勝者と敗者


昼過ぎに出かけ先でラジオから野田と海江田での決選投票だというニュースが聞こえてきた時は、ある程度の予想と覚悟ができていたとはいえ、やはりその場で舌噛み切ってしまいたいくらい暗澹たる気持ちになってきてしまった。
そして勝者は明らかだと思った。野田の勝ちが予想できた? いや、そういうことではなくて、勝ったのは官僚だということだ。

野田、海江田両者とも大臣として官僚に極めて親和的であり、どちらが勝とうとも官僚としては極めて組みやすしというところだろう。

勝者がいるということは敗者もいるということだ。
すぐに名前があがるのはもちろん小沢一郎だろう。
ここ数ヶ月あれだけ醜態をさらしてきた海江田を担いで本気で勝てると思ったのだとしたらどうかしているとしか言いようがない。
過去の「小沢語録」として最も有名なものの一つが「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」というものだろう。
普通に考えれば「軽くてパー」を担げば、担いだ人間が「パー」に見えてしまうというものだが。
去年の6月の代表選では樽床なんぞを担いで失笑を浴びたわけで、相変わらず学習能力がないといえばそれまでなのだが、このような「奇手」に出ざるを得ないのは小沢自身の致命的欠点を表しているともいえるだろう。
去年の9月の代表選でも、小沢は持ち駒がなく、追い込まれた結果自ら出馬したという見方もあったが、結局小沢は齢70近くになっても人を育てることができなかったのだ。

(特に近年の)小沢一郎については思うところがないではないのだけれど(ちなみに僕は去年の9月の代表選の時は管より小沢のほうがマシと思っていたし、その考えは今も変わっていない。小沢を評価してというより管が有り得ないと思っていたからだけど)今回は小沢が本題ではないのでこのへんで。


では敗者は小沢やその取り巻きだけだったのだろうか。
ここ数日の代表選の報道を見ていて、真の敗者はマスメディアであったのだろうと思う。

「官僚が勝った」と書いたが、僕は「官僚の野郎はおいしい思いをしてけしからんからとっちめてやれ」というようなポピュリズム的官僚批判には興味がない。今回官僚が勝って問題なのは、彼らが明らかに過ちを犯しているにもかかわらず、その路線が修正されることがないことを意味するからである。

確か、日本という国はここ20年にわたって低成長状態が続き、10年以上デフレに苦しみ、わずか半年前に巨大地震と津波に襲われ、複数の原子炉が制御不能状態に陥るという人類が経験したことのない原発事故を引き起こし、円高の炎に燻され続けているはずだ。
これらの事態にどう処方箋を書くのかは意見の相違があろうとも、この現状認識に関しては多くの人が一致できるのではないか……ただしマスメディアを除いては。

なにせ事実上総理を決めるはずの今回の代表選の最大の争点は「脱小沢路線の継続か否か」ですものね。
いったいこれはなんなのだろうか。もしかして僕が今住んでいるのはニッポンAで、マスメディアの皆さまが住んでおられるのは平和で呑気な状態の続くニッポンBなのであろうか。僕はパラレルワールドにでも迷い込んでしまったのだろうか。

今日もどこかで「劣化」を嘆く声が聞こえることだろう。
この言葉には疑問が湧く。「劣化」しているということはかつては現在よりマシだったということなのだろうか。
政治をめぐるマスメディアに関してはこう言えるだろう。劣化したのではなく、変わらないことこそが問題なのである、と。
55年体制下での自民党政権について、「政策は官僚に丸投げして自分達は安心して政局に専念できていた」と言う人がいる。政治に関してはこれが当たっているかは置いといて、マスメディアに関しては現在に至っても未だにこうだ、「政策は官僚に丸投げして自分達は安心して政局に専念できる」。

それをよく表しているのが朝日新聞の25日の朝刊に掲載された高橋源一郎による論壇批評ではないだろうか。
僕は作家高橋源一郎は嫌いではないし、彼の社会批評に(いい意味で)はっとさせられたこともある。とはいえ、これはないだろうと思ってしまった。
高橋は「ノダさん」も「カイエダさん」も「マブチさん」も「表現はバラバラだけど中身はそっくりだ」としている。
僕はこの文章を読んで頭を抱えてしまった。少なくとも経済政策については「ノダさん」と「マブチさん」は180度といってもいいくらいに差があるはずだ。本来なら最大の争点にならなけらばならないのはいかに復興を進めるかであり、それはいかにカネを調達するかということでもある。「ノダさん」と「マブチさん」がはたして同じことを言っているのだろうか。それが同じに見えてしまう人間が「天下の」朝日で論壇時評をしてしまうとは……

高橋はここで一見政治の現状のバカバカしさを嘆いているようで、旧態依然たる政局ネタの消費者にすぎないように思える。
政局報道というのは「政局にうつつを抜かす政治家はけしからん」と憤ることまで込みで消費者されているのだろう。そのような読者の中で、高橋のこの文章に疑問を持った人がどれだけいたのだろうか。論壇時評の隣のページには「復興増税から逃げるな」という社説が載っている。

「政局ばかりで政策の話がない」という言葉は新聞でもテレビでもよく見かけた。
マスメディアが政策の話をできないのにはワケがある。それは政治部の記者が政策がわからないためである。これは「劣化」ではないだろう。もともと日本の政治部の記者が得意とするのは「誰それと誰それが料亭で密会していた」という程度のことだ。そしてそのような情報も足で稼ぐのではなく政治家との癒着の中で得られ、政治的意味を込めて報道される。

ではそのような政治部の記者はどこから政策を仕入れるのだろう。もちろん官僚だ。
記者レクや記者懇を通じて官僚はメディアの政策意識をコントロールする。
例えば財務省に親和的な政治家は「経済・財政通」となり、不況下での増税に反対というごく普通の発想をする政治家は「無責任なポピュリスト」となる。

最初の方で小沢云々と書いたことからも想像がつくかもしれないが、僕は政局ネタは嫌いではない。むしろ積極的消費者ですらある。
しかし時代が変わったことくらいは認識している。官僚の「神話」(「日本の官僚は有能」というのは単なる神話であったということでいいだろう。戦後日本に起こった「奇跡」は官僚によって導かれたというより様々な社会背景が交錯した単なる幸運であったのだろう)を素朴に信じられるほど恵まれた生活はしていない。

不況下、ましてやデフレという状況で増税をすることはほとんど狂気としか言いようがないが、さらに大震災という巨大なショックに襲われた状態での増税など議論が出ることだけでも狂っているとしか思えない。
さて、これでも「総理など誰がやっても同じ」だと言えるのだろうか。

僕が現在の政治に望むのはささやかなことだ。失敗から学び、そこから教訓を得て政策を進めることだ。97年の消費税増が何をもたらしただろうか。2000年のゼロ金利解除で何が起こったか。
長期間に渡る低成長やデフレが大蔵/財務省、及び日銀という官僚組織による政策ミスであったことは明らかであろう。
しかしマスメディアの報道を見る限りでは、官僚たちはまるでミスなど犯していないかのようだ。
一時の批判はあっても見事なほどの健忘症を発揮する。

官僚が大きなミスを犯しながらもなぜ政策を転換できないのだろうか。
官僚無謬説は「神話」の維持に欠かせない。この点について官僚組織の自発的転換に期待しても無駄であろう。当然ながら決断すべきは政治であり、当然ながら官僚はそれに抵抗する。
マスメディアは知ってか知らずかその官僚の動きにくみしている。朝日の社説はその典型であり、まるで財務省の広報機関であるかのようだ。
官僚組織において出世するのは組織防衛に長けた人間であろうが、これによく似た組織がある。もちろんマスメディアだ。繰り返すが、ここにおいて問題なのは「劣化」したことではなく、変わらない/変われないことなのだ。

「小沢問題」が争点になり、野田と海江田が決選投票に進むという事態は民主党の愚かさを表すものであると同時に、マスメディアが自らの無能さを喧伝しているようにしか思えない。敗者がマスメディアだというのはそういうことだ。


適当に短くまとめるつもりだったけど、NHKが馬淵は決選投票で野田支持という誤報をやらかしたと聞いてさらに腹が立って長くなってしまった……

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佐藤太郎(仮)

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