『映画史』 『ソシアリスム』

え~い、こうなりゃ乗りかかった船だ、なんて感じによくわからない感情にかられながら早稲田松竹に行ってまいりました。
どーせわっかんねーんだろうなぁ、なんて思っていたら案の定でありましたが、とりあえず感想をひねり出してみます。

『映画史特別編 選ばれた瞬間』

ゴダールが1988年から98年にかけて製作した『映画史』を自身で再編集したもの。
ちなみに当然ながら(?)本編(という言い方でいいのかわからないが)は未見であります。

「映画史」というタイトル、そしてドキュメンタリーであるというと映画の歴史を描いたものと期待する向きがあるかもしれない。そういう要素も皆無ではないが、本作はむしろゴダールにとって映画とは何であるのかを問い続けた作品といっていいだろう。

映画とは記憶であり、記憶とは映画であるということなのではないか。
記憶は真実を刻むものであると同時に偽りの記憶も存在する。映画は世界を表すものであり世界を欺くものでもある。暴力を告発するものであると同時に暴力を強化/隠蔽するものであもある。
この矛盾を全て抱えたものこそが映画/記憶であるのかもしれない。

ある時期以降のゴダールにとって、ホロコーストの表象可能性/不可能性というのはまさに映画という存在そのものを根底から左右するものであるのだろう。

一方で、僕はこのようにも感じてしまった。
ゴダールは評論家出身であり、なにやら斬新かつ難解なことをやっているとなると、理が先行している監督のように思えるかもしれない。
しかしある時期まで、つまり60年代までのゴダールにとっては、映画を実際に撮るということは実践こそが先立ち、理の部分は後からついてきていたのではないかとも思える。
逆にいうと、70年代以降のゴダールというのは実践に理が追いついてしまった、あるいはそれこそ理が先行するようになってしまったのではないだろうか。

前に書いたゴダール自身にとっての映画を撮る喜びが溢れ出るような、そしてその喜びを(一般的な)観客と共有することが無くなってしまったというのはそういうことなのかもしれない。
もちろんゴダールがこだわるホロコーストの表象可能/不可能性が知的フェイクだとまで言っているのではないが、しかし映画というものをあそこまで大上段に構えてしまうという問題意識をゴダールが当初から持っていたということはないだろう。それは「成長」だったのかもしれないし、あるいはそういう方向へ行かざるをえなかったのかもしれない。

『映画史』において、ある意味では最も注目されたのはトリュフォーについて触れたところかもしれない。本編の方は見ていないので語らないが、この『選ばれた瞬間』では少しだけ、結構あっさりとというかそっけなくというか、そのような感じに登場する。ゴダールとトリュフォーの関係を知らなければ特に引っかかることもなく通り過ぎてしまうかもしれない(最もそういう観客をゴダールが想定しているとは思えないが)。
僕はそこで「素直になれよ、ジャン=リュック」と思ってしまった。

いくつか文献を読んでも、かつての親友であり盟友であったトリュフォーとの後味の悪すぎる絶交劇の原因はどう考えてもゴダールの逆ギレと粘着にあったようだ。結局二人は関係を回復できないままにトリュフォーの死を迎える。
ジガ・ヴェルトフ集団として政治的ラディカリズムと映画芸術との融合を目指し、「商業映画」復帰後もハイ・カルチャーとしての、「大文字」としてのとでも言うべき作品に向かったのはトリュフォーとのいざこざの記憶から逃れるためだったとまで言うつもりはないけれど、この件はゴダールの中では抜けないトゲの痛みのような出来事であろうし、『映画史』の中にはその痛みの反映というものも感じとれるようにも思える。
映画は世界を表すものであると同時に、極めて個人的なことの表象ということでもあろうし、どんな形態をとろうともそこから完全に逃れることはできないのかもしれない。

それにしても、映画のみに限らず全般的に教養のない人間はこの『映画史』をどう見ればいいのでしょうか。
とにかくまぁ引用元というのがほとんどわからない。たまにわかると「お、ようやくわかった!」「あれ、あそこだ、あそこ!」と「ウォーリーを探せ」状態になってしまうのですが。


そんなこんなで続いて『ゴダール・ソシアリスム』。

ゴダールの最新長編は三つのパートから成る。

まずは豪華客船から。
ここでは多くの指摘があるように、最大の特徴は音響であろう。とにかく「うるさい」。明らかに意図的に、過剰に音を入れている。
ストーリーは歴史と個人の後ろ暗い過去がほのめかされ続けるが、こちらはむしろ情報を少なくしている。
そして時折の無音。もちろん日常においても「静か」と違って無音というのは強烈な違和感を引き起こさせるわけだが、ここではそれがより強烈である。

強烈といえばパティ・スミスも出番は少ないが鮮烈な印象を残すのだが、蓮見重彦、黒沢清、青山真治による鼎談本を立ち読みしたのだが(失礼! 以下同書の内容は立ち読みですませたせいで僕の思い込みや勘違いの可能性があります。いい加減ですいません。)そこによるとゴダールはパティ・スミスの出演は偶然(!)だとか適当なことを言ってるんだとか。こういうところは「さすがゴダール」と笑うしかない。

そして二つ目のある家族のパート。
黒沢清はここを買っているようだが、恥を偲んで告白すると僕はここらへんから強烈な眠気に襲われ始めてしまった。場内の雰囲気でもここいらで撃沈した人が多かったような気がした。船から下りて船をこぎ始めてしまったのか。僕は寝入ることはなかったのだが、時折集中力を完全に失ってしまい、正直いったいここはなんだったのかというのがよくわからないままにこのパートが終わってしまった。最もはっきり目覚めていても同じ思いにかられる可能性もないとは言えない気もするが。

先の鼎談本では、ゴダールはもう子どもと動物にしか興味がないというような発言が冗談めかしてあるのだが、客船の猫に続いてここではラクダにロバが登場。そして確かに男の子はいい感じだった。目を閉じて盲人のように母親の身体に手をはわせるところとか、カメラマンの女の子とのやり取りとかも良かった。なのだけれど、結局このパートは何だったのだろうかと訊かれても答えられない。

そして最後のパートは、エジプト、パレスチナ、オデッサなどいくつもの都市を経巡りながら人類の暴力の記憶へと迫っていく(のだと思う)。
手法としては引用を重ねていくという『映画史』に近い形が取られ、実際同じ映像が再引用されてもいた。


それにしても「ソシアリスム」というくらいなんだから直接的にポリティカルなお話なんじゃないの、なんて思っていると完全に肩透かしをくらうだろう。
これも鼎談本からだが、タイトル自体はフランス社会党のロワイヤルの大統領選挙についての映画を撮ろうとしてた時からあったとかいうことで、そこにはあまり拘泥する必要はないのかもしれない。

途中から繰り返されるbe動詞への嫌悪というのは英米、あるいはアングロサクソン全般へのそれなのであって、直接的にそのまんまといえばそのまんまなのだろうが、ここらへんもうまく消化できん。

先週の『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』では映画が終わると場内全体から高揚感というか熱気というようなものが沸き立ってくるような感じがあったのだけど、『ソシアリスム』ではお口ポカ~ンやあくびふぁ~なんて雰囲気でありまして。正直僕もそんな感じでありましたとさ。


『ソシアリスム』の前にルイ・マルの『地下鉄のザジ』の予告編が流れたのだけれど、スクリーンで見るザジもまた一興かな。やっぱり僕にゃこっちのほうが向いております。とか思いつつ相当前に観たもので内容は断片的にしか憶えてないし。
そういう人間の感想でしたのであしからず。







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