『『文藝春秋』の戦争  戦前記リベラリズムの帰趨』

鈴木貞美著 『『文藝春秋』の戦争  戦前記リベラリズムの帰趨』






菊池寛が「リベラルな立場から転じて、対英米戦争へ突き進んでゆく日本の知的大衆を牽引する役割を果たしたことは否めない」。

これについてある批評家は「日中戦争がはじまるとたちまち戦争協力に転じた」とし、「左翼ないし反権力の立場」から「中道主義というものは、そんなものでしょう」としている。また別の批評家は「九・一八以後、急速に右傾化を強めつつあった『文藝春秋』は、全面戦争と同時にファッショそのものになった」とし、「その第一歩が『JAPAN To-day』の発行であった」としている。
これに対し粕谷一希は菊池が、「少しでも日本の国策を理性的たらしめようとした」のだとした。

左派的な人は菊池や『文藝春秋』、そして彼の周辺の人物を「戦争協力者」の一言で片付けようとしがちかもしれない。確かにそれは間違っていない。しかしそれだけで済ませては「リベラリスト」を自認していた菊池がいかなるプロセスで戦争協力へと転じていったのかが見えてこず、歴史記述として不十分となってしまう。

一方で粕谷をはじめとする保守の側は、菊池などに過度に同情的であり、戦争協力、さらには戦争そのものをも相対化しようとする意図が見え隠れする。その結果として「非理性的」に戦前を全肯定する極右にまで接近してしまいがちだ。たとえ菊池が本当に「理性的たらしめようとした」のだとしても、それはあくまで主観的にであって、客観的に検証されなければならない。そして「当時の「日本人のつもり」をいくら明らかにしても、侵略を受けた側の人びとにとっては、さほど意味があるとは思えない」ということは、日本人がまず議論の前提としなくてはならないことだろう。

本書は菊池寛の生涯と彼が創刊した『文藝春秋』の歩みを追い、また『文学界』をはじめとする菊池や文藝春秋社とゆかりの深かった人びとが、戦前から戦中にどのような思考の軌跡をたどったのかを明らかにしていく。


菊池寛はプロレタリア文学が勃興すると「ブルジョワ作家」と非難を浴びるが、これに対し「プロレタリア文学は政治に「仕える」文学、とやり返した」。
では菊池が徹底して反左翼であったのかといえばそうとも割り切れない。菊池は「一貫して無産者に同情的」であり、1930年代にも貧困地区の小学校に寄付をし、その卒業生を文藝春秋に使い走りとして雇ってまでいる。しかも菊池は、1928年には無産政党である社会大衆党から立候補すらしており(結果は落選)、続く30年の選挙でも、自身は出馬しなかったが鈴木文治や西尾末広、宮崎龍介らの応援に「東奔西走」した。「「プロレタリア文学」が盛んな時代で、ブルジョワ作家が無産階級の党から立候補するのか、と揶揄された」が、菊池のこの行動は「資本の横暴に苦しむ庶民の味方」という、政治信念に基づくものというより心情的なものだったのだろう。

菊池の言動は矛盾したものといえばそうだが、彼という人間をよく表したものだとも思える。芥川賞と直木賞を作ったのは菊池であり、彼は亡き友の名を残し顕彰したかった。また生活に困っている物書きには支援の手を差し伸べ、『文学界』のように雑誌ごと金銭的に支えまでする。同時に『文藝春秋』には後の『噂の真相』顔負けの、低俗を通り越して下劣とすらいっていいような文壇ゴシップネタも掲載されていた(主に直木三十五が書いていたようである)。

『文藝春秋』は右と左を切ることによってその間に広がる中道を読者層としたが、これは政治的傾向のみならず、知的傾向としても新たに誕生した新中間層がターゲットであり、これが見事に成功する。経営者としてはワンマン、あるいは封建的とすら映りかねなかったが、面倒見のよさもあって社員の信奉は篤く「親父」と呼ばれた。このように「リベラリスト」という自己規定とは相反するように、近代的というよりは人情には篤いが父権主義的という、良くも悪くも古いタイプの経営者であり、同時に利に敏い編集者でもあった。この中道志向はうまくいけば穏健となるのであろうが、一つ間違うと定見がないということにもなる。菊池と『文藝春秋』はこの陥穽にはまっていくことになる。

菊池をはじめとする『文藝春秋』一行は1930年10月に満鉄に招待される。このように文化人を招き日本から旅行客を呼ぼうというのは、夏目漱石の時代から満鉄が繰り返し行ってきたことである。

横光利一はこれですっかり「満洲」にまいってしまったようで、「満州国」の「建国」以降は礼賛を繰り返すようになり、「「満洲国」では、すべてに「知性」が貫いている、そう断定」したほどだった。また当時「三文文士など招いて何になる」という論調があったが、それへの反発からなのか、直木三十五は「満州事変ののち、「満洲国」にひとかたならぬ肩入れをしていく」。

横光や直木が夜郎自大的イデオロギーにあっさりと感化されたのに比べると、菊池の歩みはもう少し複雑だ。満州事変が起こると、『文藝春秋』のその直後の座談会では米田實がこれを日本人民の権益保護という「自衛権」だと擁護するが、長谷川如是閑は「帝国主義時代は第一次大戦で終わったとし、日中相互の関係で解決すべきだ」と説いた。座談会では「日本には領土的野心はなく、経済権益だけを守ると主張」される一方で、「「日本が手を突っこんではダメ」という意見で一致し、直木までこれに同調しているという。

長谷川は「戦前期『文藝春秋』に最も登場回数の多いひとり」で、「ここに戦前期『文藝春秋』のリベラリズムがはっきり示されている」。さらに30年代半ばには山川均も執筆者として積極的に起用されるようになるが、また軍人によるプロパガンダのような座談会も行われていた。

五・一五事件に対しては『文藝春秋』の誌面では「積極的に批判する記事が目立つ」のに対し、菊池は「被告達の心胸は、維新志士のそれに比して、更に純粋悲壮」と擁護したが、これは「世評の大方を代弁」したもので、「菊池寛の大衆感覚は鋭い」。京大滝川事件でも「誌面では「大学の自治」が脅かされたというトーンが強い」のに対し、菊池が書く「話の屑籠」では冷淡だ。

後にみればすでに軍の暴走が始まっていたのであり、誌面のトーンから考えると編集者らはそれを認識していたであろうことがわかるが、それに対し菊池はあまりに鈍感であったとしていいだろう。大衆の心情に寄り添うのは菊池の商売上の成功の秘訣であるが、同時に政治的理念として譲ってはならない一線を持ち得なかった菊池の弱点もすでに表れている。

二・二六事件には「菊池寛も大きなショックを受けた」。菊池はこの直後に「言論文章などがいよいよ自由を束縛されやしないかと云う不安が、一番嫌だった」と書き、その反応は「五・一五事件のときとはだいぶちがう」。『文藝春秋』には山川に加え片山哲、加藤勘十ら「非戦論、国際協調論」を展開する論者も登場し、「軍にも反ファッショ勢力にも誌面を開いていた」。

盧溝橋事件が起こると菊池の分裂状態はさらに深まるかのようだ。「菊池寛は、戦争の拡大に明確に反対した」とあるように、「早く和平を結べ、という意味」の文章を書いている。しかし同時に天皇主義も公然と掲げるようにもなり、また「臨時増刊「日支全面衝突」の売行きがいい、とも告げている」。このように、「菊池寛の心のなかで、和平を望む気持ちと天皇制の国体尊重と社主としての商売気が同居しているのがよくわかる」。

菊池の分裂を象徴するのが、近衛文麿への過度とも思える期待の大きさだろう。近衛はその学歴、学識から知識層の期待を集めた。同時に彼は天皇家とも縁の深い「名家」出身であり、そして彼を担ぎ支えたのは皇道派でもあった。近衛は当初不拡大方針をとりながら、既成事実の積み重ねにずるずる引きづられていき、日中全面戦争に突入させることになる。

『文藝春秋』には盧溝橋事件直後は批判的なトーンの記事が目立ったが、12月の南京大虐殺、そして人民戦線事件を経て完全に腰砕けとなる。菊池は「話の屑籠」で言論弾圧に抗議する一方で、「義」の基準を「尊皇かどうかに変」え、「「日本精神作興」のためなら、上古、南北朝、維新史だけを中心とすべきだともいう」。38年3月号の「話の屑籠」には「本社の営業いよいよ好調」と書き、「このところの急成長は「支那事変」臨時増刊号のヒットによるところが大きい」とした。そして菊池は同月号で「外国語の付録をつけることを予告」した。これが『Japan To-day』となる。

「『Japan To-day』は、全体として日本文化の国際性をアピールすることを基調」にしたもので、文学や映画、建築など「芸術関連の記事に力を注ぎ、日本軍によって大陸に平和が回復していることを訴えるものだった。これが「国家目的に協同」する菊池寛の対外戦略だった」。

「『文藝春秋』一九三七年九月号で、菊池寛は「東洋平和」を乱すものとして戦争の拡大に反対を表明したが、これは近衛文麿内閣の戦争不拡大方針にそうものだった。八月、第二次上海事変により日中全面戦争に突入したが、『文藝春秋』は不拡大の姿勢を保っていた。他方では、臨時増刊「現地報告」を刊行開始し、戦況を報告、これは社のドル箱になった。南京虐殺を機に、ソ連に次いで英米も蒋介石支援を拡大に強化していった。そして、人民戦線など戦争を忌避する態度が徹底的に弾圧されるなかで、菊池寛は、非常時には国家のために尽くすのが国民のつとめという考えを固め、「よりよい戦争」の方向を求めて、国際非難を回避するキャンペーンにつとめた。それが彼にとって言論の自由を守り、文藝家の社会的地位の向上をはかり、また文藝春秋社の利益をあげる道だった。それとともに彼のなかに育まれていた皇国史観がせりあがってきたことも明らかだった」(p.173)。


菊池は敗戦後の45年10月号で早くも「しなくってもすんだ戦争だと思う」と書いている。「強いて敗因を探れば、間接の原因は、満洲国の建設及び右傾団体の与論の圧迫」、「直接の原因はドイツの勝利を信じたことと米国の国力の誤算」としている。同時に「国民はよく戦った」、「負けた後で、責任を国民にも転嫁しようなどとは、無理を通り越して非道である」ともしている。これはまさに「一億総懺悔」と同類の発想である。「一億総懺悔」とは軍部、政治家、官僚の責任を免罪しようとするものであり、その中には菊池を含むメディアも加えられる。

戦後講演を再開した菊池に「戦争協力者」と野次が飛んだが、菊池がこれに「戦争に協力しない日本国民があるか、あればそれは非国民だ」とやり返すと会場には「嵐のような拍手」がわいたという。菊池は主観的には戦争に「理性」をもたらそうとしたのかもしれないし、言論の自由のために戦ったつもりだったのかもしれない。しかし結果としてであれ、時流に棹差したことへの反省的視点はなく、それは多くの日本人が自らを被害者と位置づけ、加害責任に目を向けたがらなかったことと歩調を合わせている。まさに「大衆」の心をつかむのに長けた菊池らしい反応であるといえよう。


では本書におけるもう一つの主人公である小林秀雄をはじめとする『文学界』グループの戦争はいかなるものだったのだろうか。1936年に経営に行き詰ると、菊池がポケットマネーで支援し、文藝春秋が抱えることとなった。この時期小林秀雄が転向左翼を同人に迎え、プロレタリア文学的作品も積極的に掲載したことから、フランスの『N・R・F』の影響を受けていたこともあって、著者は「一種の人民戦線に似た志向をとっていた」とする。

一方で小林は、38年春に火野葦兵に芥川賞を渡すためにはじめて中国に渡ると、「日本人の血というものは実に濃いものだという実感」を得たとしている。小林はまた、満洲を訪れた経験もふまえ、クリスティの「奉天三十年」の紹介という形で「日本人の「満州国」の統治の下で、中国人の憎悪が渦巻いていることを伝えている」。そして小林は、また多くの日本の知識層は、「「大東亜戦争」の開戦とともに、気分が晴れ晴れ」することになる。

中国との戦争には後ろ暗い思いを抱えていた知識層が、これで「アジア対西洋」、「アジア人対白人」という構図になったと「 気分が晴れ晴れ」するのであるが、しかしこれによって日本が中国から軍を引いたわけでもなく、中国との戦争はそのまま継続されている。要は現実から目をそらしただけなのであるが、逆にいえば日中戦争はそれだけ正当化できない戦争であったことを当時ですら多くの人が感じていたということでもあろう。

小林の言動は菊池と比べるとわかりにくい。彼は「文学の仕事は仕事、行動では「政策に協力」という、いわば二正面作戦をはっきり打ち出している」とあるように、表面上は積極的に協力していったかのようだ。しかし「独善的な理念」を非難してもおり、「その中身は口にしていないが、ファナティックな天皇主義や、軍国主義イデオロギーを含意していたという推測は成り立とう」と著者はしている。

著者は「戦争に深くコミットしたリベラリストたち、新中間層をリードした知識人たちをファシストとレッテルを貼って否定してみせても、何も生まれはしない。時々刻々変化する国際=国内情勢と、それに対する彼らの言動の内実に踏み入ってきたゆえんである」としており、確かに「ファシストとレッテルを貼って否定」しただけでは彼らの「内実」は見えてこない。しかしその「内実」に寄り添いすぎると、それはただのアポロジスト的弁明ともなりかねない。

川端康成が48年から65年まで日本ペンクラブ会長を務め、その国際大会を日本に招致したことについて、「「大東亜文学者大会」の拡大版のような意味を込めて、その実現のために働いた人びともいたことだろう」という部分はそれこそ「怪訝に感じ」ざるをえない。「おそらくは川上徹太郎の胸の内には、国際ペンクラブの理想の方が先にあり、精神の二元性を背負いつつ、それを戦争の時局にあわせて尽力したのが、第二回大東亜文学者大会だったのだろう」とするのだが、著者が書くように反ファシズムであった「ポール・ヴァレリーの向こうを張って「近代の超克」座談会」が行われたことを思えば、これは飛躍した擁護のように感じられてしまう。

本書でも触れられているように、「大東亜共栄圏」のイデオロギーにあえて忠実であるように装うことで言葉を奪われた朝鮮の人びとに同情を寄せた文学者がいたように、一見すると協力的でありつつその裏で消極的抵抗を試みた文学者がいたことは確かだろう。僕自身、戦争協力をした文学者を「ファシスト」の一言で片付けようとは思わない。ジェイ・ルービンの『風俗壊乱』にもあったように、作家たちは文学報国会に入らないことには仕事が得られない状況に追い込まれていた。永井荷風のような作家が超然とした姿勢を保てたのは、彼が戦前に稼いだ印税によって生活の不安がなかったからでもある。もしあの時代にいたら、命を賭して徹底した抵抗を試みたかといえば、僕にはとてもその自信はないし、びくつきながらの消極的抵抗ですらあやしいものだと思う。しかし同時に、だからといってその「内実」にあまりにも寄りかかってしまえば、単に彼らの言動を正当化するだけになってしまう。菊池への「大衆」の喝采にあるように、戦後に「嫌な時代になった」という菊池らの恨み節とは異なり、戦後の日本はむしろそういった正当化こそが幅を利かせることになる。

本書で違和感を持ったのは、戦後3年足らずで亡くなった菊池寛はともかく、35年ほど生きた小林秀雄の戦後の言動について検証がほとんどなされていないことだ。小林は戦後に戦争協力者と非難されても弁明も反省も行わなかった。あるいはこれは、戦時中の自らの行動に恥ずべき点などなかったという自負心から来るものかもしれない。そして小林のこのような態度は、「戦後民主主義」と、戦時中の自分の言動を棚に上げてそれを寿ぐ知識人・文化人の軽薄さを呪詛する人びとから称賛を集めた。しかしそのように小林を讃えた人の中には、戦争の侵略性を否定するばかりか全てを正当化し、戦前復古を目指す人びとも含まれているのだが、小林とその周辺はそれらと対決することはなかった。

大岡昇平は小林とは師弟であり兄弟分でもあり、戦後も行動をともにしたが、次第に距離を取るようになっていく。徴兵され壮絶な戦争体験をした大岡にとって、小林らの戦後の戦争に対する認識や姿勢は受け容れ難かったのだろう。

まさに文藝春秋社が、保守を通り越して、歴史学的にまったく話にもならない極右歴史修正主義の刊行物を平然と出している現状を考えれば、小林や再スタートをきった文藝春秋が戦後に自らの戦前・戦中の言動をいかに正当化したのかについて、もっと批判的検証がなされるべきではなかったか。


このように本書の内容や著者の姿勢については幾分疑念を覚えるものの、1930年代以降日本のインテリ、メディア企業がいかに振る舞ったのかについては、得られるものも多いだろう。


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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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