で誠実だからではなく、映画を撮り続けるためにはそうするのがベターだという判断からだ。『レオス・カラックス』に収録されている91年に行われたインタビューで、カラックスはすでに『ポーラX』となる作品の構想を語っているが、これを撮るまで実に8年もの歳月を要することになる。そして次作の長編までにはさらに……という憂き目に会う。おまけに実生活においても、『ポンヌフの恋人』撮影過程でのあまりに子どもじみた振る舞いにビノシュは愛想をつかしてカラックスのもとを去ってしまう。

『ボーイ・ミーツ・ガール』や『汚れた血』は文句無く好きだと言い切れるのだが、『ポンヌフの恋人』については魅力的なシーンが多々あるとは思うものの、大好きだと言いきるにはいささか躊躇してしまう部分もある。やはりあのとってつけたかのようなエンディングを全面的に肯定することは難しい。

己の肉体以外何も持たないホームレスのアレックスは、皮肉なことに愛を知ってしまったがためにミシェルを「所有」したいという欲望が昂じることになる。アレックスは愛するミシェルのために彼女の幸せを願うのではなく、自らの手元に置いておきたいという思いに囚われてしまう。ある事件の後に再会を果たすが、アレックスは依然としてこの所有欲から覚めてはいないことが示される。
『カラックス』収録のインタビューでは、構想としては確かにこの所有欲にケリをつけるつけうような結末が考えられていたようだ。しかし完成したこの作品では、アレックスの妄念とでもいうべきものが解消されることなく、ハッピーエンドに回収されてしまっている。

莫大な制作費を回収せねばならないという製作陣からのプレッシャーとビノシュの希望もあって、カラックスはハッピーエンドへと結末を変更する。結果としてその「完璧主義」によって、カラックスの構想とは異なる結末が強いられてしまったのである。映画というジャンルにはそういったことがつきものであるし、それがかえって功を奏したというケースも多々ある。しかしやはり「呪われた」作品らしく、『ポンヌフの恋人』の結末はひどく締まりのなにものとなってしまっていると、個人的には感じている(とはいえミシェルの最後の絶叫はやはり鳥肌ものだが。ところでこの時のビノシュのセリフ問題って「目覚めよ」ではなく「まどろめ」で解決ということなのだろうか。確かに「まどろめ、パリ!」の方があのシーンの文脈からは合っているが)。

『ポンヌフの恋人』は「父殺し」とまではいかなくとも、「父親越え」のチャンスでもあった作品だったのかもしれない。
ゴダールは60年代後半から政治的に先鋭化し、ついにはパレスティナの人々を発見する。これはゴダールが現実に目覚めたというよりも、パレスティナという地理的にも心理的にも遠い人々は抽象化された存在であり、アンビヴァレンツにならざるをえない女性とは違い、ロマンティシズムの対象とすることが可能であったためだろう。ゴダールがフランスなりスイスなりで抑圧されている人々のために地道な政治活動をする姿など誰が想像できようか。厳しい言い方をするならこれはいわば「退行現象」、一種の赤ちゃんがえりだったとすることも可能だろう。
またゴダールは売春に深い関心を寄せ、作品でもしばし取り上げたが、これもまた現実のセックスワーカーへのシンパシーや売春という出来事自体に孕まれる暴力性の告発というよりも、抽象化された風俗現象への興味に近いのかもしれない。

その点『ポンヌフの恋人』でカラックスが描いたホームレスの生活はより地に足のついた問題であろう。もちろんケン・ローチのような社会のあり方を問い直すような政治的な映画などカラックスに期待した人はいないだろう。それでもカラックスはホームレスに確かなシンパシーを抱いているように感じられる。これはホームレスが「何も持っていない」ということによるのだろう。自分もあの人たちと変わらないのだという共感、自分もああなるかもしれないという恐怖心、自分がああなったらどのような心理状態になるのだろうかという興味。現実の貧困や失業問題に挑んだわけではないが、かといってただ単に奇をてらった設定だったということではないだろう。

そうではなかったのだろうが、あのようなアレックスによる自己肯定的な物語に回収してしまったことで、単なる「極限の愛」といったチープなロマンティシズムに終わってしまったのではないだろうか。結局のところ、アレックスは「子ども」のままに留まり続けてしまったし、それを招いたのはカラックス自身の子どもじみた傾向にあったのかもしれない。

二人とも車にクラクションを鳴らされ、道路に寝転がったアレックスをミシェルが見下ろすという場面がオープニングと結末近くで繰り返されている。オープニングは陰鬱であり、エンディング近くはコミカルであり、季節も夏から冬へと移っていることを思えば、二人の置かれた状況が全く異なったものになったことを示したともとれる。しかしまた、「成長」のなさを自ら暗示した、円環構造のように思えなくもないのである。


ところで『カラックス』収録のインタビューを読み返していたら、平底船と老夫婦についてジャン・ヴィゴ監督の『アタランタ号』を連想させるという指摘に、カラックスは「ラストシーンのストーリーを思い描いたとき、僕はまだ『アタランタ号』を見たことがなかった。その映画を見たのは撮影の前になってからだ」(p.10)と答えているのだが、『アタランタ号』を見たうえで『ポンヌフの恋人』を見返すとこの発言はちょっと信用できないかもしれない。まあ「撮影前に見た」としてあるので完成したものが明らかに引用めいているとしても整合性は取れているといえばそうなのだが。よく映画監督は「その映画は知らなかった、指摘を受けて初めて見た」みたいな感じのことをよく言うんだけど、こういうのを目にする度に素直になってもいいじゃん、と思ってしまう。
タランティーノなら「そうなんだよ!よく気づいてくれたね」となりそうだが、ダーレン・アロノフスキーあたりだと「何ですか、その作品は。聞いたこともありませんね」とか平然と答えそう。まあカラックスの場合だとあまり素直に、屈託無くなられてもこちらが困ってしまうかもしれないし、そういうキャラクターも辛いといえば辛いのだろうけど。





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