歳をとるのもむつかしい


あまりに今さらという感じではありますが水村美苗著『日本語が滅びるとき』を読んだので。




水村美苗についてどんなイメージを持っているのだろうか。
「知的」あるいは「寡作」というものが多いかもしれない、というか僕がそうであった。
本書はここらへんのイメージが受けてにとって良くも悪くも作用しすぎてしまったのだろう。
「知的」で「寡作」な作家がうかつな本など出すはずがないではないか、と。しかしこれは「うかつ」な本なのである、といっていいだろう。

「若者批判は歳をとった証拠」などということをいう人もいるが、この本はそういった点て年齢を重ねた人にありがちな「憂国」の情に基づく(当人がそう書いている)愚痴だと思ったほうがいいだろう。もっといってしまえば微苦笑して通りすぎればいいのであって真剣に考察するほどの本ではないのではないか。

ただ、そのように通りすぎられずに、真剣に受け止める人が出たのには理由がある。一つにはすでに書いた水村自身のイメージ。もう一つが、本書の独特の結論であろう。

普通「憂国」の情にかられて文化論を書くとなると、おおまかに二つの立場に収斂する。
「美しくかけがえのない日本の文化を守らねばならぬ」的なものと「これからはグローバル化の時代なので時代に適応しなければならない」的なものである。
水村が本書において独特なのは憂国的ナショナリズムとインターナショナリズムとを混合させているところにある。

水村は望むと望まざるとに関わらず「普遍語」となった英語を学ぶ重要性と、日本語が「現地語」と化し「国語」としての役割をはたせなくなる日が来ることへの諦めと寂寥、そして日本語を守るための日本語教育を同時に訴える。これはそう多くはないパターンであろう。
ただその論拠となっているのが何かというと、ほとんどがそれこそ憂国的主観による嘆きなのである。

本書の導き糸の一つとなるのがベネディクト・アンダーソンであり、イ・ヨンスクなども参照していることから水村が「国語」の持つ暴力性という側面についてまるっきり考慮していないということではないのだろう。しかしそう考えると本書の論の進め方はあまりに「うかつ」であるし、やはりその程度のもとして受け止めるのが正しい読み方なのであろうと思う。

もっとも水村の危機感というものはわからないではない。
確かに日本の政治家の英語(に限らず外国語一般の)能力というのは著しく低いように思える(どこの誰と比較しているのかという問題もあるが)。さらに日本の外交官は語学が苦手、なんて信じがたいようなことを言う人までいる。
昔の旧制高校出身者は2,3ヶ国語読み書きできて当たり前で現在の日本人の語学力は落ちたという見方と、旧制高校神話はこけおどしで実際にはたいしたことなかったとの見方もある。ここらへんは正直よくわからない(水村は昔の日本人の英語能力に否定的な例をあげているが)。

また「美しい日本語」問題(守るべき固定された規範的日本語などそもそもあるのか)はさておいても、ネット時代になって日本語の運用能力がかなり危ういという人の文章まで目にするようになると、これまたなんとかせねばなんて気にもなる。
もっともこれもかつてであればまず目にする機会がなかった文章が広く出回るようになってしまっただけのことで、日本語を母語にしている人の日本語運用能力は昔とたいして変わっていないのかもしれない。

まあここらへんの、少なからぬ人が感じていた危機感を独特な形で書き出したというところが、本書が賛否激しく分かれながらも、とにかくひどく話題をさあった所以であったのだろうなあ。
それも12歳でアメリカに移り住み、仏文学でイェールの大学院まで進み、アメリカの大学で教鞭もとり、日本語で小説も書く水村美苗がこう書くのだから。

ほんと歳をとるのもむつかしいのでせうね。




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佐藤太郎(仮)

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