げんなりんこ


原発事故からしばらくして「放射能のせいで鼻血がどうのこうの」というようなことをネット上で結構目にした。これってあまり笑えない冗談だと思っていたし、実際書いている人の多くが冗談だったようでもある(「お腹痛い。放射能のせいだ。昼に食べ過ぎたのは関係ない」といったような)。ただそれからしばらくすると、どうも本気でこういうことを言っている人がいて、さらにそれを信じてしまっている人が少なからずいる様子でなんだかなぁという気分になってきた。

僕は放射能への知識なんて全然ないけれど、普通に考えて鼻血が出るほどの放射線を浴びたら即入院で命にかかわるレベルだと思うし、いくらなんでもそれを政府が隠蔽できるなどとは思わない。こういう人って「政府は無能」と批判するくせに妙なところで「政府は全能」と思ってしまう傾向にあるような。
もちろん中長期的な健康被害は心配だし、特に子どもを持つ親などが不安になるというのはわからんではなく、あまり感情的に非難するのもどうかな、という気もしていた。
ただどうも東京新聞がこれを煽るような記事を載せたようで、これはさすがにいかがなものかと。

その東京新聞はちょっと前に「管降ろしの影に原発」というような記事を載せていたが、これもまたいかがなものかという内容だった。
この記事に影響されたのか知らんがこのところ反原発系の人で「管さんは脱原発に舵を切ったから引きずり降ろされようとしている。管さんを支えよう」的なことを言っている人が結構いるようだ。
こういう人には最も原子力界隈とズブズブの政治家である与謝野馨が必死に管政権を守ろうとしているのはどう写っているのか。

あの不信任案が政局優先のものであったことは間違いないだろう。そもそも自民党は可決できる見込みはなく、党内引き締めをしたうえで民主の分裂を煽ることだけが目的だったのだろう。ところが民主党内の反管感情が想像以上に強く、予想もしてない方向へ転がりそうになったというところではないか。

では民主党内でなぜそこまで反管感情が高まったのか。
思い返してほしいが管は不信任騒動のちょっと前まで国会を閉じようとしていた。国会さえ閉じてしまえば追求はかわせるという姑息な発想だろうが、これは二次補正の規模以前にそれを組まないということであり、それはイコール被災地を見捨てることでもある。
管が早い段階で会期の延長と大型補正を組む方針を示して、ついでに増税路線を改めていたならあそこまでの政局になったかは疑問である。

管政権というのは発足時から政策的には官僚、とりわけ財務官僚べったりであり、デフレ下で増税という狂気とすらいってもいいような路線を進めている。これは震災後も変化しないという有様である。
管がこの路線をとるうえで最も頼りとしたのが仙谷由人であるが、ここ数日はこの仙谷が管を降ろそうという空気作りをしている。これは最早死に体の管は利用価値がなくなったので次なる財務省べったり政治家(例えば野田佳彦)に首を挿げ替えようということだろう。
要は管にはもう頼れるものがなくなってしまったのである。

管が「自然エネルギーうんちゃら」を前面に押し出すようになったのは完全に仙谷一派に見切られたあとで、ほとんどヤケクソに反原発感情を政治利用しようとしているというのが実態ではないか。
ちなみに与謝野や岡田克也が管を支えようとしているのは、この政権がコケたらもう自分達は終わりだというだけのことだろう。

ここで注意すべきは、「黒猫でも白猫でも鼠を取るのはいい猫」的に「管の動機は不純でも反原発ならいいじゃないか」という発想であろう。
繰り返しになるが管は二次補正を組むことを当初は考えておらず、復興費用を出し渋り、その上増税しようということをやっていた人間である。これでは被災地切捨てと非難されても仕方ないだろう。
管がやってきたこと、そして今やろうとしていることは動機が不純なだけではなく「いいこと」ですらないと僕は思っている。

日本が自然エネルギーの普及を意図的に遅らせる政策をとってきたことは間違いないだろう。一方で「原発か自然エネルギーか」という二択の発想は理解し難い。よほど劇的な技術革新がない限り数年以内に自然エネルギーが原発が占めていた電力をまかなうということは考えづらい。つまり当面は原発依存から脱するには火力発電に頼るしかないというのが現状であろう。ちなみに僕はそれで構わないと思っている(というかそれ以外に選択肢はないであろう)。しかしこの「当面はどうするのか」という方針を管は示していないのである。

これらからわかるのは、管は地震や津波の被災者や原発事故によって避難を余儀なくされた人たちのことなどまるで考えていないということであろう。
明日をも知れない暮らしを強いられている人のために何をしようとしているのか。今考え、真っ先に取り組むべきは明日の、一ヵ月後の、一年後の生活のための政策であるべきではないか。

もちろん50年後100年後の問題に政治が取り組むということも大切なことである。原発問題の本質はこれをおろそかにしたことだろう。事故が起きたらどうするつもりだったのか。そもそも放射性廃棄物はどう処理するつもりなのだろうか。
だからといって50年後100年後でおためごかしをして政治的延命を図り、今現実に苦しんでいる人たちを見捨てるようなことは許してはならないはずだ。

原発事故の後、反原発を掲げる人(もちろん全員がそうというのではない)が「はしゃいでいる」のを見て「この人たちは原発事故を喜んでいるのではないか、という異様な印象を受けた人も多いだろう。
今の管を見て「管さんは反原発なんだからとにかく支えよう」などと思っている人はここらへんをもう少し考えてみてほしいものである。

「管さんを支えよう」という人を見てげんなりしてしまうのは、この人たちって「子どもや孫にツケを払わせないために消費税を上げなくてはならない」という論法にホイホイだまされているのではないか、という危惧を憶えたからだ。だって今生きてる人は子孫のために犠牲になれというのと、今困っている人を助けるより子孫のためのことを優先して考えようってのは近くないかい? また繰り返しになるが、管は震災後も増税路線からの転換など一言も口にしておらず、それどころか強行しようとさえしている。そんな人間を支持できようか。

一番おそろしいのは感情を優先して合理性を排除してしまうことだ。
ちなみに僕はもともと原発には否定的だったし、こういう事態になった以上脱原発以外有り得ないと思っている。
だいたい原発を推進しようにも日本では新規建設などまず不可能になったので遅かれ早かれ脱原発せざるをえないはずだ。これを否定するのも合理性を欠いた思考であろう。
一方でまだはるか遠く、姿がおぼろげにも見えないものを優先させて、現在困難な生活を強いられている人の姿を見ないというのも著しく合理性を欠いている。

僕が今政治に求めたいのはプラグマティズムに基づく常識的判断である。これは何も特別なことではないはずだ。
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佐藤太郎(仮)

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