見ているのは誰? 『ブラック・スワン』

なんか映画館で映画見るのも久しぶりだなあなんて思ってたら、そういえば映画館行くのって『ヒアアフター』以来なのか……なんてせいでもないのですが、個人的事情としては最近アタマの具合がいまひとつ冴えない感じでありまして。そんな時にこんなもの見るべきなのか、いやこんな時だからこそ見ずにはいられないのか、なんて葛藤もありましたが、実際見てみるともうそれはそれは。とにかくグサッっと、そしてガツンとくる作品でありました。

この作品を語るのにいくつものキーワードを抽出することができる。例えば「親子」「身体性」「痛み」など。その中で僕が一番意識させられたのは「鏡」であった。

さりげなくどころではなく意識に押し入るほど鏡を含んだシーンが頻出する。
鏡にはありのままを映す機能と見たくないものまでも映してしまう機能がある。
しかしそれだけではない。
鏡を不気味な存在として描くことは古今東西幅広く見られるが、それは映らないはずのものまでもが映りこんでしまうのではないかという恐怖のなせる業だろう。
現実に、鏡は文字通りにありのままを映すのではない。人間の顔は左右対称ではない。そして鏡は左右が逆転している。つまり鏡に映る自分の顔は他人の目に映る自分の顔と完全に同じではないのである。鏡は宿命的に歪んだ存在であり、そこに映るものが「ありのまま」に近いものなのか、それとも決定的に歪んでしまっているものなのか。「私」が目にしているのは私の姿なのだろうか。

鏡にはもう一つ特徴がある。
鏡はそれ自体によって意味を持つのではなく、何かを映し、そして誰かに見られてはじめて意味を持つものなのである。
つまり、視線というものが大きな意味を持つことになる。

映画における視線にはどのようなものがあるのだろうか。
小説においては一人称と三人称とがあり、一人称は語り手が体験したことが書かれる(「信頼のおけない語り手」も存在するが)。
三人称は外面的事実を描写する場合と全知の語り手によるものとがある。しかしどちらの場合にも視点人物というものは基本的にははっきりしている(わざと混乱させる場合もあるが)。

映画において映る光景はいったい誰の視線なのであろうか。
ロバート・アルトマンによる『ロング・グッドバイ』は「一人称」映画とされる。チャンドラーの原作が一人称であるのだから当然と思ってしまうが、映画という形式においてこれを貫徹するのは難しい。実際この作品でも、全てのシーンにマーロウを登場させるために窓の外に映しこむという苦肉の策までとられている。一人称で描くこと自体が主眼の作品でもない限り、どかに超越的視線が入り込まざるを得ない。

では『ブラック・スワン』はどうか。
この作品は基本的にはニナ(ナタリー・ポートマン)の視線で描かれる。僕の記憶する限り、超越的視線はあっても(これは避けられない)ニナ以外の人物の視線は入り込んでいなかったと思う。
ではこの作品は一人称的なのであろうか。

ニナが移動する際に執拗に繰り返されるのがニナの背中をなめた肩越しのショットである。
考えてみればこれは妙なことかもしれない。「私」が歩くとき、「私」の視界に自分の背中が入ることはない。これはあたかも「密着ドキュメント」の映像であるかのようだ。
そしてニナがひっかき傷をつけるのは左肩の裏。そう、ちょうどカメラがなめるように映し続ける位置でもある。これを見ているのは誰なのか。ニナは傷口を誰かに見せたいのか隠したいのか。

僕は幸いにも、少なくとも肉体的には自傷行動というのをとったことがないのだが(痛いの嫌いだもん)そのような行動をとる人の話として痛みを感じることで自分の存在が確かめられるというようなものがある。
これは精神医学的な乖離現象と同一視していいものかわからないが、自分が自分でないように感じてしまうということは、自分のことを「見て」しまうということなのかもしれない。それは自分を客観視するということではなく、文字通り「見えて」しまうということなのかもしれない。
そう考えると、この1.5人称とでもいうべき視線は、ニナの乖離状態を表すものなのかもしれない。

一方で、この作品ではバレエの監督とプリマとの関係が描かれるのであるが、これは比喩であるどころかあまりに直接的に映画監督と主演女優との関係を想起させる。
映画における視線、その答えは監督のものということかもしれない。観客はカメラをふることもアップにすることも選べない。全てを決定しているのは監督なのである(必ずしもそうでない場合もあるがとりあえずここではそういうことにしておく)。

この作品において絶妙だと感じたのはニナの一人称的視線と乖離しかけているニナの1.5人称的視線(あるいは「密着ドキュメント」風視線)と監督(アロノフスキー)による超越的視線とが自然と絡み合い、溶け合っていることである。

同じくアロノフスキーによる『レクイエム・フォー・ドリーム』はドラッグにおぼれて崩壊していく人々を描いた陰鬱な絶望感に覆われる作品である。多くは一人称視点であったが、時折三人称視点も挿入されていた。映画を「商品」としてきっちり仕上げるためには当然のことである。
『ブラック・スワン』においては、この視点があたかも一貫したものであるかのような印象を与えつつ、一人称を貫徹した映画にとって避けられない不自然さをも回避している。

精神の均衡を失っていく主人公に寄り添う視点で描かれると、視線も同時に均衡を失っていくという演出がとられることが多いだろう。ところがこの作品においてはあくまで明晰である(終わったあと「全然意味わかんなかったんだけど」と言っていた人がいたのだがこういう例はかなり少数であろう)。それでいて強引に説明的カットを挿入したようには映らない。説明過剰でもなく、かといって最後のシーンが観客の解釈に委ねられるのでもない。ウェルメイドでありながら「てだれ」感をも出さない。この結果、観客は「安心しておののく」という矛盾したような状態となり、このことがガツンとくる衝撃度を弱めるどころか高めてくれているのではないかと思えた。

個人的なことを書くと、僕が鏡に、そしてそこから派生して視線に意識がいくのには理由がある。
夏目漱石が探偵の存在を嫌っていたことは有名な話である。漱石は窃視恐怖症であったともいわれる。僕は漱石にいろいろと勝手に親近感を抱いてしまうのだが、実は僕自身この窃視恐怖症的なところがある(そういえば漱石の奥さんの名は鏡子……今、意味のないものに意味を見出してしまっているのか)。
ひどい時には世界中の人間がこちらを監視して嘲笑っているかのように思えてしまう。もちろん僕のことなど誰も監視などするわけもないのだが、そういうことが頭ではわかっていても身体が恐怖に襲われてしまうことがある。

この作品を「しんどいなー、つらいなー、もうゲロ吐きそう」などと見ていたのだが(ほんとにゲロゲロやるシーンがあるし)一番「うっ」っとなったのはニナが劇場から逃げ出した時に自分の看板に見つめられているように思ったカットである(ここは違うようにも解釈できるのかもしれないが)。みんなが自分を陥れようとしてしている(トマとリリーの目配せ!)地下鉄の中で変態おじさんまで私を見透かしている!そして自分までもが私を見ている!もちろんこれらは幻覚であろうが、これほどの恐怖というのはない。

一番「イタい」と思ったのは爪きりでもささくれびよーんでもなく(これにもぞっとしたけど)、ニナが大量のお人形さん(というにふさわしい)をダスト・シュートにぶちこむところ。これはいろんな意味でつらかった。こういう子いるよなあというのと同時に僕も人のこと言えんしなあなんてとこも。う~む、相当にダメージを負ってしまったな。


アロノフスキーの前作『レスラー』が主演のミッキー・ローク当人の姿と重ねあわされているのと同様、『ブラック・スワン』ではナタリー・ポートマン当人の姿が重ねあわされているとされる。
その通りなのだろうが、しかしこの作品においてはなんといってもウィノナ・ライダーであろう。僕は必ずしもウィノナに思いいれがあるわけではないのだけれど、それにしたってあんな役に使うなんてアロノフスキーよ、お前はどんだけ鬼畜なんだ!と思ってしまった。
そりゃたった一言、せめてエンド・クレジットの最後にでも「故今敏監督に捧げる」と入れりゃいいものをしないような人間だよ!

なんて言いつつ実は『パーフェクトブルー』はまだ見てないのよね、と思って帰りにツタヤに行ったら貸し出し中。みんな考えることは同じか。

なにはともあれ、とにかくすごい作品でありました。





久しぶりに読み返したくなった。





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佐藤太郎(仮)

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