『クォンタム・ファミリーズ』

東浩紀著『クォンタム・ファミリーズ』




今さらなのか今だからなのか、まぁとにかくようやく読んでみました。
東浩紀氏による単独としては初の長編小説。

東氏当人やその周辺を連想させる登場人物。何より「葦船往人」なるありそうになく、また意味を付託された名前を持つ主人公が一人称で語る、となると大江健三郎のある時期以降の作品を連想する人もあるかもしれない。

大江氏の、実体験に基づくであろう老作家と障碍を抱えた息子とのエピソードをふんだんに含む小説は、一見私小説的であると同時に私小説のパロディともとれるようないささかねじれた構造にもなっているように思える。
その点で考えると東氏の本作はかなり「素直」というか「率直」なのかなぁという印象を抱いた。
もちろんSFなのでありますし、個々のエピソードが実体験に基づくもであるというのではなく、メンタリティという部分でのこと。

ある時期以降の大江氏の作品といえばイェイツやエリオットのあまりに直接すぎる引用や解釈、小説の挿話というよりも文学エッセイのような部分が良くも悪くも目につくわけですが、本作でも様々な作品、作家への言及というのがある。
これもドストエフスキーあたりならばそれなりに恰好付けているといえるのかもしれないが、フィリップ・K・ディックではSF作品で言及するにはあまりに手垢がつきすぎているし、村上春樹などにいたっては素朴な文学少年あたりでも直接名前を出すのははばかられるような存在でしょう。
そこらへんをあえてやってしまうというようなところが、「初期衝動」というか大分思い切っているなあという感じがしたものです。

僕は必ずしも東氏のいい読者というのではない。
そんな僕にとって意外に思えたのが2008年の秋葉原通り魔事件に対する反応である。
「これはテロだ」といきなり言い切ってしまった東氏はかなりセンシティブというか、正直僕からするとあまりに過剰反応をしているように思えたものである。
東氏を読み込んでいる人ならば意外でもなんでもなかったのかもしれないけが、そこらへんはよくわからない。

僕もこの事件の一報を聞いた時には衝撃も受けたし、被害にあわれた方は本当に気の毒だと思う。一方で、この手の事件というのは数年に一度は起こるもので、実際秋葉原事件の前にも後にも社会にうまく適応できない人物による動機不明の無差別殺傷事件というのは発生している。
ではなぜ東氏はこれを「テロ」などと言ってしまったのだろうか。

「単独としては初の長編」と書いたが、東氏は本作の前に共作で『キャラクターズ』という作品を上梓している。恥ずかしながらこの作品は未読なのだが、そのラストというのは本人がしばし触れている。
秋葉原事件は予言の成就のように思えてしまったのかもしれない。
本作でも「テロ」といのは大きなモチーフになっている。

ここで注目すべきは、「テロ」であって「レジスタンス」ではないということである。
「テロ」を厳密に定義づけるのは難しい。よく出される例としては、ナチ支配下のフランス人による抵抗運動は当時のドイツ人や対独協力者からみれば「テロ」であり、仮にドイツが戦争に勝ってフランス支配を続けるというような結果に終わった場合(ディックの『高い城の男』!)、あれは英雄的レジスタンスなどではなく一部の跳ね返りによる暴力行為となってしまう。
「テロ」と「レジスタンス(抵抗)」とを分けるものは何か、それは立場によって変わってしまう。

ぼくは、ハードボイルド・ワンダーランドに生きるくらいなら、むしろ世界の終わりを見たいと願っていた。(p.29)

これは主人公がひとりごちているのだが、もちろん村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をふまえての独白である。
「ハードボイルド・ワンダーランド」は現実世界、「世界の終わり」は虚構世界を意味している。
ここからわかるように、葦船往人はどちらかというと逃避的人間である。
冒頭、その葦船が自爆テロ未遂容疑者としてアメリカで拘束されたというニュース原稿から始まる。葦船がなぜそのようなことに至ったのかという謎が読者に提示される。

平行世界で別の自分を生きることになった葦船は、そこでは社会問題に積極的にコミットし、若き活動家たちのカリスマ的存在となっている。
そして彼はその世界で「テロ」に巻き込まれる。
「テロ」を計画している葦船の弟子の一人はこう言う。

だからいま暴力に意味があるとすれば、それは現実を変えるからじゃない。暴力の意味は、言葉にはまだ力があると人々に錯覚させる、その一瞬のスペクタクルのなかにしか存在しない。言葉には力がない。意味すらない。しかし、特定の言葉で暴力が生み出され、ひとがばたばたと死ぬとすれば、そのあいだは関心をもたざるをえないだろう?(p.181)

つまり、具体的な目的や要求があるのではなく、暴力それ自体が意味を持つという発想である。
いちいち「テロ」とかぎ括弧をつけている意味はこれである。あくまでレジスタンス(抵抗)ではなく、「テロ(恐怖)」なのである。
その後実際に(という言い方も微妙なのだが)ショッピングモール起こる「テロ」において、犯人は「外国人と金持ちだけ選んで殺しているみたい」(p.247)であり、奥の子ども用の有料遊戯スペース(子ども一人あたり30分600円)が「富裕層の象徴」として攻撃されたことに葦船は衝撃を受ける。
「なんと慎ましやかな富裕層だろう。この世界は、郊外のショッピングモールのそんなささやかな贅沢すらも許さないほどに、嫉妬と怨嗟に満ちてしまったのか。」(p.248)

これは思いっきり極端に単純化すれば、レジスタンスの否定であり、家族的/小市民的幸福の価値観の肯定である。

村上春樹もかつてはその社会へのデタッチメントを現状肯定の微温的保守主義という観点から批判されることが多かった。これには、例えば加藤典洋氏が初期春樹作品も政治的要素を多分に含んでいるという読解を試みてもいる。

僕としては初期の春樹の作品は革命、つまり資本主義との戦いに代表される大文字の闘争への断念/絶望感と共に、あくまで個人としては虚無主義に陥ることなく最善の戦いを試みるというところに魅力を感じている。政治闘争に身を投じることはないが、一方で限られた手持ちの札でベストを尽くすのである。言い換えれば極めてハードボイルド的なのである。フィリップ・マーロウは自分が何をしようとも悪徳警官や女を殴る男や不実な女を一掃できるなどとは思ってはいない。それでも彼は、時に依頼をこえてベストを尽くして戦うのである。
こう考えると、葦船は春樹にシンパシーを寄せているものの、決して春樹的人物ではない。少女レイプに代表される彼の背徳と象牙の塔にこもる美学的姿勢はそれとは対極的である。


小説を読むうえで気をつけなければならないのは、作中の登場人物と作者をどこまで同一視すべきかということである。ましてや作者本人を連想させる人物が一人称で語っているとしたら。
もちろん文学批評の「正解」としては、あくまで作者は括弧の中に入れて、作中人物はあくまで作中人物として考えるべきなのであるが、ここらへんのシーンを読んでいて、僕にはそれが難しくなってしまった。

東氏は定期的にネット上で話題になるようなことをしている気がするが、中でも今回の地震・津波、そして原発事故以降の言動はいろいろと物議をかもした。
放射能におびえ「疎開」をする一方でニューヨーク・タイムズ紙に「日本人であることを誇りに感じ始めている」(ここを参照)と書いてしまう。
個人的には「疎開」については別にどうでもいいのだが、このNYTの原稿というのはかなり引っかかるが、それを説明してくれているのがこの小説なのかもしれない。

東氏は言葉じりを捉えて「ナショナリストになった」と批判されることに立腹している。
しかし問題はおそらく「日本人であることを誇りに感じ」ることではなく、その論理構成にあるのではないだろうか。

東氏の小説や秋葉原事件への反応、そしてNYTへの寄稿記事は一筋につながっているようにも思える。
それは「レジスタンス」を否定する一方で「テロ」を、カタストロフィを待望する心情であり(したがって秋葉原事件のような無意味な暴力を、その大きさゆえに無意味であると無視できなかったのではないか)、なぜそれを待望しているかといえば「キャラを変える」チャンスとなるからである。大きな暴力に直面し、人々はそれをきっかけに自分を見つめ直し、公共心に、あるいは家族へと目覚めていく。

『クォンタム・ファミリーズ』はタイトルの通り家族の物語である。もっといえば家族への回帰の物語である。
一連の東氏の言動を見ながらこの小説を読んでいて、僕はサッチャーの悪名高き言葉を思い出してしまった。「社会などというものは存在しない。あるのは個人としての男であり女であり家族である」(ここを参照)。これは「社会に依存するな、てめえでなんとかせえよ」という文脈で発せられたのであるが、言うまでもなくサッチャーはアナーキストなどではなく国家主義者である。サッチャーは就任当初は不人気であったが、広く支持されるきっかけは経済的改革などではなくフォークランド紛争によってナショナリズムを刺激したことであった。
中間的なものをすっとばして、愛する存在、家族といったものと国家とが直結してしまうことの危険性は言うまでもないだろう。NYTでの東氏の語る「公共」とは、社会というよりも国家に直結しているようにも見えてしまう。

ACのCMといえば「ぽぽぽぽ~ん」が何かと話題になったが、その後登場したのはなぜか「ニッポン」という存在である。
別にこれを、震災をナショナリズムの高揚に利用している、とまで言うつもりはない。ただ、危ういと思うのは「ニッポン」という「大きな物語」を持ち出すことによって、被害にあわれた方一人ひとりの顔が見えなくなってしまう可能性があるのではないか、そして「ニッポン」に、「お国」のために貢献できないような人間を、たとえそれが被害にあわれた方であろうとも容赦しないような雰囲気が醸成されるのではないかということである。
「危機」において「弱さ」を肯定できずに、大きな物語へと頼ってしまうのは歴史にいくらでも見られたことである。
もちろん東氏とてそのことに無自覚なのではなく、「一六年前、阪神淡路大震災の二ヶ月後にオウム真理教のテロが起きたように、震災が国民に残した精神的心理的動揺は、のち思いもかけないかたちで吹き出す可能性がある」とも書いている。

東氏といえばポストモダンとしてくくられることが多いのだが、近年の発言はむしろ大きな物語を否定したポストモダンの否定とも読める。ただこれが不徹底なだけにポストモダンを肯定的にとらえる人、否定的にとらえる人双方から否定的に受け止められているのではないか。

僕としては家族への回帰を書いた批評家・作家が「自分たちの国家と政府を支えたいと感じている」と書いてしまうことには警戒的にならざるをえない、というのも正直な感想であった。

断っておくが、今回の読み方というのはかなり極端かつ邪道なものである。
別に『クォンタム・ファミリーズ』がファシズム小説だなどというのではないし、作中人物の言動と作者とは区別して考えるべきである。また東氏を危険な国家主義者であるとまで言っているのではない。小説の内容ではなく作者への予備知識と事後の知識によっての判断というのはフェアではないだろう。

東氏が批評・思想界隈では文字通りに桁違いの売り上げを誇る一方で蛇蝎のごとく嫌われている一因となっているのは氏の「うかつさ」であろう。
こう考えると、東氏が批評から創作へと向かっているのもよくわかる気がする。先にこの作品は「素直」で「率直」と書いたが、批評においてはこのような姿勢は忌避されねばならない言葉であるが、創作においてはそのような蛮勇は必要な資質ですらある。

だらだらと書いてきたが、「批評家東浩紀」のイメージが強すぎるために、「小説家東浩紀」をどう評価すればいいのか、この作品を読んでみて結論を出すどころかますますこんがらがってしまったという感じでして。



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佐藤太郎(仮)

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