感情を捉えるもの

『息もできない』






ややネタバレ有りなのであしからず。

出来の良し悪しを超えて人々の感情を捉える映画というものがある。この『息もできない』もその作品であろう。

子どものころに、比喩ではない文字通りの過酷な暴力にさらされたために暴力の中でしか生きていくことのできないサンフン。ふとしたことから知り合った女子高生ヨニもまた、今現在進行形で悲惨な家庭環境にあった。二人は徐々に距離を縮めていくが……

物語の型としては斬新というよりありきたりとすらいっていいものかもしれない。
トラウマ体験により捨て鉢な生活を送る男、過酷な状況の中にも気丈に生きる女。二人の間に救済の可能性が示されるが、暴力の中でしか生きていけない男は暴力によって復讐される。暴力が新たな暴力を生むという悪循環だけが残されていく。


ここからは映画そのものというより、この映画に感情を捉えられた人と僕自身の個人的反応について。

この映画に強く反応した人というのは、サンフンは自分だ、あるいは自分もこうなっていたのかもしれない、という感情を抱いたのだろう。
もちろん実際にあそこまでの体験をしたという人はほとんどいないだろうが、それでもこの鬱屈した感情は暴力の中でしかやりすごせなくなるのではないかという恐怖心とも羨望ともつかないような思いにかられるというのはよくわかる。

一方で、僕個人としては、過酷な体験がそのままストレートに文字通りの暴力に反映されてしまうということにたいしてシンパシーというものをあまり抱けない傾向にある。
本作に限らず、ヤクザやチンピラ映画というものに過剰なシンパシーを抱く人がいるが、僕としてはあまりそういう感情は抱けない。
この作品で何かと引き合いに出される北野武はすばらしい監督だとは思うものの彼の一部の作品のヤクザへのある種の理想化というか美化というものにはあまり乗れない感じである。

個人的なことを書くと、僕も家族というものに鬱屈した感情というものを持っている。贅沢言わないからせめて「普通」の範疇に入れられる家になぜ生まれてこれなかったのだろうか、と呪ったこともあった(いや、過去形でなく今もなんだけど)。
ただ僕の場合それが外へと向くのではなく、むしろ内へと向かっていった。
その結果として、映画などのフィクションでも鬱屈した感情をぶつける側ではなくぶつけられる側へ、つまり暴力にさらされて苦しむ側へのシンパシーというものが強くなった。

デスパレートな感情というものへのシンパシーというものがないのではなく、むしろ強いからこそ、そういったものを押し殺していこうとする側への共感というのが強くなる。
そういう点ではむしろヨニのほうへ気持ちが向くのかもしれないが、そう考えると、しっかしあんな出会いでチンピラとJKが仲良くなっちゃうってありなの?!……という不条理感が高まっていってしまうのでもありますが。

まぁ、もともと感想書こうとか思わないかな、とか思っていたんだけれどこういうことをつらつら書いてしまうということはなんだかんだで僕自身感情を捉えられたということは間違いないのでありまして。

あと良かったなぁと思えたのがサンフンのファッションかな。あの救いようもないダサさというのが彼をいたずらに美化しようというのではないという監督主演のヤン・イクチュンの意気込みが伝わってくるようだった、というんじゃないんだろうけどすごい恰好だったw

いずれにせよくる人には非常にぐっとくる作品であることは間違いないものでしたね。





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佐藤太郎(仮)

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