『神的批評』

大澤信亮著『神的批評』




どうしても比較してしまうのが福嶋亮大氏の『神話が考える』だろう(感想はこちら)。
『神話が考える』について、僕は「懐かしきニューアカ!」といささか揶揄的にも書いた。『神話が考える』における横断性とは、人文学のフィールドからその境界線となっているチョークの線をモップで口笛を吹きながらゴシゴシ消していくような軽やかさとでも言ったらいいのだろうか。それこそが「ニューアカ」的軽さでありまた面白さでもあるように思える。
一方こちらの『神的』においては、重々しさとでも言おうか、人文学のフィールドから回りに立ちはだかる鉄の壁を拳で殴り続けるような切迫感のようなものを感じた。

文学批評には辿り着くべき正解はない。従ってAと見られていたものがBだった、と思われていたものが実はCで……といつまでも無限に続くものである。

『神的批評』には四つの独立した評論が収録されているが、それぞれここでは、Aと見られていたものが実はBだったと切り捨てるのではなく、Aというものに対して別の角度から光をあてようとしている。

例えば「宮沢賢治の暴力」。宮沢賢治は一般には心優しい平和主義者と見なされているが、一方で彼が国柱会に傾倒したことを挙げ、全体主義との親和性という観点から読み解くという作業がなされることも多い。しかし大澤氏は、ここでは宮沢賢治のそのような傾向を否定したり切り捨てるのではなく、賢治の内に秘められた暴力性を観ながら、その葛藤を読み込んでいく。

本書を特徴づける要素はもう一つある。それは「現実」との関わりへの志向である。
「批評と殺生―北大路魯山人」はいささかトリッキーな構成になっており、ニューアカ的なものすら連想させるものであるが、一方でニューアカ的照れ隠しな煙幕のない、極めてストレートな批評でもある。
『神話が考える』にある種の懐かしさを感じたのとは別の意味で、『神的批評』にある種の懐かしさを感じる人も多いことだろう。

ここで難しいと思えるのが、僕個人としては政治的メンタリティーとしてはおそらく福嶋氏よりも大澤氏に近いのだろう。一方で文学批評としての好みという点ではかなり微妙かな、とも思える。
「批評と殺生―北大路魯山人」の中で、大澤氏は九九年の池袋通り魔事件の犯人へのある種のシンパシーが綴られている。先ごろ出た秋葉原事件の判決でも、被告に対してのある種のシンパシーを表明している(ここを参照)。
現実に起きた事件に対して、このような、言ってしまえば素朴な実存主義的過剰な読み込みというものには正直ついていけない。東浩紀氏の『クォンタム・ファミリーズ』の感想でも書いたが(こちら)こういうのはある事象に対して自分が見たいことを見出してしまっているだけなのではないかと思ってしまうのだ。

先に「人文学のフィールドから」とわざわざ書いたが、これは政治的問題に文学的解決を見出そうということでもある。

「たとえば柄谷以降に試みられた左派的経済論―分析的マルクス主義やアソシエーション経済やリフレーション派」(p.90)とあるのだが、前の二つはともかくとしてリフレ派(というのが、大澤氏が具体的に誰のどの主張をそう呼んでいるのかよくわからないが)を「左派経済論」と括ってしまうのはあまりに乱暴なことだろう。松尾匡氏のように左派的なリフレ派もいるが、高橋洋一氏を「左派」に分類する人はまずいまい。
ちなみに僕はリフレ左派とでもいうべき立場であるが、それは左派的再分配政策とリフレ政策とが矛盾しないどころかそれを実現可能にしてくれるものだからであるが、だからといって逆も真なりということではない。
こういう粗雑なまとめ方が、大澤氏の狙いとは逆に人文学と現実との接点を失わせて細らせていく、
つまり文学を象牙の塔にこもらせていってしまうのではないかという危惧を抱いてしまう。
一見学際的であったポストモダン・現代思想が「ソーカル事件」で復讐されたことを想起すればいいだろう。

大澤氏はさらに「必要な議論だと思うが正直つまらない。市場経済の中で生きる人々の「常識的感覚」を微塵も疑っていないからだ」(p.90)と続ける。
確かに文学的にはプラグマティックな(「神学論争」を排除した)経済論は退屈である。しかし「飢えた人の前で文学は有効なのか」ということも考えねばならない。

「資本主義をぶち壊せ」と唱えることは心地よい。僕も「文学」としてそのような論考を大いに楽しんでいる。
一方で、文学的論考が、今失業に苦しんでいる人や劣悪な労働環境で「ネオリベ」に「搾取」されているような人々を現実に救えるのだろうか。

人文学は必ずしも無力ではない。例えば、政治哲学に大きなインパクトを与えたのはロールズの『正議論』であるが、これは功利主義批判が主となっている。多くの人が直感的に感じていた違和や正義、公平といった理論化されていなかったものを理論化したものだともいえる。

経済学者はしばし学問的ユーフォリアに、もっといえば傲慢な姿勢に陥るが、もちろん経済学にも限界がある。
経済学は、基本的には人間全員に合理性と一定以上の(カネを稼ぐ)能力、そして最低限の倫理が備わっていることを前提としている。
その限界を指摘すると共に現実的解決への哲学的バックボーンとも成り得る存在となっているがゆえに『正議論』は巨大なインパクトを、今も与え続けているのである。

このように人文学が経済学に内包される限界をあぶりだすことがないとは思わない。
しかし文学が経済学に取って代わることができる、つまり具体的な政策によって飢えている人を救えるのか、という点においては僕はユーフォリアを抱くことはできない。それどころか、そのような考え方はむしろ危ういものですらあると思う。

こう書くと大澤氏をただの現実を見ない文学的遊戯にあけくれているだけ、と否定しているように映ったかもしれないが、必ずしもそうなのではない。
僕は大澤氏のようなあり方に一面ではシンパシーを抱いている。同時にその「現実」への志向の無力さというものも認めざるをえないとも思ってしまう。それが「難しい」と書いた理由である。
文学的切実さとアクチュアルな政策提言は両立するのか。文学は「退屈」からの逃避なのではないか。答えは否定的なものに思えるが、それでいいのかという自分がいることも確かである。

もちろん大澤氏は政治家でもなければ政治学や経済学をやろうというのでもないだろう。文学が闘争や抵抗への橋頭堡を築く可能性を僕も排除したくはない。しかしそこに耽溺してしまうことによって、かえって足場を弱くしてしまうこともあるのではないだろうか。

完全に脱線しているが、が何が言いたかったかと言うと、結果として大澤氏が批判している「弛緩した」(象牙の塔的なものにこもる)立場に、図らずも別の方向から近づいてしまう危うさをも感じてしまった。

……と本の感想とは無関係になってしまったうえに収拾がつかなくなってきたのでこのへんで。
個人的に僕が感じている問題意識のうえでいろいろ刺激になったことは確かだし、とにかくジリジリとした緊張感あふれる評論であったことは間違いないです。


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佐藤太郎(仮)

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