『V.』

トマス・ピンチョン著 小山太一+佐藤良明訳 『V.』



『V.』の新訳でございます。読み終えて正直なとこは「やっぱ俺の手にゃ負えねえ!」ってとこでありましたが、いくつか感想を。

物語は1955年のクリスマス・イヴから始まる。海軍を除隊したベニー・プロフェインは「木偶の人間ヨーヨー」として道路工事などの日雇い仕事で食いつなぎながらだらだらと過ごしていた。
一方1901年、ヴィクトリア女王の没年に「新世紀の子」として生まれたハーバート・ステンシル。彼は父が書き残した「V.」に獲り憑かれ、その謎を解こうと渡り歩いていた。そんな二人が交差し……


プロフェインの物語を横糸に、ステンシルの物語を縦糸に最後には壮大にして優美なタペストリーが編み上げられる……というのではなく、織りあがったものはクラインの壷かメビウスの輪か。とにかく一筋縄ではいかないどころの話ではございません。

『V.』を再読するのは多分十年ぶりくらいなのだけれど(正直細部どころか相当な部分を記憶していなかったのでありましたが)、後に書かれた『メイスン&ディクスン』(感想はこちら)や『逆光』(感想はこちら)を読んだ後に立ち返るとピンチョンの変化というものが実感できる。

1973年に『重力の虹』を発表後長い沈黙に入り、1990年に出た『ヴァインランド』以降の作品というものは、よく言われることだが読みやすく(あくまで比較の問題だが)なっている。

『M&D』にしろ『逆光』にしろ「ピンチョンらしさ」とされるものは健在であり、「すごい!」という感想を持つのであるが、『V.』や『重力の虹』を読み終えたあとの頭のクラクラするような体験というのとはやや異質な読後感である。『M&D』や『逆光』では僕のような頭の悪い読者でも素直に感動できてしまう。
これを「物足りなくなった」とするか「読みやすくなってありがたい」とするかは好みの問題だろう。

『V.』はピンチョンが25歳にして書き上げた作品である(発売は翌年)。まことにもって恐ろしいとしか言いようがなく、掛け値なしの天才とはこのことなりというところであろうが、もう一つ注目すべきなのは、これはつまり、ピンチョンが1937年に生まれているということではないか。

1945年、ナチス・ドイツによるアウシュヴィッツに代表される強制収容所とそこで行われた大量虐殺が明らかになり、そして広島、長崎に原爆が落とされた時、ピンチョンは8歳であったのである。このことはピンチョン少年に深く影響を与えたことであろう。

アウシュヴィッツにしろ原爆にしろ、これらは極めて現代的、あるいは「文明的」といっていいものであるかもしれない。
もちろん、人類はそれまでも人種差別や大量虐殺を行ってきた。しかし、あたかも工場で機械を生産するがごとく大量の人間をシステマティックに殺していくなどということはかつてなかったことである。
マンハッタン計画によって現代の英知を結集し、あまりに巨大な暴力が解き放たれてしまった。


しかし人間だって同じようなものんだろう。覚えてるか、戦争の直後にニュールンベルク裁判てのがあったな。アウシュヴィッツの写真、覚えてるか? ユダヤ人の屍体が、それこそ廃車みたいに積み上がってたな。いいか、シュレミール、もう始まってるんだ。
「あれはヒトラーがやったんだ。狂人の仕業さ」
ヒトラー、アイヒマン、メンゲレ。十五年前のことだな。もう始まってるのよ。これが始まったらもう、狂気と正気の見境はつかない。おまえさん、それを考えたことはないのか?(
下p.71)


と引用したように、『V.』では直接的にアウシュヴィッツに言及した箇所もある。第九章に出てくる旧ドイツ領南西アフリカで行われた虐殺はアウシュヴィッツに直接連なるものである。
そしてちらっと登場する電気系技術員三等兵曹の名はヒロシマ。

『V.』の主人公プロフェインは「駄目人間」であり、ピンチョンのそういった社会から逸脱した人間への共感というものを反映している反面、彼は人(というか有機物)を愛することができない。
ステンシルはあらゆるものに「V.」の影を見て取る。いや、そもそも「V.」自体が彼のパラノイアの産物なのかもしれない。ないものを見て、ありもしない連関を感じ取ってしまう。

ピンチョン自身は厭世的世捨て人ではない。彼は「ジャンク」なものすら愛おしく思っている人間的な作家である。
一方で「現代」が生み出す巨大な暴力、そして暴力が暴力を生んでいく負の連鎖、それに抗うことはできるのか?我々はすでに見えない何かに支配されているのかもしれない。そんなある種のペシミズムに若きピンチョンは支配されかかっていたのだろうか。
この分裂というものがどこまでも出ることのできない迷路(そもそも出口があるのか? いや、というかいつどこから迷路に入り込んだのだろうか)のような感覚の作品を生んだのかもしれない。

ではなぜある時期以降のピンチョンが「素直に感動」できてしまうような作品を書くことになったのか。
これを結婚して子どもが出来たから、としてしまうのはあまりに退屈な伝記的批評になってしまうような気がするのだが、しかし人生の転機というのはこういう当たり前すぎることの中にあるものなのかもしれない。

なにはともあれ、とにかくどこまで理解できているのかは極めて怪しい僕のような人間でも、やはり「パラノイア患者が探偵をつとめる推理小説を読む」(佐藤良明氏による解説から)かのような頭クラクラ体験というのはこれもまた極めて刺激的で魅力的なものでありました。まあ何度も繰り返し読んでこのクラクラ体験が解けていくことにこそ真の魅力があるんだろうけど……


最後に、訳については原著と旧訳と照らし合わせたりはしていないので、どうのこうのということはできないけれど、やはり圧倒的に読みやすくなっていると思います。旧訳で挫折した人も再チャレンジしてみては。

ただ一つ残念なのは今回は訳註なしなこと。佐藤氏の解説によれば訳註なしで読める日本語に到達する可能性に賭けた、とのこと。確かに読み進む分には不自由しないし、より興味ある人は各人でpynchonwikiなどを当たられたし、というのはそうなんだろうけど、鬼のような訳註を期待していた人は僕だけではないはず。どうも世間では訳註というものが迫害されているようでありますが、あれこそが(とまでいっていいのかわからないが)翻訳本の魅力の一つではありませんか、と思うのですけどね。

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