「アメリカ」をめぐる戦い『ソーシャル・ネットワーク』

……ということでようやく『ソーシャル・ネットワーク』見てまいりました。

映画に限らず前評判の高い作品というのは危険である。予備知識なく見たのなら普通に面白いと思えたものが、自分で勝手にハードルあげたために「期待したほどじゃなかったな」なんてことになってしまいがちだ。
絶賛の嵐の本作を見るのにその不安がいくらかあったのだけれど、結論からいえばそれは杞憂であった。素晴らしい。

なんといっても脚本の巧みさである。この題材をナレーション処理せずに描くために法廷闘争モノとし、セリフが説明調にならないように尋問と再現とを行きつ戻りつし、バックグラウンドを知らない人間には何が起こっているのかわからないという事態を避けつつ物語に引き込んでいく。

フィンチャーの演出もぴったりはまっていたしトレント・レズナーの手がけた音楽もビシっと決まっていた。完璧とまで断言していいものかわからないが、少なくとも僕にとっては欠点といえるところなど一つもなかった。


さて、内容であるが前回書いた妄想というか推測というものがぴったりだった(といっても予備知識を元に書いたのだし、そっちに引きつけて見たのだから当たり前なのだけれど)。

「アメリカ」をめぐる戦いとして思いつくのが、最近ではポール・トーマス・アンダーソン監督の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』である。これは強欲と狂信というアメリカの抱える二つの宿痾の戦いであった。
ではこの『ソーシャル・ネットワーク』におけるアメリカをめぐる戦いとはなんであったのだろうか。
ラムズフェルドをもじって言うなら、「古いアメリカ」と「新しいアメリカ」の相克である。

「古いアメリカ」を象徴するのがウィンクルボス兄弟である。資産家の息子にして文武両道。 なんとも貴族的ではないか(ハーヴァードの紳士は訴えない!)。そう彼らは「高貴な精神を持つ」(と当人たちは自負している)アメリカの貴族なのである。

「新しいアメリカ」を象徴するのがナップ・スターの創始者にして途中からフェイスブックの経営に首を突っ込んでくるショーン・パーカーである。
ザッカーバーグが古いアメリカを象徴するアイヴィー・リーグのある東海岸から西海岸(フロンティア!)へ移るのはなんとも示唆的である。

体面を重んじるウィンクルボス兄弟に対してパーカーは下品にして粗野であり飽くなき欲望を隠すことのないエネルギッシュな人物である。
パーカーはアメリカのオブセッション(もっと大きく、もっと活動的に)を地で行く人間であるが、ある意味ヨーロッパ的ともいえるウィンクルボス兄弟は非アメリカ的人間なのであろうか。必ずしもそうとはいえない。繰り返しになるが、アメリカにも「貴族」はいるのである。そのことを糊塗してきたのがアメリカン・ドリームというイデオロギーであった。かつてなら住み分けていたはずの両者がぶつかり合うのが本作なのである。
どちらの勢力も自分たちこそがアメリカ的だと思っていることだろう。ウィンクルボス兄弟からすればアメリカを作り上げたのは自分達のような選ばれたエリートなのだと思っているだろうし、パーカーらからすればアメリカを大きくしたのは自分達のようなフロンティア・スピリッツを持って冒険に乗り出した人間なのだと思っているのだろう。

両者を架橋する人物になるはずだったのがフェイスブックの共同創始者であるエドゥアルト・サベリンである。しかし本作ではある意味では一番みじめかつ間抜けにも見えてしまう。彼は両者を架橋するどころかどちらからしても中途半端な存在となってしまう。

前回フラタニティについて書いたが、本作では「クラブ」が少なからぬ意味を持つ。
サベリンにとっては「フェニックス」に加入することは重要なのだが、ザッカーバーグ、そして当然ながらパーカーにとってはどうでもいいことなのだろう。

こう書いているとザッカーバーグは「新しいアメリカ」の側の人間のように思えるが必ずしもそうではないのかもしれない。
一つにはギークやナードと呼ばれる「おたく」はどちらのアメリカにも収まらない存在のように思える。
同時にザッカーバーグは大きな子どもであるようにも思える(これ自体がまた別のアメリカの暗喩となっているのだが)。ザッカーバーグはサベリンからすれば胡散臭さ全開のパーカーにすっかりまいってしまう。これは小学生がやんちゃな高校生にあこがれるようなものであるのかもしれない。


マルクスはかつてこう書いた。「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として」
『市民ケーン』はアメリカを描いた映画だといえる。
親元を離れて育つのはヨーロッパから独立したアメリカのメタファーであるし、あくなき上昇志向、そして成功したものの精神においては空虚であり、愛人をオペラ歌手に仕立てたり見境なく美術品を収集するのは底の浅さを表している。
オーソン・ウェルズは実在の新聞王ハーストの姿を借りてアメリカをシニックに描いた。

一方で、この『ソーシャル・ネットワーク』は『市民ケーン』のある種の重厚さというものからはいささか遠いようにも思える。
登場人物が幼く見えるから、というか実際にまだ二十歳そこそこの人間たちなのだ。
ザッカーバーグに象徴されるシリコン・ヴァレーの成功者(としてイメージされる存在)に、多くの人間がどういう感情を抱けばいいのかわからないでいるのかもしれない。それは彼らがあまりにも若くして、あまりにも早く、文字通りに桁外れの大金を稼いでしまうためだ。さらにその富を生んだものが、本当に価値があるものなのか疑わしくも思える。たとえ車や飛行機が嫌いな人間でも、自分が生活において直接、間接にその恩恵を受けていることは想像がつくだろう。しかし今この瞬間にフェイスブックが消えてなくなったとしても、いったいどこの誰が困り果てて途方にくれるというのだろうか。

今回見てみて、『ソーシャル・ネットワーク』はやはり『市民ケーン』と比較されるのがふさわしいと感じた。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。


また長くなっちゃったけど最後にもうちょっと。

本作はザッカーバーグの「アスペルガー症候群」についても描かれているとする見方があるが、そこには注意が必要であるように思う。
まず第一に医学的なアスペルガー症候群と「アスペ」などとして揶揄的に言及される性格傾向にはズレがあるのではないか。
「人の気持ちがわからない」「空気が読めない」などというのは程度の差はあれ誰にでも思い当たるふしがあるはずである。
『(500)日のサマー』においてサマーちゃんはトム君からすると得体の知れない行動を取ることがあるが、だからといってサマーを「アスペ」だと思う人はあまりいないだろう。
『サマー』は徹底した男目線で女性にありがちと思える不可解さを描いたもので、女性の側からすれば当然トムって奴はなんにもわかってないんだから!となるのだろう。

『ソーシャル・ネットワーク』はザッカーバーグの一人称視点の映画ではない。むしろ裁判を通して敵対者から彼はこう見えていたという視点で描かれている。
ザッカーバーグの取ったエキセントリックにしか見えない行動も彼からすれば言い分のある合理性のあるものだったのかもしれない。

ここらへんは本作で描かれるフェイスブック周辺の事実関係についての間違いや誇張を批判している人にも同じことがいえる。
この作品、というかあらゆる表現作品はある一つの確固たる「真実」を提供するものではなく、ある角度においては物事はこうも見えるということに過ぎない。正確な「真実」を描かなければならないとすれば映画も文学も退屈極まるものになってしまうだろう。
現在『市民ケーン』をハーストの伝記映画として見る人などいないということで。まあ本物のザッカーバーグからするといい迷惑なのだけれど。

話を戻すと、「ギーク/ナード」的な人が「へいへい、おいらたちゃアスペでございよ」と自嘲気味に言っているところもあるのだろうが、社会に適応しにくい性格を安易にラベリングしてわかったようなつもりになっている人がいるのだとしたらそこらへんはもう少し慎重になるべきではないかと思う。

いい加減にここらへんでと思ったがさらにもうちょびっと。
最近「サタデー・ナイト・ライヴ」でのザッカーバーグ・ミーツ・ざっかーばーぐの動画が話題になっているが、ここらへんもやっぱりアメリカ的だなあと思う。
恐らくザッカーバーグは本作に対してはらわた煮えくり返っていることと思うが、それを表に出したりするのはみっともなくって、こういうものを笑いにつなげなければならないのだ。
大統領選挙の時もSNLや他のバラエティ番組に候補者が出演していかに笑いをとるか(ここで大切なのは他人を攻撃するのではなく自虐ギャクであること)が注目されるが、ここらへんもアメリカ特有のオブセッションといってもいいんだろうなあ。アメリカ人であるのも辛いですよね。



最後のほうで「僕は悪い奴じゃないよ」(だったっけ。とにかくこのようなセリフ)を作中のザッカーバーグは言うのだけどここらへんも非常にアメリカ的なんだな。アメコミのヒーローのようにも見えてしまった。




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佐藤太郎(仮)

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