オノ・ヨーコはお嫌い?

アップルパイ神話の時代』(原克著)を読んでいて、ジョン・レノンのWoman is the Nigger of the Worldを思い起こした。


家事をてきぱきこなすしっかり屋で、夫や子どもに無私の愛情を注ぐ、アップルパイをおしく焼くことができるというアメリカの理想の主婦像。実はこれは伝統的女性象でもなんでもなく、20世紀初頭に雑誌や広告等によって作り上げられたものなのであった。

また、かつて南部で黒人女性が焼いていたおいしいパンケーキを家庭で手軽に再現できるというのが売りのミックス粉の広告として、「古き南部」への郷愁をかきたてるような戦略をとるものもあった。パッケージや広告に使われたこの黒人女性も奴隷であったはずなのに、白人たちはその歴史から目をそらし、権利など主張せずに自らの立場を疑うことなく白人に「従順」であった黒人を懐かしむかのようなその広告から、新たに誕生した家事をこなさなくてはならなくなった白人中流階級の主婦をどのような存在にしたがっていたのかは明らかだ。

タイトルにNワードを使っていてぎょっとさせるWoman is the Nigger of the Worldであるが、これはぎょっとさせることこそが目的であった。もちろん当時も、そして今でも白人であるジョンがこのようにNワードを使うことの是非は論じられてしかるべきであるが、これはそれだけ強い言葉を使わねばならない問題なのだというジョンの意識の表れでもあろう。

「女は奴隷の中の奴隷だ 俺の言うことが信じられないというんなら、あんたと一緒にいる人のことを見てみろよ」と唄うジョンのメッセージはストレートなものだ。





歌詞の一部を引用してみる(なお以下歌詞の引用は僕がその場で適当に訳してるものなので間違ってたり変なところがあったらごめんなさい。sheが女性一般、weが男性一般を指していることをはっきりさせるために主語をいちいち直訳調に訳出してみた)。

俺たちが彼女に化粧をさせ踊らせる
もし彼女が奴隷になりたがらなければ、彼女は俺たちのことを愛していないんだと俺たちは言う
もし彼女が本物なら、彼女は男になりたがっているのだと俺たちは言う
彼女のことを押さえつけているってのに、俺たちはまるで彼女が上位にあるかのようなフリをする


俺たちが彼女に俺たちの子どもを産ませ育てさせる
そして太った母さんが陣取るアパートに取り残す
俺たちは家だけが彼女がいるべき場所だと言ってきかせる
それでもって俺たちの友だちに対してどうしてこうも彼女は世慣れていないんだって俺たちはグチるんだ

俺たちは彼女のことを毎日テレビで侮辱している
そのくせ彼女が勇気も自信もないのはどうしてなのかって不思議がっている
彼女が若かった時、自由になりたいという彼女を意志を俺たちは殺した
賢くなんてなっちゃダメだと彼女に言って
俺たちは彼女を押さえつけて口もきけなくしたんだ



またこの歌詞は「ワーキング・クラス・ヒーロー」とも通じるところがあるだろう。





奴らは家で君を傷つけ、学校では攻撃する
もし君が賢ければ奴らは君を憎み、愚かなら見下すんだ
君が奴らのルールに従えないというのなら、もうどうにかなっちまうよ
労働者階級の英雄になるってのはたいへんなものだよ



僕の音楽遍歴(というほどのものではないが)は70年代後半生まれとしてはちょっと変則的で、まずビートルズに夢中になって60年代の音楽を聴き始めて、そのうちにパンクやオルタナといったあたりにも関心を持ちはじめた。
今でも半ば本気でビートルズにはポップス・ロックのすべてがあるなんて考えてもしまうのだが、ではその言葉通りに60年代の音楽ばかりを聴いていたら、オノ・ヨーコについてどう思っていたのだろうか。

ヨーコについては「ビートルズを解散させた女」として怒りと嫌悪をもって見るビートルズファンがいる一方で、真剣に論じるというよりは嘲笑的に扱う人も多い。もちろん嘲笑的に扱うというのは、彼女を軽んじるという強い意志に基づく行為でもある。では、当時から今にいたるまで蔓延るヨーコへのネガティブなイメージのうち、少なからぬ部分がレイシズムとセクシズムから来るものであることをどれだけの人が意識しているだろうか。

ポール・マッカートニーが、女性ファンからも理想のカップルと見られていたジェーン・アッシャーと別れてリンダ・イーストマンと付き合い始めたときにも、リンダに対するバッシングが起こった。あのかわいらしかったポールがむさくるしい髭をはやすなどヒッピー化したのはあのアメリカ女のせいだという恨み節が聞こえたし、ビートルズ解散後にジョンとヨーコの関係を意識してか、ポールがほとんど音楽的素養のないリンダをウィングスのメンバーに加えたことも失笑を買った。しかし西洋人でありアクの強い性格ではないリンダへのバッシングや嘲笑は次第に沈静化していったのに対し、東洋人であり「出る杭」であることを恐れないヨーコは叩かれ続ける。

映画『レット・イット・ビー』などにおける、スタジオに闖入したヨーコの姿は確かに異様な印象を与えるものかもしれない。しかしこのときすでにジョンはビートルズとしての活動にほぼ関心を失っており、ポールがどうしてもというのでいやいやながらに付き合っていたにすぎない。ヨーコと出会ってビートルズからジョンの心が離れたというよりも、すでにバンドから心が離れかけていたところにヨーコと出会ったとしたほうがいいだろう。

ビートルズの精神的支柱であったマネージャーのブライアン・エプスタインの死去後、ポールはリーダーとなってバンドを引っ張ろうとしたのだが、これは次第に空回りとなって軋轢が生じていく。ホワイト・アルバムの製作中に殺伐とした雰囲気に耐えられずに最初にバンドから抜けると言ってスタジオを飛び出したのはリンゴ・スターであったし、インド音楽やシンセサイザーにいち早く関心を持つなど独自の活動も行うようになっていたジョージ・ハリスンは次第にソングライターとしても自信を持ちはじめていた。こう考えると、ジョンとヨーコがたとえ出会っていなかったとしても、ビートルズ解散は時間の問題であり、避けられないことであったとすべきだろう。

ブライアンが生きていればなんとかなったかもしれないが、彼亡き後はこの流れを押しとどめることは誰にもできなかった。だからこそ、ほんの一瞬とはいえこの流れに抗いバンドとしての一体感を取り戻した『アビイ・ロード』に涙するのである(メンバー間の諍いにうんざりしていたジョージ・マーティンが『アビイ・ロード』のプロデュースを引き受けるにあたって出した条件が、もういがみ合わないことだった)。

ヨーコが他のメンバーからひどく嫌われていたことは確かだが、だからといって彼女こそが解散の原因であるというのは飛躍のしすぎだ。後に映画『レット・イット・ビー』となる、レコーディングの模様をカメラに収めて映像作品化するというのはポールの発案であったが、撮影スペースを確保するためのがらんとしたスタジオで常にカメラに追いまわされるのを他のメンバーは不快に感じていた。この時すでにビートルズの面々の心がすっかり離れてしまっていたことを雄弁に語る、リンゴの表情がなんとも切ないあの有名なポールとジョージの間で起こった口論は、もちろんヨーコの存在とは無関係である(ポールがギターについていちいち指図してくることにジョージがキレたのが原因)。





そのことを知っているはずのビートルズマニアも、その「誤解」をとこうとするのではなく、むしろ尻馬に乗るようなケースがある。そしてそれはヨーコが東洋人であり、フェミニストであるというのも少なからず影響していることだろう。

かくいう僕自身も、長らくヨーコの存在を「半笑い」で受け止めており、「ジョンの横で奇声をあげているだけの人」といった明らかに事実に反するような「ジョーク」も、「ネタ」として笑っていた(ヨーコは確かに奇声もあげていたこともあったが、もちろんそれだけではない)。繰り返しになるが、これは彼女をそれだけ軽んじていたということの表れである。

ソニック・ユースなどを聴き始めると、キム・ゴードンはもちろんサーストン・ムーアもヨーコを超のつくほどリスペクトしていることを知るようになった。ヨーコの存在が70年代後半から80年代以降に登場した前衛芸術やフェミニズムなどに親和的な少なからぬアメリカのミュージシャンへ与えた影響が強いことが遅ればせながらにわかり、偏見をもって先入観にこりかたまっていた自分の浅はかさを恥じいることとなった。

今でも日本人が「サークルクラッシャーの元祖」などといってヨーコを嘲笑的に扱っているのが見受けられるが、彼女が持たれるネガティブなイメージの一因が西洋人による東洋人への蔑視にあったのを思えば、これはなんともグロテスクな反応である。

そして何よりもヨーコが嫌われたのは、やはりフェミニストであったからだろう。東洋人の女性に「従順」さという幻想を投影する人(これは西洋人に限らない)にとっては、「内助の功」の真逆を行くようなヨーコのような存在は受け入れがたい。
「女は世界の奴隷だ!」の歌詞は明らかにヨーコからの強い影響下で書かれている(この曲のクレジットはジョンとヨーコの共作である)。マザーコンプレックスのジョンをだぶらかしてろくでもない道に引きずり込んだドラゴン・レディ、ジョンの名前を利用して自己宣伝にはげむ腹黒い東洋女。そんなイメージはビートルズ解散後のジョンの作品によってより強化されていった。そしてそのような中傷に屈することのないヨーコの姿は若い世代からリスペクトを集めるようにもなっていく。

「女は世界の奴隷だ!」は『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』の一曲目に収録されている。これを受けるかのようにして二曲目に登場するのがヨーコによる「シスターズ・オー・シスターズ」だ。




私たちは緑の大地を失った
私たちはきれいな空気を失った
私たちは自分の本当の知恵を失った
そして私たちは絶望の中で生きている


姉妹たち、おお姉妹たちよ
今立ち上がろう
遅すぎることなどない
初めから始めるのに

知恵、おお知恵だ
これが私たちが求めているもの
そう、わが姉妹たちよ
私たちは求めるようにならねば


知恵、おお知恵だ
これが私たちの求めているもの
このために今私たちは生きている

姉妹たち、おお姉妹たちよ
今すぐに目覚めよう
遅すぎることなどない
心からの声をあげるのに


自由、おお自由だ
このために私は闘っている
そう、わが姉妹たちよ
私たちは闘うようにならねば


姉妹たち、おお姉妹たちよ
これ以上諦めないようにしよう
遅すぎることなどない
新しい世界を築くのに

新しい世界、おお新しい世界
このために私は生きている
そう、姉妹たちよ
私たちは生きなければ


新しい世界、おお新しい世界
このために私たちは生きている
私たちがこれを築かねば


なぜヨーコが蛇蝎のごとく嫌われ、そしてリスペクトされるのかは、この歌を聴けばわかるだろう。


「シスターズ・オー・シスターズ」は好きだけれど、これを書きながらあれこれ聴き返していても、やっぱり『ダブル・ファンタジー』のヨーコの曲はやっぱり飛ばしてしまうのだが、まあ、ジョンの曲だってすべてが好きだというわけにはいかないのだから、音楽的に関心を持てないものだってあるのは仕方がない。もちろんそのすべてを肯定する必要ない。

『ダブル・ファンタジー』といえば、個人的には「ウォッチング・ザ・ホイールズ」の歌詞が好きで、十代の頃の僕は「頭がおかしい? 怠けている? なんとでも言ってくれ、僕はただここに座って回っている車輪を眺めているのが好きなんだ」というのを、ジョンが書いた文脈とは違うものかもしれないが(この曲は「主夫」となったジョンに向けられた否定的声へのリアクションだとされている)、自分のことのように思えたものだった。そして気が付けば『ダブル・ファンタジー』のときの、つまり命を落としたときのジョンの年齢に近づいているのであった。ショーンももう父親の年齢を追い越してしまっているのですからねえ……





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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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