『オはオオタカのオ』

ヘレン・マクドナルド著 『オはオオタカのオ』






ケンブリッジ大学でリサーチ・フェローとして教鞭をとっていたヘレン・マクドナルドに、父が亡くなったという突然の電話があった。強いショックを受けた彼女は、かねてから夢見ていたオオタカを飼うことを決める。本書は約一年に渡る、メイベルと名付けられたオオタカとの生活、そして様々な思索の記録である。

親しい人を失った喪失感が、動物を飼うことによって、あるいは自然に溶け込むことで癒されていくというのはよくある話だろう。本書も広い意味ではその系譜となる。しかしなにせ飼うのがオオタカである。犬や猫、あるいは馬などとはまったく異なる体験となり、単なる「癒しの物語」とは一線を画するものとなっている。さらにはオオタカをめぐる歴史や、やはりオオタカを飼った経験を本に記したT・H・ホワイト(その『永遠の王』はディズニーの『王様の剣』の原作となった)の『オオタカ』を、自身の経験と比較して批評的に読んでいくという作業が平行してなされ、奥行きの深いものとなっている。


マクドナルドは幼少期からオオタカに憧れていた。猛禽センターで働いたこともあり、その生態などは、調教の困難さも含めて理解していたつもりだった。しかし実際に飼い始めると、それは想像を超えたものともなる。普通は動物を飼い始めると、距離が縮まっていき、通じ合えたと思える瞬間が訪れ、あとは安定した関係を築くことになる。しかしメイベルとの関係はそうたやすくはいかない。自分の不安がメイベルに伝わっているのではないかと思えることもあれば、メイベルの不安や恐れ苛立ちが伝染したようにマクドナルドも人間を避けたいとまで思い始めることになる。安易な一体化を拒むのもオオタカである。これはまた、喪の経験とつながるところもあるだろう。

マクドナルドとメイベルとの関係において最も興味深かったのが、その「野生」に関する感覚についてだ。マクドナルドは、食肉用に狭いケージに閉じ込められて育てられる動物を食べるよりも、タカによって狩られた動物を口にするほうがいいのではないかと思っていた。それでも、メイベルが狩をするようになり、自分の手でウサギなどにとどめをささなければならない経験をすると、そのように考えることも難しいとも感じるようになる。彼女は死を知らなかったのではない。12歳の時にはオオタカが雉を捕まえるのも見ており、命を奪う、奪われるという関係には自覚的であったが、それでも強烈な体験となる。ここで安易に「野生」を上辺で理解し受け止めることをせず、また人間を基準にして距離を取るのでもなく、命を奪うことやメイベルとの関係を見つめなおしていく。


ホワイトの著作をめぐっては、その調教方法やオオタカをめぐる考え方に強い反発を覚えつつも、教師という点では共通点もあり、当時は絶対に明かすことが許されなかった同性愛者で政治的にもかなり混乱していたその生涯を辿ることで、鳥瞰的立場から裁きを加えるのではなく、ホワイトという人物がマクドナルド自身の体験と時に重なり合い、時に前よりもさらに反発を抱きつつ、立体的に浮かび上がるようになっている。

イギリスでは一度オオタカは絶滅しており、ヨーロッパ大陸から再び迎え入れられたものである。ホワイトもドイツからオオタカを購入している。言うまでもなく、鷹狩は一般大衆によって広く行われるものではない。一部の特権的な人々によって行われることから、象徴的意味合いも帯びることになる。

マクドナルドは学生時代にフロイトを読んで以来、「もともと持っていた鷹狩り関係の本にもさまざまな感情転移を見いだすようになった」。
「十九世紀の鷹匠たちは、近代生活によって脅かされていると自らが考える野生、力、雄々しさ、自立性、強さといった男性的性質を鷹に投影していた。調教中の鷹と自己同一することによって、彼らは野性的で原始的な動物を「文明化」することで、自らの権力を行使することができた。男らしさと征服という、大英帝国の二大神話がひとつの行為で手に入るのだ。ヴィクトリア朝時代の鷹匠は、鷹の力と強さを身に着けた。鷹は人間のやり方を受け入れた」。

一方20世紀前半を生きるホワイトの鷹に対する投影は、これとは異なるものだった。「そのドイツ生まれの若いオオタカは、彼が長年抑えこもうとしてきた人には言えない内なる暗い欲望の生きた表現だった。まさに、この世ならぬ、妖精の、野生の、残忍な、残酷な存在なのだ。彼はあまりに長い間、ジェントルマンであろうと努力していきた。文明社会のきまりに自分を合わせ、普通であろう、ほかの人々と同じになろうとした。しかし、ストウ校に勤務した年月や彼の精神分析に戦争の恐怖が加わり、彼を極限状態に追いこんだ。彼は鷹を好んで人間を拒絶したが、自分自身から逃れることはできなかった。またしてもホワイトは、彼自身の内なる邪悪さや暴力性を文明化しようとする闘いに明け暮れるようになった。ただ今回はそうした性質を鷹に託したうえで、それを文明化しようとしたのだった」。

マクドナルドがメイベルを人にならそうと腕にとめて町中を歩いていると、「話しかけてくる人たちは、みなアウトサイダーだということに気づいた」ように、鷹や鷹匠が社会で持つ意味合いは時代とともに変転していくが、現在でも国際的なコミュニケーションを成立させるきっかけでもあり続けてもいる。そしてまたヨーロッパのその技術が十字軍時代に中東経由で伝わったものであるように、歴史を切り離すことはできない。


19世紀のイギリスの鷹匠の傾向を考えると、ナチスが目を付けたというのは当然とすべきか。1937年、ドイツで国際狩猟博覧会が行われた。「鷹匠の数はドイツ全体でも五十人を超えない程度だったが、この「帝国」では鷹狩のシンボルが隆盛を誇っていた。この鷹狩り展の図録の表紙では、図案化された裸の「超人」が金色のこぶしに載せ、高く掲げていた」。

「ベルリンの博覧会では鷹狩り展に出品したのは、わずか二か国だけだった。ドイツが一等賞を獲得した。英国の鷹匠クラブは二等賞だった」。英国の鷹匠クラブには、ゲーリングからハヤブサのブロンズ像が贈られた。

お互いに名前も知らないが、マクドナルドはメイベルという存在を通してある老夫婦と挨拶を交わすようになっていた。「こんにちは! 鷹は元気?」と気さくに話しかけてきた男は、マクドナルドがさっき鹿を見たというと、「鹿の群れというのは(……)希望を与えてくれるだろう?」と唐突に言った。「希望?」と怪訝に思って問い返すと、「そういうものがいてくれることにほっとするよ。古きよき英国の名残がいまもあるということだろう。こんなに移民がたくさんやってくるようになってもね」と言うのだった。
マクドナルドは凍り付き、気まずい沈黙が流れ、「私はさようならの意味で会釈をし、ひどくわびしい気持ちで、雨のなかをメイベルといっしょにとぼとぼ歩いて帰った」。

メイベルを連れて町を歩いていると、話しかけてきたのは「子ども、ゴス・ファッションのティーンエイジャー、ホームレス、留学生、旅行者、酔っ払い、休暇を過ごす人々」といった「アウトサイダー」であり、マクドナルドも自分が今アウウトサイダーなのだと考えることを悪くないと思った。同時に、この老夫婦のように、鷹や鷹匠という存在から「古きよき英国」という名のゼノフォビアが浮かび上がることもある。

とぼとぼと帰ったマクドナルドは、こう考え始める。
「歴史、それに加えて生き方についても同じことが言える。古きよき英国の話と同様、現在と比べると百年前とか四百年前のこの国とは似ても似つかない。もうすぐ家に着くところだが、私は悲しみ、怒り、ひどく憤慨している。私たちが何者であるかを思い起こさせてくれる風景を守るためになど、闘いたくない。その代り、生命があらんかぎりの多様さでざわめき、輝く風景のためにこそ、闘うべきだと思う。そして私にも罪がある。私は鷹に逃げこむことで、歴史から逃れようとした。邪悪な暗闇を忘れ、ゲーリングの鷹を忘れ、死を忘れ、かつてあったすべてを忘れようとしていた。しかし、私の逃避はまちがっていた。まちがっていたどころではない。危険ですらあった。私は常に闘わなくてはならない、忘却に抗して、と私は思った」。

もちろんこれは、父の死から逃避していたのが、正面から向き合うことができるようになったということでもあり、また象徴としての鷹や鷹匠の歴史を真摯に見つめ続けるということでもある。


「伝統」が持つ危うさにすっかり無頓着になり、それをひたすら快楽として消費することにのみに目がいきがちな現在の日本においても、単に「癒しの物語」にとどまらない視座を持つ本書によって描かれるこの喪の一年は、貴重なものとして響くことになるだろう。







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佐藤太郎(仮)

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