なぜ私は保守ではないのか


事前に予想されていたこととはいえ、石原慎太郎が4選を決めたというニュースにはやはりがっくりくるものがある。
もちろん石原個人への嫌悪感、拒否感というのもあるのだが、彼を支える大きな力というものがより気持ちを暗くさせる。

石原に対しては「一匹オオカミ」的なイメージを持っている人がいるかもしれないが、実際には霊友会を初めとする宗教票(ちなみに例の都条例の目論見の一つは宗教票を固めることにあったのではないかと推測できる)、そして「黒シール事件」での実行犯が鹿島の社員だったことからも推測できるが、いくつかのゼネコンとも密接な関係にあるともいわれる。
文化的右派と利権の構造の結びつきというのは日本における「保守」においてはおなじみのものであり、石原は例外であるどころかその典型ともいえるだろう。


僕は人文学的にはラディカルな左派思想を愛好するものであるが、現実政治においては革命ではなく斬新主義的改革を支持している。
ある一定以上の年齢の左がかった人の中には「日本はもう成長を追い求めるべきではない」というようなことを言う者がいる(右巻きにもいるけど)。今回の震災でもなぜか「脱成長モデルに舵を切らなければならない」というような物言いをする人がいる。
少し考えればわかりそうなものだが、この20年日本は低成長であり(デフレを放置するという「脱成長モデル」政策!)この結果真っ先に割を食うのは社会的弱者である。

僕は資本主義も嫌いだし金持ちにも反吐が出る。でも、今現在失業していたり、失業への恐怖から劣悪な労働環境から抜け出せない人の前で「世の中カネが全てではない。日本はもう豊かになる必要などないのだ」などということは口が裂けても言えない。
資本主義をいかに嫌悪しようとも、問題を解決するためなら資本主義を適切に働かせることを厭うべきではない。
プラグマティズムに基づく政策を実現させる保守政党があれば、僕は(強く支持しないまでも)進んで投票することだろう。
そのことによって、お前は左翼などではなく微温的保守主義者だ、という誹りを受けるのであらば、甘んじて受け入れよう(別に僕のことなんか誰も非難しないだろうけど)。


ものすごく大雑把にいえば、左翼とは未来にこそ理想があると仮定する。右翼は過去にこそ理想があったのだと仮定する。そして保守は、理想などというものは実現することはないのだと考え、過去の経験に基づいて行動しようとする。
したがって左翼と右翼とは「理想」を仮定するという点ではある種相性がいい面もあるが(左翼から右翼へ何の葛藤もなくあっさり転向する人は枚挙にいとまがない)、現実には右翼と保守とが重なり合う点の多さから共存することになりがちである。

これは漠然とした印象論なのだが、ファシズムへの抵抗力が弱い、もっといえば親和的ですらある社会や国というものがあるように感じる。これを分けるのは、保守が極右への防波堤になれるかどうかという点にかかっている。

例えばドイツにおいて、当時の「保守」はヒトラーを飼いならせると思って政権の座につけてしまった。日本において、「オールド・リベラリスト」たちは軍部の独走を不快に思いながら、現実にはまるで無力で抵抗することができなかった。

石原慎太郎を特徴づけているのは度外れたナルシスティックな自己肯定と一貫したマイノリティへの蔑視である。
保守は理想を持たない。理想を掲げる人間を警戒するのが保守である。石原のこのような傾向は一種の「理想」であり、保守はそのことに警戒感を持ち、必要とあらば断固として戦うことをためらわない存在でなくてはならないのではないか。

この観点でいえば、日本においては強い影響力を持つ保守は存在しない。あるのは擬似「保守」としての右翼である。
日本の自称伝統主義者が依拠するのは、多くが明治以降の「創られた伝統」であることをあげればそれがよくわかる。
今回の都知事選で、無理だろうなぁと思いながらかすかに期待したのは括弧つきの「保守」に抵抗する保守が生まれることであった。最近のいまいちピンとこない用語を使わせてもらえば保守リベラルとでもいう存在が。

作家の森巣博はかつて「日本のマスコミはフランスのルペンやオーストリアのハイダーを極右扱いするのに石原慎太郎をそう呼ばないダブルスタンダードは何なのか」というような趣旨の発言をしていて、これには僕も大いに賛同する。
あれだけ政治家の「失言狩り」に躍起をあげるマスコミも石原慎太郎にはなぜか及び腰である。
一線を越えた人間に対して断固たる姿勢をとることが出来ない政治家・メディア、そしてもちろん我々自身は、一線を越えた事態に対しても断固たる姿勢をとることはできないだろう。

石原慎太郎のような人物が政治家であることを、しかも首都の知事であることを容認してしまうようなものは保守とはとても呼べないのではないか。しかしそういう人間が大手を振って「保守」を名乗っているのが日本の哀しき現状なのである。
これが僕が、日本においては保守にはならない理由である。


……と書いてきたのだけれど、実は都民ではないのですよね。
しかし、石原慎太郎が例外的存在なのかというとそういうことではない。
特に近年、関東では石原の同類ともいえるような人間が知事の座についている(神奈川前知事の松沢、埼玉の上田、そして我らが千葉の森田完全無所属自称剣道二段知事)。
大阪の橋下あたりの受け入れられ方などを見ていると、最早まともに議論することすらすら成り立たなくなるという恐怖感しか感じない(石原の恫喝姿勢を「ソフィスティケート」させているのが橋下のやり口であろう)。

もちろん、だからといって諦めてはいけないのである。シニカルな笑いを浮かべて諦めたその瞬間こそが、「奴ら」の思うつぼなのであることを投票率が教えてくれている。
プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR