『ヒトラー、ゾルゲ、トーマス・マン』

クラウス・H・プリングスハイム著 『ヒトラー、ゾルゲ、トーマス・マン  クラウス・ブリングスハイム二世回想録』




戦争が終結し、海軍基地横須賀にアメリカ海兵隊員が大挙して押し寄せ、警戒態勢を敷いた。上陸軍からやや離れたところに、「一人の青白いやせこけた白人がつんつるてんの軍服を身に着けて日本軍将校の一団と並んで立っていた」。
「お前は何者だ?」と米軍に同行していた戦時特派員が訊くと、男は「通訳です」と答えた。「判っておる。だが、そんなおかしな日本の兵隊服なんか着て何をしておる? 何故日本軍で働いているのだ?」
「長い話になります」と男は言った……

と、プロローグだけで事実は小説よりも奇なりを地で行くすごい話だということはわかると思う。
英語版の原題はMan of the Worldなので、邦題は脈略なく同時代の有名人の名前を入れ込んだだけのように思われるかもしれないが、この三人は紛れもなくプリングスハイム二世の生涯を左右する存在となったのである。


プリングスハイムというと日本では指揮者、作曲家であり、そして日本で長らく教鞭を取ったことから父親の方が有名かもしれない(ウィキペディアはこちら)。

1931年、日本政府は西洋音楽を教えられオーケストラを作り上げられる人材を求めていた。ドイツ文化省は父のブリングスハイムを推薦する。本書によるとブリングスハイムは気むずかしく短気なところもあり、やっかいばらいという面もあったようだ。夫婦仲がよくなかったこともあってか、プリングスハイムは日本行きを承知し、一人極東の島国へ向けて出発する。

1933年、「誰もがあり得ないと考えていた」ヒトラーが首相になるという出来事が起こる。しかし「ヒトラーの大言壮語を聞いても、ユダヤ人の殆どはそれを選挙用の口実としか受け取らなかったのである。ヒトラー旋風は長続きしない、一年くらいのことだろう、その間に化けの皮がはがれてドイツから追い出されるだろう、そしてドイツはまともな人が統治する国に戻るはずだと考えていたのだ」。

著者の祖父アルフレート・プリングスハイムは世界的な数学者であり、名誉ある地位につき、名士たちとの広い交遊もあった。曾祖父はドイツの鉄道王にして石炭王であり、「知らぬ者のない資産家」だった。さらに父の双子の妹はあのトーマス・マンと結婚していた。ナチスですらプリングスハイム家には手出しできまいと考えられていた。また一族にはユダヤ人以外の血も多く入っており、チェコスロヴァキア出身のバレリーナだった母や姉、兄は洗礼を受けたキリスト教徒でもあり、自分たちをユダヤ人であるとは思っておらず、迫害されることになるなどとは想像もできなかった。
しかし著者の通っていた寄宿舎学校の校長はヒトラーの本質を見抜いており、学校をイギリスに移転することにした。著者もこの時一緒にイギリスに渡ることになる。

日本円が大幅に切り下げられたために、父の給料では学費が出せなくなってしまう。また実家には金はたくさんあるものの、ナチス政権は外貨の制限をし、ドイツ国内の資産を持ち出すことができないために学費が払えなくなってしまう。こうしてプリングスハイムはドイツへ帰国し、英語を忘れないようにとアメリカンスクールに通うことになる。

当時プリングスハイムはヒトラーの主張を「納得」してしまっていたが、12歳年上の姉は「すぐにはっきりするわよ。あんな男信用できないのよ」とヒトラーを批判していた。ローマ・ベルリン枢軸協定が結ばれ、ムッソリーニとヒトラーのパレードがベルリンで行われることになった。姉は皮肉まじりに「あなたも出かけて、覗いてくるといいわ。ヒトラーが、どんな大物かわかるでしょう」と言った。
プリングスハイムは「僕は横で見ているだけで、絶対に熱にはうかされないよ」と言っていたが、興奮した周囲に煽られ、無我夢中のうちに右手を空中に伸ばし「ジーク・ハイル」と敬礼をしてしまうのであった。

ついに「水晶の夜」が起こるが、それでもまだ社会上層のユダヤ人は楽観視していた。姉は一日も早くプリングスハイム家はドイツを出るべきだと主張する。この頃にはプリングスハイムも姉の影響によってナチス政権の実態に気がついていた。兄は日本にいる父のもとへ身を寄せることにした。姉は形式だけの結婚をしてチェコスロヴァキアへ逃れるが、これはすぐにヒトラーがズデーデン地方を併合し、ドイツ系住民をドイツ国籍に移してしまったために徒労に終わってしまう。
プリングスハイムは15歳になり、「帝国奉仕隊」に入る年齢となる。このまま行けば一年間奉仕隊に参加し、その後軍隊に直行ということになってしまう。姉弟は日本へ向かう覚悟を決める。怪しまれないためにプリングスハイムが学業を終える前に、姉弟は日本にいる父を一時的に訪ねるという名目で出国を試みるが、姉はチェコスロヴァキアのパスポートを持っていたことでイタリアの官憲に怪しまれ足止めされ、結局脱出を断念、著者一人で日本へ渡ることになった。

父、兄と日本で合流し、アメリカン・スクールで残りの学業を終える。兄はすでに日本語文化学校を卒業し日本語を身につけ、仕事を始めていた。父は著者にも同じことを求める、というのも日本でのプリングスハイム家の経済状態は余裕のあるものではなかく、家計は厳しかったためだ。著者は学校に通いながら日本人にドイツ語、英語を教えるアルバイトを始め、日本語をある程度マスターすると外国人向けに日本語も教えるようになる。

帝国ホテルには外国の新聞や雑誌が置いてあり、プリングスハイムは暇を見つけてはそこに通っていた。ある日そこで、「君はクラウス・プリングスハイムだろう」と男から声をかけられた。「ゲシュタポのファイルも見たよ」と男は続けた。著者は気が動転したが、男は自分は「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥンクの特派員で、リヒャルド・ゾルゲ博士です」と名乗った。一流紙に優れた記事を寄稿していたゾルゲは東京では誰もが知っている有名人だった。著者は胡乱なものを感じたが、ゾルゲはトーマス・マンの名を出し、握手を求めてきた。プリングスハイム家は富裕な名門一家であり、さらにトーマス・マンとも縁戚関係にあることをゾルゲは知っていた。著者はいくぶんほっとしたものの、ゾルゲの上着の衿にナチスの徽章があるのを見つけた。全ての党員が付けていたわけではなく、党員であることに誇りを持つ者だけが付けているものだ。「あなたを信用できない」と著者は言ったが、ゾルゲはこの抗議を無視した。ゾルゲとはその後五、六回会うことになるが、これによってまたプリングスハイムの運命は翻弄されることになる。

著者と兄はドイツ大使館から兵役の準備のために身体検査を受けるよう出頭命令を受けるが、これを拒否すると、欠席裁判で死刑判決が下される。しかしドイツと日本の間には国民の身柄引き渡し条約がなかったため日本国内で犯罪をおかさない限り身柄が拘束されることはなく、また父が帝国音楽学校の教師であったことから日本政府の心象も良かった。

とはいうもののドイツ大使館からは当然圧力がかかり、仕事はなかなか見つからなくなっていく。日本文化学校では、これから外国語放送を始めるので外国語ができる人材を募集しているという話があったが、将来アメリカへ渡ることを考えていたため断ることにした。他に仕事のなかった日系人にはこれに応じた者がいたが、プリングスハイムはここで「東京ローズ」の一人となるアイヴァ・トグリとも出会っている。

ようやく見つけたベンツの整備の仕事も、ドイツの戦局が悪化したことをナチス政権支持のドイツ人をあてこすってしまうなど、プリングスハイムの口の悪さも災いして失ってしまう。そしてようやく見つけたのがスイス公使館での翻訳の仕事であったが、これも間もなくクビになってしまう。クビになる数日前、父の家の著者の部屋では警察の家宅捜査が行われていた。この仕事は世界情勢を知ることができたため、著者は自室の世界地図に各地の戦闘の結果などを書き込んでいた。これがまるで軍事機密をどこかから入手しているように映ったことは想像に難くない。警察のこの動きが耳に入り、スイス公使館は契約を打ち切ることにしたのだった。

ついに警察に連行される日がやって来る。警察が知りたがったのはプリングスハイムとゾルゲの関係だった。会ったことはあるがそれ以上は何もしらず、白状しようにも言えることなどなかった。著者は独房に据え置かれ、拷問を加えられることこそなかったものの、食料事情は極度に悪化していたために、劣悪な環境の中で過ごすことになる。自分の爪を噛んで食べ、看守が目を離した隙に足のたこをはがして食べるような状態だった。
空襲時には手錠でつながれそのまま放置されたが、防空壕に逃げた看守は爆撃で死亡し、残されたプリングスハイムの方が生き残るということもあった。

ドイツが敗戦すると扱いが変っていった。戦争の終わりについて話されるようになり、ビタミン注射をして著者の体調を回復させることまで始まる。敗戦を見越して、捕虜や囚人の虐待で訴追されることを恐れ始めたのだ。
そして日本敗戦の日を迎え、著者は公平に扱われたという書面にサインすることを求められ、それに同意し釈放される。そしてプリングスハイムはプロローグにあるように、日本軍の通訳となってアメリカ軍と出会ったのであった。


それにしても、ここまで読んできて、この回想録はいささか奇妙なものでもあるという印象を抱かずにはいられなかった。というのも、ヒトラー政権下のドイツに母らが残っているはずのなのだが、著者は戦時中にドイツの家族に思いをはせるという箇所がない。さらには兄も逮捕拘留され、父も軟禁状態に置かれたのだが、父や兄の苦境についても詳述されることはない。まるで家族のことなど思い出したくもないかのように思えて……。


戦後は進駐軍で働くことになるが、プリングスハイム父子はアメリカへ行くことを夢見ていた。そこでアメリカに逃れていたトーマス・マンに援助を求め、快く応じてくれたので、なんとかカネを工面してアメリカへと渡ることにする。マン家に居候を始めるが、いつまでもやっかいになっているわけにはいかないと仕事を探すものの、なかなかいいものにはめぐり会えなかった。結局著者はアメリカ軍に入隊することにする。日本語を身につけているので需要はあるだろうと考え、その通りになるのだが、日本に残してきた恋人に会うために日本行きを希望したものの日本語の成績が良すぎたために日本語の教官にさせられてしまい、日本に行くことはできずに恋人とはそのまま別れてしまう。さらに朝鮮戦争をめぐってマッカーサーを批判したために、アメリカ国籍取得の際にもやっかいな目に合い(このあたりの舌禍癖は父譲りのようにも思えるのだが……)、軍隊生活も続けられなくなってしまう。

退役後も国務省やFBI、CIAなどに職を求めるが、大学に行っていない著者は門前払い、ベルリッツの教師ですら、能力はあっても学位がないために拒否されるのであった。結局著者は30歳にして大学に通うことに決め、働きながら二年半で卒業、学者になることを目指し、奨学金を得て大学院にも進む(この間に一度結婚し、離婚する)。中国問題の研究も始め、香港滞在中に妻と出会う。苦労を重ねながらも語学力を活かし中国やソ連、日本の専門家として学究生活を送ることになり、カナダの大学に落ち着き、少々不本意ながらもカナダ国籍も取得することにする。

この間も家族の存在感は非常に薄い。なぜ著者は家族のことにあまり触れなくなっていったのだろうか。それは衝撃の事実が判明したせいだったのかもしれない。
1955年、16年ぶりにヨーロッパを訪ねることになる(このヨーロッパ滞在中にトーマス・マン死去の報も入る)。久しぶりに母と姉と再会するが、二人の関係はぎくしゃくしていた。母は泣き言をいい始め、矛先は父へと向かう。著者が父をかばうと、母はこう言ったのだ。「お父さん、お父さんなんてお前は言うけれど、あの人はいつお前のお父さんになったのだい?」
母は著者が父との子ではなく、浮気の結果の子であったことを明かすのであった。

著者はトーマス・マンの妻のカティア叔母(父の妹だが、「血のつながり」はなかったことが判明した)にこのことを相談すると、「気の毒なお母様はずっと重荷に感じていたのよ。でもそれは過去のことよ。それでごく手短に訊きましょう。クラウス・プリングスハイム・シニアつまり貴方のお父様はよい父親ではなかったかしら?」と言われる。長男よりも可愛がってくれたのではないか、一度でも血のつながりがないなんてことを感じさせるようなことをしたか、と。
この言葉に納得したつもりだったが、それは「自己欺瞞だった」。

のちにトーマス・マンの日記が刊行されることになる。著者は自分について書かれている部分を探す。マンは「K・Pとその息子」とか「カティアの双子の兄とその息子」と書いているのだが、一度だけ「クラウス・プリングスハイムとそのえせ息子がバスでパシフィック・パリセーズに突如到着。カティアが偶然遭遇す」と書いている。これはプリングスハイムがマン家を目指してバスで向かっていた途中に、マンの妻である父の妹と偶然出会った日のことである。

日記の編集者となった人物が、なぜここでマンは「えせ息子」などという表現を使っているのかと尋ねてきたのであった。著者は「墓のなかから自分の出自についてのごたごたを持ち出すなんてひどい叔父だとトーマス・マンを恨んだ」。
結局この言葉は削除することに決められ、削除をしめす「…」も代入しないことになり、「秘密は再び封印された」。

プリングスハイムはその後、生物学上の父である、おぼろげにしか知らなかったハンス・ヴィンケルマンについて調べることにする。ハンスは「父(プリングスハイム・シニア)」から訓練されたオペラ歌手であった。ハンスの写真も収録されているが、そういわれてみればというレベルではなく、顔立ちがそっくりである。そしてハンスの未亡人と、異母妹とも会うことになる。実はプリングスハイム家、マン家、ヴィンケルマン家のなかで、出生の秘密を知らなかったのは著者一人だけだったのだ。ハンスはナチスの反ユダヤ主義が明らかとなると、弁護士にプリングスハイムが自分の息子であり純粋なアーリア人種であるという書類を作らせ、収容所へ送られることがないようにということまでしていた。そのハンスは43年にハノーファーで空襲にあい、心臓麻痺で死亡していた。

なおドイツに残ったプリングスハイム家はもちろん安泰とはいかず迫害を受けたうえでスイスに逃れることになるが、これはワーグナーの息子の妻の直訴があったおかげともされていることがエピローグで語られる。


あらゆる本がそうではあるが、とりわけ自伝や回想というものは書かれていることと同時に、書かれていないことにも注意を払うべきだろう。本書は読み物としてはややいびつでぎくしゃくしているように思えてしまう部分もあるが、この事実やその後著者が知ったことをふまえると、それがかえってプリングスハイムの微妙な心理を表しているようでもあった。


また巻末には付録として、1996年5月に行われた三輪公忠との対談も収録されている。プリングスハイムは佐藤栄作の伝記も書いており、日本の総理経験者や後に総理大臣になる政治家十人にインタビューを行っていた。その佐藤とも親しくプリングスハイムとも親交があった高坂正堯はこの対談の二日目に亡くなっていたが、プリングスハイムはここでそのことを知らされ絶句する。そしてプリングスハイムはこう語っている。「彼〔高坂〕とはいい友達でね。彼は大変頭のいい方ですね。戦後政治といえば、恐らく私は一番彼を尊敬していますよ。『吉田茂』も書きましたでしょう。それから『戦後日本政史』も書きました。その本は英語で翻訳されています。とてもよく出来ている本です。/彼が亡くなって本当に残念です。これは自民党にとってもよくないです。自民党にはあまり頭のいい人が多くないから。自民党は高坂みたいな人を必要としているんです。自民党にとって大損ですよ」。

ついでに加えておくと、1964年に著者がカンザス大学で政治学の教鞭をとっていたころ、カンザス州の議員で連邦下院に出馬しようとしていたロバート(ボブ)・ドールから著者の講座で政治学入門の講演をしたいのだが、という手紙を受け取る。著者は学生に、ドールが連邦議会入りしようとしていることに賛成も反対もしないし、講演の内容についてコメントは控えると宣言したが、「彼が右よりのチャキチャキの共和党員であることは判っていたものの、予期したとおり彼が国際連合を攻撃すると黙って座っているのに一苦労した。彼によれば国連はソ連の手先であり、アメリカは魔窟から抜け出すべきだと主張した」とのことである。著者は「とにかくそこでは忍の一字で沈黙を守った」。
さらに大統領選挙に絡めて皮肉っぽいことを書いているが、本書の原著刊行は95年なので、執筆時にはドールは共和党大統領候補の一人と目されていたのでそのせいだろう。その後実際クリントンの対抗馬として出馬し惨敗することになる。

近年は悪い意味で自民党の共和党化というようなものが顕著になっているが、ドールのような人物が大統領候補になってしまったり、「自民党にはあまり頭のいい人が多くない」という発言あたりは、予言的に読んでしまいたくもなる。
プリングスハイム2世は2001年2月に死去しているが、その後のアメリカや日本の姿はどう映ったのだろうか。


本書を読み終えた後に知ったのだが、1995年に死去した著者の兄のハンス・エーリク・プリングスハイムは「連想ゲーム」や「木曜洋画劇場」などにも出演していたのだそうだ。僕は見た記憶がまるでないのだが、何年くらいまでテレビに出演していたのだろうか。このあたりのことにも本書では触れられていないのだが、弟としてはどういう気分だったのだろうか……


マンとプリングスハイム家の交遊についてはこの本でも扱われているよう。



『トーマス・マン日記』はあまりに膨大なのでいつか読もうという気すら起こらずにいたのだが、通読は無理にしても問題の箇所はそのうち見てみようかな。




昭和8年にプリングスハイムが指揮をした東京音楽学校奏楽堂の演奏らしい。


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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