『なぜ科学を語ってすれ違うのか』

ジャームズ・ロバート・ブラウン著『なぜ科学を語ってすれ違うのか』




サブタイトルに「ソーカル事件を超えて」とあるように、本書はソーカル事件以降激化した論争からスタートしているのだが、そこだけに留まらず科学哲学の入門書的な役割も果たしてくれている。今だから読むべき本、というのがその時々であろうが、本書はまさに今考えるべきことへ様々な示唆も与えてくれている。

ソーカル事件以後の論争は「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる。しかしアラン・ソーカルがポストモダンを擁護する『ソーシャル・テキスト』誌にポストモダン的修飾をほどこした、素人目には理系知識を援用したかのようで実はでたらめな偽論文を寄稿した特集が「サイエンス・ウォーズ」であることからもわかるように、根が深い問題でもある。

ソーカル事件を受けての反応は、おそらくはごく一部のポストモダン擁護派を除けばおおむね溜飲を下げたというようなものだったろう。
ではこれで、ポストモダンは単なる知的ペテンであったと片付けていいのだろうか。

ソーカル事件でいささかややこしいのは、そもそもの動機がソーカル自身は左派であり、彼にとってポストモダン左派の存在は容認しがたいものであったことにある。
ソーカルは「脱構築がいったいどうすれば労働者階級の力になるのかわからない」と述べている。
難解というより意味有りげでいて実際は馬鹿げているジャーゴンを駆使するポストモダンは百害あって一利なしということだ。

しかしこの事件には、もちろんソーカルに近い立場の人が賛同もしたのだが、一方で正反対の人間も反応した。
本書ではラッシュ・リンボー(アメリカの右派の人気ラジオパーソナリティ)がスタンリー・フィッシュを攻撃するというカオスとしか言いようのない現象まで生まれたことが紹介されている。
アメリカでは現実政治では左派は死に絶えたといっていいが、アカデミズムでは、とりわけ人文学系には左派はまだまだ健在であり、これを苦々しく思っていた右派からすれば渡りに船にように思えたのである。

このように「左派が左派を蝕む」ことの是非といった政治的論争がソーカル事件以後の一つの現象であった。
しかし本書はこの問題にまつわるより本質的なことに焦点をあてる。

確かにポストモダンが誤った理論の理解や用語の誤用を基に科学のイデオロギー性や合理性への懐疑などを訴えても説得力はないだろう。ソーカルが言いたかったのはまさにここである。「自分は科学を擁護しようとしているのではなく、自分の目にはまったく考え違いであるように見える、科学に関連する社会問題へのアプローチを攻撃しようとしている」のであり「社会問題にとりくむためには、批判的合理主義ををとるのが最善の方法だ」(p.302)としている。
これについては僕としても全く同意なのであるが、同時に僕自身ポストモダンというものを必ずしも全て否定しようとも思えないところもある。そして本書もそのようなアプローチをとっている。

本書全体としてはポストモダンについては厳しい扱いである。しかしまた、ポストモダンというものがなぜ生まれ、そして一定の影響力を持ったのかという部分にも考察をしている。

青木薫氏の訳者あとがきから借ると、フランス革命という啓蒙主義に基づくものがギロチンに行き着く。マルクス主義は「科学的社会主義」を謳い、ナチスの優性思想には多くの科学者が手を借し、「社会ダーウィニズム」は弱者切捨てを正当化した。
これらに抵抗するには「科学」というものを相対化しなければならない、これがポストモダンの動機の一つであったことは確かであろう。「サイエンス・ウォーズ」はここからすでに始まっていたのである。

本書でも取り上げられているC・P・スノーの有名な『二つの文化と科学革命』では文系と理系とでまるで話が通じないことが嘆かれた。ここでは理系は合理精神に基づく進歩的存在であり、文系は(例えばパウンド、イエィツ、エリオットのような)保守反動勢力であるとされる。もちろんこの単純化には多くの反発がすぐに寄せられたのだが、そもそも「科学」とはそれほど「合理的」にして正しい進歩の担い手であったのだろうか(スノーのこの説にはピンチョンが「ラッダイト」において反発していた)。

著者のまとめは穏当というかありきたりともとれるものである。
知の濫用については批判をためらわないが、同時に科学者や科学哲学者がやるべきことをもっと果たすべきであるというものだ。

進化論を教えることの是非が争われた「スコープス裁判」は南部宗教右派の後進性を表すものとして嘲笑を浴びることになった。
しかしその中心的存在であったウィリアム・ジェニングズ・ブライアンは一般に想像されるような頑迷な保守主義者などではなく、貧しい人々のために当時の大金持ちが社会ダーウィニズムの名の下に格差を当然視したことに抵抗しようとしたのだ。
このブライアンの試みはみじめな結果に終わった。目的は正しかったのかもしれないが、手段が間違っていたのである。彼自身は聖書原理主義者ではなかったし、彼の「味方」となったのは頑迷な保守派やKKKのような連中であった。
一方でスティーブン・ジェイ・グールドは『ベル・カーブ』のようにあたかも人種と知的能力との間に相関関係があるかのような似非科学に対して、徹底的に科学的に戦った。
九章で紹介されるこの二つの事例は科学者や科学哲学者がどうあるべきかについて教えてくれている。

 政治的動機をもつ社会構成主義者たちの発言は、「わけのわからない戯言よりも明晰な思考のほうが役にたつ」といった言葉とともに一蹴されることが多い。(中略)しかし、それだけでは足りない。わたしたちは社会をより良いものにするために行動できるし、行動すべきなのだ。科学者もそうだが、とくに科学哲学者は、社会の不平等を正当化するようなニセ科学を論駁できるという、社会貢献から特別の位置に立っている。科学者と科学哲学者は、ほかの誰にもまして、悪い科学、とくに社会にとって有害な目的に奉仕する科学を暴露するために必要な力をもっているのである。(p.354)

もちろんこれらは日本にとっても他人事ではない。
731部隊や優性思想に基づくハンセン病患者の人々への必要のない隔離や強制断種、水俣病は公害ではないとした科学者たちの主張によって被害はさらに拡大した。

そして今読むべき、というのはもちろん原発問題に絡んでである。
理系知識のある人が反原発派の人々の科学知識の無さを嘲笑うような反応を示していることが見受けられるが、彼らは同じような批判や懐疑を原発推進派へ向けたことがあったのだろうか。
一方で、反原発派の人が彼らの科学知識の誤りを指摘した、必ずしも原発推進派ではない科学者に向かって「敵認定」をし、我々を批判する者は全て御用学者だ、などとするのも愚かなことであろう。

前にも書いたが、キーとなるのは知的謙虚さと知的誠実さであると思う。
適切な批判精神、合理的にして論理的な姿勢。これを否定しようという人はまずいないだろう。それを実際に働かせる際に必要なものこそが、知的謙虚さと知的誠実さであるのだろう。


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佐藤太郎(仮)

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