Raymond Carver  A Writer’s Life

Carol Sklenicka著 Raymond Carver  A Writer’s Life




レイモンド・カーヴァーの伝記、なんとか読み終えました。

僕の(というか日本における少なからぬ人がそうであろうが)カーヴァーとの出会いは村上春樹を通してであった。

すぐにカーヴァーの作品が好きになった一方で、なぜ春樹がこれほどまでにカーヴァーに入れ込むのかは、今ひとつぴんとこないものがあった。

カーヴァーの作品の登場人物の多くは生活が破綻し、アルコールに溺れ、救いようの無い人生を歩まざるをえない労働者階級である。
春樹の作品の登場人物とはつながりがありそうにはない。
もちろんカーヴァーの作品もシュールとしか言いようのない奇妙なテイストや、人間の深淵がぱっくり口をあけたままそこにそのまま投げ出したようなぶっきらぼうな終わり方をするようなものもあり、そこに共通項を見ようと思えば見れないこともない。
そもそも、ある作家が別の作家に惹かれるのは、必ずしも共通項があるからではなく、まるで違う作風だからということなのかもしれない。と、そんなことを思っていたのだが、この伝記を読んでいてある考えというものも浮かんできた。

レイモンド・カーヴァーの人生を短くまとめるとこうなる。
1938年にブルー・カラーの両親の元に生まれ、ワシントン州で育つ。ハイ・ティーンで結婚し、子どもを二人もうけ、生活は困窮しながらも文学的野心を膨らまし続けた。腕利き編集者のゴードン・リッシュと出会うなどし、少しずつ作家としての階段を昇り始めたものの、結婚生活は破綻し、深刻なアルコール中毒に苦しみ続ける。その後アルコールを断ち、新たな伴侶となるテス・ギャラガーと出会い、リッシュと袂を分かち、80年代に入ると商業的にも大きな成功を収めるものの、癌に冒され88年に50歳で死去する。

カーヴァーの生涯は決して平穏無事なものではなかった。それどころか波乱万丈なものであり、その生涯の「伝説」を彩るようなエキセントリックなエピソード(成功した後、つっかけ姿でベンツを買いに行き、そのままキャッシュで購入)などもある。
しかし一方で、ある種「ありきたり」な成功譚のようにも思えてしまう。

本書は著者が想像力を膨らませて作家の内面に分け入るというよりは、丹念な取材によって事実を綿密に積み重ねた、伝記としては正統的な手法で書かれている。そのせいで平板に思えてしまったのだろうか。そうではないだろう。「ありきたり」にも思えてしまうのはカーヴァーの終始一貫したある姿勢である。

ドストエフスキーはなんともカラフルな生涯を送った。彼がなぜ作家となり、あのような作品を書いたのか、その一生からいくらでも引き出すことができる。父親の惨殺、癲癇、死刑執行間際での恩赦、救いようのないギャンブル癖……
しかしドストエフスキーのような人生を歩む作家ばかりではない。作家の中には、自らその人生をカラフルなものにしようとする者もいる。その代表格がヘミングウェイであろう。

村上春樹はかつて、フィッツジェラルドとヘミングウェイ(二人はかつては盟友であり、先に大きな成功を収めたのはフィッツジェラルドであったが、彼の没落と反比例するようにヘミングウェイは成功していった)を比較して、フッツジェラルドは文学を信じたが、ヘミングウェイはそうではなかったという趣旨のことを書いている。フィッツジェラルドは落ちぶれて、誰も彼のことを相手にしなくなっても、それでも文学を信じていた。ヘミングウェイは自らの人生を彩る華麗な生活を送ったものの、最後は鬱に苦しみ自殺を遂げる。春樹のシンパシーがフィッツジェラルドにあるのはいうまでもないだろう。

カーヴァーの作風はどちらかというとヘミングウェイに近いのだが、彼の姿勢はむしろフィッツジェラルドに近いのかもしれない。
この伝記を読んでいて「平板」とすら感じてしまったのは、カーヴァーの文学的信念が一切揺らぐことがなかったためである。厳しい生活、苦い別れ、苦境、大きな出会い。全てカーヴァーにとって文学的滋養となったのは間違いないのであるが、しかしこれがなければカーヴァーは文学の道に進まなかった、あるいは筆を折っていたかもしれない、と思わせるようなところがないのである。
カーヴァーは文学の道を歩むことを決め、その思いは生涯揺るぐことがなかった。これこそが村上春樹がカーヴァーに強く惹かれた部分なのではなのか、と思えてきた。

この伝記ではあまり触れられていなかった部分もある。
カーヴァーは「ミニマリズム」という一派の代表格のように扱われたのだが、これは必ずしも誉められてのことではなかった。
ポスト・モダンの冒険を通過した人からするとカーヴァーの文学は保守的に映った(日本でもいわゆるニュー・アカ系の人はカーヴァーを嘲笑的に扱った人もいたが、これは村上春樹への憎悪の結果であろうけど)。

リッシュは極めて介入的な編集者であり、彼の「過剰編集」は後にちょっとしたスキャンダルとして扱われることになる(これについては春樹編訳『月曜日は最悪だとみんな言うけれど』に詳しくある)。リッシュ自身はある意図を持ってカーヴァーの作品を暴力的なまでに縮め、激しく省略し、背景などを削ったりしていたのだが、これは必ずしもカーヴァーが「ミニマリズム」を志向したというのではなかった。

カーヴァーの文学的志向がある瞬間にリッシュと交差したことは間違いなかっただろう。しかし、カーヴァーはある文学運動の担い手になろうとは思ってもみなかっただろう。彼はただひたすらいい作品を書こうとしていただけなのである。リッシュに党派的野心があったことは間違いなく、当然ながら二人はすれ違うことになる。
リッシュと決別した後のカーヴァーはより物語性の強い、日常におけるある種の「奇跡」の体現ともいえる作品まで書くことになる(「大聖堂」など)。

またカーヴァーは労働者階級の厳しい生活を描いたものの、これを政治的方向へ向けることはなかった。カーヴァー自身はおそらくは政治に興味自体がほとんどないという徹底したノンポリであったのだろうが、これはレーガン政権の誕生と歩調を合わせた「反動」という扱いすらされたことがあった。

僕はポリティカルな小説を否定するものではないが、かといって非政治的な小説には価値がないとも思わない。
清く正しいプロレタリア小説ということからすると物足りなさというものもあるのかもしれないが、単にカーヴァーはそういった作品を書こうとは思わなかっただけであろう。まぁ、これをもって「反動」という人もいるのかもしれないが。

カーヴァーは「ナイーヴ」といってもいいほどに純粋に文学に向き合い、成功を夢見、諦めることなく書き続けた人生であった。

春樹はエッセイでフィッツジェラルドやカポーティ、チャンドラーといった私生活において破滅的傾向のある作家に惹かれるということを書いていたが、これは破滅するがゆえに好きなのではなく、破滅しようともなお文学に真摯に向き合うということだったのかもしれない(カポーティあたりは微妙な気もするが)。そしてカーヴァーにあれだけこだわりを持ったという理由もここにあるのではないだろうか。


ちなみに本書の中には春樹は二度登場。一度目は若き春樹がカーヴァーの家を訪ねたところ。もう一つは、来日が決まって、巨体のカーヴァーのために巨大なベッドを買ったものの、癌のため日本にこれなくなってしまったというエピソード。どちらも日本語でも読めるもので、とてもいい話なので興味ある方はこちらもぜひに(と書きながらどの本に収録されてたのか思い出せない……)。

あといろいろ細かいエピソードなどで面白かったものをいくつか。
カーヴァーの巨漢は有名なのだけれど、子どものころは横にも大きく、肥満に悩んでいたそうだけど写真を見るとリアルジャイアンって感じがなんだかおかしい。

カーヴァーの長男は一時CIAへの就職を考えてカーヴァーを仰天させたそうだけれど、結局軍の分析官になったようで、人生というのはいろいろあるもんだなぁ、と。

テスと結ばれて良かったね、とも思う反面やっぱり最初の奥さんはかわいそうなんだな。家計を支えながら苦労して大学を出て教師になるものの、なかなか正規雇用されずに大変というのは遠い国の他人事の話ではありませぬな。ま、どの国でも糟糠の妻というのは辛いのですね。

あと今調べたらマイケル・チミノのために書いた『ドストエフスキー』の脚本なんだけど絶版で日本のアマゾンでは扱ってないのね。アメリカのアマゾンと紀伊国屋のサイトでは古本が買えるな。これは訳されないだろうから買ってみようかね。


しっかし英語がたいしてできない人間からすると大部の本を読むのはひどく骨の折れるものであり、読み終えた後に邦訳が出たりするとと少々複雑な思いにかられるのでありますが、とはいえなんとか早いとこ邦訳も出してもらいたいものであります。





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佐藤太郎(仮)

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