『神話が考える』

福嶋亮大著『神話が考える』




本書を読み始めて「おお、懐かしきニューアカ!」と思ってしまった(ちなみに僕は78年生まれなので81年生まれの福嶋氏とはほぼ同世代です)。
もちろん扱われる事象や固有名詞は異なれど、語彙や論理構成というものは僕がイメージするところの「いかにもニューアカ」という感じがした。

「ニュー・アカデミズム」というなんか妙な言葉(命名者は朝日の記者だったっけ?)で呼ばれた80年代の日本の思想家たちが依拠したのはフランス現代思想であった。
このフランス現代思想の面々は、ラカンを除けばおおむね左翼的であり、アルチュセールを除けば非共産党員であった(一時的に党員になってもすぐに離れた人も多かった)。

個人的に超適当にフランス現代思想をまとめるなら、それは「何を」ではなく「いかに」を問題にした人々だったといってもいいかもしれない。
当時フランスの知識人にとって共産党にコミットするか否かは大きな問題であった。ここで非共産党、かつ非保守であるためには、新たな問題設定、新たな「語り」が必要であった。これを極端なまでに押し進め、哲学というより詩に近づいてしまったのがジャック・デリダであった。

この「新しい土俵」に上れない/上らない人にとっては、このような発想は不可解であったりナンセンスであったり、あるいは危険にすら映った。
ミシェル・フーコーの『言葉と物』が出たとき、サルトルはフーコーを新手の右翼扱いしたという。サルトルの『言葉と物』の誤読の仕方は「新しい土俵」の外の人間の典型的反応なのかもしれない(後年サルトルとフーコーは「共闘」することにもなるが、それはまた別のお話)。

うろ覚えなので間違っていたら申し訳ないが、大岡昇平はニューアカが出てきたとき、あのように訳のわからない言葉使いをすることなど危険であり、ファシズムにつながるものだというようなことをどこかに書いていたような気がする(『小説家夏目漱石』だったっけ?手元にないので確認できず)。

逆に考えるなら、ニューアカが80年代のある種の人を惹きつけたのは、まさにここにあるのだろう。わからないことにこそ意味があったのである。

ニューアカについては、日本は「モダン」を経験していないのにポスト・モダンなどに飛びつき、フランスの政治的文脈抜きにこれを導入しようとしたためいささか奇怪な形を取り、当時の日本の経済的成功とも結びついて奇妙なユーフォリアとなって現状肯定の思想に堕してしまったのだというようなことがしばし言われる。まあ、ここらへんは本題からずれるので割愛。

そのニューアカの嫡子として衝撃のデビューを飾ったはずの東浩紀氏が、むしろ「鬼っ子」として扱われるようになったが、一方でその東氏の(嫌われ方を含む)受容のされ方も、当人の振る舞いも極めてニューアカ的であるという指摘があるが、僕もそう思っている。

「本書の内容は東浩紀氏の批評に実に多くを負っている」(p.324)とあるように、東氏の深い影響下に書かれた本書がニューアカ的になるというのは必然なのかもしれない。

フランス現代思想やニューアカに対する最も一般的な批判が自然科学や数学の誤った乱用である。
ここらへんも本題ではないので割愛するが、「ソーカル事件」以降、さすがに素朴に自然科学のアナロジーを使ったジャーゴンを駆使することはしにくくなった。その代わりとなるものを東氏は切り開いたのかもしれない。

東氏はデリダ解釈で名をあげた。その後、近年はルソーになどに関心を示しつつもネット、アニメ、エロゲー、ラノベなどを批評に取り入れている。ネットはいいにしてもその他のものはどうなのよ、ってな反応も多いが、これもニューアカ的振る舞いといえばそうなのであろう。

ニューアカの代表的存在といえば浅田彰氏と中沢新一氏である。
浅田氏は当時日本ではそれほど知られていなかったドゥルーズ=ガタリなどを参照しつつ、片やクラシック音楽や美術などのハイカルチャーを語り、もう一方では「ビックリハウス」などのサブカルチャー方面にも顔を出していた(とんねるずとも対談なんぞしている!)。ハイカルチャーもサブカルチャーも同時に語ってしまうような姿勢こそ支持を集めた一つの要因であったのだろう。
中沢氏は雑種性という点ではさらに強まり、チベット仏教の修行体験と記号論を同時に語り、なおかつテレビゲームなども論じている。

ニューアカのことはとりあえず置いといて、東氏や福嶋氏を含むそのフォローワーの人たちの批評において、「ニコニコ動画のアーキテクチャー」や西尾維新氏の文体について語るのが、高く評価してのことなのか、個人的趣味なのか、「新たな土俵」を設定しようという戦略なのかというのが僕としてはいまひとつよくわからない。

個人的にはニコ動は見ることは見るけど何か批評的読解に惹かれるということはない。ラノベあたりは面白い人もいるのかもしれないが単純に読む気がまるでしない。まあこれは僕の「保守性」の表れといわれれば進んで認めるところだけれど。

本書において最も一般性を獲得しているのは第四章の後半における村上春樹及びレイモンド・チャンドラーを扱った部分であろう。しかし前半部において語られ、架橋しようとしているのはライトノベルやケータイ小説なのである。
村上春樹論をオーソドックス(正統的)に、レヴィ=ストロースを記号論的に援用した形で仕上げることは当然できたであろう。
ここらへんをあえてこういう形としたことが素晴らしいと感じたりする人もいるのだろうが、単に奇をてらったものと受け止める人もいるだろう。すでに想像はつくと思うが僕は後者である。

本書は決して退屈はしなかった。一方で「だから何?」という感情も同時に抱いてしまった。
いずれにせよ、「いかにもニューアカ」らしく読む人を選ぶ本であることは間違いないだろう。


また脱線しすぎ……

80年代の状況を知るには香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』がいいのかな。
なんだかんだでニューアカは嫌いじゃなかったりする。
ま、ソーカル事件も謙虚に受け止めるべきだと思うけど。


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佐藤太郎(仮)

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