『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』

ナゾの覆面グラフィティ・アーティスト、バンクシーが監督した『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』を観てまいりました。

さすがバンクシーという感じで期待を裏切らない面白さでした。
ネタバレどうこうという作品ではありませんが作品の重要部分に触れてますので未見の方はご注意を。




フランスからアメリカへやって来て古着店を経営しているティエリーはビデオの撮影中毒で始終カメラを手放さない生活を送っていた。フランスへ帰った際、従兄弟が「インベーダー」と名乗りストリート・アート活動をしていることを知る。インベーダーの活動に惹かれたティエリーは、映画製作のためとうそぶいて様々なストリート・アーティストの撮影を続ける。そしてついに、徹底して身元を隠しているバンクシーの信頼を得ることにも成功。しかし膨大な量のテープを編集したティエリーの作品はとんでもない代物であった。頭を抱えたバンクシーはティエリーにアーティストの映画を作るのではなく自らがアーティストになったらどうかと勧めるのだが……


この作品を素直に見れば現代アートへの辛辣な皮肉であるとなるだろう。
ティエリーはMBW(ミスター・ブレイン・ウォッシュ)を名乗り、オリジナリティのかけらもないパクリ作品によって商業的成功を収めてしまう。
前半は愛すべき変人に見えたティエリーが(ディズニーランドでのエピソード!)後半は胡散臭く薄汚いゲス野郎に見えてくる。そしてそんな人間が商業的成功を収めてしまう現代美術とやらはどれだけ堕落していることか……ということでこの映画をまとめていいのだろうか?
そこはバンクシー、さらなる仕掛けを打っていると考えたほうがいいだろう。

グラフィティ(落書き)は、「思想」的にいえば警察や企業などによって過剰に囲いこまれたストリートを解放しようという抵抗の表現である(のだと思う)。もちろん単に「落書き楽しいぜ、ひゃっほー」ってのも多いのだろうが。

その究極的理想ともいえるのがバンクシーであろう。
バンクシーの作品は反権力、反資本主義的なものが多い。
バンクシーの名を世界的にしたのは、イスラエルが設置したあの悪名高き分離壁に、風船に乗って壁を越えていこうとする少女や壁に穴を開けた絵を描いたことである。これは警察に一晩やっかいになるとか罰金払ってすむとかいうレベルではなく、その場で射殺されてもおかしくない、文字通り命がけの作業であった(この絵を描いているところも本作に出てきます)。
そしてバンクシーは頑なに身元を明かすことを拒否し、商業主義とは一線を画している。

ハッタリのみによって成功してしまったティエリーとは正反対のように思える。
しかしこういう皮肉な見方もできる。
バンクシーが身元を明かさないのはより注目を集めるためであり、その反商業主義的姿勢はかえってバンクシーの商業的価値を高めている。
多くの人がバンクシーの素顔を見たいと思っているだろう。その欲望が駆り立てられるのは彼が素顔を隠しているからであり、明かした途端に欲望は消散してしまう。
反商業主義は今やバンクシーの「ブランド」であり、「企業コラボ」のようなことをしてしまえばそのブランド価値は地に落ちてしまう。

この映画を考えるうえで面白いと思えるのは、先日「チンポム」というアーティスト集団が岡本太郎の「明日の神話」に勝手に付け加えをしたという一件についてである。ちなみにバンクシーも有名美術館に勝手に自分の作品を展示したりしている。この件でバンクシーを連想した人もいただろう。
これに対して「気に入らんやつはどんどんぶち込んじまえ」的な警察の犬タイプや「どんな理由があろうと落書きなんていけないざます」というようなPTAタイプの人が否定的なのはわかるが、バンクシーを肯定的に見ている人の中にも否定的な反応をする人がいた。
その主張をざっとまとめると「バンクシーはピュアだがチンポムは不純だ」ということになろう。
匿名アーティストであるバンクシーがやっていることは純粋なアートであるが、チンポムはただの売名行為に過ぎないということなのだろう。
しかし前述の理屈でいえばバンクシーのやっていることも売名行為であり商業主義であると考えらえなくもない。

僕は別にバンクシーはインチキ野郎だと言っているのではない。
極めて優れたアーティストであると思うし、この映画を観てその思いは深まった。
この作品はバンクシー(に付随する現象)をバンクシー自身が相対化しようとしているということなのではないか。
めったやたらととバンクシーを崇める一方でチンポムなどを頑なに認めないというのは少々ナイーブな反応であろうし、バンクシーはそのような人のことを肩をすくめて苦笑しているのかもしれない。

本作にはシェパードというアーティストも出てくる。彼はオバマの肖像で名を挙げたが、その無名時代の活動が収められている。
シェパードは町中に自分の作品を溢れさせる。作品自体に意味があるのではなく、作品が溢れることによって意味を持たせようとした。これは大量のコマーシャルによって毒される現代社会を風刺したともとれるが、一方でシェパード自身がコマーシャルの手法に毒されているともとれる。おそらくはその両方の狭間にあるものこそがグラフィティなのであり、まさにそれを表現した活動であるのであろうが、バンクシーの視線はそれよりもさらに深く辛辣である。

最初の方に書いたバンクシーの仕掛け、それはなんであろうか。
そもそも考えてみてほしい。この作品はバンクシーが監督を努めたのであって、彼は単なる出演者ではない。匿名性を守りたいのであればなぜ自分についての映画など撮るのだろうか。
もったいぶったようにフードを目深にかぶり照明で顔を暗く隠し、声まで変えるという「演出」をしているのはバンクシー自身なのである。
そしてバンクシーはティエリーに大して本当に腹を立てているのだろうか。
ティアリーに映画作りではなく実際にアートをするよう勧めたのは他ならぬバンクシーである。

この作品の前半はグラフィティがいかなるメンタリティで、いかなる手法によって行われているかの恰好の入門編となっている。
そして後半で描かれるのは、あまりに薄っぺらなティエリーが薄っぺらなままに成功してしまうという現代美術やグラフィティの現状、及びそれを取り囲む環境の風刺になっている。ここでは反商業主義ですら商業主義に回収されてしまうという世界なのだが、図らずもなのか図ってのことかはさておいて、このおかげでグラフィティ・アーティストは、はた迷惑な単なる落書き野郎ではなく経済的成功をも収めてしまう最先端アーティストとなってしまう。そしてその中心にいるのは、そうバンクシー。

つまりこの作品はティエリーが成功するところまで込みでのバンクシーの自己風刺であり自己相対化であるのではないか。
本作はアカデミー長編ドキュメンタリー賞にノミネートされたのだが、こう考えるとこれは本当にドキュメンタリーなのだろうか、全てバンクシーが徹底的に仕組んだものなのではないかと思えてくる……ってなことでウィキペディアをのぞいたらやっぱりそういう議論があるみたいね。

このことについてNYTの記事はこここれとかこれも参照。
これも含めてやっぱりバンクシーってことなのか。う~む、やはりこやつ、只者ではない。


このオープニングはいいなあ。




今夜ストリートは僕らのもの






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佐藤太郎(仮)

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