『困ってるひと』

大野更紗著 『困ってるひと』




大野更紗はかな~りの田舎a.k.a.「ムーミン谷」に生まれる。優等生として成長する一方でちょっぴり屈折もしており、高校時代は「金髪アフロのヒッピー」状態にもなったりするが、なんやかんやで上智大学へ進学。そこでビルマ問題と運命的な出会いをし、「ビルマ女子」となる。
ここまでは平均的とは言えないかもしれないが「普通」(この言葉については後述)の生活を送っていたといってもいいだろう。

難民救済などに駆けずり回りながら研究者目指して大学院に進む。このころ身体に異常を感じ始める。身体中が腫れ上がり高熱が続き、ついには「石化」してしまう。原因不明、病名不明。検査を重ねても医者も首を捻るばかり。自ら命を絶つことも考え始めるが、ついに受け入れてくれる病院を発見。しかし「本番」はこれからであった……

「難民を支援したり研究したりしていたら、自分が本物の難民になってしまった」ことを描いた本書をジャンル分けするならば「闘病記」ということになろう。
壮絶な検査の数々を経て病名(Fasciitis-Panniculitis Syndrome 筋膜炎脂肪織炎症候群)がようやく判明するも治療法は手探り。壮絶という言葉を100倍にしてもまだまだ足りないほどの壮絶な体験がまだまだ続く。

一方で大野は本書を「いわゆる「闘病記」ではない」ともしている。
この本は医療ルポルタージュとしても読める。
まさにカフカ的迷宮世界と言うべき日本における医療、社会保障、福祉の現状を当事者の視点からあぶりだしていく。研究者の卵ならではの患者仲間への聞き取り調査などまで行う(好奇心からというよりも切実なこととしてだが)。

この要素だけでも極めて興味深いが、本書の最大の特徴はその独特なユーモラスな文章にあるのだろう。
生まれ故郷の「ムーミン谷」。「オアシス」(入院した病院)で彼女を診るは「宇宙プロフェッサー」に「パパ先生」に「クマ先生」。「おしり大虐事件」は凄まじすぎる体験なのだがそれさえも思わず吹き出してしまうような文体で綴られる。

本書はウェブマガジン「ポプラビーチ」に連載されていたもので、連載中からネット上ではかなり話題になっており、本書発売直後からネット上では絶賛が続いた。とはいえ一般的には無名の著者のデビュー作である。しかしネット上のみならずリアル書店でも売り上げは好調のようだ。ちなみに僕は初版をゲットだぜ! なんだけどむしろ「一ヶ月で五刷」本の方がおいしかったかな。まぁとにかくそれだけ売れているのである。

壮絶な体験を綴った闘病記はそう珍しいものではない。本書にはそれ以外に何か人の心を捉えるものがある。
僕はそれを「普通」の肯定にあるのではないかと思う。
「普通」と括弧を付けているが、この言葉は難しい。
「普通」というのが多数や既成の規範に従うことを指すのであらば、この言葉は少数派や弱い立場にある人を抑圧したり排除したりする口実に使われてしまう。
もちろん僕が感じた「普通」の肯定はそうではない。他にもっと適切な言葉があればいいのだが思いつかないのでとりあえず括弧付きの「普通」とする。

本書で一番印象深かったのは第十二章の「わたし、生きたい(かも)」である。
「難民の難病女子」となった大野は「恋愛感情をつかさどる部分を、永遠に封印」することを決意しようとした。しかし院内である出会いをし、恋心がうずく。ささやかなおしゃれをして、ささやかなデートをするのだが、その直後に「クマ先生」の思わぬ言葉を耳にして強いショックを受ける。それでも大野は絶望にかられ、死にたいとう衝動にかられていた状態から「わたしは、もう少し生きたいかもしれない」と思い、「心の中から、ぶわーっと悲喜こもごもあらゆる感情がふき出して」くる。そしてある決意をする。
これこそが「普通」であることを肯定できた瞬間なのではないかと思う。

僕は前に少しだけ身体障碍者の介助のボランティアをやったことがあるのだが(といっても車イスを押すといった程度のことだけど)、障碍がある人の中にも結構クセのある性格の人がいて「あぁ、あの人苦手だな。別の人の担当になりたいんだけどなあ」なんて思ってしまうことがあった。そしてそういう感情を抱いてしまうことに罪悪感を憶えたりしたのだが、似たような体験をした人というのが少なからずいるようである。
でもこれってある意味では当然のことなのではないか、と思うべきなのかもしれない。だって「健常者」にだってクセのある性格の人など山ほどいるわけだから障碍者にクセのある性格の人がいたからといってなぜショックを受けなくてはいけないのだろうか。
世の中にはいろんな人がいるもので、車イスの一団が通ったりしていると露骨に嫌な顔をされたり、あるいはすれ違いざまにわざと聞こえるように(としか思えない)舌打ちをされたこともある。

障碍者を聖人君子のように見なしたり、逆に「日常」から排除してことたれりとしている人はコインの裏表とまでは言わないが障碍者を「特別な人」と見なしてしまうことにおいては同じなのかもしれない。こういった人たち(もちろん僕も含めてだが)は誰もが「普通」に生きるということを肯定できていないということなのかもしれない。

「クマ先生」は患者のためを思って一所懸命な医師であるし、それは「パパ先生」も同じだろう。
「パパ先生」の毎日「お説教」を続けるような過剰ともいえるパターナリズムと「自立」を説き福祉に頼るのを良しとしないという矛盾しているような姿勢は、難病患者が「普通」に生きることを考慮しない/できないことの表れなのかもしれない。

社会的弱者が「健気に頑張っている」時は賞賛を贈るものの、権利などを主張しだすと途端に冷淡な反応に変わってしまうということがよくある。
そのような人にとって、弱者が「特別な存在」である限りは暖かく見守ってあげる対象なのであるが、ひとたび「普通になりたい」と言い出し始めると「身分を踏まえないふとどきな奴」と写ってしまうのだろう。
「クマ先生」や「パパ先生」はそのような意識は持っていないつもりであろうし、一般的にはむしろ理解ある人たちなのであろう。逆に言えばそれだけ「普通」であることを肯定するのは難しいということなのかもしれない。

「普通」という言葉は難しいが、「普通」である、また人が「普通」でありたいと願うことやそれを尊重しようとすることもまた難しい。もちろんこれは精神的な面に留まるのではなく、社会制度の問題でもある。「難民」化してしまった人がいかに制度の上からも「普通」から遠ざけられているかということも、本書はまさに身を持って教えてくれている。

大野自身が「困ってるひと」を助けようと奔走していたのだが、そのことが孕む微妙かつ難しい現実にようやく直面したのは自らが「困ってるひと」となり、様々な体験を経た後のことであった。

誰の痛みもわからなかった。何も知らなかった。
今はすこしだけ、わかるよ。人が生きることの、軽さも、重さも、弱さも、おかしさも、いとしさも。(
p.310)

「絶え間ない痛みや発熱、身体に常に二トントラックが乗っているような倦怠感、多種多様な病態、大量の薬剤、世にも稀なる病との大激戦」を繰り広げなければならないというのは誰の身にも起こることではないが、誰の身に起きてもおかしくないことでもある。
この本を通して得られるものは、誰にとっても決して遠いものではないはずだ。

その国の「本質」というのは、弱者の姿にあらわれる。難病患者や病人にかぎった話ではない。あらゆる、弱い立場の姿に、あらわれる。(p.154)


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR