『父・夏目漱石』

夏目伸六著 『父・夏目漱石』




夏目伸六は漱石の第六子(次男)で、末の妹の雛子が幼くして亡くなったため末っ子として育てられる。本書は息子による父の回想でもあるが、その点では漱石は亡くなったとき数えでまだ九つだったもので限定的なものにならざるをえない。本書は漱石死去後の夏目家の人々や弟子たち、また伸六がその後の研究で明らかにしたこと(例えば漱石の母、著者からすれば祖母の出自についてなど)からなっている。


「伸ちゃんは達はとてもよかったのよ。だってお父様が一番病気のいい時に育ったんですもの」、伸六は一番上の姉のところでこう言われたそうだ。漱石は精神状態が悪化すると家族に理不尽な暴力を振るったというのは有名なエピソードである。伸六も行儀にうるさかった父と外食する際には緊張したそうだが、食事が咽喉を通らなくなるというほどではなかった。これが上の言葉を裏返すと「病気のわるい時」に育った上の姉二人は、ただただ父を恐れているばかりであった。「その怖いったらなかったわね」「だから私達、お父様とどこかへ一緒に行くのとってもいやだったわ」と姉たちは振り返っている。

伸六もこのような恐怖と無縁であったわけではない。父と相撲をとって遊んでもらっている時にも、「私の心の底には、いつ怒られるか解らないという、不安が絶えずこびりついて離れなかった。当時の私にとっては、いつ怒鳴られるか――たしかにそれが父に対する最大の恐怖だった」としている。

伸六には「自分が本当に父から気違いじみた取扱いをされた覚えは、ただの一遍しかなかった」。まだ小学校へあがる前のこと、兄の純一と一緒に漱石に散歩につれていってもらった。おそらくは子どもたちがせがんだのだろう。神社の境内の見世物小屋に入ると、射的場があった。弾が命中すると炎が燃え上がる仕組みになっており、伸六は本当に燃えているわけではないと思いつつも、驚異の眼でもって見つめていた。すると「純一、撃つなら早く撃たないか」と声がした。しかし純一は「その声に怖気づいたのか」、「羞ずかしいからいやだあ」と言って父の背後に隠れてしまった。「私は兄から父の顔へ眼を転じた。父の顔は幾分上気をおびて、妙にてらてらと赤かった」。
「それじゃ伸六お前うて」と言われたが、「羞ずかしい……僕も……」と、兄と同じように父の陰に隠れようとした。すると「馬鹿っ」という怒号が響き渡り、張り倒されると、「父は下駄ばきのままで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろ」したのであった。

ここで描写される純一の反応は少し異様である。「どうしたらよいのか解らないといったように、ただわくわくしながら、夢中になってこの有様を眺めていた」そうだ。おそらくは、末の子として甘やかされていた弟が、自分と同じように父から暴力を振るわれているのを見たことによる複雑な反応だったのだろう。

伸六は幼いの頃は「癇持ち」の、「不快な子」で、やたらと泣いていたそうだ。すると漱石は「泣くんじゃない、泣くんじゃない、お父様がついているから安心おし」となだめてくれた。「病気がわるい時」なら考えられない反応だろう。しかしこれも不気味なところがあるのかもしれない、と伸六には思えた。父が自分を溺愛したのは、「自分も私と同じ末っ子であり、家庭にも恵まれず、また父親からもあまり可愛がられなかったため、私の泣くのはきっと自分と同様、傍の者からいじめられて泣くのだろう、「だからお前にはこうしてチャンとお父様がついているから安心おし」という、いわば父の異様な妄想から出発した反射的行為に違いなかった」。

兄の純一からすれば弟ばかりが可愛がられてと思ったことだろうし、それがあのような反応につながったのかもしれない。後々まで純一はこの出来事を「ひどく面白おかしく話し」、「愉快な思い出」のごとく語り、伸六を憤慨させている。


射的場での漱石の「顔は幾分上気をおびて、妙にてらてらと赤かった」とあるように、その様子は明らかに平常とは違うものだった。漱石は常に暴力的であったのではなく、「病気」になって、精神に変調をきたした時に暴力的な衝動を抑えられず、家族に向けて発散させていたのであった。

精神が安定しているときの漱石はいたってよき父親である。子どもたちとふざけあい、「イロハがるたにわざわざ自分の方から割り込んできて、「屁をひって尻つぼめ」と「頭隠して尻隠さず」という札だけを必ず自分の前へ独占して、一生懸命にそればかり眺め据えながら、いざとなるとそれさえたちまち私等に横取りされていた」。

傍目には「一心不乱に父に親しみきっているように見えながら、その癖心の底ではどうしてもこの父に真の親しみを抱き得なかった、私の本当の気持ちを知ったとしたら、恐らく父としてもかなり淋しい気がしたのではなかっただろうか」。
伸六はこうして父を「欺き通した」ことについて、「病気を離れた真実の父に対して、本当に申し訳なかったという侘しい後悔の念を感ずるのである」。

ある日伸六が幼稚園から帰ってくると、母が女中をつけて兄弟で外に遊びに出したことがあった。「暗い中の間の仏壇の前で、その時母はジッと拝んでいた。家の中はシーンと静まりかえって、コソッという物音一つ聞こえなかった。しかし私はフッと、間の襖を一つ隔てた隣の書斎に父がじっと虎のように蹲っているのを、心のどこかかに意識した。仏壇の前で母は、たしかに泣いているようようだった」。母は「険悪な父の前に曝させまいという親心」で兄弟を女中をつけて外に行かせた。いつもなら転げまわって遊ぶのだが、この日ばかりは「途中で女中の買ってくれたお煎餅やジャミパンを味もなくボソボソとかじりながら、赤い夕日が遠く黒い屋並の果てに沈んで行くのを、じっといつまでも眺めていた」。


と、このように書くと夏目家は暗く沈んだ家庭であったように思えてしまうかもしれないが、漱石が「病気」の時以外はわいわいと楽しくやってもいたし、それは漱石の日記からも窺える。とりわけ雛子を失ってからの漱石は子どもたちを可愛がった。「夜愛子熱出る、氷で頭を冷やす、エイ子を相手に鞠をつく」「こたつで愛子とふざけて遊ぶ。御八つの焼芋を食ふ」「夜ストーブを焚き、子供と唱歌を歌う」といった記述が引用されている。
「伸六インキンタムシのことを南京魂と云ふ」なんてところは、小説のネタ探しをかねていたのかもしれないが、子どもらしい言い間違いや勘違いを素直に面白がる父親らしさがよく出ている。

ここに出てくる、伸六のすぐ上の姉である愛子は「私等兄弟のうちで、たった一人、少しも父をこわがらなかった」そうだ。「昨夜アイ子と寝る。夜中に、わが腹を蹴る事幾度なるを知らず」とあるように、よく父とも一緒に寝ていたそうで、ほとんど怒られることがなかったのはこの愛子だけだった。

愛子から下の子どもたちは機嫌を損ねると、縁の下や押入れなどに閉じこもり「示威運動」をしていた。伸六はというと「八十五銭の喇叭を買へと云ふのを排斥されたので怒つて縁の下へ這入つて仕舞つた。どうしても出て来ない。あい子が海苔巻きを縁の下に出すと、怒つて居る伸六も食ひたいと見え手、パクリと食ふのださうである。其の代わり口は決して利かない」。純一が怒って裸で縁の下にもぐりこんで、どうしても出てこず、人が近寄ると泥を投げるなんてことも漱石は日記に書いている。愛子はさすがに縁の下にはもぐらなかったようだが、「その代わり彼女は、よく湯殿の風呂槽の中へ篭城するのを得意とした」。
これも父の「病気のわるい時」に育った上の姉たちからすれば考えられなかったことだろう。

漱石がとりわけ愛子を可愛がったのは雛子のことがあってのことだろうが、またこんなことも父を面白がらせたのかもしれない。漱石は日記に「あい子怒つて曰く御立腹だから面会は出来ないよ」と書いている。これはどうやら、漱石の機嫌が悪い時に弟子たちが「今日は先生御立腹だから面会は出来ないよ」などとひそひそと話しているのを耳にして、それを真似たらしい。まだ幼い娘が「御立腹だから面会は出来ないよ」などと言って腕組みでもしながら口をとがらせている様子は、父親からしたらさぞ可愛らしく写ったことだろう。

漱石は甘党にして食いしん坊でも知られるが、胃を壊した後は胃に悪そうな菓子類は妻の鏡子が目につかない場所に隠しておいた。それでも漱石は午後になると書斎から出て、棚を開けたり閉めたりしながら菓子を物色していた。鏡子がいないと、「お菓子なら、ここにある、お父様」と愛子はすぐにありかを教えてしまい、漱石は「そうかそうか、愛子は、中々親切者だな」と御機嫌になって菓子をぱくついて書斎に戻っていった。


本書はまた、漱石の弟子たちを漱石の息子の目から見ての評としても面白い。弟子たちの多くが独占欲が強く、自己中心的でわがままで、といった印象は否めない。そのダメダメっぷりはついイエスの十二使徒と比べてみたくなるが、なんとかの子ほど可愛いというが、不肖の弟子であるだけに漱石もなおよく面倒を見たというところもあったのかもしれない。森田草平なんて何度匙を投げられてもおかしくないことをしでかしているのだが、漱石は根気強く世話をし続けた。

本書で一番笑ってしまったのはこんなエピソードだ。森田が法政大学で英語を教えていると、訳が曖昧でわかりにくい所があると質問に来た学生がいた。すると「僕に君、そんな難しいこと聞いたって解りゃしないよ、ハッハッハッハハ!」と他人事のように笑った。そのくせ「一向に要領を得ない上に、試験の点数だけは無闇と辛かった」。学生からしたら最悪の教師で笑い事ではないのだが、森田がこれをやるとなんだか彼らしくて思わず笑ってしまう。本書で語られている森田の珍エピソードの数々を読むと、まあ漱石が可愛がったのもわからなくはないと思える一方で、もし自分ならこんな人と付き合うのはまず無理だとも思えてもくるが。

寺田寅彦を別格とすると、弟子の筆頭格といえるのが小宮豊隆で、当人もそれを自認していたことだろう。しかし漱石の息子の立場からすると、この小宮は鏡子「悪妻」説を広めた張本人であり、本書にも複雑な心境が垣間見える。

小宮は学生時代から夏目家に出入りし、当然鏡子とも長い付き合いである。鏡子は気風がよく世話好きな面もあったため、小宮もそれに甘えていた。漱石が胃を壊して食事がとれない時に、小宮は鏡子に鰻をねだって漱石を閉口させたりもしている。
「小宮さん自身にしたところで、若い学生の頃は勿論のこと、父の死後もずっと、私の母とは親しくもし、随分と世話になった関係上、個人的には、別に、この母に、それほどの悪感情を抱いているという訳でもないのだろうが、ただ、絶対の父と俗物の母とを一対にして、おのが祭壇に安置してみて、始めて、異質に悩まされる御神体が、何ともいとおしくてならなかったのに違いない」。

漱石の命日の九日には「九日会」が夏目家で開かれていたが、小宮は森田と鈴木三重吉を相手に「もし先生が、もっといい奥さんを貰っていたら、果たしてどんな作品を書いたろうかと思うと僕は……」と、深刻げな面持ちで口をつぐんだことがあったそうだ。軽口ならいざしらず、よりにもよって夏目家で、真面目な話題としてこんな話を持ち出す神経は確かに理解し難い。鏡子はもちろん席を外していたのだが、伸六はこのやりとりを耳にしてしまい、「何と無意味なことをいう人か」と、「軽蔑の念」を覚えたとしている。

もっともこれは小宮に限ったことではない。長女の筆子が「結局あれね、うちのお父様もお母様も、子供を育てる上には全然失敗ね。二人とも無能力だわ」などと言うと、森田も「もし先生が筆子さんのような気立ての奥さんを持っていられたら――」などと「笑止な想像力をめぐら」せている。
伸六は森田や鈴木については愛すべき不肖の弟子のように感じながら小宮について冷ややかなのは、悪妻説云々もさることながら、個人的に折り合いが悪かったということもあるのかもしれない。

伸六も書いているように、だいたいが小宮などが望むような「よくできた妻」を娶っていたとしたら、漱石があのような小説を書いていたのかわかったものではなく、全くのナンセンスな仮定である。さらに本書にあるように夏目家の猫をめぐる鷹揚というか豪放磊落というか、そのようなメンタリティを持つ鏡子だからこそあの漱石の妻が務まったというところもあろうし、鏡子なくして小説家漱石はなかったとすらしてもいいだろう。

ちなみに伸六は筆子についてもかなり辛辣なことを書いている。この伸六はあるいは気質の点では漱石を一番受け継いでいるのかもしれない。漱石は手紙に「伸六は申年に生まれた子だけあっつて、生まれた時から頭に一杯毛が生えて居ます」などと書いているが、筆子の長男が子どもの頃は「無闇と色の黒い不器量な子」だったので、この甥っ子を「溝鼠(どぶねずみ)」と呼んでいたそうだ。筆子は「この溝鼠という名称が何としても気に食わぬらしく」(そりゃそうだ)、伸六の子どもの頃を「青んぶくれの、酷いけちん坊の、大変な癇癪持ちの……」と穿り返したそうだ。

このあたりはもちろん本気で罵り合っているのではなく、江戸っ子的なべらんめい調のやりとりなのだろうし、漱石も本来はこうした快活な口の悪さとでもいうべきものを持った人だったのだろう。それだけに漱石の「病気」のことを思うと痛々しさも増すのであるが、妻や子どもたちからしたらたまったものではなかったのだろうが。

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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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