何を見てもアメリカに見える

平石貴樹著『アメリカ文学史』





まずは僕なりにアメリカ文学というものをどう考えているかについて。

文学というものは、当然ながら社会や歴史から切り離されて存在することはできない。
いついかなる時代、場所の文学であろうが「現実」との密接な関係にある(「現実」を描かない、直視しないというのもまた一つの「現実」との関係である)。

例えばディケンズを読み解くためには、彼が当時のロンドンの何を書き、何を書かなかったのかも考えなくてはならない。
ドストエフスキーを理解しようと思えば、ロシアと西ヨーロッパとのアンビヴァレントな関係や、土着の風習、文化と混交し独自の発展をしたロシア正教とカソリックの関係について。
カフカは不気味な官僚支配を描いただけではなく、中欧のユダヤ人の重い予感も反映している。

もちろんアメリカ文学も例外ではない。いや、それどころか、他の国、地域の文学と比べると、「現実」との関係はいっそう深いものがある。

アメリカ文学、またアメリカ映画について考え出すと、あるいはアメリカ政治について考えだすと、もう何を見てもそこには「アメリカ」が浮かんでこざるをえない。

本書は大部なもので(590ページ)全部読むのはしんどいなあという方も、とりあえず第一章「ピューリタニズムからフランクリンへ」だけでも目を通してみてほしい。
ここはアメリカ文学のみならず、アメリカ文化・政治・社会を読みとくためのエッセンスがつまっている。

アメリカ文学がなぜこうも「現実」と密な関係を結ばざるをえないのか。
アメリカは若い国である。裏を返せば全てが可視化されてしまっている。
神話と政治は深い関係にある。「古事記」や「日本書紀」が政治的意図を持って編纂されたものだということを思い浮かべればいいだろう。しかし時がたつにつれて、政治的な意図は、少なくとも表向きには脱色され、あたかも無色であるかのように受容されるようになる。

アメリカの場合、このような無色化の作用すら可視化されてしまう。
建国の神話である「ピルグリムファーザーズ」は現実であり、また潤色された神話でもある。墓を暴こうと思えばいくらでも暴ける。
国家建設にまつわる英雄譚はそのまま血塗られた、神話化されない生の歴史を突きつける。
文学というのは神話化する作業であると同時に脱神話化する作業でもある。
若きアメリカという国の文学は、この作業を生の形で提示せざるをえないのである。


で、ようやく本題に入るが、本書は「自我」を一つの大きなキーワードとしたアメリカ文学史。
小説中心なので詩や戯曲が好みの方は少々物足りなく感じるかもしれないが、全体の構成としては奇をてらったものではなくオーソドックスになっている。

特徴がないのかといえばそうではない。
まず軽く触れられておしまいになりがちな大衆小説にもかなりページが割かれている。「アメリカ文学の展開を略述するにあたって、アメリカ社会そのものの傾向やイデオロギーを素描する必要があり、大衆小説こそは、典型的にそれらの傾向やイデオロギーを反映すると考えられることである」(p.425)。
もう一つ特徴をあげると現代の作品も割りと取り上げられている。ここらへんは当然評価というのが定まっていないので平石氏の結構ストレートな評が読める。
最後は村上春樹論で終わるのだが、個人的にはこれはあんまりピンとこなかったかな。

アメリカ文学のみならずアメリカという国やその基礎となっているものに興味がある人は読んで損はないでしょう。


平石氏はミステリー作家でもありますが前にお遊びで書いた『誰もがポオを愛していた』の感想はここ。sengoku38の謎が明らかになります、なんてね。



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佐藤太郎(仮)

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