句読点モンダイ


ネットを眺めていると、おそらくは日本語を母語としている人が書いたと思われるのだが、それが信じ難いような日本語の文章に出くわすことがある……というようなことを前回書いた。

では自分はどうなのか、とも思う。ふと思い立ってブログなんぞをやり始めたのだけれど、自分の文章を読むというのはどうも落ち着かない。そんな文章を他人様の目に触れさせるなどとはどうしたことか、という気分にもなってしまう。

もちろん、僕が文章をうまく書けないというのがその理由の一つなのだが、さらに録音された自分の声を聞くようなキマリ悪さもある。「これって俺の声? いや、自分が美声だなんてことは思ってなかったよ、でもこいう感じじゃないと思うんだけどさ……」なんて体験をしたことがある人は多いだろう。ブログにアップした自分の文章というものを読むと、これに似た気分になってしまうことがある。もしかすると、ネット上に氾濫する日本語を母語としながらも日本語運用能力のあやしい方々もこのような思いを抱いているのかもしれない。

ヘミングウェイの文体とタイプライターが深く結びついているという説がある。書く手段によって文体がある傾向を帯びてしまうことは僕のような人間にも実感できる。
さらに、パソコンの普及によって加筆修正等が容易になったことで本が長さまで変わったという説もある。確かにここ二十年ばかり、無駄に長い本というのが増えているような気がしなくもない。長編小説などを読んでいても、「ここいらないよな、なんでもっと刈り込まないんだろう」なんてことが結構ある……なんて書くとクソ長いのが多いヴィクトリア朝時代の小説はどうなんだよって突っ込みが入りそう(逆に考えるとパソコンがあればディケンズは『エドウィン・ドルードの謎』を完成できていたのかもしれない、なんて仮定は無意味だわな)。

ポール・オースターは未だに原稿は手書き、連絡はファックス(!)という人間であるのだが、『モンキー・ビジネス ポール・オースター号』収録のインタビューでそのことについて触れている。
原稿を書き終えた後タイプするのだが(タイピストに頼まないのだろうか、というか「タイピスト」という職業自体が現在成立しているのだろうか)コンピューターなら簡単に編集できてしまうが、手書きにタイプであると、書き換えなどした場合全てを最初からやり直さなければならなくなる。オースターは必ずしもこれをマイナスとしているのではなく、「このおかげでさぼらずに済んでいる面もある」と言っている。ただ当然このような方法は時間を喰うし、その結果体力的にもきつくなる。早く乗り換えておけばよかったという気にもなるとも言っている。
オースターがパソコンを導入していたら、もしかしたらジョン・アーヴィング並みの大長編を書いていたのかもしれない。

さて、自分の文章の話に戻ろう。
なぜ自分で書いたブログの文章を読むと落ち着かないのか。それはおそらくは手書きであればこうはならないだろうなあ、という部分が散見されるからだろう(こんなの僕の声じゃない!)。

おそらくは、事務的な文章や、あるいは集中して書いた文章というのであればそうは違いは出ないのかもしれない。
僕が自分のブログの文章を読んで一番違和感を覚えてしまうのは句読点の使い方である。
どうもだらだらと、特に目的もなくパソコンに向かって文章を書いていると、僕の場合句点(「。」)が少なく読点(「、」)が多くなるという傾向がある。

つまり、区切るべきところで区切れない結果センテンスが長くなり、意味が曖昧になるのを防ぐために読点を連発する結果として、さらに文意が伝わりにくくなるということがままある。アップする前に一応は読み返すし、その結果、修正したりはするのだが、それでもやはり、読点が多くなってしまう、と書いているそばからこれである。
この傾向をさらに助長させているのが、読点を、文意をはっきりさせるためだけに使うのではなく、強調のためなどにも用いてしまうことである。

僕が朝のゴミ捨て場にたかるカラスを見ているのが好きだと言うとそれをなにか比喩的なことだと思う人がいるのだがそうではなく僕は文字通りの意味であの時間帯にカラスを眺めているのが好きなのであってこの感情に特に深い意味などはないというふうに思っていたのだがそう説明してもあまり納得してもらえないしそういうことが続くとなんだか自分でもそれに隠された意味があるような気がしなくもないように思えてくる

というのは句読点抜きの文章を今適当にでっちあげたので内容はどうでもいいのだが(別にカラスは好きではない)、手書きであればこれをワンセンテンスで書こうというなどという気にはまずならないであろう(というこの文も手書きなら二文に分けていただろう)。ところが何気なくパソコンに向かって油断していると、ついこんな文章を書いてしまう危険性がある。
では読点はどうか。
手書きなら「僕が朝のゴミ捨て場にたかるカラスを見ているのが好きだと言うと」の後にとりあえず入れるか。
これがパソコンに向かっていると「僕が、朝のゴミ捨て場にたかる……」というように、明らかに意味上は必要にない読点を入れてしまう欲求にかられることがあるし、実際そうしてしまうことも多い。自分なりに強調などの何らかの効果を狙っているのだろうが、結局はただの読みにくい文章になってしまっていることが多いように思える。

ではこのような傾向というのがパソコンに向かっている時限定なのかというと、どうもそうではないような気もする(これは僕の声じゃない!けどやっぱり僕の声なんだろうなぁ……)。
思い返せば学生時代のレポートなんかも、見切り発車で書き始めると読点の打ち方に限らずあらぬ方向へ進んで帰ってこれなくなってしまうことがあった。書くべきことをあらかじめ箇条書きしておいて、そこに自分を縛り付けておかないと糸の切れた凧よろしくなってしまったものだ。

日本語の文法の本というものを何冊か読んでみても、目から鱗という体験をすることはあまりなくて、隔靴掻痒ということに終わってしまうことが多い。
とりわけ読点については、文法的に正しい打ち方というものがあるのだろうか(もちろんあるよ!お前が不勉強なだけだ!ということなのだろうが)
考えてみればそもそも今の書き言葉の基本となっているはたかだが百年ちょいのことであるんだよなあ。
二葉亭四迷が言文一致体を編み出すうえで最も苦労したのが語尾の問題であったのだけど、『浮雲』あたりのの生原稿では読点ってどうなってたんだろう。

そういえば中上健二の原稿は読点はおろか改行すらなかったそうだけど、仮に僕が編集者だったら他人(しかも中上健二!)の原稿に読点を打つなんてプレッシャーにはとても耐えられなかっただろうなあ。読点の打ち方でかなり印象は変わってくるものなあ。


ということで完全に糸の切れた凧状態に突入してしまっているのでこのへんにしとこ。
そういや初めは外国語教育について書こうとしてたんじゃなかったっけ……



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