『スロー・ラーナー』

トマス・ピンチョン著『スロー・ラーナー』 佐藤良明氏による新訳。




ピンチョン自身による長いイントロダクションと五つの短編によって構成されている。
一作を除いては超ど級の衝撃を与えた第一長編『V.』の前、50年代の後半にピンチョンがまだ二十歳そこそこの時に書かれた。

「スロー・ラーナー」(学習遅滞者、頭の鈍いやつ)と本人は自嘲的なタイトルをつけ、84年に書かれた「イントロダクション」では収録作を習作と見なし、かなりこき下ろしている。
確かに「スモール・レイン」などは若いというか青いというか、野心と自意識に溢れた作者が透けて見える感じもする。しかしだからといって作者が髭するほどひどいものではない。いや、それどころかどれもまぎれもなくピンチョン印が刻印された作品であるといっていいだろう。

と、こんなことを書いているものの、僕はピンチョンについて偉そうなことをいえるほど知識があったり読み込んだりしているわけではない。本書の旧訳も、かなり昔に「お勉強」として目を通しただけというのが正直なところで、内容についてはほとんど記憶になかったりする。それだけ新鮮に楽しめたのだけれど。

今回改めて読んでみて、ピンチョンというのはやはり1937年生まれなのだなあ、なんてことを思った。なんとなく60年代のカウンター・カルチャーの息吹をたっぷり吸い込んだ人というような目で見てしまいがちなのだが、世代的にはむしろその一つ前、ビートに影響を受けている。
ピンチョンは「ビート運動との関連をいえば、私はまあ、かすった程度というところだろうか」(p.15)と書いているが、本書収録作やその後に書かれる大長編を見てもやはりビート運動から受けた影響というのは強いのだろう。
ピンチョンの作品では逸脱者や社会からの落伍者へのシンパシーといったものを感じとれる部分が多いが、「黒人になりたい」と考えたジャック・ケルアックに代表されるビートの鼓動というものを聞き取ることができるだろう。

ピンチョンも奨学金をもらって大学院に進むことができたがそれを蹴って、途中に生活のためにボーイング社で働いたりしながら『V.』の執筆を行う。
ピンチョンほどの能力があれば多くのアメリカの作家がするように大学で安定した収入を確保しながら書くこともできたのだろうがそういう道は歩まなかった。

ドゥルーズ風(というか浅田彰風?)にいえば、アメリカという国のメンタリティはパラノイア型社会、資本を溜め込み拡大することに強迫観念的になっているようにも思えるが、同時にスキゾ型、あるいはノマド的な伝統というものも持っている。コンコードの森に篭ったソローに始まりホーボー、ビート、ヒッピーなど社会から外れていく人々を常に輩出する。
解説によればピンチョンは高校時代にこう書いている。「好きなもの=ピザ、嫌いなもの=偽善、ペットにしているもの=タイプライター」(p.257)
「好きなもの=ピザ」というところがよい。ピンチョンはアメリカの伝統から逸脱した存在というよりも、アメリカのある一面を象徴する存在でもあるのだろう。

ピンチョンは知的な、誤解を恐れずにいえば「過度」なほど知的な作家である。
僕のように教養のない人間には文系の知識、文学作品からの引用や驚くべきほどの歴史へのリサーチなどだけでも消化しきれないのに、これにさらに理系知識まで総動員されると(ピンチョンはもともとは理系で文転した。ちなみに訳者の佐藤氏も文転組)もうお手上げである(ちなみに僕は数式を見ただけで蕁麻疹が出てくるような人間であります)。

知的な作家とえば、ナボコフを思い浮かべる人もいるだろう。ピンチョンは大学時代ナボコフの講義を受けていたというのは有名な話だが、ナボコフはピンチョンのことを記憶していなかったようである。
ナボコフも一度はまると抜けられない麻薬的魅力を持った作家であるが、一方で彼の作品から暖かさや優しさといったものを感じるというのはなかなか難しいかもしれない。
僕が「わかんねー、難しい!」などと思いながらもピンチョンという作家に惹かれるのはここにあるのだろう。

本書収録作の中では「シークレット・インテグレーション」を読めば、ピンチョンが決して冷徹で機械のような思考をする作家でないことがすぐにわかるだろう。
世界は安全ではなく、両親は善良ではなく、人間は愚かで無力でもある。誰もが避けて通れない世界の不条理な成り立ちを痛感させられるイニシエーション小説でもあるが、同時に社会の外縁へと追い込まれている人たち(白人の町に引っ越してきた黒人のカールであり、黒人でありさらにアル中のミュージシャン、マカフィー)への連帯や共感が示される。
「シークレット・インテグレーション」は収録作品の中で唯一『V.』出版後に書かれ、商業誌に掲載されたもので、それだけにとっつきやすい作品になっている(本人はそこらへんもご不満のようですが)。
僕はこの作品を読んで涙してしまった。そう、ピンチョンは泣けるのですよ。

そしてピンチョンといえばなんといってもエントロピーであるが、そのものずばりの「エントロピー」も収められている。
エントロピーとは多義的な概念であるが、ここでは佐藤氏の解説を借りると「熱機関とは熱を運動に変える箱であるが、内包する熱エネルギーのうち、仕事に使える部分はどんどん減っていって、いわば「カス」の熱量ばかりが増加していく」(p.266)である。
エントロピーの概念を文系的に援用する時にはしばし「秩序から無秩序/混沌へと向かっていく」というようないわれ方をする。

ここからは僕の勝手な解釈の仕方なので「全然違うよ!」という方もいらっしゃるでしょうがご海容願います。
歴史の中には打ち捨てられ、押しつぶされていったものがある。それは一般には敗者と呼ばれ、価値のないもの、「カス」とされる。しかしそのような「カス」の中にも素晴らしいもの、かけがえのないものが多くある。いや、それらは素晴らしくも、かけがえのないともいえないようなものなのかもしれない、やはりそれは何の価値もないどうしよもないものなのかもしれない。それでも、どうにもたまらなくいとおしいものがある。ピンチョンはこういった「いとおしいもの」への暖かな視線というものを描く作家でもある。彼の作品には愛すべき駄目人間という存在がしばし顔を出す。
歴史の再構成や裏にひそむ全てをコントロールする存在へのパラノイア的陰謀論はピンチョンの最も得意とする部分であるが、それらはまた「カス」とすら呼ばれかねないものへの愛のある種の作用なのかもしれない。

もちろんピンチョンをただのヒューマンな作家である、とできるほど簡単なものではないのだけれど。

「イントロダクション」の最後はこう結ばれる。

私の過去に貼り付けたこの序文も、まあ、フランク・ザッパいうところの「爺さんたちが腰を下ろしてロックンロールを演っている」一例なのかもしれない。でも、みんな知っているように、「ロックン・ロール・ウィル・ネヴァーダイ」。それに、ヘンリー・アダムズもいつも言っていたではないか。エジュケーションも永遠に続くのだと。(p.35)

繰り返しになるがピンチョンはビート世代である。比較対象を持ち出すとビートルズの面々よりも年上でありますが、とんがったロックファンでもあるのですよね。フランク・ザッパにニール・ヤングのパンクへの応答からの引用でもそれはわかるでしょう。

最後にちょびっと訳の比較を。
志村訳をぱらぱら見返したが、とりわけ晦渋であるということはないとはいえ、いささか「硬く」、いわゆる翻訳調であることも否めない。それに対して佐藤訳は「軽やかさ」というものを重視しているように思える。あるいは自然な語り口をより自然に、と。ところによって若干筆が走りすぎると感じる人もいるかもしれないけど、僕としては大いに楽しめた。
あと豊富な訳注が付けられているのもうれしいところだが、情報量に関してはこれまでの研究の蓄積とさらにネットの普及というとんでもないことがこの間に起こっているわけで、一般論としても訳の出来云々ではなく、ある程度の期間を経た作品の翻訳はアップデートされていくのが望ましいでしょう。

本書の旧訳は志村正雄氏、志村氏は佐藤氏の先生。そして三月刊行予定の『V.』の新訳は佐藤氏とその教え子の小山太一氏の共訳であります。「エジュケーションは永遠に続く」!ということで楽しみに待ってます。

解説で触れられているピンチョン高校時代(当時15歳、飛び級してます)の文章はこちらで読めます。

佐藤良明さんのブログはこちら。ピンチョン翻訳情報以外にもいろいろ。

「イントロダクション」と解説でビート以外にもピンチョンが影響を受けたものについてもいろいろ言及されています。スパイク・ジョーンズ(あっちの人じゃないですよ)の冗談音楽だとか引用の『ヘンリー・アダムズの教育』についてとか。それにしてもこの人はいったいどこまであされば底に着くのか。いやはや、道のりはあまりに長い。





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