『プロット・アゲンスト・アメリカ』

フィリップ・ロス著 『プロット・アゲンスト・アメリカ  もしもアメリカが…』




父は「中学も終えていない保険外交員」であったが、なんとか生活していけるだけの収入を得ていた。母は教員養成大学に進みたかったが実家にその余裕はなく、高校を出ると秘書として働き、結婚後は主婦として厳しい家計をやりくりしていた。ロス家はニュージャージー州ニューアークで、もっぱらユダヤ人と付き合っていたが、それは「宗教などより仕事こそが近所の人たちに一体感をもたらし、彼らを規定していた」。あごひげをはやしたりスカルキャップをかぶっている人はなく、訛のある英語を話す人もほとんどいなかった。反ユダヤ主義の影と完全に無縁であったわけではないが、両親と兄とフィリップから成るロス家は貧しいながらも幸せな暮らしをしていた。
1940年6月、リンドバーグが共和党の大統領候補に指名されるまでは。これによって、「すべてが変わったのだ」。


史上初の大西洋単独無着陸飛行に成功しアメリカの国家的英雄となったチャールズ・リンドバーグが反ユダヤ主義的、親ナチ的傾向があったというのは有名な話であるが、日本ではあまり知られていないかもしれない。本作には1938年にドイツ鷲功労十字章を授与され批判を呼び、「水晶の夜」の後になっても返上を求める声に、そんなことをすればナチス指導層への「不必要な侮辱」になると拒否したエピソードへの言及があるが、これは史実である。

ロスは1940年の大統領選挙で、実際にアメリカの右派からリンドバーグ擁立を模索する動きがあったことを知り、この歴史改変小説の構想を抱いたという。従ってこの時代を舞台に歴史改変小説を書こうとしてリンドバーグを登場させるというのは、驚異的な想像力を発揮したというよりも、現実をふまえたものなのである。

本作の語り手は「フィリップ・ロス」であり、小説内の家族構成や来歴もほぼそのまま作者ロスのそれが用いられている。
狭い意味での私小説的作品でなくとも、作者のアルター・エゴをかなり直接的に小説のキャラクターとして登場させるという手法はそう珍しいものではない。ロスにおいて特徴的なのが、そのアルター・エゴを複数使い分けていることだろう。ネイサン・ザッカーマンを主人公にした小説を書き続けていたが、ついに「フィリップ・ロス」をも登場させ、さらにこの両者の登場する作品を平行して書き続けている。本作も「フィリップ・ロス」シリーズの一作として位置している。そう考えると、作者と語り手が同一の名を持つからといってこの作品を特別視する必要はないとすることもできるのかもしれないが、やはり物語の性質上そうかたづけたくはなくなってもくる。


フィリップ・ロスが生まれたのは1933年、つまりヒトラー政権誕生の年である。もしも1933年のドイツに自分がいたら、という仮想を1940年にアメリカにファシズムの風が吹き荒れるという設定で再現したと、とりあえずはできよう。

アメリカ特有の形をとっている部分もあるが、多くはナチスが行ったことをなぞるような展開が待っている。リンドバーグは大統領選への出馬が決まると過激な演説を封印しソフトな印象を与えようとし、多数派に安心感を与えるが、その中には依然として紛れもない反ユダヤ主義が隠されもせず温存されている。リンドバーグ政権誕生後ユダヤ人差別は表に吹き出しはじめ、ロス家も屈辱を味あわされる。ついには美辞麗句に包んだ「同化政策」の名のもとにユダヤ人コミュニティの破壊が国の政策として行われるようになり、ポグロムが発生する事態にまで至ることになる。

必ずしも広く尊敬を集めていたとはいえない保守派のラビ、ベンゲルズドーフはいち早くリンドバーグ支持を打ち出し、これによって事実上F・D・ローズヴェルトの敗北は決定的となった。めぐまれた環境にあったとはとてもいえない母の妹はかつては熱心な組合員であったが、リンドバーグ支持へと政治的に転向し、あろうことか30歳以上も年上のベンゲルズドーフと結婚することになり、この夫妻はリンドバーグ政権から重用されることになる。兄のサンディはリンドバーグが伝説的飛行に成功した1927年生まれだった。そのせいばかりではないだろうが、リンドバーグに心酔し始め、両親と衝突することになる。いずれも社会から認められたい、重要な人物であると思われたいという承認欲求が動機の一つとなっている。


この作品を読み進めることは、自分がもしあの時あの場所にいたらどうなっていただろうか、何ができたのだろうかということを突きつけられることであり、その圧迫感や切迫感を読者を与えることに十分に成功している。しかし、実は最終盤にいたるまで、個人的には多少のひっかかりを感じてしまってもいた。
上にあるようなリンドバーグを支持してしまうユダヤ人の傾向はやや図式的すぎないだろうか、そして歴史改変小説としては、例えば同じ柴田元幸訳でいうとピンチョンの『メイスン&ディクスン』やスティーヴ・エリクソンの『Xのアーチ』のような、アメリカ合衆国という国家が根本的に抱える欺瞞性や暴力性の暴露などと比べると、やや「弱い」のではないだろうか、という気もしてしまっていた。

ロス家はリンドバーグ政権誕生後に旅行に出かけ、ワシントンにも行く。そこで父は国会議事堂やホワイトハウスなどの威厳に圧倒されるが、リンドバーグ支持者がすでに我が物顔に闊歩するようになり、あろうことか予約を入れていたホテルから宿泊を拒否をされるという差別を受ける。これはまさに「アメリカの理想」に泥を塗る蛮行として象徴的なものであろう。
両親は、そして多くのユダヤ人はローズヴェルトを信じている。そしてその希望は裏切られることはない。さらには、あのリンドバーグ夫人までもが、ある事態を前に独立宣言を掲げ立ち上がるのである。

タイトルの「アメリカに対する陰謀」とは、「正しいアメリカ」があり、その「理想」と「希望」への攻撃ともとれる。つまり、建国の父祖たちの、あるいはFDRの理想や希望を、その欺瞞や限界をふまえずに肯定することになってはいないだろうか。それが「弱さ」を感じたところであった。

言葉を変えれば、アメリカの持っている「強さ」を信じているということになるのかもしれない。
つまりこれは、その「強い」民主主義国家であるはずのアメリカでさえも、容易にファシズムに絡みとられてしまうのだという含意があるのかもしれない。
リンドバーグに敵意をむき出しにする父に対してベンゲルズドーフは、リンドバーグは民主的に選ばれた指導者であり反乱によって権力を簒奪した独裁者などではないと説く。リンドバーグをヒトラーだと考える者が大勢いるが、彼は専制など志向していない、個人主義を促進し、自由経済を奨励しているではないか、アメリカのどこに秘密警察や突撃隊がいるのだ、と。
このベンゲルズドーフのような過度の楽観論とシニシズムの混淆こそが、ファシズムの栄養源なのであろう。意気軒昂だったはずの父までが次第に、仕方がない、もっとひどいことになった可能性だってあったのだと無力感に苛まれていく。

1935年にシンクレア・ルイスは『イット・キャント・ハプン・ヒア』という小説を書いている。本作でもこのタイトル「ここではそんなことは起こりえない」がある演説の中に登場し、「訳者あとがき」によるとロスは97年刊行の『アメリカン・パストラル』でもこの小説に言及しているという。

「扇動政治家が勝利を収め、全体主義的、反ユダヤ主義的政策を推し進める」というルイスのこの小説と本作はテーマ的に大きく重なる部分がある。シンクレア作品の主人公のモデルはヒューイ・ロングである(『オール・ザ・キングスメン』のモデルになった人物とした方が通りがいいかもしれない)。ポピュリストであるロングが1935年に暗殺されていなければローズヴェルトの大統領の座が危なかったかもしれないともされることもある。そしてロングが大統領になっていればアメリカがファシズムへの道を歩みだしたのではないかとする論者も多い。本作ではリンドバーグ政権の重要閣僚に、これも史実として筋金入りの反ユダヤ主義者であったヘンリー・フォードが起用されているという設定にもあるように、当時のアメリカがファシズム化する可能性などまったくなかったとすることはできない。

「強い」民主主義国家であるはずのアメリカですらファシズムの前に屈することがあり得る、その構図には確かに説得力があり、とりわけ現在の日本で読むと深く考え込まされることになるのであるが、同時にそれこそがこの小説の「弱さ」になっているように思えなくもなかった。すべてが決した後に交わされる、ある噂、陰謀論についても、「アメリカの理想」を救い出す可能性をあえて残そうとしたのではないか、とすることもできよう。

といった懸念を少々抱きながらページを繰っていたのだが、しかしそこはさすがロスのこと。一見すると本筋から外れた枝葉の部分によって物語が完結するかのように見せかけて、上記のような懸念を払拭する、アメリカの抱えていた闇を想起させて物語を終えることになる。無論ここで言及されるレオ・フランク事件についても、名誉回復がなされたという点では「アメリカの理想」を傷つけるものとはなっていないとすることもできるのかもしれないが、一筋縄でいくような単純な物語に還元することからは逃れている。


ひっかかりを憶えた部分とやや矛盾することをいうと、本作にはこればかりでなく、アイロニカルな歴史的事実や歴史改変がちりばめられている。

父を含む多くのユダヤ人はもちろん参戦派である。ヨーロッパでのナチスドイツの暴虐を食い止めるためにも、アメリカは戦争に参加すべきと考えている。これに対し右派は、ユダヤ人の戦争に巻き込まれるな、「戦争屋」のローズヴェルトに騙されるなとアメリカ優先委員会を結成し(これも実在の組織)、中立を訴える。もちろんこの「中立」政策は事実上ナチスドイツを支援することとなるので、右派の真の意図がどこにあるかは言うまでもない。

フィリップの従兄弟のアルヴィンはナチと戦うためにカナダに渡り兵役に志願し、前線に送り出され、そこで片足を失う重症を負う。両親を早くに亡くしたアルヴィンを息子同様にかわいがっていた両親はショックを受け、子どもたちも動揺する。ここでリンドバーグにかぶれはじめているサンディは、参戦派によってアルヴィンは傷つけられたのではないか、リンドバーグの言うように中立を守り、アメリカが平和であればアルヴィンのような目にあうことはないのではないかと言い、両親を激怒させる。まさにこれはアメリカ優先委員会のような、アメリカのことを最優先に考えろと主張する右派の参戦反対のロジックである。

本作が発表されたのは2004年のこと、つまり9・11が起こり、アフガン侵攻、イラク戦争へとアメリカが突き進んでいた時期である。本作で起こる出来事とブッシュ政権の暴走とを重ねずにおけというのが無理というタイミングで発表されたのだが(ちなみにロスは政治的メッセージとして書いたわけではないとしている)、この時は右派が戦争を望み、リベラル派が戦争反対を訴えていた。伝統的にアメリカでは民主党政権が戦争に介入する傾向にあり(第一次大戦、第二次大戦への参戦、ヴェトナム戦争の本格化はいずれも民主党の大統領のもとでなされた)、共和党は孤立主義的だとされる(従ってブッシュ父子政権はアメリカの保守の伝統からの逸脱だとすることもできる)。

サンディの言ったことはある意味では「正しい」。そうであるから、両親は論理的に反論し、説得することはできなかった。ではサンディが「真の意味」で正しいのかといえば、むろんその裏にある意図を考えるととてもそうだとすることはできない。
僕自身、絶対的平和主義者になれるかというと、そこまで腹をくくることはできない。もし1940年にアメリカ人であったなら、参戦論者になっていたことだろうと思うし、この判断は、後の世代の多くが共有できるだろう。では、歴史の後知恵を活用するのではなく、「現在」の時点で、「正しい」判断を常に下すことができるのだろうか。「正しい戦争」など絶対に存在しないと言い切ることはできないかもしれない。しかし戦争は常に、「正しい」ものとして始まる。「正しい戦争」など絶対に存在しないと言い切ることはできないという考えをもとに、ならば起こった戦争は正しいものなのだと為政者が論理を転倒させることによって戦争を正当化しようとするのは、古今東西幾多もの例がある。

この小説の「弱さ」への懸念は、それはこの作品が「アメリカの理想を忘れるな」といったような単純なメッセージに還元されてしまいかねないというものだった。それが「善意」から発せられたものであっても、何かをきっかけに暴力性や抑圧へと転化しかねないものでもある。しかしロスの小説に、そのような単純さはありえないだろう。

冒頭で語り手によってこれが過去の出来事であったとされる。つまり回想という形で進められていく。
読者はフィリップが生き残ったことを、また子ども(「現在」)の視線の部分で語られつつも、 大人(「すでにあの出来事が終わった後」)となった視点から相対化されている部分もあることを意識させられる。下手をするとナラティブの一貫性が保てないことになるのだが、ロスは二つの時間軸を使うことによってより深度を増そうとしたのかもしれない。

読者は素直に語り手に感情移入できるのかというと、それはさまたげられる。語り手の「フィリップ・ロス」は、透明化された観察者でもなければ、イノセンスを象徴する存在でもなく、かといって露悪的アンチ・ヒーローでもない。極めてグロテスクな暴力を招いてしまうが、改心や断罪といったわかりやすい報いが用意されているのではない。いかにもロスの小説らしく、糸はほどきようがないようもなく絡みあってもいるかのようだ。

この作品において最もアイロニカルな存在は、ユダヤ人ゴシップジャーナリストのウォルター・ウィンチェルだろう。ウィンチェルは早くからナチを嘲笑罵倒し(これは史実でもある)、リンドバーグ政権誕生後にひよったメディアとは一線を画し、ラジオで徹底抗戦をし、その真実の姿を暴きユダヤ人たちの希望の星となる。しかし巻末の資料によると、現実のウィンチェルは第二次大戦後極右化し、マッカーシーを支持、すっかり忘れ去られる形で生涯を終えることになる。このような人物をあえて英雄として登場させることは、当然意図的なものであったことだろう。そして虚構化された小説の登場人物の史実を記したこの「資料」も、単に資料としてではなく、小説の一部としても考えるべきだろう。

戦争に行った者と行かなかった者。残るべきか去るべきか。理想のために妥協をすべきでないのか「現実的」対応をとるべきなのか。そういった相克のなかで、もっとももつれるのが家族間の感情であろう。ロスの作品は「家族小説」としてくくれるものが多いが、本作もまた家族小説としていいだろう。結末もまた、傷ついた「父性」の回復によって家族の秩序が回復していくという「保守的」なものとすることもあながち的外れな読み方ではないかもしれないが、またロス一族の関係には「父性」の持つ暴力性も表されてもいる。
こう考えると、本作はロスにとって異色作であると同時に、いかにもロスらしい作品であるとも思える。


繰り返しになるが、2004年にこの作品を読んだ読者は、その「政治性」に注目せざるをえなかったことだろう。また邦訳の出た2014年に日本でこの作品を読むと、これもまた政治的な部分に注目せざるをえない。しかし「政治的」な小説だからといって過剰に称揚することも、あるいは逆に遠ざけることも同じように愚かなことだろう。
確かに本作は政治的含意とんでいるし、「政治小説」としても一級品であるが、そこのみにとどまるものではなく、「フィリップ・ロスらしさ」を堪能できる作品でもある。


ロスといえばキャリア開始時から常に一線で書きまくるという驚異の創作能力で知られるが、「訳者あとがき」で柴田氏はロスの「最盛期」を1995年から2000年にかけて(60代半ばに「最盛期」がくるというのもやはり驚異である)ではないかとしていて、この作品もそれにひけをとらない力強さだろとしている。その「最盛期」に書かれた作品も含めて、翻訳が出ていないものがかなりあるので、なんとか評価の高いものだけでも出してほしいのだけれど。



プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
08 | 2014/09 | 10
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR