『ロード・ジム』

ジョゼフ・コンラッド著 柴田元幸訳 『ロード・ジム』




恥ずかしながら実はコンラッドってあんまり読んでいないのですよね。
といっても『闇の奥』は多分3、4回通しで読んでいるのだが、それが返って影響していたりする。『闇の奥』は多様な解釈の可能な難解な小説である。そのせいでコンラッドを読むにはそれ相応の準備をしなくては、なんて思っているうちにズルズルと現在に至っている。
ついに準備ができたというわけではないのだけれど、柴田元幸さんの新訳ということでいい機会かな、ということで。


『ロード・ジム』はいったいどのような小説だったのだろうか。読み終えてもうまくつかめないでいる。
不名誉を負った人間の救済への願いの物語なのか、神話的成長物語なのか、はたまた……

このように揺れができる一番の要因はその「語り」にある。
三人称で語られる部分、ジムの一人称的な部分、そして大部分を占めるマーロウによる語り。
さらにマーロウの語りもいくつかに分けられる。マーロウの視点、マーロウがジムなどから聞いた話を語り直す部分。
さらに考えなければならないのはマーロウには作中に聞き手がおり、彼の手紙を読む人間がいるということである。マーロウは読者に語りかけているのではなく、あくまで作中人物に語りかけ、手紙を書くのである。この作品を読み解くうえで無視できない設定である。

このように何層にも入り組んでいるが、これが一分の隙もなく完璧に構成されているのではない。
もともと本作は短編として構想され、雑誌に連載が始められたが、それが次第に長くなりこのような形となった。そのせいで前半部と後半部では物語が破綻しているとまではいわないがかなりいびつなものとなっている。

コンラッド自身が西欧中心主義を告発した作家とも人種差別主義者とも正反対の評価をされる作家である。それはこのような多様な語りと多義的な意味に溢れた物語からいかようにも解釈を引き出せるところから来るものであろう。

解説で触れられているように、そうそうたる作家たちがコンラッドから影響を公言している(フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、フォークナー、T・S・エリオット、カルヴィーノ、ジイドなど)。
なぜ作家たちはそこまでコンラッドに惹かれるのだろうか。コンラッドの多様性、あるいは曖昧性とすらいってもいい独特の語りの構成が大きな要因になっていることは間違いないだろう。
物事を表現するということは常に言い過ぎるし言い足りない。この余剰や不足を文学的に突き詰めるとまさにコンラッドのような作風に行き着くということなのかもしれない。

コンラッドはまた映画監督からも愛されているが、こちらの愛はあまり実ることはないのかもしれない。
その中で例外的ともいえるのが『闇の奥』を原作にとったコッポラの『地獄の黙示録』であろう。
しかしこの『地獄の黙示録』にしても当初の意図通りに製作されたのではなく、信じがたいようなアクシデントの数々に見舞われたのだが、それが結果として功をそうした形になった。逆にいうとコンラッドのテイストを映像化しようということならばこのようなハプニング的な形でしか有り得ないのかもしれない。

マーロウと聞いてピンときた方もいるかもしれないが、彼は『闇の奥』でも語り手を努めたあの人物である。『闇の奥』にしてもやはり入れ子構造で多義的な物語であった。そしてこの『ロード・ジム』はそれがさらに複雑になっている。
このマーロウを読者は信用していいのであろうか。僕には少々信用ならない人物にも思える。
この信じ難くもまた神話的な物語はマーロウによるでっちあげとまではいかなくとも多分に潤色の入った法螺話的要素の強いものではないかという気がしてくる。

「(……)私たちは二人ともまったく同じことを言った。二人とも真実を語ったのか――それとも一人だけか――それともどちらも違う?……」(pp.347-348)

物語とはこういうものなのである。それはある視点では紛れも無い「真実」であると同時に「事実」に反することも可能であるのだ。そして文学とは価値判断にあるのではなく、そのような現象をこそ伝えていくためにあるのだろう。
『ロード・ジム』はその雛形ともいえる作品のように思えた。





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佐藤太郎(仮)

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