『NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』

ダーグ・ソールスター著 『NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』

このタイトルを最初に知った時、なんだかよくわからないが恰好良さそうではないか、と思ったのだが、実際には何のことはない、ソールスターの11冊目の小説で18冊目の著書という意味なのだという。拍子抜けしそうになるが、考えてみれば執筆中の仮タイトルならいざ知らず、こんな「即物的」なタイトルを長編小説につけるというのはちょっと普通の感覚ではない。そしてこのことが暗示するかのように、この小説は「普通」の小説ではない。

「訳者あとがき」で村上春樹はこの小説について、「コンサバな衣をまとったポストモダンって言えばいいのか……」としている。「……」が示している通り、どう分類してもいささか収まりが悪いような、不思議な作品である。

なお村上は「予測不可能なとんでもないストーリーラインを前もって明らかにしてしまうと、「ネタバレ」とまでいかずとも、即書の喜びが大きくそがれることになる」として、あらすじ等を「訳者あとがき」に書いていない。
といことで一切予備知識を入れずに読んだほうがいいかもしれないが、以下決定的なネタバレは避けたつもりだが、あらすじは思いっきり書いてしまっているので未読の方はご注意を。





ストーリーそのものを追うのに困難はない。三人称で書かれているが、視点人物はビョーン・ハンセンに固定されている一人称的語りとなっている。
ビョーン・ハンセンは貧しい生まれであったが頭脳明晰で、大学で政治経済学を学び高級官僚となる。彼は哲学や文学にも惹かれていたが、これはらはあくまで趣味に留めておこうとする。一方で即効性のある実益に結びつく経営学を学ぶことも避けた。実業の世界はあまりに生臭かった。結婚し息子を設けたが、フランス帰りの教師でエキセントリックなところもあるツーリー・ラッメルスと愛人関係となり、妻子と別れ、高級官僚の職も捨てツーリー・ラッメルスの故郷に移る。中央省庁での勤務経験のあるビョーン・ハンセンは容易に市の収入役になるが、これは彼に追い越された年上の同僚の不興をかうことになる。ビョーン・ハンセンはツーリー・ラッメルスの勧めもあり、彼女も参加している演劇活動に加わる。役者としての満足感も得ると同時に、軽めのオペレッタには物足りなさも感じ始め、イプセンの『野鴨』のような挑戦的な作品の上演を目指すが、劇団員全員がこれに賛同したわけではなかった。そんな中、ビョーン・ハンセンはある計画を立てるのであった……。

というのが前半部分。村上はレイモンド・カーヴァーの名をあげているように、簡潔な文体で、リアリズムの枠内で語られていくと同時に、どこか不穏な雰囲気も漂わせている。そして物語は中盤以降かなりねじれていくこととなる。中盤では会うこともなくなっていた息子とあるきっかけで同居することとなるが、息子についてある発見をしてしまう。このあたりはかなりユーモラスでもあり、前半に立ち込めていた不穏な雰囲気は中和されていく。しかし後半では、宙吊りにされていたかに思えた「計画」が蘇ってくる。

この小説がいささか奇妙な、普通でない印象を与えるのは、一つにはその文体がある。「普通」であれば物語の展開によって合わせて文体も揺らしていきたいところなのであろうが、ソールスターはこの文体を最後まで維持する。あくまで淡々と、「ロジカル」な文体を崩すことはない。物語の展開と合わせるならば、小説世界を内部から食い破るような荒々しさを見せても良さそうだが、そういった読者の期待にはおもねらないかのようだ。また異常な行動を淡々と描くことによって狂気をより一層印象づけるような作品もあるが、そういったものとの類似性はあるとはいえ、そこにすんなり収まるかといえばそうともいかないようでもある。

さらには、すでに書いたようにこの作品は三部構成になっているとすることができるのだが、ソールスターは三部構成を明示することはおろか章分すらしない。それどころか行間を空けて区切りを表すことすらなく、邦訳で250ページ弱に渡って延々とこの文体で途切れなく続けられるのである。村上は底本に使った英訳よりも改行を増やしたとしている。これは欧語を日本語に訳す際によく行われることで、日本語だとびっしり文字が並び続けるのは辛いというのはそうなのだが、この作品に関してはびっしりと文字が並び続けたほうがより不思議で奇妙な作品の味わいが深まったかもしれない。

ビョーン・ハンセンが「ここではないどこか」を求め続け、それが彼の行動原理となっていることが明らかなように、一見すると「コンサバ」とも思える正統的リアリズム小説のようだが、明らかにそこからは意図して逸脱させていく。しかし同時に、小説をラディカルに解体していこうという前衛性からも距離を置いているかのようでもある。いや、「分かりやすい前衛性」に安易に陥らないという点ではむしろ前衛的であるとするべきなのかもしれない。
ストーリーテリングは巧みであるし、物語によって読者を牽引するが、しかしこの文体と構成によって読者を脱臼させるかのような不思議な感覚を与え続けている。

前半部に関してはもしカーヴァーが長編を書いていたらと想像することもできるが、中盤から後半にかけての展開と文体の構成は、比較できる作家や作品が容易には浮かんでこない、不思議な読後感に包まれる。三つの短編を組み合わせたようにも思えるが、やはりあくまで長編小説として消化するべきだろうし、その結果として、正統的(あるいは「コンサバ」)のようでいてそれを脱臼させつつ、ポストモダン的実験性や遊戯性ともどこか異質な、独特な味わいとなっている。


ソールスターはノルウェイの作家で、本作もノルウェイ語で書かれており英訳からの重訳となっている。この作品を村上が訳すことになって経緯は「訳者あとがき」にあるが、「実作者として、また翻訳者として、重訳はできる限り避けたい」というスタンスであった村上が、この作品に関しては「たとえ重訳でもいいから〔……〕自分の手でこの小説を訳してみようと思った」というのも納得の作品であった。
ソールスターはノルウェイではトップクラスの評価を得ているベテラン作家のようで、他の作品もこれを気に邦訳されてくれるとうれしい。

またイプセンの『野鴨』が重要な役割を果たしていて、村上は「訳者あとがき」でイプセンとソールスターの作風の共通点にも触れているが、僕は不勉強にも『野鴨』は未読なためになんとも言えないので、そのうちに読んでみなければ。
そういえば夏目漱石もイプセンを高く評価していたし、このあたりの時代の人たちはイプセンに影響を受けた人も多いのだが、今現在イプセンってどういう評価がされているのだろう。昔はイプセンはドイツ語訳や英訳などを通して受容されていたのだが、原語からの翻訳によって何か変化もあったりしているのだろうか。このあたりも無知なもので、少し勉強してみないと。ノルウェー大使館に「明治期におけるイプセン受容」というのが載ってます。


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