『内訟録』 政局寄りの感想

細川護煕著 『内訟録』 




細川護煕の首相就任直前の1993年7月31日から退任した翌年の4月28日までつけられていた日記と当事者の証言からなる。

細川護煕や細川政権と聞くと苦い気持ちに襲われる。1993年、僕は15歳であった。もう少し幼ければ政治になど興味を持たなかっただろうし、もう少し年齢を重ねていればある程度シニックなものの見方を身につけていたのかもしれないが、僕は本気で細川政権に高揚感というものを抱いていた。「苦さ」というのは当時の僕のナイーヴさというのもあるが、それだけではなく、現在にまで連なっているある状況というものが元にある。本書はそれを一層浮かび上がらせることになる。


そもそも論でいえば日記というものをどこまで間に受ければいいのかということには警戒が必要であろうし、なにより細川自身が存命中であり、本書に登場する人物たちの少なからぬ面々が現在も政治の一線にいることを思えばかなり割り引いて考える必要もあろう。またそのせいもあってか、外交内政ともに政策的な面では注目すべき点はそれほどないようにも思える。あの政権の人間ドラマの内幕を細川視点で書いたものという程度の受け取り方でいいのかもしれない。
あの政権の内幕について多少でも興味がある人にとってはなかなか面白く読めるし、歴史のお勉強として期待すると得られるものは少ないかもしれない。


15歳当時の僕の報道を通しての印象としては(以下僕の当時の記憶についてはあまり信用しないで下さい)、細川と武村正義が蜜月関係にあったのがそこに小沢一郎が割って入り、細川が変節して小沢を選んだために政権が空中分解状態に陥り、嫌気が差した細川が政権を投げ出したというものであった。
これについては主として小沢側から反論があるが、細川の日記ではこの反論を裏付けるものとなっている。

この日記によって最も傷がついたのは誰かといえばやはり武村であろう(傷がつくもなにも既に堕ちきっているという見方もあろうが)。

細川も武村も当初は政権入りに乗り気ではなかったが、首相のイスというにんじんを小沢にぶら下げられた細川が飛びついてしまったという感じで報道されていたように記憶しているが、武村は表向きでは後藤田正晴に期待するようなそぶりを見せながら、実は自分が総理になる気まんまんだったようである。
そもそも細川と武村は蜜月状態にあったのではなく、初めからかなり隙間風吹きすさぶ関係であった。

特に武村がメディアに対してワキが甘く、また自分の立場を強化するためにメディアへのリークを積極的に行うことに細川らは閉口させられる。
政権を好き勝手に振り回す小沢に抵抗する武村というイメージも強かったように思うが、実際は自らのプレゼンスを高めるためにことさら小沢との対立を激化させることを戦略的に選んだといってもいいだろう。
また連立与党の人間よりも自民党側と蜜に連絡を取り合い、小沢らの不信感を煽っていくが、結局は武村のこの行動が自社さ政権へとつながっていくことを考えるとこの警戒心は根拠のないものではなかったことがわかる。

では一方の小沢はどうか。
「二重権力」「影の権力者」という批判が付きまとうが、その実態は少々イメージと違うかもしれない。
一部の例外を除けば、意見はするものの基本的には総理に仕えるという立場を守っていたようである。
小沢は(主にネガティブなバイアスによって)メディアから実態以上に巨大な存在として報道され、小沢自身もそれを利用しているということがしばし言われるが、メディアとのそのような関係は基本的にはこのころからほとんど変わっていないのだろう。
いかにも小沢だと思えるのは武村の更迭を進言したもののそれを拒否されるとぶんむくれて連絡不能状態でとんずらしてしまうところか。ここらへんも基本変わっとらんのう。

ちなみにその例外というのは国民福祉税のことであるが、この騒動によって細川政権の命運は尽きたといっていいだろう。これを見てわかるのは小沢が政局に強いどころか極めて弱いということだ。勝負所で下手を打つ。細川も小沢の政局勘をあまり評価していない。
だいたいが小沢らが自民党を出るハメになったのは権力闘争に敗れたからで(当たり前の話だが勝っていたら出て行く必要はなかった)その後作り上げた細川連立政権も短期間で崩壊する。この過程で小沢は前述の通り武村切りを強く望むが、武村にうんざりしつつも政権内のバランスが崩れることを嫌う細川には受け入れられない。そして野党体質が抜けないとバカにしきっていた社会党が連立を離脱し、武村率いるさきがけと連携し自社さ政権の誕生という流れは完全に小沢の想定外だったろう。その後現在に至るまで勝ち負けでいえば圧倒的に負けが多い。いったいどこから「小沢は政局に強い」というイメージが出てくるのやらという感じである。

とにかく武村対小沢の関係はほとんど、というより完全に子どもの喧嘩状態であり、双方がもう少しずつまともであれば政権があそこまで早く行き詰ることもなかったであろう。


その他いろいろ書き出していけばきりがないが、結構以外な印象を持ったのはめったやたらと山口敏夫が官邸に出入りしていることである。ヒラ議員としては恐らく最も回数が多いだろう。山口が勝手に押しかけ続けたとは考えられないので、細川自身にもそれなりに思惑があったのだろうがそこらへんにはあまり触れられていない(山口が小沢ら一緒にと渡辺美智雄の引っこ抜きなど自民党の分裂を画策していたことは有名だが、そこらへんに細川がどの程度関与していたのかはよくわからない)。

官邸に来る人々といえば、宮内義彦は既に常連という感じであるし、なんと奥谷禮子までもが顔をのぞかせているのである。
ちなみに細川は「規制緩和」を前面に押し出していたし、「ネオリベ」と批判される小泉政権に「リベラル」とされた人々(例えば細川政権でも大きな役割を果たした田中秀征)が引き寄せられたが、ここらへんの「ねじれ」はこの時すでに始まっていたのである。
細川政権と小泉政権の類似と相違についてはいろいろ思うところがあるのだが、ここらへんに触れるとさらに長くなってしまうのだが。

本書を読み終えて強く思うことは、結局細川政権というのは「平和」な時代のファンタジーだったということだ。そして小泉政権は不幸な時代のファンタジーであったのだと思う。
歴史や政治というのは皮肉なものといえばそうで、細川は本来は自民党の宏池会系の比較的リベラル寄りの人間とウマがあったのだろう(もともと細川は自民党出身である)。実際細川の前任の首相であった宮沢喜一は細川を気に入っていて内々に助言をしている。宮沢の後継の自民党総裁で細川政権と対峙したのは宮沢に近かった河野洋平はであったが、こちらも政策的には細川に近い存在であった。
山崎拓はYKKで細川を担ぐ案もあったが小沢に先をこされたという趣旨の証言をしているが(p.456)、YKKの一角の加藤紘一も宮沢に近い政治家であった(ちなみに山崎の発言は信憑性がかなり怪しく、日記の中でもフカしまくる山崎を細川は信用していない)。ま、同じ宏池会で政策的には近いはずの河野と加藤の仲とか滅茶苦茶なわけだからこの点は細川に限ったことではないが。
そして同じくYKKの小泉純一郎はといえば、山崎の証言を信じるのなら最初に細川を担ごうと言い出したのは小泉だったとか。それに細川は先の戦争が「侵略」であったことを始めて公に認めた総理であったが、小泉はこの発言を評価したという田中秀征の証言がある(p.81)。


というところで長くなったので後に続く……
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佐藤太郎(仮)

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