『忘れられた巨人』

カズオ・イシグロ著 『忘れられた巨人』




物語の舞台となっているのはアーサー王が姿を消してから数十年後のイングランド。ブリトン人は「丘の斜面に深い横穴を掘り」、「その穴どうしを地下通路や覆い付きの廊下で結」んでいるような、「兎の巣穴」とでもいったほうがいいような村で生活していた。共同体の関係はそれだけ濃密であり、隣人というよりは一つの家族のようなものとなっている。

ある村にアクセルとベアトリスという老夫婦が住んでいたが、どうもその他の住民としっくりいっていないようである。ベアトリスはしきりに離れたところに住む息子を訪ねたいと言い、アクセルもようやく重い腰をあげる。こうして二人の冒険の旅が始まることになる。

夫婦はサクソン人の村に立ち寄る。サクソン人は横穴に住むようなことはせずに、現代に近いような家を建てており、安全対策として村の周囲に防禦の柵を張り巡らせ、門番を置いていた。この世界では、鬼と人間とが緊張を孕みながらもそれなりに共存しているように、ブリトン人とサクソン人の間にも一定の調和がある。

夫婦はここで、鬼に噛まれたと思われたせいで村を追われることになった少年エドウィンと、雌竜クイエグ退治のためにやって来たサクソン人の戦士ウィスタンと旅を共にすることになる。そしてはるか昔、アーサー王からクイエグ退治の命を受けながら未だにそれを果たせずに彷徨う老騎士ガウェインと出会う。一行の行く手には不穏な空気が立ち込め、恐るべき真実が待ち構えていた……


鬼の存在や竜退治からもわかる通り、本作はファンタジーとなっている。
解説によると、イシグロはこの作品を「本質的にはラブストーリー」と繰り返し語っているそうだが、これは必ずしも読者を煙にまいているのではないだろう。

この夫婦、仲むつまじいのであるがどうも会話が噛み合わない。実は「この国は健忘の霧に呪われて」いて、この立ち込める霧が人々から記憶を奪っているのである。ベアトリスは霧の真相を知り、これを解決して記憶を取り戻すことを望む。しかしアクセルにはためらいがある。記憶を取り戻すということは、楽しい記憶だけでなく、忘れたい記憶をも蘇らせることになるのではないか。そしてウィスタンやガウェインと出会うことで、アクセルの過去がうずきはじめる。

友人知人と同じ出来事を一緒に体験したはずなのに、記憶がまるで違っているという経験を持つ人は多いだろう。記憶というのはそれだけ恣意的なものであり、信用できないものでもある。しかしこれは人間にとって「知恵」なのかもしれない。辛い現実をぼかし、過去をやわらかな緩衝材で包んでくれることともなる。長年生活を共にした夫婦ならば、忘れてしまいたいことや、忘れた方がいいことの一つや二つあることだろう。『レボリューショナリー・ロード』のエンディングで補聴器が切られるように、聞こえないほうがいい、見えないほうがいいこともある。こういった点ではまさに愛をめぐる難問を扱った作品であることは間違いないだろう。


しかしこの作品はそれだけにはとどまらない。
『忘れられた巨人』を読んでいて思い浮かぶんだのが、旧ユーゴスラビアである。第二次大戦中、クロアチア人やセルビア人は親ナチと反ナチとに分かれて血で血を洗う戦いを繰り広げた。大戦後はチトーがパルチザン神話も使い、国を一つにまとめあげた。しかしチトーの死後、ユーゴは砂上の楼閣のごとく崩壊していき、長年の隣人同士が殺し合いを繰り広げた。この時、数十年前のあの記憶もまた蘇っていたのである。

記憶は恐ろしい事態を引き起こすことにもなりかねない。忘れた方がいい記憶は、そのまま奥深くにしまいこんでおいたほうがいいのではないか。

アラン・ムーア原作、ザック・スナイダー監督の『ウォッチメン』は、たとえ間違った手段であろうとも世界に善がもたらされるのなら構わないのではないか、つまり正しい目的のためなら手段は正当化されるのではないか、とういう考えに対し、「見張り人を見張るのは誰だ」という疑問を突きつける。「正しい」とはどういうことか、それを決めるのは誰なのか、その「正しさ」が完結した世界でもしその「正しさ」が間違っていたら、誰がそれを正すことができるのだろうか。

イシグロはなぜファンタジーという形式をとり、アーサー王伝説を借用することにしたのだろうか。
神話の役割はいくつかある。一つは世界の成り立ちを物語の形で表すことだ。雷はなぜ落ちるのか、洪水はなぜ起こるのか。飢饉や疫病を「納得」するためには、こういった物語が求められる。
さらには、日本の「古事記」や「日本書紀」がその典型であるように、権力の正当性を示すことである。

血塗られた記憶を忘却するのは正しいことであるように思う人もいるかもしれない。しかしその決断はどのようなプロセスによってなされたものだろうか。それは単なる隠蔽であり、権力の免罪符として使われているだけなのではないか。いったい誰が何の権限でそれを決めたのか。彼らはいったい何を忘れようと、何を忘れさせようとしているのだろうか。忘却という選択によって平和がもたらされるという主張は、隠蔽を正当化しようとしているだけなのではないか。

アーサー王伝説というのは、考えてみればイギリス、あるいはイングランドの歴史をふまえるとセンシティブなものであるのかもしれない。血塗られた歴史と忘却、それによってもたらされるものはかりそめのものであろうと平和と呼ぶべきなのか、それともある特定の人物、勢力にとって都合よく操作された結果もたらされたに過ぎない、見せ掛けの、偽りの調和なのであろうか。
「葬られた巨人」とでもいうべき、抑圧された記憶や隠蔽された事実とどのように向きあうべきなのであろうか。

記憶の問題はイシグロにとってデビュー作から一貫して最も重要な主題であろう。本作はまさに、その記憶の問題を正面から扱ったもので、異色であったりイレギュラーであるというよりは、イシグロの面目躍如とすべきだろう。そして本作が投げかけているものは、物語という形でしか表すことのできないものであり、また物語の持つ危うさを見据えたものでもある。


これも解説によると、イシグロはファンタジーという外形に惑わされないでほしいという趣旨の発言をして、ファンタジーファンから反発をくらったそうだ。しかしこの言葉とは裏腹に、本作がファンタジーという形を取ったのは気まぐれによる戯れなどではなく、必然だったとすることができる。そしてまた政治的、社会的隠喩を抜きにしても、謎解きファンタジーとしても十分に堪能できることだろう。



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佐藤太郎(仮)

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