エンドウさん


僕の家は小学校の学区の境界近くにあった。
学校から5、6人のグループで帰り始めたとしても、次第に一人抜け、二人抜け、最後に団地を通り抜けると、あと数百メートルを一人とぼとぼ歩くことになる。大人になればほんのちょっとの距離も、小さな頃は結構なものに感じた。

あれは小学校二年の春だったと思う。その日も一人になったが、いつもとは違っていた。後をつけられている気配がしたのである。家に帰るまでには碁盤目状に分譲された住宅地を抜けるのだが(僕の家は学校側から見るとその一番隅にあった)、まっすぐに進まずに遠回りをしてみた。
まだ後ろに人の気配がする。間違いなくつけられていた。

高い塀をめぐらせている家の横に来ると、少し早足に角をすっと曲がった。後からついてくる人間には僕がそのまま先へ進んでしまったように見えるはずだ。僕はそこで立ち止まり、塀に体をくっつけて姿を隠して待った。案の上早足になった人間と鉢合わせになる。
「なについてきてんだよ」僕は言った。
女の子はばつの悪そうな笑みを浮かべた。この尾行者は優秀ではなかった。遠回りしながら、すでに僕の視界の端にはこの女の子の姿が入っていたのである。

女の子は確かエンドウさんという名だった気がする。
学年は一緒だがクラスは違っていた。学年行事か何かで何度か顔を合わせたことがあったような気がしたが、ろくに口などきいたこともなかった。
エンドウさんは一言も返さずに、何事もなかったかのように後をつけて来た道を逆方向に辿っていった。
「へんなやつ」僕はそう思って家へ帰った。

二十歳のころ、長らく顔を合わせていなかった小学校の同級生に子どもができたという噂を耳にした。なんだか妙な気分だった。僕の精神年齢は小学二年のころからほとんど変わっていないように思えて、同い年の人間が子どもを持つなど、子どもが子どもの親になるように思えたのだ。
それからさらに十年以上の年月が流れ、今や小学二年の子どもがいても不思議でない年齢になったのだが、今でも僕は自分の精神年齢が二十歳はおろか、やはり小学二年のころからあまり変わっていないように思えてしまう。
時折小学校低学年の集団にでくわすと、なんだかその中にエンドウさんが混じっているような気がしてくることがある。もっともこの歳で小学生の一団を見ていたら、それだけで変質者扱いされかねないので注意しなければならないが。

あの後エンドウさんとは学校で何度か顔を合わせたように記憶している。でもエンドウさんはまるで僕の存在自体を認識していないかのように、なんの反応も示さなかった。僕にしても、当時はクラスと性別の壁を越えて話しかけるなどという大胆な行為(小学二年にとってはそうなのだ)をするなど思いもよらなかった。エンドウさんの顔を見るたびに「へんなやつ」と思っただけである。

エンドウさんのことは次第に意識から薄れていった。一年もすると、どの子がエンドウさんだったのかすらよくわからなくなってきた。そもそも「エンドウさん」という名前からして、確かそんな感じだったようなという程度のものだったのである。

しばらくはエンドウさんのことを思い出すことなどほとんどなかった。
たまにエンドウさんは本当に存在したのだろうか、あの日のあの光景は僕が頭の中で勝手に作り上げただけのことなのではないか、などという気になることもあったが、どう考えてもあれは実際に起こったことであった。

スコット・フィッツジェラルドは「人生の後半生とはいろいろなものを失っていく長い過程である」というようなことを書いている(もっともフィッツジェラルド自身は四四歳で死んでしまうのだが)。
若いころというのは、あるかもしれない未来という世界の可能性がいくつも存在していた。
それが、ある程度歳をとってくると、あるのは「あったかもしれない未来の世界」という過去である。いくつもの可能性があり、それが実現することなく、かつ失われることもなく意識に留まり続ける。人生はただ失っていくだけではない。失ったものを背負っていかなくてはならないのである。

エンドウさんのことが、単なる記憶の1ページから、記憶のひっかかりとなるようになったのはいつのころからだったろうか。
人間関係、とりわけ男女関係は、あの時あんなことをなぜ言ってしまったのか、なぜあんなことをしてしまったのか、あるいは逆に、なぜあのひとことが言えなかったのか、あんなことすらできなかったのかということばかりである。
ひとこと言うたびに、あるいは言わないたびに、可能だったかもしれない未来の世界が一つ消え、同時に背負い続けなければならない失われた可能性が一つ増える。

あの日、エンドウさんはなぜ僕の後をつけたのだろうか。
僕も江戸川乱歩の子ども向けの小説を読んで(年齢を考えればなんとなく耳にしただけかもしれないが)、小林君の少年探偵団などに想像を膨らましたものである。友だちやその親、はたまた見知らぬ人を尾行してみたこともある。目的があってするのではなく、人の後をつけているということ自体が楽しかったのである。
エンドウさんも少年探偵団に胸膨らませていたのかもしれない(小学校低学年の女の子が江戸川乱歩を読んでいたとすればまたそれはいろいろアレでして、あらぬ方向に穏当さを欠いた想像をしてしまうのであるが)。
あるいは、エンドウさんは僕に好意を抱いていたのかもしれない、なんてことも思ってしまうことがある。
自分がたいして知らない女の子に好意を抱かれるようなタイプでないことはわかっている。これはありがちな「男の勘違い」というやつなのかもしれない。でも人が人を好きになるなどというのは、ある種暴力的といってもいいくらいの不合理な力が働くこともある。

今となっては実際にエンドウさんが何を考えていたのかは知る由も無い。名前すら定かではないのだ。交流の途絶えた昔の知り合いの名をついグーグルの検索窓に打ち込んでしまうことがあるが、それすらもできない。さすがに小学校の卒業アルバムをあさろうとまでは思わない。

でも、あの時もう少し違ったことを言っていれば、もう少し違ったふうに接していれば、僕の人生にまた違う可能性が開かれたことになっていたのかもしれない、エンドウさんのことが蘇るたびにそう思わずにはいられないことも確かなのである。

時折あの光景を夢に見ることがある。そのままの再現ではなく、いくつかのヴァリエーションがあるが、主に二つのパターンをとる。

僕は視界の端に後をつけてくる女の子の姿を認める。高い塀をめぐらせた家の角をすっと曲がり、塀に背中をつけて女の子がやってくるのを待つ。でも、いつまでたっても女の子は現れない。そのうちに、僕は人気のない街を、その女の子を探して彷徨い歩くことになる。
もう一つは、今度は僕が女の子の後をつけている。僕はその女の子に好意をもっていて、女の子も僕に好意を持っているということがわかっている(夢なのでここらへんには突っ込まないで)。女の子は、高い塀をめぐらせた家の角をすっと曲がる。見失ってなるかと僕は小走りに後を追う。角を曲がると、そこには誰の姿もない。僕はその女の子を追い求めて、人気のない街を彷徨い歩くことになる。

どちらにしても、目覚めのいい夢ではない。
僕は孤独と喪失感とが入り混じった、もう取り戻すことにできない時間の重みを思い知らされる。
すべては決定的に失われてしまい、もう回復する術もなく、ただひたすら「あったかもしれない未来」という名の死産した可能性という過去を抱えてやりすごさなければならないのか。いったいどこで間違ってしまったんだ。どうすればよかったんだ。
わかっているだろ、こんな事態を招いたのは他ならぬお前自身なんだ。そんなやりきれない思いにしばらく苛まれることになる。


……んでもってなんでこんなもん書いているかって? そりゃもちろんエンドウさんの夢にうなされたからですよ!
今どこで何してるんだろう……

プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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