『原子力の社会史』

吉岡斉著『原子力の社会史』




1999年刊行の日本の原子力開発利用の歴史の通史。戦前の原爆研究から97年の東海村火災・爆発事故までを扱っている。

結論だけを先に取り出すと吉岡は原発はリスク、コストが共に高すぎるため脱原発政策への転換を唱える。これが極めて論理的、理知的に語られている。

福島での原発事故の後では脱原発を唱えることは「極端な考え」とはみなされなくなった。一方で、僕はその脱原発の理論の組み立て方というものに今ひとつなじめないものも感じている。

例えば「原発は効率を優先しすぎて大切なものを置き去りにした」「経済性のみを追求してきたツケである」等々。
原発は本当に効率や経済性を追求した結果の積み重ねなのだろうか。本書を読むとむしろそれとは逆の姿が浮かんでくる。

137ページの図を見ると日本の原発が一定のペースで右肩上がりに増え続けてことがわかる。これをして吉岡は「社会主義計画経済を彷彿とさせる」と書いている。
ここに日本の原子力政策の病が象徴されてると見ていいだろう。
原発は電気が必要だからやむを得ず作るものではなく、原発の建設自体が目的と化しているのである。
「効率」や「経済性」を徹底的に追求したものならばそこには合理的計算が生じるはずだ。しかし日本においてはそのようなものは無縁であり、「国策」としての原子力開発、つまり「政官業」の癒着の中で偏った、歪んだ経済性に捉われたことこそが問題なのである。
電力のシェアの伸びを見ても、原子力は手厚い支援によってようやく伸ばしたが、支援を受けていない石炭や天然ガスのほうがそれ以上に伸びている(p.177)。原子力政策が効率や経済性ではなく歪んだものに裏打ちされていたかのいい証拠であろう。

日本では「一度動きだした公共工事は止まらない」と言われるが、原発はその最たるものと考えていいだろう。一つにはもちろん利権の構造があるのだろうが、真に深刻なのは合理的判断に基づいての政策変更が不可能な体質に染まりきっていることだろう。

日本が核燃料リサイクルに固執し続けるのにいったいどのような理由があるのだろうか。これは安全性のみならず経済性においても問題ありとされ諸外国は軒並み撤退をした。効率や経済性を重んじているのなら撤退するのが合理的判断なのであるし、実際外国ではそのように政策が変更された。しかし日本では「もんじゅ」の事故、さらに悪質な情報隠しが発覚した後も規定路線からの変更は行われずに現在に至っている。


ではそのような原子力行政を許してきたものはなんであろうか。それは「ナイーヴ」さだといってもいいのかもしれない(繊細ということではなく愚かという意味で)。

そもそも広島、長崎に原爆を落とされた日本が核エネルギーを利用しようとすることに抵抗はなかったのだろうか。
物理学者の武谷三男の1952年に書かれたエッセーからの引用がある。そこで武谷は原爆を落とされた日本だからこそ、むしろ原子力を平和利用する積極的資格があるとしている(pp.69-70)。倒錯しているようにしか思えないが、このような考えは少なからぬというより、多くの日本人に受け入れられていたようである。社会党が反原発に転じるのは70年代に入ってからであり、それ以前は国会の勢力のほとんどが推進政策をとっていた。

それにしても第五福竜丸の被爆事件(本書ではなぜか触れられていないが)は核への警戒感を呼び起こさなかったのだろうか。
アメリカで原発政策が停滞するきっかけとなったスリーマイル島での事故のわずか二日後、日本の原子力安全委員会は「(日本の原発は)TMIのような大事故に発展することはほとんどありえない」という談話を発表したが、実際は日本で導入されている原子炉も再点検の必要があるということがわかり、原子力安全委員は原子力安全宣伝委員にすぎないと批判されたとあるが(pp.151-152)、肝心の政策には何も反映されなかった。
ヨーロッパで反原発の高まりのきっかけとなったチェルノブイリでの事故で、日本でも反原発世論は高まったものの、それは一時的なものに終わり、政策転換には結びつかなかった。

なによりも、日本では95年にもんじゅが事故を起こし、97年には東海再処理工場での火災・爆発事故、そして本書刊行後の99年には東海村での臨界事故が起こり死者もでている。いずれも極めて杜撰な体制であり、情報隠しなどの極めて深刻な問題が大きく取り上げられたにもかかわらず、原子力行政は変わらずに動き続けた。

そして日本の原発導入、推進の影には一部政治家等の核兵器保有への野心というものがあることは間違いなく、本書でもそのことが指摘されている。
これを聞くと多くの日本人が「日本が核兵器を持つなどというのは有り得ない」という反応を示すことだろう。現実に政治的に核保有という政策を実行できるかは別としても、そのような疑いを向けられても一向に不思議ではないという状況に日本があるということをどれだけの日本人が認識しているのだろうか。

言葉の問題について一言断っておく。原子力というのは通俗的用語であり、正しくは核エネルギー(または原子核エネルギー)と表記すべきことは科学者の間では常識に属する。(中略)また原子力という言葉にはもう一つの問題点がある。核エネルギーという言葉は、軍事利用(military use)と民事利用(civil use)の双方をさすものとして、ごく自然に理解されるが、原子力という言葉は少なくとも日本では、もっぱら民事利用分野をさすものと理解されることが多いのである。それは核エネルギー技術の本質的デュアリティー(軍民両用性)の理解を鈍らせる結果をもたらす恐れがある。(p.7)

とあるが、まさにこれこそが日本人が「原子力」に対してナイーヴでい続けた大きな原因なのかもしれない。
そのナイーヴさはあまりに大きな代償を払って破られようとしているが、まだ方向は定まっていない。いかなる方向に進むのか、もちろんそれは我々一人ひとりの選択にかかっている。

その決断を果たす際に、本書は大きな力を与えてくれるものだろう……というか品切れ?絶版?なのかい? (僕は図書館で借りました)需要は今こそ多くあると思うんだけどなあ。



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佐藤太郎(仮)

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