『彼女のひたむきな12ヶ月』

アンヌ・ヴィアゼムスキー著 『彼女のひたむきな12ヶ月』




『少女』でロベール・ブレッソン監督の『バルタザールどこへ行く』の主演に抜擢された顛末を描いたアンヌ・ヴィアゼムスキーが、本作では『少女』においてちらっと顔をのぞかせていたジャン=リュック・ゴダールとの出会い、恋愛、そしてこれもヴィアゼムスキーが主演を務める『中国女』の撮影の模様を描き、二人の結婚と映画の完成までを語る。

「自伝的小説」ということになるのだろうが、読み始めた読者は本書をそうカテゴライズしていいものだろうかと迷ってしまうことだろう。というのも、『少女』に引き続いてヴィアゼムスキー当人はもちろん、ゴダール、ブレッソン、フランシス・ジャンセン、フランソワ・トリュフォー等々がいずれも実名で登場する。「小説」というよりも「回想」とすべきではないか、読み始めはそうとも感じられるかもしれないが、読み進むうちにやはりこの作品は「小説」とするのにふさわしいと思てくる。

ここに描かれるのは、後光が差した神話的存在としてのゴダールだろうか。むしろ彼は俗物然とした姿で描かれる。では本作は偶像破壊的な物語なのか。ゴダールについてある程度知識がある人なら、ここで描かれるゴダールに驚きひっくり返るようなことはないだろう。多くの人に知られている、あのゴダールがここにいる。

あるいはこれはありきたりの話なのだろうか。30代半ばの中年男が娘といっていいほど年の離れたハイティーンの少女に入れ揚げる。男は自分好みの女にしようと「教育」を始める。そして女にとっては、少女から女へと変わり始める時期、ここではないどこかへと連れて行ってくれる知識と財力を持つ男の存在はその実像以上に魅力的に写ることだろう。しかし、なにせゴダールとヴィアゼムスキーの関係を描くのであるから、この物語はありきたりのものにはならない。

映画『17歳の肖像』などに代表されるように、この手の物語は、少女が現実に復讐される形で男に幻滅をし、この経験によって少女から女へと成長していくといったあたりになっていくのが常套である。しかし本作は、むしろ「信頼できない語り手」の系譜に連なるとしてもいいのかもしれない。少なからぬ読者は、ヴィアゼムスキーの語りをどこまで字義通りに捉えていいのか、いささか躊躇いを持つだろう。

ノーベル文学賞受賞者であるフランソワ・モーリヤックが祖父であること、ガリマール社の御曹司であるガストン・ガリマールが幼馴染であること、上流家庭での生活が当然のごとく内面化されていることなどがさらっと書いてある。そして冒頭近くで早くも、ジャンセンに哲学の個人教授を頼むと友人から「君は本当に年寄りにしか興味がないんだね!」とからかわれ、このからかいは反復される。

ゴダールと初めて結ばれると、彼から「そんな知識どこで憶えたんだ?」と「疑り深」い質問をされる。ゴダールはヴィアゼムスキーがブレッソンとは愛人関係にあったのではないかと疑い、ジャンセンに嫉妬する。中年男が少女に入れ揚げた際に、男は徐々に実は弄ばれているのは自分の方なのではないかという猜疑にかられることだろう。しかしこの物語では、ゴダールは初っ端から不安と猜疑に襲われることになる。

総革張りのシートのアルファ・ロメオを自慢げに見せつけるゴダール。しかしヴィアゼムスキーはきょとんとして「私、車のことは何も知らなくて」と言う。「少女らしい」無垢さともとれる一方で、上流階級育ちの女性に財力を見せつけようとするゴダールをせせら笑っているように見えなくもない。実際にはそのような描写はなく、ヴィアゼムスキーは本当に車に興味がなくいったい何を自慢しているのか理解できないとしてあるのだが、これをそのまま受け取っていいのだろうか。少なくとも、熱烈に彼女に迫るゴダールとの駆け引きであることは疑わせる。

このように、ある意味では読者に肩透かしをくらわせながら物語は進んでいく。嫉妬深く独占欲が強く自己中心的で横暴で時には粗暴にすらなるゴダールの姿は不吉な予感を与えるが、少なくともここで破局的な展開とはならない。ジャンセンやゴダールの「教育」によって成長していくヴィアゼムスキーであるが、中年男たちの手からするりと抜け出ていくか、あるいはその圧力に擦り切れていくといったことにもならない。中年男と少女の妄想のラインを外れることなく進んでいく。

もちろんこれは、ヴィアゼムスキーが話しをでっちあげているというのではない。ジャンセンが『中国女』に登場する顛末をはじめ、散々語られてきた有名なエピソードも多く、おそらく本書で描かれることのほとんどが実際にあったのだろう。

言葉は悪いが、ヴィアゼムスキーは「中間」の女性として扱われがちだ。ゴダールのミューズとして誰もがまず思い浮かべるのはなんといってもアンナ・カリーナであり、70年代半ば以降はアンヌ=マリー・ミエヴィルとパートナーとなり現在に至っている。

ゴダールにとっても、そしてヴィアゼムスキーにとっても、ちょうどこの1967年というのは過渡期であった。一つ間違えれば成金趣味とも映りかねないゴダールの金銭感覚(実際はゴダールもかなりいいとこのお坊ちゃんであるのだが)。ヴィアゼムスキーが「良家の子女」であることが、熱烈な恋心と無関係であっただろうか(後にゴダールは袂をわかったかつての親友トリュフォーが大手映画会社の経営者の娘と結婚したことにネチネチと粘着しまくることになるのだが、これは自分の体験があればこそだったのかもしれない)。一方でゴダールの左傾化はすでに始まっており、まさに『中国女』はそれを高らかに宣言したもので、この後には極左化していくことになる。ヴィアゼムスキーは祖父であるモーリヤックに否定されながらも大学で哲学を学ぶことを決め、ヴァカロレアのためにジャンセンに個人教授まで頼む。しかしゴダールと出会い、映画に魅了され、いくらかためらいがちながらも女優へと傾いていき、大学はあっさりと辞めてしまう。ゴダールの名を捨てたゴダール作品に付き合いつつ、パゾリーニなどの作品に出演をするが、女優からも離れていき作家となっていく。
本作はゴダールとヴィアゼムスキーの物語だけにありきたりのものとなるわけにはいかず、そしてこの時期の二人がいかなる状況であったのかが、作品を通して語られているかのようだ。


ペンディングされたかのようなこの物語には、当然ながら後日談が欠かせないことになる。ヴィアゼムスキーはUn an apresという続編を書いている。
そして本作は映画化され、なかなかの評判であるようだ。日本には来るのだろうか。





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佐藤太郎(仮)

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