『1968』

小熊英二著『1968』





読み終えましたよ。しっかし厚い。いや、長いのは構わないのですよ、でもこう厚いと持ち歩いて電車の中でとはいかないもので。小熊英二の本は全部目を通しているのだけど、どんどん厚くなっていっているような。著者の意向か版元の方針なのかわからんが四分冊か二段組三分冊くらいにしとくべきでしょうに。電車の中でなんぞ読むべからずということなのでしょうか。ま、いいけどさ。

さて、まずあとがきから引用しよう。

本書は、「一九六八年」に象徴される「あの時代」の日本の若者たちの叛乱を、総合的に検証したものである。具体的には、この叛乱をになったベビーブーム世代の心理的背景や時代背景の検証から入り、六〇年安保闘争期を前史として振り返るところから、全共闘運動期を経て一九七二年の連合赤軍事件とリブまでをあつかった。(下p.980)

僕はもろに団塊ジュニアの世代にあたるのだが、あれはいったいなんだったのだろうか。
「あの時代」について、僕はアンビヴァレントな感情というものを持っている。
アメリカ文学に興味のある方ならご存知だろうがマーク・トウェインが作りだした二人の悪ガキ、ハックルベリー・フィンとトム・ソーヤは正反対の評価のされ方もしている。
ハックが本物なのに対して、トムは偽者。トム・ソーヤというのは、おそらくは学校でも家庭でも社会でもうまくやりぬけ、将来はそこそこの成功なんかを収めちゃって「俺もガキのころはいろいろ悪さしたものよ、ガッハッハ」ってな親父になりそうなのである。『ハックルベリー・フィンの冒険』において、ハックは逃亡奴隷のジムと「地獄行き」さえ覚悟する。一方後半で、トムはあまりにグロテスクないたずらをハックにしかけるのだ。似て非なる二人の落差を象徴している。
僕は団塊の世代をハックではなくトムなのだ、という印象を持って見ていた。その印象は本書を読んでも変わらなかったのだが。

小熊は「あの時代」に対して、「一言でいうなら、あの叛乱は、高度経済成長にたいする集団摩擦反応であったといえる」(下p.777)と結論づけている。これには僕も完全に同意する。

本書で詳述される日大闘争や東大闘争は、その発端としては全くもってもっともな要求から始まった。しかし学生たちは振り上げたこぶしを降ろすことができず、次第に先鋭化を競うようになり、行き着くところまで行き、支持も共感も失って終わった。
今井澄の発言が引用されている。「全共闘の運動自体がもう、何かある要求を勝ち取ればいいという段階から、『自己否定』という言葉に象徴されるように、自分自身の存在をかけた闘いになっていました。そうすると、ある意味で『終わりなき戦い』がスタートしてしまったという面があると思います」。これに小熊は「<自分探し>に終わりはなかった、と要約することも不可能ではなかろう」とコメントを加えている(上p.896)。

なぜこのような壮大にして醜悪ともいえる「自分探し」が猛威をふるったのだろうか。

小熊はこのベビーブーム世代が「一身にして二世を生きた」としている(上p.100)。子どものころは国民一人あたりの推定収入はスリランカとほぼ同じという「発展途上国」であり、その後急速な経済成長により六〇年代末には「先進国」の一員となっていた。このあまりのギャップに耐えかねての反応が一因としてあげられるだろう。
六〇年代の学生叛乱は反資本主義というよりも反西洋近代主義であったと考えたほうがいいようにも思えるが、日本においてはあまりに急速な近代化が物質方面でのみなされたがためにより激しい拒絶反応をも招いたのだろう。

また当時必ず槍玉にあげられたのが「マスプロ」授業である。これは経済成長にともなって高等教育が拡大されたが、設備や教員の人員が整わず劣悪な環境での授業が学生に失望を与えたためであった。
当時の学生は大学教育にまだ大いなる幻想を抱いていて、それこそ旧制高校のような教師との濃密な関係をイメージしていた人間にとっては幻滅度合いはさらに高まった。
さらに、高等教育が拡大されたといっても大学はまだ完全に大衆化されてあおらず、親に苦労をかけて進学しているという負い目、あるいは自分がエリートであるという自負や使命感もこれに拍車をかけた。

もちろん海外においても学生運動が政治闘争というより「自分探し」であったという側面はあろうが、これらの要因が日本においてとりわけそれを強めたのだろう。
一番わかりやすいのがマルクスの読まれ方で、日本では実存主義と深く結びつく形でもっぱら疎外論が引用されていた。「あるべき自己を取り戻せ」ということである。そもそも運動に参加していた人間ですらマルクスをきちんと読んでいたかはあやしいもので、自分たちの関心に合う部分を抜き出してつまみ食いしていたというのが実態であったのだろう。

僕は「あの時代」にアンビヴァレントな感情があると書いた。
何よりも彼らの叛乱は実は高度成長に支えられたものでもあったのだ。彼らが敵視した安定、それは「大学を出てどこかへ入社したとき退職金の額までが計算されるような、非人間的なこの仕組み」であった。今となってはどれだけおめでたいことか、という感じであるが未だにこの感覚から抜け出せずに愚かな言説にしがみついているこの世代の人間が多い。

一方でやはりどこか憧憬というものを抱いている自分もいる。
一つには僕が六〇年代のカウンターカルチャーにどっぷりはまっていたからということもあるが、それだけではない。
例えば東大全共闘議長の山本義隆。山本は誰もが認める将来日本の物理学界を背負って立つ俊英であり、東大教授の座は約束されていたも同然であった。彼ほどの能力があればアカデミズムに復帰することも難しくはなかっただろうが、そのような道を選ぶことはなかった。現在でも開き直ったかのように空論を振りかざしたり、逆に反動化したり、あるいは「あれは若気の至りだった」として何事もなかったかのように平然としていたり、また「全共闘自慢」などをしたりする人間にはひたすらげんなりさせられるし、そういう人間がほとんどなのだけれど、山本のその後の行動を見ると、彼はハックではなくトムであったことに気付き恥じているようにも思える。あるいはそのこときちんと背負っていこうとしているようにも。本書では山本のその後については触れられないし、小熊は彼にシンパシーを抱いていないのだが、僕には山本の真剣さというものにやはり心打たれてしまうものがある。もちろん真剣であれば全て許されるというのではないし、惹かれてしまうのは彼の過去の言動ではなく現在の潔い敗者の姿なのだろうけど。

さて、まだ書きたいことは山ほどあるのだが長くなってしまったのであとは簡単に。

なるほどね、と思ったのが六〇年代末という時代において、わずかな年数の差異が大きな意味を持つということ。
例えば連合赤軍の永田洋子の恋愛や性への考え方は「保守的」だと考えられてきたが、実際は永田の世代にとっては特別に保守的であったのではなく、この時代はほんの数年の年齢差によって意識が大きく違ったためにそう写ったのであった。
あるいは少し下の世代の坂本龍一や四方田犬彦の回想も引かれているが、彼らにとっては実存をかけた戦いというより派手な祭りという感覚に近かったのだろう。
小説ということで本書には引かれていないが村上龍の『69』などを読んでもその印象は強い(まあ四方田の『ハイスクール1968』も「小説」と考えたほうがいいのだろうが)。

また断絶と連続性ということも。
断絶については六〇年安保と七〇年安保に向けての世代とでは様々に断絶がある。
なんといっても大きかったであろうことが戦争体験の有無であろう。六〇年安保の世代がまた戦争に巻き込まれることへの恐怖があったのに対し、後者はむしろ戦争への憧憬を持っていた人間すらいた。ある高校の生徒は悲惨な戦争体験を聞いて「戦争の時代は(中略)誰でも心を合わせてひとつの目標を実現するために生きていた、そんな時代が美しいように思えるのです」と反応したのだという(下p.213)。まさに「自分探し」の面目躍如といった発言である。

連続性については、昨今かまびすしい「若者批判」であるが、それを現在行っている団塊の世代が実は同じような批判をすでにされていたのである。
六六年に行われた東大生への調査の結果として次のような結果が出たそうな(上p.135)。
1、過保護児童である 2、優等生的である 3、忍耐度が低い 4、共感能力が低い
え~と現在じゃないですからね。50年近く前の東大生です。
このころから幼児化していた、というのではなく若者批判は老人の特権ということでしょう。
ちなみに戦前の旧制高校時代にすでに「教養の崩壊」なることは言われていたのです(ここらへんは『グロテスクな教養』を参照)。

「会社は不合理なことの連続でした。ぐうたらでも大卒は大卒、人の為にまじめに尽くす人は高卒だからと、分界線がひかれていて運命が決定されている」(上p.70)
これは大卒を正社員、高卒を非正規や契約社員に置き換えれば現在の発言であるかのようですが、この発言の主は高校卒業後働きながら明大夜間部に通っていた重信房子。

「あの時代」について語るには連合赤軍は避けては通れないのだがさらに長くなってしまうので短く。
本書でももちろん大きくスペースがさかれているが、これを読むと二重の意味で吐き気を憶えてしまう。やったことのグロテスクさもさることながら、なによりも彼らを支えた「理論」のあまりの荒唐無稽さである。こんな「たわごと」から始まってなぜあのようなことが起こってしまったのか。
ただ小熊はここで過剰な意味づけをせずに状況を分析している。「自分たちにあれほどの衝撃をあたえた事件は、普遍的なテーマにつながっている大きな問題であるはずだ、あってほしいという先入観が働いていたといえないだろうか」(下p.672)とあるが、連合赤軍に限らず衝撃度の大きな事件に過剰な意味づけをしてしまうことには注意が必要だろう。

本書刊行後、とりわけ当事者から事実誤認等についていろいろとあったわけだけど、小熊はそこらへんは織り込み済みというのは序章を参照。
僕は「過激派オタク」とかではないので(そういう人って結構いるんですよね)この本がどの程度信頼性がおけるのかは判断できないが、小熊のこの方針というのはこれでありだと思う。

また小熊の政治的立ち位置というのにも「あの時代」を肯定的に考えている人からも否定的に考えている人からもいろいろあるんだろうけど、個人的にはだいたい共感できるものでもあります。

書こうとしたことの十分の一も書けなかったんだけど今回はこのへんで。


本書と兄弟のような関係はこちら。




本書にも多く引用された川本三郎の回想。これもいろんな意味でぐさりとくるんだよなあ。映画化ってことだけどどうなんかいな。





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