『あなたの人生の物語』、あるいはバーンとではなくしくしくと

この文章を読んでいるあなたがどこの誰だか知らないが、あなたの未来を予見できる。あなたは死ぬ。それがいつなのか、自ら決意し実行するのか、不意に訪れる事故によるものか、家族に囲まれ自宅のベットで安らかに眠るように老衰で息を引き取るのかはともかく、あなたは必ず死ぬ。そしてもちろん、僕も。

ハイデガーは死の先駆的決意性が云々というようなことを言ったが、要は人間というのは自分がいつか必ず死ぬというのを知っているということだ。動物は本能的に死を避けようとするし、それは死を恐れているということである。しかし動物は、(おそらくは)自らが必ず死ぬ存在であるとは考えていない。不可避な死を意識する存在こそが人間なのである。

死ぬと決まっているのなら、なぜ生きねばならないのか。ハイデガーはむしろここに積極的な意味を見出そうとした。必ず死ぬという避けがたい事実を積極的に引き受け、その上で行動に移るということの気高さ。これが行動の是非ではなく、それが何であろうが行動すること自体に意義を見出すという倒錯したものに転化していきかねないことは簡単に予想できる。そしてその通り、彼はナチスにその可能性を見て、自らナチスを「指導」しようとさえ考えた。ナチス側からすれば、利用価値があると思えたから利用したまでで、ハイデガーとその思想を共有しようとなどとは思ってもみなかったことだろう。

ハイデガーはあまりにナイーヴであったが、無論このナイーヴさによってその過ちが相対化されるものではない。彼の内部に巣食っていた反ユダヤ主義をはじめとする保守反動家としての顔、誇大妄想的自民族中心主義こそがハイデガーをナチス支持に向かわせたというのは、近年「黒ノート」の研究の進展などによってますます動かし難いものとなっている。ハイデガーはナチスへコミットメントしたが、すぐに失望することになる。しかし彼は第二次世界大戦後もナチスへの加担について後悔や反省を述べることはなく、内面においてもそうすることはなかったとしていいだろう。

サルトルの政治的立場はハイデガーとは正反対のものであるが、その実存主義やアンガージュマンの思想などはハイデガーからの強い影響を受けてのものである。
人間は何か理由があって生まれてくるのではない。人類という種にとっては、一人の人間の生き死になどどうでもいいことだ。私が今ここにいるというのは、自ら望んだのでも神の意思によって導かれたものでもなく、ただ存在しているというだけに過ぎない。しかし人間は選ぶことができる。革命が歴史の必然なのだとしたら、わざわざ革命など起こそうとしなくとも起こるべくして起こるものであって、革命に身を投じるなど無意味ではないか。そのような冷笑に抗い、あえて革命に身を投じるという選択肢を人間は持っている。それをするのかしないのかを選ぶことはできる。

ハイデガーもサルトルも自殺をしなかったというのは、彼らからすればしごく当然のことであったとすべきだろう。


トラルファマドール星人は自らの死どころか、宇宙がどのように滅びるのかをも知っている。「われわれが吹きとばしてしまうんだ――空飛ぶ円盤の新しい燃料の実験をしているときに。トラルファマドール星人のテスト・パイロットが始動ボタンを押したとたん、全宇宙が消えてしまうんだ」。
しかし恐怖におびえたり、なんとかそれを阻止しようと空しい試みを行うことはない。なぜなら、「そういうものだ」から。

「彼は常にそれを押してきた、そして押しつづけるのだ。われわれは常に押させてきたし、押させつづけるのだ。時間はそのような構造になっているのだよ」トラルファマドール星人はそう説明する。
ビリーは途方にくれて、それでは「地球上の戦争をくいとめる考えも、バカだということになる」と訊くと、「もちろん」と返される。

「ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間をながめながら、われわれは永遠をついやす――ちょうど今日のこの動物園のように。これをすてきな瞬間だと思わないかね?」

母の自殺や捕虜として経験したドレスデン爆撃などの癒し難いトラウマ、そして鬱の靄を彷徨う中で、カート・ヴォネガットは『スローターハウス5』を書いた。「そういうものだ(so it goes)」というのは、冷笑家によるせせら笑いではなく、深く傷ついた人間が必死に搾り出したものである。

「『スローターハウス5』と『チャンピオンたちの朝食』は、もとは一つの本だったが、完全に二つに分かれてしまい、水と油のようにどうしても混じり合わない。そこで上澄みをすくったのが『スローターハウス5』で、あとに残ったのが『チャンピオンたちの朝食』だ」と、ヴォネガットは語っている。

このインタビューも引用されている『チャンピオンたちの朝食』の訳者あとがきに、有名なエピソードへの言及がある。この小説を読んだ12歳の少年から「ヴォネガットさん、どうか自殺しないでください」という手紙が送られてきて、ヴォネガットは「もうだいじょうぶだよ」と返事を書いた。浅倉久志はこれを「ちょっといい話」とし、ヴォネガットが「この小説を書くという自己療法で自殺の危機を克服」したとしている。

ヴォネガットもまた自殺をしなかった。しかし、彼の内部にこびりついた「危機」を克服できた結果なのではなかった。こちらに書いたように、実際にこの後に自殺未遂騒動を引き起こすことになるのであるが、そのことを知らずとも、結末に置かれたヴォネガットによる涙を流している自画像は、文字通りのカタルシスを得て危機を脱出したものだとは、初めて読んだときから僕には思えなかった。作中に現れたヴォネガットは、トルストイが農奴を解放したように、トマス・ジェファーソンが奴隷を解放したように、「これまでの作家歴をつうじてわたしにとても忠実に仕えてくれたすべての登場人物を、ここで自由にしてやろうと思う」と、登場人物を(キルゴア・トラウト以外には知らせずに)解き放つ。

ではヴォネガットはこれで筆を折ったのかといえば、そうではなかった。60年代に傑作を次々とものにしたヴォネガットだが、70年代以降はその輝きにやや陰りが生じたという印象は否めないであろう。T・S・エリオットは「空ろな人間たち」で、「バーンとではなくしくしくと」と書いたが、自殺もせず、筆も折らなかったヴォネガットはまさにそうだとしてもいいのかもしれない。『チャンピオンたちの朝食』の結末で涙を見せたヴォネガットは、しくしくとしたまま、その生涯を終えたとすることもできよう。

「心優しきニヒリスト」であるヴォネガットをSF作家とすることは、レイモンド・チャンドラーをミステリー作家とするのと同じくらい居心地が悪くも思える。二人とも、世に出るために、そして生活のためにジャンル小説を安手の雑誌に書きなぐった。もちろんそれぞれのジャンルに通じているのであるが、ではそのジャンルを偏愛しているのかといえば、そうとまでは思えない。ハワード・ホークスが『大いなる眠り』を映画化する際に、「ところで運転手を殺したのは誰なのか」と問い合わせると、チャンドラーは「知らない」と答えた。煙に巻いたのではなく、実際にどう注意深く読もうが運転手殺しの犯人は不明のままであり、意図的にそうしたというよりも、単にチャンドラーは関心がなかっただけだろう。『大いなる眠り』をミステリー小説として考えるとこれは大きな瑕疵である。しかしこの作品に限らず、チャンドラーのファンはそんなことを気にしないはずだ。チャンドラーにはフィリップ・マーロウを生み出し、行動させるためにミステリーという入れ物が必要であったが、大切なのは入れ物の中身であって容器ではなかった。

ヴォネガットの作品には異星人が登場し、「時震」が起こり、近未来ディストピアが描かれる。しかしヴォネガットは、最新のテクノロジーが人間や社会をいかに変革するか、想像を絶するファーストコンタクトの際にいったい人間の精神に何が起こるのか、心はずませるような画期的なガジェットを生み出すといったようなことに、中心的な関心があったとは思えない。チャンドラーがミステリーという入れ物を必要としたように、ヴォネガットもSFという入れ物が必要だった。

『スローターハウス5』の訳者あとがきで伊藤典夫はこう書いている。
「時間的経過にのっとった物語形式をわざと分断させた(読みづらくはないけれども)奇妙な構成、事実とファンタジイの渾融、空飛ぶ円盤、時間旅行といったSF的趣味、ほとんど無性格に描かれた登場人物たち――しかしヴォネガットには、このようなかたちでしか自分の体験を語る方法はなかったのだ」。
そしてこれは『スローターハウス5』に限らず、ヴォネガット作品全体にもあてはまることだろう。


なぜこんなことを書いているのかというと、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』を読んだからである。

チャンは寡作として知られ、本職を持ち、カネのために書き飛ばすということをしない作家である。この本は発売時までに発表されたすべての作品が収録されているそうだが、あたかもベスト盤であるかのように、どれも質が高く、傑作、秀作ぞろいになっている。

内容も多岐に渡っていて、狭義の意味のSF(サイエンス・フィクション)からはみ出るものもある。山岸真の解説によれば、チャンへの「インタビュウで決まって話題になるのが、SFとファンタジイの違いについてである」そうだ。例えば「地獄とは神の不在なり」は、「天使降臨などのキリスト教的世界観が自然環境の一部として具現化していること以外は、われわれの世界と変わらない世界」が描かれている。そして「主人公が科学的視点をもってはいても、この作品舞台はファンタジイ的世界だというのが作者自身の見かた」である。

『スローターハウス5』の解説で伊藤は『タイタンの妖女』が「荒唐無稽な宇宙ファンタジイ」と受け取られたため(「まさにそのとおりなのだ!」)、発表当時は広汎な読者を獲得できなかったとしている。SF作家でありつつ「ファンタジイ」を恐れないチャンがヴォネガットに関心を抱くのも当然であろう。

チャンは巻末に収録されている「作品覚え書き」で各作品の成立過程や捕捉説明などを行っている。表題作「あなたの人生の物語」は、「物理学の変分原理に対する興味」があったがどうしていいかわからなかったところに、「乳ガンと闘う妻を題材にしたポール・リンケの一人芝居、<生きている君といると時が経つのを忘れる>」を見て作品化できると感じたのだという。そして「この話のテーマをもっとも端的にまとめたもの」として、『スローターハウス5』の25周年記念版でのヴォネガットの自序から引用を行っている。ここで、スティーヴン・ホーキングが「われわれが未来を思い出すことができないのをじれったく思っている」のに対し、ヴォネガットはこう言ってやりたいとしている。「しんぼうしていたまえ。諸君の未来は、諸君が何者であろうと、諸君のことをよく知り、愛してくれる飼い犬のように、諸君のもとにやってきて、足下に寝そべるだろう」。


『スローターハウス5』からもインスピレーションを得ている「あなたの人生の物語」を読むと、ヴォネガットとチャンの二人の作家の資質の違いがはっきり見えてくることになる。

言語学者のルイーズは、地球にやって来た「ヘプタポッド(七本脚)」のエイリアンの言語の解析にあたっている。これと平行して、ルイーズは自分の娘へと語りかけ、そして自分たちの未来の出来事が描かれる。過去を回想しているのでもなく、ヘプタポッドとの接触によって未来を予見できるようになるという意識の変革が起こりフラッシュフォワードとして現れるのでもなく、まさに平行しており、これがヘプタポッドの言語構造とも関係していることが明らかとなっていく。

言語学チームが着実に作業を進捗させているのに対し、科学チームはこれという反応を引き出すことができなかったが、ついに応答を得ることができたのが、フェルマーの「最小時間の原理」についてであった。光線が空気中から水中に入るとあのように屈折するのはなぜなのか。「仮定の経路はどれも、現実の経路より長い時間を要する。言いかえれば、光線がとるルートはつねに可能な最速のものになるということだ」。

ゲーリーはこれは「誤解を招くもとになる」として、こう補足する。「フェルマーの最小時間の原理ってのは不完全なんだ。(……)光はつねに所要時間が最小になるか最大になるかのどちらかの経路、つまり“極値の”経路をたどると言うほうが正確だね。最小と最大はある種の数学的属性を共有するから、ひとつの式で両方の状態を記述することもできる。だから、厳密に言えば、フェルマーの原理は最小の原理じゃない。いまはそれに代わって、“変分”原理として知られているんだ」。

現実に眼の前で起こっているこの現象であるが、頭で考えると妙なものだ。
「“最速の経路”なる概念は、目的地が特定されねなくては意味をなさない。また、所与の経路がどれだけの時間を要するのかを計算するには、その経路の途中になにがあるか、たとえば水面があるかといった情報も必要となる」。
つまり、「光はそもそもの始まりの時点で、すべてを計算していなくてはならない」のである。

「光線は動き始める方向を選べるようになるまえに、最終的に到達する地点を知っていなくてはならない」、ルイーズはこう説明され、「思いあたるふしがある」と考えた。

「物理学の基本法則は時間対称的であり、過去と未来に物理的差異はない」というのは、理論的には「イエス」と答えられたとしても、自由意志を考えれば現実に則するとたいていが「ノー」と答えるだろう。「ボルヘス風の寓話」で異論を展開する。しかし、ヘクタポッドにとってはそうではないのかもしれない。そしてヘクタポッドの言語構造から、その世界観が浮かび上がってくることになる。


『スローターハウス5』を、そしてヴォネガット作品を読む度に僕は憂鬱になってくるし、そうであるから読み返すのを躊躇したくなる。そしてだからこそ、僕はヴォネガットがたまらなく好きでなのである。

僕はヴォネガットのような体験をしたわけではないが、この世界に生きていることは、「そういうものだ」とでもしなければやり過ごせないほど苦しいものだとも感じてしまう。
フィリップ・マーロウは自分がどう振る舞おうとも、彼はロサンゼルスという腐敗した街が清潔になるとは信じていない。それでもマーロウは、自分がなすべきことをなす。これは自分の行動に象徴的な意味を見出しているのではなく、自分という人間の有り方の問題なのだ。

「そういうものだ」と肩をすくめてなんとかやり過ごそうとする人間は、愛を信じることはできないかもしれない。でも、ヴォネガットは「愛は負けても親切は勝つ」と言う。母の自殺がなかった世界、ドレスデン爆撃がなかった世界はもう存在しない。こういった悲劇が生み出された世界を変えることはもうできない。それでも、この世界を愛することはできなくても、親切にすることならできるし、それは世界を少しはマシなものにしていくはずだ。

ハイデガー流の「決断」もできず(もちろんすべきでもないが)、革命に身を投じるというよりはぬるいとも映る漸進的社民主義者であり、自殺もできないような人間は、「しくしく」と生きて、死んでいくことしかできないのかもしれない。だから僕はヴォネガットの作品を読むと絶望的になってくるし、それでも「親切は勝つ」と言うヴォネガットと彼の作品が愛おしくなる。

「あなたの人生の物語」を読んで、素直に「感動」できる人もいることだろう。またボルヘスに言及があるように、その円環構造はよく練られた、ウェルメイドな作品となっている。涙を誘うような「感動的」物語でありながら、それは「しくしく」としたパセティックなものであるというよりも、「理」が勝っているという印象が強い。チャンは「ファンタジイ」をおそれないSF作家であるが、やはり彼はどこまでもSF作家なのであろう。「あなたの人生の物語」はセンス・オブ・ワンダーに貫かれたもので、カール・セーガンの『コンタクト』がそうであるように、SF的意識を貫徹したものでありつつ、それはヒューマンな要素と矛盾するものではない。

「あなたの人生の物語」は素晴らしい作品であり、もちろんこれは優劣の問題ではないが、「しくしく」とした、破綻すれすれというか、反則といっていような物語を紡ぐヴォネガットのような作家こそが、僕にとっては改めて近しく思えてくる。


今さらながらにようやく『あなたの人生の物語』を読んだのは、本作が邦題『メッセージ』として映画化されたからだ。ジョージ・ロイ・ヒルによる映画『スローターハウス5』も好きではあるが、やはり映像化というのを考えるとこのようなウェルメイドな作品の方が相性がいいのだろう。前評判は非常にいいこの映画化は如何に。ドゥニ・ヴィルヌーブ監督って『ボーダーライン』なんかもそうだったけれど、個人的には前半はものすごく面白いのに、後半はもう一捻りあればなあといままに肩透かし感もあるように思えてしまい、『灼熱の魂』がやっぱり一番なようにも感じられてしまうのだけれど、今回は個人的趣味に合致してくれるのだろうか。そして『ブレードランナー』の続編も……


プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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