『ノージック』

ジョナサン・ウルフ著『ノージック』





原著は1990年刊行。本訳書は94年なのだけど、今のところ日本語で読めるノージックの概説書としては唯一のもの?

ノージックといえばなんといっても『アナーキー・国家・ユートピア』であり、この本はリバタニアリズムの代表的著作となった。それまでもハイエクやフリードマンなど経済学の立場からのリバタニアンはいても、哲学の側からのアプローチはこの本が嚆矢であった。一方でウルフも書いているように、必ずしも政治哲学の側から好意的に迎え入れられたわけではなく、原著刊行当時もおおむね冷ややかな扱いであったようだ。

リバタリアニズムはなによりも自由を至上のものとすると考えられがちであるが、ノージックはある権利、つまり私有財産への不可侵こそが至上のものであるとしているようにも読める。この私有財産の際たるものが自己所有である。ウルフはこう要約している。本書の議論の一部でノージックが提出しているとする価値とは

功利主義者のように幸福ではなく、自由尊重論者から期待されるかもしれないような自由でもなく、
絶対的な所有権――自分自身と世界の中の事物とに対する所有の権利――である。あなたが同意するか、あるいはあなたが他者の権利を侵害したために自分の権利を喪失したのでなければ、誰一人としてあなた自身(person)やあなたの所持(possessions)に介入してはならない。自由へのあなたの権利は、端的にこの自己所有権(self-ownership)の帰結なのである
。(p.5)

目の例があげられている。両目が不自由な人がいたとする。その人は目を移植すれば視力が得られる。もちろん進んで片目を寄付する人がいればそれは問題ない。しかし強制的に両目に視力がある人から片目を取り上げ移植するとなればどうであろうか。これを正しい再分配といえるだろうか。

ノージックは課税とは強制労働であるともいう。目の例にしてもそうだがなんとも極端な、と思う人が多いだろう。実際極端な議論をしているのである。当人自身がそれを認めている。「多くの人々は、他者の必要と苦難に対してこれほど冷淡な立場を信奉したくないと考えて、本書(『アナーキー・国家・ユートピア)の諸結論を即座に拒絶するだろう」

自由には二種類ある。一つは消極的自由であり、これはノージックの立場である。もう一つは積極的自由であり、代表的なものはなんといってもロールズの『正義論』である。ウルフの要約を借りると「ジョン・ロールズは、経済は最も暮らし向きの悪い者の暮らしが可能な限り向上するように編成されるべきであると主張した。すなわち、不平等は全員が利益を得る場合にしか許容できないと彼は論じた」(p.123)

ちなみに僕個人はロールズ的な再分配型福祉国家を是とするので当然リバタリアンの意見は受け入れられないのであるが、リベラリズムとリバタリアンとの対立というのはどうもかみ合っていないように思っている。『アナーキー・国家・ユートピア』にしても一応目は通したのだけれど内容への賛否という以前にこのかみ合わなさというのが消化できずにすっと通りすぎてしまった。これはノージック、あるいはリバタリアンの極端さというものに原因が求められるのではないか。

ロールズが試みようとしたことをそれまで定言命法的に「いいことだからいいのである」としてきた再分配に思想的基盤を与えようとしたことだと僕は思っている(専門家の人がどう考えてるかは別問題として)。
一方リバタリアニズムというのは、リベラリズムへの反応であるものの、あくまで徹頭徹尾思考実験であるのではないか。もっといえば現実とあまりに乖離している。。もちろん「無知にヴェール」なども思考実験であるが、ここには現実とどう向き合うかという足場があると思っている。

それはリバタリアニズムは有り得ない前提を必要とするからである。
リバタリアンが描くのは、人間というものは全員が一定以上の能力を有して、最低限の合理性を持っていて、不正は必ず正されるうえに歴史が存在しない世界なのではないか。
残念ながら人間全員に一定以上の能力や最低限の合理性が与えられているのではない。
リバタリアンは私有財産への介入を何より嫌うが、その前提となるのはその財産が不正義によって得たものではないということだ。
アメリカという国を考えてみよう。先住民や奴隷に対しての巨大な詐欺や暴力によって繁栄が可能となった国である。この不正義は正されるべきか、という問いにノージックの返答はロールズ的になってしまう(『ノージック』192ページ参照)。
もちろん極端な意見や思考実験に価値がないというのではない。むしろそうであるからこその価値がある。しかし現実の前ではリバタリアニズムは無力となる。

その結果として、リバタリアン的思想の持ち主は、私有財産というものへの信仰心とでもいうものばかりが肥大していく傾向にあるように思える。
そのわかりやすくもグロテスクな例がミルトン・フリードマンではないか。
経済的自由は政治的自由と不可分であるとしたフリードマンが、民主的に選ばれたチリのアジェンデ政権に対しCIAの手引きでクーデターを起こし、軍事独裁政治を行ったピノチェトに協力したことはいい(というか悪い)見本であろう。

フリードマンの著作を読むと、実は結構いいこと書いてんじゃんと思えることが多い。少なくとも彼の本を読まずに毛嫌いしている左翼がイメージするのとは大分違うはずだ。
当然ながら彼の主張から同性婚の禁止を憲法に明記しようというような私的領域への国家の介入を認めるような結論を引き出すことはできないだろう。あるいは国家の肥大化を招く戦争を肯定的に捉えるのも難物であろう。
ではアメリカの自称リバタリアンは反共和党なのかというとむしろ逆である。
筋の通った一部の人は別だが、「リバタリアン」的な人間を僕が軽蔑してしまうのはここにある。

いうまでもないことだがリバタリアニズムと「ネオリベ」は別物である。
いや、いうまでもないことなのだろうか。少なからぬ人が両者を混同している。これは「リバタリアン」自身が招いていることなのであろう。
「ネオリベ」政権は右派によって担われるが、リバタリアンは必ずしも右翼ではないはずだ。
結局彼らは自身に都合のいい部分をつまみ食いしているだけではないのだろうか。

と、話が完全にとっちらかってきたんでこのへんで。
最後についでのようになってしまったけど、ウルフはノージックに対して結論的には批判的ではあるのだけれど、(あくまで僕からみると)結構公正だと思うし、本書はノージックの入門としてもいいのではないでしょうか。
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佐藤太郎(仮)

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