隠喩としてのアメリカ

あっと、まだ『ソーシャル・ネットワーク』見てないんですがいろいろ浮かんできたもので。
ちなみに僕はアメリカ事情にもフェイスブック等のSNSなどにも通じているわけではないので質に関してはそこから想像してください。

デヴィッド・フィンチャーの次回作がフェイスブックについてだというのを聞いた時、なんでまたと思ったものだった。
『ソーシャル・ネットワーク』公開にあたって関連記事などを読むと、フィンチャーや脚本のアーロン・ソーキンはフェイスブックやSNS自体には大して関心がないようである。ではなぜこのような題材を取り上げたのだろうか。それはマーク・ザッカーバーグやフェイスブックという存在がアメリカのある面のメタファーになっているためなのかもしれない。

アメリカをアメリカたらしめるもの、それはアメリカン・ドリームだといっていいだろう。ではアメリカン・ドリームとは具体的にどのような形をとるのだろうか。金持ちになることがその代表格であろう。
誰もが金を稼ぐ可能性が開かれており、金を稼いだ者こそが成功者である。
もちろんこれは裏を返せば、金を稼げない人間は敗残者であり、それは自業自得であるということにもなる。
金持ちが金持ちであるというだけでこれほどの尊敬を集められる国はアメリカをおいて他にはないだろう。

もちろん現実は、ほとんどの場合金持ちの子どもは金持ちのままで、貧乏な家の子どもは貧乏なままで終わる。
ではなぜアメリカの貧しい人々の中で、とりわけ白人は再配分を重視する民主党ではなく金持ちを優遇する共和党を支持することがままあるのだろうか。
一つには人種差別があるだろう。もともと民主党は南部が地盤であったが公民権法によって一気に支持者が共和党にかっさらわれた。
そしてもう一つがアメリカン・ドリームというイデオロギーである。
普通に考えれば再配分政策によって貧しい人々の生活環境を改善して公教育を充実させたほうが多くの人にチャンスが与えられることになる。
しかしアメリカにおいては、税金とは成功者の私有財産を奪うことであり、再配分は努力をしない怠け者を甘やかすということになってしまう。

スコット・フィッツジェラルドはある小説でこう書いている。「大金持というものは、わたしに言わせれば、あなたやわたしなんかとは別人種なのだ」(「金持の御曹司」野崎孝訳)
かつてはフィッツジェラルドと盟友関係であったアーネスト・ヘミングウェイは「キリマンジャロの雪」でこう揶揄している。「金持ちに対して、ジュリアンは一種ロマンティックな畏敬の念を抱いていて(中略)連中は特別に魅力的な人種なんだ、とジュリアンは考えていて、それが見当違いとわかったときには、ほかの何にも増して打ちのめされたものだ」(高見浩訳)
ジュリアンとはフィッツジェラルドのことであることは言うまでもないだろう。これを読んだ彼は激怒したという。
もちろんフィッツジェラルドは自分がコケにされたことにも腹を立てたのだろうが、ヘミングウェイの浅薄さも火に油を注いだのだろう。

フィッツジェラルドの金持ちに対する感情はアンビヴァレントなものである。もちろん彼は金持ちにある種の憧憬の念を抱いていたことは間違いない。しかし彼があこがれた金持ちとは、現実に存在するものというよりも象徴的な存在であったのかもしれない。
ここでフィッツジェラルドがいう「大金持ち」とはアメリカン・ドリームの体現者なのだろうか。そうではないだろう。「別人種」になるような人間は生まれながらに大金持ちであり、それゆえに「あなたやわたし」とは根本的に異なるのである。これは成り上がった者ではなく、王家や貴族の人間に近い存在であろう。
(フィッツジェラルドとは異なりながらも、やや似たところもある感情を行動に移したのがアメリカからヨーロッパへ「亡命」したヘンリー・ジェイムズやT.S エリオットであったのだろう。彼らは伝統のないアメリカになど耐えられなかったのである)。

フィッツジェラルド自身はある時期まではアメリカン・ドリームの体現者であった。
それほどぱっとしない出自であったが、「アラバマ・ジョージアの2州に並ぶ者無き美女」と言われたゼルダを手に入れるために必死の努力で作家としてのキャリアを駆け上り、ゼルダと結ばれ「ジャズ・エイジ」を象徴する夫婦となる。
しかし彼はまた、アメリカン・ドリームの批判者でもあった。
代表作『グレート・ギャッツビー』はキャリアの絶頂期に書かれた(落ちぶれてからではないことに注意)。

ジェイムズ・ギャッツは若い頃、身分違いの恋をした。彼は裏家業で成功を収め、ジェイ・ギャッツビーとしてあこがれのデイジーと結ばれることを望んだが、陰惨な結末を迎えることになる。
ジャイムズ・ギャッツはアメリカン・ドリームに裏切られた、罰せられた越境者なのだ。

フィッツジェラルドにはアメリカン・ドリームの欺瞞を暴こうという意思があったと考えていいだろう。ジェイムズ・ギャッツのかわいらしくも痛ましい子どものころのノートはアメリカン・ドリームの体現者であるフランクリンのパロディである。

アメリカには王も貴族もいない。これはあくまで制度上の建前であって、実質的には貴族といってもいい名家というものが存在する。
貴族的名家とまではいかないかもしれないが、ブッシュ家というものを考えてみればいいだろう。
知的にいささか問題を抱えていたジョージ・ウォーカーもアイヴィー・リーグの名門イエール大学に入り、「スカル・アンド・ボーンズ」にまで迎え入れられている。この団体はおどろおどろしい秘密結社ではなく名門フラタニティと考えるべきであろう。

アメリカの大学のいわゆる「スクール・カースト」は日本以上に過酷なものがあるが、その一端がうかがえるのがこのフラタニティの存在であろう。
名門フラタニティへの加入は自らの意思ではなく勧誘によって初めて可能となる。とりわけスカル・アンド・ボーンズのような名家出身者がつどうフラタニティへの加入は社会的成功へと直結するものである。

貴族の存在する国では、金持ちは自らや子どもが貴族と婚姻関係を結ぶか、もっと直接的に貴族の称号を買い取ることもある。
アメリカにおいて名門フラタニティへの加入が許されるというのはこれに近いものがあるのかもしれない。

フェイスブックの成功の大きな要因として挙げられているのがハーヴァード・ブランドである。
もともとフェイスブック自体が学生向けのサービス、それも閉じられたサービスであったことから、フェイスブックとは擬似的なフラタニティ、あるいは名門フラタニティ加入へのステップであるという意識が利用者に有形無形に働いたとも想像ができる。
フェイスブックが日本で普及しないのは、日本人のネット・ユーザーが匿名性になじんでいるからというよりも、てフラタニティを経由して社会的ステップを駆け上がるという前提を共有していないことにあるのかもしれない。

アマリカン・ドリームの体現者であるザッカーバーグ、そしてアメリカン・ドリームの欺瞞を象徴するフラタニティにも擬せられるフェイスブック、これが『ソーシャル・ネットワーク』政策陣の抱いたアメリカのある種の面のメタファーとなっているのでは、という妄想でした。

さて、映画はどうなってるんでしょう。



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