漱石の憂鬱、芥川の悲劇


3月11日の震災を受けて石原慎太郎はこれを「天罰だ」という発言をした。僕としては憤ると同時に驚きというのはなく、「我欲」を含めていかにも石原が口にしそうなことだと思った。
一方で困ったものだと思ったのは政治的には石原と正反対とされているような人にも「天罰」に類するような発言があったことだ(まぁこちらもあまり驚きはないんだけど)。両者に共通しているのは「日本人は経済的、物質的なことにばかりかまけて大切なものを見失ってしまった」という意識であろう。仮にそうだとしてなんで地震や津波がやってくるのか意味不明すぎるが。

石原の発言は過去の暴言と比べると比較的批判的に報道され、当人も一応は撤回した。しかし震災は「天罰」という意識は少なからぬ日本人が持っているのかもしれない。直後の都知事選で何事もなかったかのように石原が圧勝したのも、結局は「天罰」発言に真に憤っていた人が実際には少なかったことの証拠とも考えられる。

7月9日の朝日新聞の夕刊に「昭和史再訪」という特集記事があり、芥川龍之介の自殺を取り上げていた。そこで関口安義都留文科大学名誉教授が、「芥川はひ弱なインテリとみなされがちだったが、実はひときわ現実社会に関心を持つ作家」だったというコメントを寄せている。関口がその例として挙げているのが、関東大震災の際に渋沢栄一の「震災天譴論」に強く反発したことである。

僕は芥川のいい読者ではないものでここらへんのことはよく知らなかったのだが、少し興味を憶えて芥川の震災関連の文章が収録されている岩波版の全集の第十巻を手にしてみた。

直接渋沢への反論があるのは1923年(大正12年)10月1日発行の「改造」に掲載された「大震に際せる感想」である。
芥川は渋沢の「天譴論」に反発し、「自然は人間に冷淡なり」としながらもそれに絶望せず、乗り越えていくことを説く。
「同胞よ。面皮を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。(中略)同胞よ。冷淡なる自然の前にアダム以来の人間を樹立せよ。否定精神の奴隷となること勿れ。」(pp.153-154)

よくぞ言ってくれたと思うのだが、同時になかなかやっかいな文章にも出くわした。
1923年年10月1日発行の「中央公論」に掲載された「大震雑記」である。

芥川はこの年の8月に鎌倉へ行き,藤、山吹、菖蒲などが咲いているのを見る。

これはどうも唯事ではない。「自然」に発狂の気味があるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来人の顔さへ見れば、「天変地異が起こりさうだ」と云つた。しかし誰も真に受けない。
(中略)
僕等の東京に帰ったのは八月二十五日である。大地震はそれから八日後に起こつた。
「あの時は義理にも反対したかつたけれど、実際君の予言は中つたね。」
 久米(正雄)も今は僕の予言に大いに敬意を表してゐる。さう云うことならば白状しても好い。――実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ。(
pp.142-143)

「芥川龍之介は関東大震災を予言していた!」というのをネットで見かけたのだがそれはここから来ているのだろう。といっても「やっかい」なのはここではない。この文章の後半である。

「僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば菊池寛はこの資格に乏しい。」としてこう続ける。

「その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「噓だよ、君」と一喝した。
(中略 )
しかし次手にもう一度、何でも○○○○はボルシェヴィツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度も眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へえ、それも噓か」と忽ち自説(?)を撤回した。
 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云うのものはボルシェヴィツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少なくとも信じてゐるらしい顔つきを装わねばならぬものである。 
(中略)
善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。
尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。(
pp.145-146)

石井和夫は注解でこの伏字について「震災後、朝鮮人をめぐるデマを指す。リアリストの菊池は信用しないが、芥川が乗じている点、要注意」(p.327)としている。

僕は最初この文章を読んだ時、これは芥川がロールプレイングをしているのであって彼の本音ではないのだろうと思った。「自説」に(?)をつけているのがその表れであろうし、だいたい左翼的とみなされる芥川が「ヴォルシェヴィツキ云々」と本気で考えているとは思い難い。
1923年11月8日発行の 随筆」に掲載された「澄江堂雑記」ではチャップリンも社会主義者なのだから社会主義を迫害するのならチャップリンも迫害すべきで、映画でチャップリンの姿を見たのなら憤慨しなければならないのではないか、と嫌味を書いている(p.283)。

これは「善良なる市民」に対する茶化しであって石井の注は誤りなのだろうか。必ずしもそうとはいえないのかもしれない。
1923年10月1日発行の「女性」に掲載された「大震日録」で、芥川はロールプレイングと読み取れる文脈を抜きで同じく伏字にされた表現を使っている。これを読む限りでは芥川はこの時点では、少なくとも「朝鮮人」をめぐるデマについては信じていたのかもしれないと考えられなくもない。
と、まどろっこしい表現を使ってしまったが、なにせ不勉強なもので頓珍漢なことを書いているのではないかという気もする。だが同時に、今回の震災で知的と思われた人に変なスイッチが入ってしまったように、芥川も一時的にそういった状態になってしまったのかもしれないと思えなくもない(と、またまどろっこしく)。

いずれにせよ、この巻に収録された文章をパラパラと読んでいると、芥川という人は基本的に理知的で近代的発想をする人なのだということが感じとれる。
それがよく表れているのが「金将軍」(青空文庫で読めますね、こちら)であろう。
朝鮮に伝わる史実に反する小西行長の最後をとりあげたうえで「歴史を粉飾するのは朝鮮ばかりではない」として日本も例外ではないことを指摘し「如何なる国の歴史もその国民には必ず栄光ある歴史である」と締めくくっている。
語り継がれている「歴史」は恣意的なもので、それはナショナリズムの欲望を反映したものであるという発想は現在から見ても古びていない。

芥川といえば漱石晩年の(といっても40代だが)弟子であるが、師である漱石は「近代」というものに苦しめられた。
そもそも金之助少年が生を受けたころには近代だの自我だのという概念自体が日本になかった。西欧に習えとそれを外面だけ人工的に移植したのであるが、それがひずみとなっていつか破滅を迎えることを感じていた。最も有名なのは『三四郎』における広田先生の「日本は滅びるね」という発言であろう。

漱石より20歳以上若い芥川にとっては、近代とは血肉化されたものに思えていたのかもしれない。
漱石が天皇(制)についてどう考えていたのかは今でも意見が分かれている。大逆事件に接して森鴎外の「かのように」のように意見を残すことせずに沈黙してしまったからである(もちろん沈黙自体が一つの意見であるのだが)。
はっきりしているのは漱石は乃木希典の自殺に衝撃を受け、それは『こころ』に反映されている。
一方で芥川はといえば乃木について「将軍」で皮肉たっぷりに触れている。芥川にとっては乃木の自殺は讃えられる殉死などではなく愚かな前近代性と写ったことだろう。

漱石は近代に苦しめられ鬱屈した精神で書いた作品によって時代の予言者となった。
芥川が時代の予言者となったのはその死によってであった。
芥川が命を絶ったのは関東大震災から4年後の1927年7月24日であった。

芥川の死は個人的状況が要因になっていることは確かであろう。
生母が精神を病んだことで自らも狂気に陥ることに怯え、明らかにその兆候をきたしていた(「歯車」の痛々しさ!)。
同時に社会的要因も働いていたことだろう。芥川の死に衝撃を受けた人は後者を強く感じていた。
昭和恐慌の真っ只中であり、ファナティカルな空気が蔓延していく気配が溢れようとしていた。
近代が血肉化していたような人間にとっては耐えることのできない光景が浮かんでいたのかもしれない。

「近代の超克」が唱えられたのは芥川の死から15年後のことである。
芥川龍之介の死は遠いことではないのかもしれない。


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佐藤太郎(仮)

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